• 検索結果がありません。

新島襄の畢生の事業 : 開始に当たっての努力・忍 耐・苦悩・祈り

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新島襄の畢生の事業 : 開始に当たっての努力・忍 耐・苦悩・祈り"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

新島襄の畢生の事業 : 開始に当たっての努力・忍 耐・苦悩・祈り

著者 井上 勝也

雑誌名 新島研究

号 100

ページ 109‑123

発行年 2009‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012969

(2)

─開始に当たっての努力 ・ 忍耐・苦悩 ・ 祈り─

井 上 勝 也

幕末の江戸に生まれ育った下級武士の長男新島襄(1843-90)はアヘン戦 争後の列強の東漸の兆しに侵略の可能性を見抜き、清の覆轍を強く意識し て、21 歳の 1864(元治元)年、国禁を犯して密航を企てた。翌 1865 年 7 月、

ニューイングランドに到着した彼は幸いハーディー(Alpheus Hardy)の 庇 護 を 受 け て ピ ュ ー リ タ ン の 家 庭 に ホ ー ム ス テ イ し、 名 門 校Phillips

Academy, Amherst Collegeに学び、宣教師として帰国することを考えて

Andover神学校に進学した。南北戦争後のニューイングランドにはマーク・

トゥエインのいう「金メッキ時代」が始まっていたとはいえ、彼はキリス ト教を学び、自ら洗礼を受けてキリスト者の目線でピューリタンの生き方 に注目し、彼らの共同体に強い関心を示した。彼は近代国家建設の秘密を 探ることも密航目的の 1 つに挙げていた。近代国家アメリカではキリスト 教を信ずる自治自立の人民によって積極的に国造りが進められ、神のもと にあって全ての人間が平等であるというデモクラシーを人生観・世界観と する人民が自己の属する共同体にかかわり、貢献していることを目の当た りにした。とりわけAmherst Collegeのような高等教育機関でキリスト教 主義人間教育を受けた青年が広い視野から物事についての見識と実行力を もって地方や国家のよきリーダーとして活躍していることに新島は近代国 家建設の秘密を見出した。

彼は 10 年後の 1874(明治 7)年 11 月に帰国し、畢生の事業である全国 へのキリスト教の宣教と日本の近代化に牽引車的役割を果たす人材を養成 するために、日本にAmherst Collegeのような私立大学を建設する準備を

(3)

開始した。本論は主に 1875(明治 8)年彼の活動開始の年に彼が遭遇した諸々 の困難と苦悩を如何に克服していったかを分析叙述するものである。

新島は大学設立について 1882(明治 15)年以降、設立の趣旨を文章化し、

その中で 1874 年 10 月のアメリカン・ボードの第 65 回年会で、帰国した ら大学をつくりたいので寄付を願いたいという演説をした、と繰り返し いっている。新島研究の基本史料であるA. S. Hardyの編纂したLife and Letters of J. H. Neesima, 1891 には次のような文章がある。“But before I closed my poor speech, about five thousand dollars were subscribed on the spot to found a Christian college in Japan.”1 )同じく新島研究の基本史料で あるJ. D. DavisのA Sketch of the Life of Rev. Joseph Hardy Neesima, LLD, 1890 でも全く同じ表現即ちto found a Christian collegeが使われている2 )。 彼がラットランドでおこなった演説の原稿は残っていないので、確認のし ようがないが、当時の演説を報道した地元の新聞Rutland Weekly Heraldに は 次 の よ う に 書 か れ て い る。 さ わ り の 部 分 を 訳 す と「 神 戸 の 教 会 は educational institution(教育機関)をもっていません。しかし或る種の教 育機関をもたねばなりません。お金を乞い求めることは日本人の心にとっ て嫌悪すべきことですが、私はそれをしなければならないと思います。と いうのはキリストも『求めよ、そうすれば与えられる』と申されています から。従って私は皆さんにこのtraining institutionを始めるに十分な援助 をお願いしたいのです。約 3300 万人(の日本人)を助けるために教師と 伝道者を育てるために」3 )。新島にとってキリスト教の宣教と共に大学或 いはChristian collegeの創設は 1874 年当時彼の心に秘めた強い願望であっ た。しかし彼は諸般の事情を勘案して、アメリカン・ボードの年会では Christian collegeという表現を直接用いないで、training institutionという 含みをもった表現、即ち教師と伝道者を養成するための教育機関という幅 のある表現を使ったのではないかと考える。その理由は以下の通りである。

