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新島襄の足跡を辿る 南九州編

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新島襄の足跡を辿る 南九州編

著者 田島 繁

雑誌名 新島研究

号 110

ページ 163‑179

発行年 2019‑02‑12

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000623

(2)

新島襄の足跡を辿る 南九州編

田 島 繁

ポイント

1.新島の日向伝道には不明なことが多い。(全集第8巻)

新島の「雑記帳」を読むことで、「宮崎滞在11日」「鹿児島滞在11日、帰路は 鹿児島港から神戸港、帰京は7/21」と判明。

2.同志社発行『新島襄 その時代と生涯』1)の「伝道」で、佐賀関の地図上の位置

が違う。

3.[提案]新島の1年後、森有礼ら19人の薩摩藩士が密出国し、イギリスで勉学。

帰国後いろいろな分野で活躍した。4年前オープンした「薩摩藩英国留学生記 念館」の展示を見て、新島の生きざま、偉業を知る「新島襄の生涯」常設展示 館を、同志社創立150周年事業として、脱国ドラマの詰まっている函館に、函 館市と協力して創ってほしいと強く思った。

[実施内容]

2016年4月15日実施を熊本・大分大地震で2016年9月28日に延期し た。

[参加者]

畝目襄治、河村隆夫、蔵岡信彦、森永長壹郎、田島繁、岸本展、阿部泰 士、竹山由利子 計8名

[日程と訪問地] *実施した神戸は、次回「三田、岸和田編」(2017年4月 実施)と一緒に発表

9/28(水)

神戸女学院見学(12 : 30-13 : 30)〜神戸女学院「創設の地碑」〜宇治野英 語学校(この辺り)〜神戸教会(菅根牧師16 : 00-16 : 40)〜神戸港、宮 崎カーフェリー 19 : 10発

(3)

9/29(木)

宮崎港(8 : 40着)〜宮崎教会(竹前牧師9 : 15-10 : 15)〜都城・明道小

(13 : 10-40園田校長、池袋清風歌碑)〜都城妻が丘教会(山田牧師14 : 00)〜鹿児島中央 駅(16 : 22着)〜「薩 摩 の 群 像」(駅 前)〜「西 郷 洞 窟」

(西南戦争本陣)、城山公園(市内眺望)〜鹿児島校友会と交流会(熊襲 亭、小正校友会会長、大久保副会長、18 : 30-20 : 30)

9/30(金)

中塚洋子同窓会長と森永同幹事の車で、「キリスト教伝来の地」ザビエ ル公園〜新島宿泊の汐見丁(今は住吉町)野口家跡(この辺り)〜五代 友厚像〜森有礼生誕碑〜鹿児島教会(尾崎牧師9 : 30-10 : 00)〜維新ふ るさと館(福田名誉館長10 : 10-12 : 10)〜鹿児島中央駅(12 : 29発)〜

串木野 送迎バスで森有礼ら19人の密出国碑、「薩摩藩英国留学生記念 館」(13 : 25-14 : 10)〜鹿児島中央駅(15 : 12着)〜空港バスで鹿児島空 港(16 : 10/17 : 00発)〜Skymark 神 戸 空 港(18 : 05着)〜京 都 駅(19 : 59着)

Ⅰ.新島の日向伝道

1.新島襄はなぜ宮崎に伝道に行ったのか(日向伝道)

1879年城ケ崎(宮崎市)の開業医 林武一(横浜のヘボン宣教師より受 洗。神戸教会員)が神戸のO. H. ギューリックに「30人受洗希望者がいる。

宣教師を派遣してほしい」と『七一雑報』に掲載した。

神戸の宣教師はみな忙しく宮崎に行ける人がいなかった。そこで準宣教師 の新島が卒業したばかりの小崎弘道を同伴して宮崎に向かった。(『宮崎教会 百年の歩み』2)

