著者 多田 直彦
雑誌名 新島研究
号 104
ページ 174‑194
発行年 2013‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013413
エッセイ
新島襄と「梅」
多 田 直 彦
・はじめに
筆者が東京の「新島襄の足蹟を訪ねる会」(西村四郎会長)から月ヶ 瀬に出かけたのは平成24(2012)年3月である。出かける前に本井康博 教授の著書『敢えて風雪を侵して』に目を通した。それによると新島が 月ヶ瀬に明治20(1887)年4月1日に出かけ、騎鶴楼に宿泊したことは、
新島の新島公義宛の書簡1)との詩人で文芸評論家の野田宇太郎が騎鶴楼 の宿帳に新島の名前を見つけたこと2)で確かであるが、なぜ出かけたの か、その動機がはっきりしていないことを知った。そこで筆者の「なぞ 解きの心」が蠢いた。
早速、企業人の時にすり込まれた「現地、現物、自分の眼で確かめる」
というアプローチでチャレンジしたが、結果としては、明解な答えは得 られなかった。しかし、新島の寒梅への思いや寒梅に託したこと、新島 の真理とは何かなど新たなテーマを得ることが出来、更に筆を進めるこ とになった。
このエッセイの要旨は、<第一部>では、新島が月ヶ瀬に出かけた動 機の仮説の検証について、<第二部>は、新島の寒梅への思いや寒梅に 託したこと、新島のいう真理とは何かなどについての探究したものであ る。
<第一部> 新島の月ヶ瀬に出かけた動機について
本井教授は、新島が月ヶ瀬へ明治
20
年4月1日に出かけた動機を『敢 えて風雪を侵して』で「大前提として、梅への思い入れの深さ」とし、なぜ、新島が月ヶ瀬に行くことになったのか、について次のように推測 している。(1)新島が誰かに勧められた。(2)同地出身の同志社の学 生あたりから現地情報を仕入れていた。(3)以前から行ってみたかった。
(4)斉藤拙堂の『月瀬記勝』の影響。(5)誘因として菅原道真や後醍 醐天皇のファンとして行きたかった。3)
この中で、筆者はつぎの2つについて「なぞ解き」を試みた。「斉藤 拙堂の『月瀬記勝』の影響」と「新島が誰かに勧められた」である。
1.動機①.斉藤拙堂著『月瀬記勝』の影響
1-1『月瀬記勝』の内容
まず、斉藤拙堂著『月瀬記勝』とは、どのような内容なのか、少し触 れてみる。
この書物は、津藩の儒学者であった斎藤拙堂と同行者が文政13(1830)
年に月ヶ瀬へ出かけ、その
20
年後の嘉永3(1850
)年に出版されたもので、「乾」「坤」の二巻は漢文・漢詩で書かれている。要所に挿絵があり、拙 堂と同行者はこの書物で後述のように月ヶ瀬を激賞している。また、当 時、初版本の出版元以外からも出版されるなどベストセラーであったよ うだ。そのようなことから「月ヶ瀬梅林の名勝としての地位を不動にし た」4)書物であると言われている。内容の要点は、口語文で書かれた小 西亘著『「月瀬記勝」梅蹊遊記訳注』によれば、次のとおりである。
「記一」には、「どこの地にも梅はあり、どこの郷にも山水はある。た だ大和の梅渓のみは、花が山水を挟んですばらしく、山水が花を得て麗 しく、まことに天下の絶勝である」。「梅は幾万株あるか分からぬほど多 い」「谷川に臨むものが最も清らかで美しい」とあり、「記二」から「記 九」では、崖の下からの眺めだけでなく、舟上からの梅や対岸の尾山の
梅渓を上から見下ろすなど、あらゆる情景や角度からの月ヶ瀬の梅を描 いて月ヶ瀬の梅渓を激賞している。5)
月ヶ瀬の梅は、現在は約1万本であるが、斎藤拙堂が訪れた文政
13
年 には10万本に近い6)梅が谷の両岸に植えられていたというので、誠に壮 観な景観であったに違いない。その上、『月瀬記勝』には月ヶ瀬の略図 と数枚の梅渓の挿絵が添えられているので視覚的にも興味を誘われたこ とだろう。このような『月瀬記勝』を目にすると誰しも月ヶ瀬に出かけたい気持 ちになったと思われる。しかし、この書籍を新島が目にしていたかどう か、これについては不明である。
1-2『月瀬記勝』を新島が目にしたのか
本井教授は、この書物が新島の「残した蔵書(「新島旧邸文庫」)の 中には、見当りません。」7)と書いている。そこで筆者は、新島が当時、
この書物を読んでいたかについて検討を試みた。
先ず、この書物の普及状況であるが、『月瀬記勝』が出版されたのは、
初版本以外に香雲亭刊(嘉永4(
1851
)年)のもの、豊住書店刊(明治18(1885)年)のものがあり、木版以外にも銅版もあった。更に、明治 14
(1881
)年、明治15
年、明治17
年には別版も出ている。8)筆者が騎鶴楼で見た『月瀬記勝』は、香雲亭刊のもので、表紙がピン ク色であった。この他にインターネット上で尾鷲市立図書館所蔵のもの を見たが、表紙が同じピンク色だが微妙に違っていた。また、「近代デ ジタルライブラリー」9)の『月瀬記勝』は明治
