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Misuzu Kaneko’s Way of Seeing Toru O

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金子みすゞのまなざし

生越達*

(2010 年 11 月 30 日受理)

Misuzu Kaneko’s Way of Seeing

Toru OGOSE* (Received November 30, 2010)

はじめに

 小論においては,金子みすゞの童謡を取り上げて,その童謡のなかに内在する他者をめぐる両義 性について考えてみたい1。金子みすゞは大正期の童謡詩人である。当時,日本は童謡の最盛期で 北原白秋,西條八十,野口雨情といった童謡詩人が活躍していた。そこに現れたのが金子みすゞで あった2。みすゞは彗星のように現れ,西條八十によって高く評価されるが,童謡が発表された時 期が短期間だったこともあって,まもなく社会から忘れ去られてしまう。

 こうしたみすゞ3を再発見したのが矢崎節夫であった。彼はみすゞの弟の上山雅輔を通して『美 しい町』『空のかあさま』『さみしい王女』という三冊の自筆の遺稿童謡集が存在していることを知 る。そこには 512 編の童謡が書きためられていた。

 甦ったみすゞの童謡は,再び世の中に認められるようになる。みすゞの童謡全集も発刊され,そ の生涯がドラマや映画で演じられるようにもなった。「私と小鳥と鈴と」をはじめいくつかの童謡 は教科書にも載せられるようになる。「私と小鳥と鈴と」は広く子どもたちにも受け入れられ,「み んなちがって,みんないい」というフレーズに多くの子どもたちが心を動かされた。

 それでは,どうしてみすゞは現代に受け入れられたのだろうか。そして現代の子どもたちの心は みすゞの童謡に何を感じているのだろうか。私には,表面的に語られていることを超えて子どもた ちの心に響いている何かがあるように思われた。そこで,この小論においては,みすゞの童謡を読 み解くことにより,少しでもみすゞの童謡の深層に迫れたらと思う。はじめに,みすゞを再発見し た矢崎節夫のみすゞ像を整理することから始めたい。それは,矢崎節夫のとらえ方が現代における みすゞ受容の王道だと思われるからである。

茨城大学教育学部教育学研究室(〒310-8512 水戸市文京2-1-1; Laboratory of Education, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)

*

(2)

1. 矢崎節夫のみすゞ像

 矢崎は 21 世紀をみすゞのまなざしの世紀だと言っている。「二十一世紀は,すべての存在との共 生きの世紀,金子みすゞのまなざしの世紀です」 4。つまり,矢崎によれば,みすゞはすべての存 在との共生を謡った詩人であるという特徴をもち,そしてそのことが現代に甦る理由だということ になる。みすゞの童謡が国語や道徳の授業で取り上げられるのも,こうした共生の思想が影響して いるのかもしれない。矢崎は次のようにも言う。「みすゞのまなざしとは,地球と,そして,地球 を越えた宇宙とも,向かいあい,ひびきあい,こだましあうまなざしです」5。刑部が「表記され た言葉のすべてのもの,海・空・光・木・草・道・山・鳥・日・月・星・風・花・魚等に対して,

慈しみや,優しさや,思いやり,暖かさや,温もりの熱い思いが素朴な形でひしひしと伝わってく るのだった」 6というのも,同じことを言っている。

 たしかにみすゞの童謡を読んでいると,仏教書を読んでいるような感覚に陥ることがある7。実 際に,中村薫は『響き合ういのち』のなかで,仏教思想と絡めながらみすずの思想を読み解いている。

「みすゞは,一切衆生,すべての生き物の立場から物事を見ようとしているのです」 8。「弱いもの,

虐げられている人,いのちを奪われていく人,名もなく踏みつけにされ続けている人,そういう立 場に立って物事を見ているのが,みすゞの詩なのです」9。みすゞのまなざしはすべての存在を平 等に見るまなざしであり,必然的に弱くて小さい者に優しいまなざしだということになるだろう。

 矢崎は,こうした「まなざし」は,みすゞの観察眼によって生み出されると考えている。ハエ叩 きで追おうとするとハエが逃げるのを風が吹くから逃げると言った幼きみすゞを例に出し,彼は,

みすゞがハエの見えようをとらえていたのではないかと考える。この場合の観察眼とは,自分をハ エの立場に置いて,ハエ叩きでたたかれそうになった時の世界を想像することができるといった意 味での観察眼である。つまりハエに「なる」ことを可能にするまなざしがみすゞには備わっていた ということである。

 もし矢崎の指摘が正しいとするならば,それはユクスキュルのとらえる生物の世界の描写にも近 いまなざしであり,みすゞは,物事をありのままに見ようとするといった意味で,現象学者であっ たといってもいいのかもしれない。

 上宇都ゆりほは,それを子ども性,身体性へとつなげて次のように述べている。「みすゞの詩に は大人から見た子供ではなく,子供の視点による世界が描写されており,そこに重要な役割を果た すのは極めて繊細な五感の駆使である。というよりも,身体に対する執着とさえ表現できる感受性 と,それを客体視する自我の分裂によって『子供の視点による子供の世界』の描写に成功したもの と思われる」10。ハエに「なる」ことのできるまなざしは,子どものまなざしであり,それは身体的 な感受性に基づいている。それをみすゞは,いっぽうで客体視することによって童謡を作っていく。

