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明治初期の外国史教育

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明治初期の外国史教育

社会科学教育研究室 満  井  隆  行 序    言

ここで明治初期というのは,維新(明治元年)直後から,明治5年の学制頒布を経て,

明治14年,小学校教育綱領が公布され,小学校での外国史教育が中Lヒされる間の,十数年 問をさす。所謂欧化主義の時代である。今迄我が国の歴史教育史の著作は必ずしも少なく はないが,近代(明治以後)を取扱ったものは比較的少なく,その上外国史教育はあまり 重視されていない。これは小学校の歴史教育が永く日本史に限られた事由によるものと思 われるが,国際理解の教育が,人類の平和と幸福にとりいかに重大であるかを考えると

き,従来我が国での外国史教育がどのようであったかを究明することは,すこぶる重要な 意義を持つものと考える。

とくに,永い間の鎖国の祖法をふみきって,世界史の真直中におどり出した当時の,即 ち明治初期の外国史教育の実情を究明することは一つの責任でもあると思う。ここでは,

主として明治初期の教科書の検討を通じて,その頃の外国史教育の実情,性格を明らかに したいと思う。

その観点としては,大きくは日本史の一環として,日本教育史,又は思想史の一環とし て,更に,東西交渉史の上からはヨーロッパ入のアジア観それが教育上どのように受取

られたか,自由民権の思想が外国史教科書の上で,どのように表現され,どのように受取 られたか,問題は幾多あると思う。

本研究の動機は,明治27年,那珂通世博士の提唱による教科としての東洋史の成立の由 来性格を明らかにしたいと思い・そうなると少なくとも明治初期の外国史教育の実聾を 知らねばならぬことから,始まったものである。

1 維新直後の外国史教育       一

明治5年に著わされた「維新御布告往来」(沖志棲主人著)に,「皇政復古,綱紀御維新 文明開化の盛時に際し,旧弊を一掃し,上は華士族卒より,下は草葬の庶民に至るまで,

夙夜怠らず,勉励奮起して,皇朝・漢土・西洋の学術を研究し,実才を養iい,国家の大用

に供し,富国強兵の策を講究し,……勤王一途,報国尽忠,丹誠を抽でて五州万国に拉立

するの聖慮を遂げ,不凡の偉績によって登用され……各国の学兼備して,宇内に皇威の耀

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かんことを切望するのみ」とのぺている。これは五ケ条の御誓文の精神による修身書であ り,また新しい社会生活の実情を知らさんための,社会科的な冊子であるが,皇朝,漢七 西洋の学術といい,五州万国に拉立するの聖慮といい,実才を養い,富国強兵の策を講究

というところに,万国和親,文明開化の波濤にさおささんとする往年の気魂を観ることが できるo

維新以来の教育が,こういう新機運にはらまれて,新しい息吹を見せはじめたことは,

学制頒布によって一時期を画したが,そこにいたる胎動期の状態はどうであったか。これ を外国史教育という観点から眺めてみたい。

もともと,幕藩体制下にあっては諸藩の学校では,主として漢学が課され,儒教主義に よる経主史従の教育であった。史学の内容は支那史学で,中国の史書が多く用いられたが それはあくまでも勧懲主義の史学であった。国史の研究が儒者によって盛んに行われるよ

うになり,ついで国学者による国史研究が勃興して,六国史,古事記,本朝通鑑,大日本 史などが教科書として用いられ,幕末になると,史学が支那史と本朝史とに分けて実施さ れる傾向も見られた。(歴史教育講座第2巻所収,わが国に於ける歴史教育の発達)

明治4年の廃藩置県は,5年の学制頒布,6年の徴兵令実施の前提で,徴兵令によって 軍は中央政府の握るところとなり,学制頒布によって教育は中火政府の統切するところと なった。維新直後の藩立学校は,従来の教育を受けつぐ面と,新しい教育を開いた面とが ある。外国史関係ではどうであろうか。維新後の藩学で用いられた教科書として,中国史 関係では,春秋左氏伝,国語,史記,前後漢書,資治通鑑,通鑑綱目,十八史略,綱鑑易 知録,元明史略などが多い。十八史略は江戸後期より盛んに読まれるようになったもので ある。綱鑑易知録は,康煕50年(西紀1711),清の呉乗権の編,太古伝説時代から明末まで の史書で,通鑑の煩を削り,歴代の事蹟を簡明に叙述したもの。これらは中国人の手に成