2.どの経路でいつ行ったのか。

1879(明治12)年6月19日神戸港から蒸気船山城丸で大分県佐賀関(6/

21)へ。私は2年前1月29日「同志社フェアin 熊本」に参加する為、神

戸港からフェリーで大分へ。バスで佐賀関に。

(4)

*同志社発行「新島襄 その時 代 と 生 涯」1)の「伝 道」の 佐 賀 関 の地図上の位置が違う。

新島はその後、船で下の江、鯛 名 に6/25。歩 行、馬、駕 籠 に 乗 り、美 々 津、都 農(泊)、高 鍋6/

26、広瀬、宮崎(泊)、渡し船で

城ケ崎6/27。9日後に着き、林武

一氏に会った。

3.伝道の成果は?

雑報社「扨当地の景況ハ殊によ ろしく、去る廿七日の夜ハ一ヵ所 に説教せしに三四十の聴聞人あ

り、又昨夜の集まりにハ七八十人も来りて別に家の外に立者もあり、又昨日 午前にハ私ども宮崎に至り或る医者の家に集まりを為しにも聴聞人ハ多く宮 崎病院の生徒にて、人数ハ少なけれども結果ハ却ておほかるべしと思はる」

(『新島襄全集』第3巻3))と。

この後、新島は当地に止まり、小崎は林氏と高鍋に行く。

4.ここで疑問が

林医師は「受洗希望者が30人もいる」と要請したのに、なぜ林医師は受 洗希望者に6/29の日曜日、受洗を働きかけなかったのか。神戸教会は会衆 派教会で同じ教派だから教義や儀式に違和感はないと思うが…。新島の説教 が合わなかったのか。林武一医師は横浜のヘボン宣教師から受洗した。アメ リカ人宣教師が来てくれると期待していたのか。または新島の堅い話で聴衆 が少しずつ帰っていった福井のように(「福井ニ於テ聴衆窓外ニ出ツ」全集

第2巻p.150)、受洗希望の求道者も引いてしまったのか。または新島は夏

休みを利用し長くいる予定だったから洗礼を急がなかったのか。

写真1 佐賀関の地図

(5)

5 .新島の日向伝道には不明なことが多い

4)(『新島襄全集』第8巻、

p.190)

「新島は十余日にして巳むを得ざる事故により京都に帰り小崎独止りて伝 道…」と。

疑問点①宮崎での滞在日数がはっきりしない。②鹿児島での新島の行動お よび帰路の行程は不明である。③帰京は6月末か、7月初めとある。これと 同内容の記述がデイヴィスへの英文書簡には7/21と。ただし3週間ほどの ずれがある。

6.私の見解「宮崎滞在は 11 日」

①新島の「雑記帳」(『新島襄全集』上0938)の画像ファイル5)10938013[写 真2]に、8)Boat for Kagoshima(hired)とある。即ち7月8日福山港から 鹿児島港に船を貸し切って渡った。#(値段)は30+10+7=47銭(今の価 格約10,000倍し4,700円程、参照最後のp.177)

②雑報社『新島襄全集』第3巻、p.166(「七一雑報」への新島の報告)の最 後に、「説教日ハ日曜日の外二七四九(6/27、7/4、7/9?:筆者注)と定め、

宮崎にハ毎週一度の説教と定め」と。6/30(月)に帰ったならこんな報告は できない。次の日曜日は7/6(日)である。この日の説教が終わった翌日7/

7(月)に宮崎を離れ、鹿児島県福山に向い宿泊。翌7/8(火)に船を貸切

って鹿児島港へ。宮崎滞在は6/27-7/7の11日間となる。

写真2 雑記帳の画像ファイル10938013

(6)

7 .私の見解 「鹿児島滞在は 11 日、帰路は鹿児島港から神戸港 へ、帰京は 7/21」

①新島の「雑記帳」の画像ファイル10938014[写真3]に、

「18)#600 Steamer」と。即ち7/18に鹿児島港から蒸気船に乗った。(その 行の上に「Hotel 石ヅロ通 山下十次郎」とあるから鹿児島港発の汽船に 間違いない。そして2日後の「7/20 午後5時神戸港に到着」(『新島襄全

