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宗教にかかわる教育の研究.indb

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学校における「宗教にかかわる教育」の研究⑶

−日本と世界の「宗教にかかわる教育」の現状−

目 次

本研究の意図と願い 本研究プロジェクト主幹 押谷 由夫 ��������������� 2 道徳教育における「宗教的情操」をめぐる二つの立場  ―「永遠絶対なもの」に関わる理解をめぐって― 武蔵野大学教授 貝塚 茂樹 ������������������ 4 中学校社会科における「宗教にかかわる内容」の記述分析 昭和女子大学大学院教授 押谷 由夫 �������������� 19 韓国・中学校の道徳科にみる宗教に関する教育 国士舘大学准教授 関根 明伸 ���������������� 52 イングランドの宗教教育の実際  ―指導方法的特質に焦点を当てて― 城西大学教授 新井 浅浩 ������������������ 64 カセレス司教区学校の初等教育課程の事例にみる価値教育の実際  ―授業観察と担当教員への聞き取り調査報告― 埼玉大学非常勤講師 村越 純子���������������� 80 国民形成の宗教思潮とその歴史社会的構図  ―ロバート・ベラーの宗教社会学の展開― 岡山商科大学教授 伴 恒信 ����������������� 108 世界の宗教についての基礎知識⑵ 武庫川女子大学教授 佐藤 幸治���������������� 126

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本研究の意図と願い

押谷 由夫 (本研究プロジェクト主幹)  本研究は、今日の教育において道徳教育を充実させたいという願いから、その一環とし て発足した研究会です。  戦後の教育改革において最大の課題は、道徳教育でした。戦後70年を経た現在もなお、 道徳教育の充実が大きな課題として挙げられています。人類にとって道徳教育は永遠の課 題です。しかし、そこには進歩がなければいけません。戦後の道徳教育において、その進 歩を私たちは感じているでしょうか。何かが足りないのです。  対策として、社会の変化、人々の変化、子どもたちの変化、学校や教師の変化等、外的 な要因に対する対応がまず挙げられます。それらはもちろん大切です。しかし、そのよう な関心はどうしても対症療法的な道徳教育の追究になりがちです。いま最も大切なのは、 それらの変化を踏まえながら、道徳教育そのものを再検討することであるように思います。  その方法には、いろいろなものがあります。歴史的に検討する、世界の国々と比較して 検討する、道徳そのものについて学問的に検討する、道徳教育の指導法について検討する 等々。当然のことながら、それらを総合して、これからの道徳教育の方向性を具体的に示 すことが求められます。  私たちはその一連の研究を行う中で、宗教の道徳教育が果たす役割について考えざるを 得なくなりました。道徳教育は、いうまでもなく人間としての在り方や生き方を追い求め るものです。もちろん道徳教育の優れた研究者や実践家はおられますが、最も深く人間と しての在り方や生き方を、自らに問いかけ実践しつつ追い求めた人々は、世間でいわれる 宗教者です。しかし見方を変えれば、道徳教育の優れた研究者であり実践家であるといえ るように思います。  また、「人間として」という部分を深く追究していけば、当然に人間を超えたものとの 対話が必要になります。私たちが求める人間としての在り方や生き方は、ある理想を想定 します。そこには、人間としては到達が不可能な部分が含まれています。その部分がある からこそ、人間は一生理想を求めて生きられるのです(人間として生きる価値があるといっ ていいかもしれません)。その人が、その理想にどれだけ近づけたかで評価されます。そ して、死んだ後は、あの世で理想の姿になって穏やかに過ごされるであろうと想像します。 その理想の姿こそ人間の力を超えたものです。しかしそれは、ただ眺めるだけではありま せん。追い求めるものなのです。そして、その追い求める姿にこそ人間存在の意義がある といえます。その中で、美意識や知恵も培われます。様々な文化や伝統、芸術等が生まれ ます。そう考えたときに、人間として生きることの探求には、人間の力を超えたものとの 対話が不可欠であることが分かります。  さらに、我々の生活を見つめ直したときに、様々な不安に遭遇します。将来が見えてこ ない、病気がなかなか治らない、不幸なことが続く、自然災害が続く、不思議なことが起

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こる、そのとき心は動揺します。そして何かに頼ろうとします。これは人間の性かもしれ ません。その中で将来を見通し、すべてを知っているであろう絶対者にすがろうとします。 そして、その不安を取り除こうと様々な取り組みを行います。その究極の姿は宗教者に あるかもしれません。そういった人類の歴史の中で私たちは生きています。また、古代よ り人々は、自然や宇宙とのかかわりで生活をしてきました。そしてそこに大いなるものを 感じ、畏敬し、様々な風俗や習慣、ロマンや文化、芸術等を生み出してきました。  そして、今日の科学時代においては、祈りや宗教的修業が脳や体の安定化や活性化によ いことが科学的に検証されてきています。宗教の悟りに似たゾーン体験やフローに関する 科学的研究も進められています。我が国が大切に育んできた武道や芸道などの道を求める 生き方も、そのこととかかわります。  また、世界に目を向ければ宗教による生活習慣の違い、宗教の違いによる紛争などによ るトラブルが絶えません。今日の国際社会で生きていくには宗教の理解が不可欠です。  そのような宗教に対して、学校教育はどのように向き合っているでしょうか。  日本国憲法では、第20条(信教の自由)に「 3  国及びその機関は、宗教教育その他 いかなる宗教活動もしてはならない。」と明記されています。教育基本法には、第 1 条(教 育の目的)で「教育は人格の完成を目指し�」と示され、第15条(宗教教育)では「宗 教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、 教育上尊重されなければならない。 2  国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗 教のための宗教教育その他宗教活動をしてはならない。」と書かれています。さらに、学 校教育法施行規則には、第50条に「 2  私立の小学校の教育課程を編成する場合は、前 項の規定にかかわらず、宗教を加えることができる。この場合においては、宗教をもって 前項の道徳に変えることができる。」と明記されています。  これらをどのように解釈し具体化すべきなのかについては、様々な議論があります。宗 教教育について論じようとするとそのような論争に巻き込まれ、なかなか前進することが できません。本研究会では、宗教教育を正面から取り上げるのではなく、道徳教育の充実 という視点から「宗教にかかわる教育」の在り方を探ることによって、論争に深入りする ことなく、具体化を考えられるのではないかという思いがあります。  本書を発端としてさらに学校における「宗教にかかわる教育」の研究を深めていきたい と考えています。読者の皆様のご意見をお待ちしています。本書及び本研究が、我が国の 道徳教育の充実に少しでも貢献できればと願います。

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道徳教育における「宗教的情操」をめぐる二つの立場

―「永遠絶対なもの」に関わる理解をめぐって―

 貝塚 茂樹  (武蔵野大学教授)

はじめに(本稿の目的と課題)

