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明 治 初期 漁 業 布告 法 の研 究

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明 治 初期 漁 業 布告 法 の研 究

―漁 業 警 察 法 期―

青 塚 繁 志

(昭 和36年11月30日 受 理)

Studies on the Decree of Fishery-ground in Meiji

Shigeshi AOTUKA

      目        次 序 論 漁業布告法研究 の意義

第1節  明治維新 における解放法令 と漁業

第2節  明治初期刑法秩序 における漁場犯 罪法 および漁業行政裁判 の性格     第1項  違式註 違条例 における漁場犯罪法

    第2項 漁業行政裁判の封 建的役割       (1)明 治初期裁判制度 と漁場秩序       (2)豆 州内浦 漁場紛争裁決の性格       (3)新 潟県筒石藤 崎漁場紛争判決 の性格     第3項 漁場犯罪法 と漁場支配権の近代化 第3節  明治維新 と漁場秩序への影響     第1項 漁場秩序変 動に関す る従 来の諸説     第2項 封建的漁場支配権か らの解放       (1)越 中灘浦網録制の動揺       ②  各地方 における解放法 令       (3)漁 場支配変動の実態

    第3項 網元層による封建的漁場支配 権の温存

      序 論  漁 業 布 告 法 研 究 の 意 義

  漁 業 と くに漁 場 に 関 す る 明治 初 期 の 諸法 令 は,一 般法 制史 に お け る布 告法 期 に該 当 し・ 資 本 主 義 国 家法 と して の 明 治34年 漁業 法(以 下 た ん に34年 漁業 法 とい う)の 制 定 公 布 に至 る ま での 過 渡期 で あ り 法 体制 準備 期 と い え る.

  漁 業 法 史 に 関す る通 説 が,こ の過 渡 期 に お け る漁 場法 秩 序 の性格 を も って た んな る徳川 封 建 法 の 承継 で あ る とす る のは1),34年 漁 業 法 の もつ 市 民法 的 性 格 の 軽視 と,同 時 に それ ま で の 過 渡 期 と して の 布 告 法期 の もつ 社 会 経 済 的条 件 お よび 当 時 の全 国家法 体 系 に お け る漁業 法 令 の分 析 を欠 くため と考 え る 。

  明治 期 資 本 主義 国家 法 体 系 に お け る34年 漁 業 法 の正 確 な 位 置 づ けは,そ の歴 史 的 前 段 階 で あ る布 告法 期 の正

当 な理 解 な くして は不 可能 で あ る.私 見 に よれ ば布 告 法 期 の 漁業 諸 法 令 と くに 漁場 規 制 法 は,徳 川 封 建法 に

お け る封 建 的 漁場 支 配 権 の 法 か ら資 本 主 義 国 家法 と して の私 的 漁場 支 配 権 の法 で あ る34年 漁 業法 へ の形 成 的

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過渡法であり,その内容に近代法的傾斜の多くを見出しうるものである2).

 明治改革時およびこれにひきつづく明治lo年代における国家法は・わが国の政治経済の急激な変動,とく に法制面においては後進資本主義国としての対外的制約によって上からの官僚支配の法としての特質をもって

いる3).

 同時に漁村経済は, 明治初年から14年において新興漁家層による漁業生産力増大と,14年以後のデフレ進 行によって種々な社会経済的変動をひき起していく4).

 このように一方に国家法全体系のブルヂョァ化,他方に漁業生産力の上昇という二つの条件は,漁場諸法 令をたんなる徳川封建法の承継法たらしめてはおかない. また農業関係法にみられる明治初期法制の官僚性 は,当時の半農半漁を支配的とした一一ee漁村においてもまたほぼ同一の影響をあたえたものであり,強力な 中央集権i国家体制の一環としての官僚的漁業法令をうみだしていくのである.

 にもかかわらず現実の漁場秩序においては,私的漁場支配権確立を目指す官僚的漁業諸法令は,古い封建 的漁業生産関係を一挙に変革せしめ近代化の途を歩ましめることはできなかった.漁業生産関係にたいしては 先進i的啓蒙的法としての意義にとどまることを免れなかったのである.したがって以上の明治改革のもつ自

己矛盾と特殊な展開過程は,初期の先進的啓蒙的漁業法令にたいする反革命的改正さえうみ出し,または現 実の法の滲透にOいては旧藩官僚によってしめられる府県行政に一任することによって法関係としては古い 漁業生産関係を温存する役割さえ果したといえる.

 一般の漁業経済史研究者が上部構造としての法の研究の条件を欠くままに, ひたすら明治初期より中期に いたる漁場支配関係をもって徳川封建諸関係の持続とみるのはこの支配的な法関係を重視するためである三).

 明治前期の漁業布告法は,形式的には進歩的であったりときに反革命化したり動揺をくり返している.そし てその基底を流れる漁村経済の諸条件は全般的には古い型態を持続し34年漁業法成立を迎えたかのようであ る.法は経済の上部構造であり政治の制度的帰結であるという原則からみるならば,漁業経済史家のいう前 後顯倒説的機械的論議も生れてくるし法の空文化も結論されてこよう.然しながら後進資本主義国の確立期 における法の役割はつねに啓蒙的であり官僚的であることからみれば,たんなる時間的位置づけのみによっ て漁業布告法の歴史的性格を論ずることは誤りであり,法をうみだした政治経済諸条件の再検討や法の滲透 によって啓蒙的に反応する経済条件を相関的綜合的に観察する必要がある.

 布告法期における漁業法令はその基底にある封建的漁場支配関係にときに対抗しつつ, 新しい漁業生産関 係を法制的に支持した役割を改めて評価しなければならない. これらの先進的性格にたいする封建諸勢力の 抵抗は官僚群と漁村網元群との対立をうみ出しつつ,漁業諸法令を封建法の枠に止めようと努力した. この 全般的流れのなかで, この新しい法制度に依拠しそれを支持したいわゆる反慣行派の発生存続もまた必然で あった.

 この二つの条件が漁業布告法期における漁場法秩序を形成したのである.資本主義国家法への指向をもつ 漁業布告法の法学的理解と,現実の漁場生産関係が作り出す国家外的法としての慣習法的要素との混同は,

しばしば漁業布告法を徳川封建法の擬制的法制であるとする見解を通説化し, ひいては34年漁業法をもそれ と同一視する重要な誤りをうみ出している.

 したがって第一に漁業布告法における法制度的性格,第二にその具体的な滲透,第三にその支持または対 抗勢力としての漁村諸勢力の運動,第四にそれによる漁業布告法体系の動揺,:最後に以上の諸点を綜合した 漁場秩序法としての漁業法令の歴史的性格という賭点から研究が進められなければならない.方法論として は経済と法の交錯を中心として,その所産としこの慣習法的諸制度におよぶことが必要である.

 漁業布告法は明治初期の漁業警察法期にはじまり, 8年の海面学区期,10年以後の地方漁業取締規則期を 経て,ユ9年からの漁業組合準則期をもって終り,やがて近代的統一法典としての34年漁業法期にうけつがれ るのである.これらのそれぞれのピークの前後には,その形成,崩壊の小ピークがあり漁場法秩序近代化へ の波動をうみ出している.

 本論では漁業布告法初期として,法思想,漁民斗争においては明治期最初の近代法的法制である海面借区

令への胎動期でありながら,法制的にはなお官僚政治による 封建法秩序の存続に終った漁業警察法期の特徴

を考究してみよう.

(3)

第1節明治維新における解放法令と漁業

 明治改革時において維新政権の実施した政治経済上の解放諸法令は,多くの法制史,政治史,経済史諸家 の研究するところであり,最近は法社会学者による実証的研究も行われている6).

