ラル・アーツ・カレッジ
著者 大越 哲仁
雑誌名 新島研究
号 110
ページ 144‑162
発行年 2019‑02‑12
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000622
同志社普通学校高等科
−新島襄が実現させたリベラル・アーツ・カレッジ−
大 越 哲 仁
はじめに
私は、『新島研究』第105号に掲載頂いた拙稿「大学医学設立は新島襄の 悲願だったのか」の中で、新島襄はChristian collegeとChristian University を作ろうとし、そのうちの前者のChristian collegeは新島の生前に実現し た、それが1889年秋学期から設置された同志社普通学校の中の高等科であ る、と論じた1)。
しかしながら、当該拙稿は、新島が構想した大学の内のChristian Univer- sityを中心に論じたために、Christian collegeについては補論的な扱いに留ま った。そこで本論では、このChristian collegeとしての同志社普通学校高等 科に関して本格的に論じたい。
1.同志社に複数あった「同志社普通学校」という呼称の 学校
「同志社普通学校」の変遷
長い歴史を見ると、同志社は、その時代の同志社の中心となる学校に対し てしばしば「同志社普通学校」という呼称を冠している。
『同志社百年史』では、「通史編一」で1章を設けて(「第二部 キリスト 教教育の受難/第六章 同志社普通学校」)同志社普通学校を論じている が2)、残念ながら、このような同一呼称でかつ時代の違う学校の区別や同論 文でその内のどれを論じているかが不明瞭である。
具体的に、「同志社普通学校」の呼称のつく学校を年譜として示すと次の
ようになる3)。(下線と二重下線は、それぞれの系譜に連なる学校を示す。)
○(1888(明治21)年6月 同志社英学校および同志社予備校、同志社女学 校を同志社学院と称し、これを予備学部、普通学部、神学部、女学校の4 つに分かつ。
○1889(明治22)年9月 同志社学院の名称を廃し同志社普通学校(尋常 科・高等科)、同志社神学校、同志社予備学校、同志社女学校と改称する。
○1890(明治22)年9月 同志社普通学校高等科を廃す。同志社波理須理 科学校を設立する(翌年4月開校)。
○1891(明治23)年9月 同志社政法学校を仮開校する(翌年9月設立)。
○1896(明治29)年4月 同志社普通学校を同志社高等普通学校と改称し、
新たに同志社尋常中学校を設立する。
○1897(明治30)年9月 同志社高等普通学校、同志社政法学校、同志社 波理須理科学校の学科を改正し、名称を改めて同志社高等学部文科学校、
同志社高等学部政法学校、同志社高等学部波理須理科学校とする。
○1899(明治32)年 この年同志社尋常中学校を同志社中学校と改称。
○1900(明治33)年2月 同志社中学校を廃し、同志社普通学校を設立す る。
○1904(明治37)年3月 同志社高等学部波理須理科学校及び同志社高等 学部文科学校を合併して『専門学校令』による同志社専門学校を設立す る。翌年、同志社高等学部政法学校を廃止する。
○1916(大正5)年2月 同志社普通学校を同志社中学と改称。
○1941(昭和16)年4月 同志社中学を『中学校令』による同志社中学校 に改組し、同志社中学校と改称。
○1947(昭和22)年4月 同志社中学校を新制に改組し、同志社中学校お よび同志社高等学校に分離。
上記の通り、同志社普通学校という呼称の学校は、2系譜ある。
第1の系譜列は、同志社英学校に起源を発して、それが1888年から1年 間同志社学院普通学部となり、1889年から同志社普通学校として1896年ま で7年間存在し、それが同志社高等普通学校、次いで同志社高等学部文科学 校に変わり、同志社専門学校に継承されていく系譜である。
第2の系譜列は、第1の系譜の同志社高等普通学校の下位の学校として誕 生した同志社尋常中学校に起源を持ち、1900年から1916年までの17年間 同志社普通学校と称し、その後に同志社中学校、そして戦後の同志社中学校
・同志社高等学校に連なる系譜である。
本論で主に論じるのは、第1の系譜に連なる同志社普通学校であり、それ も、新島の生前に同志社学院から改称されて誕生した同志社普通学校に設置 された高等学科である。
同志社英学校は英語で「普通学科」を教える「普通(リベラル・アーツ)」
学校だった
ところで、どうして同志社には上記のように「普通学校」という呼称が何 度も登場するのであろうか。
それは、そもそも同志社英学校自体が、英語(英書)によって「普通学 科」(リベラル・アーツ)を教える「普通学校」であったからである。
それは、1875年に新島が京都府庁に宛てて提出した「私塾開業願」にも、