 「期待される人間像」を起草した高坂正顕も参加して1953(昭和28)年に作成された天 野貞祐の『国民実践要領』は、「宗教的情操」に関わる内容を「敬虔」の価値項目として 次のように記述している1  われわれの人格と人間性は永遠絶対のものに対する敬けんな宗教的心情によって一 層深められる。宗教心を通じて人間は人生の最後の段階を自覚し、ゆるぎなき安心を 与えられる。人格の自由も人間相互の愛もかくして初めて全くされる。古来人類の歴 史において人の人たる道が明らかになり、良心と愛の精神が保たれてきたことは、神 を愛し、仏に帰依し、天をあがめた人達などの存在なくしては考えられない。  ここで「宗教的情操」は「宗教的心情」という表現に置き換えられているが、その内容 は、「神」「仏」「天」という「永遠絶対なもの」としての宗教的な存在を「宗教心」の前 提としていたということができる。  ところが、「宗教的情操」を重視する流れは、「宗教的情操」それ自体の定義づけが困難 であったことや占領教育政策の影響の中で次第に変化し、宗教を「タブー視」する空気が 醸成されていった。また、こうした状況の中で、文部省の宗教教育への対応も消極的なも のとなっていく。1951(昭和26)年度版の『学習指導要領一般編(試案)』では、「宗教 についての正しい理解と態度とをもつようになる」という表現を除いて、社会科において も宗教に関する単元はなくなり、1958(昭和33)年に小・中学校に「道徳の時間」が設 置されるに際しても、宗教についての議論はほとんど行われなかったとされる2 1 天野貞祐『国民実践要領』(酣燈社、1953年)16頁。 2 たとえば、「道徳の時間」の設置に深く関わった勝部真長は、当時を回想して「実のところ、公共心 や愛国心について議論はしたが、宗教については『触らぬ神にたたりなし』という感じでしたね。道徳 と宗教とは別ものであり、宗教教育は私立学校にまかせよう、といった空気もありました。だから、 五八年版の『小学校学習指導要領・道徳編』では、『美しいものや崇高なものを尊び、清らかな心を持つ』 とあるだけで、超越的な、スーパーな対象には触れていません」(菅原伸郎『宗教をどう教えるか』朝日 新聞社、1999年、93頁)と述べている。

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 以上のような歴史的な検討を踏まえ、筆者は「宗教的情操」をめぐる解釈が、1963(昭 和38)年の教育課程審議会答申「学校における道徳教育の充実方策について」を起点と して大きく二つの立場に分化していくことを指摘した3。この答申では、「道徳教育にお いては、人間としての豊かな情操を培い、人間性を高めることが基本であるから、今後宗 教的あるいは芸術的な面からの情操教育が一層徹底するよう、指導内容や指導方法につい て配慮する必要がある」と記述されている。  たしかに答申は、「宗教的情操」に言及しており、この点では「宗教的情操」に踏み込 んだものとみることもできる。しかし、詳細にみると答申の表現は、これまでの「宗教的 情操」論議において前提とされてきた「永遠絶対なもの」としての宗教的な存在には一切 言及されてはいないことがわかる。そればかりか、この答申で「宗教的情操」は、芸術的 な情操と並ぶ情操教育の一要素と位置づけられ、明らかに矮小化された表現となっている。 そして、この答申を契機として、「宗教的情操」をめぐる論議は、「永遠絶対なもの」とし ての宗教的な存在を前提として「宗教的情操」を捉える立場と広く情操教育という観点か ら「宗教的情操」を捉えようとする立場に大きく分化して展開していくのである。  本稿でも言及するように、これまで「期待される人間像」での「宗教的情操」について の定義が、その後の学習指導要領の基調となっていると理解されてきた。しかし、「宗教 的情操」をめぐるこうした二つの立場の分化を前提とすれば、両者の関連性を単純に肯定 することができなくなる。むしろ、この二つの立場を区別せず議論してきたことが、これ までの「宗教的情操」に関する論議が総じて噛み合わず、閉塞感さえもたらした大きな要 因の一つであったといっても過言ではない。

1.「期待される人間像」と「宗教的情操」

 1963年の教育課程審議会答申「学校における道徳教育の充実方策について」を起点と する「宗教的情操」をめぐる二つの立場の分化は、「期待される人間像」と学習指導要領 における記述の中に顕著に認めることができる。  同年6月24日の「後期中等教育の拡充整備について」の諮問を受けて、中央教育審議 会は、1966(昭和41)年10月31日に中央教育審議会答申の別記として「期待される人間像」 を公表した4。「期待される人間像」が「宗教的情操」に関わって特に注目されるのは、 これが文部省の政策文書としては初めて「宗教的情操」の定義を示したものであり、しか もその内容が、「宗教的情操を公的教育の場で考える言葉として、これ以上の表現を我々 3 貝塚茂樹「戦後道徳教育における『宗教的情操』の教育史的検討―教育政策の観点を中心に―」(『キリ スト教教育論集』第17号、2009年)を参照のこと。 4 「期待される人間像」の成立過程については、貝塚前掲書『戦後教育のなかの道徳・宗教<増補版>』 を参照のこと。

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はいまなお見出すことができない」5と高く評価されるためでもある。「期待される人間像」 第1章「個人としての」の「五 畏敬の念をもつこと」において示された「宗教的情操」 の定義とは次のものである。  すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する。われわれはみず からの自己の生命をうんだのではない。われわれの生命の根源には父母の生命があり、 民族の生命があり、人類の生命がある。ここにいう生命とは、もとより単に肉体的な 生命だけをさすのではない。われわれには精神的な生命がある。このような生命の根 源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり、人間の尊厳もそれ に基づき、深い感謝の念もそこからわき、真の幸福もそれに基づく。  「期待される人間像」の草案は、高坂正顕によって執筆されたものである。氣多雅子が 指摘するように、ここに示された「生命の根源に対する畏敬の念」には、高坂がニーチェ やベリグソンなどの、いわゆる「生の哲学」を意識したものであり、ここにはさらに、ド イツロマン主義やキリスト教の影響を見て取ることもできる6。また、岩田文昭が指摘す るように、ここでいう「生命の根源」の意味は、「通常の客観的・対象的な認識によって 捉えられるもの」ではなく、「主観と対象とが対立・分裂する以前のようなところ」に求め られており7、「聖なるもの」という表現にはこの点が込められていることも否定できない。  前述したように、高坂は天野の『国民実践要領』の作成に参加しており、天野もまた「期 待される人間像」を審議した中央教育審議会第19特別委員会の委員を務めていた。した がって、「期待される人間像」における「宗教的情操」の定義は、『国民実践要領』で示さ れた「敬虔」、すなわち「われわれの人格と人間性は永遠絶対のものに対する敬虔な宗教 的心情によって一層深められる。宗教心を通じて人間は人生の最後の段階を自覚し、ゆる ぎなき安心を与えられる」という定義に連続し、重なり合うものといえる8。そして、こ こで重要なことは、「期待される人間像」で示された「宗教的情操」の定義が、「永遠絶対 的なもの」としての宗教的な存在、または「聖なるもの」として表現される宗教的な意味 合いを色濃くしていたということである9 5 氣多雅子「宗教学の立場から『宗教的情操』を考える」(日本学術協力財団『月刊 学術の動向』2008年 3月号所収)46〜47頁。 6 氣多同上論文、47頁。 7 岩田文昭「道徳教育における<宗教性>」(国際宗教研究所編『現代宗教2007―宗教教育の地平』、 2007年)89頁。 8 いわゆる「京都学派」と宗教との関係については、岩田文昭「西田の生命論といのちの教育」(『西田哲 学年報』第4号、2007年)、同「京都学派の宗教哲学と宗教思想」(『季刊日本思想史』第72号、2008年) を参照のこと。 9 カント学者である天野が、カントの「畏敬」についての理解を意識していたことは想像するに難くな い。この点については、カント(宇都宮芳明訳・注解)『道徳形而上の基礎づけ』(以文社、1998年)な どを参照のこと。