集』8巻p.191)とつながる。鹿児島での滞在日数は7/8-18の11日間とな

る。神戸着は7/20日曜で西宮に1泊。帰京は翌7/21である。

8.新島の宮崎滞在中に同志社から「早く帰れ」との電報が来た。

どんな内容か

「法律の定めに従って、学校設立のことと、外国人教師傭い入れのことに ついては中央政府からの許可を得ることを余儀なくされたのでした」(『新島 襄全集』第10巻p.2416))「6/2ゴードンの雇入願いを京都府に提出。6/6京 都府の横井学務課員らが同志社構内視察の際、デイヴィスが聖書を用いて講 義をしていた。新島は府庁に呼び出され尋問。6/7知事宛に弁明書を提出し たが、(槙村)知事は差戻。6/15に弁明書を書き替えて提出した。出発の前

日6/16、森有礼(外務大輔)に手紙を出した。そして6/24新島不在中に府

学務課員がまた同志社を視察。7/22宣教師らはこの頃「政府の同志社の資 金に対する疑いから新島が逮捕されるかも知れない」(全集第8巻p.191)

写真3 雑記帳の画像ファイル10938014

(7)

と心配した。「廃校の危機」的状況が電報の中身であろう。

半年前の全集第8巻を読むと、「1879. 1. 28ラーネッドの雇用継続願を京 都府に提出。2月初 ラーネッドの居留地外僑居免状の更新につき府庁より 異論。この頃、知事が政府に対し、新島は教育を口実にして学校を始めた が、彼の真の意図はキリスト教の布教にあると報告した、という噂が流れ た。政府が同志社の外国人教師への免状の交付を渋ったのはこのためではな いかと。新島は森有礼(外務大輔)に面会するために急遽東上。2/13森有 礼「学校経営をアメリカン・ボードの資金に依存せず、自己資金で行うな ら、外国人教師の雇い入れは自由だ」(全集第8巻p.185)と。

新島は日向伝道から京都に帰った7/21、デイヴィスに「昨日午後5時に 神戸に着き西宮に一泊しました。(中略)今朝9時過ぎに帰宅した。まだ山 本氏に会っていないが、今度のdifficulty(困難)は余り深刻なものではな いと思います」(全集第6巻p.193:著者訳)7)と、楽観的であった。しかし、

9/4、ハーディ氏に「政府の圧力に対抗して教育水準を高めるためには資金 が必要であること、もし必要ならボストンに行くつもりであること」(全集

第8巻p.191)と、ガラッと変わって切実である。

全集10巻の日本語訳p.245には10万ドルとは書かれていないが、全集6 巻の英文書簡には Furthermore if they would not give us a desired fund(at least $100,000)I will try to present my petition to wealthy individuals in the

States. (全集第6巻p.199)と最低10万ドルが必要であると訴えている。

それに対し、11/5アメリカン・ボードより「外国教育のため設定した分よ り八千ドルを、毎年同志社に寄付する」(全集第8巻p.194)との手紙に、

新島は「『主が助けて下さった!』と思わず叫び」(全集第10巻p.251)涙 を流したと神様に感謝している。新島は外国人教師の雇い入れと教育水準を 高めるための資金に絶えず頭を悩ましていたことが分かる。

10年後の1889年、同志社はJ. N.ハリスから理化学校設立のための10万 ドルの寄付を受ける(『現代語で読む新島襄』p.2648))が、この新島の「10 万ドルの資金を」という訴えがアメリカ人の篤志家の心に届いたといえよ う。

(8)

