新島襄の足跡を辿る 中国・四国編 : 岡山、高梁、
玉島、笠岡、今治、松山
著者 田島 繁
雑誌名 新島研究
号 106
ページ 191‑202
発行年 2015‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014637
新島襄の足跡を辿る 中国・四国編
−岡山、高梁、玉島、笠岡、今治、松山−
田 島 繁
私は2005年、同志社教職員組合連合副委員長、レクレーション委員長の 時、「新島襄の足跡を辿る旅」を企画し、北垣宗治先生(新島研究会員)を 講師にお迎えし、8月にアメリカ編(ボストン、アンドーヴァー、セイラ ム、チャタム、アーモスト)を実施した。退職後の2008年7月、新島襄が 英文遺書を書いたサンゴタールで「どこで呼吸困難になったのか」検証し た。また、欧米教育制度を纏め中リューマチに苦しみ湯治生活をしたヴィー スバーデンの「あるホテル」を当時の現地新聞を調べ探し当てた。3回目の 2009年4月、京都から安中365 kmを歩き、新島旧宅に飾ってあった写真
「新島の毛髪」の所在を突き止めた。4回目の2010年5月、安中から会津・
白布を歩き東華学校跡を訪れた。5回目の2011年4月、大阪から奈良・宇 治・比叡山越えで京都三条大橋まで歩き、新島と山本覚馬との出会い、同志 社創立の背景を調べた。6回目の2012年5月、札幌、函館、風間浦を同僚3 人と訪れ風間浦の小中学生と交流した。
今回7回目の2013年4月、新島先生と同志社神学卒業生が伝道に力を入 れた中国、四国地方の教会を訪れた。また、阿部同志社同窓会長から同松山 支部長の小池ミチ子氏が「松山バンド」(松山夜学校)について記念誌を出 したとお聞きし松山城南高校を訪れた。
参加者は全行程が同僚の畝目襄冶、河村隆夫、蔵岡信彦、田島繁と若い阿 部泰士(同志社大学院生)、竹山由利子(同志社女子大学広報課)の6人。4 月16日笠岡教会までが教え子の岸本展(京都大学講師)、4月15日のみが 阿部登茂子同志社同窓会長と坂本清音同志社女子大学名誉教授の合計9人で ある。
*松山城南高校と松山東雲学園中高では、同志社カレッジソング合唱、詩 吟「寒梅」(蔵岡)で交流した。
日程
4月15日(月) 岡山教会、高梁市長表敬訪問・吉備テレビ取材、高梁教 会と同教会近辺巡見
順正女学校跡、備中松山城登山、玉島港(新島上陸碑)
と西爽亭、倉敷(泊)
4月16日(火) 笠岡教会、福山〜しまなみライナー〜今治教会、子規 堂、道後温泉 (泊)
4月17日(水) 松山城南高校(松山バンド)、松山東雲学園中高等学校、
松山教会
第一日目
1.1
.岡山教会今春赴任した大塚忍牧師が 案内して下さった。戴いた年
みちとも
表を見て、金森通倫は新島襄 から受洗し同志社卒業後直ぐ に1880年岡山教会を設立し 牧師となり、高梁や笠岡を伝 道し両教会の設立に尽力した 有能な牧師であることが分かった。
1886年同志社神学校教授に招聘され、1888年同志社社長代理に選任され た。新島亡き後は金森通倫が同志社社長にと思われたが、新島の遺言が影響 してか山本覚馬が臨時社長に。そして小崎弘道が社長に就任した。遺言に一 体何が書かれていたのだろうか。
1.2.新島襄の遺言
「金森通倫を以て余の後任とす差支ナシ。氏は事務ニ幹練し才鋒当ル可
「岡山教会年表」より
ラサルノ勢アリ。然れとも其の教育家として人を順育し之を誘掖するの 徳ニ欠け或は小刀細工ニ陥ルの弊ナシトセス。是れ余の窃かに遺憾とす る所ナリ」1)
新島は具体的にどのような場面でそう思ったのか。気になる書簡がある。
新島から「良心の全身に充満したる」の書簡(1889.11.23)をもらった横田
やすただ
安止2)が書簡(表に「固く他見を禁す」(1890.1.7))で「当今の学校の管理 ニ不平ヲ鳴ラシ新任校長ニ反動致シ居リ候…生徒一般の反動は金森氏に在る か如し。金森氏と生徒間の感情甚だ悪し…」(『新島全集』9下:1242)と記 している。また、新島は1月16日横田安止に「同志社に限らず何れにも小 刀細工之起り候は大いに困却仕候」と(『新島全集』4 : 345)書いている。