14
(1881
)年8月発行の もので、モノクロ印刷であった。以上のことから『月瀬記勝』は、異なった版がいくつか出るほど好評で、
かなり普及していたことは確実と思われる。また、明治初期に月ヶ瀬を 訪れた文人が多いことからも文人の間では、よく読まれていたと考えら れる。文人だけでなく同志社の学生にも読まれていた可能性がある。そ のことは、同志社の学生が明治
19
年の春休みに月ヶ瀬に出かけたと『同 志社ローマンス』10)に書かれているが、その月ヶ瀬の説明に『月瀬記勝』の冒頭の部分が引用されているのである。『同志社ローマンス』の著者 は同志社の教員松浦政泰であるが、このように引用されるほど普及して いたと言えよう。このようなことから「新島旧邸文庫」に見当らなくと も新島は読んでいた可能性は高いと考えた。しかし、仮に読んでいたと してもそのことだけで月ヶ瀬に出かけただろうか、とまだ疑問は残る。
2.動機②.誰かの勧めがあった
本井教授は、新島が月ヶ瀬に出かけたもう一つの動機として、「誰か に勧められたのではないか」と推測している。このことについて筆者は 次の要領で確認を試みた。
まず、新島が月ヶ瀬を訪れた明治20(1887)年以前に月ヶ瀬を訪れた 人を調べ、その人たちが新島と何らかの接点があったか否かを探ってみ た。
2-1 当時、月ヶ瀬を訪れた著名人
月ヶ瀬村史編集室編『月ヶ瀬村史』の「月ヶ瀬梅林を訪れた著名人一 覧表」11)に載っている人で明治20(1887)年までに訪れた著名人は次 のとおりである。
田中光顕、土井贅牙、草場船山、田能村直人、土屋鳳州、大槻修二、
長梅外、頼支峰、伏見文秀女王、久邇宮朝彦殿下、北白川宮能久親王。
西郷従道、鳥尾得庵、西園寺公望、井上毅(悟陰)、品川弥二郎、近衛篤麿、
渡辺棄民、中嶋信行、小牧呂業、柳沢保申、森琴石である。
当時、著名人が宿屋に宿泊したとき宿は揮毫を所望したようで、騎鶴 楼にも土井贅牙などの扁額がいくつも掲げられていた。土井贅牙以外の 人物についても月ヶ瀬梅林を訪れた証がその一覧表に明記されている。
その内容の一例を挙げると、北白川宮能久親王、井上毅(悟陰)は騎鶴 楼の宿帳に名前があり、騎鶴楼に揮毫を残しているのは、草場船山と森 琴石。近衛篤麿は詩と画帳を残している。その他、伏見文秀女王、西郷 従道、長梅外は書額、久邇宮朝彦殿下は画帳、品川弥二郎の書簡が残っ
ている。また、田能村直人の扁額が月ヶ瀬観光会館にある。この様に各 氏には月ヶ瀬を訪れた確証が残っている。
2-2 新島と親交があり、月ヶ瀬を勧めることができたのは誰か 上記の月ヶ瀬を訪れた確証のある人々の中で新島と親交のあった人は 誰だろうか?
次の方法で調べた。まず『新島襄全集』3書簡編Ⅰにある書簡の宛先 名をチェックし、次いで『新島襄全集』9来簡編の<上><下>により 同様の要領で調べた。更に、その結果を同志社山脈編集委員会編『同志 社山脈-113人のプロフィール-』(晃洋書房 2003)と本井康博著『新 島襄の交遊-維新の元勲・先覚者たち-』(思文閣出版
2005
)で新島 との関係について調べた。その結果、つぎの3名に絞られた。中島 信のぶゆき行 彼は自由民権運動のパトロンと言われる土どくらしょうざぶろう倉庄三郎宅に 何度か出かけて、そこで新島と出会っている。12)その縁があってか、
中島の次男と三男は同志社に入学した。又、中島は同志社大学の「小室・
沢辺紀念文庫」に書籍5,146冊を寄贈している。13)中島と新島との結び つきは強く、何度か新島と話す機会があった。
西郷 従つぐみち道 新島は、明治
17(1884)年3月に西郷従道を訪ね、徴兵
猶予の特典を私学にも適用してもらう陳情で1時間も話し込み、その時、西郷から好印象を得ている。
品しながわ川 弥や二じ郎ろう 品川と新島が古くからの知己であった。14)明治
17
(1884
) 年2月に新島は品川を訪ねて徴兵猶予の特典に関する陳情をしている。その時のことを新島は日記に「同君ニハ兼テ独乙国ニテ、面会セリ。中々 才物ナリト見ユ」15)と書き残している。
2-3 新島に月ヶ瀬を推薦した人がいたかどうか
上記の3名が月ヶ瀬を訪れたこと、そして、新島との面談したことに も確証がある。しかし、その面談内容は学校設立などの学校関連のこと が中心であり、新島に月ヶ瀬を勧める話が出たか、については不明であ る。従って、新島に強く月ヶ瀬を勧めた人が居たかどうかについては確
認することはできなかった。
しかし、この結果を新島が、かつて脱国を決断したことと重ね合わせ ると新島は誰かに勧められて行動するという人ではなく、主体的に行動 する人であったのではないか、との思いが出てきた。