Ⅱ.私たちの訪問先

1.宮崎教会

私達は神戸港からフェリーで12時間で宮崎港に到着。すぐに宮崎教会を 訪れた。竹前篤牧師夫妻は同志社教会の望月修治牧師夫妻をよくご存じで、

『宮崎教会百年の歩み』を戴いた。

教会前史として、「1978(明治11)年、林武一は横浜で宣教師ヘボンから 受洗、神戸教会員であったが、6月26日兵庫港を出帆し28日鹿児島港に到 着。宮崎・城ケ崎で医療に従事する傍ら伝道活動を開始。宮崎病院の医員荻 原百々平の協力で宮崎・高鍋等の伝道を行う。1879(明治12)年5/16、林 武一が『宮崎・城ケ崎に受洗を願う者30名もある。宣教師に来てもらいた い』と神戸のO. H. ギューリックに要請したと『七一雑報』に掲載。6/19、

同志社より新島襄と同志社余科(神学科)を同月日卒業した小崎弘道、山城 丸という小汽船に乗り神戸港を出発。佐賀関と下の江港を経由して土々呂村 に上陸、陸地を経て26日に宮崎に、そして27日城ケ崎に到着。27日(金)

林武一宅で説教会を開催。5・60人の聴聞者有り。6/29(日)新島襄と小崎 弘道は宮崎町の医師(荻野百々平?)の家で日曜日の礼拝を守る。6/30

写真4 宮崎教会(中央竹前牧師)

(9)

(月)小崎は林に付き添われ高鍋に。7/10(木)小崎は新島公務のため帰洛 の要起こり高鍋から城ケ崎に帰着」(『宮崎教会百年の歩み』p.22)

5/16、林武一が『七一雑報』に「宣教師要請」の記事を載せて3日後、6/

19に新島は卒業したばかりの小崎弘道を同伴して宮崎に向かう。何と素早 い対応であろう。それに外国人宣教師の雇入れ問題で京都府や国ともめてい る時になぜ?「鹿児島開教には同志社系の組合教会信徒が介在する。その翌 年の新島の南国入りには失地回復の意図が・・・」9)。日本郵船会社の神戸 定期船発着一覧表(1899年明治22年)10)を見ると、神戸発鹿児島行は1/12 のみ、鹿児島発神戸行は1/8と1/29の月2便のみだ。林武一のように神戸 から鹿児島行きの汽船が出ていなかったから大分・佐賀関経由になったので あろう。小崎は新島が京都に帰らねばならないと知ったのは6月末や7月初 めではなく、城ケ崎に帰る7/10(木)の数日前であろう。

竹前牧師は共愛幼稚園の園長を兼任し運動会の練習中であった。参加者の 森永先生の奥さんは「共愛幼稚園」の卒園生で、S. A. クラーク宣教師のこ とをご存知でビックリした。牧師夫人の車でそのお墓に連れて行ってもらっ た。アメリカン・ボード派遣のS. A. クラーク宣教師夫妻は新島が亡くなっ た2年後、熊本から宮崎教会に着任し、共に30年以上宮崎宣教に捧げた。

O. H. ギューリックの働きかけがあったであろう(クラーク夫人の名はハリ

エット・ギューリックで、神戸のO. H. ギューリック宣教師の姪である)。

宮崎教会は建物の前がクラーク通りと市民に親しまれ、パイプオルガンのあ る教会員93人の立派な教会に育っていた。

『宮崎教会百年の歩み』には石井十次は荻原百々平の勧めで岡山医学校に 入学。岡山教会の金森通倫から受洗し、日向伝道をする。オーティス・ケー リや海老名弾正、宮川経輝、牧野虎次など新島襄から始まって同志社の教授 や牧師、会衆派の宣教師らが宮崎教会を育ててきたことを知った。

2.池袋清風の歌碑

都城城南教会の山口元気牧師にFaxしたら、池袋清風の歌碑は都城市立 明道小学校にあると。JR西都城駅で下車し徒歩8分。明道小学校の園田校 長に案内してもらった。学校の校庭に大きな歌碑「古郷の雲なつかしき夕ぐ

(10)

