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神田哲雄と渡辺実の新島襄伝

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神田哲雄と渡辺実の新島襄伝

著者 北垣 宗治

雑誌名 新島研究

号 100

ページ 49‑61

発行年 2009‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012967

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北 垣 宗 治

これら二人の著者はともに同志社の卒業生ではない。いわば同志社外部 の人である。両著は 1950 年代後半に相次いで刊行されたもので、当時同 志社内部で主流だった、徳富蘇峰・森中章光の唱道した新島像からは一歩 離れた立場に軸足を置き、新島をむやみに神格化する意図をもたない点で 共通しているといえよう。現在の新島学の基準からするとそれぞれに多く のミスが発見されるが、それらのすべてを取り上げるわけにはいかないの で、私なりに重点的に論じてみたい。

A.神田哲雄『新島襄の生涯』(社会教育者連盟、1955)

奥付の略歴によれば、神田は 1909 年に群馬県に生まれた人で、『農村婦人』

編集長、前橋市社会教育係長を経て、緑の会会員、社会教育者連盟主幹。

主な著書に歌集『都塵集』、『藤村詩選』、『万葉集名歌鑑賞』、『新島襄先生 の言葉』、『愛の偉人新島襄』がある。本書は同志社の創立八十周年の機会に、

最後の二著を総合、修正して作り上げたもののようである。本書の巻末に

「新島襄の言葉」として、47 個の引用文が入れてある。

本書は新島を郷土の偉人として誇る群馬県人によって書かれたものであ り、新島の生涯を辿るとき、「利かぬ気の上州人気質が、至るところに発 揮されていて、やはり、父祖の血は争えぬの感が深い』(序)という。神 田はその典型的な例を、ラットランドにおけるアメリカン・ボードの年次 大会でのスピーチのあと、支援を得るまで着席しないと宣言した新島に見 る。また「正義感の強いのは江戸児の気風でもあり、上州人の気風でもあっ たが、七五三太は、それが人一倍強かった」(p. 19)という見解も述べて

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いる。若者にもアピールするよう、河野仁昭氏の『新島襄の青春』(京都:

同朋舎、1998)を思い出させるような平易な文体を用いている。

本書の構成は「序」、「幼年時代」、「少年時代」、「立志」、「脱国」、「滞米 十年」、「祖国の山河」、「晩年」、「新島襄の言葉」というもので、全体は 208 頁から成っている。新島の準備時代を描いた「滞米十年」までがp. 98 で終り、帰国後の活躍期を描いた「晩年」までがp. 172 で終っているから、

前者に費やしたページの方が 24 頁も多い。これは神田が新島の人間形成 期を重視した結果であるということができる。つまり若き新島の方により 多くの光をあてることによって、ターゲットとしての読者層を青少年に置 いたことが読み取れるのである。

本書は 1955 年に書かれた伝記としては比較的よくできた伝記といえる。

著者はDavis著、山本美越乃訳『新島襄先生伝』(東京:警醒社、1903)、

岡本清一『新島襄』(広島:広島図書、「銀の鈴文庫」、1948)、同志社校友 会編『新島先生記念集』(1940)に裨益されること大であった、と述べて いる(後記)。しかし彼が根岸橘三郎『新島襄』(東京:警醒社、1923)と 湯浅与三『新島襄伝』(東京:改造社、1936)に負うていることもまた明 らかである。1955 年 9 月 24 日付の森中章光宛の神田書簡(これは社史資 料センターの保有するコピーの中に挟まれている)の中に、田中良一氏か ら「微に入り細に及ぶ誤りの御指摘をうけた」と書いている。しかし神田 にはそれに基づく訂正版を刊行する機会はなかったようである。

私は過去において何度となく新島懸賞論文の審査委員を務めたが、中学 生たちが繰り返し新島に感心した、と書いているエピソードがあった。そ れは若き日の新島の勉学態度は、一字一句おろそかにしない主義で、分ら ない箇所に出くわすと、それが分るまで何日もかけ、分るまではその先へ 進もうとしなかった、という記述であった。このことは岡本清一に出てく るので、感心した中学生は岡本清一『新島襄』を読んだのである。新島自 身はそのようなことをどこにも述べていないので、私は不思議に思ってい た。それについて神田自身は次のように述べている。