 このうち漁業における封建的諸制限と関連して注目されるのは,明治元年5月の r商法大意』による問屋 株その他の株仲間独占の廃止と売買の自由である.この封建ギルド組織の制度的否定は,当時幕末にかけて 拾頭強化した漁業問屋資本の特権グループにたいする打撃であると同時に,引請浦等による封建的独占のも とに自主的商品化と資本蓄積を阻止されていた漁業生産者の発展を約束するものであった.これが一般大中 都市の隆盛とともに増大する水産物需要に対応して形成されつつあった新興漁業者の伸展と漁業生産力の上 昇にあたえた影響はすこぶる大きいと思われる.

 これがひいてはr先規』という封建的漁場慣行をあえて無視し,旧漁場支配者層にたいし既存漁場秩序の 変更を要求したいわゆる r新規漁法』漁業者層増加の有力な制度的背景となるのである.また封建的漁場支 配者層といえども旧特権的ギルドからの解放によって水産物商品化を促進しその経済的基礎を強化したこと

も疑いない.

 解放法令のもつ他の重要な意義は,権利主体としての漁民の身分的制約の撤廃である.明治5年10月の人 身売買禁止布告はその主要なものであるが, ζ:れらの身分解放令が農奴主的漁業経営のもとにに瞭直した農 奴的零細漁民層にあたえた思想的影響は大きかった.

 との明治4,5年をピークとした封建ギルドの撤廃と売買の自由,二身売買や世襲隷属関係の廃止,営業 自由宣言等は,直接的な漁場解放令以上に封建的漁場支配機構の根本を動揺せしめるものであった。のちに のべる当時の農奴解放的漁民斗争はその一端を物語るものにすぎない. 明治8年の海面官有宣言と借区制採 用の布告は,こうした政治経済的基本政策の進展の上に公布されたことに注目しなければならない.

 然しこのような解放諸法令もとくに民事法令の面ではときに紙上の改革にすぎなかったり,多くの改革上 の限界をしめしていた.漁村においても職業の自由を除けば, ネお家や村落における封建制やそめ漁場関係 への反映としての隷属的雇傭は永く日本漁業を支配し残存するのである. こうした解放法令の限界は日本資 本主義発達史の特殊性格の一面であるが,漁場秩序に:おいても半封建的網元制を中軸とした特殊な発展過程 をうみ出していくのである7).

第2節 明治初期刑法秩序における漁場犯罪法および漁業行政裁判の性格 第1項 違式弾帯条例における漁場犯罪法

 維新直後から8年海面借区制布告に至る間は統一的な漁業行政立法ないし漁場秩序法規はほとんど存在し

ない.

 急激な全社会的変動は漁場秩序をも全く混乱におとしいれ, 一般刑罰法令の存在にかかわらずときに無 政府状態を呈したことも推定される. したがって漁村社会一般としては,一般解放諸法令の影響のもとに多 くの動揺混乱をひき起しながら, なお徳川封建法下のゲヴェーレ的網元支配を強固に維持するためには法的 保障としての刑法秩序に依存する以外に途はなかった. すなわち封建的生産関係と漁業生産力の矛盾はすで

に封建的漁場支配から私的漁場支配への移行を要請していたにかかわらず, 政府はなお漁場制度に関する統 一見解や政策をもちえず, 初期財産法に比すべき近代的漁場法秩序は行政法規としても民事法規としても確 立しえなかった.そしてむしろ社会秩序維持一般としての応急的なr雑犯律』やr各地方違式註違条例」等

の刑事法令によって動揺する漁場秩序を保持しようとしたのである.この条件が明治改革直後の漁場秩序法 の性格を決定したといえよう.

 すでに明治元年工q月にr仮刑律』r雑感律』を制定した新政府は, 3年12月 f新律綱領』によって従来の 個別的刑罰布告を統一し,6年r改正律例』(布告206号)を公布して漸次警察法令の整備をはかった.当時 は旧士族の反乱(2〜3年目,徴兵令反対斗争(6年ユ月),地租軽減の農民一揆(5〜6年)と各地に大 規模な政治的社会的紛擾があいつぎ, 新政府による土地徴税権集中と地主的土地所有の造出政策は大きな社 会不安をひき起し, こうした社会状勢は強力な官僚的警察取締政策の急進化を不可避ならしめた8).

 当時こうした社会的動揺に加えるに,生産の場が領有ないし官有的領土権思想の濃厚な海面であったため,

漁場秩序の維持は形式的にはすべて刑事的取締の対象となったといってよい. 封建領有下にあっては領主

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の領有権のもとに統合され,維新後も司法権に対する行政権の優越という絶対主義政策によって旧藩出身地 方官による取締の対象とされた9).

 したがって7年に至るまで漁場紛争ないし漁場支配の保護が司法裁判所において争われ民事法的解決をは かったという事例はきわめて少ない. のちにのべる豆州内浦の事例も内済的解決の方法か行政権的圧力によ る裁判所の処置をしめしているにすぎない.

      み  さて漁場秩序の維持は一一nc司法警察機能による治安維持,』私有財産保護の一環として明治元年 r雑犯律』

      ぷ ぷ 違式の条に始まるのであるが,その統一は6年7月の「各地方違式註違条例』(布告256号)制定によってな された、これはさらに工3年7月の旧刑法(布告36号)の違警罪目にひきつがれる.

 違式とは有意犯,註違は無意犯を指すが, ともにそのなかに漁場犯罪刑罰を法定している.その第1は,

漁業場である持場(網代等)の保護(23,24,65,83条),雑魚海苔乾場保護 (63,64条)が最も多く,第 2類は無r官許』の場所での魚簗設置の禁止(24条),第3は有毒物漁業の禁止(25条)である.

 その内容 対象はいずれも形式的には封建法における刑罰対象を承継するかのごとくであるが,その本質 としてすでに近代法治国家による罪刑法定思想の藺芽がみられ, また反射法益として漁場私有化の容認と官 許的海面官有思想の形成に重要な転回点をしめすものといえよう. この意味では維新直後の司法制度の近代 化が漁業部門にも及ぼされたと解するのが正当である. さらにこの条例は9年布達74号にもとずく府県漁業 取締規則に行政罰目として承継され,34年漁業法の先駆をなした.

 この各地方違式面出条例は7年ユ月太政官達8号によって 『各地方実際二適当出様掛酌増減致シ…布達可 致』各地方長官に権限が委譲された. もっともこの布告にさき立つ5年ll月に東京府では53箇条におよぶ条 例が公布され, また先進産業を漁業に優先せしめてすでに三乗五港が本条例の適用から除外されているのも 注目すべきことである.

 各府県制定の違式詮違条例史料はすこぶる入手に困難であり全般的な地方的実施状況や滲透状況を知る由 もないが,兵庫県ではr河豚販売スル者』が処罰の対象とされ,愛知県では違式罪目としてr他人持場ノ池 川沼ノ藻類ヲ断りナク心理ル者』(30条)r他人ノ持場又ハ免許ナキ場所河魚簗ヲ設ル者』 (31条) r毒薬 並激烈薄物ヲ以テ魚鳥ヲ捕ル者』 (32条)が罰せられ,また註違忌敵としては r他人ノ魚簗意解妨害ヲナス 者』(79条)があげられている10).

