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真下五一『小説 新島襄』を読む

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真下五一『小説 新島襄』を読む

著者 北垣 宗治

雑誌名 新島研究

号 101

ページ 53‑74

発行年 2010‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012999

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1.いまなぜ『小説 新島襄』か?

 私は『新島研究』100号(2009年2月発行)が企画した特集「新島襄の伝 記をめぐって」において、「はじめに」と題して簡単な序文を書き、その中 に新島襄の伝記としておもなもの17点を、発行順に挙げた。新島の伝記を 系統的に調べるためにはこれはどうしても必要なリストであると考えたか らである。ところが、これについて、松井全氏から、真下五一(1906−

1978)の『小説 新島襄』(上毛新聞社、1977)もリストに入れるべきであ る、というコメントが社史資料センターに寄せられた。私はこの作品の存 在を知っていたし、部分的には読んでいた。というのは、かつて新島懸賞 論文の査読をしていたとき、真下五一から引用している高校生があった。

その高校生が感動した箇所が、実は途方もないフィクションであることに 気づいたのであった。「小説」と銘打っている以上は、そこにフィクション が書かれているからといって、それをとがめるわけにもいかないと考え た。私が真下五一の『小説 新島襄』を伝記のリストに入れなかったの は、そういう理由に基づくのである。

 ではその高校生はどのようなエピソードに感激したのであったか? そ れを紹介してみよう。文久元(1861)年の春、安中藩主板倉勝殷がお国入 りすることになる。18歳だった新島七五三太はその時藩主の護衛隊の一員 に加えられ、初めて江戸から父祖の地安中まで歩いて行った。藩主が安中 城に滞在していたときのことである。ある晩七五三太は城内で夜の見張り に立っていた。そのとき垣根を乗越えて忍び込んだ曲者を見つけ、七五三 太は首尾よく曲者を取り押さえる。しかし彼は曲者がまだ若い男であり、

北 垣 宗 治

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前途ある人間だと見込んだので、男の不心得を諄々と諭した上で逃がして やるのである。この事はのちに仲間たちに感づかれ、深刻な問題に発展し かかったのだが、横井という家老の英断により、藩主には報告せず、

七五三太にはお咎めなし、ということになる。論文を書いた高校生は、こ のフィクションに示された七五三太の勇気とヒューマニズムに感動したの であった。

 ところで真下の『小説 新島襄』によると、新島は3年後に、あの時安 中城で助けてやった曲者に函館の波止場で再会するのである。新島は函館 で師事すべき教師を捜し求めて、ある日波止場をぼんやりと眺めていた。

その時一人の見知らぬ男から声を掛けられた。それは誰あろう、安中城に 忍び込んだ3年前の曲者だったのである。彼は今では函館で沖仲仕をしな がら生計を立てていた。そしてこの沖仲仕のあっせんによって、新島はロ シア人神父ニコライに紹介され、神父の家に住み込み、そして『古事記』

を一緒に読むことになったのである。なお、真下は小説の最後のページ で、その男の名前は沢辺辰馬であり、「曾ては坂本竜馬とも喧嘩別れをし、

倒幕運動に奔命したこともある男」(p. 406)だった、と種明かしをしてい る。函館で新島が知合いになった友達は沢辺数馬であったと私たちは承知 しているが、真下はそれを辰馬という名前に変えて使っている。しかし、

土佐藩出身の沢辺が、安中藩主板倉勝殷を暗殺しなければならない必然性 について、真下は何一つ説明していない。要するに話を面白くするための 工夫であろうが、私はこの途方もないエピソードに最初にでくわしたた め、『小説 新島襄』は要するに小説であって、伝記ではない、と決めてし まった。しかし、新島襄全集第八巻の詳細きわまる新島の年譜を編集した 松井全氏ほどの人が、わざわざコメントしてこられた以上は、真下の『小 説 新島襄』と、真面目に向き合ってみる必要があると考えた次第であ る。この作品は私が思い出す限りでは『新島研究』で取り上げられたこと もないし、新島研究会で話題になったこともなかったと思う。当然誰かが 取り上げて論じるべき作品だったのではなかろうか。

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2.小説と伝記

 ここで少し、伝記と小説の関係について考えておきたい。問題となるの は、伝記と小説で、同一の人物が扱われる場合である。伝記は人間の歴史 であるから、何よりもまず正確でなくてはならない。これに対して小説は 伝記的事実に必ずしも忠実である必要はない。主人公が何者であったの か、主人公は何を信じてどのような生き方をしてきたのか、主人公を支配 してきたruling passionは何であったのか、と言った点を、文学的な手法を 用いて描写していけばよいのである。しかし伝記は事実や出来事を正確に 伝えなくてはならない。伝記もまた文学的な手法を用いて、主人公を魅惑 的な人物に描こうとする。伝記が正確であろうとする余り、沢山の脚注を つけたり、読者には読みにくい引用文を沢山用いたりすると、主人公の人 間性が生き生きと伝わらない恐れがある。他方小説の方は、主人公の本質 を表現しようとして熱心になる余り、フィクション過剰におちいるきらい がある。真下五一は『小説 新島襄』の或る箇所でこんなことを述べてい る。「小説というものは虚々実々で、ただ真実を追うだけでは成り立たず、

小説には小説としての真実というものがあるものである」(p.  119)。これ は、小説としての真実はフィクションを通して表現されるのだ、という主 張である。

 Somerset  MaughamにThe Moon and Sixpence(1919)『月と六ペンス』

という作品がある。読み始めると面白くてやめられなくなるような小説で ある。主人公はCharles  Stricklandという、ロンドンの証券取引所に勤務 する平凡な中年男であるが、ある日突然勤め先をやめ、妻子を捨ててパリ に行き、画家としての生活に入る。彼は極端な貧困の中にあって餓えをし のぎながら絵の修業に励むのだが、彼にはある種の魅力があったとみえ、