 こうしたまなざしは,同時に,人間中心主義のまなざしからの解放を意味することになるだろう。

それぞれの存在者に「なる」ことによって世界を眺めているからである。したがって,みすゞのま なざしは,いのちを平等にとらえることへとつながっていく。

 矢崎は,みすゞのまなざしを相手に寄り添うことと関連づけて述べている。彼はみすゞの「露」

という童謡を取り上げ,「好きとは,相手を自分の思う通りにすることではなくて,相手の尊厳を 認める」11ことだと述べる。また,「こだまでしょうか」という童謡を取り上げ,「現状を丸ごと受

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け入れる」12ことの大切さを訴えている。いずれにしても,みすゞのまなざしは相手を操作し支配 することではなく,相手を受容し,相手に自由を与えるまなざしだということになるだろう。「痛い」

という子どもがいれば,一緒に「痛みをこだましてあげること」13,泣いている子どもには一緒に 泣いてあげることが,みすゞのまなざしなのである。しかもみすゞはこうしたまなざしを,人間に 対してだけではなくすべての存在者へと注ぐ。

 人間中心主義から解放されたまなざしは,最終的にはすべての存在者に等しく価値を認めること へと導かれる。それは,たとえば「私と鈴と小鳥と」における「みんなちがって,みんないい」へ とつながっていくということになるだろう。

 そして,「みんなちがって,みんないい」は,最終的には,自らの自尊感情を育てることへとつ ながっていく。なぜなら,価値をもつ存在者の連関のなかに生まれた存在は,その連関のなかを生 きているだけで,何ができなくても,どんなにダメな存在でも,価値を有しているからである。矢 崎は,この童謡を解説する文章で次のように言っている。「〔みんなちがって,みんないい〕とは,“あ なたはあなたでいいの”,“いてくれるだけで百点満点”ということです。なぜなら,何度もお話し しているように,四十億年のいのち年の中で,だれもが自分を一度きりしかできないからです。わ たしの前にわたしはいなかったし,わたしの後にもわたしはいないのです。だれもが一度の自分を キラキラと輝かせて生きているのです」14

 いのちはつながっている。いのちは地球が存在してからの時間のなかでつながり,そして今生き ているこの世界のなかでつながっている。矢崎は,「蜂と神さま」という童謡を取り上げ,「“無限 のなかに有限があり,有限のなかに無限ある”ということ,“全体の中に部分があり,部分の中に 全体がある”ということがわかります。みすゞさんはこのことに気づいていたということが,詩人 としてのすばらしさでしょう」15と述べている。

2. 金子みすゞの両義性

 だが,はたしてみすゞの童謡は,矢崎の理解のうちにおさまるものなのだろうか。みすゞの童謡 が,矢崎の指摘するような側面をもっていることは確かであろう。だが,みすゞ自身の生の在り方 に目を向けたときに,矢崎の解釈では理解しきれない特徴がみすゞの童謡には残されるように思わ れる。

 それは,たとえば,宮本一宏のように,死を選択した際の娘との関係に触れながら問われること もある。「何故娘を連れていこうとはしなかったのか。何故,みすゞは最後に娘を抱いた写真を残 そうとはしなかったのか。公開されている写真に,娘を抱いた写真が無いのも不思議な気がする。

金子みすゞの童謡に女性らしい優しさを見るのは常套句ではあるし,その生涯や死にも,母性的な ものをみようとする傾向があるように思われる。しかし,本当に彼女のその短い人生は,封建的な 社会の中でおしひしがれた日本の伝統的な意味での母性的なものであったのであろうか」16。  みすゞの童謡が矢崎の解釈におさまりきらないのではないのかということの証拠になるような外 在的な理由として,具体的に,みすゞの童謡に,「私」が頻出することと,「さびしさ」の雰囲気が 漂っていることの二点について取り上げて考えてみよう。

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 第一は,みすゞの童謡に「私」という言葉が頻出することである。たとえば小林和子の次のよう な指摘である。「金子みすゞの童謡に『私』が多く頻出することは,すでに有山大五氏……の指摘 のあるところで,氏の調査によると金子みすゞの童謡の約三分の一の作品に『私』が登場し,一編 の中に何度も繰り返される作品もいくつかあって,その頻度は,一般のこの頃の童謡詩の二倍以上 である」17。そしてそこに小林は「大正から昭和初期の時代に地方の街に生きた一人の女性の強烈 な魂」18を見る。そして次のようなみすゞ像を提起する。「金子みすゞは『私』だけを語り続けた 童謡詩人だった。……金子みすゞは童謡世界の私小説家のようである」19

 矢崎の指摘するようなすべての存在者と響き合う優しいまなざしと,「私」の頻出とは相容れな い特徴であるように思われる。常識的に考えれば,「私,私」と自己主張をすることは,共に生き ることよりは他者との競争を生きる近代的自己,そして他者とつながれない孤独な自己を想起させ るからである。そしてそうした自己のまなざしは他者に寄り添うまなざしであるよりも,他者を支 配するまなざしであるはずではないだろうか。そうだとすれば,矢崎か小林か,どちらかの解釈が 間違っているのだろうか。それともこの二つの解釈を統合することを可能にする更なる解釈が存在 するのだろうか。

