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Society under the Nuclear Plant Accident and Katada’

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(1)

原発事故災害下の社会と「片田三原則」

-「セルフ・ヘルプ・グループ」の考え方を媒介にして-

木村 競*

(2012 年 11 月 16 日 受理)

Society under the Nuclear Plant Accident and Katada’s Three Action Principles

Kiso KIMURA * (Received November 16, 2012)

はじめに

 2011 年 3 月 11 日の地震および津波においては,相当に多数の住民たちに対して,予測と対処の 力を越えた事態が圧倒的な形で現前した。しかも,福島第一原子力発電所からの放射線物質の飛散 は,相当に多数の住民にとって,これから何十年あるいはそれ以上に渡って,予測と対処の力を越 えた事態が現前し続けることを引き起こし続けている1)。 

 東日本大震災の際,群馬大学大学院教授・広域首都圏防災研究センター長の片田敏孝氏の指導の 下,二〇〇四年以来津波防災教育に取り組んだ釜石市では,三〇〇〇人近い小・中学校の児童・生 徒の内,津波の犠牲になったのはわずか五名であった。この児童・生徒たちは片田氏の提唱する避 難の三原則──以降,提唱者の名前から「片田三原則」と呼ぶ──を実践したと伝えられている。

「片田三原則」とは「想定にとらわれるな」,「その状況下において最善を尽くせ」,「率先避難者たれ」

である。

 本論考2)では,「片田三原則」について検討する。理由は二つある。第一に,「片田三原則」が 適用されるのは,大きな地震があり避難する必要がある津波が来ることが想定されるという状況下 であるが,それはまさに,予測と対処の力を越えた事態が現前しているという状況であり,その意 味で,福島第一原子力発電所からの放射性物質の飛散により今後しばらくは続くであろう状況と共 通性があるからである。第二に,このような事態において,まず,めざされるのは,生き延びるこ とであるが,「片田三原則」は実際に多くの人々を生き延びさせたからである。

 この論考は,端的に言えば,「片田三原則」は原子力発電所災害3)下の社会の行動原則となり得 るか,有効かを考えてみようとするものである4)。その際,「当事者」ということを中心に「セルフ・

茨城大学教育学部哲学・倫理学研究室(〒310-8512 水戸市文京2-1-1; Laboratory of Ethics, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).

*

(2)

ヘルプ・グループ」の考え方を媒介にする。

 まず,この「片田三原則」のそれぞれの原則がどのような含意をもつかを考える。

 「想定にとらわれるな」は具体的には「ハザードマップをそのまま信じてはいけない」というこ とを意味している。なぜならば,ハザードマップは,「人間がいわば勝手に津波の大きさを想定し ている」(片田 2012.2 p.43)が,「自然は人間の予測を超えた力で襲いかかる」(片田 2012.2 p.53)

からである。

 すなわち,この原則は,一般的に捉えれば,人間がかかわらざるを得ない,人間以外の(災厄を 与える可能性のある)もの(この場合は「自然」)については,ある時点の状況はそれの過去の状 況に規定されるという,人間が行う予測の前提がなり立たないということを含意していると言い得 る。

 「その状況下において最善を尽くせ」は具体的には,例えば,ひとまず津波が来ないと思われる 高い場所に避難したとしても,より高い場所に避難できるならば,さらにそこへの避難をせよ,と いうことを意味している。「地震で揺れたとき,どんな津波が来るかは誰にもわかりません。わか らない以上,そのときどきの状況下でベストな行動がとれるように,最善を尽くすしかありません。」

(片田 2012.2 p.53)とあり,「想定にとらわれるな」原則をふまえての避難原則である。

 ここで留意が必要なのは,上記に「そのときどきの状況下で」とあるように,また「できること は避難することだけ」(片田 2012.3a p.68)と言うように,何でもできるという前提のなり立たない という状況下での「最善」だということである。しかも,このような意味で「最善を尽く」したか らといって,助かるかどうかわからないということである。

 したがって,この原則は,一般的に捉えれば,行動できることが限定される一定の状況下では,

目的(この場合「生き延びること」)の実現に関して,事前に,確実にそれを実現する手段(この 場合「どこどこまでの避難」)を想定することはできないということを含意しているということが できる。

 「率先避難者たれ」は具体的には,他の人が避難しなくても率先して避難しろ,ということを意 味している。この原則は二つの意味を持つ。端的には「まず自分の命を守ることを最優先に行動する」

ということであるが,もう一つ,いわゆる「正常化の偏見」対策 という意味を持つ。大きな地震 があったということは,避難する必要がある津波が来るという知らせであるが,自分に都合のわる い情報は小さく見積もって,避難をしないことが多い。しかし,人が避難を始めたという「同じ意 味を持つ二つ目の情報」があれば「今がその時としか思いようがない」(片田 2012.2 p.61)となり,