私塾で教える学科は、単に「英語(綴字 文法 作文)」だけでなく、「算術 点算 度量学 三角法 地理 天文 窮理 人身窮理 化学 地質学 万国 歴史 文明史 万国公法 文理学 経済学 性理学 修身学」、ほかに生徒 の求めに応じて「志那学(史類本朝史 志那史)」も教えるとある4)。また、
1882年に新島が執筆した「同志社大学設立之主意」では、同志社英学校で の教育について次のように述べられているのである。(下線、引用者。)
我輩〔新島襄〕「夙ニ茲ニ憂フル所アリ同志ノ友〔山本覚馬〕ト謀リ一 社ヲ結ヒ、明治八年ヲ以テ地ヲ西京ノ北隅ニ占メ英学校ヲ設立シ、品行 端正学術練達ノ米国人デビス氏ヲ聘シ、続テ同国ノ教師両三名〔ラーネ ッド、テーラー、ドーン〕并ニ教育ニ熱心ナル内国教員数名ヲ招キ教育 ニ従事セシメ、五年ヲ以テ卒業期限ト定メ、普通学科ヲ授ケ、傍ラ人間 ノ要道ヲモ誨エ、専ラ知徳並行ノ薫陶ニ尽力セシメタリキ5)
さらに、前述の「私塾開業願」の教員履歴には、J. D. ディヴィスの学歴
として、ウィスコンシン州の「ベルート・コルレジ(大学ノ一部)」を1666 年に卒業して「普通学科之免状」を得た後、「シカゴ府内之神学校」を卒業 して「神学免状」を得た人物であると紹介し、自分の学歴としては、マサチ ューセッツ州の「アモルスト・コルレジ」を1870年に卒業して「芸術免状」
を得、1974年7月に「アンドワ神学校」を卒業して「神学免状」を得た、
と述べているのである6)。ディヴィスの学位が「普通学科之免状」で自分が
「芸術免状」とは、前者がB. A.(Bachelor of Arts)、後者がB. S.(Bachelor of Science)の訳語であることは明らかであろう。
このような記述から考えると、新島において普通学とは、米国のカレッジ が教えるようなリベラル・アーツそのものであるということができる。
2.1889 年設立の同志社普通学校
それでは、新島が逝去した1890年1月から4か月前の1889年9月に、そ れ以前の同志社学院が改称して設立された同志社普通学校とはどのような学 校だったのだろうか。
同志社学院
その前に、同学校の前身としてその前年に誕生した同志社学院について検 討しよう。同志社学院とは、1888年9月に、それまで同志社が運営してい たすべての学校である同志社英学校と同志社予備校、同志社女学校を併せて 同志社学院の名前の下に統合した学校であった。
なぜ、その時点で同志社の諸学校が統合されて同志社学院になったのかと いう理由については、いままで明らかにされていなかった。『同志社百年史』
では、この年の「11月には『同志社大学設立の旨意』が公表され、対外的 には、同志社が大学設立のための大々的な運動を始めた時期に相当する。し たがって、この同志社学院と改称し、内部諸学校の呼称ならびに組織を改め ることは、対外的運動に呼応するためであったことが考えられる」と指摘す るに留まっている7)。
しかし、筆者が新島遺品庫資料を調査した結果、「同志社学院設置草案」
が残されており、そこには、次のような記述があった。
同志社員其其ハ従来ノ社旨ヲ永遠ニ継続セシメンコトヲ欲シ全社員 一致シテ左ノ決議ヲ為ス
第一条
知徳並行ノ主義ニ基キ高等及ヒ普通教育ヲ施スヘキ一ノ大学〈院〉ヲ設 立センカ為メ従来同志社社長ノ名義ニテ所有セル一切ノ財産ヲ寄付ス但 財産ノ種類、数量、用途ハ附属表ニ依ル
第二条
右大学〈院〉ハ同志社大学〈院〉ト称セラルヘシ 第三条
同志社大学〈院〉ノ徳育ハ基督教ヲ以テ其基本トス 第四条
同志社大学〈院〉ノ資産ハ理事会之ヲ管理ス・・・8)
(「大」は「大」の字の削除を、〈院〉は手書きで追加された「院」の文 字を表す)
新島遺品庫資料には草案しか残されていないが、これを見ると、同志社学 院とは、従来は新島個人御名義で所有していた財産を一括して管理する現在 の学校法人のような組織であることが分かる。
その名称は草案のたたき台では「同志社大学」であったものが、「大」を 削除して「院」を追加したものだったことを見ても、この組織改編は、『同 志社百年史』の執筆者が論じたように対外的に同志社大学専門部の設立運動 が高まっていたことにも影響はあったとは思われる。しかし、それよりも、
この「同志社学院設置草案」をみると、諸学校の統合は、経営的法的な観点 でなされたものであったようである。
なお、管見によれば、キリスト教系の学校で「学院」という名前を最初に 使用したのは明治学院である。明治学院は、1877年設立の東京一致神学校 とヘボン塾の後身である東京一致英和学校と、その予備科の後身である英和 予備校の3つの教育機関が合同して1886年に設立された学校である9)。し
