九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
幕末薩摩郷士の農業經營と下人(一) : 大隈国高山郷 士守屋家の手作と下人
秀村, 選三
https://doi.org/10.15017/4488711
出版情報:經濟學研究. 19 (3), pp.69-113, 1953-11-20. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
幕末薩藩郷士の農業経営と下人 目
す
ヽ 次
( 一)
わが明治維新史の解明にあたって︑所請西南雄藩の一っとして薩藩の研究が重視せられるべきことは言うを侯たない︒
は し が
き
一
︑ は し が き 二︑高山郷士守屋家の性格
三︑
農莱
経営ー特に手作経営
① 手 作 地 と 小 作 地
②手作における稲作の態様︵以上本号︶
③ 手 作 に お け る 畑 作 の 態 様
④ 技 術 的 段 階 と 労 鋤 形 態 四︑ 下 人
五
︑む
び
幕末薩藩郷士の農業経螢と下人
第十九巻
秀
ーー︐大隅国高山郷士守屋家の手作と下人│̲'
二
ヽ 第一
︱︱ 号
村
ハ九
選
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
第一
︱︱
号
既に小野武夫・土屋喬雄氏らの先駆的研究は重要な意義をもち︑又鹿児島県史︹全五巻︺は広い視野を以て基礎的考察を
進めたのであった︒併し乍ら︑その後に於ては薩藩の重要性が強調せられるのに比して︑
2 されること少かったのである︒ ョリ発展した研究が学界に寄与
殊に薩藩はわが国最南端の薩隅H三国に位器し︑更に道之島
・琉
球に強烈な植民地的支配を行った藩であり︑藩主島津
氏は中世以来守緩・戦国大名を経て近世の領国大名となった我国唯一の例であって︑ために藩稲造も極めて特異なる形態
をとつておりー~云わば当地方の戦国期的構造をそのま\近世まで持越し、しかもそれを「上から」強化しつつ所謂幕藩
体制に適合せしめている形態であって︑その地理的・歴史的特質は充分に考慮されなければならない︒
しかるに︑最近まで薩藩現地の調査を基礎と
し ︑
郷村に埋もる上諸史料を生かしたモノグラフィが極めて少いため︑我
々は従来の研究を以て一応一般的・概括的な理解は得ることが出来るけれども︑真にヴィヴィッドな歴史像を把握するこ
とが困難なのではあるまいか︒少くとも薩藩に関する限り︑我々は未だ猶多くのモノグラフィを必要とする段階であり︑
勿論実証に基く大胆な立論は必要であるけれども︑燐急な
一般
化は避くべきであろう︒されば戦後現地の調査研究が進む
に従い従来の研究成果に対して多くの疑問を呈出
し ︑
又それを克服して新しい展望を得︑豊かな稔りをもたら
しつ
つある
nウ ヤ マ モ り ヤ
わけである︒小稿も先学の駅尾に附し特に大隅国高山郷における一郷士守屋家の農業経営︵特に手作経営︶の態様とその
基礎的労働力たる下人について考察を進め︑些かなりとも薩藩の基礎構造に触れたいと思うのである︒
り抑々薩藩郷士︵外城衆中︶は小野武夫氏の所謂﹁特證郷士﹂の代表的形態であって︑鹿児島城下士︵家中士︶よりは一
(→
第十九巻
七0
ろ必ずしも無意味ではあるまい︒
( 一)
第十九巻
七
段軽格のものではあるが︑薩藩の軍事力と郷村支配の基盤をなし一般農民の豪落たる﹁在﹂に対して郷士豪落たる﹁麓﹂
に居住し︑平常は農業を営み事あるとき軍役を奉仕したものであって︑しかも同じく郷士身分の中にも近世初期より諸陥
層が窺え︑殊に抱地開発と高の売買ーー←高上り︵後述︶を通じて単なる身分的階層にとゞまらず幕末期には階級的分化の
ァッ カイ
︵曖
︶を
要素を著しく加えていたと見られるのである︒小稲が取りあげようとする守屋家は幕末期数代にわたり郷士年寄 勤めた所の云わば上層郷士であるから︑守屋家を以て直ちに薩藩郷士一般を推知することは出来ないけれども︑大隅にお げる一上層郷士の存在︑その土地・農民支配の形態︑農業経営の様相を解明することは薩藩の構造を分析する一支柱とな り︑又上層郷士をめぐる諸関係を究明することに依つて薩藩農民・下層郷士の研究にも寄与し得るものがあるかも知れな 兄更には広く全国各地における村役人層農民の進展或は商人寄生地主の展開と対比し︑幕末維新各藩の政治的動向と脱 み合わせつさ比較すべき多くのものをもつているとも思われるのである︒最近原口虎雄氏は薩藩各郷の上層郷士の経済的 基礎について︑叉芳即正氏は郷士年寄名越家の耕作技術と経営の収支をとりあげ夫々すぐれた分析をされたのである
= シ メ ヒ ガ シ メ
が︑芳氏の場合は薩摩国谷山郷であって︑同じ薩藩内でも西目
l l
薩摩西南部と︑東目l l
大隅・日向︵諸縣郡︶は相当に様相 を異にし発展度の差違も顕著であるか5
︑大隅国高山郷と云う極めて限られた土地ではあるが小稿の解明せんとするとこ
小稿に使用した史料は文久四年︵元治元年︶の耕作日記及び守屋舎人日記を主とし︑このほか数度の調査に依つて得た高山郷士各家
の史料を利用した︒又高山町の伊東マル︵文久三年生︶︑日高曾之助︵明治二年生︶︑内之浦荘吉︵同上︶津曲武千代︵同五年生︶上田
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
第一
︱︱
号
(7) (6) (5) (4) (3) (2)
註 (1)
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
第 一︱ ︱
号
熊千代︵同十四年生︶柿元束及び笠野原の田中栄熊︵同六年生︶の諸氏から明治年代に就ての聞取を参考し︑幕末の状態を推定した︒
上記の古老から聞くことが無かったら小稽の研究は困難であったに相違ない︒紙面を借りて厚く惑謝の意を表する︒
小野武夫︑旧鹿児島藩の門割制度︵土地経済史考証所収︶︑同︑郷士制度の研究︒土屋喬雄︑封建社会崩壊過程の研究︵第三篇
旧鹿児島藩の財政︶︒
尚薩藩郷士については︑中村徳五郎︑薩藩外城制度の研究︵歴史地理五〇ノニー五一︳ノ︱︱ー︶︒川村洋︑薩藩に於ける郷士制度の一
研究︵南国史叢第一・ニ輯︶も無視することは出来ない︒
戦後には朦谷俊雄︑薩摩藩の社会組織と専売制度︵日本史研究六号︶があり︑其他南藷漁業に関し︑叉中世の社会構造について