避難を始める。つまり,最初に自分が率先して「逃げる」という決断をして行動することで,みん なを救うことができるというのである。

 したがって,この原則は,一般的に捉えれば,危機回避行動(この場合は避難)をとる必要があ ることが共通理解としてある場合には,或る者の危機回避行動が他者の危機回避行動を誘発すると いうことを含意しているということができる。もし,危機回避行動を自愛行動と呼ぶならば,この 原則は,このような場合は,自愛行動は他者の自愛行動を誘発し,結果として利他行動になるとい

(3)

うことを含意していることになる。

 ここで,「片田三原則」を一般的に捉えた場合の含意を列挙すると以下のようになる。

①人間がかかわらざるを得ない,人間以外の(災厄を与える可能性のある)ものについては,あ る時点の状況はそれの過去の状況に規定されるという,人間が行う予測の前提がなり立たない。

②行動できることが限定される一定の状況下では,目的の実現に関して,事前に,確実にそれを 実現する手段を想定することはできない。

③危機回避行動をとる必要があることが共通理解としてある場合には,或る者の自愛行動は他者 の自愛行動を誘発し,結果として利他行動になる。

 このような「片田三原則」の「含意」をまとめることで,以下のような社会を想定できる。すな わち,その社会のメンバーは,予測できない災厄が生じる可能性の中で,完全な目的-手段関係を 想定できずに生きているが,危機回避行動の必要について共通理解があるので或る者の自愛行動が 結果として利他行動になる,という社会である。これを「避難行動者が形成する社会」と呼ぶこと もできるだろう。

 では,このような社会は我々が生きている社会と異なるものであろうか。

 我々は常に,人間以外の(災厄を与える可能性のある)ものと関わっている。また,我々は常に,

行動を制限する一定の状況下で行動せざるを得ない。学会の説明などでよく使われる例を使えば,

我々は,学会終了後に建物から道路に出た時に突然暴走してきた車にひかれるかもしれないし,そ の際,我々はとっさに 10 メートルジャンプして車をよけることはできないのである。つまり,「片 田三原則」の最初の二つの含意は,実は,我々が生きている社会のあり方と同じなのである。その 限りでは,「避難行動者が形成する社会」は我々が生きている社会と共通性があるということになる。

 これはある意味では当然だが,しかし,ある意味では驚くべきことである。なぜなら,前者につ いて言えば,「片田三原則」はまさに我々が生きている社会での避難原則として考えられ,実効性 があったものなのであるから。後者について言えば,「片田三原則」は,大きな地震があり避難す る必要がある津波が来ることが想定されるという,極めて限定された状況下での危機回避行動原則 として考案されたものであるが,それは実は,特にそのような非常時であることを前提としてはい ないということを意味しているからである。

 ここから導かれる問いは二つある。

 第一に,我々が生きている社会というのは,実は(大きな地震等という特異な出来事がなくても)

常に,「大きな地震があり避難する必要がある津波が来ることが想定される」というものと類似し た状況にあるのではないか,という問いである5)

 第二の問いは三つ目の原則に関わる。三原則が実効性をもったのは三つ目の原則を含んでのこと である。つまり,それにしたがった行動は危機回避行動をとる必要が少しでもあることが共通理解 としてあるという状況において行われた。すなわち第二の問いは,我々が生きている社会において,

(4)

このような共通理解があるのか,という問いである。

 現時点における,第一の問いに対する答えはひとまず明白であろう。少なくとも福島第一原子力 発電所からの放射線物質の飛散が起きて以降は,少なくともその放射性物質の影響がある地域にお いては,これから何十年あるいはそれ以上に渡って,類似した状況にあるというのが答えである。

近距離・遠距離に飛散した放射性物質は,飛散及びその後の拡散の影響を受ける相当に多数の住民 にとって,これから何十年あるいはそれ以上に渡って,予測と対処の力を越えた事態が現前し続け ることを引き起こし続けている6)

 しかし,第二の問いを考えた後に,再度,この問いについて考える。

 第二の問いについては一つの迂回路を設定したい。それは,依存症の人々等による当事者同士の 会いわゆる「セルフ・ヘルプ・グループ」が提起する論点の検討である。これらの会の多くでは,

まず自分の依存対象に対する無力を認めることから離脱作業を始める。したがって,例えば,アル コール依存症者の当事者同士の会は,自分がそれに対して無力であることを認めたアルコールの影 響から「避難」する者のみをメンバーとする社会と見なすことができ,その意味では「避難行動者 が形成する社会」と類似しているからである。

 しかし,「セルフ・ヘルプ・グループ」 には様々なタイプがあり,また,「アルコホリック・アノ ニマス」およびその「12 のステップ」に依る系統に限ったとしても主張や活動が多様で,言説の 的確な引用も難しい。ここでは,私の責任で以下の論点を取り出し,それを検討することにしたい7)

S①ある危機的状態(例えばアルコール依存)からの離脱のプロセスは,自分が当面する問題に 対して無力であり,自分のことをどうにかすることができないことを認めることから始まる こと