*朋治7年愛知県より違式謹違条例の解釈適用に関しつぎのような伺が内務省に提出されている「是迄   他人持場ノ海藻ヲ刈取或ハ免許ナキ場所秘隠籔ヲ設クル等ノ如キ其情実ノ軽重二従ヒ雑犯律違式ノ条   二依リ又ハ呵責等二処シ来り候へ共…」 (法令全書明治7年)

**第256号(明治6年7月19日布告)各地方違式詮違条例別冊ノ心匠定二条高点布達候事

      違式心違条例

  第1条違式ノ罪ヲ犯ス者ハ七十五銭ヨリ少ナカラス百五拾銭ヨリ多カラサル陵金ヲ追微ス   第2条門違ノ罪ヲ犯ス者ハ六銭弐厘五毛ヨリ少ナカラス拾弐銭五厘ヨリ多カラサル賭金ヲ追丁ス

違式三目

第23条他人持場ノ海藻類ヲ断りナク苅採ル者 第24条 他人ノ持場又ハ免許ナキ場所二魚簗ヲ設ル飴

湯25条毒薬並二激烈謡物ヲ用ヒ魚鳥ヲ捕フル者

詮違罪目

第63条雑魚乾場二妨害ヲナス者 第64条海苔乾場二妨害ヲナス両 三65条 他人ノ魚二等二二署ヲナス者

第83条他人ノ海苔棚内へ断りナク舟ヲ棟シ入ル者

      (法令全書明治6年)

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 この気前からみると各地方庁での実状は, その地方の漁業事情から最少限度の漁業を対象としたようにみ一 うけられ, また「持場」等の慣行的用語が使用されていることからきわめて悪質な犯罪を防止する社会秩序 法として機能したものと考えられる.近代的漁業権意識の未成熟と一般秩序維持法的性格をつたえるこの条 例は,』現実には封建的漁場支配権の承継的容認の不可避な状況を物語るとともに,制度的にはその本質を私 有財産原則と海面官有思想に指向したこともまた明らかであり,過渡的な漁場秩序法令を代行する主柱とな1 っていたといえよう.

 以上のように8年の海面借区制布告までは中央政府による近代的権利観念を軸とした漁場秩序法制は存在 せず,一般財産保護的秩序法の枠内で反射的に漁場支配関係を保護したのであるが,解放思想とくに職業自、

由と身分解放の影響は当然に封建的漁場支配権にたいする種々の反封建斗争としての紛擾を生成していたの であるから,いわゆる民事的法規範は現実の漁場紛争解決の規準として不可欠であった.そしてその役割は:

司法裁判所による具体的事件の判決例に求められたのである.

第2項 漁業行政裁判の封建的役割

(1)明治初期裁判制度と漁場秩序

 さて徳川封建法における漁業犯罪法はその統一的なものについては詳細に知りえないが,元来海面領有思 想や魚介藻類の無主物的観念は,漁場紛議の民事的区分をあきらかにしないし,漁場の『支配進退』的権利 思想は行政権iの封建的集中によって領主権i力にもとずく行政裁判として行われ,近代的私権保護の司法制度 は存在しない.したがって一応徳川封建法においても明治改革後の違警罪目程度において一一ma秩序罰として 制裁が加えられたことは疑いないところである.一方徳川期の民事的訴訟である出入筋については,三所,

公事,仲ケ聞事,身分にわたって裁許が行われたのであるが,漁業も当然その枠内で漁場紛議が解決され

た11).

 明治改革後において一般民事訴訟法令のなかで漁場紛争がいかに処理されたかは詳にしえないが,徳川封 建法の押所(漁猟争論)の準則であった r山野海川入会』のような秩序準則は存在しなかったことはあきら かであり,結局司法裁判による判例法たらざるをえなかった.

 すでにのべたように明治改革後の裁判制度は,封建制国家における裁判制度が「行政権を含むものという よりは行政権の内容に裁判を行う権能が含まれていた12)」とされるのにたいして, 「一方では,反動的な規.

制を強行しつつ,他方では,近代的な規制の樹立に止むを得ず接近してゆく13)」絶対主義国家成立期の特徴 をもっている.ただ他の国家諸制度と比較して裁判制度は「広汎に展開してゆく商品交換過程を把握し,規制 するため」にはより以上の近代化が要求される14).

 この場合の裁判制度のより近代化のための契機となる商品交換過程の把握のための機能は,漁村では階層 的色彩をもたざるをえない.すなわち当時の商品所有者は封建的漁場支配権の存続によって安定する農奴主 的網元であり,小漁民層の零細生産物はそのままでは多く現物経済の域に止まるか, または網元層と結合し または網元層をも包括して漁村経済を左右した商人資本に集中されたからである. したがって裁判制度が商 品交換過程規制の枠内にとどまる限りそれは網元層め保護に終らざるをえなかった.

 この意味では漁業生産力増大と商品化の一層の進展をみたとはいえ, それが小地域の地方市場ブロックに 分散されるか大都市周辺市場に止まった段階では, 「封建的支配体制内部におけるヒエラルキーの弛緩と他 方では商品交換過程へすべての者が平等な交換主体として入りこんでゆく傾向が増大するにつれ,身分的,

階層的差別により行使される裁判権の系列を区別することはますます困難となるから, 裁判権行使の対象の 差別は稀薄となり,この面からも裁判権の分裂は次第に克服されてゆく15)」ことは漁村についてはなおほど 遠いことであったといえよう.

 明治初期裁判制度は23年裁判所構成法が公布され完全な体系として整備されるまでは過渡期としての不安 定な状態にあり,一方に「行政権の優越,そしてこれの裁判権への干渉」があり,他方旧幕時代からの村落:

共同体的紛争解決の方法であるr内済の原則』の残存は,当時の裁判制度を結果的には封建的漁場支配層に 有利なものとして作用したであろうことは疑いない.

 以下の若干の漁場紛争の裁判過程にみられるように内済方法の勧奨,村役人の奥印は廃藩置県後も漁村で

行われており,8年]一2月のr裁判支庁仮規則』公布後においてもなお存続する.さらに旧慣尊重の9年74号

(6)

:布達後は, 小漁民層の実力的漁場獲得にたいする弾圧機関ともなったのである17).それは漁場法秩序の近代 北にひそむ封建的性格や,その具体的な行政的適用解釈における反動性と対応した形で,漁場紛争の非近代

.的解決を結果することになったのである.・

 このような明治初期裁判制度のもつ封建的性格の一面は,慣習法の補充的効力の容認によって一層促進さ れた.8年6月公布のr裁判事務心得』(布告IQ3号)は,その第3条でr民事ノ裁判二成文ノ法律ナキ・モノ ハ習慣二二リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判ス可シ』とし,統一的漁場制定法の存在しない明治初期さ

らには34年漁業法までの営業取締期における漁場旧慣維持的司法解決の根拠となったのである.

 勿論同心得は第4条において裁判の言渡をもって将来の例となるべき一般の定規とすることはできないと して判例法の過渡的性格を規定してはいるが,当時の官尊:思想や漁村の根強い封建制は, 慣習による裁判を 絶対視し旧網元層のための秩序規準の司法的拠点となったことはあきらかであろう.

 この場合の慣習をのちに法例第2条を論難した平野義太郎氏の慣習法論におけるそれと同一視することは,

慣習そのものが歴史的階層的概念であることから不充分な見解といえる. 大正末期における慣習法論は独占 資本の確立とその全般的危機にあえぐ庶民階級のための慣習法擁護論であり, 明治初期の慣習はのちにのべ る慣行論争にみられるように慣行の価値判断が階層的に分解する過程であったとはいえなお中近世における 慣習法そのものに帰したといえる18).

(2)豆州内浦漁場紛争裁決の性格

 明治初期裁判制度の諸特徴は漁業についてはより濃化されてあらわれたことはすでに関沖したところであ るが,一般にこの期の漁業判例は史料として皆無に近い.それは地方記録採集の不十分さによるが, 概して 司法権をふくむ行政的処置によって紛争が解決されたことの反映であり, 決して漁場紛争の寡少を物語るも のではない.つぎにその一事例として豆州内浦の紛争経過をのべてみよう19).