れに鳴こそわたれ天つかりがね」清風。清風は「鹿児島女子師範学校の教師 となり、英語の勉強を志している処へ、校長から新島先生が鹿児島からも数 名生徒を送って貰いたい。一人や二人の学費はどうにかなると聞き、外の者 より第一に自分が行きたいと言い、教員を辞め、34歳で同志社英学校に入 学した」11)。清風は身体が弱く、年中着ぶくれで清風翁と呼ばれ学生に和歌 を指導した。日記魔で詳細な『池袋清風日記』12)がある。晩年都城に帰り基 督者として牧師を助けた。『都城城南教会創立100周年記念誌』に都城に於 て最初に基督教信者となった人は池袋清風であると山口牧師が教えてくれ た。清風は都城出身の有名な歌人で、明治33年都城で永眠54歳。山口牧師 は、遠い遠い親戚の方が都城城南教会に通っておられたと話し、同志社出身 の山田雅人牧師の都城妻ヶ丘教会訪問を勧めてくれた。何と山田牧師は参加 した竹山由利子さんと同じ高校で教えていた同僚教師だと聞いてびっくりし た。

3.新島は鹿児島で何を?

A.全集第8巻には、

「6月28日福山より鹿児島湾を横断、対岸の鹿児島に到着。同市汐見町の 野口方に一泊する。石ヅロ通の山下十次郎を訪ねるか?」(『新島襄全集』8

巻 p.190)だけである。

①上記6月28日は誤りで、新島の雑記帳(Ⅰの6の①)にあるように

「福山から船で鹿児島に渡ったのは7月8日だ」と思う。下記の「雑記 帳」の 会 計 面(宿 泊 期 間)か ら も 窺 い 知 れ る(注5:画 像 フ ァ イ ル 10938013)。

6/27 #20 宮崎の宿屋一泊、#4(チップか)⇒1泊24銭(今の2400円)

だ。同頁右に2,45.5城ケ崎と。新島は宮崎に6/27-7/6、10泊したので1 泊24.5銭に。同額である。

その下に書いてある50銭Lodgingは小崎の3日分の宿泊費であろう。

②汐見町を探す。今は町名変更で住吉町。九州運輸局海事振興部旅客課よ り汐見町の地名の入った「明治17年の鹿児島市街略図」13)がメールで届 いた。7/8野口宿1円35銭=13,500円と高い。7/18(鹿児島出航の日)

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Hotel石ヅロ通−山下十次郎270+83.3+50=403.3(銭)。7/9-17 9泊連 泊として44.8銭/日。1泊約4480円と野口宿と比べ安い。「雑記帳」に は鹿児島市内の他の旅館、ホテル名はない。新島はこのホテルに連泊し たと思う。

中塚夫妻はそのホテルはいづろ通りにある「サンフレックス いづろ」

ではないかと。

野口宿の野口□□と同様、山下十次郎はホテルの主人の名前ではないか と思う。

B.先行研究 本井康博著『徳富蘇峰の師友たち』14)p.150

「鹿児島伝道 須田明忠がデイヴィスに告白した秘話。須田は子供の頃少 額のお金を盗んだ罪などを鹿児島の警察で告白し旅館に留め置かれた。釈放 されるまで20日間キリストのことを語った。須田の感化を受けた鹿児島の 人は関西(京都)から伝道者を得られないと分かり長崎に目を向けた。長崎 から派遣された宣教師が50人以上に洗礼を授けた。須田が蒔いた種を他教 派が刈り取ったことに。新島が小崎を伴って九州伝道を展開した背景には