るものであるが,元明史略は,宝暦元年(西紀1乃1),高松の儒官後藤世釣の編,編年体で 十八史略の体裁にならい,元明史の大綱を叙したもの,水藩彰考館総裁の名越南漢の撰 文がある。これらの書が教科書として用いられたのは,中国の通史に対する要求が,我国 人の間に起ったことを示すものであろう。明末清初の歴史としての三藩紀事本末(三藩と は明の福王・唐王,桂王のこと,清の楊陸栄の撰),清代史としての東華録(清の蒋良験の撰,

太祖より世宗の雍正13年までの編年史),更に我国人の著として清鑑易知録も教科書として用 いられいている。後者は寛政九年(西紀1797)邨山緯と永根鉱の編,清の太祖,太宗,世 祖三朝の編年史である。清代史をとりあげたことは,元明史略の欠を補うと共に,近代に 注目した点に留意すべきであろう。

西洋史関係の教科書では,英国史,万国史略,各国史(以上郡山藩),万国史(バルリー

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満 井:明治初期の外国史教育      55 ヲユリ小),万国史(英ワイト),各国史,人物伝(以⊥岸和田藩),洋書,蘇訳書類(犬山 藩)・ハルレー万国史,カッケンボス合衆国史(以⊥上総松尾藩),万国史(盛岡藩),万国 史・世界国尽(以上福井藩),蔽環志略(笠間藩),パーレー氏万国史(大聖寺藩),巴来氏 万国史(赤穂藩),聯邦史略(村松藩),西洋事情,西洋盛衰強弱一覧表西洋雑記,英国 史・万国史略,瀬環志略(以⊥山陰出石藩),瀟環史略(淀藩),瀬環史降西洋各国史(以 上松江藩)・万国歴史の大略(福山藩兵学科),パーレー万国史(徳島藩語学伝習所,語学とし て課す)などが検出される。

明治2年12月の福井藩学校規条の中学生(17才一20才)課業表は,皇典,漢書,洋書と分 れ,皇典の中で日本の史書,漢書の中に中国の史書,洋書の中で万国史がいれてあり,問 接的ではあるが・歴史における三区分法がとられている。明治4年に設立された金沢中学 校(金沢藩)の課業表は最も注目にあたいする。その学則に,「今般学制一変シ,皇漢洋 三学ヲ合併シ,新二正変則ヲ立テ四民ノ子弟ヲ教導ス。生徒ハ八才以上十五才二至ル者ハ 小学正則二入レ,専実際ノ学ヲ修メ其成熟ヲ待テ中学正則二進入ス。十六才以上ヲ変則生 徒トシ・中二就テ洋語ヲ学フ者ハ課業成熟スルニ及ンデ亦中学正則二進入シ,小学正則ヨ リ進ム者ト相合シ」,そして20才以上の者は原書を課さず,翻訳書等によって学ばしめ,成 熟の後中学変則に入れ,亦翻訳書等によつて講習せしめる。30才以上の者でほぼ一学に通 ずる者は普通科(小・中学) を経ないで直に専門学科に入ることを得しめた。洋書,洋語 を学ぶことが正則とされたわけである。教科書としては正則小学で世界国尽,西洋馴青,

正則中学で洋書歴史小ルイ,洋書歴史中ルイ,変則小学で西洋事情,変則中学で万国史 略,英国史略,西洋英傑伝などが見える。正則変則の中学の科目は,文章,史掌地理,

理化,数学などで,史学のなかで日本史,中国史,西洋史を拉立させたことは,後年の日 本史,東洋史,西洋史の三区分法の先躍をなすものであろう。

開国維新とともに,藩学に見られる特色は,洋学の採用にあり,それが江戸時代と異る ところは蘭学でなく,主として英学であった。英語の学習が進歩的な諸藩で重視せられ,

蘭人教師を招いて英仏語を習った藩もあるが,多くは米人教師が招かれ,西洋史の学習は とくに原書の場合これら米人教師又は横浜などに出て英語を学習した人たちによってすす められたようである。

