札幌基督教会と新島襄
著者 小枝 弘和
雑誌名 新島研究
号 100
ページ 233‑249
発行年 2009‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012973
小 枝 弘 和
はじめに
札幌基督教会とは現在の札幌独立キリスト教会である1 )。この教会は、
名前に「独立」があることからもわかるように、1881(明治 14)年 10 月 2 日に「一、同窓の学生その宗教上の意見殆ど相同じきに係らず分離する の不可なる事、二、札幌の如き狭隘なる市街に二派の集会所を設けて競争 するの愚策なる事、三、厳格なる信仰箇条と煩雑なる礼拝儀式の束縛を厭 いたる事、四、外国人の扶助を借りずして我国に福音を伝播するは我国人 の義務なりと知りたる事」という「独立宣言」を信条として(『札幌独立 キリスト教会』上巻p.33)、1882(明治 15)年 12 月 28 日にメソジスト教 会から完全に独立して設立された(『札幌独立キリスト教会』下巻p.304)。
その中心メンバーは、W. S. クラーク(William Smith Clark, 1826-1886)が 作成した「イエスを信ずる者の誓約」(the Covenant of the Believers in Jesus)によって結ばれた札幌農学校第 1 期生と第 2 期生を中心とする、い わゆる札幌バンドの人々である。よって、この教会は、わずか 8 ヶ月なが ら札幌農学校教頭として農学校の教学体制の充実に貢献し、学生らに多大 の影響をもたらしたクラークのキリスト教の影響を受けており、この教会 の存在自体がクラークの平信徒伝道の成功を意味している。このクラーク のキリスト教とは、彼が在札時に新約聖書の「使徒行伝」にあるアンティ オキアの教会(Antioch of Church)の設立を目指していたこと(Masatake
Oshima, p.59)や、札幌基督教会の「独立宣言」から窺えるように、原始
的キリスト教であった。このような観点から見れば、札幌基督教会は新島 の会衆派教会を含めた他教派とは一線を画する存在である。
しかし、拙稿「北海道における同志社大学設立運動―『北海道毎日新聞』
を手がかりに―」(『新島研究』第 99 号 2008 年 2 月)で論証したように、
札幌基督教会関係者は新島の宿願であった同志社大学設立運動に確かな貢 献を行った。この貢献は同志社出身者が北海道の集治監教誨師として活躍 する以前になされたものである。一見すれば、札幌基督教会と新島の関係 は突発的に発生した協力関係のように見えるが、実際はそうではない。
1888(明治 21)年 12 月から始まる『北海道毎日新聞』紙上での同志社大 学設立資金募集運動に先駆けること 1 年 5 ヶ月前、すなわち、新島が札幌 に滞在した 1887(明治 20)年 7 月からのわずか 1 ヶ月間という期間が重 要な布石となる。さらには、これよりも前の時点で、クラークは新島に対 して札幌で信仰を守る彼の教え子たちのための援助を依頼している。しか も、クラークと新島の間には、新島がアメリカのアマースト・カレッジに 在学していた折に教師と学生の関係にあった。クラークが新島を「日本人 の最初の生徒」(佐藤p.270)と呼んだことはよく知られている。こうした 一連の流れに関して触れた先行研究はある2 )。ただし、これらの先行研究 は主に新島と大島との関係に着目したものである。
そこで本論では、北海道における同志社大学設立運動の強力な支持母体 となった札幌基督教会と新島との関係を、その構築から追うことで、この 運動における両者の関係の意義づけを行い、拙稿「北海道における同志社 大学設立運動」の背景を明らかにする。
札幌基督教会と新島襄の関係構築の端緒
札幌基督教会と新島の関係は、後述するように、実質的には 1887 年の 夏に確かなものとなるが、この関係が構築される布石は、既に新島のアメ リカ留学時代にあった。先述のように、札幌基督教会はクラークの平信徒 伝道の成果である。そのクラークと新島との間にはアマースト・カレッジ にて最初の接点が存在した。既にダリア・ダリエンゾ氏が指摘しているよ うに3 )、2 人の接点は、最も少なく見積もって 1867 年 9 月から 10 月にか けての 1 ヶ月間である。ただし、両者の間にそれほど濃密な時間を過ごせ たとは考えられない。なぜならば、クラークは 1864 年から既にアマース
トに農科大学を誘致する牽引車役として活躍しており、大学の授業はむし ろなおざりになる傾向があった。クラークがまさに農科大学誘致に積極的 に参加している時にカレッジの学生であったバーゲス(John William Burgess, 1844-1931)が、「彼は教授や科学者というよりはむしろ政治家で あり事業促進者(a promoter)でした」(Nicholas, p.50)と証言する通りで ある。