(1)彼がもしChristian collegeという用語を使ったとすれば、Rutland

(4)

Weekly Heraldの新聞記者はChristian collegeという表現を使った筈である。

(2)彼はボードの年会のスピーチの前日にハーディーに会って、「最高の キリスト教教育が国家を救う力になる」(the highest possible Christian education will be a power to save the nation.)4 )ことを確信したので、聴衆 に援助を求めてよろしいか、と相談したところ、ハーディーは「それは疑 わしいが、まあやってごらん」(the matter looks rather dubious, but you might try it.)5 )といったというのである。このdubiousという形容詞は心 の迷いを示す言葉である。ハーディーの表現の中に寄付が集まるかどうか わからんが、やってごらん、という意味よりも、アメリカン・ボードの年 会の宣教師たちが海外に赴く出発の挨拶をする場で、募金を訴える演説を するのは唐突であること、もう 1 点はアメリカン・ボードの運営委員会議 長であるハーディーにとって新島がボードの宣教政策を十分考慮せず、日 本に帰ったらChristian collegeをつくるので寄付をしてほしいということ に対する戸惑いがあったのではと考える。O. ケーリ教授は「ラットランド と新島襄と同志社」という論文で、アメリカン・ボードの総主事であるク

ラーク(N. G. Clark)にも前以って新島は相談をした6 )と書いているが、

クラークがどういったかは書かれていない。しかしクラークは大局的観点 からボードの大会の直前の時点で新島に積極的に賛成の意見を述べたとは 考えられない。彼もハーディーとよく似た消極的な意見或いは戸惑いの気 持を示したと想像される。(3)に新島はボードの宣教師として帰国するの であるからボードの方針に従わねばならない。ボードの方針はトルコの例

もあり、Christian collegeの設立に少し前向きになっている時期であるが、

積極的であるとはいえない。(4)にボードの年会に集まった人々はボード の関係者が大半であるので、ボードの方針をさしおいて新島が自分の主張 をすることに躊躇するようになったのではないか。ハーディーの消極的な 或いは戸惑いの表現も影響を与えたであろう。(5)に各地で活躍する宣教 師たちはChristian collegeをつくる資金があればtraining schoolをつくれ というであろう。(6)に 1872 年にボストンに大火があり、経済不況と重なっ てボードの寄付金が減っているという事実を新島は知っていた筈である。

1872 年 11 月、ボストン・コモンの南東側のかなり広い地域が火災で消失

(5)

した。新島は当時岩倉使節団の随員として田中不二麿とヨーロッパにいた が、1873 年 9 月帰国後アンドーヴァー神学校に復学して、このボストンの 大火に関心を抱き、The Story of the Great Fireという本を求めている。こ の本は新島旧邸にあったものを現在社史資料センターが所蔵している。

以上のような点を熟慮した挙句、新島は募金活動をスムーズにするため にもChristian collegeという表現を使わないでtraining institutionという幅 のある表現を思い付いたのではないか。これは新島の 1 つの方策である。

彼の生涯には正攻法をとらず、即ちChristian collegeという表現を用いな いで、しかし彼の意図を実現しようとするやり方をとる場合がある。彼は 機を見るに敏であった。

次は新島の私学校開業の許可を得るための苦労―京都府の槙村正直権知 事と文部省との交渉の経緯と彼の努力、熱意、忍耐、苦悩をとり挙げる。

新島はアメリカン・ボードから派遣された宣教師(補)であり、従って

彼はJapan Mission(日本伝道部)に属し、合せてボードの指令にもとづい

て活動するという立場にあった。彼は 1874(明治 7)年 11 月に 10 年ぶり で帰国し、12 月には早くも宣教活動を始めている。翌 1875(明治 8)年 1 月 29 日、神戸でおこなわれたJapan Missionのspecial meetingに新島の学 校設立構想が披露され、「日本人伝道者のためのトレーニング・スクール 問題に関する決議がなされた。新島の意見の詳細は記録されておらず、決 議内容は『伝道部(Japan Mission)は 5000 ドルの予算をトレーニング・

スクール設立のために要求する』」7 )とある。この際新島はJapan Mission の宣教師たちの考える学校training schoolと衝突するような名称や案を提 案せずに、宣教師たちの考えに近い線で発言したと宣教師たちに印象づけ たことが彼らのボードへの報告書で感じられる。そしてこの学校とは科学

(science)と神学を同程度に教える高等神学校(collegiate theological

institute)で、宣教師側からすれば新島の意向も加味されたものであった8 )

