新島襄のキリスト教
著者 北垣 宗治
雑誌名 新島研究
号 108
ページ 13‑25
発行年 2017‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000213
新島襄のキリスト教
北 垣 宗 治
新島襄のキリスト教といえば、同志社で最も重要な主題の筈ですのに、余 り論じられてきませんでした。それは論じ難い主題でもあります。でも、同 志社が同志社である限り、新島の信仰の内容を正しく理解する努力を怠って はならないと思います。新島が洗礼を受けてから150年目の今、この問題に 立ち返ることは極めて意義深いと確信いたします。
私は長年に亘って新島のことを調べてきました。そして彼のキリスト教信 仰について結論めいたものに到達したと考えています。それを説明すること が、この報告の目的です。すると早速、ディレンマに出くわします。それを 私は秘かに、「信仰の相対性理論」と呼んでいます。新島襄の信仰を論じよ うとすると、必然的に論じている私の信仰が問われるという問題です。
私は学生時代に、同志社教会で茂義太郎牧師から洗礼を受けました。1951 年のクリスマスの時でした。私は茂先生に間もなく失望するようになりまし た。茂先生の説教を日曜日ごとに聞くうちに、それがきわめて『リーダーズ
・ダイジェスト』的であると思うようになりました。先生は人間の罪を強調 なさることはありませんでした。先生によれば、ペテロはイエスの兄弟であ り、友人でありました。一口で言うならば、茂先生はリベラルでした。すで にカール・バルトの危機神学やラインホールド・ニーバーのネオ・オーソド キシーに基づく発言が注目されていた時期に、あのように甘い人間観を説い ていてよいのだろうか、というのが、私の率直な疑問でした。まことに若気 の至りでた。そこで当時信頼していた神学研究科の大学院生に相談したとこ ろ、彼女は私の問題を理解してくれた上で、それじゃあなたは、京都教会の 大山寛(ゆたか)先生の説教を聞いてごらん、と忠告してくれました。
大山牧師は宗教改革者ルターを深く勉強した人でした。また17世紀イギ
リスのノンコンフォーミストの伝道者、ジョン・バンヤンのPilgrim’s Pro
gress(『天路歴程』)からもしばしば引用されましたが、それは決まって同 じ箇所でした。すなわち主人公のクリスチャンが重荷を負うて旅をしていた とき、道端に立っている十字架を見上げると、とたんに自分の背中から重い 荷物が転げ落ちる場面です。大山先生はこのエピソードが大好きだったとみ え、説教で何度も引用されました。大山先生の説教は哲学的でした。キエル ケゴールの書いたものをやさしく説明されることもありました。大山先生の 説教は私の心がおごり高ぶっているときにはそれを糾弾する言葉として響 き、私の心が悲しんでいるときには慰めの言葉として響きました。そういう わけで、私は大山牧師のもとで信仰を養いたいと希望するようになりまし た。私は勇気を振って同志社教会の茂牧師に会いに行き、京都教会へ転会さ せてほしいと申し出たのです。茂先生は寛大にもそれを許して下さいまし た。それは私が大学院の学生だった時のことです。
私の信仰の立場を説明しているところですが、もう一つ、エピソードを付 加えなくてはなりません。私は文学修士号を取得するとすぐに同志社大学文 学部助手に採用されました。次にイギリスの大学に留学することを志しまし
た。幸いBritish Councilの留学生試験に合格して、スコットランドの古い、
小さな大学であるセント・アンドルーズ大学に行くことになりました。セン ト・アンドルーズ大学には、クリスチャンの学生グループが二種類ありまし た。すなわち一つはIVF(Inter-Varcity Fellowship)というグループです。
IVFは固く福音主義に立って、毎週集まって聖書を真剣に学んでいました。
もう一つはSCM(Student Christian Movement)です。SCMは社会の問題、