  七五三太の勉強のしかたは、一字一句もおろそかにせず、文章の意味

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をおぼえて行くやり方であった。安中藩の漢学の先生で飯田某という 人は、「一つのくだりも一つの言葉も、その研究のために幾日もつい やすという勉強のしかたであった」と後にのべている。

(p. 12)

この箇所は岡本ではこのようになっている。

 七五三太はよくできた。その勉強方法は、一字一句もおろそかにしな いで、よくわかるまで先へ進まない、というやり方だった。ですから 時には、一句の意味を理解するのに、三日もかかる、というほどだっ たが、それは煉瓦を一つ一つ、積み重ねていくように、知識のゆるが ない集積ができ上るのである。 (p. 19)

これの源は根岸橘三郎にあることが判明した。引用してみよう。

 飯田君が当時の次ぎの如き感想を私に話しました。「新島さんは頭脳 が明晰で、一字一句いやしくもせず、文章の意味を詳細に了解する質 ですから、時に由ると一章句の研究に数日を費すと云ふ勉強法で、弟 の双六君の一瀉千里に片付けるのとは大変な違ひです。」(p. 72)

飯田逸之助が根岸に向って、本当にそのように語ったかどうか、それを 確めるすべはない。しかし私は英語の教師として、またテクストの読解を 仕事とする者として、この「一字一句了解主義」はまやかしであると考える。

つまり、単語、単句、単文と作品全体の関係からするならば、単語、単句、

単文がわからない場合にはその前後関係、すなわち文脈から攻めていくの であって、全体から部分を理解するというのは重要な方法なのである。或 る一字、一句がわからないから、その先には進めない、のではなく、その 先に進んでみて、または引き返してみて、わからない字句を理解するので ある。これが人文学の方法であって、このことは「漢学」においても同じ であると確信する。だとすれば、なぜ飯田のような発言になるのだろうか。

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またなぜこの「一章句の研究に数日を費す」という間違った勉強法に、中 学生たちがあれほど感心したのであろうか。私には分らないのである。

新島の諸伝記にはいくつかの誤りがウィルスのようにしのびこみ、それ が歴代の伝記家に受け継がれてきた。そしてそうしたウィルスの源となっ たのは、一つは根岸『新島襄』であり、今一つはDavis・山本『新島襄先 生伝』である。根岸の場合の実例を挙げるならば、神田は函館から上海ま で新島をベルリン号に便乗させた義侠的な船長William T. Savoryのことを

「ドイツ系のアメリカ人」(p. 53)だったとしているが、これは根岸が「そ の父はドイツ人で和蘭に移住し、そうして又米国に来たのです」(p. 193)と、

まるでセイヴォリー本人から聞いたかのように書いたことからきている。

セイヴォリー家の墓がマサチューセッツ州セイラムのHarmony Grove Cemeter yに あ る こ と を 井 上 勝 也 教 授 が つ き と め て お ら れ る が、 あ の ニュー・イングランドの古い町にドイツ移民がたどりついたということは、

一寸考えにくい。

次にDavis・山本『新島襄先生伝』に発するウィルスに言及しておきたい。

私の見るところ大型のウィルスが二つある。その一は岩倉使節団の中に寺 島宗則を入れていることであり、これは何よりもデイヴィスの責任である。

それはA. S. ハーディーに感染し、湯浅与三、岡本清一、神田哲雄、加藤

延雄(『新島襄先生略伝』京都:日本観光美術出版社、1956)にまで及ん でいる。興味深いことに、根岸、森中、魚木、渡辺、和田はそのウィルス に感染していない。新島が寺島宗則外務卿にあてて、同志社女学校の二人 の女性宣教師の居住許可を求めて 1878 年 2 月 28 日付で書いた手紙が残っ ている。これは堂々とした名文の手紙で、漢語の駆使ぶりが新島の高い漢 学的教養を偲ばせるものであるが、もしも寺島を岩倉使節団の一員として 新島が知っていたなら、このような筆致の手紙には恐らくならなかったで あろう。