彼を生活面で支援する友人が現れる。献身的に彼に仕える女性も登場す る。しかし彼は、自分は天才なのだから、人々が自分を助けるのは当然の ことだと考えて、平然とエゴイズムを貫いていく。彼のために献身した女 性をも平気でふみにじり、彼は南海のタヒチ島へ移住し、原住民の間で暮

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らしながら、絵を描き続ける。物語の語り手は画家の死後にタヒチ島を訪 れ、画家が最後に描いた圧倒的な大作を眼にして、彼が本当に天才であっ たことを悟るのである。読者はいつしかこの物語を後期印象派の大物の一 人であるPaul Gaugin(1848−1903)の話として読んでいることに気付く。

天才というものは、人間としての道徳的義務を無視しても許されるか否 か、という問題提起をする作品であるが、それよりもむしろ、これこそは ポール・ゴーギャンに関する真髄、真の姿であった、という印象を強く与 える作品なのである。

 かつてドナルド・キーン教授がこんなことを述べた。「私は平清盛につ いて、どんな歴史家が書いた記述よりも、『平家物語』に描かれている清盛 の方を真実の姿であると考えます。」

 最近、岩波文庫の一冊として佐藤春夫(1892−1964)の『小説永井荷風 伝』が出版された。タイトルに「小説」とついているが、読んでみると、

これを永井荷風の評伝であると主張していけない理由は何もないように思 われる。それではなぜ頭に「小説」という二文字をつけたのだろうか? 

それは、作家が、正面から「伝記」と銘打つには資料を徹底して調べてい ない場合、伝記的事実に多少のまちがいがあっても、当該人物の本質は描 けると考える場合、この「小説」という言葉は極めて便利である、という ことによるのであろう。真下は新島襄に関してかなりのところまでよく調 べているが、多くの点で、不正確な記述をしている。まるで真下は「我は 新島襄に関して不正確なるを恥とせず、されど我は彼の本質を表現するを 得たり」と主張しているかのようである。

 さて、これから真下五一の『小説 新島襄』を具体的にみていきたい。

3.『小説 新島襄』の特色

 『小説 新島襄』は、新島の全生涯を扱っている。すなわち真下は新島の 誕生から少・青年時代、脱国、アメリカでの9年間(ヨーロッパの教育事 情の視察を含む)、帰国、同志社英学校設立、結婚、キリスト教主義教育者 としての活躍、大学設立運動、そして永眠に至る。伝記という場合は、真

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下がやったように、一人の人物の生涯の全体を扱うのでなければ、伝記の 名に値しない。私はリストの中に、根岸橘三郎の『新島襄』を入れたが、

根岸は同志社創立までで筆を折っているので、伝記としては失格となるの だが、他の伝記のうかがいしれない新島家の資料を利用しており、後の伝 記に深い影響を与えたという事実を無視することができないので、敢えて 伝記に入れた。他方河野仁昭氏の『新島襄の青春』(同朋舎、1998)は『新 島襄全集』をふまえた優れた作品であるが、残念ながら前半生だけで終っ ている。伝記としては前半だけで、後半がないという理由から、私のリス トに入れなかった。その点で、真下五一はこれから私が指摘するようない ろんな問題点をかかえながらも、新島の全生涯をたどったという点で評価 されて然るべきであろう。

 松井全氏が『小説 新島襄』を伝記のリストに加えるべきだと考えられ る理由の一つとして思い当たることがある。真下はこの本のある箇所では 非常に正確な記述をしている。一例を挙げると、新島が藩主を護衛しなが ら安中を初めて訪れたとき、早々に前の藩主、板倉勝明の墓参をしてい る。真下はこのように書いている。

 板倉五家の中では江戸の渋谷若木の吸江禅寺に葬ってあるものが多 いが安中板倉家の場合はいつもこの吸江寺で荼毘に付したあと、三河 国の西尾にある萬燈山長円寺に葬るならいになっていた。この方も禅 寺で、京都所司代板倉勝重の開創になるもの、山門前のゆったりとし た石段を上ると美しい松ののぞく本堂の構えであった。

 そこの墓地に初代重形公から並んで第七代勝明公の墓がもう出来て いたが、それは意外と粗末な二段の台石に、頭の尖った石柱であっ た。(p. 74)

 これを読むと、真下は板倉家の菩提寺に関する情報を、厳密な伝記作者 の正確さで伝える努力をしていることが明らかであり、松井氏は恐らくこ のような面を評価されたのであろうと私は推測する。

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3.1「平和主義者」新島襄

 あらゆる伝記作者の背後には、しばしば抜きがたい信念が秘められてい る。それは「この人をみよ」という主張である。真下五一もまた彼なりに 新島襄を指し示し、この人をみよ、と言っているのである。真下は新島を 天才として、あるいは英雄として描いているわけではない。かといって、

平々凡々の人物として描いたわけでもない。たしかに普通よりは優れた人 物として描いている。私にはどうも真下の新島を特色付けるのは、平和主 義者としての新島ではなかろうかと思うのである。つまり上毛カルタの

「平和の使徒(つかい)新島襄」に導かれたイメージである。複数の証拠を 挙げてみよう。

 ①藩主板倉勝殷が警護の武士たちに守られながら江戸から安中に行くと きの話である。藩主は熊谷の旅籠に宿泊する。新島七五三太を含む護衛の 者たちは、交替しながら、夜通し刀の抜き身を月光に照らしながら番をし ている。そして真下の七五三太はこんな感想を抱くのである。