しかるに新島は 2 ヵ月後の 1875(明治 8)年 3 月、新島の考えをもっとも

(6)

よく理解し、且つアメリカン・ボードの最高責任者であったハーディーに 次のような書簡を送っている。

「 私 は ト レ ー ニ ン グ・ ス ク ー ル に 加 え て 高 等 教 育 機 関(collegiate institution)をもたなければ、我々の仕事はうまくいかないだろうと思いま す。私はこのことをこの前の委員会(1 月 29 日のこと)で懇願しました。

しかし宣教師たちはトレーニング・スクールだけにこの基金(5000 ドルの こと)を用いることを望んでいます。もし彼らが知識を求める若者たちの 切望を満足させるために、どんな科目をも教えるのであれば、喜んでこの 意見に賛成します。もし神学と聖書しか教えないのであれば、もっとも優 れた日本人青年たちは我々のもとに留まらないのではないかと思います。

彼らは近代科学を求めているのですから」9 )。Japan Missionの宣教師たち がボードに伝えている内容と新島の理解の間に温度差というよりももっと 大きな意識のずれがあるように思われる。新島は本音をハーディーに率直 に伝えたということであろう。新島の理解は、科学と神学を同程度に教え るcollegiate theological instituteであると宣教師はいうが、彼らは科学より も神学に重点をおいた科目を設置し、伝道者を養成するtraining schoolを つくろうとしている。そのようなことになれば、新島の意図する全人教育 をおこなうことが困難になり、若者が求めている近代科学を十分に教えら れなくなって、優秀な若者たちが官立の無宗教の学校に移ってしまう、と ハーディーに直訴している、と受けとれる。

新島は学校設立について 1875(明治 8)年 1 月、木戸孝允に会い、大阪 での可能性を打診した。そして磯野小右衛門が公園をつくるために用意し た 2 万円の寄付を木戸の説得によって学校設立の費用に当てるところまで 話が進んだ。しかし渡辺大阪府権知事の反対で、大阪に学校を設立するこ とを断念せざるをえなくなった。この頃 2 月 22 日付で文部省の田中不二 麿に学校設立について新島が問い合せていた書簡に対する回答が届いた。

それは(1)宣教師を学校教師に雇い入れる件について、僧侶はいいが宣 教師はダメである。(2)私学校の開設はまず発起人が府県に届け出、府県 が聞き届ければ府県が文部省に届けるという段取りになる。(3)恐らく聖 書を科目名として挙げることができるかという新島の問いに対して、田中

(7)

は修身学の方がよい、という回答であった10)。大阪で学校の開設がダメに なったのも新島が宣教師を教師に雇い入れたいと渡辺にいったことが理由 だと考えられる。学校教師に宣教師を雇い入れることができないというの は、1873(明治 6)年 8 月の「西教伝教士ヲ学校教師トシテ不可雇」とい う文部省布達第八十七号によるもので、田中不二麿も渡辺も新島にNOの 返事をしたのはこの布達を根拠にしていたのである。しかし学校に外国人 宣教師を教師に雇い入れることができないということは、新島やJapan

Missionの宣教師たちが意図する学校の設立が不可能になることを意味し

た。新島にとって決定的に重大な問題であった。

新島は 8 月 23 日付で京都府庁に「私学校開業・外人教師雇入れにつき 許可願」を提出した。彼は私学校開業の方法及び外国人の宣教師を教師に 雇い入れることができないことを既に去る 2 月に田中不二麿文部大輔から の書簡で知っていた。にもかかわらず彼は私学校の開業届と外人教師雇い 入れについての許可願をセットにして京都府庁に提出している。彼にとっ て単に 1 人の宣教師デイヴィス(J.D.Davis)を雇い入れるといった問題で はなく、今後彼或いはJapan Missionの宣教師たちが目ざそうとする学校 の設立と学校経営にかかわる問題であり、キリスト教を全国に宣べ伝える 尖兵になる伝道者を養成することができなくなるという重大な問題であ り、ここで躓けば新島の将来目ざそうとするChristian collegeの設立や全 国へのキリスト教の宣教に大きくさしつかえる問題であった。新島は熟慮 の結果強行突破を試みることを決意した。勿論打つ手はすべて打った上の ことである。7 月中旬京都にやってきた文部省の四等出仕九鬼隆一に新島 は会い、彼に心中を吐露し、文部省の考えを打診した。彼は九鬼から私学 校の開業及び外人宣教師を教師に雇い入れることについて、何がしかの希 望的な感触をつかんだようである。新島が 1875(明治 8)年 8 月 2 日付で デイヴィスと思われる人物に宛てた書簡の中で、23 歳の文部省の役人九鬼 隆一が新島に何を語ったかを想像することができる11)。とりわけ彼が新島 に宣教師を学校教師に雇い入れる件について宗教上の自由(religious freedom)を前面に押し出して交渉するようにとアドヴァイスしたことは 重要である。九鬼は 1852(嘉永 5)年摂津の国三田の生れで、綾部藩の家