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2.学習指導要領における「畏敬の念」

「期待される人間像」と学習指導要領  これまで一般的には、「期待される人間像」によって示された「宗教的情操」に関する 定義、とりわけ、「生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念」は、その後の学習 指導要領の内容に反映されて今日に連続していると理解されてきた10。たしかに、「期待 される人間像」が発表されて以後の学習指導要領において、「宗教的情操」に関わる道徳 の内容が、「期待される人間像」の表現と近いものとなっていることは確かである。たと えば、『中学校学習指導要領』では、次のような表現となっている。  この1969(昭和44)年版の『中学校学習指導要領』の内容について、『中学校指導書  道徳編』(文部省、1970年)は、「自己のたのみがたさをひたすら嫌悪するのではなく、 なおかつそれをいとおしめばこそ嫌悪しないではいられない心が、外に向かえば、共に生 きる多くの人々へのあたたかいまなざしと共感を生む。さらには、美しいものや崇高なも のを、すなおに受け入れよとする態度ともなって現われる」としながら、次のように説明 している11  「人間の人間らしさをいとおしむ心」は、とりもなおさず、美しいものや崇高なも のにすなおにこたえる心であって、両者は表裏の関係にあるものということができよ う。(中略)美しいものにあこがれる心は、醜いものをいとう心である。人間の力を <1969(昭和44)年度版中学校学習指導要領> 8 人間の人間らしさをいとおしみ、美しいものや崇高なものにすなおにこたえる豊 かな心を養う。 ⑵ 自然を愛し、美しいものにあこがれ、人間の力を越えたものを感じとることの できる心情を養うこと。 <1977(昭和52)年度版中学校学習指導要領> 9 自然を愛し、美しいものに感動し、崇高なものに素直にこたえる豊かな心をもつ。  自然と人間とのかかわり合いについて考え、自然や美しいものを愛する心をもつ とともに、人間が有限なものであるという自覚にたって、人間の力を超えたもの に対して畏敬の念をもつように努める。 10 山口和孝『新教育課程と道徳教育』(エイデル研究所、1993年)、藤田昌士『道徳教育―その歴史・現状・ 課題』(エイデル研究所、1985年)、柴田康正「学習指導要領における『宗教的情操』―「生命に対する畏 敬の念」をめぐって―」(『教育』第698号、2004年3月)などの先行研究が理解を共有している。 11 文部省『中学校指導書 道徳編』(大蔵省印刷局、1970年)54頁。

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越えたものを感じとる心は、つまりは、人間としての自己の限界を感じとる心でもあ る。したがって、「美しいものにあこがれ、人間の力を越えたものを感じとることの できる心情」は、とりもなおさず、(中略)自己および他人における人間に人間らし さの二面性をみて、それゆえに人間を愛する精神にほかならない。  ここで説明される「美しいものや崇高なものにすなおにこたえる心」が「人間の人間らし さをいとおしむ心」であり、「人間の力を越えたものを感じとる心」が、「人間としての自己 の限界を感じとる心でもある」という理解は、「期待される人間像」における「生命の根源 すなわち聖なるものに対する畏敬の念」が「宗教的情操」であるという理解とは異質である ことはいうまでもない。なぜなら、この学習指導要領では、「畏敬の念」の向かうべき対 象が、結局は「人間を愛する精神」に結びつけられ、「期待される人間像」のいう「永遠絶 対的なもの」や「聖なるもの」といった宗教的な存在が想定されていないからである。  こうした両者の相違は、1969(昭和44)年版の学習指導要領の作成と『中学校指導書 道徳編』の執筆にも関わった佐藤俊夫の説明によってより鮮明となる。佐藤は、「人間の 力を越えたものを感じとることのできる心情」とはまさしく「宗教的情操」を意味すると しながらも、学習指導要領が「宗教的情操」という語句を避けた理由に言及していく。そ の一つは、「現在のわが国の公教育では特定の宗教を学校にもちこむことを禁じている」12 ためであるが、それよりも大きな理由は、「宗教というとただちに特定の既成宗教を連想 してしまうことが多いからである」13とした上で、次のように説明する14  世界には古今東西、ほとんど無数といってよいほどにさまざまな宗教があり、そし て宗教と名のつく以上、それぞれに独自な教義や儀礼や道徳やを掲げている。しかし、 外見や内容のそれぞれな違いはあっても、それらの基底にはなにか共通したものが一 貫しているはずである。それがつまり宗教的な心持ちであり、宗教的情操というもの である。われわれ人間には、有限の世を生きながら無限を願い、一時の命を保ちなが ら永遠を望み、相対の場に処しながら絶対を想う心がある。(中略)そして、この心 持ちこそが、あらゆる宗教を創造してきた共通の原動力ということができる。神とよ ばれ仏とよばれるものは、無限・永遠・絶対・窮極その他、一言にしていえば、「人 間の力を越えたもの」への畏敬と敬虔の具現化にほかならない。  ここでは、「永遠絶対的なもの」や「聖なるもの」としての神や仏が「畏敬の念」の向か うべき対象として設定されているわけではなく、神や仏という「永遠絶対的なもの」や「聖 なるもの」は、「人間の力を越えたもの」への畏敬と敬虔の具現化したものと理解されている。 12 勝部真長編『中学校学習指導要領の展開 道徳編』(明治図書、1969年)108頁。 13 同上書、108〜109頁。 14 同上書、109頁。