また、新島とクラークが接点を持ったと考えられる時期は、クラークが 農科大学前学長のチャドボーンの後を受けて 8 月 7 日に第 3 大農科大学学 長に指名された直後であり(Fifth Annual Report, p.5, Harold, p.35)、10 月 2 日の農科大学開講に向けての準備に追われていた時期とまさに重なるから である。クラークと新島の接点がカレッジにあったとはいえ、それは本当 に教員と学生という他のカレッジの学生と同じような関係であって、特別 の交遊をもったとは考え難い。ただし、クラークにとって初めて日本人を 学生として新島を教えたことが印象深く残ったことは事実であろう。
クラークと新島との関係はアマーストにおいては大して進展しなかった と考えられる。しかし、クラークが札幌農学校教頭として農学校の学生を キリスト教へと導き、その後、彼が離札しなければならなかった時に頼り になった人物が新島であった。クラークは農学校教頭に実質的に就任し、
農学校が開校を迎えた 1876(明治 9)8 月の時点で、その前年に新島らが 同志社英学校を開校していた事実を掴んでいたことが、翌年 5 月 9 日、ク ラークが帰国前に同志社英学校に新島を訪ねていること(『新島襄全集』
第 8 巻p.164)から窺える。しかし、この時は、新島が「先月アマースト の農科大学のクラーク学長が私たちをわずかな時間訪問しました」(『新島 襄全集』第 6 巻p.186)というように、旧交を温め直す程度であった。た だし、この時に既に新島はクラークから札幌農学校の学生について幾分か の情報を受け取っていた。新島がシーリー(Julius Hawley Seelye, 1824- 1895)夫妻に宛てた書簡には、「あなた方が彼〔クラーク―以下筆者注〕
から、彼の影響のもとにやってきた学生達の中での彼のキリスト者として の仕事の中のあらゆる経験や偉大な成功について聞くことを望んでいま す」(『新島襄全集』第 6 巻p.186)とある。これは、クラークが同志社に
短時間ではありながら訪問した際に、新島に直接札幌での出来事を話して いたことを示している。新島が言う「偉大な成功」とは、札幌農学校にお けるクラークのキリスト教伝道を指していると考えられる。新島はこの時 に既に「イエスを信ずる者の誓約」のもとに集ったクラークの兄弟信徒た ちの情報を確かに掴んでいたわけである。
ところが、この時の訪問ではクラークが新島に札幌農学校に残してきた 学生達への配慮を依頼したかどうかは判然としない。実際にクラークが新 島に具体的な依頼を行うのは、クラークの帰国後の 1878(明治 11)年で ある。クラークは 1878 年 2 月 11 日付で新島に宛て「そこで〔札幌農学校〕
の学生の宗教的な状況はとてもすばらしいものです。2 年生全員が箱館の ハリス氏に洗礼を受けました。日付けは不明ですが、彼は先月、教会を設 立しました。1 年生 19 人中4 )15 人も改宗し、その全てが誓約〔イエスを 信じる者の誓約(Covenant of Believers in Jesus)〕に署名しました。学生 達の尊い仕事の成果として札幌や他の場所でも改宗がありました。これま で開拓使は不満を示していませんし、神のもとでの仕事は人間の支配を越 えたものです」(W. S. Clark to Rev. J. H. Neesima, Amherst, Feb. 11th, 1878)
と伝えている。
この時点で新島は札幌農学校第 1 期生全員と第 2 期生中 15 人が函館の メソジスト監督教会のM. C. ハリス(Merriman Colbert Harris, 1846-1921)
から洗礼を受け、教会を設立し伝道に励んでいたことを知っていた。続け てクラークは同年 12 月 1 日付の書簡で新島に「私は札幌農学校にいる内 田〔瀞〕君に、北海道で配布する日本語のトラクトやキリスト教関係の本 を求めるなら、あなたに手紙を書くように勧めました。もし学生たちが必 要なものが十分与えられたら、彼らの上官を煩わせることなく、この仕事 においてとても助けになります。おそらく、学生たちに何かを送るときは、
そのことをD. P. ペンハロー〔David Pearce Penhallow, 1854-1910〕教授に 申し出るのがよいでしょう」(W. S. Clark to Rev. J. H. Neesima, Amherst, Mass., Dec. 1st, 1878)と新島に教え子の求めに応じた協力を求めた。当時 既に帰米していたクラークは新島に教え子たちへの助力を期待したわけで ある。またクラークは同日付で内田にも書簡を送り、新島と連絡を取り、