3.月ヶ瀬への過酷な行程
新島のこの月ヶ瀬への訪問は早朝、京都を立ち、月ヶ瀬に夜の9時に 着くという行程であった。しかし、当時の学生の月ヶ瀬への旅は、『創 設期の同志社』(1986年)によれば、学生は早朝京都を出て、その日は 笠置に宿泊し、翌日、月ヶ瀬に到着というのが通常の旅程であった。かつ、
その道のりは、「深山幽谷の胸突坂を登り」とか「そこは、よほど決意 を固めないと、簡単には行けそうにないほどの不便な所」との月ヶ瀬を 訪問した体験者が言っている程の難所であった。その地域の地勢を『月ヶ 瀬村史』で確認すると「村の中央を横断してⅤ字形の渓谷を形成し、こ の渓谷を中心として梅林があるので「梅渓」の名を得ている。<中略>
しかし、この渓谷のため古くは交通の難所となり、昔のおもな街道はい ずれもこの地を避けている。」16)と書かれており、月ヶ瀬がいかに難所 であったかという事実が確認できた。このような難所を暗闇の中、夜9 時まで掛かって出かけたのは、余程の事があり、その事が強い動機となっ ていたのではないかと筆者は考えるに至った。
4.月ヶ瀬に出かけた強い動機
二つの動機以外の動機を考える時、新島が月ヶ瀬を訪れた時期に着目 し、発想した。明治20年4月1日というこの時期に、なぜ、月ヶ瀬に出 かけようと考えたのだろうか。「(4月)3日に小倉で予定」17)されて いた講演の「ついで」に出かけたとの考えもあるが、月ヶ瀬の難所から は「ついで」18)ということは考え難い。また、主体的な判断をする新 島の動機としては、「ついで」に出かける事も考えられない。そこで、
筆者は、その当時、新島が抱えていた難問への対応策や考え方について 梅の花が残っているこの時に月ヶ瀬の梅林の中で考え、方策などを発想 しようとしたことが動機ではないかと考えた。
5.明治20年4月ころに新島が抱えていた課題
新島は月ヶ瀬に出かける2ヶ月前の1月
30
日に父民治を亡くしてい る。きっと、心の中に大きな穴が空いたに違いない、その頃も新島の身 体は相変わらず、万全でなかった。そのような中で大学設立に向けて多 忙な日々であったが、そこに暗雲のごとく重くのしかかってきた困難な 問題が出現したのである。それは次の二つであろう。1.私学の生徒が徴兵されること
明治6(
1873
)年1月10
日に徴兵令が施行された。徴兵令は、国民皆 兵を理念としていたが、体格が基準に達しない者や病気の者などの免除 条件があった。その条件の中に「官立学校生徒」があった。言い換えれ ば私学の生徒は徴兵されることになったのである。そのため私学から官 立へ転出する生徒が増え、同志社も生徒の減少が続き、学校の存続にも 繋がる大きな問題であった。新島は多くの人に会い、善処方、陳情を行っ ている。2.一致・組合両教会合併問題
明治
19
(1886
)年3月、一致教会と組合教会との教会合同運動が起きた。当時の二大プロテスタント教派である組合教会(同志社系)と一致教会
(明治学院系)との間で教会(教派)合同の運動が展開された。新島は、
この問題に慎重であったが、教え子である 「熊本バンド」 の有力牧師た ちはほとんどが賛成派に回っていたので、彼は「実につらい立場に追い こまれた」。19)この問題は新島の歿後前後に終わるが、その間、心労が 続いたのである。
これについて次のような見解もある。「先生の晩年に、何よりも先生 の心を痛め、先生を悩ました最も大きな問題は、この両会の合併問題で あった。ために先生の生命は少なからず縮められたといっても、過言で
はあるまいと思われる」。20)
新島は、この動きがあった明治19(1886)年2月9日に松山高吉、小 崎弘道、湯浅治郎宛に関連事項について書簡を送っている21)ので、少 なくともその頃から脳裏から離れなかったものと思われる。新島は、こ の難問を月ヶ瀬の梅林の中でじっくりと考えてみたかったのであろう。
このことが新島が月ヶ瀬に出かけた動機であったと筆者は考える。
<第二部> 新島襄の「真理」と梅 1.新島襄が梅に寄せた思い
月ヶ瀬を訪れることについて明治
20
(1887
)年4月1日、新島公義に 宛てた書簡に「梅花之消息を問わんと欲し」22)とあり、本井教授の『敢 えて風雪を侵して』には、月ヶ瀬への動機は「大前提として、梅への思 い入れの深さ、これが指摘できます。」とあった。共に「梅」がキーワー ドになっている。また、新島が深井英五に色紙に書いて与えた漢詩「真 理似寒梅、敢侵風雪開」と最晩年、新島が大磯で療養中の作として知ら れている「庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁」にも「梅」が出てくる。
そこで、新島の「梅」への特別な思いがあると考え、それを探究する ことにした。まずは、新島の梅に寄せた思いを二つの漢詩を手がかりに して、解きほぐして行く。