世界の問題に目を向け、それを解決するためにはクリスチャンとしていかに 貢献すべきかを模索していました。私は最初のうち、IVFとSCMの両方の 集会に顔を出していましたが、やがてIVFのみにコミットすることにしま した。なぜかというと、SCMは私の知る同志社のクリスチャン学生のやっ ていることに似ていたからです。私はもっと聖書をしっかりと読まなくては ならないと感じました。
こうしたことから、漠然とではありますが、キリスト教には二つの対立す る傾向があるという認識に到達しました。英文学を学んでおりまして、イギ
リスの国教会(Church of England)にも二つの派があると知りました。いわ ゆるHigh ChurchとLow Churchです。High Churchは儀式に重点を置き、
ローマ・カトリック教会に近いものです。これに対しLow Churchは儀式よ りは福音宣教に重点を置きます。このことを理解していないと、19世紀の
作家George Eliotの作品を理解することができません。留学を終えて帰国し
ますと、日本のキリスト教にもそれに似た対立があることがわかりました。
つまり福音主義対自由主義の対立です。福音派対社会派の対立とも呼ばれま す。それは東京神学大学対同志社大学神学部の対立に象徴される問題です。
両者は今なお、聖餐式をめぐって対立しています。聖餐式は聖晩餐とも呼ば れ、キリストの肉を象徴するパンと、キリストの血を象徴するブドー酒とを 教会で頂く伝統的な儀式です。伝統的には、イエスはキリストであると告白 して、クリスチャンとなった人だけが聖餐式を守ってきました。だから伝統 的には、洗礼を受けていない人は聖餐にあずかれない、とされており、日本 基督教団の現在のリーダーたちはその線を堅持しようとしています。ところ が同志社大学神学部出身の牧師の多くはリベラルでありまして、せっかく道 を求めて教会に来ている人を、洗礼を受けていないという、ただそれだけの 理由で、主の晩餐から排除するのは、キリストの愛の精神にもとるのではな いかと考え、「聖餐の意味を理解し、聖餐の恵にあずかりたいと望む人」は、
誰でも聖餐にあずかれるようにしています。私の現在所属している京都教会 ではそのようなオープンな聖餐式を守っています。但し、大山牧師の頃はそ うではありませんでした。それどころか、あのリベラルだった同志社教会の 茂牧師でさえ、クリスチャンでなければ聖餐にあずかれないという立場を取 っておられました。
長い説明になりましたが、教会生活をしているクリスチャンとしての私の 現在の信仰の立場は、基本的には福音主義ですが、聖餐に関してはリベラル です。哲学者としてはキエルケゴールを尊敬しており、神学者ティリッヒの 説教を喜んで読み、ラインホールド・ニーバーの歴史観や政治論から多くの 知恵を学んでいます。私は京都教会で礼拝を守っていますが、その礼拝で欠 けているものがあるとすれば、それは罪の告白であろうと考えます。礼拝の 中では、罪の告白と赦しの宣言がセットになって、一つのドラマを構成して
いなくてはならないと考えます。
新島襄のキリスト教を論じようとしている私は、そのような背景を持つ者 です。そこで私の第一の結論は、新島の信仰が右にも左にも傾かず、絶妙な バランスの上に立つ中庸主義であったことを強調したいと思います。私はこ のことに深い感銘を覚えます。議論の都合上、右に福音主義を置き、左に自 由主義を置きます。新島は福音の本質を正しく把握していましたから、キリ ストの十字架上の死が贖罪の死であったことを正しく理解していました。彼 がアンドーヴァー神学校を卒業する直前に、レキシントンのハンコック教会 で行った最初の公開説教の中でも、この点を強調しています。新島の生涯で 最もドラマティックだった1880年4月の自責の杖事件についても、多くの 同志社人は新島のあの突飛な行動の中に、彼の贖罪意識を見たのでした。
ところが、新島の初期の学生たち、特に熊本バンドと呼ばれた学生たち は、この贖罪の思想がなかなか理解できなかったようです。宣教師デイヴィ スと熊本の若者たちは、この贖罪の問題で30日間も延々と議論を続けた、