数篇の論稿がある︒近く岩片磯雄・山田龍雄氏らの調査研究による鹿児島県農地改革史が刊行の筈︒最近発表されたものに芳即
正︑近世末期薩摩藩の農業技術と経営︵社会経済史学十八ノ五︶︑原口虎雄︑薩藩郷士生活の経済的基礎︵宮本叉次編︑九州経
済史研究所収︶があり︑小稿もこの両稿に負う所大である︒殊に原口虎雄氏からは︑このほか薩藩に関する種々の史料・文献の
借覧 と教
︱示 を仰 いだ
︒
芳氏の堀江英一氏批判︵芳︑前掲稿︶︒或は奈良本辰也氏が長州藩郷士の研究から進んで土佐藩郷士・薩藩郷士をも﹁その最も
古い形においてのみ理解することの誤りを指摘﹂されたこと︵近世封建社会史論︱︱︱
1 0
頁︶は極めて正しいが︑併し直ちに郷士11
中晨層の変革的意義が薩藩にも適用されるかの如く考えられているのは薩藩の基礎的研究が進んでいない現状では極めて疑問
である︒薩藩に於て氏の云われる﹁中農﹂が存在し得る基盤が有り得たであろうか︒
郷士制度の研究︑七三頁︒
麓の兼槻︑緊落形態︑軍事的意義などについては太田喜久雄︑薩摩領麓の研究︵池球十五ノ五︑六︶参照︒
例えば寛永十年における高山衆中の高は次頁第1表の如くである︵寛永十年癸酉高山衆中帳写︹二階堂家文声さより作成︶
寛永十七年高山衆中軍役帳写︑寛文六年高山衆中与分軍役帳︵写本︶︹二階堂文害︺でも同様の事情が窺える︒
原口︑前掲稿︱︱︱ニーニ︱六頁︒叉︑山田龍雄︑近世島津藩農政史に関する覚書︵騰写刷︶には﹁幕末に至り農民大衆を背兼とし
た貧窮武士の反抗が散発するが︑これはその族籍に囚われて武士階級相互間の抗争と見るべきでない︒貧窮武士はこの場合被搾
日
第十九巻
七
大 隅 国 肝 付 郡 高 山 郷 は 現 在 の 鹿 児 島 県 肝 属 郡 高 山 町 で あ っ て
︑ 大 隅 半 島 の 東 南 に 位 懺 し て 東 北 の 一 部 は 有 明 湾 を 隔 て 志
(11) (10) (9) (8)
取者として晨民と同じ立場に立つている﹂と鋭い見解を示されている︒
前
註
② 前 掲 稿
︒ 原口氏は﹁西目﹂を﹁人多くして土地少き﹂狭郷型農村︑﹁東目﹂を﹁人少くして土地多
き﹂
寛郷型農村とされ︑前者における
門割制の崩壊・貨幣経
済の
浸潤︑後者における自然経済の支配.抱地の発展・隷属的﹁札子
﹂の
多きことを指摘された︒勿論此
の二類型は本質的に対立すべきものでなく相対的な発展度の差違と思われるが︑西目より東目への人移し︑出稼は顕著な現象で
ある︵前掲稿二=三︑二三八頁及社会経済史学会第二十一回大会における報告︶︒
宇都宮有方家所蔵文書︒マスミヤ守屋雄次郎家︵屋号其澄舎︶文饗︑整理して次
の如
く復
元︒
ーー
ー 嘉永五年十一月十二日より安政二年五月十七日まで︑安政三年十月十七日より同六年正月廿八日まで︑文久三年五月十四日より 九月廿九日まで︑慶応元年十月廿六日より朋治元年二月十八日まで︵但慶応元年は十二月十五日以後記事なし︶︑明治元年六月十 四日より同四年七月十一日まで︒.
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
第 ー
表
高 1家 部
!
二︑高山郷士守屋家の性格
ーケ所持 1石以下
5石 1
(
一)
5 10 10"'20 20"'30 30,..., 40 40,‑.., 50 50,....,100 150 152 281
2 8 5 9 0 6 2 0 3 4 2 4 1 1
第十九巻
第 一 ︱ ー
サ
(但、 寺2,岸良ニ 被 罷 居 衆 2家部,内 之浦二被罷居侯衆4 家部を除く)
七
︵新
富シ
ンデ
ンガ
ワ︑
新富
用水
路舟
溝︶
が城山東北 年間と伝ゆ︶に開竪された所の高山川からの用水 くは湿田︵牟田︶であった︒叉藩政時代︵寛文 けているが︑明治前期まで︵排水工事以前︶は多 し
有 明 濡 に 注 ぎ
︑ 両河川の沿岸に田地が開
る高山川が町の西部を貫流して肝属川と合流
°
凡 ;号
瓢[
発の対象となったのである︒国見山に源を発す 地︶は往古より原野であって︑近世には抱地開
形成
し︑
山麓の台地︵殊に後田・前田・新留の台 から北へ傾斜して山林・畑地・田地の三段地を 在でもその約七
0
%は山林であって︑地勢は南 る︒その面積は約︱二九︑三五方粁に及ぶが現 し︑北は肝属川を以て串良町・東串良町に境す に︑西は肝属平野を隔て上吾平町・鹿屋市に接 布志町に相対し︑東は国見山を挟んで内之浦町幕末 薩藩 瑯︳
;是 筵之 七令 コ" 二し
︑
第十九巻
第一
︱︱
号
七四
幕 末 薩 藩 瑯 士 の 農 業 経 営 と 下 人
第2表
にな
る︒
村 名
(一) 新 前 後 宮 富 野 波
留 田 田 下 山 崎 見
村高(合以下省略)
——-—
文 政7年 1明治4年
石
l
石村 3,397.31I 2, 731.8‑4 村
村・
村布村村
2,598.21 1,794.731 1,650.69 1,659.97 1,063.41
639.50
778.62
1,332.78 911.99
632.55 1,336.31 940.04 総 高 頭
I
ll,593竺 , ,
874.09│第3表 文 政7年における社会構成
l
人数
`
数郷 出
士 家 第
十 九 巻
社
地神座問家内 家
第一 ーー 号
七五
諸 村 百 姓 野町(町人)
波見浦(浦人)
寺 家 門 前 居 住 又 内 居 住 他 国 永 代 抱 者 郷 士 下 人
計
936 8 81
5 3,948
306 163 7
8
35 5,514
︱
‑
7 ー
225 6 18
5 8 9 2 7 8 5 3
8
1,241
の地帯を灌漑し︑翌叩田のためには︑花牟礼池︵旧︑八反池︶より千町田用水路が開かれている︒
中世に於ては島津氏に最後まで対抗した豪族肝付氏の本拠︹本城
11
肝付
城
︒現在の麓は支城弓張城︵城山︶の北部に形成︺であ
^ ` ︑
つて︑以来大隅の中心的地位を保持し︑島津氏征覇後に於ても薩藩の重要な拠点であり︑波見浦は藩の要港であった︒近
世に於ては新留(麓を含む、硯在新富)•前田・後田・宮下・富山・野崎・波見の諸村及び野町・波見浦より成り、天正
年間大野外記以来伊集院•町田・仁礼•島津・川上・新納・樺山・比志島等の有力な藩臣が代々「地頭」に任ぜられてい
る︒幕末高山郷の構成を知るために文政七年・明治四年の各村高と総人数・寵数を掲出すると夫々第2.3.4表の如く
︵九
六頁
附図
参照
︶
註 (!)
