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山本覚馬と新島襄1

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山本覚馬と新島襄1

著者 井上 勝也

雑誌名 新島研究

号 101

ページ 23‑52

発行年 2010‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012998

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 私は新島襄(1843−90)を研究する過程で、とりわけ新島が1874(明治 7)年11月、帰国後京都の地で彼の畢生の事業を始めるにあたって、山本 覚馬(1828−92)が彼の理解者、協働者、同志として大変大きな役割を果 たしていることがわかってきた。そこで①なぜ山本は新島と1875(明治 8)年4月以降極めて短い期間に意気投合し、仏教、神道勢力の強い京都 の地で結社し、キリスト教主義の中等教育機関をつくろうとしたのか。② 視覚障害と脊髄損傷という重複障害をもつ山本が新島の片腕となり、新島 の欧米旅行中或いは彼が京都を離れる間に校長代理を勤め、新島死後は臨 時総長を勤める一方で、京都府会議長や京都商工会議所の会頭を勤めた山 本覚馬とは一体如何なる人物か。③私の一番関心があるのは「管見」とい う山本の建白書の内容が極めて斬新で、彼が現状分析を踏まえ、将来を展 望し、日本や世界の動きを正確に把握して、日本の近代国家像を描写しよ うとしている点である。彼がどのようにして当時情報を収集し、優れた識 見をもつに至ったのか。以上の①②③を分析すれば、山本と新島がなぜ短 期間によき理解者、協力者になり、それが彼らの亡くなるまで続いたのか を把握することができるのではと考えるに至った。

 今回の「山本覚馬と新島襄1」は山本の生い立ちと「管見」の内容及び 新島と意気投合するに至るまでを叙述することによって、上記の疑問に対 する私の回答を導き出そうとすることを目的としている。

井 上 勝 也

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Ⅰ 山本覚馬の生い立ち、思想形成、内外の情報収集

 1)生い立ち  山本覚馬は1828(文政11)年1月、陸奥国会津藩の銃 砲術指南役の山本権八の長男として鶴ヶ城に近い武家屋敷で生まれた。山 本家の祖父の左兵衛も砲術の名手で、家格は中級であった。

 18世紀後半以降、北門の守りを重視し始めた幕府はアイヌの蜂起と共に 赤蝦夷すなわちロシア人の国交・交易を名目とする南下政策に神経を尖ら せ、1806(文化3)年のロシアによるカラフト・エトロフなどへの侵掠事 件を契機に、1807〜8年会津藩も幕府から奥羽諸藩と共に蝦夷地への臨時 出兵を要請された1)。会津藩は蝦夷地守備に引き続いて相模湾の警備を命 ぜられ、黒船来航時には江戸湾の警備を命ぜられている。幕府の親藩であ る会津藩は蝦夷地や相模湾、江戸湾といった当時海防上の最尖端地域に藩 兵を派遣しながら、相対的に保守的、守旧的傾向が続き、近代兵器として の鉄砲や大砲に対する関心は強くはなかった。そのために時代の要請に応 える近代的な兵制の改革も守旧派の抵抗に逢って容易に進まなかった。し かし鉄砲指南役の山本家とりわけ覚馬は近代兵器に対する最新の情報を収 集する環境にあった。

 会津藩の財政は元禄(1688年)以降窮迫し、享保年間(1716〜35年)の 凶作で農民は窮乏し、とくに天保年間(1830−43年)の凶作で藩は農民の 借金を棄捐(帳消し)せざるをえなくなった。山本の幼少年期(天保年間)

は藩の度重なる海防警備の出費等もあり藩財政が窮迫していた2)。武士階 級の困窮は山本家も同様であった。

 山本は早熟で、既に4歳で唐詩選の五言絶句を暗誦した3)。山本の母佐 久は聡明で、進取の気象に富み、会津若松に疱瘡が流行した時、種痘の効 用を理解して子どもたちに率先して種痘を受けさせたという4)

 会津藩は藩士の教育に熱心で、山本は藩校の日新館に8歳で入り、素読 所で口授素読を受け、12歳から書学寮に進み、14歳からは武芸の稽古に励 んだ。文武両道を奨励する藩の方針が財政難にもかかわらず徹底してい た。山本は近世兵法の一流派である長沼流の兵学と共に弓術、馬術、槍

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術、砲術等を得意とし、とりわけ弓術と槍術は蘊奥を極め、師伝を得る程 であった5)

 2)江戸出府  25歳の山本は1853(嘉永6)年の夏江戸藩邸の勤番を 命ぜられた。大砲奉行の林権助は山本の武芸の能力を高く評価し、彼を随 行させたのである。山本は1850(嘉永3)年、既に江戸に出府して佐久間 象山の塾に入り、勝海舟や武田斐三郎と共に象山の指導を受けている6)の で、江戸へは二度目の出府である。今回の出府の目的は主に洋式砲術の研 究であった。

 1853(嘉永6)年6月3日、東インド艦隊司令長官M.ペリーの率いる軍 艦4隻が浦賀に来航した。同6日艦隊は江戸湾内小柴沖に進出、同9日ペ リーは久里浜に上陸、浦賀奉行にアメリカ大統領フィルモアの国書を提出 し開国をせまった。同12日ペリーは明春の再来を告げて浦賀を去って琉球 に向った。ペリーの来航は山本の江戸出府の直前で、彼が黒船を直接見る ことはなかったが、佐久間象山や吉田松陰は相次いで浦賀に急行し、ペ リー艦隊の動静を視察し、松蔭は極めて詳細に4隻の軍艦の動静を報告し ている7)

 黒船の来航によって江戸の庶民100万人は長い間のまどろみを叩き起こ され、黒船から発せられる空砲の轟き8)に周章狼狽し、艦砲射撃によって 江戸が焼野原になるのではとの恐怖におののいていた。幕府は阿蘭陀別段 風説書によって既に前年にペリーの来航を予想していたにもかかわらず、

何の手立てをも講ずることなく、幕府の外交能力、統治能力が地に落ちた ことを暴露した。7月1日、幕府はアメリカ大統領の国書の要求を諸大名 に諮問するという無策ぶりであった。この年幕府は海防の大号令を発し、

江川太郎左衛門らに江戸内海の砲台築造を命じ、9月、西洋砲術の修業を 奨励し9)、これまでの大船の建造禁止令を撤廃し、蒸気船の建造を許可 し、諸大名に江戸警備の持ち場を決定した。幕府の狼狽ぶりは極限状況に 達していた。

 山本は、このような黒船騒動の余波が広がり、緊張状態が増大する江戸 に到着したのである。洋式砲術の研究を目的とする山本にとって、江戸幕

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府の西洋砲術修業の奨励は追い風になった。当時江戸には江川太郎左衛門 や佐久間象山が西洋砲術の塾を開いており、兵学塾を開いていた勝海舟や ペリー来航を機に赦免された西洋砲術家髙島秋帆がいた。覚馬はこれらの 洋学者と積極的に交わり、外国の情報収集に精を出すと共に、最新鋭の着 発弾(弾丸が物に当った瞬間に爆発する)の製造技術も習得した10)。  1854(安政元)年1月16日、ペリーは軍艦を7隻に増やして再度来航し、

江戸湾深く投錨した。山本は今回は艦隊の偉容を自分の眼でしかと確認す ることができた。後程私は彼の建白書である「守四門両戸之策」を取り挙 げるが、彼はペリー艦隊中の蒸気軍艦を見てヒントを得たと思われる斬新 な発想を述べている。