トラクトなどを送ってもらうよう依頼することを勧めた(佐藤p.88)。新 島が 1879 年 4 月 19 日付で「愛兄之芳書拝読し而より已ニ数周を過テ尚未 タ返辞を不呈しハ不本意之至なり、寵兄より札幌農学校基督信徒之情況を 得、其欣喜名情スヘカ[ラ]サル次第ナリ」(『新島襄全集』第 3 巻p.164)
と内田に伝えていることから、内田が 3 月下旬、もしくは 4 月上旬あたり に新島に援助を依頼したことは確かである。おそらく、この時が彼と札幌 バンドの最初の直接的な接点であったと考えられる。また、新島は内田か ら札幌農学校のキリスト教を取り巻く環境について詳しく聞いていたよう で、同じ書簡において「其御地ノ愛兄中、北海道伝道ニ従事スル無之哉、
右之事神祈仕居候得共如何之事候哉奉伺候間、後便御答被下候ハヽ多謝之 至ナリ」(『新島襄全集』第 3 巻p.165)と書き送った。ちょうど 1879(明 治 12)年 7 月に札幌農学校第 1 期生が卒業するが、彼らは入学の時点で「入 學生徒條約」にて「私儀成業ノ後ハ籍ヲ北海道ニ移シ且ツ五ヶ年間官等相 當ノ規定ニ従ヒ開拓使ニ奉職仕ヘク且ツ決シテ籍ヲ北海道ヨリ他所ニ移轉 仕間敷事」と開拓使と誓約を交わしている(『復刻札幌農学黌第一年報』
pp.82-83)。おそらく、新島は第一期生がこのような状況に置かれていたこ とも承知しており、そのため、彼らの卒業後の北海道におけるキリスト教 伝道を危惧していたと考えられる。
このような新島の危惧を払拭した人物が大島正健であった。確認する限 り、新島が書き残した資料で初めて大島の名前が出てくるのは、「出遊記」
の 1884 年 2 月 2 日である(『新島襄全集』第 5 巻p.246)。この日、上京し ていた新島は前年開催された第 3 回日本基督教徒大親睦会で既知であった 内村鑑三の訪問を受け、札幌基督教会についての相談を受けている(大山 p.64)。「出遊記」によれば、彼らの会話の内容は「教会ヲ立ツルノ点ニ至 リ甚困難、今ハ説教所ニシテ教会ニアラス、書生中二ツニ分離スルヲ好マ ス」、「独立スルトアラハ、伝道ノ費用ト会堂ノ費用ヲ出セト、メソディス トヨリ申ス」、「教友一同建築費ヲ返スノ事ニ困却シ居ルトキ、クラークヨ リ百円5 )ヲ送ル時ニ、一同勢力ヲ得、建築費ヲ償却ス」ということであっ た(『新島襄全集』第 5 巻p.245)。このように新島は内村から 1883(明治 16)年 2 月に札幌基督教会がメソジスト教会から独立するまでの報告を受
けた。そしてもうひとつ重要な議題があった。それは、新島が「金森ノ来 ル事ヲ望ム、大島正健ト交替スルノ議起ル」(『新島襄全集』第 5 巻p.246)
と「出遊記」に書き残しているように、札幌基督教会牧師人事であった。
このころ大島は札幌農学校の教員と札幌基督教会牧師を務めるという 2 足 の草鞋を履いており、牧師の任を務めるには負担が重過ぎた。新島はこの 点を危惧していた。
札幌基督教会の苦悩
新島と大島、そして教会員の関係を決定的に強固にする契機は、教会が 深刻な問題を抱えた時である。まずその問題に至るまでの経緯を述べてい くことにする。
札幌基督教会は 1881(明治 14)年 10 月 2 日に 4 ヶ条から成る独立宣言 を公にし、1882(明治 15)年 5 月には大島正健が牧師に、そして 9 月には 札幌農学校第一期生渡瀬寅次郎の手引きで一致教会の伝道師辻元全二を札 幌基督教会の専任伝道師として招く(『札幌独立キリスト教会』上巻p.33)。
このように札幌基督教会は順調に成長しつつあった。しかし、伝道体制が 整う一方で、牧師の大島が按手礼を受けておらず、洗礼式を実施できない という最大の問題が残っていた。1886(明治 16)年までに札幌基督教会で 行われた洗礼式は 4 回で、これらは、横浜一致教会初代長老小川義綏(1883 年 5 月)、アメリカ長老派宣教師のD. タムソン(同年 9 月)、メソジスト 監督教会宣教師のL. W. スクワイヤー(1884 年 11 月)とR. S. マクレー(1885 年 8 月)がそれぞれ大島に代わって執り行った(『札幌独立キリスト教会』
下巻p.92)。札幌基督教会は、このような伝道旅行や避暑で来札する宣教
師や牧師を待たなければ洗礼式を執り行うことができない状況を憂いて、
1886 年 1 月数回の臨時会議を開き、大島を教会の正式な牧師に任命し、按 手礼を受けていなくとも洗礼式と聖餐式を司らせることを決定した(『札 幌独立キリスト教会』上巻p.38)。宮部金吾はその理由を「斯る状態〔正 牧師不在で、洗礼を授けることができる牧師がやってくるまで待たねばな らない状況〕に置かれたので、教会員中に、按手礼なるものの権能と価値
に対し疑惑を抱く者が続出した結果、たとえ按手礼を受けてゐなくとも、