司︵社家頭取︶
さ て 守 屋 家 は 高 山 郷 士 の
︱ つ で
︑ 肝 付 一 郡 の 総 社 と せ ら れ 中 世 肝 付 氏 の 崇 敬 神 で あ っ た 高 山 郷 宗 社 四 十 九 所 大 明 柄 の 社 と し て 代 々 神 棗 に 奉 仕 し た 家 柄 で あ る が
︑ 小 稿 が 取 あ げ よ う と す る の は 藩 末 の 当 主 守 屋 舎 人 重 発 の 代 で あ つ て
︑ 慶 応 四 年 に 彼 が 社 司 と し て
﹃ 格 護
﹄ せ る 神 社 は 四 十 九 所 大 明 神 の ほ か 郷 内 の 二 十 社 に 及 び
︑ そ の 子 常 磐 も 五 社 大 明 神等一二社を格護しており︑守屋家は高山郷内の神々の迎職者として大いなる権威をもつていたわけであ砂︒
第 4表 明治 4年における社会構成
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
第一
︱︱
号
いづれも文政七年隅州肝付郡高山由緒紙方帳︑明治四年高山郷地
名方位及人鉢記︵高山町役場蔵︶により作成︒人口の増加に反して
高の誤少を見るがその理由を知らない︒尚薩藩における高は他藩と
大いに異り︑高一石は靱九斗六升であるから注意を要する︒列朝制
度巻之五︵九州文化史研究所写本︶︑田賦雑徽︵地方経済史料第一
巻三八ニー四頁︶︑諸郷栄労調︵農民史料緊粋第九巻六四頁︶︑鹿児
島藩租額事件︵近世社会掻済叢書第四巻一四四頁︶等を見よ︒
表中の諸身分について簡単には鹿児島県史第二巻第二章参照︒
高山内には支城の跡として御幣園城・和田城•宮下城・富山城・検見綺城等あり。前田西方盛光寺跡には肝付家歴代の墓がある。
l
人 数 ! 家 部士 族 1;2.60
悶 {
668 574 31!平 詞 官 97
嬰 {
52 45 27士 族 下 人 284
嬰 {
117095 62百 姓 3 ,4 3 6 { 男女 11,,6821 2 4 892
浦 人 190
慶
{
92 98 49町 人
叫塁
117673 79旧 慶 賀 15
嬰 {
10 5 4旧 臓 多 46
嬰 {
28 18 1計 5 , 6 6 8 { 男女 23 ,,064208 1 ,4 2 5 日
︹俯考︺ 第十九巻七六
(5) (2)
幕末薩藩瑯士の農業経営と下人
御 郷 士 年 寄 衆 中
(→
第 十 九 巻
*ゥギリ舎人日記︑慶応四年八月十三日の条︒四十九所大明神のほかはいづれも小詞であるが各村各方限の中心たる神々であり︑停滞的
社会に於ては我々が想像する以上の権威を有ち︑民衆の生活・結合を規制している︒即ち川上大明神︵後田村片野︶諏訪両大明
ゥナ イ
神︵前田村西方︶西宮大明神︵前田村和泉田︶戸神大明神︵後田村白坂︶六所権現︵宮下村桜迫︶宇内五社大明神︵野崎村宇
内︶天満宮︵前田村︶祗園一一一社天王︵新富村池之園︶森十一二所大明神︵野崎村津曲︶大塚大明神︵野崎村塚崎︶南嶽千五百連諸
ォトゴ神諸大明神︵川上社内︶坂元三所権現(?)戸柱大明神︵波見浦︶乙子大明神︵波見村辺田︶稲荷大明神︵富山村坂元︶小鷹大
︑
︑
︑ ヒ
9キ明神︵波見村︶白山権現︵串良郷上小原村︶比良伎大明神︵前田村合戦田︶︑白石大明神︵後田村鳥越︶︒常磐格護のものは五社
大明神︵新留村五社馬場︶天道両大神宮︵野綺村上原︶及び守屋神社︒これらのうちには﹁田舎社人﹂がおり︑垣結いその他の
カ シ
労働を﹁加勢﹂として守屋家に提供する︒
゜
し か も 幕 末 数 代 に わ た つ て 組 頭
・ 郷 士 年 寄 を 勤 め て い る の で あ っ て
︑ 同 家 の 系 図 を 略 示
︵ 近 世 の み
︶ す る と 次 の 如 く に
なるのである︒
第 一︳ 一
号
郷 士
七七
守 屋 納 右 衛 門
ヒ
︵分
︶
入来院文書一五三号丁を見れば寛永十六年大隅諸外城一二十一のうち国府・蒲生・帖佐・末吉と並んで高山の重要さが窺われるで
あろ
う︒
⑱四十九所大明神については三国名勝図絵︑巻之四十八︑鹿児島県史第二巻八ニ︱頁︒神社志下︑八七一︑二頁参照︒
⑭舎人の父弾正は文化四年次の如く願出ている︒︵文化四年︑日帳︶
﹃ 口 上 覚
右者私事妥元宗廟四十九所大明神社家頭取勤居申候処神職為継目上京仕吉田殿か官名右之通被仰付候二付名替之願申上度奉存候
間 奉 願 通 名 替 御 免 許 ヒ 仰 付 様 候 御 申 上 被 下 度 奉 願 候 以 上
外十月廿七日
靱 負 初
︑ 良 発
而して舎人については系図に左の如く録されている︒即ち︑ 幕末薩藩郷士の農業経営と下人
0 0
ー重莞 舎人弾正重厚・・・神奈備舎
ー常磐:・・真澄舎 立国
り 内 蔵 摂 津 守 喜 声 警 讐
r i F
重 貞 讐 麟
︐ 重 寛 初
︑ 伊 兵 衡
︵慶長十九生ー承応二歿︶︵寛永十六生ー元隷十四歿︶
元酸九年上京十八神道之次第伝受
|—良国麟‘十次 RGA
︵延享三生ー文化二歿︶
安永八年上京十八神道伝授
一日 法令 免許
︒寛 政一
︱一 年再 上
京
寛政四年四月与頭
同五年二月郷士年寄助同年十二月ー亨和二年十一月
郷士年寄
﹃重斃舎人初︑十太郎
〇寛政十年戌午二月十三日丁末刻誕生
( 一)
︵寛文九生ー延享四歿︶
弾 正 良易初︑重易
納右衛門
︵安永五生ー天保十三歿︶
文化四年上京十八神道伝授一日法令免許︒
同 七 年 十 二 月 与 頭
同十一年一1
一 月 郷 士 年 寄 助
同十四年二月ー文政二年閏四月一
文 政 三 年 八 月 ー 同 五 年 二 月 郷 士 年 寄 同十 一年
︱︱ 一月 ー同 十︱
︱︱ 年八 月
左二詳示
ー良兼囀十次麟⁝・:・:・:山栄舎
︵文化二生ー安政六歿︶
文 化 十 二 年 別 家
横目相勤
母高山日高長左衛門為長嫡女トキ也
0
文政八年乙酉十月廿二日為与頭0
同十 一一 一年 庚寅 九月 廿九 日
転為郷士年寄助
0
天保五年甲午二月八日退役願御免也0
同六年乙末七月二十八日再為年寄助0