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 こうした理解の仕方は、「生命の畏敬」に関する説明においても敷衍される。佐藤は、 生命というといきなり「畏敬」を持ちだすのは、本来「唐突にすぎようし大げさすぎよ う」15と述べながらも、我々があらためて生命を語るとき、「そこにはいつもなんらかの意 味での神秘や荘厳や微妙が想定されている。生命の超越的・理念的・彼岸的に意味を思っ ている」16という。その理由は何か。佐藤によれば、「植物の生命、動物の生命、人間の生 命というような区別は、生命のたまさかの仮の宿の区別にすぎず、それらをつらぬく生命 そのものは、仮の宿の違いを越えて、いつも永遠であり無限であり絶対である」17ためで あるということになる。つまり、植物や動物や人間に宿っているそれぞれの生命に対して、 「それらの基底に一貫している生命そのもの、いうならば生命性とでもよぶものに注目す るとき、生命の『畏敬』という言葉がはじめて意味をもってくる」18というのが佐藤の理 解であり、さらにこの点は以下のようにまとめられている19  生命に対する畏敬とは、植物や動物や人間やのそれぞれの生命をそのまま畏敬する というのではなく、それらの基底にあり、それらを一貫している生命そのもの、いう ならば生命性に対する畏敬であった。そして、生命のそれぞれは実在的であるが、生 命そのものは超越的であるといわねばならぬ。その意味からして、畏敬の対象として の生命そのものは、一種の超越者ということができる。いな、むしろ裏がえしに、生 命は超越者としての意味をもつとき、はじめて畏敬の対象となりうる、といったほう がよいかもしれない。  ここでも「生命」は、その根源とその秩序を司る「永遠絶対的なもの」や「聖なるもの」 の存在が想定され、前提とされているわけではなく、「生命」それ自体が畏敬の対象とし て位置づけられている。ここで明らかなように、学習指導要領や指導書のいう「畏敬の念」 の理解と「期待される人間像」が示した「宗教的情操」との間には大きな相違があるとい える。そして以下にみるように、佐藤によって示された理解は、その後の学習指導要領の 基調となり、より具体化されていくことになる。同時にこのことは、「期待される人間像」 によって示された「宗教的情操」の定義との相違を拡大させることを意味していた。

3.『宗教的情操の教育』(日本連合教育会)における「宗教的情操」

 「期待される人間像」とその後の学習指導要領の相違は、「期待される人間像」が発表さ 15 佐藤俊夫論文「生命に対する畏敬と超越者に対する畏敬―宗教的情操と敬虔―」(『道徳教育』第73号、 明治図書、1967年)23頁。 16 同上論文、23頁。 17 同上論文、23頁。 18 同上論文、23頁。 19 同上論文、28頁。

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れた直後に刊行された二つの著書、すなわち1968(昭和43)年に日本連合教育会が刊行 した『宗教的情操の教育―その原理と方法および資料』(以下、『宗教的情操の教育』と略) と青木孝頼編『小学校道徳価値の研究10 敬虔』(明治図書、1967年)における「宗教的 情操」の理解の相違の中にも確認することができる。  日本連合教育会は、1965(昭和40)年10月の第17回大会において、「民主主義道義の実 践活動を展開し、特に宗教的情操の涵養につとめる」ことを決議・宣言し、傘下の各団体 が協力して研究を開始した20。日本連合教育会は、深川恒喜(東京学芸大学教授)を委員 長とする13名の「宗教的情操涵養方策特別委員会」を設置し、同委員会は1966(昭和41) 年にその研究の成果をまとめて『宗教的情操涵養の方策』を刊行した。その後、同委員会 はさらに委員を増やして研究を継続し、二年後に刊行されたのが、『宗教的情操の教育』 である21  『宗教的情操の教育』は、日本連合教育会の会長を務めていた天野貞祐を編著代表とし て出版されたが、その内容は時を同じくして発表された「期待される人間像」での「宗教 的情操」の定義を意識したものであったことがわかる。このことは、同書において次のよ うに表現されている22  「期待される人間像」において人間として根本的に重要なことの一つは、生命の根 源に対して畏敬の念をもつことであり、これは、肉体的および精神的生命の根源、す なわち聖なるものに対する畏敬の念であって、これこそ真の宗教的情操であると規定 し、さらに人間の尊厳や人類愛、人間愛などの愛もかかる宗教的情操に基づき、また、 深い感謝の念や真の幸福もこれからわき出るものであると述べているのも、われわれ が上来述べてきた趣意と軌を一にするものと考えられる。  「期待される人間像」の「聖なるものに対する畏敬の念」が「宗教的情操」であるとす る定義を踏まえた同書の理解は、当然ながら、宗教との強い関連性の中でより具体的に展 開されることになる。  以下では、同書前編第1章「宗教的情操教育の意義」の内容について、各節の概要を簡 単に整理しておきたい。第1章の目次は、次のようになっている。 第一節 人の本質と宗教との関係 1 人間とは自然的身体的存在である 2 人間は人の間に生きる社会的理性的存在である 20 日本連合教育会『宗教的情操涵養の方策』(日本連合教育会、1966年)2頁。 21 日本連合教育会『宗教的情操の教育―その原理と方法および資料』(日本連合教育会、1968年)11頁。 22 同上書、28頁。

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3 人間は自分自身と対話する主体的良心的存在である 4 人間の本質は絶対者との関係にたつ霊的宗教的存在である 第二節教育と宗教との関係 1 教育の本質 2 教育の効果と限界 3 教育のおける宗教の役割  4 道徳と宗教の関係 第三節宗教的情操教育の特質 1 宗教の本質 2 宗教的情操の特質 3 宗教的情操教育の現代的意義 ⑴ 宗教的情操は人間の問題である ⑵ 宗教的情操は自己の問題である ⑶ 宗教的情操は現在の問題である ⑷ 宗教的情操は教育の問題である ⑸ 宗教的情操は生死の問題である <第一節の概要>  第一節では、人間の本質は、「規定不可能な存在、すなわち限定不可能な存在であると 同時に、日々限りなく決断を下しつつ創られる存在、すなわち無限の可能性をもつ存在」 であり、「無限なるものとして無限なるものを求める有限者の自覚にある」(14頁)とする。  本来は、「霊的宗教的存在者の自覚」と言い換えられる人間の本質は、宗教と「深い根 源的関係をもつものである」が、戦後社会の状況は、こうした人間存在に対する本質的な 問いから目をそらし、この問いを忘却しており、これが人間不在をもたらしている根本原 因であるとする。  こうした理解に基づき、同書では、「人間とは自然的身体的存在である」「人間は人の間に 生きる社会的理性的存在である」「人間は自分自身と対話する主体的良心的存在である」「人 間の本質は絶対者との関係にたつ霊的宗教的存在である」という四つの観点を人間の本質 と捉え、宗教との関係から考察している。とりわけ、「人間は人の間に生きる社会的理性的 存在である」の項においては、人間が間柄の関係であり、「なん人もがみな社会的生活を営 み、互いに『わたし―あなた』という相互の人間関関係に生きる」としながら、「人間は社 会的、環境的存在でありつつ、それに支配されるだけでなく、それを超え、これらの条件 を、より望ましい方向に向かって変え、あるいは、新しい条件を創り出す働きをもつ存在 である」(15頁)とする。  また、「人間の本質は絶対者との関係にたつ霊的宗教的存在である」の項では、人間が 真剣に人間とは何か、いかに生きるかを問題にすれば、人間の内面にある深い、底知れな

