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「新島襄の足跡を辿る : 風間浦、函館、札幌」

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著者 田島 繁

雑誌名 新島研究

号 105

ページ 166‑185

発行年 2014‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014148

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エッセイ

「新島襄の足跡を辿る 風間浦、函館、札幌」

田 島   繁

       

 私は一昨年(2012年)、「同志社と風間浦 交流20周年」ということで、

同志社教職員合唱仲間の畝目襄冶氏・河村隆男氏と同大松井七郎ゼミの高 橋正造氏の4人で風間浦を訪れた。また、新島の函館脱国ルートを同志社 校友会・函館クラブ会長の浜谷信彦氏の案内で4人で歩いた。また新島襄 全集を読んでいると新島のニコライの家の出発時間や送別会と「脱国時の 扮装図」について疑問を感じた。私の仮説を述べたい。最後に、元北星学 園中高 / 大学教授の高橋正造氏に「札幌における新島ゆかりの地」を案内 してもらった。

 

1.「同志社・風間浦交流20周年」

 『新島襄全集』5巻「函館紀行」p.17 「4月18日 午前半晴、午後より曇 り、夕刻に至り雨ふり、シリア崎以西迄南西風吹しが、シリア崎以東より 北風吹き、且東方より来れる潮水の勢強くして行き難し、依而午後5時に 霜風呂沖へ落碇す。19日霜風呂へ上陸し、佐賀屋と云附船屋へ参、其より 温泉場へ行く。○此温泉を嘗めしに酸く塩からし、且硫黄の香甚し。○此 温泉は甚名高き者にして五六十里以外より衆人浴しに参る由。○田地は更 になし、然し漁猟之外昆布を取り新潟辺にをくり生計を為す由。廿日朝7 時20分より上陸し例之温泉に浴す。午後3時に帰船し早速揚帆す。但東風 のよきに吹し故なり○廿一日暁5時に箱楯港へ到着す。」

 私が同志社中学校に在職中、風間浦中学校と毎年交流が持たれ、風間浦 中学校2年生が数十名「京都・奈良」の修学旅行を兼ね、同志社中学校を

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訪れ、学園祭の見学・交流や、体育祭での風間浦中「よさこいソーラン節」

の発表があった。私が生徒部の時「交流10周年」ということで、校長・教 頭・生徒部顧問と生徒会執行委員8名が2月中旬風間浦中学校を訪れ、雪 上サッカーや「新島襄先生寄港の地」で碑前祭を持った。

 「交流20周年」の一昨年[2012]5月11−12日、上記4人が訪れたところ 風間浦村と同教育委員会は快く受け入れて下さった。風間浦中学校では 我々が「庭上の一寒梅」の合唱と詩吟(高橋)及び「カレッジソング」を 合唱した。風間浦中学生は全員新しい法被を着て「よさこいソーラン節」

を校庭で披露してくれた。蛇浦小学校も訪れた。1ヵ月前にアメリカから 来た Allie さんは風間浦村の小中学生にカレソンを指導しており、中学生 と一緒に大きな声で歌った。新島の浸かった下風呂温泉「大湯」にも入り

「硫黄と塩味之れ有り」の温泉を楽しんだ。井上靖の『海峡』の宿「長谷 旅館」に泊った。飯田浩一村長も出張帰りに立ち寄って下さり村の熱意を

新島襄先生寄港の地で よさこいソーラン節演舞

新島の浸った「大湯」

蛇浦小学校で合唱

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感じた。同志社中学校の生徒会執行委員8名は一昨年[2012]6月に竹山 幸男同志社中高教頭らと訪れ20周年を祝い、本井康博同大神学部教授も昨 秋風間浦を訪れ講演した。同志社大学生も訪問交流している。新島の蒔い た種が広がっているのを嬉しく思う。

 新島の時は帆船だから天候が悪く流れ が速かったので2日間温泉に浸かり身体 を休めた。新島が風待ちをした理由につ いて、地元下風呂漁協の漁師吉田稔氏に お聞きした。「気象潮汐表2012年」の干 満潮冊子を持って来て、図のように津軽 海峡は海流が西から東に流れており大潮 の日は流れが速いので進めない。中潮・

小潮になれば東から西に風が吹けば進め

る。それも流れの弱い沿岸部を西に向って帆走し、Uターンして函館港に 入るのだと解説してくれた。凾館まで快風丸は何時間かかったのだろう。

 新島民治宛手紙(『新島襄全集』3巻 p.11 元治元[1864]年4月25日付)

によると「19日夕七ツ時(午後三時)過より当所より帆を巻き、廿一日暁 六ツ時(暁5時)に無滞碍箱楯港へ到着仕候」と。真夜中14時間程も掛った。

今は函館港・大間港間は1時間40分である。( )の時刻は前述の「函館紀行」

の時刻。

 風間浦は NHK 大河ドラマ「八重の桜」で、会津戦争に敗れた会津藩士 らが松平容大(同志社中退)藩主の下、移住した「斗南藩」の北半分の中 にある。ここは寒さ厳しく穀物は余り獲れない。八重の前夫・川崎尚之助 が極貧の会津藩士らを救済しようと函館に渡り、デンマークの商人デュー クから広東米を購入しようとしてトラブルに巻き込まれ、長引く裁判で判 決が出る前に東京医学校医院(現東大病院)(『川崎尚之助と八重』p. 230)