同七年九月十日転為年寄0
同九年戊戌二月 ︵宝永元生ー文化四歿︶享保五年神祗管領ョリ神道裁許状 第十九巻和泉 第一ーー号
七八
(7) 註 (6)
十九日退役御免也
0
同十四年癸卯正月廿六日継目免許也0
同年癸卯五月十一日十八神道伝授一日法令免許也〇嘉永︱︱一年庚戌二月十日再為 郷士年寄0安政五年戊午九月廿四日退役願御免也0文久元年辛酉四月七日三為郷士年寄0同二年チ戌八月為守衡伍江戸在府ニヶ月明年正 月廿三日従公姫芦繹駕帰国璽莞時六十六歳0慶応元年乙丑閏五月為曖鰭郷5
0同月諸郷々士為衆中0
同四
年戊
辰一
一月
曖退
役願
御免
也
0
明治 四 年 辛 末 十 二 月 廿 四 日 末 刻 死 年 七 十 四
︵ 以 下 略
︶
﹄ 舎人日記は︑前述の如く嘉永五年十一月以後のみ残存しているので︑彼の晩年については特に詳細に知り得るわけである
が、それに依ると嘉永三年二月郷士年寄(寺社方掛•前田村移者掛・牛馬皮取締掛)となり高山郷の支配・政務に活躍し
たが病のため安政五年九月退役御免仰付られ︑十月には古郷士年寄・諸相談役を仰付られたのであった︒併し萬廷二年・
︵文久元年︶四月には再び曖
( 1 1
郷士年寄︶宗門方掛・山方掛・浦掛となり慶応三年十二月老齢のため退役を願出で翌年ニ 月退役を許されたのであった︒しかも嘉永六年のころには彼の弟泰造良兼も﹁所三役﹂の一たる﹁横目﹂を勤めているこ と明らかであり、又高山郷に於て同じく郷士年寄を勤むる家筋の日高•吉井・宇都宮・伊東の諸家、代々組頭を勤むる宮
田家或は蜘瞑 g の如に〗―島と代々姻戚の関係にあったのであぃ‘か
4る迎俗両界にわたる権威を以て高山郷の郷士・農
簡単には県史第二巻一六六頁︑小野武夫土地経済史考証一七頁︒か4る郷士年寄以下の役識には﹁役高﹂や﹁役得﹂が大なるも
のであったことは原口︑前掲稿ニ︱0︑ニ︱一頁参照
物部
連守
屋家
系図
︵明
治四
十四
年写
︑守
屋泰
一一
一家
文書
︶︒
これ
に天
保一
一一
年守
屋家
略系
図︵
守屋
泰治
家文
書︶
を参
照し
た︒
これ
らの
系図は近世に関する限り︑郷内の他の史料と照合して信頼度極めて高きことを確認した︒
幕末藍藩郷士の農業経営と下人
(
→
民に臨んでいたと一云うことが出来よう︒
第十九巻
第 一 一 一
号
七九
(10)
==でl 同右十月廿一日の条
古郷士年寄
諸 相 談 役
右之通被仰付候間外古郷士年寄申談何扁致取扱候様可被申渡候此旨申渡候様御地頭御差図二而\
午 十 月 十 八 日
莉 山 郷 士 年 寄 中
士 寄 守 屋 舎 人
右者病気二相
□
当務難叶申出候二付御池頭被聞召逹願通二被成御免候間如例可被申渡侯左候而跡代役吟味之上名前取調早々可被申出候此旨申越候様御地頭御差図二而4以上
午 九 月 廿 一 日
山之内勘右衛門殿︵他郷士年寄一一一人略︶
﹃︵
朱筆
︶
月日 幕末薩藩瑯士の農業経営と下人
日
第十九巻
取
平 次
山 作 右 衛 門
郷 守
第三号
年 以
上 屋
守 屋
八0
舎
舎
人
人 印
と 呈
⑱ 物 部 連 守 屋 家 系 図
⑨舎人日記安政五年九月一一日の条︒
﹃ 口 上 覚
私事
嘉永
一
1一年戌二月郷士年寄寺社掛前田村移者掛牛馬皮取締掛被仰付難有奉存相勤居申候処持病差発勤方難叶御座候に付役儀御
断申上候処今一往致養生相勤候様被仰付軍々難有奉存相勤居申候得共早々全快仕不申勤方難叶御座候︱︱付恐多奉存候得共何卒奉
願通御免許被仰付被下候様被仰上可被下候以上 午 九
︱
︱
舎人日記︑慶応三年十二月廿七日の条︑口上覚︒
舎人日記︑嘉永六年各所に見ゆ︒
宇都宮家は代々酸醐の中性院より権大僧都職に補任せられ︑院号を許されている︵宇都宮家系図及各代の許状︶︒大隈地方では
郷士年寄の家が置々同時に郷内の宗教的潅威を有する家であったことは注目すべきことである︒大崎郷山下家については原口︑
前掲稿ニ︱一頁︒大崎の救仁郷家は最大の例でありその他虞々聞いた︒︵守屋家の場合は幕末に郷土年寄に進んだので他の場合
と区別すべきであろうが︶
救仁郷家については大賄町史︱ニ︱
I
一四
二頁
︒︱
‑ 0
九ーニ︱七頁︒原口氏の御教示によれば本家は五百石︑中の坊百石︑外に十石の次男家十二家。本家は新納•山田•町田等島津一族のみと緑与せりと。
幕末数代の姻戚関係を示せば第5表の如し︒︵八二頁参照︶
次 に 守 屋 家 の 支 配 地 に つ い て 窺 う こ と さ す る が
︑ 抑 々 薩 藩 郷 士 の 知 行 制 は 他 藩 に 比 し て 極 め て 特 異 な 形 態 を と り
︑ 従 来 各 種 の 研 究 あ る に 拘 ら ず 未 だ 不 明 の 点 が 少 く な い が 租 納 の 形 態 よ り す る 土 地 の 種 目 に つ い て は 最 近 原 口 虎 雄 氏 が 分 類 せ ら
の
れ た 門 高
・ 浮 免
. 抱 地
・ 永 作
・ 溝 下 見 掛
・ 大 山 野 が 妥 当 で あ る と 思 わ れ る
︒ 此 等 の 地 目 夫 々 に つ い て の 詳 細 は 同 氏 の 論 稿 に譲ること
4し 小 論 に 必 要 な 限 り に 於 て 簡 単 に 触 れ る と 門 高
︵ 給 地 門
︶ は 薩 藩 特 有 の 門 割 制 下 の 農 民 作 職 地 で あ り
︑ 知 行
主は農民よりの貢租・夫役収取権をもつのであるが︹高一石︵籾︶に付三斗九升八合︵米︶の定納︑内藩庫納のものを除き約三斗︺︑
浮 免 以 下 は 郷 士 給 養 の 所 謂 郷 士 自 作 高
︹ 自 作 名 義
︺ で あ っ て 勿 論 上 層 郷 士 の 中 に は そ の 一 部 を 下 層 郷 士
・ 農 民
・ 野 町 人
(15) (14)
幕末覧藩郷士の農業経営と下人 (13)(12)(11)
高 山 郷 士 年 寄 中
日
第十九巻
第 一一 一
号
八
取
平 次
山 作 右 衛 門
と
日高為長ー—トキー
甚五郎
ー 為 昌 与顕︑郷士年寄
