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新島襄と熊本バンドの足跡を辿る : 熊本、水俣、 阿蘇、柳川

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(1)

新島襄と熊本バンドの足跡を辿る : 熊本、水俣、

阿蘇、柳川

著者 田島 繁

雑誌名 新島研究

号 107

ページ 131‑144

発行年 2016‑02‑29

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015600

(2)

新島襄と熊本バンドの足跡を辿る

―熊本、水俣、阿蘇、柳川―

田 島 繁

はじめに

私は「新島襄の足跡を辿る旅」をライフワークとして、今まで7回仲間た ちと歩き、また交通機関を利用して訪れた。

1回目(2005)アメリカ編(ボストン、アーモスト、ラットランド)

2回目(2008)ヨーロッパ編(ヴィースバーデン、サンゴタール峠)

3回目(2009)京都〜安中walk

4回目(2010)安中〜会津〜白布walk、東華学校跡 5回目(2011)大阪〜奈良〜宇治〜京都walk 6回目(2012)風間浦、函館、札幌

7回目(2013)岡山、高梁、玉島、笠岡、今治、松山

今回(2014年)は昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で新島襄を困ら せた徳富蘇峰など熊本バンドや優秀な学生を同志社に送った熊本洋学校、そ

これひろ

して新島が1880(明治13)年秋、蔵原惟郭ら12人の教え子を訪れ、応援・

伝道したその足跡を辿りたいと思う。本井康博著『新島襄の旅した風景』中 九州編1)、熊本編2)は大変参考になった。

『新島襄全集』3, 4) 1880年 10/11 西京発、12岡山着、19今治着、24博

け や おお と

多着、不破宅説教、29芥屋ノ大門見物、11/1大宰府、久留米、3丸太(田 原)坂、戦争アリ人家尽ク焼失、住家一軒土蔵一個残ル砲丸数十ヲ数フ、熊 本着、山城屋泊、4水前寺公園で下村、坂井と、5八代(亀山、上原、松 尾)、12阿蘇谷(市原、宮川、蔵原)、15阿蘇縦断、中松(赤峰宅説教)、17 熊本、19不破宅説教、21新島説教「人種改良論」、岡田、坂井、下村も、25

(3)

百貫港、27風雨で船来ず熊本に、28徳富猪一郎(同年5月同志社退学)新 島訪れ夜11時迄談話(蘇峰蟠り消える)、29熊本去り久留米

4月23日(水)①花岡山「奉教之碑」、②熊本洋学校・教師館ジェーンズ 邸、③徳富記念園、④熊本草葉町教会

4月24日(木)⑤徳富蘇峰・蘆花生家、⑥水俣市立蘇峰記念館、⑦阿蘇

「くらはら館」

4月25日(金)⑧柳川の海老名弾正顕彰碑

[参加者] 畝目襄治、河村隆夫、蔵岡信彦、岸本展、阿部泰士、竹山 由利子、阿部登茂子、坂本清音、田島繁(以上、2013年

「中国・四国編」参加)

+森永長壹郎、高山雄、矢崎邦彦(以上、新島研究会会 員) 合計12人

第一日目

1.1.花岡山「奉教之碑」(碑文は蘇峰の揮毫)

4月23日(水)新大阪8 : 36発さくらに乗り4時間程で熊本駅に到着し た。同志社校友会熊本支部長の木下智夫氏や草葉町教会の岩井、長澤、後 藤、井上各氏の車に分乗し、花岡山「奉教之碑」に到着した。

「碑前祭」

讃美歌461番(主われを愛す)、矢崎牧師お祈り、蔵岡氏詩吟「寒梅」、

全員で「庭上の一寒梅」

と「同志社カレッジソン グ」を歌う。

木下智夫氏のご尽力で熊 本放送と熊本日日新聞社 が取材し放映・掲載され た。

(4)

「奉教趣意書」口語訳5) キリスト教を信じる宣言文

我々がキリスト教を学んだところ大変教えられるところがあった。以後 これを学べば学ぶほど喜びが得られる。そこでこのキリスト教を日本の 国中に伝道し、文明を知り文化を得てほしいと考えるに到った。(中略)