かし、だからといって、同志社が明治学院の名前を模倣しようとしたのでは なく、草案のたたき台を検討する中で名称が「大学」から「学院」に落ち着 いていったのであろう。当然、明治学院の名前は承知していたであろうが。
同志社普通学校と同志社神学校の設立
同志社学院の名称が、わずか1年後の1889年に廃せられた理由は明らか でない。しかし、おそらく、それも法的な事情によるものであって不本意な ものだったようだ。というのは、「同志社学院設置草案」の原資料には冒頭 に「他見ヲ禁止ル」と「走り書き」があり、同志社学院という名称になった 経緯を公表したくないような記述があるからである。そして、原資料には
「同志社学院設置草案」という表題そのものも見当たらない。
財産を個人ではなく組織に寄付するとそれに伴う権利義務関係が生じる。
自然人ではなく財産や組織が法人格を持てるようになるのは、1893年施行 の民法典の施行以降であって同志社も民法典に則って同志社財産を設立した のは1899年だから、同志社学院の設置は早すぎたのであった。
その一方で、私は、1889年9月の改組、特に同志社学院普通学部が同志 社普通学校に、同志社学院神学部が同志社神学校になったことに対しては、
より積極的な意味があったと捉えたい。なぜなら、それは新島の大学構想に おいても非常に重要な改組だったからである。
1889年8月16日付けの「徳富蘇峰秘書写し」による新島の「大学設立趣 旨」には、次のような記述がある。
昨年来天下に広告す、又此春以来当府〔大阪府〕に出張致し居る金森氏 より御聞取の事と存す。又教育の必要ハ申す迄もなく、諸君にハ必す確 認せられ、又大ニ賛成せらるゝならん。去りながら茲ニ一言を要するハ 他なし、吾人ハ完全なる教育を切望するものなり。
完全なる教育を以て完全なる人物、知徳兼備の人物、六尺の孤を託し百 里の命を寄するべき信任するに足る慥かなる人物、社会の柱石、一国の 運命となるべき人物を養成せん事を望むものなり。現今〔同志社に〕在 る所の学校ハ予備学校、普通学校、神学校等にありて、吾人の最も注意
すべきハ即ち普通学校ニあり。而して来秋より其の程度を進め、愈大学 の予備門と為さんとするの計画にあり。又人物を養成するの一点も却て 大学ニハあらずして、寧ろ此の普通校〔普通学校〕にあり。乍去普通科 を以て決して教育を全ふする能ハず、之を全ふするにハ即ち大学を置く ニあり。世人ハ我同志社を評して只宗教主義の学校にして只伝道師を養 成するのみと云ふ。夫れ或ハ然らん、如何となれば、神学専門の一科を 置きたれバなり。吾人ハ此の一科を以て足れりとせず、此より進みて文 学、法学、理学、医学等の諸学科を置き、宇宙の天理を講究し、社会の 通則を学ハしめんと欲す。凡大学たるものハ偏頗狭隘なるべからず、尤 も基礎を強固にし規模を寛大に為し、深山大沢龍蛇を生ずと申して之を 深山大沢となし器量の大、志操の高、目的の大なる人物を養成致し度き ものなり10)。(下線、引用者)
この「大学設立趣旨」の最後には「今日ハ幸に小生も諸君の前ニ出て平素 の宿志を簡単ニ陳するを得たるハ実ニ幸の至り也。殊ニ大阪市民より撰抜せ られたる諸君が進て此挙を助け玉ふに至らば吾人ハ非常の力を得」11)とある ので、この文書は、1889年8月16日に新島が大阪市会議堂において、「休 憩中市会議員諸士へ、知事ノ紹介ヲ得テ漸時大学ノ事ヲ陳シ」12)た際の新島 のスピーチを蘇峰の秘書が記録した速記録と考えて間違いない。
この速記録で新島は、極めて重要なことを語っている。
それを順にまとめると次のようになる。
①自分は「完全なる教育」(の実現)を切望している。
②「完全なる教育」によって「完全なる人物、知徳兼備の人物、六尺の孤 を託し百里の命を寄するべき信任するに足る慥かなる人物、社会の柱 石、一国の運命となるべき人物」を養成したい。(なお、ここでいう
「六尺の孤を託し百里の命を寄す」とは、論語・泰伯からの出典で、父 君を無くした幼君を安心して託せる人物であり、百里司法の諸侯の国の 運命を任すことのできる人物、のことである。)
③現今、同志社には、予備学校、普通学校、神学校等があるが、自分が今 最も注意を払っているのは普通学校である。来秋より其の程度を進め、
いよいよ大学の予備門にする計画がある。人物を養成するという一点に ついての役割は、大学ではなくて、むしろこの普通学校にある。
④しかし、普通科だけでは決して教育を全うすることができない。教育を 全うするには即ち大学の設置が必要である。
⑤「大学たるものハ偏頗狭隘なるべからず、尤も基礎を強固にし規模を寛 大に為」すべきだ。自分は神学科だけで足りるとはしない。神学科を手 始めに、文学、法学、理学、医学等の諸学科を置き、宇宙の天理を講究 し、社会の通則」を学生に学ばせ、「器量の大、志操の高、目的の大な る人物」を養成したい、と。