伸 右 衛 門 与 頭 郷士年寄助 郷 士 年 寄
一 横 目
︑ 与 頭
野崎村戸長
ー貞 利
第 5表 幕末の姻威関係
ー 弾正 リ
ー良
十助義遠ー良昭—-
横目︑紐頭 口事方宮 田 義 次
︵横目︶へ養子
︵前
掲︶
易ー
ー ン'
幕末薩藩怠士の農業経営と下人
宇都宮真光院快意
︱│
舎人重甕
︵前
掲︶
先妻 腰 早 右 衛 門 瀕 助 吉 井 清 祗 ー
̲ l 清 員
^ ル
│
│ i
̲︑
与 頭 宇 太
ー清 穏
郎 与 頭 郷土年寄郷士年寄
郷士年寄
郷士年寄助
̲│ '
ーー1ア 曖
︑与頭 (→
東 学 院 快 孝
タッ
第一
︱︱
号 郷士年寄助
* 曖︑小隊長︵常備隊制︶
ー 多 聞 院 快 明
東太││ー快哉
晨 ︱ ︱ 一 年 奥
州ニテ戦死
ーツル
ー 弾 [
直 助 後 妻 日 高 為 肥 為 嵩 フ チ 清 右 衛 門 地 頭 横 目
ー
清 右 衛 門 疇 翌 年 士 年 寄 助
那士年寄郷士年寄ーー—ー為憲ーー・
キ
ー 第十九巻
八
此の系図は守屋家系図
のほか︑宇都宮家系図
吉井家系図︑宮田家系
図︵夫々同上家所蔵︶
及び日高系図︵高山町
役場︶により作成した︒
良易以前についても姻
戚の関係を窺うことが
出来るが省略︑又︑所
役勁務の年代も各系図
に明らかであるが煩雑
になるので略する︒ ︹ 備
考︺
*県
史第
一
1一 巻
五七三︑五九四頁参照︒
註
(17)16)
(
→
第十九巻
八
に小作させるものもあったわけである︒浮免は本田畑にして門割から除外された地であり︵租米九升二合︶︑特に上層郷士
が良田を抑えていたと去われる︒このほか抱地
( 1 1
持留︶は原口氏によれば﹁藩の許可を得て自費仕明︵筆者註ー開墾︶し
た私有地で租米は九升二合︑郷士の高上り資格によってその所有面積に制限ある土地であり且士族身分に限り許さるる﹂
ものであるが、其他の永作・溝下見掛も夫々制限〔永作は百姓にも許さる〕・租率等異るにせよ、いづれも山林•原野〔
II大山野︺の開墾地であり又植林されもしているのであった︐山林と原野のひろがる大隅地方に於て抱地以下のものが極め て広大であったことは容易に想像され︑特に上層郷士は公私の権力に依つて広大な土地・林野を囲い込んだのであり﹁耕
⑳ 地といつても三分の一位は林野である﹂というのが実状であったろう︒
しかも薩藩に於ては他藩と異り知行地の売買が許されたことは特箪に値し︑それに依つて高直︵高上り・高下り︶がな されたのである︒たゞ注意すべきは普通﹁持高﹂と云われたものは︑家格によって一定の限度︵高上りの最高限︶がある ものであって︑前述の本田畑たる門高及浮免を主体としてそのほかに抱地・永作等は極めて徴少なものがその中に入れら れているにすぎない︒持高以外に上層郷士には抱雄・永作・大山野等を大量にもつこと撰々であり︑又いづれの地目にも
他人名義の土地もあったから︑持高のみを以て支配地の全貌を把えることは出来ないわけをある︒
原口
︑前
掲稿
ニ︱
八ー
ニ︱
︱
1
0
頁日高通博家の暮末の﹁大浮免抱地余地坪付帳﹂には大浮免.抱地共に作人が録されているもの多く︑安政二年の﹁大浮免坪付
写﹂には自作のほかに作人誰某と録されており︑幕末各年の﹁取納帳﹂には各門よりの取納とは別に﹁抱地井浮免取納﹂という項
がある︒尚︑同取納帳及安永八年羞出︵持高︶には門浮免︵或は門付浮免︶があり︑これは庄屋浮免と共に各門の取納の方に入
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
第三号
能 う 限 り 追 求 し て み る こ と に す る
︒ は じ め に 持 高 の 推 移 を 考 察 す る に 大 体 第7
表 の 如 く に な っ て い る
︒ こ れ を 見 る と 大 体 近 世 中 期 以 降 持 高 が 上 昇 し て お り
︑ 殊 に 郷 士 年 寄 に な っ た 舎 人 良 国 の 代 あ た り か ら が 著 し い こ と を 注 意 す べ き で あ ろ う
︒
第6表 日 高 家 の 持 高
I
安 永8年l
文 久 2 年石 石
295.96
門 地 295.96
内 {庄門屋付浮浮免免 103 •• 967 2
抱 地
I
0.671 0.86浮
叫 囀 . 酎
大浮.免19 32余 地
I
2,041 2.04計
I
3ts.ooI
318.20(備考) 各年の差出による。合以下省略
(21)(20)(19) (18)
幕末薩藩痔士の農業経営と下人
れられている︒伊東家でも﹁門付浮免﹂は﹁自作浮免﹂と明らかに区別されている︵高屋敷其外地方出入書付留︶︒後考を侯つ︒
浮免は本田畑に限られず抱地・永作の場合もある︒日高家の天明七年借状には﹁仕朗抱地浮免﹂とあり︑明治二年当巳秋取納帳
には﹁永作浮免﹂あり︑其他散見︒後考を侯つ︒
原口︑前掲稿二二三頁︒
同右︑一三六頁︑守屋家でも抱地が多く杉山であることは後述︒
例えば高山・日高家の場合︑宝暦十三年に持高一二百拾八名余あり︵高山衆中小普請銀不相掛人数帳︶︑幕末まで殆んど変動していない。殆んど最高限に来ていた故であろう。第6表参照。このほかに抱地•永作・大
山野があったことは他の史料に依つて推測される︒尚浮免が持高に全部算入されて
いることは︑庄屋浮免・門付浮免は勿論であるが︑大浮免も安政二年﹁大浮
免坪付
︑ ︑
写﹂︵計十九.︱‑三石︶と照合して確め得る︒伊東家では享和元年持高六拾三石余︑
そのうち抱地式拾七石余でその比率が高いが︑それは抱地について﹃増高之儀ハ外
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
高二而候処外高之分別不致高直之願申上寛政十年六月高直御免被仰付首尾違二相成
云々﹄と害かれて実は﹃外高﹄たるべきものであることを知る︒その後土地の集積
あるに拘らず幕末まで殆んど持高は変動しない︵寛政八年起︑高屋敷其外地方出入