「失地回復」、須田の先駆的な働きがあったことを見逃してはならない。」

C.私の推測と私たちが訪れた所

1.新島は林武一の忠告で鹿児島から汽船に乗り神戸に帰る積りだった が、神戸行きの汽船は半月に1回程で、10日余り先だった。そこで

「2.池袋清風の項」で書いたように、鹿児島の学校を訪れ生徒を送っ てほしいと生徒募集活動をしたであろう。

2.函館を密出国した新島は森有礼らの密出国地、串木野を訪れたいと思 ったであろう。

3.2年前の1877年に起こった西南戦争の西郷隆盛にも特別な感情があ ったであろう。

*宣教の為だけであればしっかり記録し、後日「七一雑報」に報告した であろう。

*新島襄と小崎弘道の出張費は全て新島のポケットマネーで、新島も関 わる伝道会社(1878年設立)から一銭も出ていないのだろうか。

D.森有礼らが密出国した「いちき串木野の羽島」を訪ねる

(12)

新島襄は函館からの脱国に成功し、アーモスト大学を卒業。アンドーヴァ ー神学校時代に、岩倉使節団の田中不二麿の通訳・秘書として欧米の教育事 情の視察・調査に行く。

その前年に、森有礼駐米公使の斡旋で米国留学免許状とパスポートを交付 された。

森有礼ら大量脱国成功の秘密など「薩摩藩英国留学生記念館」館長に聞い た。

Q 1.薩摩藩作成の「大島、甑島へ視察指令書」を持って、選ばれた19人

は羽島の川口家と藤崎家に分かれ船の到着を待った。2ケ月間一度 も検問はなかったのか。

A 1.館長「薩摩藩の最高機密で一度も検問はなかった」

Q 2.誰が脱国に手を貸したのか。そして英国のどの大学に留学したのか。

A 2.「長崎のグラバー商会のT. B. グラバー(英国人)が船を出し、物心

両面で支援した。

留学先はロンドン大学のUniversity Colledgeである」私は2年前、ロン

ドン大学University Colledgeを訪れたが、ダーウインが「種の起源」の講演

をした自由な雰囲気の大学だから、「やっぱりそうか」と思った。

館長は「JR串木野駅間に送迎バスを用意することで、2年間で10万人以上 の見学者が訪れた」とご満悦であった。

「薩摩藩英国留学生記念館」のガイドブック17)より

「1863年の薩英戦争でヨーロッパ文化の偉大さを知った薩摩藩は、島津斉 彬の遺志をついで、イギリスへ五代友厚554名の視察員と15名の留学生を 派遣した。当時幕府は日本人の海外渡航を禁じていたので、甑島大島に出張 とし、すべて変名を用いた。2ケ月間潜伏後、一行は1865年4月17日(新 島の約1年後)串木野羽島浦を出港して、66日目の6月21日、ロンドンに 到着した。学生たちはロンドン大学(ユニバーシティ・カレッジ)に留学し た。留学生と共に渡航した五代友厚らは、イギリスで紡績機械を購入し、

1867年5月鹿児島市磯に日本最初の機械紡績工場鹿児島紡績所を建設した。

更に松木弘安は、かつて2年間イギリスに滞在した経験を活用してイギリス

(13)

外務省当局に働きかけ、天皇のもとに統一国家日本をつくる必要性を力説し て、イギリス当局の理解を得た。以来イギリスの対日方針は一変し、フラン スが幕府を支援するのに対してイギリスは薩長倒幕派を支援するようになり 倒幕運動の進展に重大な影響を与えた」

【提案】

新島の1年後、森有礼ら19人の薩摩藩士が密出国し、イギリスで勉学。

帰国後いろいろな分野で活躍した。4年前「薩摩藩英国留学生記念館」を建 設し、児童、生徒たちや観光客らにその功績を伝えている。私は函館を3度 訪れ、「新島襄海外渡航乗船之碑」などを見た。多くの人はこの碑を見て

「新島襄はここからアメリカに密出国し、同志社を創った」。それだけであろ う。幼少、青年期のこと、日本人初の外国の大学正規卒業、岩倉遣外使節団 として欧米教育事情調査、「文部省理事功程」作成参加、キリスト教主義の

写真5 薩摩藩英国留学生記念館ガイドブック

(14)