其信仰、人格、学力等に於て、普通の牧師以上の者が、教会員中に在って、
教会員一同の信任と熱望があり、又かゝる重職を引き受けらるゝ堅き決心 をもつ人があれば、教会の牧師として迎へる事を教会の総会議決で決定し た」(『札幌独立キリスト教会』下巻p.94)と説明している。
大島は、札幌基督教会の議決の後もしばらく教会員に洗礼を授けること はなかった。しかし、事態は一変する。翌年 1887(明治 20)年 3 月の伝 道師辻元が肺患のため病没してしまう(『札幌独立キリスト教会』上巻 pp.38-39)。辻元は、札幌農学校教授と札幌基督教会牧師という二役をこな す大島をよく助け、札幌を中心に積極的に伝道活動をしてきた人物であり、
彼の死は教会員にとって衝撃であった。そのためか、辻元の死の 1 ヶ月後、
大島は 4 月 11 日洗礼式を執り行い、11 名に授洗する(『札幌独立キリスト 教会』上巻p.38)。これがもとで、札幌基督教会は、宣教師を中心にキリ スト教界から痛烈な批判を受けることになる。大島はこの時のことを「私 が執行した洗礼は無効であるとか、札幌独立キリスト教会〔札幌基督教会〕
は異端邪教の徒の手段であるとまで痛罵する者が現れて来た」(大島p.235)
と後に述べている。また、有島武郎によると、大島は、当時避暑で札幌に 滞在していた宣教師達から「其人なければ或は可ならん、洗禮を施すべき 正當の資格を有する者、而かも數名此に在るに係らず、一言の挨拶なくし て此擧に出でたるは頗る其意を得ず」として非難を受けたという(『有島 武郎全集』第 1 巻p.146)。有島の説明によれば、宣教師の批判は札幌基督 教会がこれまでの慣例どおりに洗礼を授けることができたにもかかわら ず、教会が有資格者もなしに在札の宣教師に断りもなく独断で洗礼式を執 り行ったことに対するものであった。こうした批判は、教会の予測を超え てキリスト教界に波及し、教会が保守的と捉えていたキリスト教界の伝統 的な慣習に背いた結果はとても軽視できないものとなった。このようにし て、札幌基督教会は伝道師不在、キリスト教界からの痛烈な批判に曝され るという深刻な 2 つの問題を抱えることになった。
専任伝道師後任問題
このように札幌基督教会が窮地に追い込まれている時に来札したのが新 島であった。大島の洗礼問題から 3 ヶ月後の 1887 年 7 月 7 日、新島が札 幌に到着した時、大島をはじめとする札幌基督教会関係者が新島を出迎え、
翌 8 日にはすぐさま大島、小寺甲子二らが新島を訪れ、札幌基督教会が抱 える問題についての相談を持ちかけた。新島はこの時の相談内容を「該教 会ノ何レニ属スヘキカ、又独立スヘキヤノ相談アリ」(『新島襄全集』第 5
巻p.296)と記録している。新島が来札するまでの 3 ヶ月間、窮地に追い
込まれていた教会の存続を考えた末の相談内容であったと考えられる。ま た、このような相談を大島らが持ちかけた背景には、組合教会と一致教会 の教会合同問題があった。大島らは、もし、教会の合同が実現するのであ れば、どこかの教派に属し、教会を存続させることも考えていた。しかし、
この件に関して、新島は大島らから相談を持ちかけられた 4 日後の 7 月 12 日に金森通倫に宛てた書簡にあるように、「一致組合ノ両教会ノ一致モ出 来双方都合ヨク運ブナラバ、此教会モ併合スベキ様子ナレトモ、其レ迄ハ 不偏不党独立独行ノ目的ナリ」(『新島襄全集』第 3 巻p.474)と伝え、一 応札幌基督教会の取るべき方向は決定した。周知のごとく、新島は教会合 同には反対であった。一致教会の長老による教会政治の形態に対して疑念 を抱いており(『新島襄全集』第 3 巻p.720)、合同が実現された際には組 合教会の民主性が失われてしまうことに危機感を抱いていたからである。
新島は、組合教会に通じる民主性を持つこの教会に大いに「シンパセー」
を感じており、教会合同に札幌基督教会が関係することに難色を示したと 考えられる。ともあれ、札幌基督教会の今後の方向性についてはひとまず 様子を見ることで決定した。
また、大島らは 8 日に札幌基督教会が抱えるもう一つの問題である専任 伝道師不在の問題についても新島に相談している。この相談を受けて新島 は 11 日に宮川経輝に次のような内容の書簡を送った(『新島襄全集』第 3 巻pp.473-474)。
此地之教会ニ尽力セラルヽ大島君ニ面会申候処、上方地方より是非 壱人加勢となるへき人を招き度旨被申候、其人ハ此教会之牧師たるニ ハあらす地方之伝道之事ニ従事セしめたきよし、此近傍ニもマセドニ ヤン・カラーと為す所所々有之候よし、書生相手之人ハ茲ニ有之候得 共町々之信者又ハ近傍ニ出カケル人々乏欠致し居候よし、鉄道もあり 馬車もあり又殊に馬ハ手軽ニ手ニ入候間、馬ニ而伝道も出来候よし、