S②離脱のプロセスの進行において,自分の誤りを全てみとめること

S③離脱のプロセスの進行において,離脱の方向へ導く自分を超えた大きな力を認めること S④危機的状態からの離脱には当事者間の関わりが有効であること

 ここで,「津波に襲われて死んでしまうこと」と,「アルコール依存によって死んでしまうこと」

を,それぞれが決定的破局として避けようとしていることとして対応させるなら, ひとまず,大き な地震があり,避難する必要がある津波が来ることが想定されるという状況下にある者と,「セルフ・

ヘルプ・グループ」による離脱プロセスの途上にある者とが対応することになる。

 このように考えると,「片田三原則」の「想定にとらわれるな」と「その状況下において最善を 尽くせ」を合わせたものと,S①「離脱のプロセスは,自分が当面する問題に対して無力であり,

自分のことをどうにかすることができないことを認めることから始まること」とS②「離脱のプロ セスの進行において,自分の誤りを全てみとめること」を合わせたものが,極めて類似しているこ とが見えてくる。

 つまり,「想定にとらわれるな」は「自然は人間の予測を超えた力で襲いかかる」ということを

(5)

意味している限りでS①「自分が当面する問題に対して無力であり,自分のことをどうにかするこ とができないことを認めること」に対応し,言い換えれば,その予測が当たらないこともあること を意味しているからS②「自分の誤りを全てみとめる」ことに対応する。そして,「その状況下に おいて最善を尽くせ」とは,事前に,確実に目的を実現する手段(この場合「どこどこまでの避難」)

を想定することはできないから,できるだけのことをするという意味であり,つまり,うまくいか ないこともありうる(「最善を尽く」したからといって助かるかどうかわからない)ことを認めて いるのだから,これもS②「自分の誤りを全てみとめる」ことに対応する8)

 では,S③「離脱のプロセスの進行において,離脱の方向へ導く自分を超えた大きな力を認める こと」はどうであろうか。

 この「自分を超えた大きな力」を何か実体的なものと考える必要は必ずしもないであろう。自分 が当面する問題に対して無力であり,自分のことをどうにかすることができないことを認めている にも関わらず,危機的状態(例えばアルコール依存)から離脱するプロセスを進んでいることその ものを意味しており,ただし,自分では何ともできなかったのであるから「自分を超えた」という 修飾語が付与されていると,理解することができる。

 とすれば,それは「片田三原則」の「その状況下において最善を尽くせ」に従うことに対応する と言うことができる。つまり,「最善を尽く」したからといって助かるかどうかわからないにもか かわらず「最善を尽くす」ということは,そうすることで,決定的破局(津波で死んでしまう)か ら離脱するプロセスを進んでいることがあることを意味しているからである。

 ここまで対応づけて,先ほどの第二の問いについて考えることができる。「片田三原則」の三つ 目「率先避難者たれ」は,大きな地震が既にあり津波が来ることが想定される状況下で,危機回避 行動(この場合は避難)をとる必要があるという共通理解が形成されていれば,或る者の危機回避 行動が他者の危機回避行動を誘発するということを含意していた。先ほどの第二の問いは,我々が 生きている社会において,このような共通理解は成立しているのかという問いであった。

 「セルフ・ヘルプ・グループ」的な離脱のプロセスにおけるS④「危機的状態からの離脱には当 事者間の関わりが有効であること」は,まさに,或る者の危機回避行動が他者の危機回避行動を誘 発するということに対応する。では,この場合の共通理解とは何か。

 ここまでの議論からして,「片田三原則」の場合,地震と津波の関係に関する科学的知見やこれ までの出来事についての歴史的知識が,危機回避行動(この場合は避難)をとる必要があるという 共通理解の内実でないことは明らかであるが,同様に,例えばアルコール依存という危機的状態か ら離脱の場合も,アルコールの害に関する科学的知見,アルコール依存者の行為の倫理的問題性に 関する知識を共に持っていることがS④「危機的状態からの離脱には当事者間の関わりが有効であ ること」を支える共通理解の内実でないことは明らかである9)

 共通理解の内実は,実は,単純である。「片田三原則」の場合は「危機回避行動(この場合は避難)

をとる必要があるということを<心底>10)感じていること」,つまり,「あくまで生きたい,津波 から逃げたいと思い続けること」であり,「セルフ・ヘルプ・グループ」的な離脱のプロセスにお

(6)

いては,「離脱の方向へ導く自分を超えた大きな力を<心底>認めること」,言い換えれば,「離脱 したい,かつ離脱できると<心底>思っていること」である。それを,当の集団のメンバーが共通 理解として有している時,或る者の危機回避行動が他者の危機回避行動を誘発し,当事者間の関わ りがそれぞれの離脱のプロセスを進める。

 しかし,ここで重要なのは,この共通理解がどのようにして形成されるのかということである。

 ここで,当事者同士の会,「セルフ・ヘルプ・グループ」であるということの決定的に重要な意 味が浮かび上がってくる。つまり,この共通理解がどのようにして形成されるのかと言えば,この 会,グループに入会し,その中での関わりにおいて形成されていくとしか言いようがない。なぜなら,