今一つのウィルスは、さいわいに死に絶えたのであり、復活することは 恐らく考えられないのであるが、新島にアメリカン・ボードが与えた corresponding member of Japan Mission の訳語である。山本美越乃はこれ を「日本伝道部の(番外)通信員」と訳した。それを『同志社五十年史』(1930)

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において中瀬古六郎が踏襲し(p. 40)、中瀬古はこれを「コルレスポンデ ント」と取った。爾来「番外通信員」は湯浅与三、森中章光、渡辺実、和 田洋一(『新島襄』東京:日本基督教団出版局、1973)まで及んだ。神学 者であった魚木忠一がその著『新島襄―人と思想』(京都:同志社大学出 版部、1950)において「日本ミッションに於ける宣教師待遇者或は準会員」

(p. 69)という正しい解釈を出していたにもかかわらず、である。ついで ながら、魚木はアメリカン・ボードのPrudential Committeeに「最高審議 委員」 [会] という訳語を与えている(p. 72)が、これは「運営委員会」よ りもはるかに適切な訳語であると私は思う。

さきほどベルリン号のセイヴォリー船長に触れたので、ワイルド・ロー ヴァー号のHorace S. Taylor船長についても触れておきたい。神田は「船 長のテイラーは熱心なキリスト教信者であった」(p. 63)と書いている。

本当にそうであっただろうか。これは新島を初めてJoeと呼んで可愛がっ たテイラーであるから、熱心なキリスト教徒であったに違いないという単 純な類推からくるのではあるまいか。河野仁昭氏でさえこの種の類推に 陥っている。「テイラー船長は朝夕聖書を読み、お祈りをしていた。・・・

テイラーの親切心はやはり聖書の教えによるものだと、新島は信じた。セ イヴォリー以上にこまやかに面倒をみてくれるのは、セイヴォリー以上に 熱心に聖書を読んでいるからにちがいあるまいと思われた」(『新島襄の青 春』、pp. 128-28)。私がこのことを取り上げるのは、1869 年にテイラー船 長が不慮の事故死をしたあと、新島が船長の親族に宛てて書いた痛切な、

回心を迫る手紙が残っているからである。テイラーが亡くなって初めて新 島は、テイラーとは一度も信仰について話し合ったことがなかったことに 気付いて愕然としたのであった。それに、自分を家族の一員として受容れ てくれたテイラー家の人々に、イエスをキリストとして受容れている雰囲 気が感じられないことを、新島は残念に感じた(多分彼がハーディー家、

シーリー家、ヒドン家で感じてきたような感覚がテイラー家では欠如して いるため)からであった。テイラー船長は豪放な、良い人、良い兄貴であっ たに違いない。しかしいわゆる「熱心なキリスト教信者」だったとは考え られないのである。この問題については新島襄全集第 6 巻、pp. 61-64 と、

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それに対する私の解説、同書pp. 400-04 を参照願いたい。

B.渡辺実『新島襄』(吉川弘文館、1959)

本書は吉川弘文館の人物叢書の一冊として書かれたものである。奥付の 略歴によれば、著者は 1911 年生まれで、東京高等師範学校、日本大学史 学科を卒業したのち、岡崎高等師範学校教授、名古屋大学助教授を務めた のち文部省教科書調査官になった人である。「近世諸藩における遊学」、「遊 学から留学へ」という論文を発表している。本書は新島に関して多くの先 行伝記を参照しているが、巻末の主要参考文献の中にA. S. Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesimaが入っていないことが奇異に感じられる。

(このHardyを無視したことは神田も同様である。)

章立てを紹介するならば、「はしがき」、「1 明治文化史上の新島」、「2  生いたちとその環境」、「3 日本の先覚者たち」、「4 米国へ密航」、「5  滞米中の勉学」、「6 岩倉大使一行の先導」、「7 帰国への道」、「8 伝 道と新教育事業の開始」、「9 理想実現の第一歩」、「10 教勢飛躍の最高 の牽引者として」、「11 再度の欧米巡歴」、「12 病躯にむちうって」、「13  伝道と教育に真価の発揮」、「14 新島他界後の教界」、「15 むすび(そ の人がら)」であり、バランスのとれた構成であるといえる。巻末の「略 年譜」と「主要参考文献」を合わせて、297 頁の本である。