 黒船騒動は山本にいやがうえにも海防や国家の将来についての関心を増 大させる契機になった。彼は1853年から56年までの3年間の江戸出府から 彼の「管見」の思想につながる強烈な知的刺激を受けて、彼の国家観、世 界観を形成していったと考えられる。この江戸滞在は彼にとって自分が会 津藩士として洋式の砲術の技を磨き、蘭学を学び、外国の情報を収集する ことはもとより、藩を越えて日本の将来を真剣に考える絶好の機会になっ た。ちなみに1853年浦賀に来航した時のペリーの旗艦サスケハナ号は2450 トンの蒸気軍艦であり、翌54年の旗艦ポーハタン号は2415トンの蒸気軍艦 で、両軍艦に各々9門の大砲が装備され、動く要塞の感があった11)。山本 はペリーの幕府に対する武力的威嚇や西洋文明の象徴ともいえる軍艦を目 の当たりにして、洋式兵学の研究の重要性を痛感した。彼は3年に及んだ 江戸での兵学の研究を終えて1856(安政3)年、会津に戻った。

 3)藩校日新館での活躍  28歳の山本は1856年藩校日新館の教授に就 任し、すぐさま蘭学所の設置と兵制改革を藩に献言した。蘭学所が開設さ れるや、江戸で蘭学と舎密学(化学)を学んだ川崎尚之助を招き入れた。

後年妹の八重の夫になる人物である。山本は洋式砲術を教授すると共に、

列強の侵略の危険性を説き、兵制の改革の一環として旧式の火縄銃に代え て洋式銃の採用を藩に進言した。しかし守旧派の強い抵抗に会い、彼は禁 足を命ぜられた。彼は槍や刀を主役とする会津藩の兵学を近代兵器として

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の銃砲に取って代えようと思慮していた。それをすることが「封建的身分 秩序の崩壊なしには存立しえないこと」12)を認識した上のことである。山 本を評価する開明派の林権助の尽力で、彼は禁足を解かれ、軍事取調役兼 大砲頭取に昇格し、15人扶持で席次は祐筆職の上席になった。

 4)藩主松平容保の上洛  1862(文久2)年、藩主の松平容保は幕府 が新しく設置した京都守護職を命ぜられた。役料として5万石が与えられ たものの藩財政の負担は極めて大きく、御所の警備と京都、近畿の治安維 持は多くの困難が予想された。当時の京都は朝廷を政治的統合の中心に据 え、幕府の専制と開国政策を批判する尊王攘夷運動の中心になっていた。

国家老の西郷頼母を始め、江戸詰家老の横山主税も藩主に守護職の就任を 固く辞退することを諫言した。しかし会津藩は宗家の徳川家に絶対の忠誠 を尽くすことを家訓とし、それを遵守しようとする藩主、27歳の容保は、

幕府の政事総裁職に就任した松平慶永に強引に押し切られるようにして、

京都における幕府側の最高責任者である京都守護職を引き受けることを決 断した。藩主は終始公武合体の立場から尊王攘夷運動と対抗、孝明天皇の 信任を得ながら幕府と朝廷間を調停し、幕府の勢力の回復に尽力した。し かしながらこの守護職の就任が会津藩にとっては1868(明治元)年9月、

戊辰戦争による会津鶴ヶ城の落城につながる悲劇の始まりになったといえ る。

 1862(文久2)年12月、藩主松平容保は藩兵1000名を率いて京都に赴い た。山本も京都在勤を命ぜられた。彼にとって西洋列強の外患と幕藩体制 崩壊寸前の内憂―暗殺が日常化し、無法地帯になりつつある日本の都の治 安を維持するという大役は単に大砲(軍事力)によって可能になるもので はなく、高度な政治力を必要とする貴重な体験をすることになった。

 5)建白書「守四門両戸之策」  1863(文久3)年11月、山本は「守四 門両戸之策」をまとめ、海防の緊急性を訴えている。この建白書が出され る背景には、この年の5月に萩藩が下関海峡通過のアメリカ、フランス、

オランダの軍艦を砲撃し、その後下関海峡を封鎖したことに端を発し、直

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後にアメリカの軍艦が下関砲台を報復攻撃し、フランスの軍艦が砲台を占 領、破壊した事件(翌1864年8月、四国連合艦隊下関砲撃事件の引き金に なった)や同年7月イギリス艦隊7隻が薩摩藩に生麦事件の賠償金の支払 いを要求して、鹿児島湾で交戦し、砲台を破壊した事件があった。山本は 既に1850(嘉永3)年最初に江戸に出府した時に佐久間象山の塾で学び、

また1853(嘉永6)年の二度目の出府の際にも佐久間が翌年4月吉田松陰 の密航事件に連座して下獄する迄佐久間に教えを乞うている。そこで、山 本は佐久間の海防論、とりわけ「海防八策」(1842年)や「急務十条」(1853 年)について知る機会があったと思われる。山本のこの建白書は彼自身の 兵学に対する知識を土台として佐久間を始め、勝の兵学情報などが知識と して用いられていることがうかがわれる。また山本は佐久間や勝から横井 小楠の思想―例えば1860(安政7)年に著した開国通商、殖産興業、富国 強兵の思想を盛り込んだ「国是三論」の内容を聞いていたかも知れない。

横井は幕末の内政・外交政策に革新的な思想を提唱する影響力の大きな思 想家であったからである。山本は彼の兵学的知識として林子兵の『海国兵 談』やアメリカ人宣教師ブリッジマンの著作を魏源が編訳した『海国図 志』を読んでいたかも知れない。彼は海にとり囲まれた日本は早急に海軍 を整備し、西洋列強の侵略に対応すべきであるという観点を堅持しつつ、

建白書の最初の部分で注目すべきことを述べている。「凡戦ハ予算定策運 用三者一ヲ欠クモ勝算ナキ也。予算ハ廟算ニテ戦又先ニ敵身方彼我ノ強弱 形勢ヲ始メ地理人情マデ探索比較シテ知彼知己ノ術ヲ尽ス孫子ノ始計篇廟 算是ナリ」13)。山本は軍事予算と明確な戦略と兵の活用の三点のうち一点 を欠いても戦いは勝てない。そして軍事予算は国家の計画であり、まず 敵、身方の強弱を始め、地理や人情までも知り尽くすべきである、と中国 の春秋時代の兵学書「孫子」の第一章に書かれていることを引用しつつ、

彼の兵学の基本姿勢を示している。そして次に彼は「漫ニ攘夷論ヲ唱フル 者一途ニ西洋ヲ軽悔シ西洋ノ形勢兵法ヲ研究スル者ヲ圧倒」することを批 判し、「今ノ洋学者流一途ニ西洋ヲ誇張シ鎖国攘夷ヲ講究スル者ヲ愚弄」14)

することも批判する。そして「四門両戸ノ説」は「制彼強為弱ノ策ナリ」15)

という。即ち敵の強さを押さえて弱くする策であった。山本のいう四門両

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戸とは関門海峡、紀淡海峡、鳴門海峡、豊予海峡の四門と伊勢湾と東京湾 の両戸を意味し、これらの出入口を防御することが重要であるという。そ して彼は四門両戸を守るには砲台よりも蒸気軍艦を建造し、「乱ニハ此上 ナキ海防ノ要器ナリ、治ニハ参勤交代米穀ヲ運送シテ大益ヲナス」16)と いって大砲10門を搭載する軍艦を動く砲台にすべきだと主張する。山本が この建白書を提出した1863(文久3)年までに、幕府の命令で各藩は財政 の逼迫にもかかわらず多くの台場を建設した。しかし当時の大砲の性能は 西洋列強の大砲に比べて弾丸の飛翔力や破壊力に大きな格差があった。彼 はこのような実態を十分に認識した上で、諸藩が禄高に応じて出費を分担 し、1隻に10門の大砲を積み込んだ蒸気軍艦を購入或いは建造(すれば半 金で済む)し、平時には物資や人間の輸送に用い、戦時には動く砲台とし て用いる方が効果的であるというのである17)。ここに彼の合理主義、実用 主義的発想を読みとることができる。このようなアイデアは彼が1854(嘉 永7)年2月江戸湾で目の当たりにしたペリーの艦隊にヒントを得ている ことが考えられ、またクリミヤ戦争(1853−56年)におけるセバストーポ リ砲台の戦術的価値を分析した結果18)によるものである。