とデイヴィスが書いています。有名な花岡山における奉教趣意書を読んでみ ますと、そこにはイエス・キリストの十字架上の死に感銘を受けたというこ とは全く書かれていません。彼らは文明開化のための道具になろうとして一 生懸命でしたから、キリスト教を広めることが即、文明開化をわが国にもた らす早道なのだと、確信していました。奉教趣意書には35人がサインして いますが、その中の一人の金森通倫は、愛する妻の死を契機として、それま での自由主義を捨てて福音主義に帰ってきた人です。その金森は、痛烈な言 葉で奉教趣意書を批判しています。金森の『回顧録』から引用します。「此 の主意書中には神、基督、救、贖罪、罪、悔改、天国、地獄、聖魂、未来な どと言う言は一つも見えない」(『回顧 録』ア イ デ ィ ア 出 版 部、2006年、
pp.46-47)。熊本バンドの人たちの信仰を十把ひとからげに論ずることはで きませんが、小崎弘道、横井時雄、宮川経輝、浮田和民、下村孝太郎、海老 名弾正がリベラルであったのに対して、金森通倫だけはリベラルから福音派 に180度転向した唯一の例です。だから奉教趣意書について、あれだけの神 学的批判ができたのです。
新島の信仰に関する私の第二の結論は、青年時代の新島が「天父」という
言葉から、物凄いインパクトを受けたことです。私は新島以外に、「天父」
という言葉から、影響のみならず恩恵を受けた人を知りません。新島は親孝 行の意識の強い人でしたから、若い頃の新島は厳しいディレンマに直面しま した。彼は自分の将来と、国の現状を考えてみて、勤皇の志士になりたいと 思いました。新島は幕末の安中藩で、数々の不条理を体験していましたか ら、いっそのこと攘夷運動に飛び込みたいとさえ考えたのです。しかしそう するためには、家と藩を捨てなくてはなりません。孝行者であり、儒教の倫 理で養われてきた新島は、そんなことをすれば両親や祖父がどんなに悲しむ だろうかと、そのことが心配になり、決心できないでいました。ちょうどそ の頃付き合っていた友人たちと一緒に、幕府の禁じている、そして中国の上 海で出版された、中国語で書かれたキリスト教文書(布施田哲也さんの研究 により、それが宣教師McCarteeの編纂した「真理易知」であったことは明 らかです。『新島研究』103号)の中で、新島は「天父」という言葉に出会 ったのでした。そして自分の肉親に対する忠誠心よりも、「天父」に対する 忠誠心の方が優先するということに気付きました。こうして彼は今までの精 神的束縛から一挙に解放されたのです。「天父」という言葉が新島を解放し たのです。新島は国外脱出の決意を固めました。「天父」に解放された日本 人は、恐らく新島が最初の人でしょう。
第三の結論は、信仰の反映としての伝道精神が顕著だったことです。三つ の例を挙げます。①新島がアンドーヴァー神学校の付属教会で洗礼を受けた のは1866年12月30日だったと考えられます。それに先立つ3か月前に、
ミス・ヒドンのところに同居していたミス・ヒドンの高齢で病気の叔母、
Miss Abigail Chandlerに、祈ることを新島は奨めています。おそらくそれは
たどたどしい英語だったことでしょう。ミス・チャンドラーは新島にうなが され、叫ぶような祈りをささげました。かたくなに祈りを拒否してきた老女 の初めて大声での祈りが、階下にいたミス・ヒドンに聞えたので、ミス・ヒ ドンは大変驚きました。②新島がアーモスト大学の生活を始めたのは1867 年9月初めのことでした。アーモストの町にMount Pleasant Instituteという 寄宿制の学校があり、1869年という早い段階で、二人の日本人少年がそこ に留学していました。新島はこの二人に目をつけ、さっそく伝道を開始して
います。そして少年たちがようやく聖書を読むようになったと、手紙の中で 友人に報告しています。その日本人は誰であろうかと疑問に思っていました ところ、日本英学史学会会長の塩崎智教授が知らせてくれました。二人は福 岡藩の送った留学生の井上良一と本間英一郎でした。塩崎氏の著書『アメリ カ「知日派」の起源』には彼らの写真まで載せています。③1882年7月、