渡辺は「はしがき」の中で自分の意図を明らかにしている。すなわち彼 は『新島襄先生書簡集』(1942)と岩波文庫の『新島襄書簡集』(1954)を 第一の史料としつつ、先行の伝記を「総合勘案」した上で、「従来の新島 伝の多くに見られるような、日本精神主義者の立場や、偉大な教育者とい うような一面的なとらえ方を排し、つとめて新島の事業全般を、時代の推 移によってとらえ、明治文化史上に果した新島の役割を、客観的にとらえ ることに意を注」いだと述べている。この発言が示唆するように、先行の 諸研究以上にキリスト教宣教の指導者としての面に光をあてようとしてい る。著者は日本におけるプロテスタント教会の発展史に詳しく、新島を組 合教会の総帥として高く評価するあまり、熊本バンドの弟子たちや、その

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他の同志社の卒業生たちを手足のように使って宣教活動を展開したとして いる。渡辺が日本各地に設立されていく組合教会の状況を描写するとき、

あたかも『基督にある自由をもとめて―日本組合基督教会史』(私家版、

1958)の著者湯浅与三のお株を奪うほどの勢いである。私は渡辺がこの点 で新島を実際以上に評価したのではあるまいかと、却って考えさせられて しまうほどである。私の頭には、新島の晩年を悩ませた一致・組合教会合 同の問題で、弟子の小崎、海老名、金森、横井らとの対立に追いやられた、

新島の苦悩する姿があるからである。

新島はたしかにその問題で悩み通した。自治教会主義は彼としては譲る ことのできない主義であった。1889 年に合同が失敗に終ったことについて は、小崎弘道も認めるように、新島にその原因があった。ところで教会合 同問題は 1880 年代後半に初めて起った問題ではなく、早くも 1874 〜 75 年に起っていたのである。アメリカから帰国して同志社英学校設立のため に始動し始めた頃の新島は、その時に早くも反対の立場を闡明にし、合同 案が流れてしまったことは、新島の伝記に記されることがめったになかっ た。それを渡辺が敢えて取り上げているところに、渡辺の見識の鋭さを見 るべきであるかもしれない。

日本で最初に設立されたプロテスタント教会は 1872 年 3 月 10 日に発足 した横浜の教会で「日本基督公会」と称し、無教派主義を表明するものだっ た。翌 1873 年 9 月 20 日に東京の京橋に東京基督公会(新栄教会)が設立 された。関西では 1874 年 4 月 19 日に摂津第一基督公会(神戸教会)がスター トし、同年 5 月 24 日に摂津第二基督公会(梅本町教会→大阪教会)が設 立された。同年 10 月 3 日には横浜、東京、摂津第一、摂津第二の四公会 の代表は横浜山手 212 番女学校において会議を開き、四公会の合同案を協 議した。神戸公会から前田泰一と松山高吉、大阪公会から高木玄真が出席 し、外国の宣教師もこれに加わった。これで日本のプロテスタント教会は 教派に囚われないで教勢を拡大していくかに見えた。翌 1875 年 4 月第一 水曜日に関西で会議を開くことをきめた上で会議は散会した。ところが 3 月には流れが変ってきたのである。その流れを変えたのは新帰朝の新島 だった。合同案を調べた上で、新島は、横浜、東京の公会と、関西の二つ

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の公会が「共に会して神を拝し、互に親誼・交情を厚くする事」(渡辺、p.

112)はよいが、各公会の権限を合同公会に委任することは好ましくない、

としたのである。約束の 4 月 7 日に、横浜・東京公会は宣教師のジェイムズ・

バラと奥野昌綱を神戸に派遣し、関西の両公会は新島とデイヴィスを代表 として会見させた。会見の結果、合同草案の中に受容れ難いものがあると 関西側が主張したため、わが国最初の教派合同の運動は失敗に終った、と いうのである。

たしかに佐波亘編『植村正久とその時代』(1937 − 43)はこの 1875 年 4 月 7 日の四者会談に触れている(Vol. 3, p. 643)。これは『福音新報』717 号(1909 年 3 月 25 日)の記事に基づいている。ところで新島側の資料では、