我ら新しい大きな使命をになう青年は一大決心をし生命がけでキリスト 教が公明正大な宗教であることを明確にしていかねばならない。(中略)

志を同じくするものが花岡山に登り、一致協力してキリスト教の信仰を 守ってゆくために次の約束をする。

一.キリスト教を信じる者は、お互いに兄弟としての交わりをもち、

生活全般にわたって、互いに戒めあい忠告しあい良い行いを実行 しなければならない。(中略)

一.今日、我が国の多くはキリスト教を拒否している。それ故に我ら の内たとえ一人でもキリスト教をすてる者は、世間の物笑いにな るだけでなく、我らのせっかくの決意をもふみにじり実行不可能 にしてしまう。ともども努力しようではないか。

1876年1月30日 日曜日 記す

1.2.「熊本バンド」とは

同志社の宣教師が、熊本から来た青年たちを熊本のグループという意味で 呼び始めたことから用いられるようになった。この青年たちは1871(明治 4)年に設立された熊本洋学校で、アメリカ退役軍人ジェーンズ教師の感化 によってキリスト教を受け入れた者たちです。彼らはその思いを「奉教趣意 書」という文章にまとめ、これに署名した35人と後に仲間に加わった者で、

その大部分の青年が創立直後の同志社に転校卒業し、同志社のみならず、日 本の近代市民社会形成の上で大きな貢献をしました。「奉教趣意書」は1876

(明治9)年1月30日、花岡山で行われた祈祷会で朗読して署名されまし た。花岡山にある「奉教之碑」は同志社創立90年記念に寄贈され、1965年 に建立されました。

(花岡山「熊本バンド奉教の碑」解説より)

(5)

1.3.「熊本バンド」とはどのような定義で何人程なのか

本井康博は『徳富蘇峰の師友たち』6)の中で、熊本バンドとは「熊本洋学 校」「同志社」「キリスト教」の三要素を満たす人と定義づけ、現時点では37 人が最も正確な総数に近いと。

⇒その後の『襄のライフは私のライフ』7)では総勢で30数名と。

「奉教趣意書」署名35人−削除14人+復活4人=25人+非署名者2人

(小崎弘道、吉田作弥)+転校生3人(開成学校中退の山崎為徳と横井時雄、

東京英語学校の徳富猪一郎)=30人

(私の予想)

1宮川経輝、2古荘三郎、3岡田松生、4林治定、5不破唯次良(郎)、6由 布武三郎、7大嶋徳四郎、8蔵原惟郭、9金森通倫、11辻(のち家永)豊吉、

12亀山昇、13海老名弾正、15大屋武雄、18下村孝太郎、20加藤勇次郎、23 松尾敬吾、24金子富吉、25古閑義明、26上原方立、27徳富猪一郎(蘇 峰)、28森田久万人、29伊勢(横井)時雄、30浮田和民、31阪井禎甫、32 市原盛宏、36小崎弘道、37山崎為徳、38吉田作弥、39和田正脩、40赤峰 瀬一郎

以上計 30人

(1−35は署名順、36−40は『熊本バンド研究』8)の篠田一人による。アンダ ーラインの人はジェーンズより受洗)

*本間重慶は「明治9年熊本より同志社に入学せる者」として46人を列挙。

(『徳富蘇峰の師友たち』)本間は上記30人以外に、徳富健次郎、大久保真 次郎、原田助、遠山三郎、加藤寛二、不破静象、小崎継憲、藤島健、井手 義久、古賀啓吉、内田康哉、今村慎治、宮川一男、小崎成章、海老名一 郎、不破某ら20人を追加。但し、6, 7. 15. 25はなし。

2.1.熊本洋学校・教師館ジェーンズ邸(水前寺公園に隣接)