 山本に影響を及ぼした最大の人物は恐らく佐久間象山であろう。佐久間 は1811(文化8)年の生まれで、山本よりも17歳年上であった。彼はアヘ ン戦争(1839−42年)に大きなショックを受け、清の覆轍を強く意識し、

西洋列強を知るためにオランダ語を修得し、その応用にも心がけ、西洋砲 術を教授した。1854(嘉永7)年吉田松陰に密航を教唆したことで松代に 蟄居を命ぜられたが、赦免され、1864(元治元)年3月、幕命により上洛 した。山本は佐久間にしばしば会い、時勢を論じている19)。それは同年7 月佐久間が京都木屋町で暗殺されるまで続いた。

 6)蛤御門の変(禁門の変)  1864(元治元)年7月、京都で公武合体 派の会津藩と薩摩藩が尊攘派の長州藩と武力衝突し、山本は大砲隊の指揮 をとり、蛤御門を守備した。会津藩側は苦戦したが、桑名藩兵及び薩摩藩 兵の来援を得て長州藩兵を破ることができた。この武力衝突の際大砲の弾 丸が山本の近くで炸裂し、硝煙を浴びたことが数年後失明する原因になっ

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たのではという説があるが、決定的な史料はない。

 7)西周との出会い  政治の舞台が江戸から移った感のある幕末の京 都には、佐久間や勝が上洛し、幕臣の西周が1866(慶応2)年上洛した。

西は蕃書調所に出仕し、1862(文久2)年、津田真道、榎本武揚らと幕府 留学生としてオランダに留学、彼はライデン大学のフィセリング(S. 

Vissering,  1818−88)に師事し、経済学や統計学や万国公法(国際法)な どを研究して1865(慶応元)年帰国した新進気鋭の洋学者であった。翌年 彼は徳川慶喜の政策顧問として彼に随行して上洛した。山本は勝の紹介で 西に会い、四条大宮の更雀寺に開いた彼の洋学塾でフィセリングの万国公 法の講義を熱心に聴いている。山本は弱小国日本が西洋列強の間で生き残 るために国際法として万国公法に強い期待を寄せていたのであろう。彼は 1874(明治7)年、西の講義録である「百一新論」(哲学の入門書)に自ら 序文をつけて刊行し、西の思想に対する彼の関心の強さを示している。西 は上洛中にフィセリングの講義「万国公法」を翻訳し、幕府に献上してい る。合せて1868(慶応4)年夏、『和蘭畢酒林氏萬国公法』と題して京都の 瑞厳堂から出版した。この書の第一巻第一章萬国公法の大旨には「第一節  萬国公法ハ法学ノ一部ニシテ萬国互ニ相対シ秉ルコトヲ得ルノ権ト務メ サルコトヲ得サルノ義トヲ論スル者ナリ」20)と定義し、万国公法が強国も 弱小国も等しく守らねばならない自然法であるといった捉え方をしてい る。幕府は1854(嘉永7)年以降各国との和親条約及び修好通商条約を結 ぶにあたって、外交交渉中に万国公法の重要性を痛感した。そこで幕府は アメリカ人ホイートン(Henry Wheaton)のElements of International Law を1864年アメリカ人宣教師マルティン(William  Martin)が「万国公法」

として漢訳したものを翌年開成所で翻刻している。

 8)長崎遊学  山本は1866(慶応2)年、藩から長崎への遊学を命ぜ られた。当時西洋の窓口であった長崎で、列強の情報を探索することや武 器の調達が主な任務であった。長崎にはとりわけ九州諸藩が長崎奉行所と の交渉や情報収集のために長崎聞役を派遣・駐在させていた。聞役の役目

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は主に蘭船、唐船からもたらされる海外情報を始め機密情報の収集であ る。山本はこれらの聞役や阿蘭陀通詞から中国やヨーロッパの情報を収集 した筈である。ちなみに山本の建白書「管見」(1868年5月)の「建国術」

の項に次のような文章がある。「余曽テプロイスの人レーマンに聞ク。ア メリカニテハ器械ヲ以テ田ヲ耕シ、二人ニテ七十人程ノ働キヲナスト。和 蘭ノ人ハラタマニ聞ク。イギリスノ富ヲ致スハ蒸気器械ヲ発明シテヨリ也 ト云々。固ヨリイギリスハ石炭ノ多キ国也、故ニ工人ノ功ヲ増セシモノ 也。余曽テ崎陽(長崎のこと)ニ遊ビ、和蘭ノ人ボートーイン、イギリス ノ人ゴロール等ニ逢ウテ事ヲ聞クニ、彼等日本へ来リシ時ハ僅カ壱万金程 モモタザリシ由、今ニ及ビテ巨万ヲ累ネ、舟六七十艘モ所持シ、崎陽上海 ノ間ニ商売シ、一月ニ十五万金ニ下ラズト…」21)。このように山本は各国 人に会って極めて詳細に情報の収集をおこなっていることがわかる。彼の 長崎遊学は眼の治療も目的の1つであった。当時長崎にはポンペの創立し た 医 学 校 に ウ ト レ ヒ ト 陸 軍 軍 医 学 校 教 官 の ボ ー ド ウ ィ ン(Antonius  Franciscus Bauduin, 1820−85)がいた。彼は眼科の臨床に詳しく、1851年 ドイツ人ヘルムホルツによって発明された検眼鏡をオランダから持参して おり、眼科の手術に長けていた22)。山本の眼は残念ながらボードウィンの 高度な医術をもってしても彼の失明を防ぐことができない程悪化してい た。ちなみに「管見」の「官医」の項で、眼科医ボードウィンを通して得 た印象を「外国ノ医ハ自他ノ学術トモニ研究シ、技術精巧」にして「業ノ 熟セシ者」であると述べている23)

 さて、先程の引用文中にある「和蘭ノ人ボートーイン」とは眼科医の ボードウィンの弟で、彼はオランダ貿易会社の出島代理店を経営し、オラ ンダ領事としても活躍した。彼は15年以上も滞日し、「織物類、薬品類を日 本に輸入し、木蠟、生糸、陶磁器、漆器等を輸出、幕府、諸大名との関係 が有効に働いて、軍艦や商船の注文を受けることもあった。またヨーロッ パ在留の日本の使節、留学生への送金、技師、医者など、お雇い外国人の 斡旋や契約業務を行った」24)人物である。もう1人「和蘭ノ人ハラタマ」

とは1864年オランダのウトレヒト大学で自然科学博士の学位を受け、幕府 のお雇い外国人として1866年5月長崎に着き、養生所で舎密学(化学)を

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担当、定性及び定量分析の実験を試みている25)。さらに「プロイスの人 レーマン」とはカール・レーマン(Carl Lehmann)のことで、幕末長崎に 来てレーマン・ハルトマン商会を開き、各藩へ兵器を売り込み、1869(明 治2)年頃には長崎から大阪の川口へ移住し、73(明治6)年頃まで貿易・

造船業を営んでいたことがわかる。彼の弟ルドルフ・レーマン(Rudolf  Lehmann)は京都の産業振興と文化の導入に貢献し、1870(明治3)年京 都につくられた欧学舎でドイツ語、英語を教えていた26)。また上記のイギ リス人ゴロールとは、竹内力雄氏は、1861(文久元)年長崎にグラバー商 会をつくったトーマス・グラバー(T. B. Glover)のことだといわれる27)。  山本にとって長崎への出張・遊学は約1年であったが、当時長崎に滞在 していたオランダ、プロイセン、イギリス人と交わり、藩から命ぜられた 鉄砲の買いつけと共に彼の情報探索は積極的で、後年の「管見」に見られ るような知識と情報を収集することができた。1859(安政6)年横浜が貿 易港として開港するに及んで、貿易の拠点が横浜に移り、従って長崎での オランダの影響力が相対的に低下していく状況を山本は感知したであろ う。