1-1 漢詩「真理似寒梅」について
この漢詩は「真理似寒梅、敢侵風雪開」の十文字で「真理は寒梅に似 たり。敢えて風雪を侵して開く」と読み下され、直訳すると「真理とい うものは、寒梅に似ている。寒梅は、風雪に敢えて逆らうようにして、
耐えしのいで咲く。少し意訳をすれば、「真理」とは、課題達成までに 障害などの困難に直面し、それをしのいで成就するものである、と言う
ことだろう。また、「真理」の成就までの心がまえを言っていると考える。
この他に、新島としての課題達成の心構えについて書いたものが、広 津友信宛の明治
22
(1889
)年の書簡にある。「小生も出京以来、既に一ヶ 月を経過しつつあるに、何の収穫もなきに似たれども、今は農家におい て寒肥をかくるがごとし。来春は多少、収穫あるべし。ああ天下の事、比々(全て)皆これなり。吾人、豈軽々に失望落胆すべけんや」。23)
いわゆる寒肥は根の活動が一番低下している時期に施肥され、土の中 で時間をかけて分解された有機質の肥料は植物が吸収しやすい形に変わ る。そして根にダメージを与えることなく、タイムリーに供給すること にある。
寒肥の効用は自然の摂理であり、そこには「真理」を達成させる手順 や原則が含まれていると筆者は考える。即ち、「真理」を寒肥を例に考 えると、その内容を相手が理解できる熟れたものに変え、相手が理解す るまでの間、厳しい環境にあっても決して焦らず、それをかいくぐって いくことで自ずと成果が生まれる、ということであろう。その課程は寒 梅のそれと似たところがある。
同じような内容の書簡がもう一つある。新島から竹越与三郎宛に出し たものである。
「男児一戦して敗るるも已む勿れ。再戦して已む勿れ。三戦して已む 勿れ。刀折れ、矢尽きて已む勿れ。骨摧け、血尽きて已むべきのみ。真 理の為に擲つにあらずば、吾人の生命もまた無用ならずや」。24)この書 簡からは、新島の真理に対する壮絶とも思える強い側面が伺える。
この二つの書簡によって「真理似寒梅、敢侵風雪開」の意味が補完さ れた。
1-2 漢詩「庭上一寒梅」について
「庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁」は「庭上の一 寒梅、笑って風雪を侵して開く。争わず又力つとめず、自ら占む百花の魁さきがけ」 と読み下されている。
この漢詩の意味について同志社女子中学校・高等学校教諭平松譲二氏
はつぎのように言っている。「庭先の一本の梅の木、寒梅とでも呼ぼうか。
厳しい風に耐え、冷たい雪を忍び、笑っているかの様に、平然と咲いて いる。別に、誰かと争って、無理に一番咲きを競って努力したのでもな く、自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。まことに謙虚な姿 で、人間もこの寒梅のようにありたいものだ。」25)
この漢詩で「真理似寒梅」に加わったのは、「笑」と三句と四句であるが、
特に三句の「不争又不力」については、違和感があるので、調べて見た。
1-3.「不争又不力」について
前掲の小川与四郎著『新島襄の漢詩-行動による詩人の影を拾う-』
には、次のような解説がある。「第三句は、本来、梅は、他と争うことも、
また自分で早く咲こうなどと努力することもない」26)。竹越も新島の姿 勢について次の言葉を引用して講演している。
「草不謝栄於春風」「木不怨落於秋風」この意味は、草は春風に礼を言 わない、落葉は秋風に不平を言わないと言うことで、「(新島)先生は名 声を得ようと努めたこともなければ、不幸を避けようと努めたこともあ りませんでした。喜びや楽しみが側を通りすぎるならば通りすぎるにま かせておき、その後を追うことはありませんでした。先生は一切を自然 の成り行きにまかせたのであります。」
この二つの解説で筆者が理解できないのは「他と争うことも、また自 分で早く咲こうなどと努力することもない」と「別に、誰かと争って、
無理に一番咲きを競って努力したのでもなく・・・」、そして、竹越の
「先生は一切を自然の成り行きにまかせたのであります。」という解釈は、
新島の学校創設への積極的な行動と重ね合わせてみるといづれも受け身 的で消極的だと筆者は感じる。このことについて竹越は「先生は、臨終 の床で『わたしは天にむかって不平を言わないし、誰の中にも欠点を見 出さない』と言われたのです。先生の生涯は天に対する信頼をもって始 まり、天を楽しむことで終わりました。」27)これは新島が死の前日に言っ たと言われている「天を怨みず人を咎めず」のことである。
新島の「真理」に対する強い姿勢や信念と併せて、このような哲学を
持ち合わせていたのだと理解した。
4.新島にとっての「真理」とは?