熊本藩では洋学校を興し英才教育をしようと考えた。横井大平(小楠の 甥)とその師フルベッキを通して南北戦争の北軍大尉ジェーンズを招聘し た。34歳の敬虔なキリスト者で明治4年9月から熊本洋学校(熊本城内、

現熊本県立第一高校)で、英語で全教科を一人で教えた。

(6)

最初の年、10歳〜15歳の 少年400〜500人受験、入学 者46人。一期生46人中卒業 11人、二期生72人中卒業11 人。5年間で200人強が入学 した。

「下村孝太郎(同志社社長)

の回想」(パネル)〜「質問に 答えられないとネッキストと 言い席次を落とされる。次の席次の人が退校を命じられ私は戦慄し勉強に励 んだ」。毎日成績順に机を入れ替えたので「毎日が試験のようだ」と真剣に 勉強した。

2.2.「熊本洋学校」の教育の特色

①英語で教えた。②自学自習〜答えは教えず自分で調べる。③演説に力を 入れた。④日本初の男女共学(徳富初子、横井みや子)。しかし三年目頃か らジェーンズは自宅で聖書研究会を始めた。熱心なキリスト教信者が出てき た。明治9年1月30日生徒約40人が花岡山に登り35人が「奉教趣意書」

に署名した。これが知れてジェーンズは解雇(再契約拒否)、洋学校は7月 の卒業式を最後に閉校になった。

ジェーンズの斡旋で前年に開校した同志社英学校に卒業生と在校生の内約 40人が転入学した。熊本洋学校の卒業生は俊才揃いなので同志社は急遽余 科(神学科)を新設した。中学校に突然大学(カレッジ)が併設されたよう なもの。視察に来た大阪の宣教師は「アメリカの大学生に引けをとらない」

と。デイヴィスは「試験結果を見て度肝を抜かされた。彼らの答案はほとん どの者がすばらしく完璧です」。「同志社は『京都の熊本洋学校』である」と

(『徳富蘇峰の師友たち』9))。

彼らは熊本バンドと呼ばれ同志社の草創期の発展を支えた。その後日本の 教育界、宗教界、実業界のリーダーとして活躍した。

この教師館は八重さんが篤志看護婦として勲七等と勲六等を受章すること

(7)

になった日本赤十字社の発祥地でもある。それは西南戦争の時、この教師館

たるひと

が征討大総督有栖川宮熾仁親王の宿所となり、佐野常民元老院議官が「敵味 方なく救済する」博愛社の設立を申し出て許可されたからである。

ジェーンズ邸には新島先生及び海老名弾正など10人の熊本バンド(小崎、

横井、下村、原田、海老名、宮川、市原、浮田、徳富蘇峰、不破唯次郎)の 肖像画が架かっていた。

同志社はいかに「熊本洋学校」の生徒のレベルの高い教育に助けられたこ とか。

2.3.『創設期の同志社〜卒業生たちの回想録』

岸本能武太「同志社は当時普通科が5年、其の上に3年の神学科。教科書 は総て英語を用いた。教場の用語は教師も生徒も総て英語。当時教師は西欧 人と日本人と殆ど半して居たが日本人も皆英語で教えた。市原盛宏先生の万 国地理で余は同級十六七人の末席、「グレートブリテン中にある国の名を言 えという問題。十何人将棋倒しでネックストを喰うて遂に私に来た。サウス ウェールスと答えると私は末席から3席に昇進。当時は殆どの稽古がこうい う風で失敗すれば直ぐに席が下り、成功すれば席が上る。学生の間では競争 心が強く、皆負けん気になって先を争った(競争勉強)。毎日の稽古は多く て3時間で土曜日曜休み。稽古は少なかったが1時間の授業に少なくとも2 時間、普通3時間の準備が必要で随分勉強する必要があった。地理、歴史、

数学でも初めから皆英語で問答するから其の準備には大変な時間が懸った。

同志社では演説会は随分盛んで学課の中に英語演説も日本語の演説もあっ た。伝道師や牧師になるには演説や説教が上手にならねばと土曜の夜も自主 的に。政治や学術の演説も盛んだった」10)