翌1月17日新島は昏睡状態に。横田は徳富蘇峰にも伝えており、次の社長 小崎弘道が遺言口述場面に立ち会っている。何か複雑な気持ちになる。金森 は校長代理を辞任し政治家、実業界に転身する2)。2013年度安倍政権幹事長 は金森通倫のひ孫・石破茂氏である。
2.高梁基督教会
新島は1880(明13)年2月高梁を訪れ17日から20日まで精力的に伝道 する。
八重夫人への手紙に「2月 17日高梁小で説教、聴衆300 人、2月18日同400人。2月 19日ベリー施薬所で100人、
婦人会200人。少しも早く帰 京いたし度候、乍去穫り入レ 時、実ニ農夫之急かしき秋に 御座候」(『新島全集』8 : 198
−200)と記している。
八木橋康広牧師は高梁基督
教会創立時に活躍した人を紹 高梁教会にて
介した3)。
1)高梁選出の県会議員・柴原宗助 文明開化思想と自由民権思想に共鳴し、
金森通倫と知り合う。1879年金森を高梁に招きキリスト教の伝道が始まる。
J. C.ベリーも高梁の重屋旅館で仮診療所を開設。福西志計子の順正女学
校を全面的に支援した。
2)岡山県女子教育のパイオニア 福西志計子、木村静2)
福西は高梁小学校付属裁縫所の教師になる。新島襄が勤め先の裁縫所で行 った説教を聞き、信仰による道徳心の確立と女子教育の重要性に感銘、木村 静と「風俗改良懇談会」「キリスト教婦人会」を結成。1882年高梁教会設立 時に柴原と共に受洗。翌1883年順正女学校を発足させた。
3)高梁教会初代牧師 二宮邦次郎3)
小学校教員で自由民権運動指導者として活躍中、金森とベリーを通しキリ スト教に触れる。新島襄の説教を聞き、政界出馬を断念し牧師になることを 決心。新島の推薦で1880年4月同志社の速成神学科に学ぶ。10月岡山教会 で新島から受洗。1882年高梁教会設立時に初代牧師に就任。今治、松山に 移り、1885年松山教会設立。翌1886年四国最初の女学校、私立松山女学校
(現松山東雲学園)を設立した。
4)映画「大地の詩」〜留岡幸助3)
1882年金森通倫の伝道でキリスト教に接し高梁教会で受洗。米屋の養父 に縛られ天井裏に吊るされ、隣人に助けられて今治に逃れ伊勢時雄の世話 に。1885年同志社別科神学課程入学、1888年卒業、丹波第一教会牧師。1891 年北海道空知で教誨師に。1894年アメリカ留学(監獄学)。1896年帰国。1899 年巣鴨家庭学校創設。1914(大3)年北海道遠軽に分校を設立した。
*「士族の魂も町人の魂も赤裸々になって神様の前に出る時は同じ値打ち のものである」という説教を聞き、衝撃を受けた。(留岡幸助著『わが奉教 の由来』)
5)大迫害事件と教会堂の建立
金森通倫や新島襄らによって高梁にキリスト教は伝えられた。それは高梁 に全く新しい時代の到来を知らしめた。しかし教会の急激な膨張ぶりに恐れ を感じた仏教勢力が教会員を激しく迫害した(1884年迫害石6.8 kg)。キリ
スト教は近代化を推し進める岡山県当局や高崎知事の支持を得ていたので、
事件を知った知事は警察幹部を高梁に派遣し迫害の鎮圧とキリスト教徒を保 護した。迫害事件の終息直後に牧師として赴任した古木寅三郎はその状況を 最大限生かし教会の発展に一大飛躍をもたらした。古木牧師は在任中の9年 間に278人の信者を獲得、1889年教会堂の建設事業を成し遂げた。(県内最 古、1959年県史跡)
6)高梁教会周辺の新島の足跡
新島が説教をした高梁小(現高梁幼稚園、藩校有終館跡)、新島の宿舎と ベリーの仮診療所(重屋旅館)、山室軍平が同志社学生と夏期伝道で路傍説 教をした老松橋、新島が朝登った備中松山城の登山口、玉島港から物資を運 ぶ高瀬川と帆船(復元)、「松山バンド」の野本和雄牧師と野本真也元同志社 理事長誕生の牧師館を八木橋牧師に教えてもらった。
7)順正女学校跡と備中松山城登山