新島は中山道を旅して安中に向かいます。その時同行した一人が徳富猪一郎 でした。新島は徳富に対して道道福音を説いてやみませんでした。徳富は自 伝の中で、「…困った事は、寄れば触れば、新島先生が予に向って、説教せ らるる事であった」(『蘇峰自伝』p.165)と書いています。このような例は 枚挙にいとまがありません。
新島の信仰内容を知るために好都合な文章があります。それは彼が宣教師 を志願した時にアメリカン・ボードに提出した文書で、1874年のものです。
新島がアンドーヴァー神学校を卒業する直前のことでした。彼はこのように 書いています。私の訳で読みます。
私は仏教の信仰の中で育てられ、儒教の徳育をも受けてきました。そ の後私には仏教は不愉快なもの、儒教は不満足なものとなりました。こ のような影響のもとで私はいくらか懐疑的になりました。…
そのような心の状態の中で、中国在留のアメリカの宣教師の書いた聖 書の歴史の中国語訳にでくわしました。そこには神に関するはっきりと した見解が述べられていましたので、さらにつっこんで神のことを探求 するようになりました。この目的を抱いて私は家を離れることになり、
アメリカに渡ったのです。アメリカまでも私を導き給うた摂理は、ボス トンに友人を備え給い、その方々のご援助によって今までの教育を受け てきました。私の回心は米国到着後しばらくして起こりました。しかし 私は神の言葉をはじめて読んだ時以来、神とその光を探し求めてきたの であります。
新たな経験とともに私の国民の間に福音をのべ伝えたいという欲求が 私の中に生れました。自分自身をこの事業にささげたいという動機は、
私の国がそれを必要としていることを感じたからであり、滅びゆく魂に
対する愛、とりわけ、キリストの愛が私をこの仕事につなぎとめてしま いました。私はこの夏で勉学を完了するつもりです。現在何の借金もあ りません。日本にいた時には申し分のない健康状態でしたが、米国にき てからというもの、幾分か健康はすぐれません。しかし現在では回復し つつあります。当分の間結婚するつもりはありません。
(『新島襄全集』10 : 183-84)
次に引用するのは、同時に提出したアンケートの答です。
私の見解では聖書の主要な教義は次の通りである。唯一の真の神の実 在、聖書は霊感によって成ったものであること、三位一体、神の永遠の 意図、意志の自由、人間の完全な堕落性、贖罪、再生、信仰による義 認、死者のよみがえり、最後の審判、以上である。私はアメリカン・ボ ードの下で宣教事業を維持している諸教会が共通に抱いている教義のい ずれに関しても、一点の疑念も持たない。私の回心が真実のものである という確信を証明するものは、キリストに対して日々高まっていく信頼 と、真理に対して日々まし加わっていく共感である。牧師の義務につい ては、人間の救いのために福音を宣べ伝えることであるというのが私の 見解である。牧会に入りたいという私の欲求は、日本で今それが必要で あるということと、その必要をみたすに当って役立ちたいという、私自 身の希望とに由来するのである。困難と試練に遭遇することはもとより 覚悟の上である。しかしキリストを信じることのみならず、キリストの 御名の故に苦難を受けることもまた、すべて喜びであると考える。この 仕事のために生命をささげることこそが、私の目的なのである。
(『新島襄全集』10 : 184-85)
只今引用しました新島の文章の中に、「回心」という言葉が二度出て来ま した。英語のオリジナルはconversionです。重要な言葉です。「私の回心は 米国に到着後しばらくして起こりました」と新島は述べています。Conver- sionにはいろんなタイプがありますが、新島の場合は使徒言行録におけるパ