次に地方の郷学について観ると,中国史関係では,十八史略史記,左伝,資治通鑑,

綱鑑易知録などが多く・西洋史関係では,西洋各国史,西洋史記 (以⊥小田原日新館,武蔵

国布田郷学校)・格氏合衆国史(小田原協同学校),万国史略,李仏戦争史略(以上武蔵国協

心神習舎)などがあげられる。世界国尽,西洋事情,瀬環史(志)略なども散見する。藩

立学校の場合と同じく,維新以来の洋学西洋史学習の勃興を見ることができる。藩学」

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郷学を通じて,その学習方法は句読科,素読科のうちで課されるものが多く,或は世界国 尽のように習字科で用いられた場合もある。又は語学の勉強のためや,講義,質問の科で 行われていて一定していない。布田郷学校(明治4年1月開校)の校則に,「今ヤ万国交際 ノ時二当テ旧習迂俗二泥マスー皇漢洋各長所ヲ搦リ,皇学以テ典故ヲ知リ,漢学ヲナシ テ正心修身ノ道ヲ学ヒ,洋学ヲ以テ吾知識ヲ発クヘシー蚊二学者経書ヲ読テ己ヲ修メ人 ヲ治ルノ方法ヲ求メ,歴史ヲ閲シテ治乱興亡ノ由ル所,忠臣姦邪ノ分ルル所ヲ察シー洋 書ヲ読ンテハ究理発明ノ新ナルヲ知リ,日新ノ大活眼ヲ開キテ国家有用ノ学ヲ為スヘシ」

と。ここに地方民の建学の理想を見ると共に,歴史教育の目的が明記されるが,西洋史は 洋学に入り,また窮理発明の新知識を求めるものでもあった。

また,協心神習舎の校則に「御国体ヲ弁へ,祭政一致,万国御愛撫ノ御恩頼ヲ考フヘキ 事一神慮ノ広大ナルニ習ヒ,固我偏僻ノ私論二渉ルマシキ事,、博ク天下ノ事情二通ジ,

梵漢洋ノ諸書ヲモ研究シテ学才ヲ育ツヘキ事」とあり,東西の外国史,外国地哩とともに 玉鉾百首(本居宣長著),祝詞式,鋳造化育論(佐藤信渕著),農攻本論(同前)などが教科 書であった。校長は井上頼囹である。井上績囲は平田篤胤の門人で,幕末明治侍代の国学 者,明治15年,皇典研究所を開いた人。神習舎の校則は篤胤や信渕の思想に則るもので,

萩藩の洋学校のように,エリザベス女王の誕生日,西洋の元旦,キリスト誕生日を式日と 定めたのと比ぺてみよう。このように学制頒布までの学校は朱子学系統を主にして,陽明 学,国学,洋学とその性格が多種多様で,従って外国史受容の態度もまちまちであったと 思われる。ただそこに見られる共通性は,海外の新知識の獲得という活気に盗れた新精神 である。

維新直後に用いられた西洋史関係の教科書を概観してみよう。先ず,パーレーの万国史

(徳島藩のパーレー万国史,上総松尾藩のハルレー万国史,大聖寺藩のパーレー万国史,赤穂藩の巴 来氏万国史はこれにあたる。岩和田藩で万国史バルリーヲユリ小とあるのは不凋)で,この書は米 人Goodrich著作のParley s Common Schoゆl History of the World−A Pictorial History of the World, ancient and modern, for fhe Use of Schools・のことであ

る。グッドリッチがパーレーという架空の老翁をして語らしめた万国史,その翻訳書が出 来たのは学制以後である。慶応3年(西紀1867),福沢諭吉が渡米の際溝入し持帰ってい

る(開国百年文化事業会編明治文化史5)。おそらく,この書を始めて我が国民に紹介したも のではあるまいか。

「万国史」(英ワイト)(岸和田藩)には,明治6年11月文部省版,作楽戸廊鷺訳編,万

国通史がある。その序文によると,この書は英人保准多(ホワイト)が1870年に著したも

のによって編したものである。ここに,万国史(英ワイト)とあるのはその原書である。

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満 井:明治初期の外国史教育       57

「カッケンボス合衆国史」(上総松尾藩)は格氏合衆国史(小田原協同学校)と同一書で,

原書である。著者は米人G・P・Quackenbosで,これの訳書にはともに明治6年刊の「

米国史略」高橋基一訳・「米利堅志」4巻岡干似,河野通之共訳がある(開国百年文化事 業会編日米文化交渉史)。 「聯邦史略」(村松藩)は米人ブリッヂマンが道光18年(西紀1838)

