学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その4 ナショナリズムを「発見」する(ⅰ)
木村 競*
(2009 年 11 月 30 日 受理)
School Education and Ethics (4)
Kiso K IMURA * (Revised November 30, 2009)
はじめに
筆者は,「学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その1 予備的考察」で,教員 養成における倫理学・倫理学的思考の役割を見出すための準備的考察を行った。それをふまえ,前々 稿「学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その2 心のノートと道徳教育」では,
昨今の学校教育における重要な動向である文部科学省による「心のノート」の配布と活用推進に関 わる諸問題を取り上げ,具体的問題に即して教員養成における倫理学・倫理学的思考の役割の考察 を開始した。また,前稿「学校教育と倫理-教員養成における倫理学の役割- その3 学校にお ける人権教育」では,学校教育において人権が「思いやり」と結びつけて扱われることの意味を考 察し,人権教育の「場」としての学校を一つの社会ととらえて,教員養成における倫理学・倫理学 的思考の役割を考えた1)。
本稿では教科教育の場面で倫理学・倫理学的思考の役割を考える。中学校の社会科を取り上げる が,何もその中での倫理学あるいは倫理学史的内容について検討しようというわけではない。中学 校社会科のうち,地理的分野と歴史的分野の「語り方」にナショナリズムがどのように関わってい るかを検討する。そして次稿で,それに対して教員がどのようなスタンスをとることができるかと いう点から,ナショナリズムとの関わりにおいて教員養成における倫理学・倫理学的思考の役割を 考えることにしたい。
1 ナショナリズムと学校教育
ナショナリズムの定義は,ひとまず弘文堂『社会学事典』の「ナショナリズム」(高柳光男執筆)
の記述を採用する。「ナショナリズム」の語のもとに語られる様々なことがらを包括する定義だか
* 茨城大学教育学部倫理学研究室(〒310-8512 水戸市文京 2-1-1;
Laboratory of Ethics, College of
Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan
)らである。
一般に,ネーション(nation:民族・国民)の統一・独立・発展を希求する思想・感情・イデ オロギーおよび運動をいう。すなわち,ネーションとしての一体性・自立性を前提として,人々 をネーション・ステート(nation state:民族国家・国民国家)に組織・統合しようとする理念 的力であり,それに基づく政治運動である2)。
さて,ナショナリズムと学校教育の関係については色々な視点で考えることができる。
第一に,国民国家と(公教育としての)学校教育全体の関係である。
ここで想定されているナショナリズムはもっとも広義のナショナリズムである。上記の定義にし たがってナショナリズムと呼びうる「思想・感情・イデオロギーおよび運動」は多様であり,具体 的なネーション・ステートの構成,統合理念も様々である。しかし,周知の通り,先の定義にいう ネーションおよびネーション・ステート(国民国家)は近代ヨーロッパにおいて成立し3),それ以 来世界の国家形成においてモデルであり続けているものである。その限りでの共通性を持つ。その 共通性の一つに,学校教育を典型とする国民皆教育の制度がある。
教育という営みを広く考えれば,これは「人間」以上に昔から行われているということさえでき る。生物において,個体が生きていくために学ばなければ身につかないことと,集団が共倒れしな いため個体に後天的に身につかせるべきこととが一致した場合には,教育的な働きかけが行われる ことになるであろう。また,教育を組織的に行う機関としての学校もきわめて古くから存在するこ とは歴史が教えるところである。しかし,そのような学校における教育は,限定的な対象に対して,
特定の目的の下で行われるものであり,現在の(公教育としての)学校教育とは異なる。
(公教育としての)学校教育が始まるのは国民国家の成立以降である。より正確に言えば国民国 家を維持するための国民皆教育の制度が(公教育としての)学校教育だというべきであろう。すな わち,学校教育の基本的な性格は,国民となるために必要な知識・技能・行動様式等を,すべての 国民(となるべき若年者)に,学校という公的機関によって,国家が管理しつつ,教える=学ばせ るということになる。