 「なんでこのような物騒なものを持っていなければならないのだろ う。なのに、その物騒な抜き身をひっさげているのが今、まぎれもな くこの自分だとは…」(p. 71)

 七五三太はこのように自分の現状を反省する若者として描写されてい る。人を切るための武器である刀についての七五三太の、根強い嫌悪感が 表現されているように私には読めるのである。

 ②次は、はじめに紹介した、安中城内での見張りに立っていた七五三太 が、忍び込んできた曲者を捕らえるというエピソードである。曲者は藩主 の寝所に迫ろうとして、さっと刀を抜き、鞘を捨てた。「何者かッ!」と 七五三太は一喝する。曲者は脱兎のごとく逃げ出す。けれども高い塀を一 挙に飛び越えることができない。塀の側の松の木に登りかけるが、手足を すべらせて仰向けに落ちてきたので、七五三太はやすやすと曲者を取り押 さえることができた。曲者は殺されるものと観念する。しかし七五三太は 刀を抜かない。七五三太は曲者から静に身を離し、曲者が落とした刀を返

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してやり、なぜこんなことをしたのかと聞く。「わっしはただ殿の一命を 奪うことで正しいまつりごとの返ることを願ったにすぎない。…」と、相 手は答える。七五三太ははじめ曲者を縛って届け出ようと考えていたが、

届け出ればこの男は殺されるにきまっている。七五三太は結局彼を闇の中 に逃がしてやるのであるが、その前にこう言い聞かせる。

 「…いかなる理由があろうとも、暴力は暴力だろう。圧政を憎んで いるというが、お前の暴力もまた憎まれてしかるべきことだというこ とは解っているのか。武士武士というが、その武士なんてものが、そ もそもお前の信念にむじゅんしているところはないというのか。…」

 「黙っているところをみると、お前も少しはそのむじゅんに気付い ているからだろうな。だったら、他を責める前に、まず自分の方を責 めて、そのむじゅんを解決してから行動に移すべきではなかったの か」

 「人をあやめるなぞという刀沙汰は今日限り、それこそ魂の底から 切り落としてしまうがよい。いや、その点このわたしとて恥ずかしい のだが、今はやむなくつけさせられているこの腰のものも、一日も早 く持たなくてすむようになる日の到来を祈っている点ではお前と同様 かもしれぬ。だからこのような腰のものにいきどおりを覚えているも のは、決してお前だけではないのだ。ひとり武家政治のことだけでな く、いっさいの封建の垣を払って、真の和と平等の訪れを祈らない日 とてはないのだ。けれども、その希望を達するのに、現在の制度のよ うな惰性や力を逆用する卑怯なまねはしたくないものだ。堂々と学問 の力、新しい文明の力というか、そこは天理によって解決していきた いものだ。刀一本の力など天の意にかなわないばかりか、結局は一時 の成功みたいに思えるだけの繰返しにすぎないだろう。ほんものは決 して刀の力などでもたらされるものではない。…」 (pp. 87-88)

 以上のセリフからわかることは、真下の新島は刀に対する嫌悪感が顕著 であるということ、それに封建的な武家政治に対する批判精神が旺盛であ ることである。学問と新しい文明への憧れに満ちた平和主義がそこにあ る。函館からベルリン号に乗るとき、刀を持っていったのは、函館で捨て

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る場所がなかったからだという。ベルリン号で、一人の船客から英語を 習ったとき、余りの無礼に立腹して刀に手をかけようとして、辛うじて思 いとどまったというエピソードを、真下は取り上げていない。揚子江の河 口で、七五三太が刀を海に投げ捨てようとするとき、それを止めたのはセ イヴォリー船長であったとしている。

 ③次に引用するのは、函館において友人となった福士卯之吉に述べた新 島のセリフである。

 「…わたしが海軍伝習所へ入って航海術を修めましたのも、その頃 はたしかにまだ日本が海外の諸国におとらぬ強国になることが急務だ と思っていたことにもよったものでした。…でも、今は違います。強 国ということにはどうしても武力のことが先立ちがちだからです。外 国に対しても軍艦を造って大砲でたちうち出来ることが強国につなが るように考えられがちだからです。…それで、強国になるようにねが う気持は今は全く一掃しました。それは強国というのではなくて、世 界に恥じない文明国になるということです。…正しくて、明るくて、

真の自由をもった国ということです。」(pp. 138-39)

 ここではすでに、軍事力よりは文明の方を求める新島が発言している。

新島がこの心境に至るまでには、一種の精神革命を経なくてはならないと 私は考えるのだが、その意味での精神革命ないし回心を、真下はどうも描 写していないように思うのである。

3.2 真下のキリスト教及びキリスト教徒についての考え方  私自身の偏見かもしれないが、敢えて言うならば、クリスチャンでない 人が新島の伝記を書く場合には、クリスチャンとキリスト教を買い被る傾 向がしばしば現れるようである。真下の『小説 新島襄』を読んでみる と、著者がクリスチャンでないことがすぐにわかる。それは、クリスチャ ンであれば犯す筈のないような間違いが出てくるからである。たとい誰か が、真下が洗礼を受けたクリスチャンであることを証明されたとしても、

私は真下が教会生活をしたことのない人であると主張する。その理由は、

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真下がクリスチャンのことを繰返し「神の御子」または「神の子」と表現 するからである。「神の御子」というと、クリスチャンは天地万物の創造者 たる神の独り子、イエス・キリストだと理解する。一般のクリスチャンを

「神の子」と呼ぶことはまちがいとは言えない。すべての人は神によって 創られたのだから、人間はすべて神の子であるには違いない。真下は、ク リスチャンは神に属する人達であるから「神の子」と呼ぶのであろうが、