で亡くなった。同志社人にとってより関心のある場所となった。

*「新島民治宛への手紙」で新島の19日は間違いで20日である。夕七ツ時 は午後三時ではなく午後四時、暁六ツ時は暁5時ではなく暁6時である。

 日本列島近海の海流(Wikipedia)

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2.青年新島七五三太の脱国の地・函館

2.1 函館での脱国ルートと出発時間、送別会を吟味する

 私は新島が脱国した同じ時間に、同じルートを歩きたいと思った。同志 社校友会・函館クラブ 会長の浜谷信彦氏のご厚意で午後9時に一緒に歩 き案内して頂いた。その後、改めて『新島襄全集』を読むと、次の3つの 疑問をもった。

2.1A 新島がニコライの家を出たのは午後11時過(『新島襄全      集』8巻 p.23)ではなく、午後9時過(『新島襄全集』 

    5巻 p.37)宇之吉と小舟に乗ったのでは 

 理由1 森中章光氏が『新島先生航海日記抄』(昭和11年発行) p.10で

「6月14日富士屋宇之吉周旋に依而、此夜九時過、密に宇之吉 と共に小舟ニ乗し、米利堅商船に乗得たり。」

       *富士屋宇之吉は福士宇之吉氏

       *米利堅商船はベルリン號 船長はウイリアム・ティ・

   セヴリー氏

     6月15日モンデー・快晴、米利堅商船に乗じ函楯を出帆す。但 澤辺数馬、富士屋宇之吉の周旋に依て此行を得たり。此二友骨 に徹し忘るべから次。且菅沼精一郎君も右様の友なり

 理由2 『新島襄全集』5巻(1984年発行 ) 「航海日記」p.37にも、上 記と同じ記述あり。

 理由3 『新島襄全集』8巻 p.23 「6月12日船頭(セイヴォリー)と14 日の夜九ツ時(24時)迄に彼の船に乗込むべき由を約束せり」

 理由4 『新島襄全集』8巻 p.24 「6月14日この夜四ツ半[午後11時]

すぎ、『一とかけらの荷物を負い、大小を懐中にかくし』て密 かにニコライの家を出て、福士のもとに行く」 

   

「夜九ツ時」「夜四ツ半」は今の何時なのか?竹内力雄氏に尋ねたら次ペー ジの「昔と今の時刻」(『世界大百科事典』13 平凡社)を送って下さった。

井上勝也先生からも『角川日本史辞典』のコピーを頂いた。夜九ツ時=24

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時、夜四ツ半=23時である。

 しかし疑問が出て来た。セイヴォリー 船長と約束したのは真夜中の24時までに 乗りこむこと。午後11時にニコライの家

(ハリストス正教会)を出て、午後12時に ベルリン号に乗り込めるのかと。

 『新島襄全集』5巻「函館脱出之記」p.69

「予、右の風体故人決して怪まさると思へ り。予、塩田ト手を分ち、築島に於ける

ポルタの家の辺へ参りしかば、或人咳を為せり。予、雪踏をぬきすて宇之 吉の部屋に忍び入れり。彼早く飛出、雪踏を取来れり。宇之吉と半時程も 談判をなし、裏口より荷物を負出て岸に繋ける小舟に乗移る」。

 『新島襄全集』10巻「ベルリン号に乗船」p.43 「見張りの男が『誰だそこ にいるのは』と訊いた。『私です』と友人は静かに答え、明朝までのばせ ない緊急の用事でアメリカ船の船長のところまで行く処ですと述べた。友 人は見張りの男によく知られていたので見張りもすぐ誰であるかが分かっ た。…漕ぎ出していくと岸には何千という光が見えた。人々は異教の神の 祭礼を祝っていた。アメリカ船は岸からかなり離れた所に停泊していたの で、そこまでたどり着くのに相当な骨折りを必要とした。」

 当日6月14日(陽暦7月17日)は神明社の夏祭りだ。「岸には何千の光が 見えた」 その時間帯は何時から何時頃までか聞いてみようと山之上大神 宮(元神明社)に電話をした。新島を福士宇之吉に引き合わせたのは第8 代沢辺数馬氏で、今の宮司は第13代沢辺益美氏である。同じ沢辺という名 前に感動し奥様に尋ねた。「今の例祭日(7月16日)では7時頃明りを灯 し、人が少なくなる9時頃には電灯を消しますね」と。当時は電燈でなく 蝋燭である。蝋燭の燃焼時間について毎日朝晩お経をあげている父親に聞 いてみた。「小さな(11cm)蝋燭なら約30分、掌ほど(20cm)の大きな 蝋燭なら約2−3時間かなあ」と。伏見区の蝋燭職人に聞くと「小(11cm)