しかし,「国民の育成」というこの基本的な性格は変わらないにしても,学ばれるべき知識・技 能・行動様式等は時代と共に変わる。これらがどう変化し,それが学校教育の制度・あり方にどの ような影響を与えているかという問題は,確かに,ナショナリズムとの関係として考察すべき課題 である。
ナショナリズムと学校教育の関係についての第二の視点は,一定の政治的主張としてのナショナ リズムと学校教育の関係である。
広義のナショナリズムの「政治的主張」は,先の定義に言うように,「人々をネーション・ステ ート(nation state:民族国家・国民国家)に組織・統合しようとする」ということにつきるであ ろう。このような主張を持ちうる,あるいは利用しうる政治的立場は一義的ではない。しかし,個々 の国民国家においては一定の政治的立場と結びつき,一定の政治的主張がナショナリズムの「政治 的主張」になる。
日本という国民国家における昨今のそれらは以下のように整理できる。一定の政治的立場とは(高
橋哲哉の言い方を借りれば)「新自由主義と新国家主義のセット」4)であり,その教育に関する政 治的主張のスローガンが「愛国心教育」である。
実は,「愛国心教育」というスローガンの下で語られる事柄,その根拠付けは種々雑多である。
したがって,学校教育の制度や内容に具体化されていくことがらも相互に整合的とは限らない。こ のようになる理由はナショナリズム自体に求められる。B.アンダーソンの言い方を借りれば,個々 のナショナリティは「手のほどこしようがないほどに特殊なもの」として現れるのを常とするから である5)。
しかし,B.アンダーソンを援用しつつ大澤真幸が言うナショナリズム的な見方の二つの特徴は この「愛国心教育」言説群にも見られる。第一に,そこに参与している者つまり個々の国民はネー ションに帰属しているということ以外の積極的な性質を剥ぎ取られ=無視されてしまい,ネーショ ンは均質な「一つの共同体」として想定されるから,「国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取 があるにせよ」,国民は,常に,「水平的な深い同志愛として心に思い描かれる」6),ということ。
もう一つは,「歴史家の客観的な眼には,国民は近代的現象に見えるのに,ナショナリストの主観 的な眼には,古代から続いている実体として現れている」7)から,復古的な主張となるということ。
この第二の視点から,教育政策(国レベル,自治体レベル)について考察することは様々に行わ れてきたし,「愛国心教育」以来は特に多くの論究がある。教育基本法や学習指導要領という手段・
通路によって,このような「政治的主張」は学校教育の制度や内容に具体化されていく。政権交代 によって教育政策がどう変化するということも含め,今後も必要な視点である。
教員養成教育ということからみれば,まずは,これら第一の視点,第二の視点から,ナショナリ ズムと学校教育の関係について,マクロな構造を理解しておくことが求められる。このことの理解 は,ナショナリズムの「政治的主張」に賛成・反対に関わらず,教員として必須のことであり,し たがって教員養成教育に組み込まれるべきことがらである。
しかし,教員にとっては,ナショナリズムと学校教育の関係についてのよりミクロな教育実践の 場面での理解も必要である。そこにこそ,第一の視点的に言えば「国民の育成」,第二の視点的に 言えば「国家への愛着」を,日々強化していく鍵があるからである。
ミクロな教育実践の場面といっても,教育内容にナショナリズムの「政治的主張」が直接的に現 れている場合は,第二の視点からの理解が比較的に容易であろう。しかし,例えば教科書の構成や 語り口のナショナリズム的性格に関しては気づきにくい。しかし,後に見るように,ここにこそ,
学校教育に第一の視点的な意味でのナショナリズムが浸透しているのである。
以下,中学校社会科の地理的分野と歴史的分野の学習指導要領と教科書を取り上げ8),その「語 り方」にナショナリズムがどのように関わっているかを検討する。
2 「国」という主語・「文化」という述語(地理的分野)
「中学校学習指導要領 第 2 章各教科 第 2 節社会 第 2 各分野の目標及び内容〔地理的分野〕」
を見てみよう。
これを見てわかるように,中学校・社会科〔地理的分野〕の内容の中核は,「1目標(2)(3)」
にある。そうであるなら,本来のキイコンセプトは「地域」である。諸地域の「地域的特色」や諸