 豆州内浦は立網漁業の網戸場を支配する轡型層が,網戸株共有者である網戸持層の支持のもとに,網子,

手伝人をふくめた小前階層を去襲的に隷属せしめていた農奴主経営を中心とした点に特徴がある2。).

 明治維新時の漁民解放運動は,小前階層の丁丁制にたいする反封建運動となり,さらに村の封建機構を動 揺せしめる広地域の運動となって明治ユ8,9年までその余波を残す長;期の斗争過程をうみだした.

 紛争は慶応4年9月半所轄韮山県知事韮山御役所よりのr今般朝政御一新, 万民之疾苦被為救度毎々被仰 出撃』達によって口火をきられた.最初の斗争は長浜村で2年lo月にはじまり,組頭選任権,浦役人制の 批判として小前層による抵抗が試みられた. この紛擾は2年10月小前側の韮山御役所への申立によって表面 化し,以後津国側とともに答弁書提出を通して争われるが,結局問題の本質は外されて収益配分をめぐる漁 業歩割(漁業高収益割合)の争いとなり, 2年]ユ月の仲介人介入以後は内済方法に移り,仲介人調停案から 双方調停案を経て, 4年3月ユ年半ぶりに r熟談内済』 となり連印済口証文が韮山御役所に提出されてい

る.

 この間韮山県御役所は終始内済談合をすすめ,r御時節柄二三有之,篤与勘弁之上,示談可及旨被仰聞』21)

され,小前一同は『奉承伏』て以後示談への努力を重ねたのである. この小前側の官尊思想にたいし,津元 側は r網子共儀私共を旬取潰心底眼前に候』として御役所にたいしても強硬に自己に有利な二割を主張し,

結局若干の二元側の経済的譲歩によって談合が成立した22).

 然しこの内済の進行では,その紛争の核心であった封建的漁場支配権を問題から外してたんなる経済問題 化してしまったたあに,さらに紛争は再燃しやがて他町村にも波及していったのである.

 このひきつづく豆州内浦の紛争に明治初期の司法裁判所が正式に介入したのは, 6年9月豆州内浦重寺村 の漁業出入であった.上掲あ長浜村の場台は, 旧藩官僚による裁決または内済であるのと問題の中心を経済 問題に転換せしめた巧妙な示談方法をとったために,当時の裁判の本質を表面化していないが, 重寺村出入 における足柄県裁判所および韮山区裁判所の態度は,明治初期裁判所の封建的性格をあからさまに露呈した ものであった.

 この出入はわが国最初の裁判所構成法である『司法職務定制』によって, 5年8月府県裁判所および各区 裁判所が設けられた以後の事件であり, 8月には早くも重寺村,長浜村の所属した足柄県 ・(旧韮山県を編 入)に県裁判所が設けられている23).

 重寺村紛争における小前側は,長浜村紛争の矢敗にかんがみ漁場解放と隷属的身分解放の要求にに終始し,

(7)

封建的漁場支配権の根底をゆさぶる反封建運動を強力にすすめた24). この背景は維新動乱による庶民の生活 不安と物価暴落による経済的困窮であったが,加えて新規漁業者,漁村人口の増加によって相対的漁業収入 減少がこれを促進し・網戸場制の解放に突入せざるをえない背景をもっていた・

 まず当初6年7月小前側は足柄県裁判所に出訴したが,裁判所はつぎの理由で訴状を差戻した.その第1 は津元の網戸場その他の全村海面の独占,したがって一般小漁民の漁業困難にかかる訴点は確証がないから採,

用できない.第2の受忍小前間の漁業代金割合の不公正は,両者の取憩6によるもので訴因にならない.そ の割合が取極めに反した場合のみ訴え出てよい.第3の津元側の漁場支配を廃止し公平稼方の件は,結局税 租のあり方の問題であるから,r浮役未納ノ義御分一ヲ差山山浮役二重二相聞エ右ハ名称相違モ可有之週間,

上納ノ義原由足柄県エ相願,篤与了解可特旨25)』申渡したのである.

 この足柄県裁判所の差戻理由のうち, 第1点は確証によって云々といい勿論確証は不可能の事柄ではあっ たがむしろ問題は漁場制度の根本であったがために民事裁判上ことさら避けたものであろう.

 第2点の論理は魚津代金割合=歩合収益配分(刈分小作的収益)が漁場独占にもとずくものであり,まし て第3点のごとく漁場支配権の制度的根拠である浮役米上納負担者がすこぶる疑問である場合には第3 点と 一括して身中権という民事的権利として考えられるべきであった.

 第3の公平単方の問題は,1,2点が当面の生活上の緊急問題であるとしても,その根本は漁場支配のあ り方=漁場制度の階層性にあるのであり訴の本質をなすものであったが,』 v 米の解釈; 旧時からめ沿革に ついての疑点が解明されぬまま,問題をさらに行政庁の取扱に転稼する形となったのである.この足柄裁判 所の判決は8年のr裁判事務心得』が公布される以前であるから,まさにこの種の漁場法秩序の準則を欠き 専ら問題を金銭上の民事訴訟に限定する態度をとったのは止むをえないことであったとも考えられる..

 然しながらさらに小前側の攻勢が強化され網戸場制の基礎が動揺するにおよんでは,裁判所は法を欠くこ とを理由として傍観視することはできなくなった. そして問題解決に当った裁判所が漁場秩序の準則を欠く ままに,現状維持的な結果的には8年の裁判事務心得にみられる慣習の補充効力に依存し小前側にたいして 強圧的な解決方法をとったことも必然であった.

 すなわち足柄裁判所での敗訴後,小前側は津元への魚代金の納入停止という強硬手段に訴えた. さらに足 柄県出張所の難せんの結果村内新古書類を検:摩したが,結論はr右浮役米ノ儀ハ…単元ノ者共納物トモ存不 予』ものであったので, 津元側にこの旨交渉したが津:元側は一向に相手にならず,結局県役人は「右ハ裁判 所エ可単願旨被仰渡書面御下ケ渡二相成』つたのである26).

 かくて問題は再び韮山区裁判所(足柄県裁判所管轄)の係争となり,6年9月津元より前記の魚代金不法 占有を訴え出た.終審は7年2月に行われたが,その間にあってとった裁判官の態度は耳元側にきわめて有 利であり小前側にたいしては強圧的なものであった.

 まず原告津県側は漁業割合について若干の経済的譲歩(長浜村的解決策)を申出, 「旧法ヲ破り新規二割 法相定候義,所詮難出来旨申断』り基本的には国元的漁場所有を継続するがr其方共心得二寄,僅ノ儀ハ勘 弁モ致シ可横難27)』という態度をしめした.ときの掛り役入秋葉某 (予審判事か)は,r三元申立尤二御採 用有之,被告人江御霜解ノ趣,其方共儀何等ノ廉ヲ以テ漁業割合其外之儀旧例ヲ破り申掛候哉28)』 といって 小前側を批難している.