(8)

老九鬼家の養子となり、慶応義塾に学んだ。1872(明治 5)年 20 歳で文部 省に奉職し、翌年ヨーロッパに留学、帰国後文部省に復職している。彼は 洋学派で明六社のメンバーであり、キリスト教にも理解があった。まだ若 いが文部省では遣り手であった12)。彼はヨーロッパに留学して信教の自由 が人間の基本的人権として重要であり、ヨーロッパでは既に当り前になっ ていることを目の当たりにして帰国したためか、それとも当時の条約改正 交渉の中で各国が日本に一層の宗教上の自由を、とくにキリスト教に対す る寛容を政府に強く求め、それが外圧として働いていたためか―1873(明 治 6)年 2 月におこなわれたキリシタン禁制の高札の撤去は前年アメリカ 合衆国政府との条約改正交渉でアメリカ側から 1867(慶応 3)年に起きた 長崎の浦上四番崩れとその後の政府の対応について厳しく批判されたこと が引き金になっている。

新島は京都府と私学開業及び外人宣教師の雇い入れを交渉するにあたっ て、九鬼と共にもう 1 人強力な助っ人をもっていた。それは私学開業の発 起人である山本覚馬(1828-1892)である。会津藩の砲術師範であった山本 は 1870(明治 3)年京都府の顧問に就任し、京都の近代化、殖産興業に槇 村権知事のブレーンとしての役割を果たし、1873(明治 6)年には小野組 転籍事件  注)で拘留されている槇村の釈放のために妹八重を伴って上京し、

5 ヵ月間も東京に留まって関係者を説得、とりわけ岩倉具視を説得して彼 の特命で槇村を釈放させた功績は大である。新島はこの山本からの槇村へ の働きかけを期待しつつ強行突破策をとったと考えられる。彼にとって今 回はただ前進あるのみの正攻法作戦であった。

さて、この「私学校開業・外人教師雇入れにつき許可願」の内容は驚嘆す べきものである。京都府権知事槇村正直と文部省に対して新島の正面突破の 態度がうかがえる。彼が米欧 9 年間の留学中に身につけた自己主張、或いは 一市民の国家権力に対して一歩も譲らない姿勢が読みとれる。ひたすら低姿 勢に出て、相手の温情で事を実現しようという日本人的態度ではない。「私 学校開業・外人教師雇入につき許可願」(明治八年八月二三日)13)のさわり の部分を次に引用したい。

右ニ付当今摂州神戸港在留之亜国宣教師ジェーディーデビスと申者を雇

(9)

入、相当之月給を与へ右学校之教授被仕度奉存候。然シ私義文部省御規則 中に宣教師を雇入学校教師を兼志むる事ハ御許容無之様相心得候得共、私 義窮生ニし而未タ資金ニ乏しく中々数千之金を差出し一教師を雇入候事ハ 難相叶候。然シ私義京師近傍ニ於而英学校之甚稀少なるを見受け、私学校 開業之義一日なり共棄置候ハゝ、京師近傍ニ於而文明之進歩と小関係な幾 共不被申ト存候。依而日夜心緒を労し一日も早く開校仕度存候。 (中 略)

然し私義文部省当今之御定則を奉守仕候ハゝ、同人雇入之義不相叶、斯く 申而此一則に関係し私之挙を棄置候ハゝ、当今文明維新之世に少しく不相 当之事と存、敢而犯則之罪を不顧当御府庁へ申立同人雇入之義願上候は右 之情実已む事を不得次第、何卒御府庁に於而宜しく御商量被成下、彼デビ スなる者雇入之段文部省迄御懸合可被下様奉願候。(中 略)扨右学校を 開くと開かざるとハ全く当御府庁及ひ大政府ニ於而私より宣教師雇入之義 御許容有之と志からざるとに関候間、克々御穿鑿之上私学校ニ於而我国家 文明進歩之為何之利害有る哉を御熟考被下、万一害ありとせば、無論若し 利益ありとせば、一日も早久御許容有之度候。右之段其御筋迄申上候間、