これに参加する前にそのような理解が生じるのであれば,この会,グループに入る前に危機的状態 からの離脱できていたはずだからである。では,その入会前と入会後の違いは何か。それは,この 会,グループのメンバーが全て当事者であると言うこと以外にない。つまり,メンバーの全てが当 の危機的状態の当事者であることが,この会,グループの中での関わりにおいて,「離脱の方向へ 導く自分を超えた大きな力を<心底>認めること」,言い換えれば,「離脱したい,かつ離脱できる と<心底>思っている」という共通理解が形成されることを可能にしているのである11)

 このことを参照するならば,津波からの避難という「片田三原則」の場合も,「危機回避行動(こ の場合は避難)をとる必要があるということを<心底>感じていること」,つまり,「あくまで生き たい,津波から逃げたいと思い続ける」という共通理解が形成されるのは,皆が全て当事者である 場合ということになる。

 では,どのようにして,皆が当事者,すなわち,津波に襲われて死んでしまうという危険にさら されており,そこから<心底>避難しようとしている者になるのであろうか。

 これは,単純に,大きな地震のあった地域にいる人が当事者であるというわけにはいかない。そ のような人の相当部分は当事者であることを受け入れようとしない,つまり,逃げなくても大丈夫 と思ってしまうからである12)

 片田の説明には,「皆が当事者になる」ことが生じていると捉えられる,二つの時点が出てくる。

 東日本大震災時の津波からの避難の際,「片田三原則」が有効であった実例として,次のような 例がよく語られる。自宅に,学校から帰った小学生とその祖父・祖母がいて地震が起き,子どもは 一緒にすぐに逃げようとしたが,祖父母は大丈夫だといって初めは取り合わなかった。しかし,子 どもが必死に,時には泣いて懇願するので一緒に逃げることにした。そうしたら助かった,という ものである。まさに,この一緒に逃げることにした時が,皆が当事者になった瞬間である。そして,

この場合は,この瞬間に,「あくまで生きたい,津波から逃げたいと思い続ける」という共通理解 が形成され,或る者(孫の小学生)の危機回避行動が他者(祖父・祖母)の危機回避行動を誘発す る。この三つの転換が同時に起こっているのである。

 これが,既に地震が起こってからの当事者化の時点というなら,地震が起こる前にも皆が当事者 になることが想定できる。それは防災教育に関わる。

 片田は,「脅しの防災教育」は忘れられ,「知識の防災教育」は想定にとらわれるからだめで,「姿

(7)

勢の防災教育」を提唱する。「片田三原則」を身につけることがそれにあたるが,もう一点,重要 な内容を含む。それは「子どもを介して親を巻き込む」ことである。学校で「片田三原則」を身に つけてきた子どもが家に帰り,親に「僕は絶対に避難するから,(僕を迎えに来ないで)お父さん,

お母さんも必ず(自分たちで)避難してね」と言い,それを家族で確認し合うことを中心としてい る。これは,直接的には,子どもを迎え行く,あるいは親が迎えに来るのを待つことで,逃げ遅れ るのを避けるためであるが,地震が起きた際には,家族の一人一人がそれぞれが,津波に襲われて 死んでしまうという危険にさらされているから,そこから避難しようとしている者,つまり当事者 になることを確認し合っていることになっている。それは,この確認は,同時に「あくまで生きた い,津波から逃げたいと思い続ける」という共通理解の形成であり,それによって,或る者(子の 小学生)の危機回避行動が他者(親)の危機回避行動を誘発する条件が整ったことになる。

 そして,ここでの家族の会話は,当事者になることを確認しているだけではない。それは,「セルフ・

ヘルプ・グループ」に当てはめるならば,「自分の無力さを認めること」,(想定にとらわれないの であるから)「自分の(これまでの)誤りを認めていること」,それでも(避難の仕方を相談してい るのであるから)「危機的状態から離脱するプロセスを進んでいること」,これらを含む当事者間の 関わりを実践していることにもなっているわけである。

 片田の提唱する防災教育においては,さらに広い範囲の当事者化が行われていると考えることが できる。つまり,家庭だけではなく,通学区域の地域を巻き込み,津波避難マップを作る,(そこ に子どもが来れば必ず一緒に逃げる)「こども津波ひなんの家」の指定を行う等の学習を行ってい く。「「こども津波ひなんの家」に指定された世帯は,自分一人だったら逃げないかもしれないけれ ど,よそ様の子どもを預かるのだから,逃げざるを得なくなります」(片田 2012.3b p.96)という ことも起きる。

 これら,家庭と地域を「巻き込んだ」片田の提唱する防災教育はまさに「状況に埋め込まれた学 習」というべきものである。それには「小さい子どもや,足の不自由なお年寄りなどを乗せて逃げる」

訓練や,「助ける人」になるために何が必要なのかを考え,学んでいくことも含まれている。ここには,

「率先避難」的な主張に対する反論としてよく言われる「自分では逃げられない人はどうするのか」

という問いへの応答も含まれている。どうにかできるのは実はこの時点においてなのであり,どう するのかと言えば,「自分では逃げられない人」もまた当事者になれる方策を皆が当事者となって 探っていくのである。精確に言えば,このような関わりの中で,「自分では逃げられない人」もま た当事者になるのである。つまり,「防災教育」といっても,これは,その地域に住む人々が,自 分が当事者であることを次第に認めていく活動の延長線上に,さらに自分が当事者であることのよ り複雑な意味を,当事者間の関わりの実践によって理解していくプロセスということができる。つ まり「セルフ・ヘルプ・グループ」的な活動なのである13)