月給も十五円位まてハ出来るよし、兎角多分之学問ハなくも信仰あり 活潑之動之出来、世人ニ接するニ少しく経験之有之人物を要候よし、
兼而御談之馬場〔種太郎〕君ハ如何、英学カ学ひ度ハ之を助くる法方 も可有之候間、何人か可然精神家ニして信仰厚く品行正しき良人物を 御見立、速ニ御遣し可有之様御工風被下間敷哉、去リトテ此事ハ組合 会如何ニ関スルニアラス、只可然加勢人を一人此地ニ周旋スルニ止マ ルノミ、何卒速ニ御工風被下度候
新島は、札幌基督教会の伝道師としてふさわしい人物を選定するよう宮 川に依頼した。ただし、この伝道師斡旋が組合教会という枠組みを超えた 超教派的な援助と位置付けている点に札幌基督教会への配慮を見て取れ る。新島が書簡に「兼而御談之馬場君ハ如何」と書いているように、新島 は既に 4 ヶ月前から同教会の伝道師が不在である状況を知っており、来札 以前に伝道師の後任として馬場種太郎の人選を宮川と事前に協議していた ことがわかる。新島は 8 日の大島らとの会談でその必要性を実感し、馬場 の伝道師就任の話を進めていこうとしていた。
しかし、新島が翌日 12 日に金森に宛てた書簡をみると、事情が変わっ たようである(『新島襄全集』第 3 巻pp.474-475)。
本日大島正健君(此人ハ教会ノ為尽力シ常ニ説教を負担スル人ナリ)
ニ面会申候処、何人カ上方ヨリ該説教会ニテ同氏ヲ助ケ近傍ニ伝道ス ル人を要シ度呉々モ被申、又此事ハ已教会ニテノ決議ニ相成、若其人
サヘアレバ十五円位の月給ハ出シタシ、又旅費モ已ニ蓄ヘアルヨシ、
如此此地ニテ働手ヲ渇望シオルコトナレバ、上方地方ヨリ精神家ハ願 ツテモ出カケタキ場合ナルニ、如此好マシキインヴイテーシヨンアル ニ悠々不断何人ノ之ニ応ズルモノナキハ甚欠点ナリト存候、且一致組 合ノ両教会ノ一致モ出来双方都合ヨク運ブナラバ、此教会モ併合スベ キ様子ナレトモ、其レ迄ハ不偏不党独立独行ノ目的ナリ、願クハ我輩 モ此孤立セル教会ニハ飽マデモシンパセーヲ顕ハシ、我教会ニ入ルト 否トハ一切度外ニ置キ、只此地伝道ノ必要ナルヨリ我党内ヨリ一人働 キ手ヲサクリフアイスルハ至当ノ事ナリト信ジ候、貴兄宜シク宮川、
原田〔助〕両兄ト御計リ断然ノ御所置有之、馬場君ヲバ御勧メ是非共 此地ニ被来候様御取計被下度候、小生ガ若シ馬場君ノ位置ニ居ル事ナ ラバ、質ヲ置テモ借金シテモ此招待ハ無ニ致スマジト存候
新島が「小生ガ若シ馬場君ノ位置ニ居ル事ナラバ、質ヲ置テモ借金シテ モ此招待ハ無ニ致スマジト存候」と書いているように、前日宮川に宛てた書 簡とは語調が全く違う。この書簡によると、新島と大島らの間で 12 日再び 伝道師後任の件で話し合いが行われた。その相談の末、新島は札幌基督教会 伝道師の後任を一刻も早く決定する必要を感じ、金森、宮川、原田に馬場の 説得を促したことがわかる。これらの事実から察すれば、12 日の話し合い で大島らは教会の危機的状況とその打開策について新島の協力を強く要求 し、一方、新島は大島らの要求に応えて、その便宜を図ったということにな ろう。札幌基督教会からすれば、新島が来札した好機を逃しては、札幌基督 教会の抱える問題を解決する術を逸してしまうことになるからである。
この後、新島は札幌からの帰途、東京に立ち寄り馬場に面会した(『新 島襄全集』第 3 巻p.484、本井p.58)。このことについて新島は十月上旬に 大島に「滞京中、幸ニ馬場氏ニモ面会致シ充分之談話ヲ遂不申候得共、先 大体之所相含マセ置候間、定テ不都合ハアルマシト存候」(『新島襄全集』
第 3 巻p.484)と書き送っていることから、新島が馬場から内諾を得たこ とがわかる。馬場はこの書簡の前後に札幌基督教会の伝道師に就任する(在
任期間 1887 年 10 月から 1890 年 9 月、『札幌独立キリスト教会』下巻p.306)
馬場の評判は上々で、教会員の橘仁(学農社出身、札幌基督教会員)6 )は「馬 場氏ハ当地江御越相成候てより信者一同大満足、小生ハ未ダ深ク御交際不 仕候得共御承知の如く誠ニ温厚、人々も大ニ望を属し申候」(『新島襄全集』
第 9 巻上巻p.339)と新島に書き送っている。このように、馬場は札幌基 督教会と新島の期待に十分応える働きをしていた。
大島正健の按手礼問題
新島は札幌基督教会が抱えるもう 1 つの難問にも助言を行った。新島は 大島に書簡で次のように勧めた(『新島襄全集』第 3 巻p.484)。
兼而相談も申上候所之空知ハ近頃如何、早々一ノ教会ヲ御立テ札幌 ト同主義教会ナリト世間ニ御公告アリテハ如何、札幌教会ハ如何ナル 手段ニテ御設会アリシヤ、簡易ナル手段ニテ苦シカラスト存候、然シ 此事ハ貴兄ノオルヂネーション〔按手礼〕ノ出来候上之事ニ被成候方 ガ上策カト思考仕候、何分此十二月ノ御休暇ニハ断然右オルヂネー ション御決行之程奉切望候、他ヨリ賛助スルモノナキナレハ、貴兄ト 貴会ヨリ二三ノ代人ヲ出張セシメ、一ノ教会ヲ設置スルニ足ルト御認 メアラハ御設会アリテハ如何ヤト存候、何人カ宣教師カ又ハ牧師ニテ 之ヲ賛助スルモノアラハ尚更重々ノ事ナリ〔ト〕存候、グリーン氏位 ニ臨場ヲ御衣頼アルモ至極カト存候