約30分、中(15cm)約2時間、大(20cm)約4時間だ」と。神明社の夏 祭りで何千の光が見えた蝋燭は、中の約2時間の蝋燭ではなかろうか。も

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のが乏しく早く寝る時代である。いくら夏祭りとはいえ、9時頃には人が 少なくなり、燃え尽きる頃ではなかろうか。もし午後11時過ぎにニコライ の家を出たら外国人居留地まで960m で15分程、福士と半時程談判し小舟 に乗る。人がほとんどいない12時頃大切な蝋燭を何千も灯しているだろう か。「アメリカ船は岸からかなり離れた所に停泊していたので、そこまで たどり着くのに相当な骨折りを必要とした」というから、ベルリン号に着 くのは約束の12時を大幅にこえてしまうであろう。私はニコライの家を出 たのは「四ツ半」(午後11時)過ぎではなく、「五ツ半」(午後9時)前後 ではなかろうかと。

 森中章光氏は『新島先生航海日記抄』のはしがきで、「函館脱出後の新 島先生が、異国帆船の一船員としての繁激なる労働の間に筆或は鉛筆もて 書き記されたる日記—和紙横綴29枚の小帳—があったという。しかし数 十年の今日そんなものは何處を探しても見当らぬ。が幸ひなことに故新島 公義氏の寫しが故人の令息新島得夫氏の手元に大切に保管せられてゐた。

本輯は即ちこの唯一の寫しに拠ったものである」と。すなわち、この『新 島先生航海日記抄』が一番古い記述である。

 「四ツ半」の記述は『新島襄全集』5巻「函楯よりの略記」p.72 に見られる。

「此夜四ツ半過に一とかけらの荷物を負ひ、大小を懐中にかくし魯人の家 を去り、彼の築島に参り、岸に繋ける小舟を掠取り亜国の商船へこぎよせ しに、曾て試みさる仕事故必死の力を竭くし漸く其船に乗込むを得たり」

 しかし、現地を訪れ、『新島襄全集』を何度も読み直すと、ハリストス 正教会から築島に行き、宇之吉に落ち着くよう熱いレモネードを頂き半時 程談判、見張りの男に呼び止められ舟底に平つくばる。かなり離れた所に 停泊していたベルリン号に向って必死に漕ぐ。午後11時過出発なら「何千 もの明り」は見えないだろうし、約束の時間には着かないだろう。

 自分の命がかかっている。約束の12時までに絶対ベルリン号に到着する よう行動したであろう。

Ⅰ .「交流20周年」の最後の*印に書いたように、私は新島が父・民治に送っ た手紙の中で、日時に関する間違いを見つけた。また『新島襄全集』10巻

「日本脱出」 p.10でも、7月17日夜を18日夜と間違えているのを見つけた。

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 『新島襄全集』10巻 p.43「捕えられれば死刑になる」と新島は自覚して いた。そんな極度に緊張した場面である。今のように時計があり絶えず何 時何分と確認できる状況ではなく、薄暗い中での行動である。また時間が 経ってからの記述である。「何千もの明りが灯されているのが見えた」こ とは間違いなく覚えていても、日時の思い違いは十分ありうることだと思 う。

 新島がニコライの家を出たのは、夜四ツ半[午後11時]過ではなく、森 中章光氏の『新島先生航海日記抄』と『新島襄全集』5巻 p.37「航海日記」

を考慮に入れると、夜五ツ半[午後9時]前後ではないかと私は思う。

 

2.1B 新島脱国ルートはいずれか

 函館外国人居留地研究会員で同志社 出身の犬島康文氏より「明治9年当時 の地割図」をホテルで頂いた。私は出 発前、送別会をした神明社から築島ま での最短コースとして①案と②案を 作ったが、犬島氏に幕末とほぼ変わら ない「明治9年当時の地割図」を見せ て頂き①案を確信した。前述の浜谷信 彦氏に5月9日(水)案内して頂いた。

 新島が歩いた時間にこだわり夜9時 に私達4人と一緒に歩いていただい

た。新島が送別会を開いた沢辺数馬宅(神明社、今の函館消防署西出張所 付近)から「新島襄海外渡航之碑」まで歩いた。浜谷氏は神明社から真っ 直ぐ弥生坂まで歩き、昔の実行寺、称名寺、能量寺を壁沿いに歩き東坂と の交差点で左折、一気に外国人居留地の中の新島襄海外渡航之碑まで下り て行った。

 私は神明社から幸坂を一筋下がって右折する②案も考えたが、「明治9 年の地割図」を見ると、そこは高龍寺の境内で公道がない。今は明治の函 館大火災で実行寺、称名寺、能量寺は消失し外国人墓地の方に移転したの 図1 出発前に考えた ①案、②案、③案

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で、広いバス通りになっ ていた。

  し た が っ て、 新 島 の ベルリン号までの脱国 ルートは①案の「神明社

(今の函館消防署西出張 所) から弥生坂まで直 進、 左 折 し て 弥 生 坂 を

1筋下る。右折して函館元町ホテルの前を通り

東坂の交差点で左折。東坂を下りると外国人居留地があり一番手前の左の ポーター商会で福士と落ち合い、「新島襄海外渡航之碑」(右上)から福士 の漕ぐ小舟に乗って、沖合に停泊中のアメリカ船ベルリン号に乗船したと 思う。浜谷氏も「そうだと思う」と言われた。浜谷氏は「同志社大学函館 キャンプ」を30回程案内していると。感謝である。