 山本の情報収集の時期は大きく3つに分けられる。その1つは彼が20歳 台の前半から後半にわたる江戸遊学であり、今回の長崎遊学は38歳の山本 にとって二度目の大きな情報収集の機会であった。長崎でオランダのボー ドウィンを始め化学者のハラタマ等と出会ったことが後年彼が京都府顧問 に就任し、疲弊した京都の近代化に尽力する時に彼らが山本の協力者に なってくれる筋道をつけることになった。山本の3つ目の情報収集は上洛 中の数年間である。彼は大砲隊を指揮し、蛤御門の変(1864年)と鳥羽・

伏見の戦い(1868年)に対峙し、その間尊王攘夷、公武合体、倒幕の渦の 真只中で、日本の政治の混迷を体験した。彼は日本の将来を危惧し、幕藩 体制崩壊後も清の覆轍を意識し、西洋列強の侵略の危険性を認識した上 で、近代国家日本の青写真を描こうとする貴重な時期であったといえる。

山本は1867(慶応3)年5月、長崎への遊学を終えて京都へ戻った。

 9)鳥羽・伏見の戦い  1867(慶応3)年12月の小御所会議で薩摩藩

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などの倒幕派が、天皇のもとに雄藩の連合政権を組織しようとする公議政 体派を抑えて、将軍徳川慶喜に辞官、納地を勧めたが、慶喜はこれを拒ん だ。翌年1月幕府軍、会津、桑名藩兵が薩摩、長州藩兵と鳥羽・伏見で衝 突、兵の数で劣勢に立っていたが、装備にまさる薩・長軍が幕府軍を圧倒 した。山本は1868(慶応4)年1月、薩摩の軍に捕えられ、薩摩藩邸(現 在の同志社大学今出川校地)に幽閉された。

 蛤御門の変や鳥羽・伏見の戦いでは、幕府、朝廷や薩摩、長州といった 雄藩や会津、桑名藩が尊王攘夷や公武合体を大義名分として、お互いに倒 幕後を予想し熾烈な闘いを繰り広げた。それは極東における我が国のおか れた状況を無視した覇権争いであった。その中で戊辰戦争における会津藩 及び藩主松平容保が朝敵の汚名を着せられ、条理が通用せず、賊軍の厳し い取り扱いを受けた。山本は1868(慶応4)年3月、建言書「時勢之儀ニ 付拙見申上候書付」を薩摩藩に提出し、会津藩の立場を弁明し、かつ「万 国公法ノ如ク正大公明之御取扱」28)を求めたが、功を奏することはなかっ た。山本の自藩及び天皇に忠誠を尽くした藩主を慮った行為であった。同 年5月、既に視力を失っていた山本は維新後の近代日本のあるべき国家像 を口述筆記させ、薩摩藩主島津茂久に提出した。この「管見」と名付けら れた建白書に見られる山本の革新的な思想や近代国家像や教育観が1875

(明治8)年4月、新島襄と初めて会い、極めて短期間に二人を意気投合さ せる上で決定的な意味をもったのではないか。耶蘇教排撃の勢力が強い京 都の地に耶蘇教の学校をつくることに二人が同意する理由が「管見」に見 られるのではないかと思う。

Ⅱ 山本覚馬の「管見」

 1)山本の建白書「管見」の特徴  山本は1万字、22項目にわたる意 見書をまとめるに至った動機を小引(序文)に次のように述べている。ま ず「魯西亜日ニ強大ニ至ルベク」と述べ、「我国ヲ併呑スルノ萌ナランカ」1)

とロシアに対する強い警戒感を示し、その例を1861(文久元)年ロシアが 対馬の一部を6ヶ月も不法占拠し、幕府は自力でロシア軍艦を排除しえ

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ず、イギリスのオールコック大使に要請してイギリス軍艦2隻を派遣し、

排除して貰った事件を挙げている。ここで彼の解釈で注目されるのは、イ ギリスが上海を拠点に日本と貿易をする上で、対馬がロシアの軍事支配下 に入ることを不都合と考え、日本に荷担してくれたのだというのである。

彼は、イギリスの日本に対する友情ではなく、打算であり、戦略だと考え ている。同じく山本はフランスが幕府に接近し、イギリスが薩摩に接近し ていることにも警戒の目をもって見ている。同じ論法は次に挙げるクリミ ヤ戦争の分析にも見られる。クリミヤ戦争(1853−56年)でロシアがトル コを侵略し、クリミヤ半島に勢力を伸ばそうとした時、イギリスやフラン スがトルコを援助してロシア側のセバストーポリ要塞を陥落させたのは、

「其国ノ利不利ヲ謀テ也。我国彼三国トノ交際ニ於ケルモ大ニ之ニ類スベ シ。之ヲ防グハ確乎不易ノ国是ヲ立テ富強ヲ致スニ如カズ」2)と述べて、

日本が確固とした国家の方針を立て、富国強兵を進めるしかない、と断言 する。山本の現状分析の鋭さと共に明確な対応策を読みとることができ る。彼はまた現在の日本は「国家騒擾」に際会しているので、「変制モ仕易 キモノニテ」「文明ノ御政体」3)を実地に行うチャンスであるという。以上 のように山本は「管見」の序文で彼の問題意識を明確にし、国内外の状況 を意識しつつ、国家の「富国ヲ致ス」具体的な方法を以下に述べるが、こ れは彼の「余憂国焦思ノ余リ」4)からであるという。

①政体 国民が一致して王室を奉戴し、三権を分立させて権力が1人に 集中しないようにした方がよい。(『改訂増補山本覚馬伝』pp.213-4)

②議事院 国政を審議する議院は二院制にし、大院は古い仕来りにこだ わり、小院は果断であるので、議論は自ら中正をうるだろう、とい う。(同上p.214)

③学校 我が国が外国と肩を並べて、文明の政治を取りおこなう国家に することが緊急の課題である。そこで先ず才知があって、役に立つ人 物を教育しなければならない。それがためには京都や大坂の他港湾地 に学校を設け、博覧強記の人をおき、役に立たない古い本(中国の書 物?)を廃止し、近代国家の建設に有用な書物を学ぶようにすべきで ある。学科には建国の学、経済学、万国公法、修身学、訴訟に関する

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学、格物窮理(物事の道理をきわめてそこに一貫する原理を見出す学)

その他陸海軍に関する学と医学を加えるべし。(同上p.214)

④変制 皇国の大本を立て直すについては、新しい不変の制度に変革す べし。制度というのは万民の父母のようなものであり、強いて民を束 縛せず、生れつきの才能を伸ばして、世の中の暮らしを成就させるこ とにあるので、法を改める場合でも緩急がある。刀剣も古来からの習 わしとして腰につけるもので、無益ではないが、必要な道具でもな い。遠からず国家が開化するに従って、これを廃止するのがよいので はないか。まずは第一に人材を選び出して、国家としての方針を定め るべきである。(同上p.215)

⑤国体 君主政体に復することになったが、急に国家の体制を郡県制に 変えることがむずかしければ、封建と郡県の中間の制度を立てるべ し。これまで大名や臣下に与えられていた土地はそのままにしなが ら、土地の大きさによって、相応の租税を徴収すべし。官吏は貴賎に よってではなく、賢愚によって(能力によって)選び出し、優れた人 物には我が国のみならず外国に留学させる。兵士は各戸から出すべ し。たとえ外国でも万国公法に反することをすれば、その国を攻撃す るに値いする。四民は等しく租税を納めるのがよい。(同上pp.215-6)

⑥建国術 建国術は山本の最も得意とする提言で、彼が長崎で色んな外 国人から得た情報が生かされている。まず世界の国々を見るに、商業 国は農業国よりも豊かである。ヨーロッパではイギリス、フランス、

プロイセンは商業国で、国が隆盛である。それに対して日本や中国は 農業国であるからそうではない。以下山本の実利主義的発想が顕著に 見られる。例えば百万石の土地より納められる租税がおよそ百万金と 見て、それを職人に渡して器物を作らせば倍の二百万金になる。しか しそれを商人に渡して商いをさせば、その二倍すなわち元金の四倍に なるという。既に「8)長崎遊学」の項で叙述したように、彼は長崎 でプロイセン人、オランダ人、イギリス人から機械文明の支配する欧 米の事情を聞きだし、機械のもつ効率性と合せて貿易による利益の大 きさに注目している。引き続いて彼は我が国に目を向け、次のように