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い矛盾、煩悶、不安を経験することになり、この矛盾の中に人間の本質がある。そして、 その克服は、人間の努力だけでは克服できず、「人間が絶対者と関係をもち、その絶対者の 愛や慈悲を信じうけることによって、はじめて、人間の矛盾を超克することができると考 えられる。これが信仰であり、この信仰において人間は自己と世界を超えた絶対者に出会 うのである。これが人間の宗教性の問題であり、そういう宗教性を自覚するところに、宗教 的人格がある」(17頁)とする。そして、「人間は自己の深さにおいて、人間である限り、何人 も、そのみにくさにもかかわらず、その煩悩熾盛であるにもかかわらず、絶対的な永遠者と 出会い、あるいは、絶対者となるのである。人間はここで有限性を自覚させられ、この人生 が一回限りでありつつ、絶対者に支えられ、その生死一切の機能の力があるがままの人間に はないことを知るのである。人間が存在する根拠が相対的な自己にあるのでなく、絶対者 や宇宙の生命や自己の本源にあることを知る。これが宗教的体験である。人間はこの絶対 者に関係をもつまえは人間のもつ矛盾、葛藤、不安、孤独、悲惨はたえないし、まことの 安心は与えられない。このような関係を自覚するまでは人間の本質はおおわれたままであ る。人は絶対者のふところ、魂の故里へかえってはじめて本当の人間の本質を理解し、実 感し、それを回復しうるのである」(17〜18頁)。ここでは、絶対者との正しい対話がおいて、 人間は自己の霊性、真の自由と責任を見出し、新生を体験できる。これが、信仰であり、 信心であるとされている。 <第二節の概要>  第二節では、「宗教的情操」教育の根源を尋ねると、「全宇宙の創造や根源原理との対話 の問題にかかわってくると考えることができる」と述べる。そして、この全宇宙の存在や 生命の統一の根拠に、神や仏があり、「このような絶対者とのかかわりが教育の本質とし ての問題になる」とした上で、「神・自然・人間の三位一体の生命統一の自覚形成過程そ のものが、宗教的情操教育の根本問題となると考えられ、ここに教育の根本義がある」(20 頁)と述べている。  つまり、教育とは宗教との接点をもつことではじめて十全な効果を得ることが可能にな るということであり、「人間は絶対者あるいは絶対的価値と交渉をもち、これに教えられ ることなしには、教育というはたらきは完成しない。教育は、教える者も教えられるもの も絶対者との関係に立つことにおいてはじめて、充分にその力を発揮しうる」(21頁)と している。  ここではまた、宗教と道徳の関係について、宗教の有無が道徳的行為にどのような差異 をもたらすかについて言及する。「宗教的立場に立つ時、自分の経験や存在を越えた絶対 的なものや永遠の生命というべきものが人格を基礎づけ、道徳のみの相対的世界観から、 人間を絶対的な世界観へといざない、これによって道徳的行為のみならず、その人の言行 すべてを確固たるものとなさしめるのである。(中略)道徳のみの世界観においては、人 間相対の中で善悪の観点からのみ人間を評価し、差別するが、宗教的な世界観に立つとき

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は、道徳的・世間的な善悪の価値判断をいちおうはみとめつつも、これを超えた立場から、 人間をより根源的にとらえようとする」(23〜24頁)という。これが同書の基本的な立場 である。  人間には絶対者や絶対的な権威によって指導される必要があり、これによって真の教育 も可能となる。そうした自覚がなければ、「ごう慢は世に満ち、まじめさ、謙虚さ、寛容さ、 冷静さ、生命の畏敬、人間愛、感謝、奉仕的態度、真の向上心などの重要な道徳的資質は ほとんど失われてしまう」(24〜25頁)こととなる。絶対者や絶対的な権威をドグマとす る科学的合理主義の立場は、道徳的資質についての理由づけがきわめて弱いというのが同 書の主張であった。 <第三節の概要>  ここでは、「宗教とは絶対者と人間との関係において成立し、その関係を人間の側より いえば信仰であり、絶対者の側よりいえば愛であり慈悲である。そこには人間が人間の力 ですべて可能だと思っている人生観や価値観の変革がある。すべては絶対者によって存立 せしめられているという方向に切りかえられることである。自己否定が真の自己肯定の道 に転じる」(26頁)と指摘する。  こうした理解から導き出される「宗教的情操」の定義は明確である。同書はこれを「絶 対者に対する絶対随順・敬虔・感謝・奉仕の心情であり、絶対者、無限なるもの、永遠な るものへの憧れであり、畏敬や崇高の感情」(29頁)であると表現し、以下のようにその 内容を説明している(27〜28頁)。  それは宗教的対象であるところの絶対者や高い価値に関する知的な認識を中心また は背景にして、これに対する帰依・崇敬・讃嘆・驚異・思慕・愛情などの感情であり、 またこれらに対して自己をおそれつつしむ謙虚・卑下・敬虔などの感情である。その 他自己の内省、懺悔、理想への誓願・献身、自己の生活感情における充実感や清浄観、 あるいは感謝・喜悦・希望などの感情生活、あるいはまた、目標をめざして自我を高 度に統御し、感情生活を浄化し安定させ、いわゆる安心立命を得る生活感情などとし てあらわれる諸特質をもっている。それはまた、一時的、一過的な情緒とは異なって、 持続的な価値感情であり自己を価値・理想に対して高めようとする教育的作用力をも ち、また、他人や社会に対する愛他的・奉仕的・犠牲的態度としてもあらわれること が特徴的である。

4.『小学校道徳価値の研究10 敬虔』における「敬虔」

 『宗教的情操の教育』が示している「宗教的情操」の理解には、神・仏といった絶対者 の存在が前提とされていることがわかる。そして同書は、その内容が、「期待される人間像」