地域が「相互に関係し合っていること」を,それをとらえる方法共々学ぶのが中学校・社会科〔地 理的分野〕ということである。であるなら,その特色や相互関係を考察する「地域」の
identify
の 仕方はいろいろあるはずである。ところが「
2
内容」を見ると,「日本(という国)」および「国」ごとにとらえることが中心な っている。「3
内容の取扱」においても同様である。つまり,「地域」としてidentify
される,す なわち記述の「主語」になるのは,「日本(という国)」および「国」が基本となっている。教科書でも見てみよう。
まず,「新編 新しい社会 地理」(東京書籍)の「目次」を見てみる。準拠しているのである から当然でと言えば当然であるが,学習指導要領と同じ傾向が読みとれる。世界に関しては「国」
ごとに項目が立てられ,日本という枠組みを設定した上で都道府県が扱われている。では,これら の「主語」に対する「述語」はどうであろうか。「自然環境」,「産業」,「文化」が三つの主要 な述語規定である。
この教科書では,「地域を調べる視点」が四つ提示されている。①伝統的住居,②産業,③は宗 教,④農産物と食事風景である。ここで注目したいのは①伝統的住居と④農産物と食事風景の示し 方である。①は表紙裏,④裏表紙裏に代表的なものを写真で紹介しているが,どちらも「①モロッ コ」,「②オランダ」というように「国」ごとに写真を示している。伝統的住居も食事風景もどち らも基本的な生活文化である。それを「国」ごとに示すということであれば,まさに,「国」とい う主語・「文化」という述語,という示し方である。
住居や食事という生活文化は「国」を超えて共通性を有しているはずで,その広がりは「国」に 閉じこめることはできない。であるから,住まい方や食事文化を主語にして,それが見られる「国」
をそれに述語付けるという記述の仕方も可能であり,それによることによって,かえって住まい方 や食事文化という視点から諸地域の「地域的特色」や諸地域が「相互に関係し合っていること」が 理解しやすいと思われる。
そうであるにもかかわらず,「国」という主語・「文化」という述語,という示し方が行われる ことで,中学生は,「地域」とはまず「国」としてあるということ,その国は文化的共通性に支え られている,という「国民国家」的な地域把握の仕方を身に付けていくことになる。これはきわめ て大きな教育的意味である。
また,この教科書の
136
ページには,発展学習として「国境をこえた国や地域のつながり」が挙 げられ,EU,北アメリカ,アジアの例が紹介されている。これは,国民国家の枠を越えた世界の 動向を理解させる内容である。しかし,先ほどのようにまず「国民国家」的な地域把握が先にある 場合には,そしてこの記述が「国民国家」の存在から説明を始めていることに鑑みれば,この記述 もまた,ナショナリズム的な地域理解を強化することになるだろう。さらに,158~159 ページに「海外に発信される日本の文化」という囲い記述(「地理にアクセス」)
がある。テレビ番組,マンガ,すしなどが取り上げられているが,これらの文化の担い手が誰かと いうこと,それの制作者は誰で,海外への紹介者はどのような人なのかということに関しては,全 く記述がない。この記述だけを読むと,文化の担い手は「日本」であるように受け取れる。すなわ ち,ここでは,「国」が主語から,さらに「主体」になっているということもできる。しかも,そ れらの文化的産物が「海外で高い評価を得ています」という記述と相まって,ここもまたナショナ
リズム的な考え方を強化する意味をもつ箇所となっている。
3 「日本」という実体(歴史的分野)
次に,「中学校学習指導要領 第 2 章各教科 第 2 節社会 第 2 各分野の目標及び内容〔歴史的 分野〕」を見てみよう。
ここでは「目標」のところに「我が国の歴史に対する愛情を深め,国民としての自覚を育てる。」
とあるように,ナショナリズム的な主張が明確に現れている。また,中学校の「歴史的分野」とは
「日本」の歴史を中心に扱うのだから,「日本(という国)」が主語になるのは当然だとも言える。
しかし,ここで注目したいのは,各時代についての記述の微妙な差異である。「(2) 古代までの 日本」では「国家」が使われ,「(3)中世の日本」では「国」的な表現が使われず,「(4)近世の日 本」では「我が国」となり,「(5)近現代の日本と世界」では「我が国」が続くとともに「国民」と いう表現が現れる。時代毎にみれば,その時代の(現在「日本」と呼ばれている地域の)統治形態 に合わせた表現が使われているとも言えるわけだが,それでもなお,全体として「我が国の歴史」