通常クリスチャンたちは自分を神の子とは呼ばない。だから、『小説 新 島襄』の序章において住谷悦治元総長が、湯浅八郎元総長と一緒に安中を 訪問した時、親切に二人を車にのせて案内してくれた人が、新島の両親が かつて住んでいた家の隣にあった家の現在の持主であることがわかったと きの住谷総長のセリフに、私は違和感を覚えるのである。「これはまた何 と珍しい、何という幸運でしょう。偶然に道を尋ねたその御一家が同じ新 島先生の神の子で、道に迷っている吾々を助けて下さるなんて…」(p. 8)。

 次に紹介するのは、新島自身が、同志社英学校の第一回の卒業式で冒頭 に述べる言葉であって、私はこれにも大きな違和感を覚える。真下の新島 はこのように言う。「卒業式は卒業生のものであらねばなりません。それ なのに学校側が威圧で形をととのえようとするなどは全くもって主客転倒 のやり方というものでしょう。ですから他の学校のことは知りませんが、

吾が同志社英学校におきましては、神の御子を送り出す心でこの式をはじ めたいものだと思います」(p. 328)。この場合、「神の御子」は、神によっ て創られた、神に仕える若者たち、といった意味であろうが、それにして もこれは不自然な表現である。

 もう一つ。山本覚馬と、新島八重の母に当たる山本佐久は同志社女学校 の舎監となったとき、自分の婿である新島襄に洗礼を申し出る。「『どうぞ わたくしにも、先生の手で洗礼を…』と、自ら佐久は襄に申し出て、襄の 手でおごそかに神の御子となったのであった」(p. 317)。

 次は新島の大恩人であるAlpheus Hardyをめぐる話である。ハーディー はボストンの著名なクリスチャン実業家であり、アメリカン・ボードとも 深く関係し、ながらくボードのPrudential  CommitteeのChairmanを務め た。私は1975年にデイヴィスの『新島襄の生涯』を訳したとき、Prudential 

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Committeeのことを「運営委員会」と訳したことを後悔している。現在で はむしろ、魚木忠一教授に倣って、「アメリカン・ボード最高審議委員会の 議長」という表現を提案したいと思う。単なる運営のための委員会ではな く、あれは最高の審議機関だったからである。ハーディーはそのチェアマ ンであった。真下はこのハーディーを非常に影響力の強いクリスチャンに 仕上げてしまった。ワイルド・ローヴァー号のテイラー船長のキリスト教 信仰はハーディーの影響であるとし、事もあろうにベルリン号のセイヴォ リー船長の信仰もまたハーディーの影響だとするのである。そのため、セ イヴォリーもまたチャタムの出身ということになっている。そんなことは ありえない。セイヴォリーはセイラムの出身であり、ハーディーに雇われ たことは一切ないのである。

 次に紹介するのは、ワイルド・ローヴァー号がボストンに着いたとき、

テイラー船長が新島に、やがてハーディー氏が君を引受けてくださるよ、

と告げる場面である。テイラー船長が言う。

 「それにね、この世話して下さる人はね、まんざら君に縁がないでもない 方なんだよ。このワイルド・ロヴァー号の持ち主のことは、そら、いつか 君に話して聞かせたことがあったろう。そのアルヒュース・ハーディーさ んが、つまり君を引きとって下さることになったんだよ」(p. 173)

 慎重なハーディーがまだそのようにきめたわけでもないのに、真下の描 き出すテイラーはもうそんなことを新島に請合っているのである。これに 対して新島は答える。

 「ああ、そのハーディさん! 熱心なクリスチャンで、その感化でテイ ラー船長もクリスチャンになられたという。…」

 「そうそう、その人だ。ハーディーさんから感化を受けた者は何もこの おれだけのことではなくて大勢いるんだよ。ほらセヴォリーも船長を一つ 首になったって、それが人のためにつくして受けた仕打ちなら、少しも悲 しむことはしないんだよ。きっと神がいや、ハーディーさんが拾って下さ るだろうからね。それほどハーディーさんの胸は広くて大きいんだから、

君もきっと安心していいよ」(p. 173)

 真下の描くワイルド・ローヴァー号には、クリスチャンの雰囲気が備

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わっていたというのである。その描写はこのようになっている。

 「海の怒る日には全員が一丸となってテイラー船長の指図通りに実に機 敏に身をこなす。それは陸にある人の誰も想像できないほど信頼と統制の とれたものであった。…

 ジョーは期せずして、その姿に聖書の節々を目のあたりに見ている思い がするのであった。そういえばテイラー船長以下も殆んどがクリスチャン だったようである。初めはそうでなかったのであろうが、船長の感化だっ たのであろう。…

 また海には凪ぎの日もある。これが大洋のただ中かと疑うほどに、静か な鏡の上をすべるように行く時もある。そんな折りのたのしさはまた海上 ならではの格別のものである。

 ローヴァー号でも先のベルリン号の時と同様に、そうした折りには船員 たちはのんびりと羽根を休め、そして聖書を読むことが多かった。トラン プ等に興ずることもあるが、陸に上ると時に荒っぽくなりやすい海の男た ちも、海上では全く人が変ったみたいにみえるのであった」(p. 164)。

 真下五一の描くワイルド・ローヴァー号は、まさしくキリスト教的理想 郷である。そんな船があれば乗ってみたいものだ。事実はどうであったか というと、テイラー船長はジョウに向って、後甲板を居住区域とする船員 たちと付き合ってはいけないと、固く交流を禁じたのであった。それは ジョウのような純真な青年をつき合わせるには、度し難いほど荒くれた船 員たちだったからである。テイラー船長を敬虔なクリスチャンと見做した のは真下だけではない。私の尊敬する河野仁昭氏ですら、同じ傾向を示し た。比較のために河野氏の『新島襄の青春』(同朋舎、1998)から引用す る。最初はベルリン号のセイヴォリー船長のことである。