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が示した「宗教的情操」の定義、すなわち「聖なるものに対する畏敬の念」と基本的には 「軌を一にする」(28頁)と解釈していたのである。  これに対して、「期待される人間像」の翌年に刊行された青木孝頼編『小学校道徳価値 の研究10 敬虔』(以下、『敬虔』と略)は、『宗教的情操の教育』とは明らかに「宗教的 情操」に対する理解を異にしていた。当時の文部省教科調査官であった青木孝頼によって 編集された同書には、同じく文部省教科調査官の井上治郎も執筆に加わっている。その意 味で同書は、当時の教育行政(文部省)の「宗教的情操」に関する基本的な解釈を表明し たものと位置づけることができる。  同書の説明で特徴的なことは、「敬虔」という「宗教的情操」に関する価値を対象とし ているにも関わらず、同書が「期待される人間像」には全く言及していないことである。 また、それを反映して、「敬虔」についても宗教との関連を直接には否定するような説明 が基調となっている。  たとえば、同書では、「敬虔」が常識的にみて、宗教上の領域に属する問題であり、「絶 対者に対する人間のあり方を示すことばとして、日常用いられている」23ことを認めてい る。しかし、同書は、古代ギリシャにおける「敬虔」の意味に言及し、これが必ずしも神 に限定されたものではなく、「神々ばかりでなく、ある場合には、法であり、正義であり、 支配者であり、死者であった」としながら、「敬虔」とは「まず、個人相互、家族内の人 間関係、家族対客人、個人対国家(ポリス)、国家相互の関係にみられる、秩序に対する 畏敬を意味した」24と述べる。つまり、古代ギリシャ人にとっては、「敬虔」が歴史的にい えば、人間関係を規定する徳目としての意義が先にあり、それが「次第に、神対人間の狭 い意味に限定され、宗教的色彩のみをもつようになるのである」25としている。こうした 理解を前提として同書は、次のように続ける26  「敬虔」は、必ずしも、特定の既成宗教とのみ結合した概念ではない。また、宗教 がまずあって、「敬虔」の観念が成立していたのではなく、「敬虔」の本来の意義から すれば、順序は逆であろう。「敬虔」を、ひろく、人間関係、自然一般における秩序 に対する敬虔と理解し、一つの徳目として位置づけることは、西欧における、この概 念の成立の歴史的背景から考えても、必ずしも不当ではあるまい。  また、同書で井上は、「敬虔」を「人類の歴史とともに古い、いわば原始的な素性をも つ人間の感情」27であり、「われわれの思案を越えた、あるいは思案に優先する存在に対す 23 青木孝頼編『小学校道徳価値の研究10 敬虔』(明治図書、1967年)10頁。 24 同上書、17頁。 25 同上書、18頁。 26 同上書、24頁。 27 同上書、26頁。

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るわれわれの自己否定的な情念」28であると述べる。そして、こうした「敬虔」の情念は、「道 徳的価値の一つに数えられるにしては、随分と異色のある価値である」29とも述べる井上 は、「道徳の時間」での「敬虔」の指導にも消極的である。井上は、次のようにいう30  簡単にいえば、森羅万象の無意味な意志の発動に対してえりを正した原始人の情念 の生生しい追体験、つまりは子どもたちにおける原始人の情念の生生しい覚せいを刺 激するに足りる豊富で多彩な体験の機会を提供してやればよいということに落着くか と思う。いわゆる指導は、むしろ控え目であるに越したことはないといえるかも知れ ない。そしてそのかぎりでは、制度化された学校教育の内側でよりも、かえってその 外で、家庭の両親や地域社会のおとな、あるいは年長の遊び友だちからそのときどき に受ける助言にこそ期待を寄せるべきだといえるかも知れない。  同書で展開された「敬虔」についての概念の正当性と妥当性の検討は措くとしても、同 書が「敬虔」を直接に宗教との関連を想定していないことは明らかである。しかも、井上 の言葉に象徴されるように、同書には「敬虔」という価値自体を学校教育で取り上げるこ とへの消極的な姿勢が一貫して示されている。この点においても前述した『宗教的情操の 教育』の理解との相違は明確である。

おわりに

 1986(昭和61)年の臨時教育審議会第二次答申は、「自然の変化や自然における人間の 営みを通じ、自然のもつ役割、人間と自然とのかかわり、人間のもつ可能性についての理 解を深めさせるとともに、人間の力をこえるものを畏敬する心をもたせるように努める」 という表現を示した。これを受けた1989(平成元)年度版の中学校学習指導要領では、 道徳の目標に「人間尊重の精神と生命に対する畏い敬の念を家庭、学校、その他社会におけ る具体的な生活の中に生かし」という表現が加えられた。  また、道徳の内容が四つの視点に整理され、中学校の学習指導要領では、「畏敬の念」 に関わる内容は、「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」として、以下 のようにまとめられた。 ⑴ 自然を愛し、美しいものに感動する豊かな心をもち、人間の力を超えたものに対す る畏敬の念を深めるようにする。 ⑵ 生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重するようにする。 28 同上書、28頁。 29 同上書、37頁。 30 同上書、32頁。

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⑶ 人間には弱さや醜さもあるが、それを克服する強さや気高さがあることを信じて、 人間として生きることに喜びを見いだすように努める。  この点について、文部省『中学校指導書 道徳編』(大蔵省印刷局、1989年)は、「生 命に対する畏敬の念」を加えた理由を「人間尊重の精神をより深化させようとする趣旨に よる」としながら、「生命に対する畏敬の念は、人間存在そのもの、あるいは生命そのも のの意味を深く問うときに求められる基本的な精神であり、生命のかけがえのなさや大切 さに気付き、生命あるものを慈しみ、畏れ、敬い、尊ぶことを含んでいる。これによって、 自他の生命の尊さや生きることのすばらしさの自覚を深めることができる」31としている。  この説明では、「生命に対する畏敬の念」が、「人間尊重の精神」を深化させるための理 念であり、中心であるとされている。また、この「人間尊重の精神」では、現世的な自他 の生命の尊重に偏り、さらにそれは「今日問題化している自然環境の悪化や子供の自殺や いじめ、問題行動」32といった現実的な問題への対応として導き出されている。  ところで、先にも指摘したように、「期待される人間像」によって示された「宗教的情操」 に関する定義、とりわけ、「生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念」は、その 後の学習指導要領の内容に反映されて今日に連続していると理解されてきた。確かに、学 習指導要領に掲げられた「生命に対する畏敬の念」や「人間の力を超えたものに対する畏 敬の念」が「期待される人間像」の内容と類似していることは明らかである。しかし、以 上のような学習指導要領の説明には、むしろ両者の「断絶」を認めることが可能である。  この点についての岩田文昭の指摘は重要である。岩田は、「期待される人間像」と学習 指導要領における「生命に対する畏敬の念」の間には、「微妙だがいくつかの重要な違い がある」33と述べながら、具体的に三点を指摘する。まず第一には、「畏敬の念」の対象が「生 命の根源すなわち聖なるもの」から「生命の根源」と「聖なるもの」が除かれ、「人間の 力を超えたもの」に変わっていることである。これについて岩田は、「期待される人間像」 の草案を執筆した高坂が、「神や宗教心を対象的あるいは客観的にとらえてはいない」34 しながら、「畏敬の念」の対象を「人間の力を超えたもの」として定置することは、高坂 によるもともとの理念からの「重大な変質」35であると指摘している。  また第二には、「自然」と「美」が「人間の力を超えたもの」に対する畏敬の念の前に 置かれていることである。岩田は、特定の宗教教育が公立学校の教育で禁止されている以 上、「人間の力を超えたもの」の内容は、「自然」や「美」が代表となるため「畏敬の念」 の向かう対象もそれらが特に強調される結果になっていると指摘する36 31 文部省『中学校指導書 道徳編』(文部省印刷局、1989年)12頁。 32 同上書、12頁。 33 岩田前掲論文、88頁。 34 同上論文、89頁。 35 同上論文、89頁。 36 同上論文、90頁。