新島は、馬場が札幌基督教会伝道師に内定し、伝道活動の体制が整った ことを踏まえて、空知に札幌基督教会と同主義の教会を設立することを勧 めている。空知は、札幌基督教会が早くから伝道に取り組み、1886 年には 市来知に同教会系の講義所を設立している(小枝p.109)。新島が後に「市 来知ハ已ニ設会相成候哉」(『新島襄全集』第 3 巻p.701)と大島に書き送っ
ているように、新島の意図するところは、講義所を教会に昇格させるとい うことであろう。この件については新島が在札時に、もしくはそれよりも 前に既に話し合われたようである。新島は、市来知に教会を簡単に創設で きる見込みがあるのだから、その前に按手礼を受けるべきだと大島に勧め ているわけである。重ねて、新島は、もし賛同者が見込めない場合には、
札幌基督教会員から代表者を派遣して、1 つの独立した教会として札幌基 督教会を諸教派が認めてくれるかどうか伺いを立ててはどうか、というア ドバイスをしている。
札幌基督教会は新島のアドバイスを受け入れて、すぐさま 1887 年 10 月 25 日付で次のような書簡を東京にいる宣教師や牧師に宛てて送った(『有 島武郎全集』第 1 巻pp.146-147)。
益御淸福奉賀候陳ば當札幌及び其の近郡に於て福音の勢力日々熾に 相成候に付き此際弊會は愈々獨立の體裁と基礎とを強固にして益々傳 道に從事可仕所存に候處弊會には未だ一般他敎會の公認を受けて洗禮 と晩餐との式を司る者無之爲めに大に不便を感じ候に付き從来弊會の 主任者なる大島正健氏に今回其權を御公認被下度念願に付き一應御依 賴申上候尤も御承知の如く弊會は他敎會とは其起源を異にせる敎會に 候得者何卒札幌獨立基督敎會會員の一人として同氏に按手禮御授け被 下度候又御賛成被下候諸敎師には可成御立會被下候様御周旋を仰ぎ 候。草々頓首。
明治二十年十月二十五日
札幌獨立基督教會書記 追白敎會政治は目下取調中にて不日決定可仕又信仰個條は福音同盟會 にて取極められたる九ヵ条を用ゐる積に候得共御參考までに申上げ候。
この書簡に対して井深梶之助、植村正久、小崎弘道、本多庸一らが賛成 の意思を返答した(『有島武郎全集』第 1 巻p.147)。そして、翌年 1888 年
1 月 12 日大島の按手礼試験が東京一番町一致教会にて開催されることにな る。この試験には柳内義之進が札幌基督教会総代として大島に同行した。
大島の試験の前日、柳内は、札幌基督教会総代として「今回大島正健を弊 會牧師に選定いたし度候間御試驗の上御協議ありて按手禮授け被下度付て は明十二日午後三時一番町一致敎會までご來臨願上候」(『有島武郎全集』
第 1 巻p.147)という招待状を、石原量、石原保太郎、井深梶之助、植村 正久、大儀見元一郎、小川義綏、木村熊二、小崎弘道、田村直臣、本多庸一、
三浦徹、横井(伊勢)時雄、和田秀豊ら十三名に送り、うち、石原量、大 儀見、井深、植村、小崎、横井、和田の 7 名が当日の試験に臨席した(『有 島武郎全集』第 1 巻pp.148-149)。大島は無事試験に合格し、17 日には按 手礼を受けた(『有島武郎全集』第 1 巻p.147)。札幌基督教会が抱えてき た最大の問題はこのようにして解決するが、12 日の協議の過程が札幌基督 教会員に大きな誤解を招くことになる。
12 日に開かれた協議の懸案事項は、大島の按手礼の責任をどの教会が負 うかということであった(『有島武郎全集』第 1 巻p.148)。この案件は、
柳内の言葉を借りれば、「〔大島が〕組合教会の教師主任となりて試験を為 し一致其他の諸教師は之に立会ふ事になし按手礼を授け大島君の名を組合 敎会の牧師の中に列し、其牧師たる資格上に就ては組合教会が一切其責任 を負ふ事となしては如何との動議」になり、小崎が大島に同意を求め、大 島はこれを承認した(『有島武郎全集』第 1 巻p.148)。柳内もまた、この ような重大決議は本来教会員の承諾を得るべきものであるとしながら、按 手礼を受けることが最大の目的という、大島が上京したその主旨を考慮し、
札幌基督教会の総代としてこの決議に賛成した。そして、柳内は「一寸考 ふれば札幌敎會は以後組合敎會に属したる如く考えらるゝも決して左樣に ては無之唯大島君が組合敎会の牧師の中に列せしまでにて札幌敎會は矢張 元の如き獨立敎會に候」(『有島武郎全集』第 1 巻p.148)と教会員への説 明も付け加えて、以上の過程を書簡に認め、教会員に伝えた。
柳内の書簡は、札幌基督教会と組合教会の関係、そして牧師としての大 島の位置付けを明確に整理し書かれたものであったにもかかわらず、教会 員の中に大島も教会も新島の謀略によって組合教会に取り込まれてしまっ