御賢裁之程臥而奉希候。   敬 白

 明治八年八月廿三日出ス      新 島  襄 [原文縦書き]

新島は 1864(元治元)年 21 歳の時、国禁を犯して密航を企て渡米する という大胆不敵な行為をやったことがある。また彼は亡くなる 18 日前の 1890(明治 23)年 1 月 5 日に「いしかねも通れかしとてひと筋に射る矢に こむる丈夫の意地」という和歌をつくり、身体は衰弱し切ってはいたが、

気持はやる気満々を示した。新島は簡単に諦めないで挑戦し続け、不可能 を可能にするファイトをもっていた。彼の強さの秘密は初志貫徹の意気込 みと、Japan Missionの宣教師たちの強い突き上げ、それから彼の信仰―神 が自分をあと押ししてくださるという確信があったからであろう。

新島は上述の許可願を京都府に提出し、その夜彼は槇村正直宅を訪れて、

学校設立について折り入って頼んでいる14)。槇村は、学校設立については 許可しよう。しかし宣教師の雇い入れについては文部省の管轄であるので、

許可願が文部省に着く前に新島が直接文部省に赴いて宣教師を教師として 雇い入れることについて許可を得るように、というアドヴァイスをした。

(10)

新島は知事の指示に従った。というのは、最近東京から帰洛して、中央政 府の現在の状況を正確に知っている知事のアドヴァイスであったからであ る15)。一方槇村は京都府としての立場から文部省の田中不二麿に宛てて次 のような公文書を送っている16)

文部省御達留         学 務 課 学第千六百七十三号

当府下平民新島襄儀外国宣教師ヲ雇入私塾開業之儀願出候処御省御布達 明治六年第八十七号ヲ以西教伝士ヲ学校教師トシテ不可雇旨ニ致抵触候ニ 付、如何之次第哉相尋候処、先般御省四等出仕九鬼隆一殿当地行之節願人 襄ヨリ乃示談候儀モ有之旨申立候条如何取計可然哉、願書並存寄書共進達 仕此段相伺候冝御指揮被下度候也。

明治八年八月廿七日  京都府権知事 槇村正直 文部大輔  田中不二麿殿

槇村のこの田中宛文書の内容で注目すべき点として、新島の許可願は明 治 6 年の文部省布達第八十七号で「西教伝士ヲ学校教師トシテ不可雇」に 抵触するのではないかということと、文部省四等出仕の九鬼隆一が京都に やって来た時に新島は九鬼と学校設立や宣教師の雇い入れにつき話し合っ ていることを指摘し、京都府庁即ち槇村権知事を飛び越して新島が文部省 役人から前向きの返事を引き出してから京都府庁に許可願を提出したとい うことで、槇村は新島のやり方にいい印象をもっていないと読めるような 内容になっている。

「同志社英学校記事」と「同志社英学校沿革」17)の冒頭では「明治八年八 月廿三日、同志社英学校設立ノ許可ヲ得」或いは「得たり」と書かれている。

新島は槇村のアドヴァイスを受けて 8 月 25 日に京都を発って二人引きの人 力車に乗って東海道を走り、9 月 1 日に東京に着き、早速文部省で田中及び 九鬼に会ったと考えられる。9 月 2 日付の大阪梅本町公会の髙木玄真宛の書 簡で「文部省之官員ニ面会し縷々相談仕候処、何レ宣教師雇入西京ニ於而 学校を開候事ハ可相叶と存候間、左様御心得被下、右之義ニ付益真神へ御 祈可被下候様、尊下は勿論公会之諸兄弟へも右同様願上候」18)と述べ、談 判初日の段階で宣教師雇い入れの件につき新島が何がしかの前向きの感触

(11)

をつかんだような書き方をしている。交渉 3 日目になってやっと当時文部 省の最高責任者であった田中不二麿の名で次のような許可証を得ることが できた。「書面西教伝教師ヲ私学校教師ニ相雇候儀事実無余儀相聞候ニ付許 可相成不苦候事 明治八年九月三日 文部大輔 田中不二麿 印」19)上記 の文面は、田中が宣教師の教師としての雇い入れをストレートに認めたの ではなく、苦慮の上決断し、許可証に公印を押したことがうかがえる。