どうもこの日にそのような重要な会談が行われたという記録は見当たらな いのである。新島全集第 8 巻を見ると、1875 年 4 月 7 日は新島が比叡山越 えして京都入りした 4 月 5 日から数えて三日目に当たり、新島は「勧業場 内の織工所を見学、さらに舎密局、女紅場をへて、祇園へ行き八坂の塔、

清水寺、大谷、三十三間堂、新病院等を見学する。(上 1101)」(p. 143)と あり、編者の松井全氏は補足説明として、活字のポイントを落としてその 四者会談に触れているが、それの根拠は小崎弘道『日本組合基督教会史(未 定稿)』(日本組合基督教本部、1924)と、山本秀煌『日本基督教会史』(復 刻版、改革社、1973)である。

この点に関して松井氏に問い合わせたところ、「その日、会談は行われ なかったとみます。行われたとすれば、別の日であったでしょう」という 意見であった。その根拠として、父、新島民治宛の 1875 年 5 月 5 日付の 新島書簡に「西京に遊ひに参り、二十日程滞留所々名所古跡を遊覧、去月 二十四日帰阪」(『新島襄全集』、3:135)とあるからである。当時はまだ 神戸・大阪・京都間に鉄道は通じていなかったので、同じ日に京都・神戸 間を往復することは不可能だった筈である。また私の目に触れた限りでは、

新島、デイヴィスともに、この 1875 年の「四者会談」に触れることは一 切書き残していないように思われる。もしそのような会談が 1875 年の段 階で行われていたとすれば、新島は教派合同に関してはよくよくの「確信 犯」だったわけである。なお土肥昭夫は『日本プロテスタント・キリスト

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教史』(新教出版社、1980)ではこの四者会談に触れていないし、別の著 書『歴史の証言:日本プロテスタント・キリスト教史より』(教文館、

2004)では「・・・四月の合同協議は物別れに終わった」(pp. 52-53)とし、

新島の名前を出していない。

キリスト教との関連でもう一つ付け加えるならば、明治政府が 1873 年 2 月に行った「切支丹禁制の高札除去」に新島は貢献したといえるであろう か。渡辺は「新島の力に負う所が大であったことが考えられる」(p. 86)

としており、その根拠として彼が文部理事官田中不二麿にむかって「徳育 の立場からキリスト教の優れていることを説いた」ことや、木戸孝允から この時受けた信頼を挙げている。歴史の文脈からすると、高札の撤去は「切 支丹禁制が、西洋との対等の国交をかちとる妨げになることが痛感された から」(井上清『明治維新』(『日本の歴史』20、中公文庫、1974、p. 255)

と理解することが当を得ていると私は考えるが、その際新島がどのように してそれに貢献したのかということになると、新島のこれに関する建白書 とか、大久保、木戸、伊藤などが新島の高札撤去に関する意見を聞いたと いう証拠がない限り、類推の範囲を出ない。田中不二麿が新島との接触を 通して、漢訳聖書を読むほどになったことは事実としても、岩倉使節団の 中での田中が高札撤去について働きかけたとは考えにくい。だから、この 件での新島の貢献は渡辺の好意的解釈を肯定するに足るだけの資料がな い、とするしかあるまいと思うのである。

新島の貢献度を測る問題は簡単ではない。的確な資料がないために代々 の新島研究家が類推するしかなかったもう一つの問題がある。それは米欧 の旅から帰国後に田中不二麿が中心となって作成した「文部省理事功程」

に、どの程度まで新島が貢献したのか、という問題である。湯浅与三は「新 島の調査執筆に基く欧米各国教育制度の報告書は田中理事官の帰朝後『理 事功程』十五巻となって畏くも明治天皇の乙夜の覧にも供せられたと云ふ」

(湯浅、p. 207)と述べている。「乙夜の覧」とは、天子が夜の十時すぎに 読書することをいう。森中章光は同志社に残っていた「独逸の公学校に関 する草稿」を『理事功程』第九巻と比較検討し、「その内容は全く同一で あるといっても差支ない。中には数字の計算間違いまでも其儘である。」(森