熊本洋学校も同志社英学校も全教科を英語で行い、「自学自習」の学習法 も同じ。演説にも力を入れていた。

ジェーンズ邸を訪れる人は少なく水前寺公園の裏門から行けるようにした らもっと増えるだろうにと木下氏に言ったら、「なぜかそこの通行は閉ざさ れている」と。

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3.1.徳富記念園 1)カタルパ

新島襄が蘇峰に寄贈したと言われるカタルパの二世・三世の大木が聳えて いた。5月10日頃白い花を咲かせ熊本の「風物詩」である。園内掲示板に は「カタルパ(4世)の苗木を2006年4月に同志社小学校開校記念として 贈呈した。2009年6月、通常7−8年要するのが僅か3年で開花した」と。

徳富猪一郎著『烟霞勝遊記』11)には、「西洋梓(カタルパ)は、新島先生が 其の種子数粒を書翰袋の中に入れ、淇水翁(蘇峰の父)に米国から齎らし来 りて贈られたもの」と書かれている。蘇峰は東京に行ったが、父(一敬)が 植えたカタルパは大江義塾の庭で成長を続け、6 m 程の見事な大木となっ た。

私が同志社中学校に就職した1968年頃には新彰栄館の前にきささげ(カ タルパ)2世が育っていた。その後、枯れて三世が花壇に植えられ2 m程に 育ち美しい薄緑の花をつけたキササゲ(Catalpa ovata)を「キャンパスの 樹々」として同志社時報113号(2002年)で紹介した。2010年同志社中高 統合で岩倉に移植されたが根付かず枯死した。3年程前、四世が立志舘北に 植えられ美しい花を咲かせた。同志社女子大や女子中高には同志社女子大教 授の秦芳江先生寄贈のカタルパが花を咲かせているが、同志社大学にはな い。昨年八重さんゆかりの「容保桜」が大学キャンパス(礼拝堂の西)に植 樹された。その近くに新島襄ゆかりのカタルパの苗木を徳富記念園から寄贈 していただき植樹したらどうであろうか。同館長の藤井氏とお話ししたら、

「今全国にあるカタルパのDNAを調べたら徳富記念園のと一致する。今年 横浜市の方に数本お分けした。育てるのが大変難しいので予約していただい たら」と。

2)大江義塾跡

蘇峰は同志社を退学して上京したが、新聞記者の夢かなわず熊本に帰る。

同志社在学中の5年間、教育に多大の興味を感じた蘇峰は親が住んでいた家 の一部を校舎にして明治15年3月大江義塾を開校した。教育方針として

「泰西自由主義ニ基キ自由主義ノ教育」を掲げた塾長・蘇峰(19歳)のもと に横井小楠の弟子の武士や豪農の子供たちが集まった。名声が天下に広がり

(9)

明治19年9月の閉塾までの5年間で255人の若者が学び、徳富健次郎ら10 人が同志社に進学した12)

3)徳富記念館

明治19年蘇峰は大江義塾時代の集大成として『将来之日本』(原本)を出 版した。東京の知識人の間で大評判となり、蘇峰はジャーナリストを目指し て12月に一家で上京した。蘇峰の『近世日本国民史』(全100巻)や蘆花の

『自然と人生』など兄弟の著書などが展示されていた。展示品の中で蘆花だ けでなく蘇峰もトルストイと会ったとの記述が目に留まった。調べてみる と、蘆花より10年前の1896(明治29)年に蘇峰はトルストイを訪ねた。原 田助同志社社長が蘇峰に贈呈したトルストイ愛用の杖が今、同大図書館(貴 重室)の蘇峰文庫にあり、見せてもらった。

3.2.蘇峰は卒業1ケ月前になぜ同志社を退学したのか

米国化する同志社に不満。宣教師の態度と鵺のごとき新島夫人の風采と新 島先生に対する馴れ馴れしさが癪に。熊本洋学校とは比較にならず悪い。① 食物、美味しいというものではなかった。麦飯は大嫌い。週1回パン二切れ が非常なる馳走。②宣教師の授業はほとんどなく、教師は熊本洋学校の先 輩。③書物の不足。内容が子供らしくばからしい。