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 そして第三は、「生命」に関しては、「生命の根源」という表現が姿を消し、「自他の生命」 を尊重するという表現へと変わっていること、である37。そして岩田は、こうした両者の 違いによって、「期待される人間像」に含意されていた「宗教性が対象化され平板化され ていった」38と指摘しながら、「道徳教育において『宗教』教育が屈折した形で、あるいは 変質しながら取り込まれている」39と結論づけている。  1989(平成元)年度版の学習指導要領で示された「生命に対する畏敬の念」の理解は、 1998(平成10)年度版の学習指導要領にも基本的に引き継がれ、それは2008(平成20)年度 版の学習指導要領にも連続している。また、「畏敬」については指導書において、以下の ように説明された40  畏敬とは、「敬う」という意味での尊敬、尊重と、「畏おそれる」という畏い怖という面と が含まれている。自然とのかかわりを深く認識すれば、人間は様々な意味で有限なも のであり、自然の中で生かされていることを自覚することができる。この自覚ととも に、人間の力を超えたものを素直に感じとる心が深まり、これに対する畏敬の念が芽 生えてくるであろう。  ここでは自然に親しみ愛することが「美しいもの」に感動する心へとつながり、さらに それが「人間の力を超えたものへの畏敬の念」に結びつくという順序となっている。つま りこの説明では、「自然」を通して自覚される生命全般の尊重が「畏敬の念」として理解 されており41、ここから読み取れる宗教的価値は、「自然を超越した場における原理」と してではない42  たしかに、こうした学習指導要領の特徴が「日本的な宗教自然観」43の表現であり、「自然」 と通して自覚される「畏敬の念」に宗教的な意味を認めることも可能である44。しかしそ れは、「期待される人間像」が示した「生命の根源」や「聖なるもの」の存在を前提とし、 それを向かうべき対象とした「宗教的情操」理解とは異質のものであり、両者の「断絶」 はより顕著なものとなっている。 37 文部省『中学校指導書 道徳編』(文部省印刷局、1989年)91頁。 38 同上論文、91頁。 39 同上論文、85頁。 40 文部科学省『中学校学習指導要領解説 道徳編』(日本文教出版、2008年)52頁。 41 鶴真一「道徳教育における『畏敬の念』」(科学研究費補助金成果報告書『道徳教育の実態と宗教性に 関する研究』所収、2008年3月)32頁。 42 西脇良『日本人の宗教的自然観―意識調査による実証的研究―』(ミネルヴァ書房、2004年)159頁。 43 同上書、159頁。 44 たとえば村田昇は、『「畏敬の念」の指導』(明治図書、1993年)において、平成元年度版の学習指導 要領に「畏敬」という「宗教的なニュアンスをもつ言葉が道徳教育の目標のなかに姿を現したことの意 義は大きい」(20頁)と述べている。

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 前述したように、「期待される人間像」における「宗教的情操」の定義が示されることで、 その後の学習指導要領の内容は、これを色濃く反映したものであると理解されてきた。し かし、本稿で述べてきたように、学習指導要領や指導書の記述には、「期待される人間像」 が向かうべき対象とした「永遠絶対的なもの」や「聖なるもの」としての宗教的な存在が 想定されてはいない。学習指導要領や指導書の記述に貫かれているのは、神とよばれ仏と よばれる存在が、「人間の力を越えたもの」への畏敬と敬虔の具現化にほかならない、と いう理解であり、「期待される人間像」との定義との間には、むしろ明確な「断然」が認 められる。  ところが、この「断絶」がこれまで自覚的に意識されることはなく、このことが、「宗 教的情操」をめぐる論議それ自体がほとんど噛み合わず錯綜する要因ともなっていったと いえる。その意味では、「期待される人間像」から「聖なるもの」などが除かれた「生命 に対する畏敬の念」や「人間の力を超えたものへの畏敬の念」という学習指導要領の表現 は、あえて「宗教性を中和させた表現」45であるということもできる。いずれにしても、 両者の「断絶」を認識し、「断絶」の意味を問う視点から「宗教的情操」に関わる本質的 議論を積み重ねることなしに、道徳教育における宗教の問題を整理し、新たな議論の地平 を切り拓くことは困難である。 45 氣多前掲論文、47頁。 (なお、本稿は、拙著『道徳教育の取扱説明書―教科化の必要性を考える』学術出版会、2012年の内容 と記述において重複のあることをお断りしておきたい。)

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中学校社会科における「宗教にかかわる内容」の記述分析

 押谷 由夫  (昭和女子大学大学院教授)

はじめに

 本研究の課題の一つは、日本の学校教育において「宗教にかかわる内容」がどのように 教えられているのかを明らかにすることである。その一環として、前回は、小学校の社会 科に絞って分析した。本稿では、同様の枠組みを使って中学校の社会科について明らかに していく。  なお、ここでいう「宗教にかかわる内容」とは、「宗教に関する内容」と同時に、「宗教 がかかわるであろうと思われる内容」を含んでいる。  分析の方法としては、次の3点から行う。 ① 現行の学習指導要領における記述から ② 文科省発行の『中学校学習指導要領解説書社会科編』における記述から ③ 現在発行されている教科書における記述から  分析の視点としては、次のことを主とする。 1.どのような事柄が書かれているか ① 特にどのような宗教が取り上げられているか ② どのような宗教にかかわる人物や文化財(図書も含む)が取り上げられているか 2.どのような記述になっているか ① どのような文脈で書かれているか ② どの程度の知識を求めているか(宗派の教説等) ③ 宗教に対する寛容の精神の育成についてはどうか ④ 宗教に対する安全面での対応に関してはどのように記述されているか ⑤ 宗教的情操の育成についてはどうか ⑥ 宗教と人間の在り方や生き方との関連についてはどうか  といった側面から分析していく。