4-1.命を賭す「真理」の例
「真理」の持つ意味は深淵である。単純に「正しい道理」という意味や「例 外なく適用され、それ以外には考えられないとされる知識や判断、考え 方」など様々である。又、「真理」は、それを主張する人の信念、信条、
思想にもなり、より強固な「真理」になっていく。その主張内容が当時 の体制や宗教、常識などと異なるとそれを理解、普及させることは、当 然、至極困難であろう。その困難を克服するためには、更に強い信念と 自己の立場や命までも賭す覚悟が必要となろう。
そのような厳しい例を古く西洋の歴史に見ると、ポーランド出身の 天文学者ニコラウス・コペルニクス( Nicolaus Copernicus、1473~
1543
)がいる。「それでも地球は動く」と呟いたのはガリレオ・ガリレ イ(Galileo Galilei)だったが「地動説」を唱えた人物はコペルニクスで ある。当時のキリスト教神学は、人間の住む地球は宇宙の中心であったが、
そこにコペルニクスは地動説を唱えた。当時、彼はキリスト教義に反す ると尋問にかけられ、火あぶりにされた学者や知識人もいた程であるの で、地動説を唱えるには、命がけの覚悟が必要だった。
もう一つ、ピルグリム・ファーザーズ (Pilgrim Fathers)のことが思 い出される。彼等は、イギリスのピューリタンで、メイフラワー号に乗っ て、信仰の自由を求めて命がけで大西洋を渡り、アメリカに向かった。
1620
年11
月、厳寒の北アメリカ大陸のプリマスに到着した。彼らは厳寒 の間、メイフラワー号の船内で過ごしたが、寒さと飢えから壊血病、肺 炎、結核などが発生した。その冬を生き延びたのは、僅か半数の人たち だけであった。このように真理を求めるとき、困難に耐え、厳しい中で も秘めたる生命力により、やがて花開くという事例である。日本の事例では、経済学者であり自由主義思想家として著名な河合栄
治郎を挙げることができる。彼の著書『学生に与う』で、祖国の難局を 克服しうる精神的条件としていくつか挙げているがその中に「大事を貫 徹せずんばやまない執拗な意志、自己の持ち場を命を賭して守る誠実と 真剣さ」28)を掲げている。彼は戦時中、国家主義の政府に挑み、その ため東大教授は休職となり、裁判で被告になったが自己の理想主義思想 を貫いたのである。
以上のように「真理」は、様々であるが、その達成には、文字通り命 を賭す努力が不可欠であることは確かである。では、新島の場合、何が
「真理」だったのであろうか。
5.新島の「真理」は「自由教育 自治教会 両者 併行 国家万歳」
29)この言葉は、新島が学生の横田安止への明治22(1889)年11月23日に 出した手紙の中にある「小生の畢生の目的は、自由教育 自治教会 両 者併行 国家万歳」30)からのものであるが、新島は大久保真次郎、広 津友信にも書き送っている程、当時、新島は良く使っていた言葉である。
この言葉は「かれの信仰、哲学、また教育思想を凝縮した言葉」31)
であり、「彼の畢生の目的が何であるかを端的に示すもの」32)とも言わ れている。従って、これこそが新島の「真理」と言えるだろう。
これは、わずか
16
文字で標語的な表現であるが、その内容と意味する ことは深く、重いものだろう。これを横田に宛てたのは、新島が死去す る2ヶ月前のことであるから、まさに新島の人生のすべてがそこに凝縮 しているのである。では、この「真理」が誕生するまでの経過を見てみ よう。新島の人生のある時点では「キリスト教、デモクラシ-、全人教育の 3つが新島にとっての『真理』」33)と言え、また、「新島の9年間の米 欧生活から得た結論で、欧米文明を根底において支えているものは、全 人教育とキリスト教とデモクラシーである」「祖国を近代化するために は、欧米文明を移入するだけでなく、祖国にキリスト教主義大学をつく
り」そして、「自治自立の人民を育成すること」との結論を得たときもあっ た。
加えて、新島は明治
17
(1884
)年の二度目の欧米訪問中に病状が悪化 し、遺書まで作成するほどの切羽詰まった場面に遭遇したが、そのこと から為すべきことは、一段と明確になり、明治21
(1888
)年5月に彼は、「存命中は何事であっても神や国家、あるいは同朋に対してつくす覚悟 です」34)と土倉庄三郎の手紙に決意を述べているが、このように徐々 に彼の考える「真理」が固まっていったのであろう。
6.新島の「真理」のベースにあるもの
新島の「真理」が固まるまでには、いくつかの要素が潜み、構築され ていったと考える。各々の要素は、あるきっかけで発想され、それが種 となり、やがて「真理」へと統合していったと考える。それらは同時並 行的に思いが過ぎったものもあると思われるので、記載は順不同と考え ている。