 「船長はときおり英語の聖書を読んでいることがあった。それがキリス ト教の聖書であることは、ニコライとの生活によってわかっている。人に 対して優しくするようキリスト教徒は聖書によって教えられているのかも しれない。ニコライもそうだった。その聖書のことを教えて下さいと 七五三太は頼んでみたこともあったが、船長はまるで恥ずかしいところで も見られたかのように、『まア、そのうちにな』といって、ぱたんと聖書を

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閉じてしまうのだった」(pp. 119-20)。

 河野氏はテイラー船長については次のように書いている。

 「テイラー船長は朝夕聖書を読み、お祈りをしていた。英語や聖書につ いての新島の質問にも、丁寧にこたえてくれたし、船の測量方法や観測機 器の扱い方を手にとって教えてくれたので、測量技術は担当の船員の代理 がつとまるほど向上した。航海日誌の付け方も教えられた。テイラーの親 切心はやはり聖書の教えによるものだと、新島は信じた。セイヴォリー以 上にこまやかに面倒をみてくれるのは、セイヴォリー以上に熱心に聖書を 読んでいるからにちがいあるまいと思われた」(pp. 127-28)。

 河野氏はこのように、セイヴォリーとテイラーの親切心の度合いは聖書 をどれだけ読んでいるかに依存するかのように述べている。しかしこれら はすべて想像の産物にすぎない。周知のように、テイラー船長は1869年12 月にボストンの埠頭で事故死した。真下はこのときのことを、突堤と船の 間に落ちた少年を救おうとして、テイラーが代わりに自分の命をささげた のだとしている(p. 210)。このように、テイラーはあくまで崇高なクリス チャンであったと真下は言うのであるが、実際はどうだったのであろう か。アーモスト大学の四年生だった新島は船長事故死の知らせを受けると すぐボストンのテイラー家にかけつける(真下はチャタムまでかけつけ た、と述べているが)。新島は言葉にならないほどの深い悲しみに襲われ た。その時新島の心を更に一層悲しくさせたことは、テイラー家の人々が クリスチャンらしくない仕方で振舞っていたことだった。具体的にはどう いう状態であったのか、はっきりしないが、テイラー家の遺族たちには、

福音によって救われた人々の感覚がない、と新島は強く感じた。それに、

テイラー船長とは、生前に一度も聖書や信仰について話し合ったことがな い、ということも思い出した。そこで、新島はテイラー家の遺族にあて て、救い主イエス・キリストを受け容れなさいと痛切に奨める手紙を書い たのである。その手紙は新島襄全集の第6巻(pp. 61-64)に入っているが、

新島襄の福音主義がこれほどストレートに、烈しく表明された文章は外に 見当たらないのである。

 真下は、福士卯之吉をもクリスチャンに仕立てている。

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3.3 アメリカ社会を正しく理解する事の難しさ

 十九世紀のアメリカの社会と社会習慣を理解することは、極めて困難な 問題である。新島襄を研究する人は、常にこの困難と立向かわなくてはな らない。何しろ新島襄はそのアメリカで十年間も暮していたのだから。

『小説 新島襄』にもいくつか、当時のアメリカに対する誤解のようなもの が見られる。

3.3.1 黒人問題  新島襄には黒人との接触はほぼなかったと私は理 解している。真下は新島が初めてハーディー家を訪れる場面をこのように 描写している。それは、ハーディーが、停泊中のワイルド・ローヴァー号 で、テイラー船長から紹介された日本青年に興味を持ち、翌日自分の家に 来るように言った、という設定になっている。

 「ハーディーの広壮な邸宅は、ジョイ街の四番地にあった。ヒマラヤ・シ ダが美しい列をつくって芝生の上に影をゆらいでいる広い前庭をひかえて いた。…

 ハーディー家でもちゃんと心得ていて、玄関番の黒人もニコニコと迎え 入れてくれたし、広い応接間で待つ間もなく気軽に出てきたハーディー は、直ぐ夫人とも会わせてくれたのだった」(p. 176)。

 私はここで、ハーディー家に黒人の玄関番がいたかどうか、疑問に思 う。黒人を召使として使う習慣が1865年頃のボストンにあったかどうか、

大いに疑問である。ハーディー家にメイドは恐らくいたであろうが、その ことを調べるのはなかなか大変なことである。しかし真下が、ハーディー 家ほどの家ならば、サーバントやメイドを使っていただろう、サーバント なら、当然黒人である、と簡単に類推したことに疑問を感じるのである。

しかしこれは非常に難しい問題であって、アメリカ人に質問しても正しい 答が返ってくるかどうかわからない。これと関連して思い出すことがあ る。新島襄を扱ったある映画の中に、有名なラットランドのアメリカン・

ボード年次大会のシーンがあった。新島のアピールに感動した一人の農夫 が、新島に帰りの汽車賃のつもりだった金を捧げたという場面で、映画で はその農夫が黒人だった。1874年当時、ヴァーモント州に黒人の農夫が存

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在したとは考えられない。ハーディー家の黒人の玄関番とともに、これは 今後繰返されてはならない間違いであると、私は考える。

 真下はハーディー家が堂々とした一軒家であったとしている。真下は4  Joy  Streetを見に行く機会がなかったであろうから、この間違いはやむを えないと考える。

3.3.2 外国人の登録とミドル・ネームの問題  真下の『小説 新島 襄』でびっくりするのは、新島が初めてハーディー家に招かれて最初の食 事をするとき、ハーディー夫人が新島のことを今日からハーディー家の一 員だと宣言し、しかもハーディー氏が新島を養子として入籍の手続をとる 話をすることである。あまりにもとんとん拍子に話が進む。真下の本で は、ハーディーのセリフはこうなっている。

 「『ジョー、きょうは君の養子としての入籍手続きをしたいと思うのだが ね。名前はジョーでいいのかね。ジョーというのはテイラーがつけてくれ たということだが、もとの名は何といったのかね』

 ハーディーはこのままにしておいては旅券なしに入国した者として帰国 を命ぜられることになるので、それを救うためからも正式に自分の養子と することにして、その筋と交渉してくれることになったのである」(p. 