1875(明治 8)年 2 月、即ち 7 ヵ月前には新島に宣教師の雇い入れはダ メだと返事をよこした田中が彼の懇願によって外国人宣教師の雇い入れに ついて仏教勢力を含め周囲を刺激しないようにという条件で許可を出した 背景には次のような点が考えられる。(1)田中と新島の間に太い信頼の絆 があった。それは 1872 年 3 月から翌年の 1 月までの 10 ヵ月間岩倉使節団 の随員として新島が田中と寝食を共にした間に培われたもので、田中は新 島の誠実さや情熱と彼の畢生の事業の実現に対する執念の強さを理解して いたであろう。(2)文部省の最高責任者として、明治 6 年 8 月の文部省布 達第八十七号を自らの手で撤廃することについて外務省や教務省との関係 や仏教勢力の動きや、第八十七号を撤廃したことに対する自分への批判を 十分に考えた上のことであったのか。(3)天皇制絶対主義国家体制を構築 しつつあった明治政府に諸外国は条約改正の条件として、近代国家に不可 欠な信教の自由という基本的人権の遵守を迫ったが、政府は容易にそれを 受け入れようとはしなかった。当時の政治家も官僚もキリスト教が天皇制 と衝突することを警戒していた。そしてそれ以前に 16 世紀のバテレン(伴 天連)が侵略の尖兵であったという伝統的な観念を開国後の宣教師たちに も持ち続けていた。いわんや彼らは近代国家形成の柱としての教育の現場 に宣教師を教師として受け入れることは極めて危険且つ重大な問題である と考えていた。1871(明治 4)年 11 月より 73(明治 6)年 9 月にかけて派 遣された岩倉使節団のメンバー約 50 人の多くは米欧の先進諸国でキリス ト教の国民や国家に果たす役割が大であることを改めて認識し直した。

少 弁 務 使 と し て 米 国 に 駐 在 す る 森 有 礼 は 1872( 明 治 5) 年 10 月、

Religious Freedom in Japanを太政大臣であった三条実美宛の建白書として、

アメリカ政府の要人をも意識しつつ英語で公けにした。彼は冒頭で信仰の

(12)

自由は基本的人権であると主張する。「多くの人間の関心事の中で、宗教 的信念を重んずることは最も重大であると思われる。地球上の全ての文明 化された国々ではとりわけ宗教的信念に関して良心の自由は人間の天賦の 権利であるのみならず、すべての人間的関心を増大させる上で極めて基本 的な要素として神聖なるものと見なされている」20)。森のこの建白書は明 治政府の外交官でありながら、キリスト教に対する政府の基本姿勢に対し て真正面から批判する内容である。

1873(明治 6)年森を始め使節団のメンバーが帰国し、明六社を創設し て『明六雑誌』を刊行し、啓蒙活動を積極的におこなったが、政府はキリ スト教に対する頑な態度を容易に変えようとはしなかった。田中は明治 8 年当時文部省の最高責任者であったとはいえ、この問題を単に文部省の一 存だけで決められる小さな問題ではなかった。外務省や教務省にも十分な 意見聴取が必要である程重大であった。にもかかわらず田中は宣教師を学 校教師に雇い入れること(は外国人を内陸の京都に住まわせることをも意 味する)について新島に許可を出したのはなぜであるのか。田中と新島の 個人的関係で処理できる問題ではなく、一国の基本方針にかかわる問題で あると考えるからである。明治政府のキリスト教に対する方針の転換とも 受けとれるこの問題を田中や九鬼のレベルでやれたのかについて私には今 なお疑問が残るのである。

新島は一番大きなネックになっていた宣教師を学校教師に雇い入れる件 について大きな壁を突破することができた。新島の粘り勝ちであった。不 可能が可能になった。権知事槇村は、文部省が外人宣教師を教師に雇い入 れる件につき当然NOという答えを期待していた。そしてNOといっても らわないと仏教勢力の強い京都の地にあって彼らに油を注ぐことになり、

その矛先が自分に向かうことを恐れていた。案の定仏教勢力からの京都府 権知事槇村正直に宛てた明治 8 年 11 月 22 日付の伺い書の形をとった抗議 書が届いた。さわりの部分を次に引用したい21)

尚又明治六年八月文部省ヨリ学校教師教導職ヨリ兼任不相成旨御布告有 之候ヘハ外国宣教師モ同様之義ニ可有之候ト奉存候処、此度右様学校教員 ト致剰公然彼教書講説ニ及候義御許可相候ハ如何之御次第ニ御座候哉。