大阪英語学校の教師となっていたジェーンズ先生から書籍代を借り、4−5 冊のウイルソン氏の「万国史」を買い、持ち帰り課程の読本とした。同志社 に留まったのは立派な人格者・新島先生に傾倒していたためである13)。次第 に新聞記者たらんと欲する心が旺盛となった。6月の普通科卒業まで辛抱と 思ったが、学校の都合で上級生と下級生の両級合併決議で上級生の不平が高 じ、申し合わせて退校せんとする騒ぎになった。新島先生の「自責の杖」で 一段落したが、蘇峰と河辺久治と湯浅吉郎が同志社を去る14)。但し,湯浅は 兄に説得され復校した。

3.3.蘇峰はなぜキリスト者になり、またキリスト者でなくなったのか。

新島先生から受洗したのはキリストを信じるというより新島先生を信じ た。新島先生より「人間の生活は畢竟、高尚なる奉仕のためにするもので、

(10)

人間の価値は奉仕する心の純潔と熱誠とによって定まる」と教えられた。し かし、『基督教弁証論』を読み基督教に対する疑いが多くなる。新島先生以 外の宣教師及び主なる基督教信者に対する反発も加わり、正統なる基督教徒 たることに困難を感じた15)

中山道同行(明治15年)で困った事は新島先生が予に向って説教せらる る事だ。如何にして予を再び悔い改めて基督教に復帰せしめんかと終始焦慮 された16)

4.熊本草葉町教会

同志社社史資料室にある原本「奉教趣意書」の複製がこの教会にあり、毎 年1月30日花岡山での「奉教之碑」早天祈祷会を開催している。「奉教之 碑」の土地名義がこの教会になっている。

第二日目

5.徳富蘇峰・蘆花生家 4月24日(木)熊本駅で 新幹線「さくら」に乗り新水 俣駅で乗り換えJR水俣駅に 到着。タクシーで生家へ。蘇 峰が7歳、蘆花が2歳まで過 ごした白壁の家が1790年に 建築された町屋造りで、熊本 県指定文化史跡になってい る。裕福な庄屋の家庭で育 つ。各部屋には「読書百遍義

自通」「処世若大夢」など蘇峰の揮毫がたくさんあった。蘆花がトルストイ と一緒に馬車に乗った大きな油絵もあった。蘆花は明治39年にトルストイ と会い、翌年東京の千歳村粕谷に転居してトルストイに倣った晴耕雨読の生 活を始めたのは有名である。

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やはり生家訪問は味があっていい。他の記念館とは違い息ずかいが伝わっ てきた。

6.水俣市立蘇峰記念館

生家の直ぐ近くにあり、蘇峰が贈った寄付金と2,400冊の本を基に昭和4 年に開館した水俣町立図書館。昭和58年に蘇峰や蘆花の資料を展示する記 念館になった。蘇峰の「老いらくの恋」書簡(原本)が展示され、蘆花の著 書『黒い眼と茶色の目』もあった。私は昭和48年にモスクワを訪れた時、

モスクワ大学日本語学科の日本語ペラペラのガイドの卒論が蘆花の『黒い眼 と茶色の目』と聞いてびっくりした。トルストイと会った日本の作家だった からだろうか。

問 蘆花はなぜ『黒い眼と茶色の目』で八重の暴露話(新橋堂)17)を八重存 命中に公表(大正3年)したのか。⇒本井康博は『八重さん、お乗りになり ますか』でこの問題を取り上げ、八重はこの小説について「いい恥さらしで すね」18)と。新橋堂初版は大正3年12月13日、再版14日、三版15日、四 版16日、五版17日、六版18日と一日毎に版を重ねる。この本が当時いか に反響が大きかったかが分かる。