漢文で著わしたアメリカ合衆国史である。彼は中国で宣教師として活躍した人で,この書 は中国人に米国の政体人情風俗を知らす為に書かれたものであるが,明治4年箕作阪甫訓 点の醗刻本があり・当時識者の間に多く読まれ,米国知識の泉であったようである(昭和 24.10.史学研究所収,新見吉治博士,明治初年の米国知識)。

さて我国人で・はじめて西洋を歴史的に把握せんと試みたのは,文化5年(西紬8⊃8),

佐藤信渕による西洋列国史略の著であり,西洋列国史略の粉本となったものは,山村才助

(土浦の人)の西洋雑記である。西洋雑記(出石藩)は亨和元年(西紀180D の著,嘉永元 年の籾刊がある。西洋列国史略の後も,遠西紀略(安政2年刊,大槻西磐著,著者は仙台藩の 儒者)や泰西史略(安政5年刊,洋学著手塚律蔵著)などが刊行され,その他未刊のもの が多い(鎖国時代日本人の海外知識)。維新直後の藩立学校,郷学校などの教科書として見える

「万国史略」は,明治2年刊,西村茂樹の著にちがいない。原書はスコットランド人フラ サルタイトで・蘭語訳よりの重訳である。これは古代以来,普仏戦争迄の西洋史で,明治 6年にその校正版がある。西村茂樹は佐倉藩の人,開国論者で,幕末騒乱の裡にかくれて この書の訳編に従ったという。儒者流の撰夷史観から脱脚している。万国史略は凡そ万国 史と銘をうった邦人の書では最も早くあらわれた訳本である。

「西洋史記」(小田原日新館・布田郷学校)は仏,駝屡喚著,村上義茂訳,明治3年刊の ものであろう(歴史と地理・21巻4号・杉本直治郎博士,本那における東洋史学の成立について)。

各国史(郡山藩岸和田藩)・西洋各国史(松江藩,小田原日新館)については不明である。

英国史(郡山藩出石藩),英国史略(金沢中学校)のうち,後者は明治3年頃刊行の河 津孫四郎等訳述の英国史略(高市慶雄氏編明治文献目録)がこれにあたると思う。幕末に おけるイギリス史関係の文献では,近藤守重の伊砥利須紀略を蕎矢として,英吉利国紀略

(領田楓江著・嘉永2年刊・海外新話序章),英噛利紀略(嘉永六年刊,荒木審著),大英国史

(横浜で発行された邦字新聞万国新聞紀に慶応3年5月以降連戴されたもの,イギリス宣教師ペーリ

一編輯)などがあり・特に文久元年(西紀1861),江戸の毛利藩邸内の長門温知社刊行の央

国志は英人Wil!iam Muirhead(1822−1900,漢名慕維廉,宣教師として永く上海に在り)の漢

文の大英国志を翻刻したもので,当時イギリス史としては最も権威のあったものといわれ

る(鎖国時代日本人の海外知識)。 従って,維新直後のイギリス史は必ずしも英書による必

要はなかったと思われる。かく,西洋史では万国史と,。英米二国の歴史が多く学ばれてい

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る。瀟環志略は道光20年(西紀1848)に著わされた世界地理書。

その他金沢中学の西洋英傑伝は,明治5年刊,英フラセル著・作楽戸痴鷺訳の同名書(

明治文献目録)であろう。西洋盛衰強弱一覧表(出石藩)は慶応3年・加藤弘蔵訳編の西 洋各国盛衰強弱一覧表をさすのであろう。同書は1862年(文久2年)に公刊されたドイツ 人普羅克の著「ヂーマフトステルング,エウロベイセン,スターテン」の抄訳で・「西洋 諸国の形勢を居ながら一覧し,政事学,経学の参考とする簡便の書である」との広告が・

慶応4年の中外新聞に出ている(鎖国時代日本人の海外知識)。牽仏戦争史略(協心神習社)

については,明治4年刊,英プロット著,芳川春濤訳の牽仏戦記,明治5年刊,清原道参

,高田義甫編の通俗牽仏軍談がある(明治文献目鋤。これらにあたるか。仮名桓魯文の那 勃列翁一代記(明治5年刊) をはじめ,西洋の傑士についての伝記ものが明治以来多く著 訳されをり,又,独逸国開化戦史(東条一郎訳,明治6年刊)など西洋近世の事件につ いての著書も多い(日ξ治文献目録)。 これは教育的な立場から見るとき,日本の青少年が漸