 また,第二に,みすゞの童謡の解釈として「さびしさ」に注目する研究者も多い。先ほどの小林 もそのさびしさを「絶対的ともいえる『さびしさ』」20と呼んでいる。同様のことは安田義明も指 摘している。「人が人である以上回避できない,すべてに先んじてある<さみしさ>に,みすゞ自 身が行きあたってしまっていたのではないだろうか」21。みすゞのさびしさ(さみしさ)は存在の 根底から訪れてくるさびしさだということになるだろう。したがって,決して逃れることはできな いさびしさである。「もしも<さびしさ>に癒しがあるならば,それは同じ<さびしさ>を知るこ とだけであるかもしれない」22

 そして,このさびしさの根をみすゞの家族関係に求める研究者も多い。たとえば,石内徹は,「温 かい家庭のないみすゞが,孤独であったことである。そのため,自省することが多かったのであろ う。みすゞの詩はモノローグのように,孤独な自己が自分に対して語りかけていることばのように 感じられる」23と述べている。

 実は,矢崎自身も,このさびしさには触れていて,「みすゞさんの淋しさは,対象のある淋しさ ではない」24と述べている。つまり,何かがなくてさびしいとか,誰かがいなくてさびしいといっ たさびしさではなく,人間存在に内在するさびしさだということになるだろう。矢崎は,みすゞの さびしさに触れながらも,それがむしろ他者への優しいまなざしから生まれるさびしさだととらえ ようとしている。「みすゞさんの淋しさは,親鸞聖人のいう『運命としての淋しさ』なのでしょう。

命を食べなければ生きられないという現実と,命は絶対に平等という祈り。その狭間にある淋しさ」25 と述べている。だが,この点についても,常識的に考えれば,もし共に生きるまなざしをみすゞが 生きていたとすれば,孤独を感じずにすんだのではないか,といった疑問も生じてくる。矢崎のい う共に生きるまなざしと,さびしさもまた,常識的には矛盾している。

 すべての存在者を等しい価値のもとに見ようとする優しいまなざしと,「私の強調」やみすずの 抱える「さびしさ」に矛盾があるように見えること自体に,みすゞを理解する鍵があるようにも思 われる。そこで以下においては,具体的な童謡を取り上げながら,みすゞが童謡に描いた世界につ いて考えて行きたい。私は,一見矛盾したみすゞの童謡の二つの特徴は,一つの事柄の裏と表とし

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て,つまり彼女の存在の両義性として理解できるのではないかと考えている。

3. みすゞの「私」と他者

(1) 感情移入による他者理解

 上記のようなみすゞの矛盾をどのように読み解いていったらいいのだろうか。矢崎は21世紀を,

「みすゞのまなざしの世紀」と言っているが,たしかにみすゞの童謡の特徴を「まなざし」という 言葉はよく表現しているように思われる。みすゞの童謡は世界をとらえる「まなざし」に特徴をもっ ているということがいえるだろう。別の言い方をすれば,みすゞにとって大切なのは,事象の意義

(Bedeutung, meaninng)ではなく,意味(Sinn, sense)だということでもある。みすゞのまなざ しは科学的な意義ではなく,みすゞにとっての意味を表現しようとしていて,したがってまたみすゞ の生に向かう構え,つまり身体的なまなざしなのである。みすゞの童謡は,彼女の心象風景である。

 それでは「まなざし」とはいったい何だろうか。「まなざし」という言葉には,「まなざす者」が 世界のさまざまな光景を見るといった見ることの志向性が強く意識されている。まなざしがとらえ るのは,見る者の存在を消し去ろうとするような客観的な光景ではない。誰がとらえても同じ世界 の姿ではない。まなざしは,見る者の身体がとらえた世界の光景であり,そこには見る者の身体が 受肉化している。したがって,まなざしにとらえられた光景は,気分づけられ,感情とかかわって いるのであり,見る者の身体の写し絵でもある。

 みすゞの「まなざし」には,みすゞの生きられた身体が受肉化されている。したがって,まなざ しによってとらえられた光景は,みすゞの身体が生きる世界そのものでもある。つまりまなざしに は,みすゞの人生のテーマ,彼女の「存在の意味」が凝縮されているのである。とくにすでに述べ てきたように先行研究のなかで,みすゞの童謡にとって「さびしさ」が大きな役割を担っているこ とが指摘されていたことを考えると,みすゞの童謡は生きることの孤独と深くかかわっていること も予期される。だが,それは,みすゞの詩が共生へと私たちを育むまなざしをもっていたこととど うかかわるのか,むしろ相反するように見える共生と孤独とはどうつながっていくのだろうか。

 そこで,みすゞの「まなざし」を身体という側面からとらえてみることにしよう。具体的にみすゞ の「大漁」という童謡をとりあげて,そこに内在している「まなざし」を身体に注目してとらえて いくことにする。

  大漁

朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。

浜は祭りの

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ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう。