私達は新島が「運動のため早朝登った備中松山城」に登ろうと、タクシー でふいご峠まで行き、約20分で日本一高い所に、現存する天守を持つ備中 松山城(430 m)に全員到着した。途中、順正女学校の寮の跡を見学。松山 城から見る美しい雲海は写真家に人気のスポットである。
3.新島先生玉島上陸碑
私たちは新倉敷まで電車で行き、タクシーに乗って玉島港の「新島先生玉 島上陸の地」碑に到着した。遅くなったのに同志社玉島研究会の大熊政次会 長、虫明徳二氏、柚木家の柚木爽一郎氏が迎えてくれた。また、月曜休館な のに入館させて頂き(無料)、新島がひと風呂浴びたという藩の宿舎・爽西 亭を案内して頂いた。新島は1862年11月12日快風丸に乗り江戸を出発し、
12月3日に玉島(当時は備中松山藩の領地)に上陸した。この初航海で自 由な世界を体験し、かけがえのない友(塩田虎尾、加納格太郎)を得た。そ の後英語を学び、米国の歴史地理書『連邦志略』を読み、聖書とキリスト教 に出会い、だんだん米国で勉強したいという思いが強くなった。1864年3 月7日、加納から快風丸が数日以内に函館に行くらしいと聞き、漢学の師・
川田剛(玉島出身)に頼み両藩主の乗船許可を得、そして函館で塩田の助力
でアメリカへの夢が叶う。(『新島全集』8 : 12−14、8 : 17−18)。このような 話をこの玉島で聞くと感慨深いものがあった。
第二日目
4.笠岡基督教会
4月16日JR 笠岡駅に近い笠岡教会を訪れ た。洋風建築で4月着任の阪西恵理子牧師が出 迎えてくれた。創立期のことを書いた『種麦』
を見せて戴いた。
「笠岡町内に新知識を求むるの風潮しきり
にして1877(明10)年神戸からアッキン
ソン宣教師が同志社の金森通倫や小崎弘道 らを連れ山陽製糸工場で講演会を開く。
1882年新島先生も講演に来、この頃から岡山教会と今治教会が笠岡教 会を応援、2年後笠岡教会が設立。しかし暴徒が教会に侵入し巨石を投 げ込むなどの迫害が…。真鍋牧師の時受洗入会者が増え240人を超え 1893年この洋風新会堂が完成した」4)
献堂式説教は宮川経輝牧師(同志社)であった。
阪西さんは同志社出身ですかと聞いたら関学出身ですと。コーヒーを戴き ながらその若さで若い人を引き付けてほしいなあと思った。
福山駅から「しまなみライナー(高速バス)」で今治に。瀬戸内海は暖か くて穏やかな海だった。
5.今治教会
1945年8月6日の大空襲で教会が焼失し、今治港近くには教会遺構だけ が残る。昨年秋に来た時、港の案内所の若い女性は今治教会と言っても分か らず、幼稚園が…と言ったら直ぐ教えてくれた。しかしこの教会は四国で一
笠岡教会
番早く設立した長い歴史のある教会である。
上島一高牧師から戴いた年表を見ると、最初に訪れた人はアメリカンボー ド派遣のアッキンソン宣教師(同志社のデイヴィスより1年先輩)である。
伊勢時雄は神学生の時から派遣され、1879年6月卒業と同時に今治教会に 赴任した。同年9月に教会設立式(四国最初のプロテスタント教会)兼伊勢 時雄牧師の按手礼式が行われた。洗礼司式者はアッキンソン師、按手礼司式 者は新島襄、聖餐式は新島と伊勢が執り行った。
飯峯明同志社大教授の「今治教会創成期の人々」によると、「洗礼には10 日間の試験あり。聖日厳守、休業して生活困難になってもよいか。妻になる 人がいなくてもよいか。基督者というだけで死刑宣告されてもよいか。返答 につまったら落第。伊勢時雄の在任期間中(1879−1886年8年間)受洗した 人は合計478人である」と5)。
1880年2月に新島は岡山、高梁で伝道、その後、四国に渡り3月3日今 治教会で、3月9日松山で応援伝道する。この旅行不在中に同志社英学校2 年生のクラス合併で生徒間に不満が広がり、「自責の杖」(1880.4.13)につな がる事件が発生した。(徳富蘇峰、大久保真次郎らは自主的退学6))
1881年新会堂の献堂式の時八重夫人が新島襄に同行した。伊勢時雄牧師 の妻は山本覚馬の娘・峰で、八重の姪になるからである。