(13)

要するに仏教勢力側は明治 6 年 8 月の文部省布告があるのに、今回宣教 師の雇い入れを認め、聖書を講義する許可を出したのはなぜか、といった 質問状というより詰問状を槇村権知事に出したのである。ちなみに同志社 仮規則を見ると聖書という科目は挙っておらず、田中不二麿文部大輔のア ドヴァイス通り、修身学と講説になっている22)

1875(明治 8)年の後半に入って、京都府や文部省との交渉が本格的に なり、宣教師たちの突上げが激しくなり、新島は不眠症に悩まされ、各方 面との交渉にむつかしい綱渡りをするような日々を過ごしていた。この時 期唯一明るいニュースは 10 月 15 日、山本覚馬の妹八重と婚約し、心の支 えを得たことであろう。新島は私学校開業を控えて 11 月 22 日に槇村に呼 ばれ次のように言われたという。ハーディー夫人宛の書簡から引用すると、

ʻI was told that I should blot out Scriptures.ʼ 23)と書かれている。聖書とい う名称をカリキュラムから見えなくせよ(blotというのはインクで塗りつ ぶして消すという意味)といわれた。しかし自宅では聖書を教えることが できる24)と書いている。また「槇村は私に学校でChristian religionを教 えるなと命令commandしたのではなく懇請requestした」25)とも書いて いる。この辺の叙述から推察すると、周囲から京都府にかなり圧力がかかっ ていることがわかる。小野転籍事件で示したように、力づくで抑え込もう とする辣腕知事槇村が、既に仲が悪くなっていた新島にrequestという頼 み込むような表現を使ったことは注目に値する。J. M. デイヴィスの『宣教 の勇者 デイヴィスの生涯』に「新島が知事と会見する以前にデイヴィス はどんなことがあっても校内で聖書を教えないといった約束をしてはいけ ないと忠告していた。そんな約束をするくらいなら校舎などはない方がい いし、〔京都の〕町から撤退した方がましだと強調した」26)という文章が ある。新島の理解者である筈のデイヴィスもJapan Missionの立場で発言し、

当時の日本政府や京都府や町の人々の耶蘇教に対する厳しい態度を十分理 解していなかった。しかし彼もだんだん新島の苦悩を理解し、しばらくし て知事の要求に譲歩したことが賢明であったことがわかるようになった。

1875(明治 8)年 11 月 29 日、新島はやっとのことで官許同志社英学校 の開業にこぎつけた。平民主義者の彼にとって国家の権威を利用する「官

(14)

許」という二文字は好きな言葉ではなかった筈であるが、京都の地でとり わけ仏教勢力が開業に猛反対する中で獲得したお守りのような二文字で あった。新島にとって京都府及び文部省から大変苦労をして捥ぎ取った貴 重な「官許」であった。

同志社英学校創設の協力者であったJ. D. デイヴィスが新島襄伝A Stetch of the Life of Rev. J. H. Neesima, LLD., 1890 で “I shall never forget Mr.

Neesimaʼs tender, tearful, earnest prayer in his house that morning as we began the school; all prayed from the heart.” 27)と書いているように、新島 は努力、熱意、忍耐、苦悩、祈りを重ねてやっと到達した最初のゴールで ある開校式を迎え、それに先立っておこなわれた彼の祈りの言葉の中に万 感の思いがこめられており、彼らしい真心が滲み出ている。新島の祈りの 意味は彼の努力と苦悩と当時の状況を知って初めて理解できるのではない かと思う。

新島はハーディー宛の書簡で、文部省の田中から宣教師であるデイヴィ スを学校教師に雇い入れ、内陸地の京都に住むことを許可されたことに「奇 跡だ!」(ʻMiraculous!ʼ)という言葉でハーディーに伝えている28)。この一 語に彼自身の驚きと喜びの率直な気持が示されている。

新島の生涯は 47 年という短い生涯ではあったが、とりわけ帰国後の 15 年間は不可能に日々挑戦し続け、自らで奇跡を招き入れて畢生の事業を着 実に実現していった。今回の論考は彼の事業開始の 1 年の軌跡をたどった ものである。

・ 当論考は 2006 年 12 月 12 日、社史資料センターの研究会で報告したも のに加筆修正したものである。

・当論考を執筆するにあたってO. ケーリ、杉井六郎、北垣宗治、本井康 博、吉田亮、森永長壹郎先生を始め多くの先行研究者の研究成果に負 うところが大であった。記して感謝申し上げたい。