 ここには二つの立場が表現されている。鰮の大漁を祭りのように祝う人間の立場と,多くの鰮の 仲間を捕獲され,弔い悲しんでいる鰮の立場である。みすゞのまなざしは,朝焼けのなか大漁を喜 ぶ祭りのような騒ぎを離れて,海の中へと注がれる。大漁をみんなで喜ぶハレの舞台に違和感をもっ たみすゞは,その現実を免れるように鰮を弔うイメージへとまなざしを転換させているのである。

とむらいの場のイメージを,みすゞは共感的にまなざしている。「大漁」という童謡の表現してい るのは,こうした場のコントラストである。

 それでは,みすゞが海のなかの鰮をまなざすことができたのは矢崎の言うように観察眼なのであ ろうか。だが,ここで表現されているのは海のなかのイメージであって,けっして実際の海ではない。

みすゞは海のなかに入っていって鰮の様子を確かめたわけではなく,ただ浜にたたずんでいるのだ からである。したがってこの童謡は,感情移入によって創作されていると考えていいだろう。私の ような凡人では,普通なら見えてもいない海の中の鰮に感情移入することなどできない。だが,み すゞは鰮の生きる世界に想像的に身を置くことができるのである。

 重要なのは,ここで生じていることは認知レベルでの他者理解ではないということである。みすゞ は鰮に関して何も認知しているわけではない。自分とはかけ離れた場所に存在するものに関して,

しかも想像的に感情移入ができるのがみすゞであり,それは存在者に自分を写す「見る力」だといっ てもいいだろう。そこに生じていることは存在レベルでの出来事なのである。みすゞは,実際の鰮 に出会い,対話を通して鰮を理解するのではなく,自分を鰮に移し入れて理解している。つまり,

みすゞの鰮に対する理解は,「出会いによる理解」ではなく,「感情移入による理解」なのである。

たとえば,岸睦子が,「みすゞの詩は芙美子のように現実世界を凝視しない。辛くなれば哀しいと お伽噺のなかに自分を誘い込む」26と言っているのも,みすゞの他者理解が,現実世界との対話に よって成り立っているわけではないことを意味していることになるだろう。

 それではみすゞのまなざしを主観的なまなざしととらえてしまっていいのだろうか。ただ,自分 の主観的内面を鰮に投影していると考えてしまっていいのだろうか。

 そうではないと思う。みすゞの童謡がただの独りよがりな主観の投影であるならば,多くの人々 を感動させることはできなかったはずで,そうでない以上,その童謡が主観の投影以上のものであ ることを意味するだろう。だが,上記のように考えるのは,こうした外在的な理由だけによるので はない。

 内在的な理由を考えるために,童謡の内容に戻ってみよう。それには,みすゞの感情移入の性格 について,みすゞの生(存在の在り方,世界内存在の様式)とかかわらせて考えてみる必要がある だろう。知覚世界が身体を媒介にして成立しているからには,みすゞのまなざしはみすゞの存在を 表現しているはずである。みすゞのまなざしは,精力的で力強い世界から離れ,静かな鰮のとむら いの世界へと転じていく。

(7)

 まず考えられなければならないのは,まなざしの転換の方向性である。ハレ,強いもの,表舞台,

人間的世界から,隠された世界,弱い者,裏舞台,非人間的世界への転換である。そしてそれが感 情移入によって成立しているとすれば,そこには人間的共同体に違和感を感じているみすゞ,ある いはハレの舞台になじめないでいるみすゞが表現されていると考えていいだろう。疎外感を感じて いるみすゞだからこそ,そうした自分から逃れるように,鰮の世界へとまなざしを転じる。ここに は,現実世界からの乖離といってもいい事態の描写がある。とくに大漁という祭りのような賑やか な場のなかでこそ,現実世界がみすゞに与える疎外感は大きくなるのだろう。

 それではこの疎外感はどこから生じたのだろう。このことを生活歴から説明することも可能だろ うし,実際にすでに多くの研究で明らかにされている。

 だが,ここでは,みすゞの存在の在り方に目を向けて考えてみたい。すでにみすゞの感情移入の 能力の高さについて触れた。その感情移入は,実際の他者を理解する力というよりは,すべての存 在者を私とつなげて捉える力,つまりある種の自己と他者との一体性を想定する力であった。みすゞ のまなざしは,メルロ=ポンティの言葉を使えば,人間と他者(世界)とが,同じ糸で織られてい る,あるいは同じ肉でできていることを表現しているととらえることもできるだろう。

 そしてそれはそもそも小さな子どもにそなわっている力である。たとえば,乳児がとなりの乳児 が泣くとつられて泣き始めることは,そもそも人間が他者とのつながりを生きていて,ようやくあ とになってそこから「わたし」が分離することを示している。みすゞは,この自他未分離の世界に 開かれているのである。だからこそ私たちは,みすゞの詩に懐かしさを感じる。それは,「私」が 成立する以前のいのちの根源へと導いてくれるからである。あまんきみこが「体内的な感覚とでも 名付けられる懐かしさ」27「命そのものの懐かしさ」28と呼んでいるのは,みすゞの童謡が命の根 源に触れているからであろう。

 だが,いっぽうでは,みすゞが,ことさら自他未分離の世界を表現することには,自他未分離に は生きられない現実の世界からの乖離が存在しているのではないだろうか。だからこそ,みすゞの 童謡に「わたし」がたくさん登場してくるのである。自他未分離の世界では「わたし」であること は消失していく。つまりみすゞは,子どものような自他未分離の世界と「わたし」が強調される世 界の微妙なバランスの上で生きているということになる。