と呼ばれるのである。ここには,先に述べた「歴史家の客観的な眼には,国民が近代的現象にみえ るのに,ナショナリストの主観的な眼には,古代から続いている実体として現れている」というナ ショナリズムの特徴が明確に現れている。
また,「(
2
) 古代までの日本」の最初では「日本列島で狩猟・採集を行っていた人々の生活が農 耕の広まりとともに変化していった」と記しておき,すぐに「国家が形成されていく過程のあらま しを...」と続いて,「日本はいつから始まるのか」という問いが立てられていないばかりか,そのような問いが立てられないような巧妙な構造になっている。そもそも,「我が国」という表現 が用いられる一方で,「日本(という国)」の定義がない。すなわち,なぜここで取り上げられて いる「国家」や「国」や地域が「日本」であると言えるのかは答えられていないし,そのような問 い自体が立てられていない。これもまた,きわめてナショナリズム的な語り方ということができる。
この「日本とは何か」という問い,「日本はいつから始まるのか」という問いを立てない,その ような問いが立てられないような語り方をするということは,教科書にもみられる。「新編 新し い社会 歴史」(東京書籍)の
14-19
ページ「文明のおこりと日本の成り立ち」は,「1人類の出 現と日本列島」でスタートし,「2文明の発生と東アジア世界」で「国家」を導入し,「3縄文文 化と弥生文化」で「日本人」という言い方が始まってしまう。また,ここで「共通の言葉や文化を もつ日本人ができてきた」と述べてから「4国々の誕生と古墳文化」の記述に入っていくことで,「小さな国々」があったにしても,ネーションを基盤とする限り,ステートとしては「大和政権」
が適当であるかのように読めてしまう。つまり,「大和政権」がネーション・ステートであるかの ような印象が残るのである。
さて,地理的分野で確認された,「国」という主語・「文化」という述語という語り方はどうで あろうか。「新編 新しい社会 歴史」(東京書籍)の「目次」をみると 第2~5章は,時代区分 は,政治体制,統治主体の差異で行われている。そして,その各時代の最後に「~文化」という節 が必ずついてくる。すなわち,ここにおいても「日本(という国)」を主語に,「~文化」が述語 付けされるという語り方がみられるのである。ただし,歴史的分野での「文化」は,生活文化を中
心とする広義の文化ではなく,芸術・学問等を中心とする狭義の文化であり,その限りで,その創 造者,担い手はある程度具体的に示されるので,「文化」を産出する主体が「日本」であるという 印象はない。
その代わり,ここでは,時代によって政治体制,統治主体および「文化」は変わるが,そこで「日 本(という国)」が一貫して持続しているという印象を強く残す。いわば,「国」が主語から,さ らに「実体」になっているということができる。
「日本(という国)」の実体化は以下のようなところにも見られる。まず,「新編 新しい社会 歴史」(東京書籍)「第5章開国と近代日本の歩み」の「2明治維新」,および「第6章二度の世 界大戦と日本」の「4日本の民主化と国際社会への復帰」は,どちらも社会および統治機構の大変 革期を扱っている。しかし,どちらにおいても,「日本」が無定義で(前節から)連続して用いら れ,語られるのは「新しい」何かのみであり,変わらなかったものは何か,持続したのは何なのか ということについてはほとんど触れられない。そして,そうであるがゆえに,社会および統治機構 は変わっても「日本(という国)」,「日本」というネーションは変わらずに持続しているという 理解を強化していくことになる。
さらには,「第7章現代の日本と世界」の「2国際社会と日本」の最終部「3これからの日本と 世界」では挿絵の少年に以下のように語らせている。「日本は,これからどんな国をめざせばいい んだろう。」(
215
) ここでいう「国」が何を意味するかは明確ではない。しかし,それがどんな ものになるにせよ「日本(という国)」は続いていくことは自明の前提になっているのである。(以下次号予定)
4 制度と帰属 教員にとってのナショナリズム 5 前提を問い直す倫理学的思考とナショナリズム
注
1)『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第 55 号,2006 年,379-385 頁.『茨城大学教育学部紀要(教 育科学)』第 56 号,2007 年,185-201 頁.『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第 57 号,2008 年,191-196 頁.