 さらに小前側が浮役米は津元4人の共納物ではなく小前漁師を代表する性格のものである旨を申立てたと ころ,秋葉某は津元側の申立を代弁して r名主百姓ト有之ハ名主ノ外壱人ニチモ三入ニチモ又十人ニチモ則 百姓二有之,然ル上州津元四人ノ内壱人名主役目シ候得富江三人ハ矢張百姓ナリ』として古文書にある浮役 米上納の名主百姓名儀の形式的解釈を下し, r浮役米六石ノ内銘々ニテ台臨候証拠有之候哉如何』と小前側 を難詰した上,小前側の無証拠は当然であったのでr無証拠ニチハ更二採用難成家ノ上裁断ヲ出御裁許二相 成候テハ最早津元方ニチモ対峙上江別段網子エ勘弁致ス遣ス義塾相成候面付其方共篤ト勘考可致旨29)』説得

し訴状とり下げや示談をすすめている.さらに予審は3月にもち越され5日の取調において小前側が御分一

(営業税)の70〜80%を網子側が納めかつ元網,舟1隻を差出し経営に参加している旨を訴え,さらに『私 共義ハ暑寒ヲ不厭漁業仕候鹿笛津元共ハ夏ハ客冬ハ足袋ヲ用ヒ柳寒暑ノ愁モナクシテ割合余分二受取居…3・)J と封建的搾取とそれが網戸場面に源泉することを訴えた.この小前漁師の訴にたいして秋葉某は「何レモ御 採用不相成』さらには強圧的に r被告人共無証拠ヲ以,存寄通度候テモ裁判所二於テ其儘捨置不申,別段強:

情二申募リ候得ハ棺槍(監倉)ト申処エ入,吟味不及31)』と申渡し,ついで 『其方共裁判受候上ハ実二慰然

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60

ノ至り歎ケ敷次第二成行当間原告エ取担リ示談真心旨被仰』れ再び内済解決を強要している.

 かくて事態は急速に示談解決の方向に向うのであるが,小前側はさらに身分拘束からの解放を求め, r従 前乗組ト申一戸ニチモ何人トナク乗出〔詰〕メ候得共以後バー戸壱人乗二相定其余人ノ分勝手ノ職業致シ度』

と職業の自由,網戸場労働からの解放を訴えている.これにたいし三元側はr旧則ヲ破り右様ノ義申出血目却 テ示談ヲ不好義二相当32)』るとして申出を拒否した.

 この封建的身分拘束からの解放にたいして,裁判所はr従前仕来リノ網組今般改テL戸一人勤杯ト申義,

タトへ山元共承知相成候爵政府二於テ旧来仕来リ之義破リ候事何分難聞届33)』 として津元払廃止と身分解放 を権力によって拒否している点は注目すべきであろう.かくして重寺村漁場紛争は小前側の執拗な法廷三宮 にもかかわらず若干の経済的獲得すらうることなく小前側の敗訴に終った.

③ 新潟県筒石藤崎漁場紛争判決の性格

 新潟県西頸城郡筒石,藤崎(とおざき)両村間における鱈漁場独占をめぐる新旧村の争いは,その期間が

…5年から14年におよぶ点において,またその争いがIC年後にはともに中央裁判所および政府にもちこまれた 点からも,、豆州内浦紛争に匹敵する大規模のものであった.かつその性格は内浦紛争が封建的漁場支配権に たいする小前層の反封建的解放運動であったのと同様にここでも大前層にたいする小前層の階級斗争であっ たことから両者は七二の歴史的条件におけるものといえる.ただ筒石村大前層の漁場独占にたいして,新 規進出をfiH画する藤崎丁霊漁民鷹が反抗したこととから形式的には漁場区域をあぐる部落対立とみられやす

い34).

 筒石村では旧幕時から二二を中心とした沖漁に進出していたが, その実権は少数沖漁株を独占する大前階 層によって掌握され・「彼等は村内に納屋元制度を布くことによって,小前の二三進出を抑えると共に貢租の

大部分を収めることによって藩権力の公認を得ていた35)」.したがって大前層に隷属する小前層や他町村漁 民が自己の権利として沖上に進出するためには,大前層による納屋元制の廃棄が不可欠であった.それは豆 州内浦の津元による網戸場制に通する封建的漁場支配権であった.然るに大前層は「村役人を兼ね家格もあ り経済力も高」いものが中心となっていたため, その廃棄のためには当然に直接村権力と対抗し,かつ直接 上級権力に解決を訴え出るの手段を撰はさるをえなかった.

 筒石村の大前的漁場支配の二二運動は, 自村内小前層によってはll年に開始されているが,これは運動の 口火となった5年10月公遅の柘山県布達r納屋元廃止令』を大前層が隠蔽していたためである.このため納 屋元打倒運動はまず隣村の藤崎村漁民によって開始された.

 この納屋元廃止布達直後藤崎村は従来の筒石村からの借舟 (漁場利用権の賃借)を返却して自村漁船によ る出漁を実施し,当初の納屋元廃止布達の線から後退してi日慣維持方針にもどった新潟県庁およびそれに力 をえてあくまで藤崎村の進出を阻止しようとする筒石村大前層との間に紛争をひき起すのである36).

 その後再三の実力行使をともなう紛擾の末7年1月筒石村はr漁業場乱入不法之訴』を,藤崎村は『漁業 乱妨難渋之訴』 をそれぞれ新潟県第九大区取締所に提訴するに至った.新潟県庁裁判所は7年12月に至って 筒石村を勝訴させ,その理由として(1藤崎村の吊舟営業は実証があること,②5年のr納屋元廃止』布達は 納屋元のみのことで,他村が新に漁業を営みうることを意味しないという二点をあげている.そして藤崎村

にはr従来借舟稼の場所へ漁業の儀は一般之規則被仰出候迄は当分不相成』 として大前層による漁場支配権 の存続を承認したのである.

 藤崎村はさらに翌8年3月東京上等裁判所に控告し, とくに一般の漁業規則公布まで新規操業を禁止する のは営業自由の不当な制限である旨抗弁した. これにたいし同裁判所は同年8月再び筒石村を勝訴させ,そ の理由のなかでとくに注目してよいのは「漁場の権利はそれを開いた者が納税を行うことによって成立する のが一般の慣習である」とした点である.

 これは内浦紛争におけると同じく漁場秩序に関する統一法がない当時としては一応の判決規準を旧慣に求 めたものであろうが,納税を権利確定の条件としたことは,当時の貢租と土地三権の未分化,租税を漁場秩 序確定の基準とする封建法的権利思想の残存として理解しえよう. この敗訴により藤崎村はさらに9月大審 院に上告したが,たまたま借区制布告の公布をみて一切は白紙に還元されたのである.

 さらに紛争は借区制布告後も継続されるが,当時の裁判記録としては13年に東京上等裁判所にたいし,筒

石村小前層が大前層の漁場独占を非なりとして控訴(原審内容は不明) したことがある・■ この同一の事件に

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対てし同一の受理裁判所が13年にはく1)納屋元廃止布達の有効どしたがって大前層独占体制の破棄t t(2)9年の 74号布達の旧慣尊重方針は旧来の納屋元弊習の継続を意味するものではないという理由で小前層の勝訴を認 める37)という全く逆な判決をしめしている. このことは8年以後の借区制布告の影響や74号布達の司法的解 釈として重要な意義をもつのであるが明治初期裁判所の漸次的近代化をしめす一端でもあるζ考えらA?Vる・

 然しこの8年までの時期においては上述のように内浦紛争における裁判所の封建的漁場支配権温存の方針

.と全く同一傾向であり,7年6月Cl)r裁判事務心得』3条の慣習の補充的効力の形式的適用に整始,していた.

すなわち権利発生要件を旧来の納税に求めて慣行の合法的根拠とし,一般規則の公布まで営業自由を拒否.し た消極性がそれである.

 場上の事例によって明治初期裁判制度が漁場秩序形成においていかなる役割を果したかの一端を知る弔と ができよう.それは法制度甲骨の漸次的近代化や一般小漁民層における権利意識の高揚にかかわらず,裁判 機構がなお封建的漁場所有保持のための権力的支柱となったことをしめしており,またかりに抽象的漁場法 体系が存在していたとしても少くとも権利確定においては慣行が重視せられ行政的司法的解釈において封建 的漁場支配権の温存がはかられた時期ではあるまいか, これはさきにのべた解放諸法令の限界性と軌を一に するものであったろう.