 それでは,なぜ,みすゞはこうした二つの世界に引き裂かれてしまったのであろうか。それは,

主体であることに対するみすゞの過敏さにあったのではないだろうか。主体であることの過敏さは,

自己存在の自明性,さらには居場所の自明性を喪失させてしまう。つまり,みすゞの存在を不安定 にさせ,居場所を奪ってしまうのである。大漁に描かれたみすゞの自己は「私」から引き離されよ うとする自己である。大漁を喜ぶという経験の自明性を奪われ,居場所を奪われたみすゞは,自他 未分離の世界へと自分を解放することによって「私」であることの苦しさ,さびしさから逃れよう とする。その一方で,日常的には「私」をことさら強調することで主体性を維持しようとするので ある。

 みすゞは自らの居場所に関して非常にナイーブである。もっとも共同体らしい大漁のあとの祭の ような一体感をみすゞは他の人たちと共有できない。そうした場はみすゞに疎外感を与える。そこ でみすゞはまなざしを共同体の場から乖離させ,海のなかの鰮の生きる場へと転換する。まなざし は身体の属する共同体の場から,イメージの世界に移行するのである。共同体の場=現実の場はみ

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すゞを傷つけてしまうからである。だがそれでもみすゞは共同体の場にいてそして鰮のとむらいを イメージする。ということは,いっぽうでは,みすゞは共同体の場を離れることができないという ことでもある。

 こうした状況がみすゞをさびしさに追いやる。つまり共同体から完全に離れることも,かといっ て共同体のなかで落ち着くこともできない。そこに存在しながら疎外感を感じ続けなければならな いからである。共同体は,みすゞの身体と一体化しているとき,自明性の内にあるときには慣れ親 しんだものであるが,外化したとたんに違和感を与えるものになる。唾液が体内にあるときには自 然なものであるのに,外に出されたとたんに汚いものになるのと同様である。

 そして共同体が自らのアイデンティティの根拠だとすると,みすゞはつねにアイデンティティ喪 失,そして故郷喪失の危うさのなかで生きていることになる。したがってみすゞの「共に生きるま なざし」は,故郷の一時的な取り戻しとかかわっていることになる。そして故郷の取り戻しは,「子 どものまなざし」,つまり弱き存在への感情移入によって,もっとも成功するのである。なぜなら 故郷は,私以前の世界と深くかかわっているからである。 

 みすゞは「共同体としての故郷」を「私成立以前の故郷」によって置き換えようとしているよう にみえる。「感情移入によるまなざし」が先なのか,みすゞのさびしさが先なのかはニワトリが先 かタマゴが先かの議論だが,いずれにしてもみすゞのまなざしとさびしさの相互的な強めあいがみ すゞの生を規定している。

(2) 子どもとしてのみすゞ

 「共に生きるまなざし」は二つの異なるまなざしを含んでいる。

 ひとつは,みすゞのまなざしである。そして,それはもともと私たちが生来的にもっていて,「わ たし」が生まれてくる前から備わっているまなざしである。それは世界や他者と融合したままの,

感情移入を可能にするまなざしである。

 たしかに他者を他者として認知することは小さな子どもにはできない。その意味で子どもは自己 中心的であり,大人になるにつれて他者を理解できるようになると考えることができる。他者の視 点から世界をとらえることができるようになることが発達の重要な課題である。だが,いっぽうで は,「わたし」が生まれる前であるがゆえの「共に生きるまなざし」がある。みすゞのまなざしは このまなざしである。したがって,このまなざしは「子どものまなざし」である。つまり子どもで あってまた「わたし」が成立する前には自明的に成り立っていたにもかかわらず,大人になり,「わ たし」が成立してくると,いつのまにか消え去ってしまうようなまなざしである。

 もう一つの,まなざしは,他者を他者と認知し,したがってその存在者を自己とは異なる異質な 他者と認めた上での,なんとか一緒に生きていこうと忍耐づよく対話を続ける「共に生きるまなざ し」である。大人になった私たちは,ともすれば,「わたし」であることを守ろうと,他者を排除・

攻撃するということが生じる。私たちは,そうした傾向に逆らって,何とか他者と共に生きていこ うと,他者を理解し,何とか折り合いをつけていこうとすることを求められる。これは「大人のま なざし」である。「大漁」からとらえるかぎり,みすゞにこのまなざしはない。大漁を喜ぶ浜の人 間たちからまなざしは離れていってしまうからである。たしかにそうした場にみすゞは疎外感を感

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じたかもしれない。だが,それでもそうした浜の人間たちと向き合うこともできたはずである。だ が,みすゞにはごつごつした他者と出会おうとするまなざしは存在していない。

(3) みすゞの身体感覚

 ここまでの考察で,みすゞの身体が現実に根をはっていなかったことが理解できる。みすゞは童 謡を作ることで,現実とは別の身体空間を生きようとした。みすゞの身体は,浜の現実から乖離し,

