はじめに
筆者は,前々稿「学校教育と倫理−教員養成における倫理学の役割− その1 予備的考察」1)で,
教員養成における倫理学・倫理学的思考の役割を見出すための準備的考察を行った。
それをふまえ,前稿「学校教育と倫理−教員養成における倫理学の役割− その2 心のノートと 道徳教育」2)では,昨今の学校教育における重要な動向である文部科学省による「心のノート」の 配布と活用推進に関わる諸問題を取り上げ,具体的問題に即して教員養成における倫理学・倫理学 的思考の役割の考察を開始した。
今回取り上げるのは,学校における人権教育である。学校教育における人権の扱い方のある一面 を指摘し,人権教育の「場」としての学校を一つの社会ととらえ,それをふまえて人権教育につい ての教員養成における倫理学・倫理学的思考の役割を考える。
1 思いやりと人権
筆者は,一九九四年から二〇〇五年まで茨城県教育研究連盟研究大会において「人権保障と共生 の教育」分科会の助言者をつとめた。最初の数年間は,研究報告は年に一,二本,しかも内容は同 和教育,あるいはいわゆるニューカマーの児童・生徒をどう受け入れるかという問題に限られてい た。しかし,やがて,報告数が増えるようになり,扱われる内容も,学校教育の全般にかかわるよ うになった。この報告の「拡大」に伴って目立つようになったのは,報告される実践に「児童・生 徒の思いやりの心を育てる」ということが含まれるようになったことである。
学校教育と倫理−教員養成における倫理学の役割− その3 学校における人権教育
木村 競*
(2007年11月30日受理)
School Education and Ethics (3)
Kiso KIMURA* (Received November 30, 2007)
茨城大学教育学部倫理学研究室(〒310-8512 水戸市文京2-1-1; Laboratory of Ethics, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)
*
この変化は以下のように解釈することができるだろう。当初は人権という考え方を学校での教育 実践の中にどう取り入れたらよいのかについてとまどいがあったが,「相手の人権を尊重する」とい うことを「相手を思いやる」ということとを結びつけることによって,学校での児童・生徒のふる まいに即して人権の重要性を教員自身が確認することができ,児童・生徒の指導についての見通し を持てるようになった,と。
「思いやりの心を育てる」ということはこれまでの学校教育全体の中で重要視されてきたことであ る。それと結びつけることで,学校での人権教育が広がりを持てるようになったことは否定される べきことではないだろう。また,人権についての「知識」を教えることはできても,それが児童・
生徒の実際の行動につながらないということは度々指摘されることであるが,児童・生徒の実際の 行動に関係する思いやりとの結びつけが,このような限界をこえる一つの手だてであることも確か であろう。茨城県教育委員会が小学校,中学校,高等学校,盲・聾・養護学校に配布している冊子『人 権教育指導資料 人権に関する学習の展開事例集−学校における人権教育−』においても,「思いや りの心を育てる」ことは重要な要素となっている3)。
しかし,この結びつけには問題もある。以下,四点を指摘する。
第一に,相手に対して思いやりをもてるというのは,相手に対して何らかの共感をもてるという 条件を満たした場合においてのみであろうということである。すなわち「好きではないし,よく理 解できない」相手に対して思いやりをもつのは難しい。しかし,人権とは,そのような相手にも認 めるべきものである。人権という考え方のこのような根本が,思いやりとの結びつけによって曖昧 になる,強く言えば否定される危険がある。
第二に,「思いやりをもつ」というのは,もつ側に即した言い方である。つまり,ここでは思いや りをもつ側のみが主体となっている。この非対称性は,往々にして,思いやりをもたれる側を客体 的な存在にとどめ,その主体性を無視することにつながりかねない。しかし,人権とは,誰もが社 会を構成する主体であると考えるところから出発する考え方である4)。ここでも,人権という考え 方の根本が,思いやりとの結びつけによって曖昧になる,強く言えば否定される危険がある。