書付留︶︒その他上層郷士の公文書に見ゆる抱地の址ほ至って少い︒もっとも鹿屋郷
野田家は持高の殆んどが砲地を以て構成されているが︑これは分家であったが故で
あろう︒尚︑原口︑前掲稿︑ニ︱八︑二四二頁参照︒
(→
第十九巻
第 一一 一
号 守
屋 家 の 場 合 そ の 支 配 地 の 全 容 に つ き 明 確 に す る こ と が 出 来 な い が
︑ 以 下
八四
第7表
幕末匿藩郷士の農業経営と下人
(
→
I
生 年 〜 歿 年 1系図による持高1系よ図以る外の持史料高に邸 頼 和 泉 守
I
? 〜 年8I
? 1石2.o升o│
註Zり重 時 和 泉 守 天正12〜万治2 鰯 7 13.28 寛 永10(得叩1豆暉328岳神)領 四)2註99
寛永(17
内1
重 治 諸疇左這衛門門 \ 慶 長19〜承応2 慶安2 13.28
重貞 兵 醤 寛 永16〜元禄14 認 2 13.281寛文6 I 3.28 1£25>
内
重 寛 摂 津 守
i
寛 文9〜延享4I
元緑14 40.561立 国 和 泉 1宝永1〜 麟3
I
延享s
40.40I
良 国 舎 人 延享3〜文化2
I
宝暦9 4679 ・ 天宝暦明18 43 426..1158 註血26)良 易 弾 正 \ 安 永5〜天保13 文 化3 70.30 天 保135.06分分与家創記設8)
重 発 舎 人 1寛政10〜明治4
I
天保14 86.43I
̀ノ
6 2 ︵
第十九巻
[備考〕持高は合以下省略。年代は社司(神主)成の年代で各代ともその 直後に持高が記載されているので社司成当時の持高を示すものと 思われる。守屋泰治家所蔵の山栄舎守屋家譜による。他の史料の 出典は夫々註を参照のこと。
註 (25) (24) (23) (22) 第一
二号
八五 ﹃京御竿之節神領高百八石二相究正祝格痙仕
居・
・・
・神 領高 毀破
︱ー 付御 取揚 被仰 付:
・・ 右
高百八石之内三拾六石正祝大宮司検校一一一人︱‑
而社役相勤持高御座侯故右三拾六石右三人之
持高二繰替被仰付候右高之儀者御支配地︱‑
︵マ ヽ︶
︑︑
︑︑
相替本御神領高之表盛古竿之儘二而被成下候
`ヽ︵マヽ)
ニ付右余斗を以往之御神事相勤候様被仰付今
以壱人前拾式石.ツ︑持高之内とメ三人二而格
護仕﹄︹高山町役場蔵︑巳七月無題の文書︒
文政七年名勝志方再撰御紙二付所申出之醤
︵一一階堂文書︶にも同趣意あり︺︒云うごとく
古竿︵京竿︶のま4であるならば︑薩藩の高
の約一一倍と見て良いであろう︒
寛永十年癸酉高山衆中帳写︵二階堂家文書︶
寛永十七年高山衆中軍役帳写︵同右︶
寛文六年高山衆中与分軍役帳二番︵写本︶
︵同
右︶
宝暦十一云一年高山衆中小普請銀不相掛人数汲
こ れ ら は 主 に 高 の 買 入 に よ っ た と 思 わ れ る の
である︒ 2
︐
ヽ ノ第 8表 (29) (28)(27) 人 数
ヽ
゜
.
.
.
篇 石 ー
51
02
03
04
05
06
08
09
01
00
99
8 6 8 1 5 1 1 1 3
〜〜〜〜〜〜
1 5 0 0 0 0 0 0 0 0
ー持
0 1 2 3 4 5 6 8 9
計
3 8 7 4 7 1 7 1 0 1 1 1 1 1 4 4 1 1 1
153
幕末藷藩郷士の農業経営と下人
天明八年高山郷士高究帳︵高山町役場蔵︑破損甚し︶
天保一一一年八月無題青表紙本︵弾正の子十次郎良兼分家の際の記録︶︒高拾五石余のほか︑
銭四百貫︵高求料︶を分与した︹守屋泰治家文書︺
断片的にしか痰えないが宝暦十一年には伊東家より本物返高壱石を得た︵但︑文化二年に請返さる︶︹寛政八年起︑高屋敷其外地
方出入書付留︑伊東家文書︺︒宝暦十三年の守屋家の持圏には﹃内裔壱石七斗四升式合七夕壱オ隈元新八方分申六月永代﹄とあ
り︵高山衆中小普請銀不相掛人数帳︶︒寛政八年には日高清右衛門・同六右衛門と共に︑鹿児島士種子島家の知行野鮪村前原門
︵三拾五石︶を買入れた︵種子島十郎太夫知行高名寄帳写︑日涵家文書︶其他多し︑後述︒尚︑宝暦十一1一年に守屋家と同捏度の
持高であった伊東家︵四拾壱石八斗余︶の持高上昇の過程は極めて参考になる︒同家は享和元年の高揃では六拾三石六斗余に上
昇しているが︑それは門高︑余地覇.抱地の買入及び後田村に抱地を開き直竿を受けている︒殊に掴地の一部を農民に﹃給分﹄
として与えているが︑この農民は恐らく実際に開墾に努めたものであろう︒一般に抱地開発は名義を上層郷士とし︑農民・下層
︵ 伊 東
︶
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
郷士に依つて為されたことが多い︒文化二年には後田村の抱地について﹃嘉左衛門様代御竿申請之節作人打開苦労分として永々
半地上納二御約束有之其通版納致来候﹄と録されている︵以上︑寛政八年起︑高屋敷其外地方出入害付留︶︒天保十一年には同家
所有の抱地・永作を集計すれば約八町八反余に及ぶ︵天保十一年抱地井永作坪付︶︒
さ て 当 面 の 舎 人 重 発 の 支 配 地 の 内 容 に つ い て は 明 確 に 窺 い 得 ぬ 撼 が あ る が
︑
け
少 く と も 嘉 永 五 年 十 一 月 に は 新 留 村 内 村
第十九巻
第 一一 一
号
︵日高通博家文害︶︒同審には﹃高壱斗以上所持仕蒟之役御奉公相勤申
候﹄者が害上げられ﹃持高壱斗之内居屋敷一ケ所人体ハ相除﹄れてい
るが︑持高壱斗以上の高山郷士を第8表の如く示せば守屋家の位置が
推察出来よう︒大体上層郷士の下層と云うべきか︒
尚宝暦六年の薩州分限帳では高山郷士二百二十六人であるから︵小
野武夫︑郷士制度の研究八二頁︶約七
0
人が持高一斗以下及一ケ所無屋敷と見てよい︒
質取地拾石︵浮免︶︑居屋敷壱ケ所︑
八六
但過不足無御座候
右者此節新留村御検地門割︱一付証文差出候様被仰渡趣承知仕取調申侯処私持高右之通御座候侶而如此御座候
幕 末 薩 藩 郷 士 の 農 業 経 営 と 下 人
六拾壱表三斗四升六合
高式拾式石六斗 靱大豆
I、‑‑)