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述べている。私(山本)は隣国の仙台と米沢の事を聞いた時に、仙台 の面積は米沢の5・6倍で、仙台は農業をもって主産業とするのに対 して、米沢は商業を主とする。仙台は土地は広いが貧しいために政治 にも勢いがない。それに対して米沢は逆である。こういう訳であるか ら商業をもって国を興こす国は農夫もよく働き、兵士も強く、もの作 りを生業とする人たちは仕事が上手であり、結果として富国強兵が可 能になる、という。要するに山本は経済効率を考えて日本を通商国家 に変革する必要がある、といいたいのである。これは19世紀の欧米の 国情を知った上での提言である。(同上pp.217-8)

⑦製鉄法 この項も注目に値いする。山本の製鉄法についての高度な知 識が示されている。彼は冒頭で次のように述べている。「余曩ニ洋書 ヲ読ミ鉄ノ章ニ至リ大ニ感ズ。其書ニ曰ク、鉄ノ人之智ニ関係スル最 モ甚シト」。彼は恐らくオランダ語の書物を読んで、木の文化に育っ た彼が、鉄が人間の知に最も深く関わっており、鉄の文化が近代国家 をつくり上げてきたことを指摘したいのである。そして彼は日本の多 量の木炭を必要とする鑪製鉄法に比べて西洋の溶鉱炉(反射炉という 表現を使っている)が大変効率がよいことを知っていた。日本でも庶 民が日常的に使用する鍋釜を反射炉で製鉄し、「鍋釜目方重ケレバ鉄 モ多ク費ル故」「鍋釜薄クセバ一日一軒ニテ薪三本省クトモ日本凡ソ 五千万人ノ人口トシテ一家族五人宛ト見テ千万軒ナレバ三千万本ナ リ」と彼の合理的な解釈を述べている。そして最後に「材木ヲ多分ニ 用ユルハ天地ニ対シテモ無益也」という言葉で結んでいる。(同上 pp.218-9)

⑧貨幣 山本は外国貿易を意識して貨幣制度を考えている。彼は紙幣よ りも貨幣をよしとし、「新造ノ銭ハ尽ク銅ニスベシ」「銅へ鉛錫ヲ交へ 銭ヲ作ルハ天地万国ヘ対シ条理ヲ不弁愧ヅベキナリ」といい、「世界不 通用ノ我貨幣ヲ以テ外国ト交易セバ日ヲ追ツテ日本ノ衰耗窮ナシ。速 ニ 外 国 ニ 模 倣 シ テ 是 ヲ 改 ム ル ハ 急 務 ナ ル ベ シ 」 と い う。( 同 上 pp.219-20)

⑨衣食 山本は、日本人は怜悧で明敏であるが、忍耐力に欠けるのは衣

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食が原因だという。「衣食ハ人身ニ取リテ尤大切ノモノ也。粗食粗品 ニテ学問ヲナシ精神ヲ費セバ身体ヲ労シ廃人トナリ、後年事ニ堪ヘガ タシ。肉食ノ国ハ人材多ク牛豚ノ肉ヲ食ヒ、毛織ノ衣ヲ着スレバ身体 強健精神充実スル也。古聖賢モ牛羊鶏豚ノ肉ヲ好ミ我国モ上古ハ肉食 ナリシニ、仏法盛ニ行ハレテヨリ追々肉ヲ不食、人モ柔弱ニナリヌ。

故ニ毛衣肉食ヲ以テ筋骨ヲ健ニシ、気力ヲ養ヒ、人材ヲ育スル方今ノ 急務ナルベシ」。彼の着想は斬新奇抜である。(同上p.220)

⑩女学 「国家ヲ治ムルハ人材ニヨルモノナレバ、是ヲ育スルハ緊要ナ リ」といって、山本は初めに国家ありではなく、国家を構成する人民 に重点をおく。そして彼は「日本支那ハ婦人ニ学問ヲ教ヘズ、自今以 後男子ト同ジク学バスベシ」といい切る。彼は植民地主義が広がる19 世紀後半、我が国が近代国家として生き残るには国家を支え、国家を 牽引する人材の育成の重要性を強調した。そしてそのような人材はま ず日本女性によって生み育てられるのであるから、当然男子と同じく 教育を受けた女性(母親)が不可欠である、という。「夫婦トモ精神十 分ノ智ヲ尽スモノナレバ、其子親ニ優リ、又其子モ親ニ優リ、追々俊 傑ノ生ルハ其理也」ともいう。立派な両親に育てられれば、その子ど もたちも立派になる。そしてそれを繰り返せば国全体が「国家ヲ治ム ル」人材に満たされるのだ、と主張する。また子どもは母親と接触す る時間が長いので、母親が賢であるか愚であるかによって育つ子ども にも大きな差が生まれる、ともいう。女性は落ちついて物事に動じな いのがよい。そして女性の中で学問芸術に長け、国家にかかわる仕事 をする者を選び出して教え、才知の優れた女性はさらに一層学ぶ機会 を与えるべし、ともいう。この項は1875(明治8)年4月、新島との 出会いで山本と新島が意見の一致を見た点であろう。アメリカの自立 した女性(母親)の話を聞いて山本は意を強くしたに違いない。(同上 pp.220-1)

⑪平均法 戦後の民主主義憲法で初めて実現した家督の均等相続を主張 している。嫡子は愚でも家督を継ぎ、二・三男は賢でも仕事がなく、

いたずらに世を過ごすことは悪弊の最たるものだ。そこで子どもの数

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に従って財産を均等に分けるべきで、そうすることによって世の貧富 の片寄りを是正することができるという。彼の平均法は封建的な家制 度の存在基盤を否定する革命的な発想である。(同上p.221)

⑫醸酒法 日本人は米を常食とするが、辺境に住む人々は木の実や草を 食っている。米の生産量の15分の1を酒に醸造するために費やすの で、米価が他の品物の価格に影響を及ぼしている。米価を安くする工 夫をすべきである。生理学の視点からも米酒は健康には害があるの で、国家が米の醸造を禁止すべきである。そうすれば辺境の人々にも 米が届くようになり、物価も安くなる。麦やブドウやジャガイモは身 体によいので、これらを原料にして酒をつくるべし。かわらけを含め 土器を盃に用いるのは、製作に人手や薪炭がかかるので、西洋のフラ スコ(ガラス製の徳利)を用いるべし、という。当時土器よりもガラ ス製の盃の方が安価なのか疑問である。山本は薩摩藩邸に監禁され、

「管見」を口述筆記させていた頃、薩摩藩は毎晩かなりの量の酒を山本 のために差し入れていたという。山本の人物、学識を認めての配慮で あろう。彼は米酒ではなく焼酎を飲んでいたのだろうか?(同上 pp.221-2)

⑬条約 1858(安政5)年の日米修好通商条約で兵庫港の開港が決って いたが、攘夷運動の激化で開港が延期になった。外交問題に発展した 兵庫港がやっと1867(慶応3)年12月に開港したという経緯を彼は考 慮しつつ、淡路島、明石、阿波等に砲台を築くべきであると提案す る。軍艦は万国公法で他国の規制を受けずに自由に出入りできるが、

上記の場所は内海であるので領地も同様につき、軍艦は許可なくして 入ることができない、という規則をつくらなければ外交上争いを起こ すことになる、という。(同上p.222)

⑭軍艦国律 海にとり囲まれた日本の自衛のために軍艦を備えなければ ならないが、その場合国家が独占的に建造し、諸藩に自由に建造する ことを禁ずべきである。このような規則をつくらなければ、将来弊害 が生まれるであろう、という。(同上p.222)