第三に,さらに言えば,思いやりは,もつ側に「余裕」がある,強く言えばもつ側が優位にある ときに可能な感情である。しかし,特に人権をもつことが重要なのは社会的に弱い立場にある者で あり,人権をもつことで社会の構成員として対等な立場に立つことができる,というのが人権とい う考え方の根本である5)。思いやりの過剰な強調は,「強者」,「弱者」の区別を保存する働きをする 危険がある。
第四に,思いやりは「心のあり方」である。本来,人間同士の現実の社会的関わりに関するもの である人権という考え方が,思いやりとの結びつけによって内面的な問題になることで,現実の社 会的関わりが見えなくなる危険も指摘しておくべきであろう6)。
2 人権とは何か
考えてみれば不思議なことであるが,人権とは何かということに関して,社会的に共有された明 確で端的な定義・説明がないにもかかわらず7),人権教育ということが推進されている。先ほどの冊
子『人権教育指導資料 人権に関する学習の展開事例集−学校における人権教育−』においても,
冒頭でいくつかの説明を併記する形の記述を行っている8)。ここでの,記述の仕方は以下のように なっている。目的(何のために)という点から,「人が人らしく生きていくために社会によって認め られている権利」,「私たちが幸せに生きるための権利」。誰がもつものかという点から,「人種や民 族,性別を超えて万人に共通した一人ひとりに備わった権利」。それを有していることの根拠とい う点から,「誰もが生まれながらにして持っている9),誰からも侵されることのない基本的権利」。そ して,何がそれに含まれているかについては,「世界人権宣言」と日本国憲法が引き合いに出されて いる。
しかし,学校において人権教育を行うということから考えるなら,これはあまりに一般的であろ う。「世界人権宣言」と日本国憲法で示されている内容を学校で教えるということは可能だろうが,
先ほど述べたように,その「知識」を児童・生徒の実際の行動にまでもたらすことは難しいと言わ ざるを得ない。よって,これも先ほど述べたように,思いやりとの結びつけという傾向が生じる。
では,思いやりとの結びつけとは別の方向で,学校において人権教育をすることに役立つ,人権 理解はないのだろうか10)。
ここで,提案したいのは,人権を,社会を成立させるために,その社会の誰もがもつ「大前提」
の権利という理解を行うことである。この理解の特徴は,以下の点にある。
第一に,人権という考え方が,ヨーロッパ近代において,社会はその構成員たる個人から出発し て考察すべきであり,社会のあり方は構成員が決めていくことができるという考え方と不即不離で 成立してきたという,歴史的事情に整合的であること。
第二に,こう考えるならば,何が人権に含まれているかについては,社会に参加する,社会を作 り上げることとは何か,そのためには何が必要か,何が認められるべきかということをどう考える かで変わってくることになるから,人権の「中身」は時代と共に変わるということと矛盾しないこ と11)。
第三に,大きくは人類全体,小さくは学校や地域社会という,それぞれの社会に即して,その社 会にとっての人権とは何かということを考えることを可能にすること。そして,この考察は,それ ぞれの社会に属する人々の実際の行動に即して行われることになるから,人権についての「知識」
が実際の行動につながらないという問題が生じにくいということ。
特にこの第三の点が,学校における人権教育にとって,きわめて有効であることは明らかであろう。
3 学校を「人権を尊重する社会」に
学校もまた一つの社会である。
児童・生徒,教員,さらには保護者,地域の住民,このような人々を構成員として,学校は一つ の社会を構成している。学校という社会のあり方は,より広い社会から要請される法律,社会規範 等の下でという制限があるにせよ,その構成員によって決められている,また決められていくこと である。それぞれの構成員は,構成員である限り,社会のあり方を決めていくことに関して,「大前 提」として認められるべき権利をもっているはずである。この権利こそが,学校という社会におけ
る(基本的)人権ということになる。
無論,学校という社会において,すべての構成員がまったく同じ権利をもつと想定することはで きない。しかし,逆に,例えば(より広く強い権利が認められるであろう)教員のみが学校という 社会のあり方をすべて決めていくと想定することもできない。学校という社会に参加する,学校と いう社会を作り上げることとは何かということをどう考えるかによって,各構成員にはどのような 権利が必要か,どのような権利が認められるべきかということが,定まってくる。権利の広さ強さ は比較的な違いがあるに過ぎない。