 ここまで進めて,先ほどの第二の問いに答えることができる。「片田三原則」の三つ目「率先避 難者たれ」は,大きな地震が既にあり津波が来ることが想定される状況下で,危機回避行動(この 場合は避難)をとる必要があるという共通理解が形成されていれば,或る者の危機回避行動が他者

(8)

の危機回避行動を誘発するということを含意していた。先ほどの第二の問いは,我々が生きている 社会において,このような共通理解は成立しているのかという問いであった。

 すなわち,答えは,子どもの「逃げよう」という懇願に祖父母が同意する,あるいは,子どもが 親に「僕は絶対に避難するから,お父さん,お母さんも(僕を迎えに来ないで,自分で)必ず避難 してね」と言い,それを家族で確認する,あるいは,地域に住むひとすべてが「生き延びる」こと を目ざして,その仕方を探っていく,これらと同じような関わりが生じていれば,共通理解は成立 している,というものである。これらと同じような関わりが生じていれば,そこに関わっている人 は,すべてが「生き延びる」ことに対応することの当事者になっていくからである。そして,そこ では,或る者の危機回避行動が他者の危機回避行動を誘発する。

 ここで,さらに第一の問いへの答えと合わせて論を進めることができる。

 第一の問いは,我々が生きている社会というのは,実は(大きな地震等という特異な出来事がな くても)常に,「大きな地震があり避難する必要がある津波が来ることが想定される」というもの と類似した状況にあるのではないか,という問いであった。

 これへの答えは,少なくとも福島第一原子力発電所からの放射線物質の飛散が起きて以降は,少 なくともその放射性物質の影響がある地域においては,これから何十年あるいはそれ以上に渡って,

類似した状況にある。近距離・遠距離に飛散した放射性物質は,飛散及びその後の拡散の影響を受 ける相当に多数の住民にとって,これから何十年あるいはそれ以上に渡って,予測と対処の力を越 えた事態が現前し続けることを引き起こし続けている,というものであった。

 これを合わせて考えれば,この論考の根本の問い,「片田三原則」は原子力発電所災害下の社会 の行動原則となり得るか,有効であるか,に答えることもできる。

 すなわち,なり得る。しかも,危機回避におそらく有効であろう,と。ただし,ア)子どもの「逃 げよう」という懇願に祖父母が同意する,あるいは,イ)子どもが親に「僕は絶対に避難するから,

お父さん,お母さんも(僕を迎えに来ないで,自分で)必ず避難してね」と言い,それを家族で確 認する,あるいは,ウ)地域に住むひとすべてが「生き延びる」ことを目ざして,その仕方を探っ ていく,これらア)イ)ウ)と同じような関わりが生じている限りにおいて。

 ここで,当事者化,共通理解形成の「時点」の問題を考えておく。

 ここまで,「津波による危害」については,ア)は「大きな地震が既にあり津波が来ることが想 定される状況」で,イ)ウ)はその地震が起きる前の場面だと,考えてきた。しかし,ここで留意 すべきは,後者も,「いつかは避難すべき津波が来ることが想定される状況」,つまり,何もしなけ れば「津波による危害」がいつかは必ず生じる状況であるということに変わりはないということで ある。

 では,「放射線による危害」の場合はどうなるか。「津波による危害」と「放射線による危害」を

(9)

対応させた場合,「大きな地震が既にあり津波が来ることが想定される状況」に対応するのはどの ような状況であろうか。大きく言って二つの考え方があるだろう。第一には,「何らかの事故があり,

想定以上の放射性物質の飛散・拡散が生じている状況」である。今の状況はこの意味で「原子力発 電所事故災害」が継続している状況となる。しかし,もう一つの考え方も取り得る。それは「人間 が人為的に原子力エネルギーを利用するようになった状況」を対応させるものである。この状況に なることで,それ以前に比べて,格段に大きい「放射線による危害」が生じる可能性が生じたのだ から。しかし,「事故」かどうかは別にしても,格段に大きい「放射線による危害」が生じるには 何らかの出来事が起こる必要があると考えて,この発表は基本的に第一の考え方にそって論を進め てきた。

 しかし,「津波による危害」の場合と同じように,「事故」や「格段に大きい「放射線による危害」

につながる何らかの出来事」が絶対に起きないということはあり得ないのであるから,「人間が人 為的に原子力エネルギーを利用するようになった状況」とは,「いつかは対応が必要な放射線によ る曝露が起こることが想定される状況」,つまり,何もしなければ「放射線による危害」がいつか は必ず生じる状況であるということに変わりはない。

 そう考えると,実は,二つの時点を区別することは,「津波による危害」においても「放射線に よる危害」においても,本質的には意味がないのである。時点の区別は,実は,(「津波による危害」