 新島のベルリン号までの脱国ルートを確信でき、函館に来たかいがあっ たと皆喜んだ。

 

2.1C 新島の送別会は6月14日(脱国当日)に沢辺の家で行わ      れたのか「脱国時の扮装図〜予、塩田と共に沢辺の家を      出る図」に疑問が生じる

 『新島襄全集』8巻 p.23 には「6月14日(陽暦7月17日)この日「二三の信友」

と送別会を開く(か)。新島、慷慨のあまり剣を抜いて歌う。「一襲弊衣三 尺剣…」「武士も思ひ立田の山紅葉…」と。全集の執筆者は送別会を開く

(か)と疑問符を付けている。

 私も「送別会」を沢辺の家で行い、「脱国時の扮装図」の姿で、外国人 居留地(福士卯之吉)に向ったとすれば、いろいろ疑問がでてくる。

 まず「二三の信友」とは、「骨に徹し忘るべからず」として塩田虎尾、

福士卯之吉、菅沼精一郎の名前を上げている。福士卯之吉は外国人居留地 で新島を待っているので、送別会に集まった「二三の信友」とは塩田虎尾、

菅沼精一郎と会場提供者の沢辺数馬(神明社宮司)であろうと思う。

ポーター商会の位置を 示す案内板     

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疑問点①『新島襄全集』8巻 p.24 「この夜四ツ半[午後11時]すぎ、『一 とかけらの荷物を負い、大小を懐中にかくし』て密かにニコライの家 を出て、福士のもとに行く」この文脈からは6月14日当日沢辺の家(神 明社)に立ち寄り、送別会をして福士のもとに行ったとは読みとれない。

疑問点②「脱国時の扮装図」を見ると、新島は大きな荷物を背負い平民 のような服装に変身している。しかしこんなに大きな風呂敷包みを背 負いニコライの家(ハリストス正教会)から沢辺の家まで行き(図1 参照、1km 約15分)、その後、神明社から反対方向の外国人居留地に向 えば(800m 約12分)、絶対怪しまれるであろう。

疑問点③6月14日は神明社の夏祭り。そんな気ぜわしい夜に「神明社宮司」

の沢辺が送別会にじっと立ち会えるだろうか。神社関係者が入れ替わ り立ち代り入ってきて怪しまれないだろうか。

疑問点④脱国が見つかれば死刑である。そんなびくびく緊張する当日、

夜四ツ半[午後11時]すぎにニコライの家を出て神明社で送別会を行 う時間的、精神的余裕があるだろうか。ましてや、慷慨のあまり剣を 抜いて歌を二曲も披露するとは…。

 もし、「二三の信友」と送別会を開くなら、緊迫する脱国当日ではなく、

不要なものを売り払い、父民治に送る写真も撮り終わった前日、13日夜に、

夏祭りでない静かな神明社で行うことは考えられないだろうか。

 しかし、6月14日脱国当日に沢辺の家で送別会を行い、剣を抜いて歌を 二曲披露したならば,ニコライの家を午後11時より相当早く出たのではな いかと考察する。

  

新島が泊っていたハリストス正教会 脱国時の扮装図 神明社のあった所(今消防署)

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2.2 新島襄の遺髪のある函館千歳教会 

 新島襄の遺髪は ①同志社遺品庫 ②京都教会 ③新島学園中学高等学 校 ④函館千歳教会の四ヵ所にある。③の新島学園中学高等学校での展示 の経緯については、昨年『新島研究』第103号コラム「新島襄の遺髪と愛 用の硯」で紹介させて頂いた。

 ④函館千歳教会については、2年前に同志社教会に来られた函館千歳教 会員の方から、「新島先生の遺髪が菓子箱に入っていますよ。そんなに大 切なものですか。牧師先生に伝えます」という会話がきっかけだった。ど ういう経過で函館千歳教会にあるのか、訪れて井石彰牧師に聞いてみた。

 函館千歳教会の年表を見せてもらった。①1901(明治34)年日本組合教 会函館教会(曙町)設立。しかし教会堂は度々の函館大火で焼失。1922(大 正11)年新会堂(恵比寿町)献堂式が行われた。しかし、また1934(昭和 9)年函館大火で会堂焼失。1917(大正6)年から29年間牧会した片山幽 吉牧師は、在任中3度会堂を失ったが、その度に「函館に組合教会がなけ ればならない。函館組合教会は新島襄脱国記念会堂である」と訴えて教会 再建を果たしてきた。1937(昭和12)年千歳町に教会堂再建にあたって同 志社教会の堀貞一牧師より新島襄の遺髪が寄贈された。