この中で新島は、自分が最も注意を払っている現存の学校は同志社普通学 校であって、そこには「来秋より其の程度を進め、愈大学の予備門と為さん とするの計画」がある、と述べる。
新島が語った1889年8月の時点での「来秋」とはいったい何年の秋か。
現代的な日本語の感覚では「来秋」は来年の秋であって1890年の秋となる が、ここでは、「来年度の秋」と理解したい。同志社はアメリカ流に新年度 は9月であった。
そして実際に同志社普通学校に5年制の尋常科と2年生の高等科が設置さ れ、あわせて2部7年制の学校となったのは1889(明治22)年9月であっ た13)。
さらに、新島のいう「大学の予備門」、実際に組織として成立した同志社 普通学校高等科は、英文資料・ CATALOGUE OF THE DOSHISHA COLLE- GIATE AND THEOLOGICAL SCHOOLS FOR THE YEAR 1889-1890 14)でみる と、Collegiate Schoolであり、普通教育を行うカレッジとしての学校のこと である。
すなわち、新島の具体的な大学構想とは、普通教育を行うcollegeと専門 教育を行う大学専門部群の両者の集合体であるuniversityなのであった。
そして同志社普通学校尋常科の入学資格は年齢13歳以上、『ナショナルリ ーダー』第三読本の読方意訳、『十八史略』の素読講義、算数は筆算として 四則から分数、比例の終わりまで、作文として記事論説の試験に合格し、そ れに体格検査を加えるという条件であり、相当に程度が高いものであっ
た15)。13歳は数えであるから現在でいうと12歳、その年齢以上の青年が、
5年で尋常科を修了し、それから2年間高等科で学ぶということは、現在で いえば同志社普通学校尋常科は中学生から高校生の年齢で学び、同高等科 は、高校3年から大学1、2年の年齢で学ぶことになり、それから各専門科 を学ぶのである。
日本は、戦後の教育改革によって大学における教養科目が重視されて、大 学は最近まで一般教養課程と専門課程の2つの課程に分けられていたが16)、 そのような教育プログラムを当時の同志社が先取りしていたことになる。
なお、1889年8月の「大学設立趣旨」では、新島が「現今在る所の学校 ハ予備学校、普通学校、神学校等」と述べているが、上記の通り、同年同月 までは、すべて同志学院の下に統合されて、予備学部、普通学部、神学部と なっていたので、呼称の相違が気になる。しかし、それは、年代の相違や間 違いというよりも、当時の同志社では、各学校名や学科名はあまり厳密な言 い方をされていなかったためであるようだ。『同志社五十年史』には、学校 名や学科名について次のようなコメントが記述されている。
〔1887年の印刷物『京都同志社英学校/神学校規則提綱』に関して〕同 志社英学校に含まれた各学校名は時と場所によって勝手に変化さゝれて ゐる。校名の変化に従って課程等にも変化があるかと思ふがさうでもな い。甚だしい例は、同一規則書中に於ても同学校を呼ぶのに呼称が異な ってゐる。英学科と云ひ又英学普通科と云ひ、神学科と云ひ又同志社神 学校と云ひ、英学予備科と云ひ又同志社予備校と云ひ、上記の規則堤綱 によれば、此の年設立された同志社予備校は英学予備科なる名称を以て 同志社英学校に属してゐる様であるが、実は制度上英学校と連絡する学 校と云ふのみで全く独立した学校であった17)。
同志社普通学校と同志社神学校
上の『同志社五十年史』の記述のとおり、それ以前にも同志社英学校の神 学専門科が「同志社神学校」と呼ばれていたにせよ、1889年に正式に成立 した同志社神学校は、同時に成立した同志社普通学校高等科に接続する同志
社における最初の大学専門部として重要である。この時成立した同志社神学 校が大学専門部の 嚆 矢 で あ る こ と は、先 に 引 用 し た 英 文 資 料・ CATA- LOGUE OF THE DOSHISHA COLLEGIATE AND THEOLOGICAL SCHOOLS FOR THE YEAR 1889-1890 を見れば明らかである。日本では、同志社普通 学校(尋常科・高等科)と同志社神学校は別の教育機関のようにとらえられ るが、その英文カタログでは、両校は一体となっていて、次のように学科の 見出しが紹介されているのである。
THE DOSHISHA COLLEGIATE AND THEOLOGICAL SCHOOLS COURSES OF STUDY
ACADEMIC AND COLLEGIATE DEPARTMENT
ACADEMIC COURSE (アカデミックコース)
Year. I./Year. II./Year. III./Year. IV./Year. V COLLEGIATE COURSE (カレッジコース)
Year. I./Year. II.