に即して言えば)大きな地震が既に起きている場合には,イ)ウ)の関わりを行うことは事実上時 間的に不可能であるので,関わりはア)に限定される,という区別にすぎない。

 この議論をふまえて,ア)イ)ウ)のような関わりを原子力発電所災害下の社会に即して説明す れば,次のように言うことができる。

 ア)は,例えば,原子力発電所事故発生直後の発電所近隣において,或る人(たち)の放射線に よる危害を避けるためにすぐにも避難しようという強い訴えに対し,それ以外の人たちが,(納得 はしないが)(いやいやかもしれないが)(大事な人の訴えだからかもしれないが)(その態度に心 動かされたからかもしれないが)同意して,一緒に緊急避難する(危機回避行動をとる),という ようなものである。

 イ)は,例えば,放射性物質の飛散,移動,濃縮等が進み,かつ進行中で,ある地域の放射線量 が一定程度高いことは解っていても,外部被曝,内部被曝どちらについても詳細がわからず,また 生活がそれぞれに異なっていることで想定しうる被曝原因もバラバラだという状況の中で,「放射 線による危害」についてのそれまでの想定にとらわれず,自分ができる限りの最善の危機回避行動

(避難,放射性物質の除染,摂取する食品の選別等々)をとり,それを率先して行うという行動原 則で行動しようとする人が(たち)が,それ以外の人たちに,「我々は(危険を感じたら)できる 限りの最善の危機回避行動をとるから,あなた方も(自分たちで判断して,想定にとらわれず,で きる限りの)危機回避行動を必ずとってね」と言い,お互いにそれを確認し合う,すなわち,言わ れた側も(一定程度納得して)同意する,というようなものである。

 ウ)は,イ)と同じような状況――実はこれは現在,そしてこれから何十年,あるいは何百年続

(10)

くであろう我々の社会の状況に他ならない──において,そして,この状況にある人々が「放射線 による危害」以外のことについては立場も考え方も千差万別であることを認めた上で,それにもか かわらず,それぞれの人が「放射線による危害」から逃れる(それぞれの人がそれから生き延びる)

ことを目ざして,その仕方を探っていく関わりである。このような関わりにおいては,「どうした ら放射線による危害から逃れられるかわからない人」にも,「放射線による危害から逃れる術を持 たない人」にもすべて,同じ当事者になっていくことで,「放射線による危害」から逃れる可能性 が開かれることになるであろう。また,この関わりは,関わっていく人々が,「放射線による危害」

から逃れようとする活動によって,さらに自分が当事者であることのより複雑な意味を,当事者間 の関わりの実践によって理解していくプロセスである。つまり,これもまた「セルフ・ヘルプ・グ ループ」的な活動なのである。

 このウ)のような関わりは,福島第一原子力発電所 ( 事故 ) 災害下にあって,おそらく,「放射線 による危害」対応という意味を超えた意義をもつだろう。というのは,この災害下にあって,「既 に当事者意識を持つ者」(これには「事故」以降,「原子力発電所建設」以降,「人間が人為的に原 子力エネルギーを利用するようになった」以降,「身近にホットスポット発見された」以降等の様々 な類型がある)と「当事者であることを受け入れようとしない」者との間の社会的分断があるが,ウ)

のような関わりは,このような分断のある種の乗り越えだからである。

 ただし,ここで重要なのは以下の二点である。

 第一に,このウ)のような「放射線による危害」から逃れる(それから生き延びる)ことに関す る関わりにおいては,「既に当事者意識を持つ者」の知識や判断が正しいことを認めて,「当事者で あることを受け入れようとしない」者が,「放射線による危害」から逃れようとする活動の当事者 になるわけではないということである。もし,このような関わりであるならば,それは,「既に当 事者意識を持つ者」の「想定」に(いわば裏返しに)とらわれていることになり,「想定にとらわ れるな」という「片田三原則」の第一に反する。

 第二に,このウ)のような関わりにおいては,現実には「既に当事者意識を持つ者」の多くが有 しているある種の「恐怖感」,ある種の「切迫感」を共有することを求める必要はないということ である。共に当事者となることで共有するのは,「放射線による危害」から逃れる(それから生き 延びる)ことをめざすということだけである。

 つまり,このウ)のようなそれぞれの人が「放射線による危害」から逃れる(それぞれの人がそ れから生き延びる)ことに関する関わりとは,それぞれの人がもつ放射線その他に関する知識,判 断,感情その他の相違によって妨げられることなく,共にそれぞれの人が「放射線による危害」か ら逃れる(それぞれの人がそれから生き延びる)方途を探り,実践していく活動なのである。そし て,そうである限りにおいて,この関わりは,分断の乗り越えでもあることとなる14)

1) 津波災害を含む東日本大震災および原子力発電所災害は犠牲者の数,被害の大きさ,住民の生活に対する 影響の残る期間の長さにおいて,甚大であることは言うまでもない。その意味で特異な出来事ではある。