学校という社会のあり方を,このような人権的な考え方に従って構想していくこと,そして,そ こで定まってくる各構成員の人権を尊重し,その人権にもとづいて行動することを保障し,推奨す ること,これらが実行されるとき,学校という社会は,「人権を尊重する社会」になる。そのような
「人権を尊重する社会」で生活することこそが,学校における人権教育の基盤であり,核心である。
そのような学校で生活し学ぶことで,児童・生徒は学校生活のあらゆる場面で自分が人権を持つこ とを実感でき,それに支えられて行動することになる。
さらに,児童・生徒の状況あるいは「発達段階」に応じて,上記の構想および各構成員の人権の 想定に参加させていくなら,児童・生徒は,学校以外の社会を「人権を尊重する社会」にしていく 力を身につけていくことになるだろう。児童・生徒が今生きている社会も,これから生きていくだ ろう社会も,学校の外の現実の社会は必ずしも「人権を尊重する社会」というわけではない。しか し,学校で「人権を尊重する社会」にしていく力を身につけた児童・生徒は,それらもまた「人権 を尊重する社会」にする可能性をもつことになる。これこそが,人権教育の真の目的である。
4 人権的な考え方は開かれた,前向きの学校作りを支える
学校にとって,学校が「人権を尊重する社会」であるということの意義は,単に人権教育に役立 つということだけではない。
これからの学校は,同じような価値観をもち,互いによく理解でき,共感を持ちうるような「身 内」のみによって構成されるような社会ではあり得ない。地域に開かれれば,異なった価値観をも ち,すぐには共感などできないような人々と接さざるを得ない。学校の内部にも,「多数派」の教員,
児童・生徒,保護者からみれば,「異分子」としか思えないような教員,児童・生徒,保護者が登場 する時代である。以前であれば,学校を閉じる,そんな「異分子」は排除するという「解決」方法 も可能であったかもしれない。
しかし,これからの学校にとって,そのような「解決」方法は自殺行為である。公教育の機関と しての学校は,一般社会の構成員を育てることを目的とする。現在の日本社会は,価値観の共通性 や親密な感情の共有だけで共同性の維持ができる社会ではなくなっている。そこにおいて,これま でのような「解決」方法をとれば,学校は逆に社会から孤立し,排除され,存在意義に疑問が持た れるということになるだろう。
学校の「内部」と「外部」との間,「多数派」と「異分子」との間には互いに「思いやり」は成立 しない。しかし,学校の「外部」,「異分子」は確実に存在する。人権的な考え方こそが,互いの存
在を否定しないで済むために現在の我々が有している唯一の方法であろう。「外部」あるいは「異分 子」をも包摂する社会を想定し,「外部」の人々あるいは「異分子」もその構成員として認め,構成 員である限り「大前提」として認められるべき権利を「内部」と「外部」,「多数派」と「異分子」
双方に想定し,それをお互いに尊重する,という形で「社会的関係」築く以外に,互いの存在を否 定しないことは難しい。
このような「社会的関係」を可能にするのが人権的な考え方であり,その意味で,人権的な考え 方は開かれた,前向きの学校作りを支えるものなのである。
5 人権的な考え方を身につけた教員の養成と倫理学的思考
このように学校を「人権を尊重する社会」にできるか,その鍵を握っているのは教員である。で は,そのような教員を養成するために,倫理学はどのような役割を果たすことができるだろうか。
前々稿でも述べたように,教員養成教育のあり方が教員としての活動を規定するという点に関し ては,以下の三つの側面に整理できる。第一に,知識的側面である。これには学生が学ぶ教科内容・
指導法・児童生徒理解に関する知識,現行の教育制度についての知識,これら全ての成立過程につ いての歴史的理解等が含まれる。第二に,経験的側面である。これには教育実習を代表として,模 擬授業,「フレンドシップ」事業等,学生が実際に教育的活動を行うことが含まれる。第三に,モデ ル的側面である。これは教員養成教育の担当者たる大学教員が果たす「モデル」としての役割のこ とである。これらにそって考えてみよう。
知識的側面に関していえば,人権概念,人権的な考え方についての知識を持つことが必要である ことは言うまでもないが,それがすぐに学校を「人権を尊重する社会」にする行動につながらない のは,児童・生徒と同様である。また,その知識内容も問題である。必要なのは,人権的な考え方 は,それが成立したころの社会について,それとは「別なように」あることはできないかという思 考スタイルで形成されたことを知ることであろう。この思考スタイルこそ,前々稿でも述べたよう に,倫理学的思考のスタイルに他ならない。