伊勢時雄は1886年今治教会の牧師を辞し、同志社神学校教授に招聘され る。今治教会の中に今治英学校を設け、前年より徳富蘆花や村井知至が教え ていたが、伊勢牧師がいなくなり廃校となる。「自責の杖」事件後、保護者 たる兄・蘇峰が退学したので郷里熊本に帰っていた蘆花は、従兄弟の伊勢時 雄が牧師をしている今治教会の今治英学校でしばらく教えた。伊勢時雄が同
『今治教会創立130周年記念誌』より
志社に戻るので蘆花も同志社に再入学する。そして山本覚馬の娘・久栄と恋 に陥り問題が起こる。いわゆる『黒い眼と茶色の目』事件である。
翌1887年1月、伊勢の妻・峰は長男平馬を出産後肥立ちが悪く逝去する
とよ
(27歳)。伊勢は今治教会員の柳瀬義富の五女豊と再婚し、東京の本郷教会 牧師の時横井時雄と改姓した。
第三日目
6.松山教会、松山夜学校、「松山バンド」
1)1881.7.3
新島は今治教会新会堂献堂式に参加した。翌日松山に向い、大街道の劇場
(寿座)で講演した。午後2時演題「自由論」聴衆700人、午後6時「基督 教伝播論」聴衆1200−1300人。講師は新島襄、松山高吉(神戸教会)、アッ キンソン(神戸)、伊勢時雄、真鍋定造(今治教会)、上代知新(大阪教会)。
たくさんの聴衆が基督教の奥義を尋ね求めた。松山伝道は好転した。(『新島 全集』8 : 222)
松山東雲中学高等学校の歴史7)より 松山城南高等学校の歴史8)より
2)二宮邦次郎〜松山教会、松山女学校創立
高梁教会牧師の二宮邦次郎は1882年4月今治教会の伝道師となり、同年 11月に松山に来る1885年松山教会を創立し牧師となる。翌1886年松山女 学校を創立する。(校長二宮邦次郎)
3)ジャジソン宣教師と西村清雄、松山夜学校、「松山バンド」
アメリカンボードから派遣され新潟で伝道していたジャジソン宣教師が松 山女学校に英語科教師として着任。ジャジソンは途中神戸に立ち寄り夜学校 を見学。「不就学児童に教育を」と「キリスト教の夜学校」を是非松山にも 創ろうと二宮牧師(同志社)に働きかけた。二宮牧師は教会員に働きかけ、
ジャジソンの家を校舎に1891年「普通夜学校」を創立した。ジャジソンは 西村清雄らに協力をお願いした。その年金藤ハマノが高梁教会で受洗し、翌 年順正女学校を卒業。1892年西村清雄(同志社)が夜学校の初代校長とな る。1894年永木町に校舎を新築し「松山夜学校」と改称する。1895年金藤 ハマノが松山女学校の舎監・裁縫教師となる。ハマノの父親は仏教寺院の僧 侶でキリスト教に猛烈に反対。娘ハマノを高梁に連れ戻そうと姉マツエの夫
・高見万冶郎を派遣した。二度ともダメだった。1897年西村清雄が松山女 学校でも教えることになり11月二宮牧師司式のもと西村清雄とハマノは結 婚した(勘当)。西村清雄とハマノの優しい献身的な働きにより松山夜学校 から卒業生がたくさん同志社に入学し牧師や教師になった。大正初期、同志 社神学生70人の内1割が伊予弁を話す神学生だった。彼らは松山夜学校出 身者で「松山バンド」と呼ばれた9)。『愛と信仰の詩 初代校長 西村清雄
・ハマノ夫妻の生涯』は二人の信仰と愛が詰まった感動的な記念誌である。
4)末光力作先生の「伊予バンド」
1983年今治と松山で行われた同志社新島研究会主催、第4回地方講演会 で、同志社大学工学部の末光力作教授は「新島襄と四国人」と題し講演し た。
新島の死後、日本は次第に天皇中心主義的になり基督教弾圧政策をとり同 志社も窮地に。末光教授は「西原第四代総長(土佐)、特に片岡第五代総長
(土佐、衆議院議長)は樺山文部大臣と膝詰談判し、宗教教育の実施や徴兵 猶予の特典が得られた」と二人の土佐人の功績を紹介した。
その後、末光家の郷里伊予卯之町と同志社を結ぶ発端を説明し、同志社に 入学した末光家の親戚だけでも数十人に及ぶ。末光家の三女久(星名)は同 志社から依頼されて1913年から女学校デントン女史の世話を35年余り日本 で骨を埋めるまで世話をした。久の弟、力作の父信三は1920年海老名総長 の招きにより札幌から久の居る京都に。30年余り同志社教育に携わった。
