『新島襄全集』と森中さん
著者 北垣 宗治
雑誌名 新島研究
号 103
ページ 159‑161
発行年 2012‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013046
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森中章光さんほど明治人の一徹を感じさせた人は、私の知る範囲では、
存在しなかったように思う。明治期に生れた人々のすべてがあのように頑 固一徹だったとは思わない。しかし森中さんは特別だった。自己の信念を 曲げず、妥協を排し、安定した身分の保証なしに96年の生涯を全うするこ とは、誰にでもできることではない。新島研究を志す者は、どれほど森中 さんと意見を異にしようとも、森中さんの血のにじむような努力による新 島資料の収集と、それにもとづく新島研究に負うていることを肝に銘ずべ きである。しかも、あれだけの仕事を達成した推進力は、明治人の一徹に あったのである。
私は思う。もしこの世が森中さんのような人ばかりであったなら、この 世はうまく回転せず、むしろ堪え難いものにさえなるだろう。しかし、少 数であっても、もしこの世に森中さんのような人物が存在しなければ、こ の世は堕落し、やがて崩壊するであろうと。森中さんは同志社人に対し て、予言者のように大声で、警鐘を鳴らし続けた。
『新島襄全集』を出すことは長らく同志社の念願であり、使命であった。
かつての理事長として永年同志社の経営に貢献した秦孝治郎氏は、創立90 周年の記念事業として全集の刊行に執念を燃やし、森中さんに委嘱して発 刊計画をたてさせた。時の本部庶務部長だった生島吉造氏は、秦理事長の 命を受けて、引受けてくれそうな書店に当ってまわった。岩波書店を含 め、数社であったと記憶する。岩波は拒否したが、二、三の出版社は引受 けてもよいとして、大体の見積り額を示してきた。当時の新島研究会のメ ンバーは生島さんの呼び掛けに応じて週何回かクラーク館の一室に集ま り、先ず新島資料の目録作りに着手した。目録もなくして全集の編纂は不 可能、と判断したためである。生島さんの時代の仕事は全員が片手間の仕
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森中さんは具体的な新島全集案として、六巻だてのものや、八巻だての ものを提出した。各巻ごとの担当者の割当てについても試案が出た。しか しそれらの案はどれも軌道に乗らなかった。その原因は何だったのか?
端的にいえば、当時の社史資料編集所がまだ十分に陣容をととのえていな かったからである。同志社百年史や新島全集のような大型のプロジェクト を完成するには、日々その仕事にたずさわって実務を担当する事務局がど うしても必要だった。私はそれを「マシーン」と呼ぶ。森中さんにはその マシーンがなかった。もし仮にマシーンを与えても、森中さんがそれを使 いこなしたかどうか、私は疑問に思う。
孤高の人であった森中さんは、新島先生を尊敬する念が篤く、キリスト 教信仰に基づく新島精神を持たない人が新島資料に触れることは資料の冒 涜であると考えていたふしがある。森中さんは私のような後輩が新島襄に 関して持ち出す質問にも喜んで、熱心に答えて下さるのが常であった。し かし、一緒に机を並べて仕事することの難しい一面があった。温厚な加藤 延雄先生と長らく机を並べて仕事してきた森中さんであったのに、或る 日、森中さんはその加藤さんを事務室から追い出してしまい、加藤さんは 男泣きに泣いたというエピソードがある。
テキストの編纂という観点からすると、森中さんは『新島襄先生書簡 集』正続二巻という立派な仕事を独力で成し遂げたが、厳密に原本と校合 するときには、若干の不正確さもあり、また岩波文庫版の『新島襄書簡集』
には、ことわりなしに文章を省略している箇所が少なくない。新島の人格 を傷つけたくないという配慮が働いたことは明らかである。
上野直蔵総長は社史資料編集所の責任者に河野仁昭氏を抜擢し、有利な 予算の裏付けを与えて強力な支援を与えた。「河野マシーン」はめざまし く機能した。『同志社百年史』を完成させた余勢を駆って、上野総長は自ら 新島襄全集の編集委員長となり、全集委員会を再組織した。その際上野委 員長は森中さんを編集委員に加えなかった。森中さんが激怒したことは当 然のことであったし、その心中を察するとき、私もまた心が痛む。しかし ながら、森中さんが委員に加わっていたと仮定するとき、私は暗澹たる気
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分に陥らざるをえないこともまた、事実である。その場合、マシーンはた ちまちストップしたであろう。二人の有力教授が総長室を訪れ、森中さん を編集委員に加えるべきである、少なくとも編集顧問にすべきではないか と進言した。しかし上野総長は断固、その提言を斥けた。
上野総長はかつて、「ぼくは同志社専門学校で森中さんに英語を教えた ことがあったよ」と語った。それは森中さんが校友会の事務手伝いをして いた1932年頃のことであったらしい。32歳の上野教授から英語を習う38歳 の森中学生。不思議なコントラストである。その上野総長もまた、明治人 の一徹から、新島全集に賭けて、森中さんを排除した。厳しいドラマで あった。私は新島全集編集委員の一人として、上野総長の処置は間違って いなかったと考えるのだが、しかしその判定は後世にまかせるしかないと 思っている。
[この発表はその大部分を、『新島研究』77号(1990)に私が書いた「森 中章光先生のことども」にもとづいている。私の森中章光観は当時から少 しも変化していないからである。]