6-1.国家のために
新島は父民治宛に慶応2(
1866
)年2月21
日の書簡で脱国の思いを 次のように語っている。「此挙敢て君父を捐るに非ず。且つ飲食栄華の ためにもあらず、全く国家の為に寸力を竭さんと存じ、中心燃るが如 く、遂に此挙に及び候」。35)また、既述の土倉への手紙にも同じことが 書かれている。同志社女子大学教授武邦保氏は「新島襄の究極にあるも の」36)の副題に「祖国愛」を掲げているが、相通じるところがある。新島は、脱国前に『連邦志略』を読み、素晴らしい国家体制を知り、「近 代国家」に関心を持ち、追求を続けてきた。帰国後、政治活動に没入せ ず、企業経営や起業することに関心を示さず、ひたすら日本を近代国家 にするために学校づくりに全力を投じていることからも「真理」のベー スに「国家のために」があったことは明白である。
6-2.キリスト教
新島は早くから中国語の聖書を読み、そこに「天父」を発見している。
その「天父の思想を学びたいという強い願望が彼の密航の動機の一つに なっている」。37)彼はアメリカへの渡航中に短刀を売って、聖書を購入 するなどアメリカに行くまでに、既にキリスト教に強く惹かれていた。
アメリカに渡った後もフリント夫妻という最適の指導者を身近に得た り、ハーディーやアーモスト大学のシーリー教授など敬虔なクリスチャ ンに囲まれて暮らし、大きい啓発を受けている。単に文字からの信仰で なく、生活の中で得た信仰心は深いものがあったであろう。加えて、彼 はアンドーバー神学校を卒業。後にアメリカンボードから宣教師に任命 されている。『同志社大学設立の旨意』の中で「キリスト教主義を徳育 の基本とした」と明確に意志を表明している。これらのことから新島に とっての「真理」のベースには、キリスト教があったことは言うまでも ない。
6-3.デモクラシー
新島は「脳髄が頭からとろけ出る程驚いた」とされる『連邦志略』で 大統領制や月謝の要らない学校、貧民救護所などを知り、「人間の自由 を保障するような政府をつくるにはアメリカの大統領制が望ましい」38)
と考えていた。
また、新島がアメリカで学んだ所は「ニューイングランド的ピューリ タン的気風が濃厚で『自由、自治、独立、清潔、潔白の精神』が漲って いる所であった」。「そこには信念としての民主主義が確たる根を張って いた。」所であり、新島はそこで体験的に得た「生活原理たる信念とし ての民主主義を持って帰国し、これを実践した。」39)のである。
なお、「民主主義」は、やがて、「国からの自由」や「自立した個人」
というレベルにまで昇華していったと考える。
6-4.人物の養成
新島の志は、日本を第二の清国にしないことであり、近代国家にする
ことであったが「国家の近代化にはまず国民が近代化されなければなら ない、即ち欧米文明を根底において支えているキリスト教の生き方を学 び、教育の力によってデモクラティックな人間を形成する大切さを米欧 の生活と見聞から結論づけた」。40)
新島は、『同志社大学設立の旨意』の考え方を徳富蘇峰に示している が、その中につぎの文章がある。「教育ノ目的ハ智徳併行ニシテ人物培 養成ノ一点ニ止マレリ、人才ニアラスシテ培養成ニアラス人物培養成ノ 意ナリ」。41)大学は「一個の人間として、人類最高最大の賜である人格 の完成に向かっての努力が払われなければならない。寧ろこのほうが主 であって、学問知識技能は従たるべきだ」。このことが『同志社大学設 立の旨意』には「良心を手腕に運用するの人物」や「一国の良心とも謂 ふ可人物を養成せんと欲す」という不滅の名句となって表現された。42)
近代国家の形成のための「人物」を明確にしていることにより、実現の 可能性は大きくなる。
6-5.自由
新島は密航理由書の中で「何故幕府は我々を自由にしないのか」と幕 府打倒を述べているように、江戸にいた頃から権力への反発を抱いてい た。彼は森少弁務使から留学費用を国が負担しようという誘いを断っ ているが、「高い目的の実現のために、常に自由でありたいと考えてい た」43)のである。
「 自 由 」 の も う 一 つ の 側 面 は、 明 徳 館 の 壁 面 に あ る「VERITAS
LIBERABIT VOS
」「真理はあなた方に自由をえさせるであろう」(ヨハネによる福音書8の32)という聖書の言葉に関係してくるであろう。
7.「自由教育 自治教会 両者併行 国家万歳」の 意味するところ
これは、新島は晩年になってに辿り着いた「生涯をかけての目標」44)
である。まず、「自由教育」の意味であるが、酒井康教授(名誉教授・
元同志社女子大学学長)
.