有明海、八代湾、天草諸島を見たいとの声がありタクシーを飛ばす。チッ ソ工場本社が見えた。この4月に水俣病患者の追加認定の判決がでた。息の 長い闘いだ。

新幹線新水俣駅から乗り熊本駅で乗り変え、豊肥本線で阿蘇へ。途中立野 駅で急勾配のため全国でも珍しいスイッチバックを体験した。阿蘇駅で蔵原

これてる

惟昶(同志社、伊藤博文秘書官)氏の三男、蔵原英雄館長が出迎えてくれ た。

7.くらはら館

これひろ

新島が連泊した熊本バンドの蔵原惟郭と蔵原惟昶の実家跡に建てた立派な 邸宅をくらはら館として一般公開している。庭越しに阿蘇五岳が見渡せた。

蔵原惟郭は同志社中退後欧米に留学し、帰国後熊本英学校、熊本女学校の校

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長となるも辞職して上京。明 治41年から8年間衆議院議 員として活躍した。「赤チョ ッキ」の呼び名で有名な政治 家である。同志社時代には同 志好社を結成し、生徒の風儀 を自主的によくする活動をし た。

『創設期の同志社〜卒業生た ちの回想録』

蔵原惟郭「我々は同志好社

を結成。同志社に非常の勢力あり殆ど絶大の権威あり」。

河辺久治「同心交社(同志好社) 風儀は殆ど学生の理想的であった。学 校が宗教的であったのと同志好社の導きによる。土曜午後会合あり、生徒の 風儀をよくしお互いに悪いことは矯正し合って良好風を作ることに努力。委 員を選出し部屋換えや寮長を定めるなど校内の制度、風儀等は同志好社の権 限内にあり教師たり共一言をも許さなかった」19)←ジェーンズより「不平の 前に自分の学校として学校改革を」と促され、学校に申し出たことによる。

徳富蘇峰は生涯の友惟昶の家に泊り、翌日阿蘇山の遠見ケ鼻に登り「大観 峰」と名付けた。くらはら館の中はいろいろな資料で埋め尽くされていた。

特に肥後北里出身の北里柴三郎家との婚姻関係が目を引いた。蔵原惟郭は北 里柴三郎の妹しう、また兄惟暁は柴三郎の妹いくと結婚している。

私は蔵原英雄館長に「なぜこの阿蘇から市原盛宏、宮川経輝、蔵原惟郭な ど多くの人が熊本洋学校に入り、また同志社英学校に入り、優秀な学者や牧 師、政治家になったのか」と質問したら「余裕のある庄屋が多く、教育こそ が大切との考えが親にあったからでしょう」と。

くらはら館での館長のお話し

(13)

第三日目

8.海老名弾正顕彰碑

25日(金)JRで熊本駅まで行き、新幹線 つばめで筑後船小屋駅に。タクシーで30分、

海老名弾正顕彰碑に到着した。蔵岡氏の友人 上田彰二氏と同志社校友会久留米クラブの秋 島晃二、足立征次、乗富氏の4人と合流し た。まず海老名弾正顕彰碑会長の秋島晃二氏 らと「碑前祭」。蔵岡氏が詩吟「寒梅」、その 後皆で「庭上の一寒梅」「同志社カレッジソ ング」「同志社大学歌」を歌った。「川下り」

の船客から拍手が巻き起こった。祈祷は坂本清音先生。「古蓮」で柳川名物

「鰻のせいろ蒸し」を食べた。新島先生もこの鰻を食べたらきっと旅日記に

「鰻ノ味殊ニ美ナリ」と書いたであろう。顕彰碑建立の経緯を足立征次氏か らお聞きした。

平成7年4月全国統一選挙で遊説中、柳川市新外町の細い路地で車を止め た時、「元同志社大学総長海老名弾正屋敷跡」の小さい碑が私の目に飛び込 んで来た。竹藪に覆われ、草むして余りにも寂しい限りであった。調べてみ ると海老名弾正氏は大変功績のあった偉大な人だと分かった。

*海老名弾正『同志社山脈』20)