イメージの場のなかで海に触れ,鰮に触れる。見る世界を転換することで,痛みを与える現実から 遠ざかることが可能になる。そのまなざしは,現実を離れることで自由自在にミクロの世界にも,

マクロの世界にも届くようになる。みすゞのまなざしは,彼女に現実の身体に縛られない自由な世 界との交渉を可能にする。それは,早坂暁が,みすゞのまなざしを「人間の目で見ているのだけれど,

同時に魚の目や鳥の目があって,コペルニクス的な大転換があって,どんでん返しがある」29と言っ たり,「俯瞰する鳥の目,クローズアップする虫の目,そして人間の目」30と言っていることと重なっ てくる。早坂は,こうしたみすゞのまなざしを「浮世絵と同じ発想」31だと言っている。みすゞの 身体は,感情移入をとおして,この世界を飛び回り,小さな世界にも入り込み,大きな世界を俯瞰 する。

 だが,現実に根づいていないまなざしは,同時にみすゞを浮遊させる。みすゞの浮遊はもともと 地盤(現実)からの乖離を伴った浮遊だからである。大漁の祭のようなもっとも共同的な場から離 れることは,故郷喪失を意味する。このことから,みすゞにとって,つねに自らの身の置き所が問 題になっていただろうことが想定される。自己を自らの生きる共同体から遠ざけることによって生 きることは,世界への根づきを奪ってしまうからである。つまりみすゞは自分の居場所に敏感にな らざるを得なかったのである。

 いっぽうでは,こうした浮遊が共同体のうちに閉ざされることから解放され,自己を超えたもの に自分の存在を委ねたいと思っている私たちを刺激することも確かである。その浮遊感がみすゞに 世界をとらえるまなざしを与える。石内徹は次のように言っている。「みすゞの詩が,現実を否定し,

モノローグのように孤独感からの解放のために書かれたとすれば,作品の基底に流れるものが,『暗 く重い』のは,当然である。みすゞは,作品を書くことで,現実の桎梏やどうにもならない生活を 一瞬のうちにはなやかに変貌させて,カタルシス(浄化)していたのである。みすゞにとって詩を 書くことは生きることと同義であったろう」32

 だが,同時にそのまなざしはみすゞから共同体とのつながりを奪い,バランスをとるために「わ たし」を強調させる。みすゞの身体は,ある意味では世界を感情移入的に理解するつながりを保ち つつも,それが,決して,現実の共同体とのつながりを意味することはなかったのである。そして だからこそ,みすゞの身体は,現実には,孤立化した身体であらざるをえなかった。

 つまり,みすゞの身体は,決して世界と融合できているわけではない。融合した世界からみすゞ の童謡が生まれてきているわけではないのである。現実社会に違和感を持ち,そしてそこから「私」

成立以前の世界,つまりは子どもの世界へと飛び立ちつつも,決して子どもの世界に安住の地を得 られているわけではない。一方では,みすゞは「私」を強調せざるを得ない近代人なのであり,だ からこそ,さびしさを生きなければならない。そしてみすゞのまなざしが「私」成立以前の世界を

(10)

浮遊するようになればなるほど,いっぽうでは,現実の世界に安住できなくなり,更にみすゞをさ びしさへと追いやるのである。

4.「私と小鳥と鈴と」をどう解釈するか

 上記の解釈を踏まえながら,多くの教科書で取り上げられている童謡「私と小鳥と鈴と」をとり あげてみよう。その理由は,一つは,多くの教科書で取り上げられている童謡だからこそもう一度 丁寧に解釈をしてみたいということがある。「みんなちがってみんないい」という言葉を私たちは どのように受けとったらいいのだろうか。もう一つの理由として,「私と小鳥と鈴と」は,「大漁」

に比べて明るさを感じさせる童謡であり,この童謡が,みすゞの別の一面を表現したものなのか,

それとも「大漁」と同じ方向性をもったものなのかを考えてみたいということがある。

私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても,

お空はちっとも飛べないが,

飛べる小鳥は私のように,

地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても,

きれいな音はでないけど,

あの鳴る鈴は私のように,

たくさんな唄は知らないよ。

鈴と,小鳥と,それから私,

みんなちがって,みんないい。

 「私と小鳥と鈴と」にも「大漁」と同様に,小鳥や鈴への感情移入があり,そして感情移入によ る現実からの乖離があると考えてもいいだろう。みすゞは大空を飛びまわる小鳥の世界,そしてき れいな音をあげる鈴の世界に思いを寄せている。それは,すでに述べてきたように,感情移入的な まなざしによる理解である。みすゞは想像の世界で,小鳥のように広い空を飛び回り,鈴のように 身体をゆすってきれいな音をだしている。私たちもみすゞの童謡を生きることによって,小さな自 己から解放されるような感覚,世界との一体感を味わうことができる。

 それは幼児的なまなざしでもある。感情移入的なまなざしは,自己と他者を区別しないが,それ は他者の身体に自己の内受容性を感じ取ることだからである。こうした自他未分化な状態をメルロ

=ポンティは「癒合的社会性」を呼んでいるが,まさにみすゞのまなざしは,この意味で他者との 癒合を前提とする一体感に基づくまなざしである。私は小鳥や鈴であり,小鳥や鈴は私なのである。