=⇒l
g 証文 更に慶応三年十一月には︑
‑屋
右 之 通 高 支 配 方 に 差 出 候
敷 目 録
壱 通
‑ 馬 場 門 名 寄 目 録
外︱
︱抱
地目
録
宇都宮連正院方か出筈
いる
︒
壱
冊 寄
目 3 ー, ‑
﹃ 覚 一
︑ 内 村 門 一 紙 目 録
一︑永山門煕場門名寄目録
一
︑ 東 門 名
録
壱
冊 壱冊 壱
通
ヒ
第 十 九 巻 第三号
八七
新 留 福 村 留
門のうち高五石三斗弐升五合︑同村馬場門弐拾壱石のみは明らかに同家の給地門であり︑
以上
門
叉安政四年には次の如く見えて
一︑
終日
乙名
共替
々参
候︵
下略
︶
卯十二月朔日晴天
︑ ︑
一︑
福留
門小
太郎
外七
人取
納︱
ー参
居候
︵下
略︶
と見えている︒しかも舎人出府の際に門の農民を召列れることも撰々であり︑叉その日数は少いが手作地の労働や家内労
とマフヂ働にも出てきているのを見出す︹但︑これが夫役であるか︑或は劣悪にせよ賃銀乃至際扶持によるものか不明︒後節参照︺︒
⑧
③
幕末薩藩は軍制改革に伴い給地高改正を撰々令したが︑明治二年軍役高五拾石に制限せられるや守屋家はさきに買入の
c
とあり︑同文の証文にて新留村内村門に高五石三斗弐升五合︑永山門に高弐石三斗八升七合五勺︑東門に高壱石︑馬場門
に高弐拾壱石を夫々持つていたこと明らかである︒以上からでも門高として少くとも五拾弐石三斗壱升余を持ちしことは
確実であり︑殊にこれらの門のうち福留門と馬場門を主なるもの︵恐らく両門は持切門で他は持合門か︶としていたこと
︵し て︶
は各所に窺え︑慶応四年正月の﹁乙名祝に﹂にも︑﹃今晩乙名祝とゲ福留門馬場門参上畢﹄とあるのでも推察できよう︒
③ ともかく前掲の諸門からは貢租及夫役を収取することが出来たわけで︑毎年十一月には各門の名頭
( I I
乙名︶が守屋家に
⑤ 来たり︑書付を受け︑十一月末乃至十二月初に同家に直接貢租を納入した︒
卯十
一月
廿五
日
睛天
御 曖 衆 中 卯
十月
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
日
!!a=37)
一例
を挙
ぐれ
ば慶
応一
一一
年に
は︑
第十九巻
守 屋
第一
︱︱
号
舎 八八
人
ヒ
、●~.3ti閉位
ら︑或租度の推定を加えざるを得ないがともかくこれらが守屋家の社役・軍役勤仕の基礎をなしたのであった︒
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
(→
以上窺った土地関係を簡単に表示すれば次の如くなるであろう︒ ︹
以上
の地
名は
七四
・九
六頁
附図
参照
のこ
と︺
には︑下人小市を道中の晶九反九畝︵内屋敷壱反五畝︶︑下人助右衛門を道中及小森の晶八反六畝︵内屋敷壱反五畝︶に
夫々﹃作人﹄として居住せしめており恐らくこれらの晶は右の抱地であり此の下人は従属的小作人たる﹁下人﹂であった
のである。そのほか舎人日記にほ花牟礼(新留村)之後・野崎村横頭・中原(後田村)・中牧•新留村崎山の各所が同家の
如抱地として見え︑多くは杉山であり︑叉権現ケ迫にも永作地をもったと推察され︑勿論このほかにも各所に抱地・永作等
を持つていたであろ
5
゜而してこれら抱地・永作の一部は手作もされたに違いない︒されば次節に詳述する所の同家の手作地三町三反余︵元治元年︶は浮免を主とするほかこうした抱地・永作もかなり含まれていたと考えられるo
︵事
実︑
手作
畑のうちに上掲︑中牧︑権現ヶ迫等の地名が見える︒同一の地でないにしても痣地・永作の開発が行われた地域であると推定される︶︒
をも
ち︑
十二月には・﹃下人小市召列道中抱地に差越屋地割いたし﹄︑
第十九巻八九 勿論現存の史料を以てしては全貌は尚不明であるか ⑩ 馬場門のうちから﹃過上高拾弐石九斗壱升五合七勺五オ﹄と見えこれを売渡しているから︑幕末・明治初には軍役高六拾弐石九斗余と推定せられるのである︒こ\に云う軍役高は恐らく前述の持高であろうから︑このほかに抱地・永作・大山野の多くは﹁外高﹂として存在したと考えられ︑従って此の六拾弐石九斗余には算入されていないと見てよいのではあるまいか︒
ドゥチュウいづれにせよ守屋家の場合抱地・永作が︑その規模は不明であるが史料に散見する︒即ち安政四年には後田村道中に抱地
その後道中に下人の家作をなしているが︑元治元年
第一
︳一
号
(36) (35)
註 (34)(33)(32)(31)(30)
舎人日記︑嘉永五年十一月廿八日の条
同右︑安政四年九月廿九日の条
同右
︑慶 応一 一 一 年 十二月十四日の条
同右︑同年十二月十五日︑廿七日の条
同右︑慶応四年正月四日の条︑門
5
正月四日乙名祝の記事有り︒その日は無礼謂であった︒これを乙名祝と云った︒舎人日記でも毎年
坪 環
抱地の下人が主家に祝に来てf
・乙名叉は翁と云い毎年正月四日に乙名はじめ門の農民特に
乙名のみには鍍餅を据える慣行と云い︑伊東家の﹁年中行事諸節旬見合﹂にも舘餅の項に﹃乙名︑四枚︑大﹄などと見ゆ︒地租改正後は四日祝の名を以て呼ばれ地圭の許に小作人が祝に来たと云う︒
門之年中納物定については列朝制度巻之五︑田賦雑徴︵近世地方経済史料第一巻所収︶四二七ー四二九頁︒租税間答︵同上第二巻︶五
0
二︑三頁参照︒鹿児島県史第二巻=︱
10
五頁︑文政四年租税雑記︵旧鹿児島藩地方経済史料集成第一巻所収︶三四頁には納物・夫仕は凡て庄屋を
通ずるとされるが︑実際は直接行われた︒原口︑前掲稿ニ
一三 頁の註8参照︒尚列朝制度巻之五には﹃給地百姓拾翫里内者取
納米領主方に直届拾氏里以上遠郷者最寄出物蔵に上納受取害を以致皆済候云々﹄
とあ り︒
守 屋 家
r
‑ 、
自 門 作
高
「――¥
大永抱浮
山
野作地免¥ I
/
•.、屋 山 小 手
敷
: ・ ・
:
・:
・:
・
:・⁝︱︱︱反四畝四歩 元治元年︱︱︱町︱︱︱反余.人八・六反︵展敷を含む︶元治元年一訊包...九反︵屋敷を含む︶
林::各地に杉山多し 作:
. .