く西洋の偉人傑士を範とするに至ったこと,幕末以来の傾向であるが,西洋の現代史に 注目したことを示す。

最後に外国史教育という立場から,西洋事情(出石藩など),世界国尽(福井藩協心神 習舎など) について語らねばならない。両書共に福沢諭吉の著,前者は慶応2年刊・後者 は明治2年刊,ともに地理書ではあるが,歴史書としての性格をも有する。「西洋剥青」

は西洋の新文明をひろく啓蒙するために書かれたものであるが,その小引に,洋外の文学 技芸を購究するのみで,各国の政治風俗を詳にしなければ,実用に益なきのみならず・害 がある。各国の政治風俗を観るには,其歴史を読むにしくはない・然し世人は地理以下の 諸学に於て其速成を欲するために,これを読むものがまれである。学者の欠点というぺし と説き,本文には先ず史記と題して各国の歴史をあげている。これは従来の地理学に代っ て,歴史を以て西洋文明認識の基本的ポイントとなすに至ったことを示す (鎖国時代日本 人の海外知識)。

「世界国尽」は,「専ラ児童婦女士ノ輩ヲシテ世界ノ形勢を解セシメ,其知識ノ端緒ヲ 開キ以テ天下幸福ノ基ヲ立ントスル微志」 (同書序言)によって著わしたものであるが・

その凡例に,此書はイギリス,アメリカで開版した地理書歴史類を取集め,その内から肝 要の処だけ通俗に訳したものであるといい,歴史に対する注意が忘れられていない。亜細

亜州の章で,「そもそも支那の物語 往古陶虞の時代より年を経ること四千歳 仁義五

常を重して 人情厚き風なりと その名も高く聞えしが一風俗次第に衰えて 徳を修め

ず智をみがかず 我より外に人なしと 世間知らずの高枕 暴君汚吏の意にまかせ 下を

抑えし悪政の天罰遁るるところなく頃は天保十二年英吉利国と不和を起し唯一戦に

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満 井:明治初期の外国史教育      59 打負けて 和睦願ひし償は 洋銀二千一百万 五処の港をうち開ぎ云々」,また北亜米利 加州の章では・「頃は安永五年の秋 十三州の名代人 四十八士の連判状 世界へ示す傲 文に 英吉利王の罪を責め 自から建てし合衆国一こころに吾ふ国のため 失ふ生命得

る自由 七十二戦の銀難を 消えて忘るる大勝利 目出度ここに英吉利と 和睦結ひし新 条約一政体ありて主君なく 天下は天下の天下なり 四年交替の大統領 上院下院の評 議役云々」と。中国の歴史,その中華思想,亜片戦争を以て国民をいましめると共に,ア

メリカの歴史,その独立自由の理を以て国民を導かんとすることがわかる。換言すれば,

歴史を諸学の上に立てると共に,歴史とくに,西洋文明国の歴史によって自主独立,自由の 精神を啓蒙せんとしたものである。ここに,維新当時における外国史教育に占める,福沢 諭吉の存在を意義ずけねばならない。学制領布以後もこれらの書は多く行われたが,笠間 市の結解治氏所蔵の世界国尽(和本)には,第一大学区第三十六番中学区大古山小学校(今 の宍戸小学校の前身という)の校印がおされ,学制以後の教科書として使用された実清をま ざまざと観ることができる。 (この節では学風教科書調査の資料として日本教育史資料巻1.2.

3によった)。

2 学制頚布と外国史教育

明治5年の学制の精神は,制度の上で当時最も中央集潅的であったフランスの画一主蕊 の学倒を採り,思想の上では功利主義,個人主義約な英米の教育思想が最も強く輸入さ

れた。

邑に不学の戸なく,家に不学の人なからしめる国民普通教育の発足が,早急に欧米先進 国に追いつくためのものである限り,外国史(西洋史)教育が当然重視されねばならない。

はじめ,下等小学の教科に地学大意がおかれ,上等小学になると,これに史学大意が加わ り,明治5年9月,文部省が市達した小学教則では,歴史は史学輪講として上等小学で課 すことなり,先ず日本史を,王代一覧,国史略を教科書として,第7級から第5級の間 に,外国史を第4級以上に課している。すなわち