REGULAR THEOLOGICAL COURSE (英語神学コース)
Year. I./Year. II./Year. III.
VENNACULAR THEOLOGICAL COURSE(邦語神学コース)
Year. I./Year. II./Year. III./Year. IV.
SPECIAL THEOLOGICAL COURSE (特別進学コース)
Year. I./Year. II./
TRANSITIONAL COURSES 1889-1890 (移行期のコース)置 Year. V./Year. IV./Year. III/ Year. II18)
なお、同志社普通学校尋常科をACADEMIC COURSE、同高等科をCOL- LEGIATE COURSEと英語表記したのは、新島の卒業したPhillips Academy
とAmherst Collegeにそれぞれを対応させたように思われ、さらに、その両
方の科から構成された同志社普通学校の英語表記をACADEMIC AND COL-
LEGIATE DEPARTMENTとしたのは、新島が同志社普通学校を中等教育か らカレッジまでの教育を行って「人物を養成する」役割を担う教育機関とし て位置付けた証左と考えることができる。そして、これもまた、現代の「高 大接続教育改革」の先取りと言えるものである。
カレッジとユニバーシティによる大学構想の成立時期
それでは、新島はいつごろからカレッジとユニバーシティによる大学構 想、もっといえば、同志社英学校のレベルをカレッジレベルに引き上げ、そ れに大学専門部を接続させる構想を持つようになったのであろうか。
新島が大学設立の趣旨を述べた正式な文書で比較的早期のものは、1883
(明治16)年4月に活版印刷された「同志社大学校設立旨趣」である。それ を見てみよう。先に引用した1889年の「大学設立趣旨」と同じような表現 が見て取れる。
我輩此ニ感スル所アリ、嚮ニ明治八年ヲ以テ同志ノ友ト謀リ地ヲ京都ノ 北隅ニ卜シ同志社英学校ヲ設立シ、品行端正ニシテ学術練達ナル米国人 デビス氏ヲ聘シ、尋デ又同国ノ教師両三者並ニ教育ニ熱心ナル内国人数 名ヲ招キ普通学科ヲ教授シ、且ツ以テ世ノ弊風ヲ矯正セント欲シ、専ラ 智徳並進ノ事ニ尽力シタリシガ、未タ幾回ノ星霜ヲ更メザルニ生徒ノ業 ハ斐然トシテ精進シ、卒業ノ証ヲ受クルモノ頻々輩出スルニ至レリ、然 レトモ其教科ニ限ル所アルガ為メニ専門ノ蘊奥ヲ窮ムルニ由ナク、世運 ノ日進ト相伴ハザルノ遺憾ナキ能ハズ、是ニ於テ教科ヲ釐革〔改革〕シ テ稍〔順を追って〕高等ニ進マシメ、続テ大学専門部ヲ設置シ、生徒ヲ シテ各其長ズル所其好ム所ニ従テ之ヲ専攻セシメ、以テ大ニ其才能ヲ成 就スル所アラシメント欲シ、広ク之ヲ我親友及ヒ有志者ニ謀リシニ、即 チ其賛成ヲ得テ専門部設置ヲ負担スルノ委托ヲ受クルニ至リシハ、我輩 ノ宿志貫徹スルノ時ヲ得タリト欣躍ニ堪へザルトコロナリ19)
(1883年「同志社大学校設立旨趣」、下線、引用者)
ここにある「教科ヲ釐革シテ稍高等ニ進マシメ」という部分は、同志社英
学校の教科を改革して高等の普通学を教えるカレッジにするということであ る。また、「続テ大学専門部ヲ設置シ、生徒ヲシテ各其長ズル所其好ム所ニ 従テ之ヲ専攻セシメ、以テ大ニ其才能ヲ成就スル」という部分は「専門部」
すなわち専門の学部を設置して、生徒の長ずる所や好む所の学部を専攻させ て、才能を成就させ学問を完成させる、ということであって、「広ク之ヲ我 親友及ヒ有志者ニ謀リシニ、即チ其賛成ヲ得テ専門部設置ヲ負担スルノ委托 ヲ受クル」という部分は、一般に言う同志社大学設立募金運動とは、実際に は大学専門部設立のための募金運動であることを指す。
この「同志社大学校設立旨趣」がまとまった背景については、「1881(明