1.『中学校学習指導要領』の社会科に見られる「宗教にかかわる内容」に関

する記述

 まず、中学校学習指導要領の社会科において、「宗教にかかわる内容」が、どのように 記述されているのかを見ていく。

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1 社会科の目標  各教科における学習内容は、教科の目標にかかわって考えられている。従って、社会科 における「宗教にかかわる内容」の記述も当然に社会科の目標に規定される。  中学校社会科の目標は「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面 的・多角的に考察し、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養 を培い、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を 養う」となっている。小学校の目標「社会生活についての理解を図り、我が国の国土と歴史に対 する理解と愛情を育て、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民 的資質の基礎を養う」と比較すると、小学校の社会科での学びを基礎として、さらに広い視野か ら社会への関心を高めることや、諸資料に基づく多面的・多角的な考察による学びや、公民とし ての基礎的教養の習得を一層考慮することを求めている。  小学校での学びと同様に、社会生活についての関心や理解、我が国の国土と歴史に対す る理解と愛情において、当然宗教がかかわってくる。また、公民としての基礎的教養や国 際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質においても、 宗教に関する教養や理解が不可欠である。 2 各分野の目標及び内容  次に、各分野の目標と内容における記述を見ていきたい。  [地理的分野]  目標としては、地理的事象、地域的特色や課題、地理的な見方や考え方、地理的認識などの理 解や分析、表現等を中心にしていることが書かれている。宗教にかかわる内容は直接的には記述 されていない。  指導内容については、(1)世界の様々な地域と(2)日本の様々な地域に分けて書かれている。  (1)世界の様々な地域 においては、「内容」には宗教という言葉は出てこない。しかし、「イ  世界各地の人々の生活と環境」においては、「自然及び社会的条件と関連付けて考察させ、世 界の人々の生活や環境の多様性を理解させる」に関して、「内容の取扱い」において「生活と宗 教とのかかわりなどに着目させるようにすること。その際、世界の主な宗教の分布について理解 させるようにすること」と明記されている。  また、「エ 世界の様々な地域の調査」において、「世界の様々な地域または国の調査を行う際 の視点や方法を身につけさせる」となっている。その中に宗教も入ると考えられる。  (2)日本の様々な地域 においては、「内容」にも「内容の取扱い」にも、宗教という言葉は 出てこない。「ウ 日本の諸地域」において、「(ア)歴史的背景を中核とした考察」や「(カ)生 活・文化中核とした考察」、さらに「エ 身近な地域の調査」などには、宗教にかかわる事柄が 取り上げられると考えられる。

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 [歴史的分野]  目標には、歴史的事象、我が国の歴史と世界の歴史、我が国の伝統と文化、文化や生活の発展 や向上、歴史上の人物や文化遺産、他民族の文化や生活などの学習を通して我が国の歴史に対す る愛情や尊重する態度、国民としての自覚、国際協調の精神、歴史的事象を多面的・多角的に考 察し公正に判断し適切に表現する力を育てることが述べられている。宗教という言葉は直接出て こないが、このような目標を達成するためには、宗教に関する学習が不可欠である。  内容は、六つに分けられている。「(2)古代までの日本」の「ア」において「世界の古代文明 や宗教のおこり、�と当時の人々の信仰」を、「ウ」において「仏教の伝来とその影響」を取り 上げることが述べられている。  「内容の取扱い」においては、「「宗教のおこり」については、仏教、キリスト教、イスラム教 などを取り上げ、世界の文明地域との重なりに気付かせるようにすること」が、「ウ」で「神話・ 伝承などの学習を通して、当時の人々の信仰や物の見方などに気付かせるように留意すること」 と記されている。  また、「(3)中世の日本」においては、「イ」で「禅宗の文化的影響」について触れられている。 さらに「(4)近世の日本」では、「ア」で「ヨーロッパ人来航の背景とその影響」が記されてお り、「内容の取扱い」では「新航路の開拓を中心に取扱い、宗教改革についても触れること」となっ ている。   [公民的分野]  目標には、個人の尊厳、人権の尊重、自由・権利と責任・義務の関係、民主主義、現代の社会 生活、世界平和の実現と人類の福祉の増大、現代の社会的事象などについての学習を通して、公 民として必要な基礎的教養、現代社会についての見方や考え方、社会の諸問題を自ら考えようと する態度、自国を愛し平和と繁栄をはかることの大切さの自覚、事実を正確にとらえ、公正に判 断し、適切に表現する態度を育てることが述べられている。そのためには、宗教にかかわる学習 が不可欠だといえる。  「内容」には、四つに分けて書かれている。「(1)私たちと現代社会」においては、「ア私たち が生きる現代社会と文化」「イ 現代社会をとらえる見方や考え方」が記されており、「内容の取 扱い」において、アでは、「「現代社会における文化の意義や影響」については、「科学、芸術、 宗教などを取り上げ、社会生活とのかかわりなどについて学習できるように工夫すること」と記 されている。  また、「(4)私たちと国際社会の諸課題」について、「内容の取扱い」において「(エ)国際社 会における文化や宗教の多様性についても触れること」となっている。  なお、社会科全体にわたる「指導計画の作成と内容の取扱い」において、「3 内容の指導に 当たっては、教育基本法第14条及び第15条の規定に基づき、適切に行うように配慮して、政治 および宗教に関する教育を行うものとする」と記されている。

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2.『中学校学習指導要領解説 社会編』における分析

 次に、『中学校学習指導要領解説 社会編』の記述の分析を行う。すでに指摘した学習 指導要領の関係する部分に関してどのような解説をしているかを中心に見ていく。 1 社会科の目標の解説  社会科の目標を三つにわけて説明している。一番目の「広い視野に立って、社会に対す る関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し」については次のように述べら れている。まず、「広い視野」とは、「見方や考え方に関することと、国際的視野という意 味を含んでいる」としている。「社会に対する関心を高め」は、「生徒自ら社会的事象を見 出し、それについて課題を設定して追及する学習」の重視を意味している。「諸資料に基 づいて多面的・多角的に考察する」ということは、「情報化の進展に合わせて重視される ものでもあり、「資料を適切に収集、選択、処理、活用し、それらの資料に基づいて多面的・ 多角的に考察し公正に判断する態度」を身につけられることを求めている。  それらの育成にとって「宗教にかかわる学習」は極めて重要であるといえる。 2 地理的分野の目標と内容の解説  目標の説明においては、宗教にかかわる内容に関係するような記述は見られない。  内容においては、「内容の取扱い」に書かれている「生活と宗教とのかかわり」につい て「世界にはさまざまな宗教があり宗教とのかかわりの深い生活が営まれていること、同 じ地域でも宗教その他の社会的条件による生活の違いがみられることなどに着目させる」 と記されている。また、「その際、世界の主な宗教の分布について理解させる」について は「「仏教、キリスト教、イスラム教などの世界的に広がる宗教の分布について分布図を 用いて大まかに把握させ、歴史的分野の学習とも関連付けて理解させることを意味する」 と書かれている。  また、「世界の諸地域」の学習の例示として、「(ア)アジア:<主題例>人口急増と多 様な民族・文化 “なぜアジアでは人口が急増し、民族、文化が多様なのか”という問い を立て、アジアにおける人口急増地域の分布、産業発展と人々の生活のかかわり、民族と 宗教分布、宗教と生活のかかわり、民族や宗教分布、宗教と生活のかかわり、宗教の伝播 や人口の地域間移動の推移などを追究すると、アジアの人口問題の出現や多様な民族構成、 文化形成の背景が分かり、アジアの地域的特色の理解につながる。」と示している。 3 歴史的分野の目標と内容の解説  「目標」の解説の中には、宗教に関しては書かれていない。  「内容」の解説においては、二か所で取り上げられている。一か所は、「世界の古代文明 や宗教のおこり」について、「仏教、キリスト教、イスラム教などのおこった地域がそれ

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