 このような司法制度をもふくめた明治絶対主義政権の特質は, その第一歩において封建的漁場支配機構の 温存にはじまり,以後漁業における商品市場の展開との矛盾になやみながら上からの網元層のブルヂョァ化 の制度化に努力を傾到するのである.・そしてこの傾向を促進するのは小前層漁民にみられる進歩性であり7

、司直の威圧にもかかわらず絶えず封建機構の打破に進み,ひいては、小漁民層のブルヂョァ的発展のための私 的漁場支配権確立をうみ出していったのである.

第3項 漁場犯罪法と漁場支配権の近代化

 刑法秩序における漁業犯罪法規と裁判所判決により,明治維新直後の漁場秩序は一応維持されたといえる.

そこには封建法体制から資本主義法体制への過渡期的些細さや混乱,明治絶対主義国家体制の繭芽,政治社 会状勢の急変による社会秩序の変動という, 政治,法制,社会の諸要件が漁村社会をおおったのである.か つそれらが相互制約して特殊な過渡期の特質を造出せしめている.そして4年の廃藩置県を境に中央集権国

家体制はその出発点としての封建政治権力の廃滅を達成し諸制統=の方向=法制整備期に向うのである.

 漁場秩序は8年の海面官有借区制布告にその最初の統一法を見出すのであるが,その前に位置するこの期 の特質をどのように規定づけるべきであろうか.

 すでにみたように法制度的には封建法における論所的秩序準則はなく漁場秩序罰的萌芽が違式謹違条例た みられるのみであった.民事一般は旧藩御役所や裁判所でとりあげられたが,たまたま漁場収益配分を契機 とした漁場支配の争いが民事的色彩によって裁判所にもちζまれたとしても内済的民事解決に転化された.

この内済がきわめて一方的な権威を背景とした網元的な解決策でφつたこζ!まいくつp)の事例によ?て旧き らかである..まk漁場統二法の存在しないこの;期においては漁場秩序の法的確定は至難のことでもあった.

 したがって法制度としての漁場法秩序の中心は,違式言圭違条例における法思想に求められなければならな い.そこに規定するr他入持場』r他人の魚簗場』 r他人の海苔棚』等の排他的支配概念は,用語としては 前期のそれの承継であり内容においてもきわめて不正確なものではあったが,当時の近代的漁場占有の初期 的形成を承認したものであったといえる.すなわち海面借区制布告の性格においてふれるように,漁場の包

,括的観念であった土地の私有化宣言が着々と進行していた6年におけるこの条例の思想は, あきらかに漁場 私有原則に立脚するものといわなければならない.

 tれは漁場秩序の中軸であった封建的漁場支配権が私的漁場支配権に転化する過渡的繭芽とみてよい.時 澗的には翌々年の8年に私的所有的借区概念を明確にした太政官布告があらわれるのであるから制度的には

これとし連のものとして同マ了してよいとも考えられるが,漁業警察法は直接には権利関係を創出する漁場

『秩序形成の法ではなく;一般社会秩序維持の一環としての観点から行われた刑法秩序であったから,むしろ私

的漁業場支配権形成への過渡期〒虚病過程と呼ぶべきであろう.また領有的概念に代る・r免許ナキ場所』の

意義は,私的漁場支配の権力的根拠が官許にあ弓・ことすなわち私権創出が国家権力のみにもとずくべきこと

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をしめすとともに,一般漁場での特定漁具の敷設を禁止したものであり,海面宮有思想がすでに現われてい

る.

 結論としては明治改革直後封建的漁場秩序を承継した新政府は, まず一般社会秩序維持策の一部として漁 村秩序の現状維持をはかり, その中軸としての封建法的漁場支配の新権力による承継的黙認とその旧地独占 性を税租上納とひきかへに公認した. そしてその性格を徐々に近代法思想のなかに包摂していく過程をたど ったと考える. それは土地私有化と並行する私的漁場支配の容認でありゃがて借区制布告による中央集権的 再編成の前過程の意義をもつものであった.

 この制度としての違式註違条例は強力に地方的に滲透したし, またなお漁場法体系の確立をみない雑犯律 から違式条例におよぶ期間は, 明治初期裁判所の性格と結合して結果的には封建的漁場支配権の維持に大い にあずかって力があったとみなければならない. かくて全体のこの期における漁場法秩序は近代刑法への展 望をもつ初期刑法に支えられる封建的漁場支配秩序が支配的であり・ 制度的には徐々に近代的漁場支配観念 が現わていたといえる.

第3節 明治維新と漁場秩序への影響 第1項 漁場秩序変動に関する従来の諸説

 以上の法制度的推移はどのような漁村経済の変動とくに漁場秩序を背景として行われたのであろうか. ま た地方的には各県布達のもとでどのような秩序形成が行われたであろうか. この時期は法制史,経済史とも に史料の最:も欠けている部分であるため全国的状況を知ることは至難に近い.以下これに関慰する諸家の見 方や断片的な史料によって漁場秩序変動の状況について若干の考察を加えてみよう.

 まず諸研究者の所説をみると通説的なものはなく夫々の視点によって両極に分わている.第一にその歴史 的叙述において明治期漁場制度の端初を8年借区制布告に求めそれ以前は全然関説しない見解がある39).こ れはおそらく明治改革直後から8年までを変動なしとするものではなくなお未検討の分野どしてふれえなか

ったためであろう.

 第二は不変説をとるもので漁村経済構造にしめる封建的網元支配の持続を強調する立場からの従来の経済 史家にみられる態度である.例えば和田捷雄氏は「江戸幕府がたおれ明治政府になった際,政府は初めは漁 村に対しては何等の改革も行わず,放任して徳川時代の政策を踏襲した.従って前時代の封建的重税もその まま漁村に課せられ,貢租の納入によって地位の保障されていた津元は,相変らずの津元制によって,漁村 に勢力を維持出来たのである…39)」と前置して以下豆州長浜村や重寺村小前層の津学制攻勢をのべ結論とし ては若干の動揺はあったが基本的に二元制は維持しえたとする.

 また山口和雄教授は富山県灘浦台網史の研究において「政府は同4年7月に廃藩置県を断行したので,従 来藩より漁業権を附与されその特許の下に営業していた各地の漁業権者(網主船元)は,原理上は一応その 漁業権iを喪失し,それと共に漁業税納付の義務も亦消滅することになった.…此地の藁台網漁業に於ては,

少くとも実質上は殆んど変化なく旧慣のまま営業を続けたようである40)」とみている.

 和田氏の論点は形式的制度面での旧態存続を強調しそれ故に全体的津元制に変化なしとするものであるが,

同氏もひきつづき分析しているように長期の小前階層の斗争によって遂に18年新たな資本主義的漁場独占を ともないながらも津元による封建的漁場支配権は実質的に繭壊するのである.したがってたんに形式的制度面 の持続のみを理由として漁場支配の旧態維持を結論するのは検討を要する.むしろ法令上の不変にかかわらず すでに8年の海面借区制布告の基礎作り『としての法現実的経済構造的変化が徐々にみられたと解すべきであ る.小前層の経済的条件の向上,新規漁業者による旧慣打破は津元層連合による旧慣温存対策を実質的に動揺 せしめ次第にそのブルヂョァ的発展をとげていたことは内浦漁民史料のしめすとおりである.

 また山ロ教授の論点は旧藩消滅をもって旧漁場支配権の消滅とみているが, 権力交替はあったとしても税 納による漁場支配という形態はひきつづき行われていたのであり (前掲新潟漁場紛争),のちにのべるよう に8年雑税廃止布告但書や同年借区制布告後段に照しても事実に相違している. それ故に山口教授もいうよ

うになお台網経営者は安固とした地位を継続できたのである. 然し同教授も説くように漁業株の解体は8年 借区制以後に現実化しておりこの点からすれば和田氏に対すると同様の批判がなされてよいであろう.