⑮港制 兵庫港が開港し、貿易が盛んになると外国人が方々から集まっ

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てくる。その時のために今から受け入れ体制と防災体制をしっかりし ておくことが急務である、という(同上p.223)。

⑯救民 西洋には蒸気船と□身(文字不明)と種痘の3つの大発明があ る。現在では蒸気船で僅か1ヵ月で地球を一周することができる。日 本では種痘で10万人が救われている。しかるに疳瘡(性病の一種で梅 毒か?)で身を亡ぼし、その毒素が孫に及ぶことがある。その原因は 遊女からで、この病気を治す方法を考えないのは丁度落とし穴の井戸 を全国に設けるようなものである。そこで国は医者に命じ、7日目毎 に遊女と遊女と交わる男子を検査し病気が見つかれば手当をすべし。

そうすれば病根を絶つことができる。以前長崎に行った時、オランダ 人のボードウィンに会ったが、彼はこの質の悪い病気を予防しないの は、国の政治が悪いからだといったが、私も大いにそう思う(同上 pp.223-4)。

⑰髪制 現在京都、大坂及び江戸ではおよそ2万5千人の髪結いがい る。よく繁昌しているので、半時間或いは1時間も費し、いたずらに 時間を費すのみである。日本の人口が5千万人、一軒が5人として 1千万軒、一家が1年に用いる髭削り代、髪結い代を金二分として 五百万金である。このような無駄な費用を省いて昔風に自分で整髪す れば品格がよくなる。しかし一時に髪結いに廃業を求めることになれ ば人情に背くことにもなるので、20歳以下の者は自分で整髪し、その 他は随意とするのがよい。そうすれば20年もすれば昔のように自分で 整髪するようになるだろう。(同上p.224)

⑱変佛法 山本が「管見」を薩摩藩主に提出したのは1868(慶応4)年 6月である。従って同年3月明治政府が出した神仏分離令を彼は知っ ていた筈である。僧侶の堕落を批判したり、仏教を排斥しようとする 廃仏毀釈の運動が時代背景にあったとはいえ、山本の僧侶批難や糾弾 は誠に厳しいものがある。彼はまず日本に寺院が四十五万軒あるとい い、僧侶の中で「法ヲ弁ヘ戒ヲ守ルモノ千人ノ内一人、悪行セザル者 百人ニ壱人僅カアルノミ」という。「古ノ僧ハ愚民ヲ教諭シ、善ニ導キ シガ、今ハ徒ニ仏像ヲ擁シテ墳墓ヲ守ルノミニテ世ニ益ナキハ推テ知

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ルベシ」とまで言い切る。そこで山本の考えたこのような僧侶を立ち 直らせる方法は、まず僧の悪習を取り除き、算術等の実学を学ばし め、寺を小学校にあてて、商人には英仏語や算術を、農民には農業や 人に役立つ事を教えるべし。そして仏法上の戒めを厳しくして、僧の 中で耐えられない者或いは仏法に背くものがあっても、罪とせず、職 人としての暮しの手だてを授けるべし。そうすればおよそ僧侶が百万 人とみても1人十金の仕事をすれば千万金の利益を得ることができ る。そして還俗の者がいればその空寺を学校とし、農・商の学問を授 けて両方とも国を治める上で一助になるだろう、という。山本が如何 に仏教及び僧侶に対して強い不信感をもっていたかが理解できる。

(同上p.225)

⑲商律 兵庫港が開港し、輸出、輸入にあたって洋上で船が難破すれば 商人も大名も財産を失うし、国も損をする。そこで新たに損害保険制 度の確立を提案する。例えば荷物請負いをつくり、荷物の代金の200 分の1を航海毎に請負人に渡し、もし荷物が失われれば200倍を支払 う。船や乗組員の場合も同じようにする。山本は商法を制定し、たと え武士でも航海術と通訳の能力を身につけ、貿易に従事すれば大きな 国益になる、という(同上pp.225-6)。

⑳時法 日本の時刻を西洋の時刻に変え、1時1分1厘と分ければ人を 使う場合も平等になり、物を作る場合も正確になる。時計はおもちゃ ではなく、生活に必要なものとして、ほんの僅かな時間も大切にすれ ば、人間に関する事柄に役に立つであろう。(同上pp.226-7)

㉑暦法 日本の暦には天地の間の吉凶が書き込まれているが、これは道 理にかなうものではない。このような暦は外国に対しても恥しいこと で、西洋のように1年365日4分の1にすれば、4ヵ年の暦を一度作れ ば今後作る必要はなく、25万両も節約できる。紀元もたびたび改まる のは不都合で、神武帝の即位の年を元年としてあと何年と数えるのが よい。そうすれば綿々とした皇統を仰ぎ慕い、国家のほめるべき事に なるだろう。(同上p.227)

㉒官医 外国の医者は専門外も研究し、技術面で巧みであれば一級、二

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級とランクづけされて、外国に行ってもそれがわかるようになってい る。それに対して我国の朝廷や幕府に仕える医者の如きは門地や家柄 で決められ、その上手下手は3歳の子どもでもわかる程である。天皇 の身体を漢方医に任すことは実に畏れ多いことで、現在の最も優れた 医者(西洋医)を選んで治療にあたらせることを急務としなければな らない。(同上pp.227-8)

 以上のように、「管見」の22項目の要点を抽出した。そこに山本の人柄や 教育観や近代国家像が見えて大変興味深い。まず彼の性格であるが合理的 で理財(経済)観念の鋭い人であることがわかった。彼は効率や実利を重 んじ、実行を旨とする点に特徴がある。彼は観念論者でもなく、現実無視 の理想主義者でもなく、大地にしっかりと両足を踏まえながら費用対効果 を考え、将来を見透す鋭い感覚をもっていた。この山本独自の感覚は山本 家の家風とともに二度の江戸遊学と長崎遊学にプラスして、幕末の京都で 藩主松平容保を補佐しつつ朝廷、幕府、薩摩、長州等の政治的、軍事的駆 け引きを通して日本の現状と将来を模索したことで培われた貴重な感覚で ある。山本は会津藩に属しながら藩を越え、日本全体を、そして西洋列強 の動向も視野に入れていた。彼は佐久間象山、勝海舟、江川太郎左衛門、

西周といった当時トップレベルの外国通で近代兵器に対する知識と実践能 力をもった人達と交わり、彼らから最新の情報を収集し、技術を修得し た。とりわけ長崎での遊学で外国人から直接オランダ語で貴重な情報を収 集したことは立派である。彼はペリーの艦隊やロシアの南下政策やクリミ ヤ戦争の成行きに強い関心を示した。また彼は「守四門両戸之策」では中 国の古典的な兵学書である「孫子」から注目すべき個所を引用している。

そしてむやみに攘夷論を唱えて西洋をあなどり、西洋の兵器を研究する者 を罵倒することも、他方西洋を礼讃し、攘夷論者を愚弄することも間違い であるという。彼は冷静であった。彼は外国の実態を把握して海国日本を どのように防衛していくかといった実際的対応を打ち出そうとする現実主 義者であった。要するに山本の諸々の提言は日本が西洋の餌食にならない ためには方法として富国強兵策をとるが、その場合富国も強兵も結局は人 民を教育することが前提になることに気がついた。その延長線上に女子教

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育が、そして子育てに重要な教養のある母親の教育が求められたのであ る。

 山本の近代国家像は西洋列強の近代国家像を下敷きにし、旧幕時代の幕 府が政治を独占する「私」の政治ではなく、国家や人民の利益を重視する

「公」の政治を目ざしたものであるといえる。この「管見」は明治維新の近 代国家構想が模索され始めた時期に恰好の材料を提供することになった。

薩摩藩主に提出された建白書が、明治政府に取り次がれたとすれば、どの ように生かされたのか、山本が会津藩出身であるがために握り潰されたの か、今後の研究に待たねばならない。しかし少なくとも京都府では急速に 衰退する京都の活性化に山本の意見が、そして彼の構想力と実行力が活用 されて見事に京都の近代化に貢献したことは誰もが認めるところである。