ウロのような劇的なものではありませんでした。「天父」という言葉の発見 が、一種のconversionであったと、私は想像するのですが、新島がそのよ うに書いているわけではありません。興味深いのは、Providence「摂理」と いう言葉を自分のものにしていることです。つまり、箱館を脱出してベルリ ン号で上海に至り、ワイルド・ローヴァー号という船でボストンまでやって 来たのは、Providenceの導きのお蔭であるという、新しい自覚、新しい人生 観、言い換えれば、自分は生きているのでなく、活かされているのだとい う、視座の転換が、ボストンに到着後しばらくして起こったと、私は理解い たします。それは不安のドン底にある時期でもありました。創世記の中に、
ヤボクの渡しを渡る前に、ヤコブが天使と格闘する場面がありますが、私は 新島にもこの時期に、そのような経験があったに違いないと考えています。
次に、新島に影響を与えたと考えられる人々を見ていきたいと思います。
一般論として申しますと、この「影響」という言葉はクセモノです。私たち は影響という言葉が便利なものですから、よく使いますが、立ち止まって、
はたして自分自身は誰から、またはどのような思想から、どんな影響をうけ てきたのかを考えてみたとき、どれほど正確にそれを表現できるでしょう か? 自分で気付かないような影響を受けているかもしれないのです。新島 は儒教の教育を受けて来たとはっきり書いていますが、死の前日に言った言 葉として、「天を怨みす人を咎めす」(全集4 : 409)があることを皆さんは ご存知でしょう。あれは新島の言葉だと思っている人もいますが、実は論語 に出てくる孔子の言葉なのです。死を前にして論語が飛び出しました。しか し新島が、死の床で、小崎弘道牧師に頼んで読んでもらったのは、新約聖書 のエフェソ書の3章でした。その12節「わたしたちは主キリストに結ばれ ており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくこ とができます。」この箇所と、20節、「わたしたちの内に働く御力によって、
わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえ ることのおできになる方に」という箇所に強い感銘を受け、そこを小崎に二 度読ませたと伝えられています。
私は新島が受けたと考えられる「影響」を、なるべく証拠を挙げながら論 じていきたいと思います。新島がハーディー夫妻と、アーモスト大学のシー
リー教授から深い影響を蒙っていることは否定できません。
私は竹中正夫先生が『新島研究』の96号(2005)にお書きになった「ニ ューイングランド・ピューリタニズムと新島襄」という論文に大変刺激をう けました。先生はボストンのBeacon Streetにある旧アメリカン・ボードの 本部、すなわち現在のCongregational Libraryの読書室の東側に、対称的に 安置されている二つの大理石像の写真を紹介されました。一人はアルフィー アス・ハーディーであり、今一人はアンドーヴァー神学校のE. A. Park 教授 です。竹中先生はこの二人について、「一人は新島のニューイングランドの 父として、もう一人は新島の神学教師として新島襄に大きな影響を思うとき わめて深い感銘を禁じ得ない」(p.5)と書いておられます。私は竹中先生の この印象的な言葉にうすうす疑問を感じてきました。その理由を説明しまし ょう。新島が「アメリカの父」と仰ぐアルフィーアス・ハーディーはボスト ンのクリスチャン実業家でしたけれど、こちこちの固いピューリタンではあ りませんでした。ハーディーは牧師になりたかったのですが、病気でアンド ーヴァーのフィリップス・アカデミーを中退したため、大学を出ていませ ん。彼は牧師になれなかった代わりに、実業家となってお金をもうけ、それ を神の国の拡張のために使う決心をしました。これはプロテスタント実業家 の正統な論理であり、倫理でもあります。ここでちょっと立ち止まって、ピ ューリタンの実業家というもののイメージを考えてみましょう。皆さんはカ ルヴィニストの実業家をイメージできますか。私には、それが困難です。私 などはお金を儲けることに罪の意識を感じてしまいます。私にはピューリタ ンの実業家を想像することは不可能です。しかし新島の尊敬するハーディー は、立派なクリスチャン実業家でした。新島はハーディーの追悼説教の中 で、ハーディーのこのような一面を紹介しています。