作 :
9/
高
[ E
距ー名子 ︶
︺ー
貢租徴収燿:・・例えば慶応二年 幕末薩藩瑯士の農業経営と下人
( 一)
第十九巻
第三号
高五十二石余︵新留村︶ 九0
(44) (43) (42) (41) (40) (39)(38) (37)
日
第十九巻
九
舎人
日記
︵慶
応一
一一
年︶
鹿児島県史第二巻九一ー九三頁︑第三巻五四七頁︒特に原口︑前掲稿二四一︱︱ーニ四五頁
﹃諸郷軍役高之儀百石限被定置侯得共追々常俯兵被召建候所無高少高之者共不少候付此節尚又吟昧之趣有之全体諸郷之義も有之
候間以来諸郷一同軍役高五拾石へ被究候過上高有之面々者壱石式百貫文之直成を以其郷におひて相対売払候様無混雑可取計旨地 頭 へ 申 渡 会 計 局 其 外 可 承 向 に も 可 申 渡 候
︑ 但 当 秋 取 納 済 候 上 本 文 通 可 取 計 候 知 政 所
﹄
︵ 明 治 二
︶ 十 月
︹ 御 軍 役 高 定 被 仰 渡 候 御 廻 文 写
︑ 鹿 屋 郷 野 田 家 文 書
︺
舎人日記︑明治二年十月十七︑世︱‑廿四日︒同三年四月三日の条︒もっとも慶応一︱一年明治二年の高制限がどの程度の効果をも
ったか疑問である︒伊東家の場合︑買主が﹃代料調達難叶﹄︑ために﹁所務米之儀乙名方か御方にヒ成直取納﹄・﹃自作高之儀
者:
・
門高同様現米二而入付可申候﹄︵明治三年三月証文︑同趣旨証文数通あり︶と約し︑これを以て代料を差引くこと4
して
いる
︒
︵ 日
5家 ︶
日高家の場合は買ヽ王が日高家より代鉛借用の形をとり︵利八分︶﹃質物として此節御方よで附属仕候名寄目録壱通売渡証文相添
相渡﹄︑﹃当卯年よで先七ケ年限り本代銀利足年々十二月十五日限り御首尾合可申上候﹄とあり︵慶応三年六月証文︑二通︶︑年々
売渡した門から日高家は所務米を取納している︒︵明治一一年の制限に対しても同様の処躍をとった︒明治二年附属高御糾方=付御
届帳︑慶応二年より明治六年に至る附属高所務米取納帳・算用帳等の諸史料による︶︒買ヽ王が中下層郷士である以上当然のことで
あり︑少くとも当分は単なる名儀の変更にすぎない︒少くとも高山郷日高家・伊東家の史料を以てする限り、軍役高の百石•五十石の制限は従来の持高について行われていること確
実である︵日高家文書︑慶応﹃一年高附属人数御届帳︑持高並附属高取調帳︒伊京家文書明治三年高附属人数取調帳︶
舎人日記︑安政四年十二月十五日︑十八日以降︒下人数人が泊り込みで下人助右衛門
・小 市の
居家を建て4
いる
︒
文久四年耕作日記
令 人
︶
︵ 下 人
︶
︵ し て
︶
︵ し て
︶
﹃仁平太助右術門長四郎崎山に杉木場払方と/遣候二付四ッ時か差越八ッ半か花牟礼之後抱池見とt行﹄︵舎人日記︑安政五年
正月十二日︶
幕末藍藩郷士の農業経営と下人
第一 ーー 号
舎 人 日 記 に よ れ ば
︑ 彼 は 社 司 と し て
︑ 武 士 と し て
︑ 特 に 郷 士 年 寄
︵ 曖
︶ と し て そ の 日 々 は 相 当 に 多 忙 で あ る
︒ 即 ち 格 護 せる二十数社の社司として年間多くの祭事があり︑﹁社人中﹂が舎人の屋敷に集り直会の後社参・祈疇・神楽を勤め︑或は 郷 内 諸 社 へ 社 人 を 召 列 れ て 出 向 き
︑ 事 に 応 じ て
﹃ 雨 乞
﹄ と か
﹃ 異 国 船 調 伏 之
慕
﹄ や 藩 主 の 上 洛 に
﹃ 御 両 殿 様 御 武 連 長 久 並
ウッガンマッィ
御供人数息災延命異国船調伏之御祈疇﹄などをなすことも多く︑又各郷士の﹃氏祭﹄︵内神祭・内之祭︶・﹃地神祭﹄に招か
︵し て︶
れ て 勤 め る こ と 撲 々 で あ っ た
︒ し か も 武 士 と し て
﹃ 鉄 泡 稽 古
﹄ に 励 み
﹃ 調 練 稽 古 と ゲ 御 地 頭 仮 屋 致 出 勤
﹄ す こ と も 度 々 で あった︒しかも郷士年寄として仮屋へ出勤し郷士の調練に当り命に応じて﹃戦兵﹄を出征させ︵彼の甥の子は戦死︶︑叉郷内
の諸政務に携り︵郷士年寄数人の間で当番あり︑数日毎に上番︶︑郷内各所へ差越し︑土地の﹃見分﹄
入を促し︑舎人在宅の場合も郷士の諸役・名主・触等がたづね来り︵或は舎人が彼等を﹃召呼﹄︶彼等に種々の指令を与えて
(46) (45)
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
︵ 貫︶
﹃野崎村横頭抱地高九升四合四勺五オ代分式拾四メ式百四文二此方に永代相受取﹄︵同右同年正月十三日︶
﹃助右衛門長四郎召列中原抱地下草払二行﹄︵同右正月廿六日︶
0下
人︶
﹃仁平太助右衛門長四郎三太郎中牧に行抱地杉下草払相済候﹄︵二月朔日︶
叉慶応四年七月二日口上覚によれば抱地崎山之杉八拾本を売つているほか崎山に杉差等の山仕事は隈々見る所である︒
﹃守屋掃部参同道二而擢現ヶ迫に永作割方二行候処上田伝左衛門不参候二付致割方置候云々﹄︵同右︑明治二年二月晦日︶但し権
現ヶ迫は現在不明︒
伊東家の天保十一年子秋改﹁担地並永作坪付﹂には同家所有の抱地・永作の絵図が畝せられているが隣りするものに﹁守屋弾正
ニ抱地有リ﹂と云うのが一ーケ所︑いづれも後田村西原︵現在地名消滅︒高山川を境に西の方一帯の原野・畠︑上原・盛光寺・大
脇迫一帯の原とも云う︶︒尚安政年代には﹃本城領分取納二参候事﹄︵舎人日記︑安政三年十二月十四日︶﹃本城か取納二多人数参
候事﹄︵安政五年十二月十日︶など見えるが︑後田村本城は他家の抱地も多かった地域で︑恐らく抱地よりの版納と推定する︒
(‑)
第 十 九 巻 第 三 号
・農事の進行・貢租の納 九
いるのであった︒しかも年内数度は鹿児島へ出府し︑或は藩主の巡見・藩庁諸役人の廻勤・通行に際して﹃御機燎伺﹄
案内に勤めているのであった︒
g 以上穂説した如く守屋家は幕末薩藩における上層郷士の︱つであるが︑家には数人の下人︹所謂デカン・メロ︺を懺き︑
又後田村の原野には自らの経営をもつ下人を附属せしめ彼等は事に応じて守屋家に出入しており︑或は困窮せる農民に﹁隙
扶持﹂を前貸して月数
H
づつの雇傭をなしたのであって︑忙の中にあって手作地・山林等を見廻り下人に諸種の労働を指令し︑また時に自らも下人と共に労働に従事したのであっ
た︒以下特に同家の手作経営の内容を解明することに努める︒
家老・郡奉行・御軍賦役・宗門改役・山奉行・寺社奉行・御船奉行・唐物御取締見聞役・諸検者等々極めて多い︒嘉永六年には
藩主斎彬自ら巡見し︑安政四年には都城島津出雲︑慶応三年には東目総吾島津兵庫が巡見した︒
我々が大隅地方で古老に聞く処と守屋家の耕作日記とでは相違することが贋々ある︵例えば︑肥料・除草・反当収量等︶︒恐ら
く上層郷士としての諸僅位性が一般郷士・晨民より僅かではあるが一歩進んだ段階に進めさせていたと推察する︒
以下文久四年耕作日記︵文久四年二月元治と改元︑以下元治元年として記述する︶によって︑守屋家の農業経営特にその手作
経営の態様を窺うこと入する︒史料の制約上催か一ケ年についてのみしか窺えないのは選感であるが︑守屋分家︵山栄舎︶
に関しては天保より文久に至る間の諸史料が残存するので︑後日分家の農業経営を解明することに依り小稿の肉づけが出
(48) 註 (47)
幕末薩藩郷士の農業経営と下人
(一)
一
︑ 農 業 経 営 ー ー 特 に 手 作 経 営
第 十 九 巻 第三号
九
Jれらによって手作が可能であったのである︒
舎人自らも繁