は、つぎのように所見を述べている。「同志社の自由教育を考える場合、私は、新島の思想・信念に学びな がら、次の三つの点に注目しなければならないと思う。すなわち、第一 は、官学に対する私学の自主独立性である。それは国家権力に支配され ず、国策の手段とならぬ、教育の非権力的主体性の確立、教育自決権の 樹立ということであろう。」「第二は、個性尊重、個性実現の教育」「第 三に、私は新島の自由教育の思想に、リベラル・アーツの教育という一 面のあることを無視することはできないと思う。」なお、「自由」の意味 は、前述のようにキリスト教との絡みがあり、意味の深いものであるこ とに留意する必要があろう。
つぎに自治教会とは、「各個の教会の自治を尊重すること」であ る。45)しからば、自治とは何か。同志社大学文学部教授で当時、同志 社教会史編集委員長であった志賀英雄氏は「自治の理念は、福音の真理 が自由に説かれるべき教会を指すと同時に教会の運営における自治権を も意味する」46)と説かれている。
そして、「新島は専制主義と中央集権を排除して真理に根ざした自由 と自治の振興を教育と教会を通してはかろうとした。ここに彼の畢生の ねがいがあり、国をおもうこころがあった。」47)
この「真理」の背景や具体的な行動レベルでの内容は、「同志社大学 設立の旨意」に包含されている。と言うよりもこの「真理」は「同志社 大学設立の旨意」を凝縮して、格言のような表現になったものとも言え る。
では、新島は、この「真理」の実現のために「寒梅」に習ってどのよ うな行動をとってきたのであろうか。つぎに概観してみる。
8.新島の「真理」に向かっての行動
新島は欧米で修得した知識と体験からの「真理」をラットランドでの アメリカン・ボード第
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回年次大会で訴え、支持され、思わぬ額の献金 が集まった。新島は志を抱いて帰国したが、活動拠点が定まらず、右往左往し、やっと仏教界の中心地京都で強力な支持者山本覚馬に出会い、
学校に適した土地を得て活動を開始したが、数々の障害が出現する。当 時の許認可も大元は東京にあったことから、急用の場合、新島は病身な がら、「昼夜兼行で、陸路東海道を二人曳きの人力車」48)で移動するな ど文字通り捨て身の努力をした。また、学校開設を順調に運ぶために、
新島は「士族」を捨て「平民」になることも辞さないという私利私欲を 顧みない行動と「ねばりにねばり、強硬な交渉を懸命につづけた」49)
結果、「相国寺門前に基督教主義の学校を建てる事は、人間が空中を飛 ぶがごとき、不可能の事である」50)と言われていた事を新島は成し遂 げ、明治8(1875)年11月29日に同志社英学校をスタートさせた。しか し、その後、アメリカンボードから派遣の外国人宣教師との「主役・脇 役」の問題が持ち上がったりしたが、「真理」に向かっての懸命な努力 を新島は続けたのである。また、新島は一方的に主張するだけではなく、
時には、最終目的のために柔軟な姿勢も示している。例えば、「明治専 門学校設立の義捐金募集運動を進めるに当たって、従来の同志社の名を 冠したものを同志社学院の冠称に一時的に改めている」。51)その学校設 立の義捐金募集にも新島は精力的に子爵、男爵を筆頭に著名人に懇願し、
実績を上げている。その間に、「自立」、「自主」、「自由」を脅かす教会 の合同問題が起こり、これには、新島も手を焼いたが、後々まで粘り強 く対応した。
以上が新島の行動の一部である。これらを経て、「同志社大学設立の 旨意」に書かれている内容が整備されて行き、「同志社大学設立の旨意」
が発表され、設立の運びとなった。
この間の新島の努力と経過は、まさに寒梅の成長に似ている。彼は寒 梅を見て、イメージして「真理」の達成に向けての心構えや行動基準を そこに求め、私利私欲に囚われず、不断の努力と反省を粘り強く行い、
あるべき国家の創造のために同志社大学設立に向けて文字通り命を賭し た努力を重ねた。これは、とても感動的な史実であると言えよう。
9.おわりに
筆者は月ヶ瀬に出かけることから新島と梅の関わりについての学びが スタートした。その後、新島にとっての「真理」や「真理」への姿勢や 対応の実際を探った。その思考過程で何度か壁に突き当たり、「今後の 課題としたい」と先送りして筆を置こうとした。しかし、新島の姿勢に よって刺激を受け、激励され、挫折を乗り越えてきた。その筆者の行動 が既に新島の姿勢から学んでいる事に気づき、驚いている。
今回の研究で新島の核心に少し近づくことができ、新島襄の偉大さを 再認識できたのは、先行研究者の偉業に拠るところが大である。従って、
引用文献や関係資料を可能な限り入手し、原文に当った。その時、新し い資料が次々と発掘される「調査の連鎖」も楽しむこともできた。何よ りも今回の研究から筆者は新島研究の幅の広さと深さを再確認でき、そ れらの解明に更にチャレンジしようという意欲が少なからず湧いてき た。このことは筆者にとっては大きな喜びである。
注
1) 新島公義宛書簡(明治20年4月1日付)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』
3巻(同朋舎、1989)p.457