しかし,それがそのまま社会のあり方を特異に変える出来事であることは意味しない。かえって,震災及

(11)

びその後の復興のプロセスによって,震災以前から進行している変化が加速した(つまり,社会のあり方 は持続している)という面もある。例えば,過疎化の進行。また,広くは知られていなかった(つまり,

前から在った)関係が顕になるということもある。例えば「原子力村」。この発表は,「3.11 以降,社会が 変わった」ということを言いたいわけではない。一連の出来事の中で浮かび上がった或る考え方の可能性 を探る試みである。

2) 本論考は以下の学会発表をもとに,その後の考察を加えたものである。木村競「避難行動者が形成する社 会 ―片田敏孝氏の避難三原則とセルフ・ヘルプ・グループ―」2012 年 10 月 13 日,日本倫理学会第 63 回大会(日本女子大学目白キャンパス)自由課題発表。

3) 「原子力発電所事故」と言わず,「原子力発電所災害」とする理由は以下である。地震および津波自体はあ る特定された自然現象として語ることができるが,それが人間生活に被害を与えた時には災害を生じさせ たと言われ,あわせて「震災」と呼ばれる。それに合わせれば,「原子力発電所事故」は特定されうる或る 物理的現象のプロセスを呼ぶ時に使うべきであり,人間生活に被害を与えているならば「原子力発電所 ( 事 故)災害」と呼ぶべきである。

4) 片田の著作は多数あるが,ここでは主に以下を参考にした。

  片田敏孝 2012.2 『子どもたちに「生き抜く力」を 釜石の事例に学ぶ津波防災教育』

  片田敏孝 2012.3a 『命を守る教育 3.11 釜石からの教訓』

  片田敏孝 2012.3b 『人が死なない防災』

5) 2012 年 9 月 15-16 日に東北大学文学部を会場にして「ハイデガー・フォーラム第七回大会」が開催された。

15 日の景山洋平氏報告「自然の経験と共生の創造」では以下の議論が展開された。「本発表では,後期ハ イデガーの「大地」概念に定位して,生活世界的な自然の経験と,これに対する技術的対処の 本来的・

非本来的なあり方を考察した。その結果は次のとおりである。第一に,自然の原初的経験とは,「何が起こ るかわからない」や「いつまで続くか分からない」といった,行動の意味的脈絡の不意打ち的な≪解体≫

の経験である。第二に,社会の相互共同的なコミュニケーションの連関において,結果として,この不可 測性のリスク感覚が動機付けの効力を失う事が自然の「立て組」の基盤となり,これにより,人間を置き 去りにした技術の自己目的化が可能となる。第三に,未来世代がこの「いつまで続くか分からない」自然 を自らの生の場所として肯定できるように下ごしらえする事が,現在世代の我々にとって,自分自身の立 脚する自然のリアリティを肯定的に引き受けるための道である。」(発表時のハンドアウトより)このハイ デガー=景山の「大地」と「立て組」を,この発表における「予測と対処の力を越えた事態が現前するこ と」と「想定」に対応させると,発表要旨に記した「人間の力を越えたもの・働きにどのように対処する か,それをどのように把握するかということに関して,古来,様々な知恵が形成されてきた」ことの一例,

しかも現代的な一例としてハイデガーの議論を挙げることができる。

6) この原子力発電所 ( 事故 ) 災害における「予測と対処の力を越えた事態」について,より詳しく述べれば以 下のようになる。まず,「何時の事態か」ということに関しては,現在と未来の事態。次に,「(放射性物質・

放射線の)何に関しての事態か」ということに関しては,少なくとも二つの意味。第一には,放射性物質 がどこに,どれだけの量,存在しているのかという点に関して。第二には,放射線が人間にどのような影 響を与えるかということに関して。さらに,「誰の予測と対処の力なのか」ということに関しては,単純な

「専門家」と「一般人(非専門家)」という区分ですませることはできない。この極めて錯綜した事態全体 についての専門家などはいない,つまり,どんな「専門家」も必ず「一般人(非専門家)」でもある。また,

(12)

「一般人(非専門家)」といっても,様々な情報にアクセスする/できる人と,そうでない人がいる。よって,

そもそも 「予測と対処の力を越えた事態が現前し続けている」「相当に多数の住民」の内包も外延も決めよ うがないのである。

7) セルフ・ヘルプ・グループについては主に以下に拠る。

  平野かよ子 1955『セルフ・ヘルプ グループによる回復 アルコール依存症を例として』

  葛西賢太 2007『断酒が作り出す共同性 アルコール依存からの回復を信じる人々』

  また,「自己」をサイバネティクス的に捉えることに関して「アルコホリック・アノニマス(AA)」につ いて早い時期に注目したグレゴリー・ベイトソン(『精神の生態学』1972 佐藤良明他訳 1987)も参考に した。