 瓶の中には次の様な説明文が入っていた。「先生上海にて御断髪之中を 明治7年御帰朝の節御持帰りに相成たるものにて昭和2(1927)年2月1 2日京都市新島邸にて未亡人八重子刀自より割愛されたる中より貴教会の 記念堂のため御分贈仕る次第御領収被下度候願くば今回の御主旨の如く永 く先生愛国の精神に燃へて脱国されたる至誠が多くの人々に永く良き教訓 と相成候事を祈る 

  昭和12年3月3日  

      堀貞一      片山幽吉 様 」

       

 遺髪のビンは8cm 程で思ったより小さく、新島学園中高にあるものよ りはるかに小さかった。しかし、井石彰牧師は「新島先生の遺髪は函館千 歳教会の宝物で大切に保管し、『一国の良心とも言うべき青年の育成を願っ

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た』新島の精神を受け継ぎ、脱国の地・

函館にあって頑張ります。教会内にコー ヒーショップを開業し、売上金は全て東 北支援のために寄付しています」と語っ た。

                

2.3 新島夫妻が招待された遺愛女学校

 遺愛女子中高で聖書を教えている井石彰牧師に、函館千歳教会の直ぐ近 くにある遺愛女子中高を案内してもらった。増田宣泰事務長が校舎とホワ イトハウス内を案内して下さった。廊下がピカピカに光り鴬張りなのには 驚いた。

 下左の写真は1882(明治15)年に元町4-1に建設された遺愛女学校の校 舎で左後方に宣教師館が見られる。この宣教師館にはM . C . ハリスが居 住していた。ハリスは当時米国領事代理を兼任していたのでここが米国領 事館でもあり、ホワイトハウスと呼ばれた。

 1887年 7 月 4 日 新 島襄・八重夫妻は遺 愛女学校内の C.W. グ リーン宣教師宅に午 飯に招かれ、またホ ワイトハウスに居住 のドレイバー宣教師 に 茶 菓 を ご 馳 走 に なった(『新島襄全集』

8 巻 p.409)。 ハ リ ス が洗礼を授けた内村 鑑三や札幌農学校教 授 の 新 渡 戸 稲 造 夫 妻

1882年元町の女学校 初代宣教師館

杉並町の宣教師館 遺愛女子中高正門前

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も訪れた。惜しくも1907(明治40)年8月の函館大火で校舎もホワイトハ ウスも焼失し、1908(明治41)年ホワイトハウスは2代目の宣教師館とし て現在の杉並町に建築された。設計者はガーディナーと分かった。長年歴 代宣教師と学校長の宿舎として使われた。私の友人・島典英氏に電話し たら「アメリカから帰国し遺愛女子中高(宗教主任)に就職した1970年か ら3年間この宣教師館で家族が生活した。新島ご夫妻が札幌からの帰り、

1887(明治20)年9月18日函館(美以美)教会で説教し、宣教師館に宿泊 したと何かで読んだ」と言った。「宣教師館は痛みがすすみ1978年以降使 用が制限されたが、1992年に北海道の指定文化財に、2001年国の重要文化 財となり修理保存整備工事が行われ、純白で清楚な美しい建物に蘇った」

(道南新聞2001.5.23)

 

3.札幌〜クラーク像、札幌独立キリスト教会、旧福士家住宅、 

  北星学園

 札幌では、私の友人で北星学園中高及び大学で教えた高橋正造氏が案内 してくれた。新島が1887年8月25日「スミス女学校(現北星学園)」の開 校式に参列した北星学園の中高及び大学、新島が関わった札幌独立キリス ト教会、アーモスト大学の恩師・W. S. クラーク博士の像がある北海道大学、

新島の脱国に協力してくれた福士成豊(卯之吉)の旧住宅がある「北海道 開拓の村」を訪れた。

3.1 クラーク博士と札幌独立キリスト教会

 末光力作著「新島襄先生とクラーク博士」と「新島襄先生と札幌独立教 会」(『新島研究』62号、63号)を読んだ。札幌独立教会は以前立ち寄った ことがあるので、ちょっと写真をとるだけと思って入った。後日、末光先 生の著書を読み、W. S. クラーク博士と新島、同志社とは深い関わりがあ ることを知った。

 

3.2 新島先生とクラーク博士

  クラーク博士はアーモスト大学で新島に化学を教えたので、新島を「私

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の最初の日本人」と呼んだ。クラークは札幌農学校での8ヵ月を終えア メリカへの帰路、1877(明治10)年4月16日札幌を出発、島松で “Boys be ambitious” と有名な言葉を残した。

 函館−長崎−神戸−京都−神戸−横浜という旅路の中で、1877(明治 10)年5月9日同志社英学校を訪れ、新島やラーネッドらに会い開校1年半 で四苦八苦する新島を励まし100ドル寄付をした。

 末光先生は「①新島は1870(明治3)年アーマスト大学を卒業し B.S. の 称号を受けたが、卒業を記念して彼はクラークが学長をしてるマサチュ セッツ農科大学に「日本の種百個」を寄贈している。②新島は1871(明治 4)年3月初めて森有礼と会う。森はその時新島に『長州藩出身の内藤誠太 郎をマサチュセッツ農科大学に入学させたい。クラーク学長によろしく』