178)。

 こうしてハーディーはジョセフ・ハーディー・ニイシマという名前で、

ハーディー家の養子ということで役所に届け出たと書かれている。何とも 親切なAlpheus Hardyである。しかし、事実はどうであったかというと、

ハーディーは新島と養子縁組をしたわけではなかった。もし本当に養子縁 組をしたのであれば、ハーディーが1887年8月7日にボストンで死去した とき、莫大な遺産が新島に来た筈である。しかしそのような事実は一切な い。

 日本人には必ず戸籍がある。戸籍を持たない日本人はいない。ところが アメリカは外国からの移民が創った国であって、戸籍というものはないの である。それでは税金とか、徴兵の制度はどうなっているのかというと、

税金は税務署が申告にもとづいて納税者名簿を作って管理している。アメ

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リカでは1973年以来徴兵制は廃止されているが、徴兵制度をいつ復活して も す ぐ 対 応 で き る よ う に18歳 か ら25歳 ま で の 男 子 はSelective  Service  Systemに登録することを求められており、ほぼ90%の青年が登録してい るそうである。私は昔マサチューセッツ州ケンブリッジで、娘をカトリッ クの幼稚園に入れようとしたところ、娘の出生証明が必要といわれた。出 生証明書はどこで発行してもらうのですか、と訊くと、お母さんが、この 娘を何年何月何日に、どこで産んだかを書いてサインすればよろしい、と 言われた。戸籍のない国であるから、出生証明書は、母親が発行できるの である。新島の場合、旅券なしで入国したからといって、帰国を命ぜられ るということはなかった。ハーディーが、私がこの男のスポンサーである と宣言し、授業料を払えば、新島はPhillips Academyに入学できたのであ る。十九世紀後半から二十世紀にかけて、アメリカで移民がいつ、どのよ うに制度化していったのか、この問題は州によっても違うのであり、事柄 は複雑である。

 次は新島のミドル・ネームの問題である。新島は英語でサインするとき にはJoseph  H.  Neesimaだった。このH.はもちろんHardyである。これは 動かない事実である。真下ははっきりと養子縁組説を採用しているので、

「役所への届出」のときにHardyというミドル・ネームを与えたことにし、

これが養子としての動かぬ証拠であるといわんばかりであるが、事実はそ うではなかった。本井康博教授も、このミドル・ネームはハーディーが与 えたもの、という風に理解されている(『魂の指定席』、思文閣出版、2009、

pp. 14-16)が、私はその解釈は取らない。つまり、1874年に新島は帰国を 前にして、ミドル・ネームとしてハーディーという名を使わせて下さいと お願いし、ハーディーがそれを許可した、というのが私の解釈である。新 島が初めてミドル・ネームを使うのは1874年10月13日付のアンドーヴァー の友人たちに当てた手紙においてである。その手紙の追伸のかたちで、特 にDeacon Taylor, Miss Hidden, Mr. Hiddenにむけて、こう書いている。“I  received an additional name Hardy to my previous name.”(全集 6:144) 

もしハーディーが新島に向って、「お前は今日からミドル・ネームとして ハーディーを名乗りなさい」と言ったとすれば、それは非常に傲慢に響く

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のである。私はこれまでハーディーにそのような傲慢さを感じたことがな い。このミドル・ネームはあくまで新島の方から、ハーディーに対する感 謝の印として、許可を得て使わせてもらうことにしたのである。(私は外 にも感謝の印としてミドル・ネームをもらった人の例を知っているが、こ こではそれに触れない。)

3.3.3.禁酒国アメリカ 真下は新島のアルコール飲料に対するピュー リタン主義と、アメリカ合衆国の禁酒時代のことを混同している。1872年 5月、新島は田中不二麿に付添って大西洋航路のアルジェリア号に乗船し て英国に向かう。これは新島としては初めての客船の旅であり、しかもそ れは帆船ではなく、汽船による旅だった。その航海は「大名どころか、ま るで王様旅行みたいに快適なものであった」(p. 224)と真下は紹介してい る。その航海中に出会った牧師や神学者について、真下はこう記してい る。

 「ここでジョーの心を痛めたのは、それらの牧師や神学者たちのう ちにも、口で神を説きながら、その行いは全く神につかえる人とも思 えず、かくれて酒などをあおっている者すらみられることであった。

禁酒の国を離れたと思ったら直ぐこれなのであった」(p. 224)。

 ところで新島自身はハーディー宛に1872年5月20日付の手紙でこのよう に述べている。

 「航海中奇妙なことに気がつきました。誰もかれもが船上で何かを 飲んでいます。何かの種類のアルコールで、私が心の底から嫌悪する ものです。紳士も淑女も、それに神学博士たちでも何かを食卓に置い ています。私としては水が腐らないで飲める限り、そういうものは飲 まないつもりです」(全集10:157)。

 アルジェリア号の乗客は、真下が言うように、隠れて酒をあおっている わけでなく、テーブルの上にボトルを置いて堂々と飲んでいたのである。

真下がアメリカのことを「禁酒の国」と呼ぶ場合、アメリカの禁酒時代と 混同している。すなわちアメリカでは理想主義的な禁酒運動家の指導のも とに、アルコールこそが諸悪の根源であると考えて、1919年に憲法を修正