、最後に維新直後の混乱と漁場秩序の変動を認めながらも, 8年以後の上からの法令的慣行尊重政策によっ

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て幕藩体制が持続されたとする羽原又吉博士の見解がある. これによれば改革後における漁業の状態は「旧 慣打破と自由経済の生活,職業自由の原則は生産(浜方)流通(市場)の封建的連鎖を打破し,従来の株ま たは財産という如きギルド乃至ツンフト的組合制は産業の自由制によって代位せらるるに至ったから, 一方 に於て同業者問の慣行規約は廃棄せられ,しかも他方における新慣習は未だ成立せず,斯業に於ける生産流 通二つながら混乱の状態に陥入れられたのであり」, その結果として「大都市近縁の一部漁民を除けば,多 くの浦々の生活は大体に於て旧幕時代のそれと大差なかったにも拘らず,自由と民権の流行語は漁業及び漁 村生活に於けるいわゆる良俗美風を犯し,一に私利私欲を生活の本道と誤り考える結果は種々の弊害を醸し 出すに至った41).」とくにこの自由思想は廃藩置県によって盛んとなり 「藩庁により許可された各種の漁業 特権は廃藩と同時に喪失せるものであるとの見解…は当時漁村部落の現実生活の上に屡々考えられた観念で

あって…42)」この風潮を助長したとのべている。

 しかもこの弊風は9年の74号布達によって旧慣尊重令が公布されたのちも継続され, 「営業自由の革新的 思想強き地方に於ては漁民はその漁場を消失し生活手段の基礎を失える点に於て全く士族と同じ境遇に置か れたのである」.更にまた漁村内部の生活に於ても, 「維新後は規約に対する遵法心一般に放漫となり漁具 漁法も急速に繁れて酷漁濫獲に陥りがちになってきたことは産業自由思想の悪い一面を現す地方共通の事実 であった43).」そして一方74号布達の慣習尊重令によって「実際の取扱では旧漁業者を先づ保護しその営業を 持続せしめんどしたことは事実である. それ故に結果からいえば幕末期に於ける封建的漁業の生産機構は先 づそのまま継承したと見てよいのである44).」として一時の混乱の回復と幕藩体制への復帰を結論している.「

 この羽原博士の所説の検討すべき諸点は,第1に旧慣=封建的漁場支配機構を維新後にひきつがれるべき 良慣習とみなし,それが産業自由思想によって破かいされたとする思想である. この封建的漁場支配権にた

いする考え方は博士の漁業経済史研究の技術論的偏向であって, 資源保護上の技術的取締と漁業生産関係を 同次元でとらえることの混乱から生れたものといえる (封建的漁場秩序にたいする博士の論証はその著「日 本漁業経済史」に詳しい).

 第2にその結果として当然なお封建的生産関係=封建的漁場支配関係にとどまるべき漁村が産業自由の解 放思想のために著しく良俗美風=資源保護的自治取締を無視するの弊害に陥ったとする. したがってここで は酷漁乱獲が実証されたとしてもそれが漁業生産関係の矛盾からではなくたんなる技術的視点からのみ取扱 われている点である.

 第3の問題点はこれらの解放思想によって旧支配漁場を喪失する者も出てきたが(それを旧士族の没落を広 いる点は事実の本質をついている),74号布達の制度的圧力によって再び旧支配者に返還され, 幕末期漁場 秩序体制に回復したとする点である.ここでは漁業生産関係の変動を認めながらもそれが旧態に復するとい うのは,本論文所載の若干の資料によっても実証されないし博士もまた実証していない.これはおそらく技術 的取締秩序の旧藩的再現を文字の上で同一視され,それを生産関係と混同された結果ではなかろうか.

 以上の羽原博士の所説は問題提起における旧藩慣行の絶対視や解放法令を社会悪とする点に基本的な問題 が存在するしまた方法論上混乱がみられる. 明治改革期変動の若干の実証的研究に拘らずなお多くの疑問を もつ所論であろう.

 第3のグループは若干の秩序変動を認めるものであり多くは法律学者によるものであるが,その理由は漁 業法令そのものではなく一般制度とくに解放法令の漁業への影響を重視しているものである. 然し何ら具体 的事例にふれず推定論の域を脱していない.

 例えば,大城朝市氏は「維新の一大変革と共に……漁業制度の一大変遷を来し各地に紛争頻発し一時は混 雑に陥った.殊に従来藩庁の特許に属したるものは廃藩置県後は一斉廃絶の姿と成ったが, 然し実際に於て は減等特許の特典は因襲の久しき慣行となって居たので, 各地の漁民互に其の慣習に依って漁業を営んだの であったが,中には紛議の醸成すると共に旧来保持した専用漁場も其の独占の権利を失い, 他の漁民の入漁 を余儀なくされたものも幽くない……納税に就いては猶旧慣に依り漁業に対して雑種税を課して居った.実 は此の雑種税を納付して居たことに依り漁業者は旧来の専用漁場を失はず其の専用権を保持し得た訳で あった45).」 とのべ, 雑種税の納付による旧漁場専用権の確保と若干の地域の漁場紛争による旧専用権の喪 失を認めている.

 この論旨も山口教授と同様に廃藩置県そのものに変革の条件を求め唯慣行がこの一大変革を免れしめたと

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しているが,廃藩置県は漁場解放運動を促進したにしても直接的な漁場制度変動ではなく, また雑種税云々・

も9年以後の府眞税制確立後のことであって,一般通説と同様に明治ユ4年頃までを一括推論しその間の歴史 的発展変動を掌握していないうらみがある.

 また片山房吉氏は「明治維新三百制変革し, 漁業制度も為に二時混乱に陥りたるも,やがて政府は之に関 する布告又は達を発して其の秩序の保持を図れり46)」とする.

 この両氏ののべる漁業制度とは勿論制定法秩序ではなく実態的な慣行秩序を指すものである1 然しその慣 行の法的基礎,経済的条件を歴史的時点において把握しての結論ではない.

 最後に明治改革直後がら大きな変動がありかつそれを恒久的な発展段階とみているのが最近の漁業経済史 研究者の見解である.もっとも漁業法研究者にも「明治維新後は旧来の諸制度一一:・一・時に大変革を見, 漁業に在 っても各地方何れも従来の法制旧慣共に破れて,一時秩序を失い為に各地方に漁業の紛争が続出した47)」.

あるいは「然るに萌治維新以後は一時にこれらの諸制度に大変動を来し, 従来の諸制度一挙にして廃滅に帰 したが為に,慣行は破がいされ秩序は棄乱され,永く各藩の罵藤下に圧迫させられて居た漁民は,tt反動的に 面面濫撫と陥るをも顧みず1漁利をのみ恣に貧つた49)」として封建的規制の廃絶と営業自由的混乱を説く者

もあるが,8年以前たついての見解としては全く事実と反する.

 きて最近め若千め史料研究に基いて経済的変動過程としてとらえるのが萩原宣之氏であって,新潟筒石,

藤崎の漁場紛争史の結論として,「(1朋治維新後も5年ユ0月の「納屋元廃止」の布達まではジ旧藩時の漁場 関係が継承され,、.筒石村大前の白麹に対する独占的支配権が続いていたこと②納屋元廃止布達が揖されるに 及び筒石村大前の沖漁支配権が崩れる端緒が開かれp.同村小前の細細進出が法的に可能になったのみでなく,

三崎出漁業者の沖漁進出運動が展開されるに至ったこと……以上の諸点から見て三三維薪の変革は漁場秩序 における封建的特権を排除するという点で進歩的役割を果したので≡あるが……4・)」 とし8年以前の進化過程 を評価している。

 また秋山嬉氏は 「かかる諸制限,諸体制は,明治維新め革命的風潮に影響され,摩三三県自由営業宣言 等,一連のブルジョワ的諸宣言によって,崩壊した50)」として反封建改革の一応の成功を認めている.