と依頼した。新島は森と一緒にクラーク学長を訪ね、内藤のことを頼んだ。

内藤は無事入学し、クラークの『二番目の日本人学生』になった。[後日 談]クラークが札幌に招聘された時この内藤を通訳として連れて行った。

クラークの札幌での活躍の影には通訳内藤の働きがあった。③クラークは 帰米後、日本について数多く講演し『私の最初の日本人学生新島が京都で キリスト教主義の学校を作って努力している。私は彼の学校のために書籍 代として100ドル送金したい。是非協力して欲しい』と教会で訴えた。寄 附金はたちどころに集まり、クラークは新島が求めていた本に加え、ジョ ンソン百科事典、地図、自然史の書物、農業事典、聖書注解書、ムーディ 説教集などの書物を同志社に寄贈した。私はこのようなクラークの好意に ついて一度も聞いたことがない。私達同志社人はクラークの徳を顕彰し深 い感謝の念を持たねばならない」(『新島研究』62号 pp.34-37)と述べている。

新島襄宛のクラーク書簡封筒

(同志社社史資料センター蔵) 1878年2月11日 クラーク署名入書簡

(同志社社史資料センター蔵)

北大の W.S. クラーク胸像

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昨年(2013年)はクラーク同志社訪問136周年となる。

 私は、同志社社史資料センター及び同大図書館で、クラーク直筆の手紙 のコピーと翻刻されたものを入手した。それを読み、クラーク博士への感 謝の気持ちが一層増した。

3.3 新島先生と札幌独立教会

 札幌独立教会は札幌農学校一期生・二期生らで創られた教会で、なぜ新 島が深く関わるようになったのか。末光力作『新島襄先生と札幌独立教会』

を読むことによってよく理解でき、私にとって新鮮な論文であった。

 クラーク博士によってキリスト教に接した札幌農学校一期生と彼らに感 化された二期生の有志が宗派を超えた教会「札幌基督教会」を作った。と ころが、教会の建設に力を貸していた凾館のメソヂスト教会監督(遺愛女 学校宣教師)ハリスは「メソヂスト札幌教会とせよ。承諾できぬ時は先に 投資した400ドルを返金せよ」と。内村鑑三ら青年達は「よろしい。我等 の主張を貫くため断固返金しよう」と1882(明治15)年全額返金し「経済 の独立なくして信仰の独立なし」と札幌独立教会と改名し、外国人宣教師

の世話にはならない自主独立の教会生活を始めた。

 この教会の伝道活動の矢面に立ったのが一期生の大島正健。大島は神学 校で特別の教育を受けず、札幌農学校の教授をしながら教会員一同の要望 により牧師として無報酬で伝道活動を続けた。これに異議を唱えたのが特 に外国人宣教師達で、両者の関係は険悪になり、この対立に頭を悩ました のが新島である。独立教会は新島のアーモストでの恩師クラークが残して 札幌独立教会 札幌独立教会の略年表 内村、新渡戸ら著名な教会員

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いった教会で、新島は何とかしてこの問題を円満に解決したいと考えてい た。丁度1887(明治20)年の夏、新島は静養のため札幌に滞在した。7月7 日、新島は札幌駅で大島正健や福士成豊らの出迎えを受け、翌8日には大 島と話し合い、10日の聖日には独立教会に出席、新島は大島の求めに応じ て「神の摂理は常に人意の外に出る」といった感話を述べた。出席者は 200人。「按手礼問題」に関して、新島は「何れの教派にも属さない独立教 会の牧師として、この際上京して牧師の資格をとるように」と教会側に勧 めた。教会側もこれを受け入れ、按手礼は1888年1月東京一致教会で行わ れた。その際、将来大島が異端の説を唱えた時、どこが責任をとるのかと いう問題になり、紹介者新島襄の属している組合教会が責任をとるという ことで話がついた。ところが札幌の教会側では「大島正健牧師は新島に騙 されて組合教会の牧師となった」との見解が誤り伝えられた。全くの誤解 で教会と大島牧師との間にわだかまりが生じ、この亀裂は遂に消えること はなかった。大島は1893年10月札幌農学校を辞職し、同志社普通学校の教 授(数学担当)に転じた。

 新島は1885年の渡米の時、病床のクラークを訪ね札幌伝道に就いて話し 合い、1888年同志社の馬場種太郎を派遣

した。「自由、自治独立を愛し平民主義 に徹した新島だったからこそ、クラーク や大島正健の平信徒伝道に心からの共感 を覚え、独立教会に対する惜しみない援 助となって現れた」と末光氏は述べてい る。

 ほんのちょっと写真を撮るだけと入っ た札幌独立キリスト教会。入口で掃除を していた方は教会員で京都の末光百合子

さんの兄嫁だと。末光家は新島八重さんのお雛様を譲り受け、同志社女子 大のジェームス館で展示しているのを見たことがある。

 札幌独立教会は無牧教会で、毎週の礼拝のお話は信徒が行う。

 「先週のお話はとても崇高なお話だった」とご高齢の信徒が何度も感激 八重さんとお雛様

(同志社社史資料センター蔵)