2) 野田宇太郎は三回目の昭和42(1967)に月ヶ瀬を訪れた時、騎鶴楼の宿帳に新 島襄の名前を見つけたことを『明治村通信』第36号の「大和月ヶ瀬の新島襄」
に詳細に書いている。
『明治村通信』とは、愛知県犬山市にある博物館・明治村が1970年から1995年 までの25年間に亘って発行されていた月刊誌。野田氏が新島の名を発見し、詳 細を書いた第36号には、住谷悦治、田畑忍、オーテス・ケリー他15人から新島 関連の論文が寄せられた同志社の特集号であった。
3) 本井康博『敢えて風雪を侵して』(思文閣出版、2007年)p.67 4) ウイキペディア「月ヶ瀬梅林」(2012.8)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%83%B6%E7%80%AC%E6%A2%85%E6%
9E%97
5) 稲葉長輝『歴史散歩 月ヶ瀬梅林』(月ヶ瀬観光協会、2003年)p.23 6) 月ヶ瀬村史編集室編 『月ヶ瀬村史』(月ヶ瀬村、1990年)p.972 7) 本井康博『敢えて風雪を侵して』(思文閣出版、2007年)p.66 8) 稲葉長輝 前掲p.67
9) http://kindai.ndl.go.jp/ 国会図書館が明治以降に刊行された図書・雑誌のうち、
インターネットで閲覧可能なデジタル化資料を公開している。
10) 松浦政泰『同志社ローマンス』(警醒社 1913年)の108「十五人組の月瀬行」
pp.319-323
11) 前掲『月ヶ瀬村史』p.1074 12) 『新島襄全集』5巻 p.123
13) 「貴重書デジタル・アーカイブ」: 小室・沢辺紀念文庫
http://elib.doshisha.ac.jp/japanese/digital/komuro_sawabe_kinen.html
14) 木戸孝允の明治6(1873)年5月26日の日記に「品川[弥二郎」と新島両度ハー ク[公園]其他を散歩せり。」とある。
15) 『新島襄全集』5巻 p.255 16) 前掲『月ヶ瀬村史』p.1
17) 前掲『敢えて風雪を侵して』p.69 18) 同上 p.66
19) 同志社大学ホームページ「新島襄ものがたり17 教会合同運動」8/28/2012 http://joseph.doshisha.ac.jp/ihinko/bubun/story/17.html
20) 「一致・組合両教会合併問題について」と題した新島の組合教会委員あての意見 書(草稿)の「まえがき」の一部分。『新島研究』19号(1959年7月)p.19 21) 『新島襄全集』3巻 pp.386~387
22) 前掲、新島公義宛書簡(明治20年4月1日付)『新島襄全集』3 p.457 23) 同志社編『新島襄の手紙』(岩波文庫2005年)p.306
なお、口語訳は『現代語で読む新島襄』(丸善2000年)p.244にある。
24) 竹越与三郎「君はなお生く、とこしなえに生く」『新島研究』60号(1981年2月)
p.5 なお、口語文は、『新島襄全集』10巻 p.371 にある。
25) 『同志社時報』第128号(2009年)表紙裏
26) 佐伯彰一著『文学的アメリカ―雑種社会の可能性』(中公新書1967年) のp.45
27) 『新島襄全集』10巻 pp.371~372
28) 河合栄治郎著『学生に与う』(社会思想社「現代教養文庫」1997年)p.14 29) 広津友信宛書簡『新島襄全集』4巻(1889年11月)p.254
30) 同志社編『新島襄の手紙』(岩波文庫 青106-1)p.301/『新島襄全集』4巻 p.254 31) 原誠「自由教育 自治教会 両者併行 国家万歳」『同志社時報』126号(2008年)
表紙裏
32) 井上勝也『新島襄 人と思想』(晃洋書房1990)p.157 33) 上記p.168
34) 現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善2000年)p.207 35) 『新島襄全集』3巻 p.27
36) 竹越與三郎 前掲「君はなお生くとこしなえに生く」『新島研究』60号p.8 37) 井上勝也 前掲書p.27
38) 同上p.255
39) 関口徹「民主主義の発展と新島襄」『新島研究』29号(1964年4月)pp.22~23 40) 井上勝也「新島襄の大志 -日本の近代化のために-」『新島研究』第83号(1993
年11月)pp.48~49 41) 『新島襄全集』3巻 p.648
42) 「人材の養成にあらず人物の養成にあり」『新島研究』6号(1955年9月)p.1 43) 井上勝也 前掲書p.241
44) 竹中正夫「畢生の目的・自由教育・自治教会」『同志社時報』87号p.124 45) 同上
46) 志賀英雄「自由教育と自治教会」『同志社時報』66号(1979)p.55 47) 竹中正夫 前掲書p.124
48) 森中章光「転籍問題と学校開設の認可運動 -同志社英学校開校前史-」『新島 研究』47号(1976年11月)p.42
49) 同上p.43
50) D.Wラーネッド博士「同志社創立の回顧(1)」『新島研究』12号(1956年12月)
p.35
51) 『同志社百年史』通史1 第一部創業と成育 第九章大学設立義損金募集運動 p.272。
筆者は騎鶴楼の宿帳に深井英五他の同志社の学生が自分の肩書きとして「同志社 学院」と書いていたことを見つけた。(次の写真を参照下さい。筆者が撮影)