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し、アルコール飲料の製造と輸出入の禁止を憲法で決めた。ところがその 結果、アルコールを密造するものがふえ、そのため却ってギャングが横行 するという事態となり、1933年に再び憲法を修正して禁酒法を廃止したの であった。つまりアメリカは1919年から1933年までの14年間、禁酒国だっ たわけである。したがって田中と新島が大西洋を渡った1872年、アルコー ルはまったく合法的な飲物であった。新島自身はピューリタンであり、ア ルコールは悪であると考えていた。だから新島は晩年に葡萄酒を口にした とき、罪の意識を感じ、日記の中に「此レハ医師ノ命ニヨリ養生ノ為メニ ノムモノナリ」(全集、5:304)と記しているほどである。

4.真下における新島神話のウィールス

 私は『新島研究』100号の特集の中で、従来の新島伝に継承されてきた新 島神話のウィールスをいくつか指摘した。真下の『小説 新島襄』が、『新 島襄全集』が発刊される前の労作であることを十分勘定に入れた上でいう のだが、真下もかなり沢山のウィールスに感染していることがわかった。

その例を挙げてみる。

 ①若い頃の新島の勉強法は「一字一句をおろそかにせず、わからなけれ ば次に進まないという、一字一句了解主義」であったとする。これは根岸 に発し、岡本清一、神田哲雄に引継がれたウィールスである。真下もpp. 

40-41でそれを受け継いでいる。

 ②新島懸賞論文を読んでいて、複数の中学生・高校生が感動したもう一 つのエピソードがある。それは若い頃の新島が友人たちと花見に行って、

例の「一枝を折る者は一指を斬る」という立て札を見て怒り、桜の枝をめ ちゃくちゃに叩き切ったというエピソードである。岡本清一は1948年の初 版にそのエピソードを書いていないのに、私の所有する1975年の改訂4版 を見ると、わざわざこのエピソードを書き足している。それを真下も踏襲 しているのである。そのソースは森中章光が編纂していた頃の『新島研 究』誌に載っている新島八重夫人の談話である。

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 「襄が若い時代に、ある時友人と王子のほうへ桜見に参ったことがあり ます。ところが、そこに桜一枝折れば一指をきるという意味の高札が立て てございました。襄はこれを見たとたんに、刀を引き抜いて、そこにあっ た桜の枝をきったので、桜見に来ていた人々は、酔どれがあばれるのだろ うと、危険を感じたものか、みんなおそれて遁げたそうであります。とこ ろが、その遁げるのが面白くて、大分桜の枝をきったということでありま す。しかし、若いころのことで、そのようなことは、自分もすっかり忘れ ておりました。それから後年になって、同志社大学の設立主意書を新聞に 発表しましたとき、昔の塾友であった多田野信とかいう人から、一通の手 紙がきまして、大学発表の主意書によれば、新島襄とあるが、貴君の旧名 は、あるいは新島七五三太と申されるのではあるまいかお尋ねする、と書 いてありましたので、襄は早速その人のところに、久し振りに返事をした ため、たしか自分は七五三太であるが、現在は襄に改めていると申してや りました。すると、その多田野という人から、こんどは一枚の写真を送っ てきました。そうしてその裏面に、王子の旧遊君は記憶しているか否、と いったようなことが書いてありました。その昔王子に桜見にいっしょに 行った塾友であったのでございます。襄はその写真をうけとったときに、

若い時代に自分が粗暴であったことを、悔いておりました」(『新島研究』

19号[1959.7.30],p. 30)。

 この新島夫人の話にどこまで信憑性が置けるであろうか。これは実話か 神話かの境界線に立つようなエピソードだと私は考える。もしも新島遺品 庫に、多田野信の手紙と、多田野の写真と、その裏の記述が発見されるの であれば、これは実話となる。ところが新島襄全集第9巻で、「同志社大学 設立の旨意」が発表された1888年11月7日から12月末までの部分を調べて みても、多田野もしくはそれらしい人からの手紙は存在しない。社史資料 センターの小枝氏に多田野の写真があるかどうか調べてもらったが、それ らしいものはないということだった。そうだとすると、どうも新島が刀を 抜いて暴れた話は神話とする方がよいのではなかろうか。岡本清一は新島 が刀を抜いたことにはしないで、その「立札を、ぬきすてるとともに、は

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げしい怒をこめて、さくらの枝をめちゃくちゃに、たたき折ってしまっ た」(1975年版、p.  21)としている。刀は抜いていないのである。真下の 新島もまた刀は抜かず、「その立札を抜きとって足蹴に踏みつぶしてし まった」(p.  50)としている。刀を抜いて、狂ったように乱暴狼藉を働い たとするのは、新島八重夫人だけである。

 ③新島と快風丸の関係について、真下は根岸を踏襲している。根岸は快 風丸を誤って「軍艦海宝丸」とし、しかも新島はその艦長だったと言うの である。根岸によれば、備中松山藩の板倉宗家では、軍艦を購入したけれ ども、それを操縦する人がなかったため、新島にそれの操縦を依頼し、藩 士たちに海軍に関する事柄を教授させようとした、とする。そして新島は 見事にこの仕事を成し終えたというのである(根岸、pp. 114-15)。しかし この記述は出鱈目である。確かに新島は幕府の軍艦教授所に通っていた が、学んだのは数学と航海術だった。しかし航海術は机上の学問であっ て、実習したわけではない。だが根岸は新島がまるで軍艦の操縦に精通し ていたかのように書いている。もしそれが本当であれば、新島は  “My  Younger Days”の中にそのことを書かなかったはずがない。むしろ彼は快 風丸に乗る事によって、はじめて航海実習をする機会を得たのだと理解す べきであろう。しかるに真下は根岸の線を踏襲し、松山藩は快風丸の操縦 士を探していて、新島にそれを承知させるために父親の民治を懐柔したよ うに書いている(pp. 96-100)。根岸も真下も新島の能力を実際よりもはる かに高く買い被ったのであった。