経験的な側面についていえば,学内における模擬授業等は価値観等を同じくする閉じられた集団 において行われることが多いということに留意すべきであろう。そのような場では,人権的な考え 方が必要になる問題が生じる可能性は低い。その意味で,教育実習や「フレンドシップ」事業等の 大学の外での教育的活動経験が重要となる。
その意義は二つある。一つは,そのような場では人権的な考え方が必要になる問題と出会う可能 性があるということ。もう一つは,そのような場に「出る」ことそのものが自らの「外部」と接す る経験だということである。しかし,このどちらにしても,学生にとっては自分の価値観や,大げ さに言えば「生き方」が相対化されるという経験を伴うこともあるだろう。場合によっては,学生 にとってなかなかにきびしい事態である。しかし,かえってこのような経験を伴ってこそ,人権的 な考え方によって「社会的関係」築くことの意味を体験的に理解することができる。そうであるな らば,教員養成教育に必要なことは,学生にこのような経験の意味を事前に理解させ,経験の最中 においては彼らをしっかりと支えることである。
ここで,モデル的側面の重要性が浮かび上がる。大学という社会が「人権を尊重する社会」になっ ていてこそ,その中で学び生活する学生は自分が人権を持つことを実感し,行動し,人権的な考え 方を身につける。そのような社会を築こうとしている大学教員の姿は,モデルとして学生たちを支 えることになるだろう。すなわち,大学とりわけ教員養成学部は,自らの「外部」の人々あるいは「異 分子」もその構成員として認め,構成員である限り「大前提」として認められるべき権利を「内部」
と「外部」,「多数派」と「異分子」双方に想定し,それをお互いに尊重する,という形で「社会的 関係」築く作業を続ける必要がある。
このような作業の継続を可能にするのは,「内部」の「多数派」の考え方に対し,「別なように」あ ることはできないかと考える倫理学的思考のスタイルであろう。ここに,教員養成教育における倫 理学的思考の根本的な役割を見いだすことができる。
注
1) 『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第55号,2006年,379-385頁.
2) 『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第56号,2006年,185-201頁.
3)第28集,平成18年3月,茨城県教育委員会.
4)人権という考え方がまとまった形で示されたものとしては,一七八九年のフランス「人権宣言(人および市民の権 利宣言)」が典型であり,日本においては一七四六年公布の日本国憲法ということになる。これらはいずれも,社 会の転換期に示されたものであり,新しい社会作りのための「指針」という意味をもった。そのめざすところは,
それまでの社会のように限られた人間だけではなく,誰もが社会のメンバー(強く言えば社会のあり方を決める担 い手)になる,というものであったことを想起すべきである。
5)注4)で述べた方向は,人権は,現実的には,「弱い立場」の人が,「権力」(を持っている者)に対して,「社会」に 参加し,作り上げる者である/になるために機能する,ということを意味する。
6)前稿「学校教育と倫理−教員養成における倫理学の役割− その2 心のノートと道徳教育」参照。
7)例えば,学習指導要領で「人権」という言葉が出てくる数少ないものである「中学校学習指導要領 第二章各教科 第二節社会 第二各分野の目標及び内容 公民的分野」でも,定義・説明はない。
8)前掲冊子,2頁.
9)この「生まれながらにして持つ」という言い方の問題については,稿をあらためて,ナショナリズムとの関係から 論じることにしたい。
10)だからといって,人間の社会的連帯にとって「思いやり」が重要でないというわけではない。「思いやり」を生み出
すような親密感情はそれなくしては人間の社会性がスタートできないものであると同時に,究極の目標である。し かし一方,人権という考え方も,その中間において,「思いやり」や親密感情だけでは共同性の維持が難しくなった 社会に欠かせないものである。4で述べるように,現在の日本社会はそのような社会であると考える。
11)現代の日本社会での「基本」的考えに沿ったものが日本国憲法にある「基本的人権」ということになる。