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しておられた。「新島先生の札幌独立教会支援の書簡は金庫の中に入って おり、鍵がないのでお見せできないのが残念です」と。

 この後、北海道大学(札幌農学校)を訪れ、クラーク先生(胸像)に感 謝の念を持って深々と頭を下げた。札幌名物の時計台は札幌農学校の演舞 場である。演舞場は体育館のことで、若き佐藤昌介や内村鑑三、新渡戸稲 造らが身体を鍛えた所である。新島は二度目の渡米中、新渡戸稲造の願い を聞き、シーリー学長に頼んで離婚後の傷心の内村鑑三にアーモスト大学 への入学と奨学金貸与を実現させた。

   

3.4 福士成豊(卯之吉)と新島襄(七五三太)

 新島宛に送った福士成豊の手紙1887(明治20)年の住所は札幌北四条東 1丁目で、明治4年から6年にかけ開拓使仮庁舎が置かれていた場所であ る。この場所にあった福士成豊の住宅は明治初期の洋風建築と同後期の和 風住宅を接続した特異な洋式の建物としてその孫から北海道に寄贈され、

昭和55年「北海道開拓の村」(札幌市白石区厚別)に復元された。私達は 車で30分「北海道開拓の村」に急ぎ、旧福士成豊住宅を訪れた。福士成豊 の数々の業績が展示されていた。

(1)福士成豊(卯之吉)の生い立ちと新島襄(七五三太)

    1838年 函館で続 豊治の五男として生れる

    19歳 父に協力し日本人初の洋式帆船 函館丸を完成     21歳 アメリカ代理領事ペーチカから英語を学ぶ

    24歳 イギリス人ポーターの商会に雇われ実践的な英語を習得        イギリス人ブラキストンと交際、測量、機械、測候、植物        学など学ぶ

    25歳 新島七五三太(襄)の海外(アメリカ合衆国)脱出を援助     49歳 新島ご夫妻 福士成豊の貸家で避暑と休養

(2)新島脱国の背景

 「私の青春時代」(『現代語で読む新島襄』p.20)より

 私は江戸を出て1ヵ月足らずで函館に着いた。外国人に接触を試み た。彼らの好意で脱国を目論んでいた。函館で1カ年武田斐三郎の諸

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術調所に入塾しようと思ったら武田斐三郎は江戸に帰ってしまった。

そこで武田塾頭の菅沼精一郎の紹介でロシアの僧侶ニコライの日本語 教師として寄宿する(5/5)。菅沼の友人で神明社の澤辺数馬(琢磨)

が来訪する(5/8)。1ヵ月程してニコライに胸に秘めていた目的を話し たら、私を戒めた。彼の警告にガッカリし外国人居留地で友人を探し 始めた。そこで見つけた最初の友人がイギリス商人(ポーター)に雇 われていた日本人店員(福士卯之吉、成豊)であった。少し話しただ けで彼は私に不思議なほど好意を示してくれた。私は彼がとても気に 入り、彼の事務所を度々訪ねてもいいかと申し出た。仕事がない時な らいつでも歓迎、英語も教えてくれると。2、3度話をした後、長年 胸に秘めていた計画を打ち明けた。彼はそれを聞いて大喜び。秘密を 打ち明けて1週間と立たない内に彼は直ちに出国する準備を整えるよ うにと。あるアメリカ人船長が中国まで連れて行ってくれるのを承諾 してくれた。中国まで行きさえすればアメリカに渡る機会に恵まれる だろうと。

 以上の新島の手記を読み、脱国できた背景には次の様なことが考え られるのではないかと私は思った。

 ①日米和親条約が締結され、函館が開かれ、多くの外国人が函館に 渡来し、経済的にも文化的にも大きな影響を及ぼし始めた。函館 奉行も欧米文化の導入に務め、欧米に使節を出す世の中になって きた。

 ②函館の外国人居留地は10区画と小さく雑居地が多いことも影響か

(竹内力雄氏)

 ③新島は函館に行けば脱国しようと初めから強い意志を持ってい た。

 ④英語が堪能でポーター商会に住み込みで務める福士卯之吉は外国 人居留地の人や見張り人からもよく知られ信頼されていた。

 ⑤福士は新島の誠実さや熱意に心打たれ、憂国の士とし相通ずるも のがあった。

 ⑥見張り人は臆病者で、確かめるために近くに来ようとはしなかっ

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た。

 ⑦若く有能な福士卯之吉の用意周到な準備、沈着冷静な判断があっ た。

(3)セイヴォリー船長の解雇と新島七五三太の行方不明届け

 ベルリン号の W.T. セイヴォリー船長は密航者を乗船させたと知れ て会社を解雇された。「元治元年の函館は多くは昆布など蝦夷産物を 中国に輸出。乗組員の中国人が密告したのではないか」(北垣宗治氏)。

私はたくさんの資料を読んだが、新島はうまく密航でき咎められるこ とはなかった。慶応2(1866)年2月21日、新島はアンドーヴァーか ら初めて父親新島民治に「この挙敢て君主を損ねるにあらず、且つ飲 食栄華のためにあらず。全く国家の為に寸力をなさんと存じ、忠心し かるが如く遂に此挙に及び候」(『新島襄全集』3巻 p.27)と手紙と写 真を福士卯之吉に発送した。しかしこの手紙は届かなかったので同年 5月、父親は大目付に「新島七五三太はロシ