,以上の諸説は今戸研究op未整備から局部的特殊史料論や推牢的論述にとどまっているカ㍉  現在の漁業警察 法期・ついて喋態噸柳細分さの鵬では止擬えないところである・

 以下若干の史料たよって従来の見解に検再三を加へてみよう.

第2項封建的漁場支配権からの解放

、明治初期におけう漁場緯争li!i・その基底に封建的漁場支配権ρ廃滅・農奴牢的網元1制 (津元; 大前等)を ふ、くめた封建的浦浜体制の打破を目指しな炉ら, 前室上は漁場啄益の分配,職業自由息子にもとつく自由漁 業(新規漁業の公認)の公然化=漁場先規の打破として展開されている.』

 そして自由営業思想も漁業収益分配の改善も, 帰するところは隷属的漁民の農奴的身分拘:束からの脱却,

解放であり,いわば自由人としての身分的対等性の確保を目指し,当時の殖産興業(漁業生産力の増大〉・・商 品流通の近代化(商品生産の普遍化)という新政府の施策にそう合理的な要求であったといえる;■・

 然しながらそれらの要求がひとたびその基底をなす漁村政治経済機構の改変にふれ, 封建的漁場支配権め 動揺が芽ざすやi漁民の訴訟からの身分的拘束の解放は勿論ct)こと,一切の新規漁業を禁止するという反革 命的政策がことに未端の漁村の漁場支配関係においてあらわれてくるのである.   ・   t一

 勿論こうした方向は,その漁村地帯における封建的漁業者階層のもつ政治的経済的力, それと対立する小 漁民〆網子階層の連帯結合力の強さ,それらの関係を規定する漁業生産力の高さ, あるいは漁村諸階層乏)経 緕的裏付となっていた商人資本の新規漁業者との結合の強弱等幾多の諸条件によって, きわめて複雑な様相 と地方的特殊条件をうみ出している. そして以下のべる所は比較的上記の条件が新規漁業者をふくむ反幸寸適 言勢力に有利に展開した地帯であり,したがってときに地:方権i力も新政府の方針を制度的に実施しえたもの もある.

 然しこの期における封建的矛盾とその打破の思想はおそらく全国的一般的の郵のであったことは疑いな

・いところであり,このような先進的反封建斗争の数 規模のみによって,過渡期の二皮的変動の規定づけや

明治改革:一般における漁村の在り方を評価するのは正当ではない.前掲秋山氏は, 8年初区制当時の漁場紛

争を小規模なものとし,紛争拾収策としての借区制布告説を香定する根拠としているが,今後め史料研究に

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65 よって反封建斗争の高まりが立証された場合には是正されるべきであろう:すでに内浦紛争などにおいては 東京上等裁判所への提訴や内務郷への請願等も再三なされており,当時の新潟,静岡などの反封建斗争の巾 央への反響や,質的高さ,を正しく評価しなければならない.以下の漁村の動向は漁場紛争の反封建的性格が・

元年5月の株仲間廃止布告に端を発する営業自由,新規漁業の公認, さらに5年8月の「地代,店賃及奉行 人雇夫等給料相対ヲ以テ取纏メシム」(布告240号),10月の「人身売買禁止令」 (布告295号)によって代 表される維新直後の身分解放思想を中心とした一連の封建的制約からの自由を時代的背景としている.

 すなわち維新の当初の革命風潮は,漁村にたいする直接的な影響,都市同様の高さにおいてその解放を促 した地帯を生ぜしめたものであり,具体的には漁業株餉独占の撤廃, 自由漁業の要求,旧藩時の漁師身分め 撤廃=身分的漁場利用権の撤廃から封建的浦浜機構の批判に至る,きわめて尖鋭かつ基本的なものであった

といえる. そしてこの合理的近代的な小前層の要求にたいして,地方権力が旧網元層をふくめて反革命的対 策をとったのも明治維新の先進地帯における特質を物語っている.

① 越中斜懸網緑制の動揺

 元年5月の株仲間禁止布告は商工業を対象としたものであるが, 「漁業株もまたこれに伴って廃止となっ たことは」制度的には勿論であろう.然し越中灘哺に存在したr飛騨』なる漁業株は「実際に於て…効を奏 し初めたのは明治8年以降のことであったようである51)」. したがって一般に存在した仲間株としての漁場 株や漁村の商人株がいかなる過程で崩かいしたかは未詳であるが, 実質的な効果は漁業における封建的独占 を否認した8年借区制布告に求められねばなるまい. ここでは思想的動揺はあったとしても制度的に地方官 憲がその解体を推進したとは考えられない. むしろ山口教授ののべる漁業株の質的転化過程に重点を求める べきである52).      ・      「      ■

(2)各地方における解放諸令.

 各県においても積極的に漁場解放令を公布したものもあるがその下部の事情は未詳である. 例えば広島県 では旧藩時には地元の蠣漁場が売買,譲渡,書入,質入等の対象となり,村の庄屋,長百姓猟師惣代の証明 によって私有地化していたのを「官に収め以後営内一般の営業場」となすことを布達した53).当時は8年号 区制布告が実質的にすでに行われていたものであり, 株仲聞的漁場独占廃止の借区制布告の思想が地方事情 によって徐々に形成されていたことをしめしている.

 また前掲新潟の漁場紛争においても,明治5年ユ0月r納屋元廃止*』の柏崎県布達が出されている.すなわ ちr営業二限リヲ付候』納屋元網元制のr仕来』を廃止し,今後はr資本次第右営業巴町許』趣旨であった.

この布達の趣旨は必ずしも全面的な封建的漁場独占の解放ではなく, まず同布達によっても r上税見込可申 出右二付従前税有無ノ向キハ其始末取調巨細可申出』として旧税納を重視し, その後の納屋元大前平の運動 によって結局旧支配層独占に後退し小前層とのはげしい争いを起したことはのちにのべるところである.

 また同布達による新規許可は6年3月の同県の達によるとr小前漁師二勝手ノ漁業不為致ハ不都合』であ るので,自今r小前漁師ニチモ資本次第納屋元網元同様営業差許」 のであって,決してr従前漁場無恥皆々 之漁業差許シ候網羅ハ無之』としている54).

 すなわち地元小前層のなかからの新興ブルジョアヂーの進出を是認したものであり,その進出の妨げとな る納屋元亨の封建的解体を策したのである. したがって一般新規漁村のためのブルジョア的発展をすすめる 鱈手繰漁場の解放や再編成すなわち全面的な近代的漁場解放ではなかった. ここに小前層の反封建斗争にな やみ封建的株仲間廃止布告の一般情勢に対応した地方権力の最少限度の譲歩がみられる.・おそらく前記広島 県達も同一の本質をもつものであろう.

 つぎに特殊なケースとして伊豆白浜村の石花菜漁場がある.これは旧藩時に藩直営であったものが「明治 4年廃藩置県の好期に際し韮山県管轄の当時村民苦心惨胆の結果年額八百円宛の上納金を以℃漸く石花菜採

* 『二三渡世之儀ハ是迄納屋元網元ト称シ営業二限リヲ付記仕来ノ処以来ハ晶晶キ資本次第右営業可差   許候早上税見込可申出右二付従前税有無ノ向キハ其始末取調巨細可申出最モ海上営業候儀物付持場ニ   テ紛乱不致様両隣界口鉾旨連印書面ヲ以テ可申出者也

      壬申十月      柏崎県参事    氏名

      書中浜村至男振村海鞘村町       』

      (萩原宜之「朋治維新における漁村の紛争コPP.38)

参照

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