1856. 9. 18−1937. 5. 22 牧師、柳川市で誕生。熊本洋学校でジェーンズの 感化を受け受洗。同志社卒業後は安中、前橋、東京、熊本、神戸で伝道。雄 弁家で知られる。本郷教会では雑誌『新人』を刊行し、吉野作造らを指導し た。熊本バンドとしては最後の同志社総長(第8代)。吉野作造の手を借り て住谷悦治など東京大学から確保。法学部を中心に絢爛たる「同志社アカデ ミズム」を招来し、大学令による「大学」昇格(1920年)直後の学園の充 実振りは目を見張る。天皇が京都御所に宿泊中、有終館火災(1928年)で 責任をとり辞職。三期(8年8ケ月)勤め引退した。

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同志社校友会久留米クラブが中心となり、10年前に顕彰碑を建立した。

碑文は大谷實同志社総長の直筆である。今年は10周年だから是非大谷総長 に来て頂きたいと。昼食後、海老名家の菩提寺「真勝寺」と「同志社大学 歌」の作曲家北原白秋の生誕記念館を訪れた。新島先生はなぜ柳川を、海老 名宅を訪れなかったのかと思った。

熊本と柳川の同志社校友の皆様、及び蔵原英雄館長のお蔭で、私たち12 人は楽しく効率的に新島襄と熊本バンドの足跡を辿ることが出来ました。大 感謝です。

参考文献

1)本井康博『新島襄の旅した風景』中九州編「熊本バンド」の里めぐり ワンパー パス

No.143

号(同志社大学編、2005. 6月号)、pp.20−22.

2)本井康博『新島襄の旅した風景』熊本編 百貫港からの旅立ち ワンパーパス

No.149

号(同志社大学編、2006. 12月号)、pp.7−10.

3)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』5巻(同朋舎、1984年)、pp.91−118.

4)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』8巻(同朋舎、1992年)、pp.207−213.

5)熊本バンド

136

周年記念早天祈祷会式次第に記載。口語訳矢崎邦彦元熊本草葉町 教会牧師

6)本井康博『徳富蘇峰の師友たちー「神戸バンド」と「熊本バンド」』(教文館、

2013)、pp.61−74.

7)本井康博『襄のライフは私のライフ』新島襄を語る・別巻( 四 )( 思 文 閣 、

2014)、p.85.

8)同志社大学人文科学研究所編『熊本バンド研究』(みすず書房、1965)、pp.29−32.

9)本井康博『徳富蘇峰の師友たち』(教文館、2013)、pp.71−72.

10)同志社社史資料室編・発行『創設期の同志社〜卒業生たちの回想録』(1986)、pp.17

−29.

11)徳富猪一郎『烟霞勝遊記』(民友社、1924)、p.225

12)花立三郎『大江義塾−一民権私塾の教育と思想』ペリカン社

1982

5

月、

p.83. p.182. p 249.

13)徳富猪一郎・三宅雪嶺『日本人の自伝

5

徳富猪一郎・三宅雪嶺』(平凡社、

1982)pp.55−57.

14)同上

pp.76−81.

15)同上

pp.73−75.

(15)

16)同上

p.105.

17)徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』(新橋堂、1914.12.13)、pp.186−188.

18)本井康博『八重さん、お乗りになりますか』新島襄を語る・別巻(二)(思文閣、

2012)、pp.44−56.

19)同志社社史資料室編・発行『創設期の同志社〜卒業生たちの回想録』(1986)、

pp.106−109.

20)同志社山脈編集委員会編『同志社山脈

113

人のプロフィール』(晃洋書房、

2003)、pp.20−21.

現地で取得したパンフや資料

熊本バンド早天祈祷会、熊本洋学校教師館ジェーンズ邸、徳富記念園、徳富蘇峰・蘆 花生家、水俣市立蘇峰記念館、阿蘇・西町くらはら館、郷土機関誌すいきょう(柳 川)

写真提供

「くらはら館」(田島繁)以外は一緒に足跡巡りした高山雄氏(京都自由写檀協会会 員)

参照

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