治14)年の記事から始まる新島の公的な大学設立募金運動(厳密にいえば、
大学専門部設立募金運動)の記録である「同志社大学記事」に次のように書 かれている。
すなわち、「大学設立ノ事ハ同志社創立ノ以前ヨリ襄ノ宿志ニテアリシガ、
窃ニ時運ノ到来スルヲ待居タリシニ」、1881年10月中旬に立憲政党新聞の 古沢滋と共に土倉庄三郎が実子を伴って子供の教育を同志社に委託する目的 で新島邸を訪れた際に古沢が大学の必要を述べ、新島が私立大学の要旨と同 志社における計画を談じ、土倉がそれを賛成して尽力することを約束したこ とから具体的な同志社大学の設立の話が進んだ、そして明治16(1883)年 の一月に至り、新島が「大学設立ノ要旨ヲ大方ノ有志者ニ告知セント欲シ、
之レガ草稿ヲ期スルに至ル」と20)。
したがって、同志社英学校をカレッジのレベルに引き上げて、さらに大学 専門部を設置するという構想は、新島が具体的な大学設立募金運動を行う時 点ですでに抱いていたことが分かる。
たしかに、現在残っている1882年11月7日に書かれた新島の最も初期の 大学設立構想の草案(「同志社大学設立之主意之骨案」)にも「抑同志社英学 校ノ如キハ元来我輩資金ヲ有シ之ヲ設立セシニアラス、一片ノ精神一滴ノ感 涙克ク米国人ノ心ヲ動カシ其ノ賛成ヲ得其ノ寄附ニヨリ其ノ基ヲ立ツルニ至 リシナリ、我輩今ノ英学校ヲ以テ予備門トナシ、進テ大学専門部ヲ設ケント 欲ス」とも綴られているのである21)。
なお、この草案では、同志社の校長としての新島が大学専門部を設置しな
ければならない実際的な必要も次のように述べている。
きゅうかつ
裘 葛(冬の衣と夏の衣、転じて一年)ヲ易ル尚未タ幾回ナラサルニ生 徒ノ学術ハ斐然トシ進歩ノ実効ヲ呈シタルヲ以テ、寸進尺進之レカ改良 ヲ図カリシモ、世運日ニ進ミ月ニ新ナルノ際ニ当リ現ニ授業スル所ノ学 科ノミニ限レハ只ニ学術ノ大意初歩ニシテ、学術の奥蘊ニ達セルモノト 云ヘカラス、又方今ノ需要ニ供スルニ足ルモノトモ云ベカラス、依テ速 ニ〔同志社英学校の〕本科ノ教科ヲ益高等ノ学科ニ進メシメ、続テ大学 専門部ヲ設置シ生徒ノ好ム所長スル所ニ順テ学術ヲ専脩セシメハ大ニ裨 益スル所アラント希図シ、断然大学設置ニ決意シ・・・」(下線、引用 者)22)
新島には、同志社英学校の教育レベルをカレッジレベルに上げないと「学 術ノ大意初歩」にとどまって「学術の奥蘊ニ達」しないし、大学専門部を設 置して教育を完全にしないと、高等教育を望む学生の需要を満たせない、と いう思いがあったのである。
3.同志社普通学校尋常科・高等科の学科
それでは、1889年9月に開校した同志社普通学校の尋常科と高等科の学 科はどのようなものだったろうか。下表はいずれも新島の生前の1889年9 月の科目であり、彼の考えが反映されていると考えられるものである23)。
1)同志社普通学校尋常科の学科
同志社普通学校尋常科の学科は表1の通りである。
これを見ると、キリスト教関係科目と英語と数学と体操を全学年で学び、
前三者は学年を経るごとに難易度が上がり、特に数学は微分積分という現代 では高校の数学IIで学ぶような難易度の高い科目がある。また、自然科学 関連科目も物理学や無機/有機化学など、やはり現代では高校で学ぶような 科目もある。その一方で、社会科学関連科目は、わずかに英語和訳・和語英
訳の中で地理と歴史を学ぶ程度であって、英語と共に数学や自然科学関連科 目を重視した学科であった。
2)同志社普通学校高等科の学科
同志社普通学校高等科の学科は表2の通りである。
高等科は、いわゆる2次外国語としてドイツ語を2年間学ぶことと、英語 は作文から論文へレベルが上がり、リベラル・アーツの基礎となるラテン語 やギリシア語、そして、ギリシア史やローマ史、ヨーロッパ史など国際人と しての教養を養う歴史学を学ぶ科目が目立つ。政治学と経済学はラーネッド が担当しているので25)、イェール大学仕込みの日本で最も進んだ政治学と経