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中章光『新島襄先生の生涯、海外修学篇』、p. 350)と述べている。新島の 草稿の中にある計算の間違いがそのまま『理事功程』に印刷されていると すれば、新島の草稿がそのまま印刷に付された部分があることに疑いの余 地がない。魚木忠一は『理事功程』十五巻に関して「そのうちの最も重要 なる部分が新島の筆と苦心とになったものであることは疑いない」(p. 63)

と述べている。「最も重要な部分」とはどの部分を指すのか明らかでないが、

湯浅・森中の線上での発言と受取ることができる。神田もその線に沿うて、

『理事功程』の「大部分は、新島襄の手になるものである」(p. 90)と述べ ている。

渡辺は上記の伝記より以上に新島の貢献を高く評価している。『理事功 程』十五巻ではアメリカとドイツの教育制度を最も詳述している(十五巻 中アメリカに二巻、ドイツには四巻を割当てている)ことを指摘した上で、

『理事功程』は「わが国の教育制度を整備する上の貴重な資料となったも のであり、この原稿が新島によって執筆整備されたことを思うとき、明治 の教育整備のために演じた新島の業績は、高く評価されなければなるまい」

(p. 90)と述べている。

本井康博氏はほぼ渡辺と同じ趣旨の評価をしている。「新島がベルリン でとりまとめた視察報告書の草稿は、後に文部省から出版された『理事功 程』全十五巻のベースになった。これはかなり周知のことであるが、同書 が日本の教育制度に果たした役割を考慮に入れると、新島は神学生ながら 日本の教育行政に貴重な一石を投じる貢献を果たしたことになる」(『新島 襄と建学精神』京都、同志社大学出版部、2005、p. 53)。

『理事功程』に対する新島の貢献という点でもっとも冷めた見方をして いるのは河野仁昭氏である。「彼 [新島]の苦心の草稿のうち、教育と教会 に関する部分は、文部省の刊本『理事功程』ではほぼ全面的に削除され、

イギリスの教会に関する調査報告草稿「大ブリタン寺院のリポルト」は、

ついに日の目をみずじまいになった」(『新島襄の青春』、p. 241)。さらに 河野氏は『新島襄全集』第 1 巻解題の中で「アメリカに関する草稿などはあっ て不思議はないように思われるが、同志社の収蔵史料には見当たらない」

と言っている(『新島襄全集』第 1 巻解題。1:651)。

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河野氏の冷めた見方を更に一歩進めた見解を出しているのは太田雄三氏

(『新島襄』京都、ミネルヴァ書房、2005、pp. 167-69)である。太田氏は『理 事功程』草稿は、新島が「彼自身の見解を述べた意見書ではなく、学校規 則とか他人の筆になる報告書の単なる翻訳に過ぎない」ことを指摘する。

そして新島がWiesbadenでMiss Hiddenに宛てて書いた 1873 年 6 月 25 日 付の手紙から引用している。私はその箇所を新島の英文で示しておく。

“Since May of last year I had been constantly traveling with our Commissioner until the first part of last September. From that time till last January I was staying in Berlin and engaging to translation for Mr. Tanaka, our Commissioner. It was a most tedious uninteresting work I ever had undertaken”(『新島襄全集』6:129). この最後のセンテンスにある「私が これまでにやった仕事の中で、最も退屈で面白くない仕事」という表現は 決定的である。私自身は『理事功程』に対する新島の貢献という事に限っ ていえば、河野氏、太田氏の見解が正鵠を得ていると考えるものである。

さらに興味深いことを付け加えるならば、ハーディー父子は明治初期の 日本の教育制度に対する新島の貢献を買いかぶりすぎていた(つまり、誤 解していた)。ラットランドにおけるアメリカン・ボード年次大会で、ア ルフィーアス・ハーディーは次のような言葉で新島を会衆に紹介している。

「こんにち、彼の祖国が採用した教育制度が実施に移されていますのは、

まさしくこの若い日本人のおかげなのです」(『同志社百年史』通史編、p.