たとの誤解を生み出した。大島が念願の按手礼を受けて帰札したにもかか わらず、大島を出迎える教会員は居なかったという(大島p.238)。このよ うな誤解は 1886 年 1 月の教会決議に見られるように、独立を自負する教 会であるからこそ生じたものであろう。一方で、大島は誤解の理由を「柳 内義之進が、その模様〔小崎が組合教会を代表して大島に責任を負うと発 言したこと〕を耳にして想像を逞しゅうし、大島先生は新島先生のペテン にかかり組合教会の牧師として按手礼を授けられたという檄を飛ばした」
として、柳内を痛烈に批判している(大島p.238)。しかし、これは大島が 尊敬してやまない新島へ、あらぬ疑いが起こったことに対する彼の私情が 現れた発言であろう。事実、柳内は、大島は組合教会の牧師に名を並べる ことになったが、札幌基督教会は独立を維持したと教会員への書簡に書い ているわけである。教会員の誤解の原因は柳内にあるが、大島の柳内批判 は完全な誤解である。
札幌基督教会員の誤解は程なくして解けたようである。大島の按手礼か ら 2 ヶ月後、新島は和田に次のような書簡を送っている(『新島襄全集』
第 3 巻p.536)。
拝啓、過般大島正健兄按手礼之義ニ付、和田兄ヲ以テ御丁寧之謝祠ヲ 御送被下候条、小弟ニ於テハ実ニ恐縮千万之至ニ候、元来同兄按手礼之 事ニ付、少々工風ヲ廻ラセしハ他ニアラズ、大ニ貴会之北海道ニ孤立シ テ他人ノ扶助ヲ仰カレス、殊ニ入会者ヲ受クルノ点ニ至リ尤も御困難ナ ルベシト存ジ、又大島兄ノ其任ニ当ルニ足ルヘキヲ確信致候所ヨリ御周 旋致候訳ニ而、小生ニモ貴会兄姉ト共ニ我カ主ニ使フルノ一小分ヲ竭シ タルニ止リ候ノミニ而、決シ而右様御謝詞ヲ受クルノ理由ハ毛頭モ無之 事ト奉存候、然し今回之好都合ニヨリ貴会ノ兄姉等一同喜ヒ賜ハヽ小弟 モ亦喜ビ、兄姉等一層奮励福音之為ニ働キ賜ハヽ、小弟モ亦一層兄姉等 ノ為メニ奮励祈禱スベシ、嗚呼兄姉ヨ我等山海ヲ隔テ居所ヲ異ニスルモ、
矢張主ノ招ヲ受ケ主之恩恵ヲ蒙リタル同一ノ群羊タレバ、願クハ小弟之 前途謙譲主ト共ニアリ、一小信徒ノ本分ヲ竭シ一生ヲ送リ得ベキ様、又
殊ニ同志社之前途全ク主ノ誘導ヲ蒙リ候様、御祈禱アラン事ヲ奉希候
この書簡を見る限り、新島への誤解が解け、教会員を代表して和田が新 島へ礼状を送ったことがわかる。おそらく、大島や馬場、そして柳内が事 情説明をしたと考えられる。このようにして、札幌基督教会が抱える 2 つ の大きな問題は新島の仲介で解決され、結果、新島は札幌基督教会の人々 から信頼を得ることになる。
おわりに
既に拙稿「北海道における同志社大学設立運動」で明らかにしたように、
北海道で展開された同志社大学設立運動は、1888 年 12 月 1 日に社告と「旨 意」が掲載され、募金募集が開始された時点をもって始まる。これは全国 的に運動が最も盛り上がった時でもある。同新聞の活動は、社告の回数や 寄附者報告などに見られるように、全国の他の掲載紙誌に例を見ない、非 常に積極的なもので、その募金収集の成果も群を抜いていた。こうした積 極的な活動の背景には、札幌基督教会員とその関係者の支持があった。
札幌基督教会と同志社を繋ぐ決定的な接点は、運動が展開される前年の 1887 年 7 月から 9 月にかけての新島の札幌滞在であった。新島は来札以前 から独立の気風にあふれた札幌のキリスト教徒たちに深い同情を寄せ、彼 らの動向に目を向けてきた。札幌での新島の行動を追うと、彼は多くの札 幌基督教会員と交流し、同教会員たちが伝道成果をあげている地域にも赴 き、様々な人々と交流した。こうした新島の行動は、意識的であれ無意識 的であれ、後の義捐金募集に繋がっていく。
一方、新島の来札は、札幌基督教会にとってもまたとないチャンスであっ た。専任伝道師後任問題と大島の按手礼問題という 2 つの大きな問題を抱 えた同教会がその窮地を脱するためには、新島の力が不可欠であったから である。これに応えて、新島は伝道師として同志社英学校の卒業生馬場種 太郎を斡旋し、大島の按手礼問題については助言をし、教会の抱える問題
に手を差し伸べ、問題の解決を導いた。一方で、馬場は翌年の同志社大学 設立運動の端緒を開き、大島の按手礼問題の際に様々な便宜を図った柳内 義之進は、北海道毎日新聞が募金運動を展開する道を拓くことになる。
北海道における同志社大学設立運動は北海道毎日新聞を起点に展開され るが、札幌基督教会の新島に対する感謝の気持ちと、新島が札幌で築いた 人脈がその背景にあったことが指摘できよう。
注
1)札幌基督教会は 1900(明治 33)年に札幌独立キリスト教会と改称する(『札幌独立キ リスト教会』下巻p.308)が、本論文では改称以前の時期における新島および同志社 と札幌基督教会の関係を取り扱うため、一貫して札幌基督教会という名称を用いるこ ととする。