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小鳥や鈴は私を写し出す鏡である。

 だが,この童謡には,「大漁」以上に,この解放が,イメージの世界での出来事にすぎないこと が示されている。なぜなら,「私と小鳥と鈴と」は,「大漁」のように鰮の世界に行きっぱなしにな ること,小さな自己から解放された世界に居続けることを許してくれないからである。この童謡は,

つねに「私」と比較することによって「私」へと立ち戻ることを求める。

 この童謡では「みんなちがって,みんないい」と歌っているが,「私」が5度も出てくるように,

謡われているのは「私」である。ここでは,比較のなかで「私」を語っていて,しかもその比較の 対象が小鳥や鈴であることについて考えてみなければならないだろう。つまり,この童謡をよむも のは,つねによむ者の「私」の存在へと引き戻される。その意味で,「私と小鳥と鈴と」は,子ど もであることを超えようとする近代人のまなざしを備えた童謡だと言えるだろう。

 そしてそこに登場するのはみすゞの存在を仮託することのできる小鳥や鈴といった小さな存在で ある。みすゞもまた,小鳥や鈴のように,存在の価値を問われるような小さな存在なのである。つ まり「みんなちがって,みんないい」は,けっして安全な場所から訴えられているのではない。み すゞの童謡に教訓性,説教臭さを読み取ろうとする研究もいくつか存在する。たしかに,その感情 移入的なまなざしを,自らの存在から切りはなして語ることは嘘臭い。だが,みすゞは自らの存在 をそのような小さな存在に仮託して謡っているのである。つまり,みすゞにとって「みんなちがって,

みんないい」は教訓ではなく,自分の存在をかけた願いなのである。村中季衣は「みすゞにとって 童謡を書くということは,『自分の存在』をなんとか自分自身で意味あるものと認めていこうとする,

祈りにも似た作業だったのではないかと推測される」33と述べている。

 みすゞの童謡における「私」の頻出については,すでに述べた。そして「私と小鳥と鈴と」も,みすゞ における「私」の頻出する代表的な童謡の一つである。すでにみすゞの感情移入の力については明 らかにしてきた。この童謡を見ても,決して感情移入によってみすゞの自己がその対象と一体化し ているのではないことがわかる。それならば「私」を語る必要はないからである。みすゞが小鳥そ のもの,鈴そのものになってしまっているならば,そこにはすでに「私」として語る「私」は存在 していないはずである。だが,この童謡においては,あくまでも「私」は「私」であり続けている。

 そもそも比較のなかで「私」を語ること自身が,みすゞが「私」であることから自由になること ができないことを示していると考えることができるだろう。比較することのうちには,対象への一 体化と対象とは異なる「私」のあいだを揺れ動くみすゞの生の在り方が表現されている。この揺れ 動きそのものがみすゞの「存在の意味」なのである。世界には,無数の存在者による無数の生が営 まれている。みすゞは感情移入によってそれを理解している。そうした生の営みの全体からみると,

何と「私」の存在はちっぽけでどうでもいいものに見えるだろうか。それでも,まなざしは「私」

のまなざしであるほかない。「私」から自由になることなどできないのである。比較によって「私」

を語ることは,「私」を語らざるを得ないみすゞの存在を示している。

 比較によって自分を語ることは,見られる自分として自己を語ることである。「地面を早く走れ ること」,「たくさんの唄を知っていること」は,みすゞの存在そのものにとってどうでもいいこと である。だが,結局は,「みんなちがって,みんないい」は,見られる自分に注目するという自己 疎外をとおして語られるほかなかったのである。存在そのものの肯定にはたどり着かなかったので ある34。みすゞは「見られる自分」,つまり私たちの存在がすでに「~な存在」として他者の目に

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先取りされてしまっていることを,のりこえることができなかった。この世界にみすゞとして投げ 込まれていること(「被投性」)につねにこだわったからこそ,「みんなちがって,みんないい」と 言わざるを得なかったのである。つねに低い自己評価に苦しむ近代的な自己がみすゞのなかには存 在していた。

 みすゞは,対象と一体化できる世界を求めていたのかもしれない。だからこそ,みすゞの童謡は

「感情移入的まなざし」に溢れている。「感情移入的まなざし」によって世界をとらえることで「私」

以前の世界との一体感,世界と同じ糸で織られていることへと戻りたかった。だが,それはこの現 実の世界では実現しえない現事実でもある。「私」以前の状態に戻りたいという願いと,現実には「私」

としてしか生きられないという事実,それが「私と小鳥と鈴と」には表現されている。

 そして,比較の対象は,小鳥と鈴である。それは,みすゞの存在が,小さな対象に寄り添い,自 らの存在を小さな対象へと仮託していたことを意味する。ここには,みすゞの小さな存在への優し さがあると同時に,自らの存在そのものの小ささがある。みすゞは自らの存在の場,つまりは居場 所を求め続けていたのである。