 山本は1869(明治2)年釈放されて自由の身になった。41歳である。前 年の9月会津藩は、新政府軍の総攻撃を受け、1ヵ月に及ぶ籠城戦の後に 鶴ガ城は落城した。山本の耳に故郷会津の悲劇がいつ伝わったかわからな いが、官軍に如何に弁明、謝罪、嘆願しても通じない賊軍の立場の悲哀を、

そして不条理を痛感したであろう。維新を迎え、これまでの貴重な人生体 験の上に山本の新しい人生が始まるのである。

 2)京都府出仕  山本は解放されると、彼のずば抜けた見識や展望の 能力が評価され、京都府は京都を活性化させるブレーンとして彼を登用し た。1870(明治3)年のことである。実際には既に前年から彼の知慧とノ ウハウが京都の立て直しに使われていたと考えられる。山本の近代化の手 法は外国語の修得が早道であると考え、1870(明治3)年外国語を教える 欧学舎を開校し、お雇い外国人を使って彼らの斬新な知識と技術を最大限 に利用することであった。幸い彼は1866(慶応2)年長崎に遊学し、優れ た外国人と幅広く親交を結んでいた。彼が眼の治療を受けたオランダ人医 師ボードウィンや化学者ハラタマは大坂に来ていたので、京都に招聘した 結果彼らは専門職を通して京都の殖産興業に貢献することになった。

  京 都 府 の 行 政 を 実 質 的 に 握 っ て い た の は 長 州 藩 出 身 の 槇 村 正 直

(1834-96)であった。彼は1868(明治元)年京都に入り、1881(明治14)

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年京都府知事を辞任するまで14年にわたって京都府政を担った人物であ る。彼はさびれた京都に活力を取り戻すために、6歳年上の山本をうまく 活用し、彼自身も辣腕をふるって強引に勧業政策の推進に尽力した。もっ とも彼らの人脈が十分機能したことはいうまでもない。長州藩の木戸孝允 が槇村の背後で彼を支援したし、明石博髙は山本によって京都に招聘され た。明石は会津藩の洋学所で蘭学を学び、英語、物理学、化学、医学、解 剖学、薬物学と広く最尖端科学を研究し、1869(明治2)年の時点で彼は 大坂の舎密局に勤めていた。翌70年から京都で重要な役割を演じることに なる。京都の近代化は山本の優れたアイデアと槇村の行政上の決定と明石 の実力によって推進されたといえる。具体的には1870(明治3)年、舎密 局や物産引立所や、翌71年には勧業場が、そして洋学所が勧業場内に矢継 ぎ早やに開設され、河原町御池周辺は京都の近代化のメッカになりつつ あった。

 明治政府は早急に近代国家を建設するための方策の1つとして、国民皆 学を目ざし、1872(明治5)年義務教育制度を布いた。ところが京都の住 民は全国に先駆けて3年も早く1869(明治2)年5月には柳池小学校を開 校し、その年の暮までに64校の小学校を開校した。彼らが自らの手で京都 に活力を取り戻そうと学校建設に積極的に財政援助をしたのである。この ように彼らは京都が1000年以上も都であったというプライドと進取の気象 をもっていたことに加えて、槇村や山本のような敏腕家の努力が小学校の 開設を早やめたといえるのではないか。福沢諭吉は1872(明治5)年5月 京都に来て、学校事情を詳しく調査し、そのすばらしさに驚いている。彼 は『京都学校の記』の最後を次のような文章で締め括っている。「民間に学 校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今京都 に来り、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦、あたかも故郷に帰 りて知己朋友に逢ふが如し。おおよそ世界の人、この学校を見て感ぜざる 者は、報国の心なき人というべきなり」5)

 山本は、「管見」に見られたように、教育に対する関心が強く、京都の近 代化を推進する人材を育成するために各種の中等教育機関を開設した。ド イツ語学校、フランス語学校、英学校を始め1871(明治4)年開校の京都

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府中学も教科に英語が入り、翌年に設立された女紅場にも和洋の裁縫とと もに英語が教科に加わっていた。山本は1870(明治3)年、自ら「泰西国 法論」を特別講義し、知事を始め府の官吏が聴講したという6)。彼の得意 な万国公法の講義が中心であったと考えられる。

 京都の文明開化の一環として1871(明治4)年以降京都博覧会が開設さ れることになった。国内外の人々に京都を宣伝する上で誠に好都合であっ た。京都1000年の歴史と伝統にプラスして近代化を示す作品を展示するこ とは「百聞は一見に如かず」で、見学者に京都の伝統と共に文明開化を視 覚に訴えることに成功し、産業振興に大いに役立った。博覧会開催のアイ デアは山本によって出され、槇村がそれに飛びついて実行したものと思わ れる。最初の京都博覧会は西本願寺の境内でおこなわれ、愈々本格的な博 覧会が知恩院や建仁寺や御所を会場とし、会期中外国人の上洛及び出品が 認められて大いに賑わった。山本は英文の京都案内を刊行する程の熱の入 れようであった。印刷にはドイツから輸入した輪転機が用いられた。

 3)小野組転籍事件  京都の近代化が軌道に乗った1873(明治6)年、

京都に司法上の事件が起った。小野組は江戸時代からの豪商で、京都にも 出店し、国庫の金銭収納・支払・逓送の事務をつかさどる為替方として官 金を扱い、蚕種の直輸出にも乗り出していた。遷都後金融の中心が東京に 移る中で、当時は為替や銀行業務に戸籍謄本が必要であった。そこでいち いち京都府から書類を取りよせる不便を省くために活動拠点を東京に移す という問題が起ってきた。小野組は京都府に東京への移籍を申し出た。し かし槇村権知事は小野組に東京へ移られることは府の財政に大きなマイナ スになると判断し、転籍届を故意に手元にとどめ、転籍を認めない方策を とった。その結果小野組は裁判所に訴訟を起こしたのである。この事件は 維新政府内の長州閥と反長州閥の力関係がからみ、到頭槇村は東京で拘留 されてしまった。山本は槇村の釈放を求めて、中央政府の要人に人脈のあ る点を買われ、8月中旬妹八重に伴われて上京した。明治6年の政変―征 韓論問題で政府が分裂しそうになっていた丁度その頃、山本は槇村を支援 していた長州閥の総帥木戸孝允に会い、木戸の知慧を借りながら長州閥と

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対立していた江藤新平にも会い、特命全権大使として米欧視察から帰国し た岩倉具視にも会い、5ヵ月間も東京に滞在して槇村の釈放のために粉骨 砕身して事に当った。その結果山本は岩倉の特命で槇村の釈放にこぎつけ ることができた。彼の人徳、見識、交渉力の賜物であった。彼が交渉した 相手の多くは征韓論に対して、内治優先を主張する人々であったが、山本 も同じ考えで、交渉にプラスになったと思われる。

 この事件を通して山本と槇村の関係は一層密になった筈である。槇村は 困難な問題を解決してくれた山本に恩義ができた。山本は槇村にそして槇 村は山本に今後どのような姿勢をとるか注目されるところである。槇村は 小野組転籍事件に見られたように、地方行政の責任者の地位を利用して強 引に我が意を通そうとした。彼はそれが無理難題であることを判断する クールな頭をもたなかった。今回の事件で彼は大きな教訓を得たのか、も う少し1881(明治14)年まで彼の知事時代の言動を見なければならない。

新島襄及び同志社英学校と直接かかわる時期だからである。

 山本は薩摩藩邸に幽囚の身となり、彼の会津藩は朝敵の汚名を着せられ 藩全体が多くの犠牲と屈辱に耐えていた。彼は視力を失い、身体の自由を 失い、明治維新になって兵学者としての生き方を否定された。彼は生涯で 最も衝撃的である出来事をいくつも体験して今後何を精神の基軸にして生 きていくべきかを模索していた時、彼はキリスト教に出くわすのである。

 4)宣教師たちの上洛  1871(明治4)年から始まる京都博覧会は外 国人にも京都への門戸を開いた。1872(明治5)年以降博覧会の期間中、

アメリカン・ボードの宣教師たちは京都にやって来て、将来の宣教の可能 性を模索していた。山本は長崎での外国人からの情報収集に見せたよう に、彼らに対する違和感は全くなく、むしろ彼の方から近づこうとする積 極的な姿勢の持ち主であった。山本が京都府の顧問であり、卓越した現状 分析と将来展望の能力の持ち主であることを宣教師たちも知っていた。山 本を京都における宣教の可能性を打診する上で恰好の人物であると考えた 彼らは1872年、3年、4年と毎年博覧会の期間中を利用して山本に会っ た。彼らと山本の話題はキリスト教のこと、西洋列強のことなど、両者の

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間に話が尽きなかったであろう。彼らはキリスト教に関心のある山本に漢 訳聖書をプレゼントしたかも知れない。

 1875(明治8)年4月、ゴードン(M. L. Gordon)は山本に『天道溯原』

を持参した。この書は中国に赴任したアメリカ人宣教師マーティン(W. 