2)札幌基督教会と新島との関係の中でも特に大島正健と新島の関係に関する先行研究に、
大山綱夫「大島正健と新島襄」(『同志社時報』第 94 号学校法人同志社 1992 年)、お よび本井康博「同志社人物誌(87)『札幌バンド』と『熊本バンド』の狭間で 大島 正健」(『同志社時報』第 105 号 学校法人同志社 2003 年)、同「新島襄とW・S・クラー ク―アメリカン・ボードと「札幌バンド」をめぐって―」(『キリスト教社会問題研究』
第 52 号 2003 年 12 月)がある。
3)ダリア・ダリエンゾ著、北垣宗治訳「アーモストの輝かしい息子―新島襄のアーモス ト大学時代―」『新島研究』第 98 号同志社社史資料センター2007 年 2 月p.353, 378 この事実を確認するために 2006 年 8 月 23 日付のe-mailで問い合わせたところ、
1867 年 9 月 10 日のアマースト・カレッジ理事会の議事録に「クラーク教授の化学部 門からの辞任が提出された」、そして、「クラーク教授の辞任を受け入れ、10 月 15 日 まで教授職の義務を遂行することを彼に求めることが議決された」とご教示を得た。
4)札幌農学校第 2 期生は当時 20 名。大島や札幌独立キリスト教会では 18 名と記す(『札 幌農学黌第二年報』pp.124-125、大島p.139、『札幌独立キリスト教会』下巻p.303)。
5)実際は 109 ドル 88 セント(約 178 円)。従来は 100 ドルとされていたが、書簡の原本 発見により正確な金額が判明した(『札幌独立キリスト教会』上巻p.34)。
6)新島は 1887 年 7 月 13 日橘仁の妻いつ(札幌基督教会員)を訪問している(『新島襄 全集』第 5 巻p.297)。
引用文献リスト
・Fifth Annual Report of the Trustees of the Massachusetts Agricultural College, January, 1868, Boston: Wright & Potter, State Printers, 1868
・Harold Whiting Cary, The University of Massachusetts, A History of One Hundred Years, University of Massachusetts, Amherst, Massachusetts, 1962
・Nicholas Murray Butler, Reminiscences of an American Scholar, The Beginnings of Columbia University, by John W. Burgess, AMS Press, Inc. New York, 1966
・Masatake Oshima, Reminiscences of Dr. W. S. Clark, The Japan Christian Intelligencer, Vol.
1., No. 2., April 5. 1926
・W. S. Clark to Rev. J. H. Neesima, Amherst, Feb. 11th, 1878(同志社大学同志社社史資料セ ンター所蔵)
・W. S. Clark to Rev. J. H. Neesima, Amherst, Mass., Dec. 1st, 1878(同志社大学同志社社史 資料センター所蔵)
・有島武郎著『有島武郎全集』第 1 巻叢文閣 1924 年
・大島正健著大島正満・大島智夫補訂『クラーク先生とその弟子たち』教文館 1993 年
・大山綱夫「大島正健と新島襄」『同志社時報』第 94 号 学校法人同志社 1992 年 11 月
・小枝弘和「北海道における同志社大学設立運動―『北海道毎日新聞』を手がかりに―」『新 島研究』第 99 号 同志社社史資料センター 2008 年 2 月
・札幌独立キリスト教会教会史編纂委員会編『札幌独立キリスト教会百年の歩み』上巻 札 幌独立キリスト教教会 1982 年
・佐藤昌彦・大西直樹・関秀志編訳『クラークの手紙―札幌農学校生徒との往復書簡―』
北海道出版企画センター 1986 年
・新島襄全集編集委員会『新島襄全集』第 3 巻同朋舎 1987 年
・新島襄全集編集委員会『新島襄全集』第 5 巻 同朋舎 1984 年
・新島襄全集編集委員会『新島襄全集』第 9 巻上巻 同朋舎 1994 年
・『復刻札幌農学黌第一年報』北海道大学図書刊行会 1976 年
・『復刻札幌農学黌第二年報』北海道大学図書刊行会 1976 年
・本井康博「『札幌バンド』と『熊本バンド』の狭間で 大島正健」『同志社時報』第 115 号 学校法人同志社 2003 年 3 月