18)。 父 親 か ら そ の よ う に 聞 か さ れ て い た と み え て、 息 子 のAr thur

Sherburne Hardyも『新島襄の生涯と手紙』の中で同趣旨のことを述べて

いる。「帰国後に文部大輔に任じられた田中氏が現在の日本の教育制度の 基礎をおいたのは新島襄の報告書にもとづいてのことであった」(『新島襄 全集』10:133)。太田氏が的確に指摘する通り、「日本の学校制度に関する 重要な基本法令である学制」は 1872 年 9 月 5 日に頒布されたのであり、

この頃田中と新島はデンマークからドイツのベルリンに帰るところであっ た。ハーディー父子は「学制」のことを知らなかったのである。

ラットランドでの新島の有名なアピールは異常なほどの反応を引き起こ し、彼の募金のアピールは成功した。しかし新島は寄付者の中に貧しい農

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夫と寡婦がいたことを伝えている。農夫は会場でおろおろしながら新島に 近付いて、帰りの汽車賃のつもりだった 2 ドルを涙ながらに新島に渡した。

ところが、寡婦はどこで 2 ドルを捧げたのだろうか。渡辺は「この会を終 えた新島は、ラットランド市から離れて間もなく、後から一人の老婦人が 近づいて、いうのに」(p. 99)と、若干あいまいな書きかたをしている。

すると、新島はラットランドから歩いて、どこかへ行こうとしていたのか。

本井康博氏は、彼女は「その場で出すことに気後れして、会場の外で新島 を待ち受け、そっと二ドルを手渡した」(『新島襄と建学精神』、p. 59)と しておられる。新島自身は二通りの書き方をしている。一つは「同志社設 立の始末」で「已にして会散じ襄も亦ロトランド府を出で行くこと未だ一 里ならざる時、忽ち背後より襄を呼ぶ者あり、顧みて之を視れバ一の老婦 なり」(『新島襄全集』1:75)。この表現では、新島は歩いてラットランドを 去ったという印象を与える。ところが「同志社学校設立ノ由来」では少し 状況が異なる。「又散会ノ後、予汽車ニ乗リロトラント府ヲ去リ、ナヲ未 タ数十里外ヲ出テサルトキ一ノ老婦アリ、予ノ背後ヨリ予ヲ呼ヒ喃々解シ 難キノ語ヲ以テ予ニ語テ曰ク」(同、1:34)。このように、はっきり「汽車 に乗り」とある以上は、新島はラットランドから汽車で(恐らくボストンへ)

帰ろうとしていたとき、車中で老婦から声をかけられた、と取るべきでは なかろうか。老婦が二ドルを捧げたことが重要であって、その場所がどこ であったかはどうでもよい問題には違いない。しかし私は「同志社設立の 始末」を読むたびに、新島が歩いてラットランドを去ったかのような印象 を与えられてきた。新島の伝記では、この老婦が二ドルを新島に渡した状 況について、「車中で」ということを確立すべきであると考える。

渡辺は新島の学んだアーモスト大学が「リベラル・アーツ・カレッジ」

であることを理解していないという印象を与える。たとえばシーリー教授 について渡辺は「心理学・倫理学・宗教学などを総合した、いわば現今の 日本の大学における一般教養的科目を担当していた」(p. 62)と述べてい るが、アーモストはリベラル・アーツ・カレッジなのだから、すべての科 目が「教養科目」なのである。

本書にはもう一つアーモスト大学に関する誤解がある。渡辺はアーモス

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ト大学が「アーモスト中学が昇格」(p. 63)したものであるとしている。

これは恐らく湯浅与三の記述を無批判的に踏襲したためであろう。湯浅は

「此大学は一八二一年同じ場所に在ったアマースト中学が昇格せられたも ので、その後四年経って正式に設立認可を得た」(p. 166)としている。アー モスト中学(Amherst Academy)は大学の建てられた場所とは別の場所に あ っ た。Academyは 男 女 共 学、Collegeは 男 子 校 で あ る。Amherst Academyの理事会がAmherst Collegeを作った。Academyの教師の一人、

Joseph EstabrookがCollegeのギリシア語・ラテン語の教授に任命された。

AcademyとCollegeはそういう関係にあるが、Collegeは決してAcademy が昇格してできたものではない。

このほかにも、小さなミスが多数見出されるが、私自身は歴代の新島伝 記が徐々にミスを訂正して、限りなく新島の実像に迫る努力を継続するこ とにこそ、重要であることを改めて確信するものである。古い伝記を読み 直すことには、そういうわけで、極めて有意義であると感じている。

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