同志社創立と多くの卒業生輩出、途半ば大磯で46歳逝去など余り知らない だろう。

新島の生きざま、偉業を知る「新島襄の生涯」を常設展示する記念館を、

同志社創立150周年事業として、脱国ドラマが詰まっている函館に、函館市 と協力して創ってほしいと、「薩摩藩英国留学生記念館」の展示を見て強く 思った。

E.その他、私たちが訪れた所 1.森有礼生誕地

鹿児島市の西にある春日神社横の森有礼生誕地碑を訪れた。新島とも親交 があり、初代文部大臣、外交と教育の両面で活躍した。パネルには「キリス ト教に心酔したとの嫌疑を受け大日本帝国憲法発布の1989年2月12日に暗 殺された」と。

2.「西郷洞窟」

美しい桜島が見渡せる城山公園の中、西南戦争で西郷隆盛が最後の5日間 を過ごした洞窟。9月24日、午前4時政府軍城山総攻撃。城山の薩軍300 余。政府軍4万。死を決した西郷はこの洞窟を出、流れ弾が命中して49歳 の生涯を閉じた。

3.キリスト教伝来の地「ザビエルとヤジロウ」像のあるザビエル公園 ザビエルがマラッカの町に滞在中、犯罪のため日本からマラッカに逃れ、

罪を告白する為ザビエルを訪ねてきたアンジロウ(弥次郎1511-1550)。ポ ルトガル語でアンジロウと話したザビエルは日本行きを決意。ヤジロウはパ ウロと名を改め最初の日本人キリスト者となった。

4.鹿児島教会

1873(明治6)年、長崎から遣わされた瀬川浅(初代牧師)らが伝道開

始。1878年伝道所を設置、鹿児島教会の始まり。熊本県矢代の士族で同志 社神学部を卒業し鹿児島教会牧師を長くされた渡瀬主一郎(日本初口語訳聖 書出版)のことを尾崎牧師より教えてもらった。

5.「維新ふるさと館」

福田名誉館長はアメリカで新島先生と会った薩摩藩第二次米国留学生、大 原令之助(吉原重俊)のことを教えてくれた。大原は1867年春アンド−バ

(15)

ーに新島を訪ね交流を深め受洗した。イエール大学初の日本人留学生。岩倉 使節団にワシントンで現地参加し、帰朝後は外務省、大蔵省に入り、初代日 銀総裁になった。(「新島襄と吉原重俊(大原令之助)の交流」18

最後に

森永先生の教え子中塚洋子同窓会長と森永同幹事の車で、訪れたい所を効 率的に全部行くことができ大感謝です。また小正校友会支部長やJR串木野 駅から「薩摩藩英国留学生記念館」への送迎バスを手配してくれた大久保副 支部長、「維新ふるさと館」の福田名誉館長、そして宮崎教会や都城城南教 会、都城妻ヶ丘教会、鹿児島教会の各牧師先生、園田明道小学校校長らが温 かく迎えて下さり、本当にありがとうございました。

今回も、チームワークよく、天候にも恵まれ、実り多い「新島襄の足跡を 写真6 キリスト教伝来の地

(16)

辿る」旅となりました。

1)『新島襄 その時代と生涯』学校法人 同志社 1997年3月、p.81 2)『宮崎教会百年の歩み』日本キリスト教団宮崎教会編 1998年、p.22

3)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』第3巻(教育編)同朋舎出版 1987年、

p.167

4)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』第8巻(年譜編)1992年、pp.184-194 5)『新島襄全集』(上0938)の画像ファイル10938012-14 同志社社史資料センター 6)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』第10巻(新島襄の生涯と手紙)、pp.241-