表1 同志社普通学校尋常科 学科表24)
表2 同志社普通学校高等科 学科表26)
済学を教える予定であった26)。
なお、尋常科と高等科の表にはないが、先の英文カタログを見ると、次の ことも謳われている。
①普通学校では、尋常科と高等科も含めて聖書とキリスト教証拠論を全コ ースで教える。
②兵式体操は週4回、ほかに発声練習も毎週すべてのコースで行われる。
③デッサンは尋常科の最初の3年間毎週行われる。
また、この高等科の学科でさらに特徴的なことは、数学や英語そのものの 科目が見当たらないことである。おそらくそれは、尋常科でみっちり学ぶか ら、高等科はそれらの応用としての学問に注力できるのである。これもまた 現代でいう「高大連結」教育の成果であろう。
3)アーモスト大学の学科との比較
それでは、同志社普通学校の学科は、新島がAmherst Collegeで学んだ学 科と比較するとどうなるであろうか。
もし同志社普通学校高等科がChristian Collegeであれば、Amherst College の学科と比較してもそれが分かるはずである。
表3は私が先行研究からまとめた、新島が同カレッジで学んだ学科表であ る。同志社普通学校尋常科にある科目を下線、同高等科にある科目を二重下 線で示した。
※第3学年3学期は、新島はリューマチを発病してシーリー教授宅に厄介 になり、あまり授業に出られなかった。
これを見ると、Amherst Collegeで新島が学んだ学科のほとんどが同志社 普通学校高等科と尋常科のどちらかに設置されたことが分かる。Amherst
Collegeで新島が学んだ科目の中に、同志社普通学校の高等科ではなく、尋
常科の科目にあるのは、同志社普通学校が「高大連携」のために尋常科で先 に学ぶものがあるからである。
そして、同志社普通学校に無くてAmherst Collegeにあった学科は、植物 学、貝類学、動物学、建築学程度である。
逆に、Amherst Collegeに無くて同志社普通学校にある科目は、ドイツ語、
政治学、経済学、心理学、論理学、倫理学、近世ヨーロッパ史等である。ド イツ語が重視されたのは、新興国ドイツが日本の近代化のモデル国となった ことにも起因するのであろう。新島もドイツの大学は「高尚ナル専門科ヲ攻 修スルニ至リテ実ニ他国ノ右ニ出ツ」とその教育レベルの高さを評価してお り28)、専門科を学ぶにはドイツ語を必須と考えたのであろう。
政治学と経済学はラーネッドが担当したが、心理学や倫理学は森田久万 人、ヨーロッパ史は浮田和民が担当した29)。森田も浮田ものちにイェール大 学に留学し、日本を代表する学者となった。
以上により、同志社普通学校高等科が新島の大学構想の一翼を担う同志社
のCollegeであり、それは新島の最晩年に実現していたことが明らかになっ
表3 新島がAmherst Collegeで学んだ学科27)
た。
1889年の新学期が始まる9月3日に、新島がシーリーに書いた英文書簡 に次の文言がある通りである。
Under auspices of the Doshisha Trustees we have several schools; Prepara- tory school, Collegiate course and Theological school; a girl’s school and a school for nurses. I would request you for your special prayers for these in- stitutions30).