出典

1)  A. S. Hardy ed., Life and Letters of Joseph Hardy Neeisima, Houghton, Mifflin & Co.,

(15)

1891, p.172

2)  J. D. Davis, A Sketch of the Life of Rev. Joseph Hardy Neeisima, LLD., Maruzen, 1890, pp.32-33

3)  Rutland Weekly Herald, 15, October 「ラットランドにおける最初の学校設立趣意発表」

『同志社百年史』資料編 2 巻末 pp.63-64 4)  A. S. Hardy ed., op. cit., p.171

5) ditto, p.172

6)  オーテス・ケーリ「ラットランドと新島襄と同志社」 北垣宗治編 『新島襄の世界―永 眠百年の時点から』所収 p.215

7)  吉田亮「アメリカン・ボードの日本伝道・教育観―アメリカン・ボードから見た京 都トレーニング・スクール設立の意味」『異文化交流と近代化―京都国際セミナー 1996』所収 大空社 1998 pp.96-97

8)  同上 p.97

9)  A. S. Hardy ed., op. cit. p.195

10)  新島襄宛 田中不二麿書簡 明治 8 年 2 月 22 日付『同志社百年史』資料編 1 同志 社 1979, p.5

11) To Rev. J. D. Davis ? August 2, 1875『新島襄全集』6 pp.166-167

12)  本井康博著『新島襄の交遊―維新の元勲・先覚者たち』思文閣出版 2005 年 pp.149- 165 に詳しい。

13) 「私学校開業・外人教師雇入れにつき許可願」(明治八年八月二三日)資料編 1  pp.7-8

14) To the Rev. J. D. Davis ? August 24, 1875 『全集』6 p.167 15) ditto

16)  文部省御達留(明治八年)学第千六百七十三号 文部大輔 田中不二麿宛 資料編 1 p.38

17) 「同志社英学校記事」『全集』1 p.161「同志社英学校沿革」同左 p.166 18) 髙木玄真宛 明治 8 年 9 月 2 日付 『全集』3 p.141

19) 文部省による外人教師雇入れ許可 明治八年九月三日付 資料編 1 p.38 20) 『明治文化全集』第 11 巻 宗教編 所収 日本評論社 1928 p.3 21) 京都府仏教団の府庁提出文書 資料編 1 p.15

(16)

22) 同志社仮規則 資料編 1 pp.9-10

23) To Susan H. Hardy, Nov. 23, 1875 『全集』6 p.169

24) J. M. デイヴィス著 北垣宗治訳『宣教の勇者デイヴィス』同志社 2006 年

   p.180

25) To Susan H. Hardy, Nov. 23, 1875 『全集』6 p.170 26) 『宣教の勇者デイヴィス』p.180

27) J. D. Davis, op. cit., pp.47-48

28) To Alpheus Hardy, Sept. 4, 1879, 『全集』6 p.195

注)  小野組転籍事件 京都の豪商小野組が業務の都合で東京に転籍したいと府に願い出 た。莫大な税金や上納金が入らなくなるので槇村は拒否した。小野組はこれを不当 として京都裁判所に訴えた。長州色の濃い京都府と長州閥の打倒を目ざす司法当局 が対立し、結局京都府が敗訴した事件。明田鉄男著『維新京都を救った豪腕知事槇 村正直と町衆たち』小学館 2004 年 p.199

参照

関連したドキュメント

医師の卒後臨床研修が努力義務に過ぎなかっ た従来の医師養成の過程では,臨床現場の医師 の大多数は,

青少年にとっての当たり前や常識が大人,特に教育的立場にある保護者や 学校の

老: 牧師もしていた。日曜日には牧師の仕事をした(bon ma ve) 。 私: その先生は毎日野良仕事をしていたのですか?. 老:

このため、都は2021年度に「都政とICTをつなぎ、課題解決を 図る人材」として新たに ICT職

⑹外国の⼤学その他の外国の学校(その教育研究活動等の総合的な状況について、当該外国の政府又は関

・ 化学設備等の改造等の作業にお ける設備の分解又は設備の内部 への立入りを関係請負人に行わせ

2019年 8月 9日 タイ王国内の日系企業へエネルギーサービス事業を展開することを目的とした、初の 海外現地法人「TEPCO Energy

ニューゲイト監獄の教誨師はロンドン市参事会によって任命された︒教誨師はニューゲイト・ストリートに地租を免除された住