245

7)新島襄全集委員会『新島襄全集』第6巻(英文書簡編)、p.193

J. D.デイヴィス著、北垣宗治訳、『新島襄の生涯』同志社校友会、1975年

8)『現代語で読む新島襄』学校法人同志社『現代語で読む新島襄』編集委員会 丸 善 2000年、p.264

9)本井康博著「新島襄の旅した風景 南九州編」『同大通信One Purpose』No.145 2005年、pp.8-10

10)日本郵船会社「神戸定期船発着一覧表」(1899年明治22年)日本郵船会社刊 1899年(松浦章著『汽船の時代と航路案内』清文堂出版 2017年 p.6に収録)

11)河野仁昭氏著「近代化過程における伝統文学−池袋清風の英学と和歌」『人文科 学』10号、p.52 同志社大学人文科学研究所発行 1979年

12)池袋清風著『池袋清風日記』明治17年上,下 同志社社史資料室 1985年 13)明治17年の鹿児島市の地図(汐見町)

https : //www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/docu- ments/2012511115539.pdf(参照日時2017. 10. 25)

14)本井康博著『徳富蘇峰の師友たち』教文館 2013年3月14日、pp.149-150 15)田中鎮彦著『神戸港』明治38年4月附録p.27 神戸港編纂事務所(自神戸至内

外各港運賃)

16)『ライトマップル 九州・沖縄道路地図』昭文社 2014年3版 17)「薩摩藩英国留学生記念館」のガイドブック

18)吉原重和著「新島襄と吉原重俊(大原令之助)の交流」『新島研究』1104号 2013年2月、pp.3-31

(17)

[付録]新島の「雑記帳」に出てくる数字(明治12年)

( )は1万倍した今の価格(下参照)

1. Steamer

鹿児島港〜神戸港:6円(6万円、2泊3日)。*2等(明38.4)8.5円 神戸港〜佐賀関港(小型汽船):3円?

2.宿泊費

宮崎の宿屋(6/27 1泊)(20+4チップ?)=24銭 (2,400円)

鹿児島 汐見丁 野口宿(1泊?)=1円35銭(13,500円)

ホテル(石ヅロ通)270+83.3+50=4円88銭÷10泊=53.82銭(5,382円/泊)

3.人力(車)

大分・宮崎:約2銭/km(200円/km)、鹿児島:約2-3銭/km 京都〜神戸:約88 km 3円05銭⇒3.5銭/km(350円/km)

4. Boats/ワタシ:3-5銭(300-500円)

*カゴ:38銭(3800円)

5.電報:39銭/回(3,900円)×2回

*letter : 35銭、stamp : 30銭、40銭

6.・Milk : 40銭(4000円) ・Sugar : 5〜17銭(500-1700円)×3回

・Pork : 17銭(1700円) ・Meat? : 2.5銭(250円)

・カツオ:15銭(1500円) ・ビワ:15銭(1500円)

・Coffee : 15銭(1500円)×2回 ・Tea : 2銭(200円)

(帰り船)

・ザボン?:40銭(4000円)×2 ・Plum : 40銭(4000円)

・Cake : 10銭(1000円) ・Milk : 40銭(4000円)

・ナラズケ?:18銭(1800円) ・梅ボシ:5銭(500円)

・Candy : 27銭(2700円) ・重箱二(うな重?)

(18)

7.ヒゲソリ:20+1.5=21.5銭(2150円)

Bath : 2銭(200円)

ワラジ:3銭(300円)

Fan(うちわ/扇子):15銭(1500円)

*『新島研究』第107号「新島襄の足跡を辿る 近畿 北陸編」で紹介

1.新島の頃、1877年(明治10)年頃のものの値段は、今の価格でだいたいいくら位

だろう?

「天明後米一俵価格表」(1781-1985年)によると、明治10年(1877)のコメ1俵

(60㎏)が1.34円。昭和60年(1985)は18,808円で14,035倍である。1985-95年は2

%up, 95-07年は28%down(「失われた10-20年」)、07-13年は1%up。したがって、

2013年の米価は明治10年と比べ10,410倍とでた。今は米価よりサービス料金の方が ウエイトが高いが、ざくっと計算すると10,000倍とでた。

参照

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