君が好んで美術を愛せし事は、左の奇談を以て相察が出来まする。君 一日イタリアにあり、基督の御譬えの内にある十人の娘を表する二人の 大理石の人形の売物を見て、甚だこれを好みました。然るにその価は三 千弗でありまするにより、余り高価のもの故、これを求むるは或はぜい たくにあらぬかと思案せらるる内、計らずも思い付き、「余が若し少年
のときより喫烟せしならば、今の年齢に至る迄、何本の巻き烟草、何弗 の金を費やせしや。又演戯場に往きしなれば、何弗を費やせしや」と自 ら問い、直ちに鉛筆を把りてこれを算用し見しに、三千弗の上に出まし たなれば、手を摶て「よし」と云われ、そこで人形を求められました。
(同志社編『新島襄自伝』岩波文庫、pp.394-95)
思わず笑えてくる話です。ハーディーの愉快な一面がここに表れています。
その大理石像は現在Wellesley Collegeにあり、礒英夫氏が『新島研究』102 号(p.156)に紹介されたものです。これは新島が募金を訴えたラットラン ドの1874年の年次大会以前の話です。いくら素晴らしい芸術作品であって も、ピューリタンの実業家であれば、3,000ドルもはたくことができたでし ょうか。私はひそかに、ピューリタンであれば、3,000ドルの美術作品をじ っと我慢するか、それを買ったつもりで、3,000ドルを教会か、キリスト教 学校か、アメリカン・ボードに寄附するのではないか、と思います。私はハ ーディーを批判しているのではありません。ハーディーをピューリタンとす る見方に疑問を感じているのです。
ハーディーに関して付加えておきたいことが、もう一つあります。ハーデ ィーはボストンを代表するプロテスタント教会である、オールド・サウス教 会の役員を務めていました。この教会の牧師が欠員になったとき、ハーディ ーは牧師招聘委員会の委員長になりました。慎重に探した結果、George
Angier Gordonというスコットランド人牧師を選びましたが、このゴードン
牧師が珍しくリベラルな人でした。当時としては、アンドーヴァー神学校の パーク教授をニューイングランド神学の代表とすれば、これに対応するリベ ラル派の代表が、このゴードン牧師でした。そして、ゴードンをオールド・
サウス教会に招聘したのがアルフィーアス・ハーディーでした。このこと は、教会の代表としてのハーディーの立場を示す有力な指標です。
有名なアンドーヴァー論争は、ジョナサン・エドワーズからパークに至る 伝統的なニューイングランド神学の正統主義に対する反逆から起ったもので す。ピューリタンたちの、人間の徹底的な堕落性を主張するカルヴァン主義 的人間観に耐えられなくなった人々は、人間の中に無限の可能性と善を認
め、ついには、福音に出会う事なくして死んだ異邦人も、死後になお悔い改 めるチャンスが残されているとまで主張するようになりました。新島はこの 論争を知っていましたし、Future Probationという言葉が新島の徳富猪一郎 あての手紙にも出てきます。しかし新島はこの論争を超越していました。
1884年の秋、ヨーロッパから大西洋を渡ってアメリカにやってきた新島は、
11月2日、アンドーヴァーにいました。この日の新島の行動を調べてみて、
私は不思議な感銘を覚えます。この日は聖日でしたから、新島はアンドーヴ ァーのサウス・チャーチで礼拝を守っています。聖餐式もあり、アンドーヴ ァー神学校のGeorge Harris教授の、生後2カ月半の赤ん坊の幼児洗礼式が 行われました。その幼児はその年の8月15日生れで、名前は父親と同じく ジョージでした。このハリス教授に関して二つのことを付加えておきたいと 思います。ハリスは神学教授として組織神学を教えていました。つまりパー ク教授の後を継いだ人です。もう一つはこのGeorge Harrisは将来新島の母 校アーモスト大学の学長を、1899年から1912年まで務めることになるので す。それは新島の死後のことですから、新島がそのことを知らなかったこと は当然です。新島はこのハリス教授ともつきあっていました。