A.  P.  Martin)がキリスト教証拠論に基づいて中国語で書いたキリスト教 入門書であった。眼の不自由な山本はこの書を読んで貰い、彼は精神革命 を引き起こす程の衝撃を受けた。山本の西洋列強の研究は大砲や軍艦ばか りではなく、それをつくり出した人間にも向けられていたことが「管見」

を通して伺うことができるが、彼はキリスト教が近代国家及び国家を構成 する人民の生き方と深くかかわっていることに気づいていた筈である。こ のような予備知識と彼の儒学の知識によって『天道溯原』の理解は早かっ たと思われる。とりわけ次の文章は彼が一番注目し、感銘を受けた個所で はなかったか。「耶蘇の福音は、天父の恩威を彰明し、人の前非を赦し、人 の後過を補ひ、其の心を新たにし、其の徳ヲ翼け、并せて愛悪懼望の心を 用ひ、以て悪に遠ざかりて、善に近づく。故に曰く、教への全きや、其の 原に溯るべく、假借する能はず」7)及び「霊魂五官を用いて、以て外物を知 ると雖も、思忖、愛悪、是非等を分別する等の類、霊魂自から之を主どる。

初より五官に藉る無し、故に即ひ手を瘋し、足を跛し、目を盲し、耳を聾 すとも、而も思忖の諸事に於て初めより少しも損する無し」8)。ここに福音 の本質が語られ、たとえ彼のように目が見えず、身体にハンディーを負っ ていても、最も大切なものは「霊魂」であることに気がついたのである。

 5)新島襄の帰国、上洛  新島襄は9年間の米欧での留学を終えて、

1874(明治7)年11月帰国した。彼は在米中、中・高等教育と専門(神学)

教育を受け、教育の果たす役割を痛感し、合せてキリスト教が近代国家を 構成する人民の生き方を規定していることを知った。彼は帰国して、アメ リカがそうであるように祖国を愛し、隣人を愛し、真理のためには自己犠 牲を厭わない主体的な人間が近代国家形成の牽引車として必要であると考 え、そのような人物を育成するための学校の建設を目論んでいた。合せて 彼はアメリカン・ボードの宣教師として、排耶蘇の空気がなお強い日本中

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にキリスト教を宣教することを真剣に考えていた。幕末の日本人の中で特 異な体験をもつ新島は、1875(明治8)年4月、学校設立の場所を探し、

宣教の可能性を打診するために京都へやって来て、山本に出会うのであ る。新島は山本の関心を刺激するような話題に富んでいた。彼は山本の質 問―欧米の国々のこと、学校制度のこと、キリスト教のこと、万国公法の ことなど―に十二分に答えるだけの経験と学問的蓄積をもっていた。二人 の共通の関心事である幕末の日本の状況について、これは山本から詳しく 説明があった筈である。山本は最近読んだキリスト教の入門書『天道溯 原』を新島に説明を求めると共に、彼の強烈な印象を語った。それを新島 は次のようにメモしている。「この書物は私に大変役に立ちました。それ はキリスト教に関する私の疑念の多くを取り除いてくれたからです。そし て何年もの間私をふさぎこませていた困難な問題も解決してくれました。

私は青年時代軍役をもって国家に尽くそうと努め、この目的のために兵学 に没頭しました。しかし私はこのことがあまりにも小さいことに思うよう になり、人民によりよい正義を保障しようと法律学に私の関心を変えまし た。しかし長く研究し、観察した結果、法律学には限界があることが判り ました。それは障壁を立てることはできますが、人間の心を蘇らせる

(renew the heart)ことはできないからです。もし法律の制限が取り除か れれば、人間は盗みをし、嘘をつき、人殺しをするでしょう。法律は邪悪 な考えを防ぐことができないのです。しかし私にとって朝が来たのです。

今や以前にはまったく見えなかった小道が見えるようになりました。それ を私は長い間無意識に探がし求めていたのです」9)。山本はやっとキリス ト教の中に彼が長年探し求めていたものを見出すことができた。即ちキリ スト教こそが人間の心を蘇らせることができることがわかったからであ る。彼は新島に「心」(heart)という語を使ったのか。彼が言いたかった のは「魂」或いは「良心」という意味ではなかったかと思う。

 山本は幕末の日本をたくましく生き抜いてきた。彼は蛤御門の変や鳥 羽・伏見の戦いを経験し、兵学をもって身を立ててきたが、兵学の限界を、

そして戦争の愚かさを痛感した。彼にとって儒教も仏教も武士道をもって しても実現しえない人間の魂(良心)の問題の解決を模索していた時、1872

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(明治5)年以降毎年上洛するアメリカン・ボードの宣教師たちとキリスト 教について話す機会をもつうちに彼の理解は深まっていった。会津鶴ヶ城 の落城は彼の人生観に大きな衝撃を与えた。しかし彼は「管見」(1868年)

に示したように、祖国日本の将来に対する明確な展望をもち続け、決して 絶望することはなかった。彼は不幸にして視力を失ったが、彼の心眼はま すます鋭く、近代国家の建設に貢献したいという強い願望と情熱を抱いて いた。

 新島は1864(元治元)年、21歳の時アメリカに密航を企てた。彼の動機 は幕府の桎梏から逃れたいという個人的な欲求だけで大罪に値する国禁を 犯したのではない。我が国の将来を憂い、近代国家建設のリーダーになろ うという大志を抱き、禁教であったキリスト教を自由に学びたいという強 い願望をもっていたからである。彼がアメリカで見聞したものは、近代国 家とは主体的な人民によって支えられ、彼らは国家のために献身的に牽引 車役を引き受けていることであった。彼らはまたキリスト教をもって自己 の宗教とし、聖書の精神に忠実になり、自分の魂を磨き、良心に従って生 きることが人間の望ましい生き方だと信じていた。他方幕藩体制下の日本 人は没主体的で、ひたすら権力や権威に従順になることを強いられてい た。アメリカ人は体制が彼らの生き方を拘束する場合にはそのような体制 を変革する権利をもっているのだと信じ、それを実行に移す人たちであっ た。新島はこのようなアメリカ人の中で8年間も生活し、近代国家の建設 は人民を自立した人民に教育することであると確信し、帰国後は宣教師と なって日本にキリスト教を広め、教育をもって近代国家を建設するという 二つの目的を同時に実現することを考えていたのである。

 山本は1875(明治8)年4月上旬、新島と初めて出会って2ヵ月余で彼 らは共感し、信頼し合い、8月には共働者として結社を決断するに至っ た。両者に決断を促したのはお互いの人柄や学校設立についての意見の一 致や宗教観や彼らの目ざす近代国家像、教育観等に類似性と共通性が見ら れ、この人物となら同志として今後運命を共にすることができるという強 い確信を得たからであろう。とりわけ幕末・明治の始めに10年間も日本を 離れ、日本の事情や京都の事情のわからない浦島太郎の新島は、歴戦の勇

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