4.終わりに 新島の逝去と同志社普通学校高等科の廃止
本論では、1889年9月に設立された同志社普通学校高等科こそ、新島の 大学構想の一翼を担う同志社のcollegeであったことを論じたが、同志社普 通学校は、成立した翌年の1890年9月制度が変更されて高等科が無くなり、
尋常科も4年制に短縮された。
なぜこのような変更が行われたのかと言えば、やはり新島の逝去に起因す るものであろう。
1888年10月の調査では、同志社学院普通学部の在学生は421人、予備学 部の生徒数は203人、新入生は171人、合計795人いた31)。中途退学者は3 割くらいあったようだが、新入学生は2百人くらいあったので32)、1889年9 月の普通学校の生徒数は全体で750人近くいたと思われる。したがって、7 年制の新制同志社普通学校高等科の少なくとも1年度には、実際に生徒が在 席したと考えられる。
しかし、新島が逝去した1890年には、男女新入生210人に対して中途退 学者が338名と大幅に逆転し33)、約2割の生徒が同志社を去り、絶対数が 600人くらいになった。
同志社普通学校高等科が廃されたのは、そのような学校経営上の対策の必 要性によるものだろうが、また、アメリカ流に大学はカレッジと大学専門部 の両翼が必要であるという認識は、当時実際にアメリカの高等教育を受けた 新島以外の日本人関係者に理解がされなかったことにも依るであろう。
その当時から、日本の大学は、「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及 其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」という帝国大学令(1886年)をモデル とする大学であって、大学に道徳面での能力も謳われるようになるのは、戦 後の学校教育法(1947年)を待たなくてはならず、さらに、そのための高 等の普通学を「広く深く」学ぶリベラル・アーツ教育の必要性が叫ばれるの は最近になってからのことである。同志社の関係者が執筆した『同志社百年 史』(1979年刊)でも、この1889年設立の同志社普通学校高等科について は、新島の大学構想の一環としてのカレッジという評価がなされていない。
それは、『同志社百年史』刊行当時は『新島襄全集』も刊行されていなか ったのでやむを得ないことである。それから現在まで新島研究が飛躍的に進 んでいることを研究者の一人としてむしろ喜びたい。
注
1)拙稿「大学医学設立は新島襄の悲願だったのか」『新島研究』第105号、pp.95- 101。
2)『同志社百年史』(通史編1)、学校法人同志社、1979年刊、pp.510-550。
3)『同志社九十年史小史』(学校法人同志社、昭和40年刊)年譜等から作成。
4)『新島襄全集』1(同朋舎出版、1983年)、p 4。以下、『新島襄全集』①のように 記す。
5)同書、p 24。下線、引用者。
6)同書、pp 3-4。
7)前掲『新島襄全集』①、p.272。
8)新島遺品庫資料目録番号0345。
9)https : //www.meijigakuin.ac.jp/about/history/history.html(2018/9/22調査)
10)前掲『同志社百年史』(通史編1)、151頁。
11)同書153頁。
12)『新島襄全集』⑤、p.471。
13)前掲『同志社九十年史小史』、p.64。
14)同志社大学同志社社史資料センター新島遺品庫資料目録0111 15)『同志社五十年史』同志社校友会、1930年刊、p.206。
16)たとえば、横山卓雄「大学における一般教育と専門教育」『私学同志社』同志社 大学、1980年刊。
17)前掲『同志社五十年史』、p.205。
18)前掲新島遺品庫資料(目録0111)、pp.5-8。
19)前掲『新島襄全集』①、pp.66-67。
20)同書、p.185。
21)同書、p.31。
22)同書、pp.24-25。
23)同志社普通学校尋常科と同高等科の学科は、前掲『同志社五十年史』、pp.206-208 を整理して転載した。
24)前掲『同志社九十年史小史』、pp 65-66。
25)前掲新島遺品庫資料(目録0111)、p.3。
26)住谷悦治『日本経済学の源流 −ラーネッド博士の人と思想−』(リベルタス選 書)、教文館、昭和44年刊。
27)(大鉢忠)「同志社大学理工学部概史」『人間のための科学技術を求めて 同志社 大学理工学部の70年』、同志社大学理工学部・同志社大学理工学会・同志社大学 理工学部同窓会、2014年刊、p.34。
28)ただし、新島は本文の引用文の後に、ドイツの大学は「諸政府ノ直轄スル所ナレ ハ自治精神ニ欠乏スル憂ナキモ保証シ難シ」と批判することも忘れなかった。
『新島襄全集』①、p.48。
29)前掲新島遺品庫資料(目録0111)、p.3。
30)『新島襄全集』⑥、p.362
31)「同志社学院各級信者未信者数調査概表」同志社大学同志社社史資料センター新 島遺品庫資料目録0074
32)前掲『同志社五十年史』、p.130 33)同書同頁。
なお、本校執筆にあたって同志社大学同志社社史資料センターの布施智子社史資料 調査員に資料調査に関して大変お世話になりました。お名前を記して感謝申し上げま す。