おわりに

 現代におけるみすゞの受容が,その感情移入的まなざしの豊かさにあると考えるのが従来の考え 方であろう。そしてそのことはこの小論においても否定できないように思われる。だが,もう少し 詳しく見てみると,みすゞの他者とのかかわりは両義性に彩られている。一方では,感情移入的ま なざしのもとで「つながり」のなかで他者をとらえながらも,そうしたまなざしのうちに安住する ことのできないみすゞの存在が見えてきたからである。あるいは逆に,むしろ現実の世界に居場所 をもてなかったからこそ,そして自らの生きる共同体に身の置き場を得られなかったからこそ,そ うした感情移入的ななまなざしのうちに自分を乖離させたのではないかと疑われることなどが見え てくるのである。他者に開かれている(ダイアローグを生きている)からこそモノローグの内に存 在を閉じ込めようとし,だがそのモノローグにすでにダイアローグが含まれているような生である。

みすゞは「私」が成立する以前の満たされた状態へと戻りたいという願いを生きていた。

 そう考えると,みすゞの存在に,きわめて近代人的な姿,しかも「私」であることと「つながり」

を生きることとに引き裂かれ,結局は孤独を生きなければならない姿を見ることができるように思 われてくる。みすゞが不安定な「私」を生きなければならなかったからこそ,みすゞのまなざしは 意識化され,童謡として結晶化していった。そして,豊かな感情移入的まなざしをもっていたが故 に人間的な共同体になじめず(「世人(das Man)」として生きられず),その疎外感を満たすため にますます感情移入的なまなざしを研ぎ澄ましていったみすゞの生き方は,現代の子どもたちのさ びしさともつながるように思われてくる35。世界に開かれていることが逆に過敏さとなって自らを 閉ざすことになってしまうという矛盾を生きなければならないさびしさである。私たちは,近代の 進展のなかで,失われていく子ども性を再び取り戻す可能性をみすゞから学ぶことができるだろう。

 現代におけるみすゞの受容は,逆に,現代社会を理解するのにみすゞが示唆を与えてくれる可能 性を示している。小論においては,みすゞのまなざしに注目して,みすゞがどのような世界に生き

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ていたのかを考えてきたが,今後は,さらにみすゞの世界をさまざまな角度から理解することをと おして,みすゞの童謡の現代的意味について考えていきたい。

1 私が,金子みすゞの童謡に着目する理由はちょっとひねくれている。一つは,小中学校の授業における「私 と小鳥と鈴と」の取り上げられ方に疑問をもったことであり,もう一つは,直観的に,リストカットをし たり摂食障害になる子どもたちの世界とみすゞの世界がそんなに遠くないのではないかと感じたことであ る。ただし,この小論では,後者の問題には立ち入らず,前者の問題について考えていくことにする。

2 金子みすゞは生前 90 編ほどの作品を発表したが,現在は未発表作品を含め全 512 編の童謡が含まれている 三つの童謡集が知られている。それは,金子自身が編集したものである。

3 以下,金子みすゞをみすゞと記すことにする。

4 矢崎節夫 .1999.『金子みすゞ こころの宇宙』ニュートンプレス,p.14 5 同書,p.5

6 詩と詩論研究会編 .2003.『金子みすゞ この愛に生きる』(勉誠出版),p.124

7 いっぽうで,こうした特徴はみすゞの童謡を説教臭くしていると考えることもできる。実際にそうした指 摘をする者もいる。

8 中村薫 .2004.『響き合ういのち』(法蔵館),p.10 9 同書,p.16

10 詩と詩論研究会編 .2004.『金子みすゞ 美しさと哀しみの詩』(勉誠出版),p.19 11 矢崎,上掲書,p.47

12 同書,p.50 13 同書,p.50 14 同書,p.183 15 同書,p.187

16 詩と詩論研究会編 .2004.『金子みすゞ この愛に生きる』(勉誠出版),p.18。もちろん,こうした問いかけ に対する反論も存在する。

17 同書,pp.19-20 18 同書,p.19 19 同書,p.20 20 同書,p.23 21 同書,pp.88-89 22 同書,p.91

23 詩と詩論研究会編 .2004.『金子みすゞ 美しさと哀しみの詩』(勉誠出版),p.123 24 矢崎節夫ほか .2003.『金子みすゞをめぐって 1』(JULA出版),p.103 25 同書,p.104

26 詩と詩論研究会編 .2004.『金子みすゞ この愛に生きる』(勉誠出版),p.216

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27 2000.『文芸別冊 金子みすゞ』河出書房新社,p.71

28 矢崎節夫ほか .2003.『金子みすゞをめぐって 1』(JULA出版),p.96 29 同書,p.81

30 同書,p.81 31 同書,p.81

32 詩と詩論研究会編 .2004.『金子みすゞ 美しさと哀しみの詩』(勉誠出版),p.127 33 2000.『文芸別冊 金子みすゞ』(河出書房新社),p.179

34 「みんなちがって,みんないい」が,殺人者を含むのかといった問いが生まれてしまうのも,みすゞ自身が,

存在そのものではなく,目に見える姿を謡わざるをえなかったこととかかわるだろう。そもそも,「みん なちがって」という言葉が,比較を前提としている。

35 不登校や引きこもりの子どもたち,さらには摂食障害やリストカットをする子どもたちに,みすゞと同様 の世界を生きている子どもたちを見出すことができる。だが,こうした子どもたちだけではなく,現代を 生きる子どもたちの多くは,こうした存在のさびしさを抱えているようにも思える。

参照

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