 ④新島が日本の教育制度確立のために果した役割について、真下は「日 本における学校の基礎づくりは、他でもない新島襄の手をへてなされたも のである」(p. 243)と書いている。これは残念なことにAlpheus Hardyと その息子であるA. S. Hardyからくる新島神話であることを、私は『新島研 究』(100:59)で指摘した。繰返しになるが、それをもう一度ここで述べ ておきたい。ラットランドで新島がスピーチをしたとき、ハーディーはこ のような言葉でもって新島を会衆に紹介した。「こんにち、彼の祖国が採

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用した教育制度が実施に移されていますのは、まさしくこの若い日本人の おかげなのです」(『同志社百年史』通史編、p.  18)。父親からそのように 聞かされていた息子のA. S. Hardyも『新島襄の生涯と手紙』の中で同趣旨 のことを述べている。「帰国後に文部大輔に任じられた田中氏が現在の日 本の教育制度の基礎をおいたのは新島襄の報告書にもとづいてのことで あった」(『新島襄全集』10:133)。太田雄三氏が指摘したように、「日本の 学校制度に関する重要な基本法令である学制」は、1872年9月5日に頒布 されたのであり、この頃田中と新島はデンマークからベルリンに帰るとこ ろであった。ハーディー父子は「学制」のことを知らなかったのである。

 ⑤1867年11月の下旬、新島はアーモスト大学に入学してまだ三箇月の頃 だった。マサチューセッツ州内でアーモストの南の方にあるモンソン・ア カデミーに留学中の二人の薩摩出身の学生が新島を訪ねてきた。新島は大 いに喜んで二人を大学の体育館や標本の陳列室に案内してまわったこと を、フリント夫人あての12月1日付の手紙で報告している。キリスト教の 話もした。彼らは新島にお祈りしてほしいと頼んだので、新島は英語で祈 りを捧げたという。二人の薩摩人が誰であったのかを新島は記していな い。その一人を湯浅與三は大胆にも黒田清隆であったと断定している(湯 浅、p. 173)。そして岡本清一は広島図書から出した1948年の新島伝で、黒 田説を踏襲している(p. 109)。そして、真下がやはり黒田説を採用してい るのである。真下はモンソンに留学中の三人がやってきたとし、このよう に書いている。「中でもいちばん頑丈そうな体格をした自ら黒田清隆と名 乗る男」(p.  206)と。これもまたウィールスだったのだが、幸い、この ウィールスは真下を最後に消えた。岡本自身、のちの改訂版で、種子島絅 輔と吉田彦麿だったと訂正している(1975年版、pp. 116-17)。しかしこの 版では吉田彦麿の次に丸ガッコして清成としており、混乱が見られる。実 は吉田彦麿というのは種子島絅輔の用いた偽名であったことが現在ではわ かっているからである。太田雅夫先生による2002年の改訂版でも種子島絅 輔と吉田彦麿となっている。私自身は、この時の二人の薩摩人は吉田彦麿 こと種子島絅輔と、大原令之助こと吉原重俊であったと推測する。

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5.まとめ

 昔、同志社大学文学部で哲学を教えていた浜田与助教授は文化学科哲学 専攻の重鎮だった。私が駆け出しの講師だった頃、文学部新入生の校祖墓 参のとき、浜田先生が「平和主義者新島襄」という主題で奨励された。若 王子の山を降りるとき、私は浜田先生と並んで歩きながら、先生にむかっ てこういう質問をした。「先生、お話を興味深くうかがいましたが、新島先 生が平和主義者であったということを立証するような資料は、どれでしょ うか?」 すると先生はにっこり笑い、私の肩をぽんと叩き、こう言われ た。「君、そういうことはね、そっとしておくものだよ。」哲学者の意見と して、これは忘れ難い話である。

 新島が大磯で亡くなる1890年は、日清戦争の始まる五年も前であり、平 和主義的な考え方はまだ現れていなかった筈である。しかし真下は新島を 実際以上に平和主義者として描いた。つまり、真下は、敗戦を経験するこ とによって日本人が肝に銘じることになった平和主義の思想を、新島に色 濃く投影しているのである。内村鑑三ですら、日清戦争はそれが義戦であ るとして、賛成だったことを思い起こす必用があろう。

 『小説 新島襄』には、私の見るところ、教育者としての新島は描けてい ても、どうも牧師としての新島、福音宣教者としての新島は無視されてい る。晩年の新島を悩ませた一致・組合教会の合同問題などは、この本では まったく扱われていない。

 この本では新島の能力はかなり誇張されている。例えば新島の航海術の 腕前などがそのいい例であるし、新島の働きが日本の教育制度の基礎を置 いたとする考え方が、もう一つの例である。このような誇張は今後の新島 伝では繰返されてはならないと考える。 

 しかし『小説 新島襄』は、新島の喜びと苦悩のすべてを含めて、その 全体像を描こうとしたという点で、やはりこれは一種の達成であるという べきであろう。不完全ではあるが、『小説 新島襄』は新島の伝記の一冊に 数えてよいと私は考える。少なくとも、新島伝の系列におさまることので きる作品である。

 しかし、新島懸賞論文を書く中学生、高校生には残念ながらこの本をお

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奨めできない。もし将来同志社大学大学院に新島学というコースが設置さ れる日がくるとするならば、その大学院生たちにこそこの『小説 新島 襄』を与え、本書の含むすべての間違いを指摘せよ、という問題を出すに は最適の書であると確信する。

参照

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