父信三は四国と同志社との関係は次第に深まり「伊予バンド」という言葉を 使った。「伊予バンド」は熊本バンドや札幌バンドほど華やかさはないが、
真実を求めて止まない純真性があり、地味ではあるが着々とことをやり通す 実行力があったと講演した10)。
5)竹中正夫先生の「松山バンド」
竹中正夫同志社大神学部教授は同大人文研の『キリスト教社会問題研究』36 号(1988.3)で「初期の同志社と松山の人びと」と題し、「松山バンドの人 びと」に今井新太郎、重松柾太郎、二宮源兵、魚木忠一、二神喜十、野本数 男の名前を挙げた。近代日本の教育、伝道に貢献した人々である。「海老名 弾正や宮川経輝のような個性的、主役的、気骨ある存在の熊本バンドに対 し、松山キリスト者は温和な性格、物事に控えめ、地味であった。苦難を共 に負い、辛抱強く、脇役に徹して自分の責任を果たす姿勢を持っていた。長 くジャジソン宣教師を助けた西村清雄や大下神学部長を助け学生指導をし部 長に就任後間もなく逝去した魚木忠一など忍耐強い地味な協同者としての姿
松山城南高校にて
勢は共通している」と述べている11)。 6)松山女学校(現松山東雲中高)での交流会
中村治先生は中村幸久元同中校長の長男で、ハンドベルクワイアーの顧問 をしているので昼休みに学生たちとカレッジソングや「寒梅」を歌い交流し た。短い時間であったが楽しかった。グリーンチャペルや礼拝堂を見せても らった。中村先生はクリスチャンの先生が極端に少ないと嘆いておられた。
7)松山教会
最後に、松山教会を訪れた。玄関に「山本有紀牧師 夕拝説教」と。彼女 は同僚の故同志社国際高校山本通夫校長の娘である。彼女にNY 合同教会 主催の夏期キャンプリーダーとして招いて頂き、現地中学生との楽しい思い 出がある。上林順一郎牧師に立派な教会堂や大きなパイプオルガンなど案内 して頂いた。聖日礼拝に140人も集まるとは活発な教会である。
8)迫害を乗り越えた信仰心の強さと愛の実践に感動
「明治9年松山の求道者から招待。三津浜に迎えの者がいない。招待者の 1人は座敷牢に入れられ、1人は殺すと脅されて…。嫁さん来なくてもよい か。基督者というだけで死刑宣告されてもよいか」(飯峯明『今治教会創成 期の人々』)「人力車倒され数丈の断崖より高梁川に真っ逆様」(『種麦 笠岡 教会創立期のこと』)「迫害石6.8 Kg、しかし教会員はじっと耐え抜くことで 基督教の精神性の高さを証明し精神的優位に立った」(『高梁教会120年
松山東雲学園にて
史』)。 創立時迫害の強かった各教会。それを乗り越えた信仰心の強さ。そ して西村清雄・ハマノ夫妻の「神を信じ隣人愛を貫いた生涯」に深い感動を 覚えた旅であった。
参考文献
1)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』4巻(同朋舎、1989年)、p.403.
本書からの引用は今後簡略形式で本文中に示す。
2)『高梁教会120年史』(高梁基督教会120年史編さん委員会、2002年).
3)『同志社山脈−113人のプロフィール』(同志社編、晃洋書房、2003年)p.40(金 森通倫)、p.48(二宮邦次郎)、p.88(留岡幸助)、p.186(横田安止).
4)柚木小太郎『種麦 笠岡教会創立期のこと』(笠岡教会、1927年).
5)飯 峯明「今治教会創成期の人々」『今治教会創立130周年記念誌』(2009年)、
p.100.
6)本井康博「悲哀のしもべ・新島襄」『新島研究』64号(1983年)、p.67.
7)松山東雲学園百年史編集委員会『松山東雲学園百年史〈通史編〉』1994年.
8)『松山城南百年の譜』(松山城南高等学校創立100周年記念誌編集委員会、1991 年).
9)『「愛と信仰の詩」初代校長西村清雄・ハマノ夫妻の生涯』(松山城南高等学校、
2000年)、pp.19−30.
10)末光力作「新島襄と四国人」『新島研究』67号(1985年)、pp.16−20.
11)竹中正夫「初期の同志社と松山の人びと」『キリスト教社会問題研究』36号(1988 年)、pp.72−88.