ア人と測量のため船出して行方不明になっ た」と届け出ている。

(4)福士成豊と新島襄の交友

 新島襄は晩年健康がすぐれず、医師の勧め で1887(明治20)年北海道での避暑と休養を 決意した。札幌在住の福士成豊に相談し7月 から9月まで八重夫人と共に福士所有の長 屋に滞在し休養に努めた。1882(明治15)年 3月14日福士の京都訪問、1888(明治21)年 1月福士の京都訪問、1890(明治23)年1月

新島襄の死に至るまで両者の交友関係は25年に及んだ。

(5)福士成豊の業績

 福士成豊は造船、英学、気象観測、地形測量、鳥類剥製標本の作成 など幅広い分野で近代日本科学史上先駆的な業績を残した。日本人で 初めて自宅で気候測量所を開き、初代気候測量所長になったのは有名 である。1891(明治24)年道庁退職後札幌に居を構え、ブラキストン

1882年3月京都で 左 . 新島 右 . 福士

(同志社社史資料センター蔵)

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同様狩猟及び鱒釣りを楽しみ英書を読み、服装から生活まで最新の洋 風を取り入れハイカラな文化人として尊敬された。実はキリスト教が 大嫌いであった。1922(大正11)年満83歳の天寿を全うして東京に没 した。

   

3.5 北星学園

 米国人宣教師サラ・スミスは1887年1月函館の遺愛女学校で学んでいた 河井道(恵泉女学園長)ら3人と他4人合計7人の女子生徒を連れて札幌 へ来た。スミスは北海道尋常師範学校の英語教師として任用され、師範学 校官舎を改造した教室で授業を開始した(生徒7人)。1887年8月道庁か ら新築校舎を無償貸与され、スミス女学校開校式を挙行した(生徒46名、

校長スミス)。森有礼文部大臣の英語奨励趣旨をくみ、岩村通俊初代北海 道庁長官はその令嬢をスミス小学校に入学させ、2階建て校舎を新築し貸 与。生徒には北海道庁の上級官吏の妻たちもいた。

 開業式には佐藤昌介札幌農学校校長や同志社英学校校長の新島襄が出席 し祝辞を述べた。新島夫妻は大島正健札幌農学校教師達との関係で参列し たと酒井玲子北星学園長は述べた。

 北星学園女子中高の中に「北星学園創立百周年記念館」があった。同校 教員だった高橋正造氏は自分が制作した記念館の立派な模型を見せてくれ た。私もこの学校の教員試験を受けようと思ったことがあるので記念館を 丹念に見た。全国から高校中退者や不登校経験者を受け入れる先進的な北 星学園余市高等学校の報道記事や『続・やりなおさないか君らしさのま まで〜ひとりで悩むな ! 卒業生・父母・教師からのメッセージ』(2003年)

などの本がたくさん陳列されていた。

 酒井玲子北星学園長は私の質問に対し「少子化で共学化はいつも話題に なる」と話していた。

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参考文献

本井康博『マイナーなればこそ 新島襄を語る(九)』思文閣 2012

新島襄全集編集委員会『新島襄全集』3巻、5巻、8巻、10巻 同朋舎 1987/1984/

  1992/1985

森中章光編輯『新島先生航海日記抄』 同志社校友会  昭和11年

森中章光編『改訂増補新島襄先生詳年譜』 同志社・同志社校友会  昭和34年 森中章光編『新島先生書簡集・続』 同志社・同志社校友会  昭和35年 現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』 丸善  2000 河野仁昭『新島襄ゆかりの地』(国内編) 学校法人同志社  2006 井上勝也「箱館時代の新島襄」 『新島研究』63号  1983 末光力作「新島襄先生とクラーク博士」 『新島研究』62号 1982 末光力作「新島襄と札幌独立教会」 『新島研究』63号 1983

千代 肇「新島襄日本脱出の背景〜函館と福士成豊について」『新島研究』63号 1983 関 秀志「福士成豊と新島襄〜福士の新島宛書簡を中心として」『同志社談叢』7号   1987

高倉新一郎、関 秀志、笹木義友、門崎允昭「幕末維新期における欧米科学技術の   摂取について〜福士成豊を中心に〜」『北海道開拓記念館研究年報』14号 昭和61年 あさくらゆう『川崎尚之助と八重』知道出版 2012

『世界大百科事典』13 平凡社 1972年初版

『角川日本史辞典』 角川書店 1974

『独立教会のしおり』 札幌独立キリスト教会 2011

『北星学園百年史』 北星学園 1990

「函館の新島襄と彼の親友たち」  島典英(遺愛女子中高宗教主任) 1985

『新島襄宛英文書簡集』(未定稿)1867.12〜1884.8 同志社大学人文科学研究所 2007       

参照

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延雄(『新島襄先生略伝』京都:日本観光美術出版社、1956)にまで及ん

新島は 8 月 23