パーク教授が定年退職するとき、アンドーヴァー神学校の理事会はNew-
man Smythというリベラルな牧師を後任に選びました。パークはこの人事に
反対でした。じっとしておれなくて、水面下でしきりに反対運動を試みまし た。ついに理事会と同等の人事権を持つBoard of Visitorsがニューマン・ス マイスの人事を否決しました。そのVisitorの一人がアーモスト大学のシー リー学長だったのです。その結果先程触れたハリスがアンドーヴァー神学校 に迎えられたのです。アンドーヴァー論争に関する限り、パークとハーディ ーは対立関係にありました。したがってシーリーとハーディーもこの時には 対立したことになります。
その1884年11月2日のことを続けますと、サウス教会での礼拝が終わっ たあと、新島はパーク先生のところで昼食をご馳走になっています。しかも その晩の夕食を神学校の教会史の教授、エグバート・スマイス教授、つまり パークの後任として理事会が推薦したけれど退けられた、ニューマン・スマ イス牧師の兄、のところで頂いているのです。これは驚くべきことです。エ
グバート・スマイスは神学校の教授会を代表する教授でした。パークもスマ イスも紳士でしたから、新島に向って相手のことを特に悪く言ったとは考え られません。新島には、日本の宣教こそが大事であり、神学論争にかまけて いるゆとりはなかったのではないか、と私は考えています。こうしたことか ら、新島の大恩人だったハーディーは、案外リベラルな人だったと私は見て います。
新島のキリスト教についていま一つ付加えます。それは19世紀のアメリ カン・ボード宣教師たちが総てそうであったように、「キリスト教絶対主義」
とでも呼ぶべき考え方です。つまり彼らはイスラーム教や仏教をキリスト教 より劣る宗教と見做していていました。新島は当時の仏教の坊さんたちの堕 落した生活に極めて批判的でした。新島がデイヴィス宣教師を三十三間堂に 案内した時のことです。その日、数多くの仏像に沿って歩きながら、新島は 笑いつつ、こう言いました。「これらの仏像は、冬に貧しい書生たちが暖を 取るのにもってこいですね」と(Davis『新島襄の生涯』同志社大学出版部、
1992年、p.187)。そこには仏教彫刻、ひいては仏教美術に対する尊敬の念が まったく見られません。私としては、「新島先生、そんなことを言っていい のですか?」と詰問したくなります。21世紀の今日、キリスト教絶対主義 を主張していては、世界に平和をもたらすことはできないでしょう。宗教間 の対話こそが必要な現代であります。
ついでにもう一つ付加えます。新島は「罪とは何ぞや」という説教を残し ています。その説教で、罪に対する儒教、仏教、キリスト教の考え方を比較 しています。論語の中で孔子がこのように言います。「罪を天に獲れば、祷 る所なきなり」と。これは、最高の天に対して罪をおかしたなら、どこにも 祈りようがない、ということです。珍しいことに、新島はここでパーク先生 を引合に出し、「ひとたび罪を犯せし上は、必ず神より罰を受けざるを得ず。
又、犯したる罪ならば、その罰を受くべきが当然なり」(同志社編『新島襄 教育宗教論集』岩波文庫、p.184)と、パークが孔子と同じようなことを言 っていると、批判しています。もしパークがそんなことを言ったとすれば、
パークは神学者失格ではありませんか? 新島はパークを誤解していたので はないでしょうか? なぜ、その言葉の後に、神はその独り子を十字架につ
けることにより、人間の罪を帳消しにされたのだ、と付加えなかったのでし ょうか?
新島の信仰内容に切り込もうと努めてみましたが、まだ十分とはいえませ ん。新島の説教と手紙を読み直して、本日の説を補強していきたいと望んで います。
ご清聴有難うございました。