  [葛西賢太 2007 p.90]に引用されている「十二のステップ」を下に示す。

1. 私たちはアルコールに対して無力であり,思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。

2. 自分を超えた大きな力が,私達を健康な心に戻してくれると信じるようになった。

3. 私たちの意志と生きかたを,自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。

4. 恐れずに,徹底して,自分自身の棚卸しを行い,それを表に作った。

5. 神に対し,自分に対し,そしてもう一人の人に対して,自分の過ちの本質をありのままに認めた。

6. こうした性格上の欠点全部を,神に取り除いてもらう準備がすべて整った。

7. 私たちの短所を取り除いて下さいと,謙虚に神に求めた。

8. 私たちが傷つけたすべての人の表を作り,その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちに なった。

9. その人たちや他の人を傷つけない限り,機会あるたびに,その人たちに直接埋め合わせをした 10. 自分自身の棚卸しを続け,間違ったときは直ちにそれを認めた。

11. 祈りと黙想を通して,自分なりに理解した神との意識的触れ合いを深め,神の意志を知ること,それを 実践する力だけを求めた。

12. これらのステップを経た結果,私たちは霊的に目覚め,このメッセージをアルコホリックに伝え,そし て私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。

  [AA 2002;85-86 ゴチック強調は原文のまま ] 8) よって,精確に言えば,大きな地震があり,避難する必要がある津波が来ることが想定されるという状況 下にあっても「片田三原則」に従わない者は,「セルフ・ヘルプ・グループ」的な離脱のプロセスを知りつつ,

自分でどうにかできると思っている(自分の無力さを認めず,自分の誤りを認める気がない)者,つまり「セ ルフ・ヘルプ・グループ」に参加しない者に対応するから,このような者は,実は「セルフ・ヘルプ・グルー プ」による離脱プロセスの途上にある者とは言えないこととなる。 cf. 注 9,注 12

9) そもそも,いずれの場合も,これらの知見,知識を持っている者が危機回避行動をしないことが,「片田三 原則」や AA 的な「セルフ・ヘルプ・グループ」が必要な理由である。cf. 注 8,注 12

10) ここで<心底>という言葉を使った理由は以下である。「心」という言葉の日常的用法では,「心」とは実 体的なものとされているわけではない。そうではなくて,或る人の在り方のうち,他者からすぐにはわか らない,理解できないもので,同時に,他者とは異なるその人独自のもので,他者のそれとは同じ扱いが できないものことを指している。思考,感情,性格などが心の内実として想定されるのは前者により,心 が身体と対比されることが多いのは後者による。ここに言う<心底>とは,このような日常的用法の広い

(13)

意味の「心」の「底」からという意味である。「底」に関して言えば,アルコール依存において,もう,ど うにもならない,言い訳のできない現実を突きつけられることを「底突き hitting the bottom」といい,こ うなることが,アルコールに対して無力であり,思い通りに生きていけなくなっていたことを認める一つ の通路となるとするが[葛西賢太 2007 p.56,p.93],そのような意味での「底」でもある。

11) ここでの「入会」と「その中での関わり」の関係は,まず当事者であることを認めて(=「入会」),さら に自分が当事者であることの意味を理解していく(=「その中での関わり」)ということができる。このあ たりについてはジーン・レイヴ,エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加』

(1991 佐伯胖訳 1993)の議論が参考になる。「正統的周辺参加」の典型となり得る「徒弟制」の学習の一 例として「アルコホリック・アノニマス(AA)を通して断酒中のアルコール依存者となる過程」が挙げ られている。「AA の主な働きは,個人のライフ・ストーリーを作り上げていくプロセスを通して,アイデ ンティティを再構築し,そのストーリーに伴って,語り手の過去と未来の行為の意味を再構築することに ある」( 同書 p.61)。

12) 「当事者であることを受け入れようとしない,つまり,逃げなくても大丈夫と思ってしまう」人とは注 8 で 述べた人のことである。津波警報が発せられる地震の後に必ず多くの人を飲み込む津波が来るとは限らな いから,これらの人もたいていは津波に遭わずに命を失わないで済む。一方,アルコール依存の場合は永 続的な断酒をしない限り,死亡あるいは社会的生活を送れない状態になる可能性が極めて高い。ここには 大きな違いがあるように見える。しかし,本当に津波が来れば,そのような人と「片田三原則」に従う人,

つまり自らが当事者であることを受け入れた人との生き延びる可能性の差は極めて大きく,一方,AA 的 な「セルフ・ヘルプ・グループ」が永続的な断酒の可能性において,数少ない極めて有力な方法であるこ とは広く認められており,ここには明らかな類似性がある。よって,先ほどの「違い」は津波警報を出す「基 準」とアルコール依存と認定する「基準」の厳しさの「違い」から来ると考えることができる。後者の判 断は,医療の専門家の判定にしても,家族や周囲の人間の判断にしても,慎重あるいは回避的である。さ らに,本人においては「底突き」が必要とされるほどである。アルコール依存に限らず,依存症が「否認 の病」と言われる所以である。

13) 注 11 参照。

14) このウ)のような関わりという「状況に埋め込まれた学習」は真の「放射線教育」いや「放射線学習」で あろうが,これを進めて行くことは,(片田の言い方を転用すれば)「この地に住むための作法」(片田 2012.3b p.116)であろう。

参照

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