第四級  六ケ月(第七年前期)  一週四時

史学輪講i 万国史略等ノ類ヲ以テ独見輪講セシム 第三級  六ケ月(第七年後期)  一週二時

史学輪論  五州記事等ヲ独見輪講セシム 第二級  六ケ月(第八年前期)  一週二時

史学論講  前級ノ如シ

第一級  六ケ月(第八年後期)  一週二時

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史学輪講  前級ノ如シ

各級通算しての教授時数は,日本史14時間,外国史10時間である。尚,下等小学四級・

地学読方で世界国尽,上等小学八級,読本輪講で西洋事情があげられているが,これらも 外国史教育の一翼を荷うものであった。尚,6年5月の改正小学教則では,史学という名 称は歴史と改められた。

中学教育では,明治5年9月の中学教則略では,下等中学(3年制)で,各級とも歴史 は史学という名称で課され,翌年4月の改正中学教則略で,史学は歴史となり,やはり下 等中学で課されている。明治5年8月, 「外国教師ニテ教授スル中学教則」が頒布され た。上下二等の小学校を卒業した者に,英仏独語中の一を以て1ケ年の予科を修めしめ,

更に上下二等各三年の中等の課程を修了した者をして,大学に入ることを得しめたのであ る。予科には歴史はない。その下等中学では,史学は万国史として,英 パーレー氏万国 史,仏 テユリュー氏小万国史,独 ベック氏万国史,上等中学では,史学として・英

ウィルソン氏万国史,仏 テユリュー氏歴史,独 ウエルテル氏歴史が課された。これは その生徒の学習した語学の系統に応じたものである。

ところが,外国教師を招いて,悉く原書を以て教授するということは容易なことではな く,明治5年,東京・大阪・長崎に開設された官立のこの種の中学も,翌年には他の種の 学校に変形され,上述の外国史教育がどれだけ実行せられたか疑問である。注意すぺきは 政府の意図する中学での歴史教育が,日本史を省き外国史のみを教え,それも内容は西洋 史であることである。

明治6年5月の外国語学校(小学校の卒業者が入る)教則によると,歴史大意として万国 史が課された。また外国法学校(外国語学校の卒業者が入る・16才以上)の予科の課程で・

万国史,列国史を課され,開成学校では,英法科の予科(L等中学に相当)で,ギゾー開化 史,ウィルソン万国史,グードリッチ米国史,グードリッチ英国史,スチューデンヒュー

ム英個史が課され,仏諸芸学科の予科で,ヂュルイ小仏国史,ジュリー歴史が課された。開 成学校の明治7年の予科(綜合的なもの)では,英国史,近世史,開化史が課され,明治9 年には同様予科の課程で,英国史,法国史,史学理論などが課された。また当時の規則に よると,予科の入学試験に,歴史では万国史大綱が課された。明治10年,開成学校が東京 大学となり,明治11年,予備門の教則では,和漢学科の中に,国史堕要,日本外史,日本 政記,十八史略,元明史略,通鑑肇要を課し,史学科の中に,万国史が課された。

私学の一例として,旧弘前藩の稽古館の伝統をつぐ東奥義塾の明治15年の規則では,予

備科(中学校程度)で,パーレー万国史,マルカム英国史,グードリッチ氏羅馬史,カッ

ケンボス米国史,ウイルスン氏万国史, ギゾー文明史,史記などが課され日本史はない

(9)

満 井:明治初期の外国史教育      61

(日本教育史資料2)。明治天皇が巡幸された時,ここの生徒は英語の演説を御目にかけ,

英語で讃歌を歌って御送りしたという(明治文化全集1)。これらはおそらく原書であろ

う。

さて明治5年の小学教則にあげられた「万国史略」について,明治以降教育制度発達史 第1巻には大槻文彦著としているが,その行刊されたのは明治7年1月であるから,やは

り従来多く用いられた西村茂樹のものではあるまいか。同じく教則にあげられた「五州記 事」(明治4年刊)は,寺内彰明がパーレーの万国史等にもとずいて訳編したものである。

パーレーの万国史は単なる西洋史ではなく,ヨーロッパを主としながらアジア,アフリカ なども取扱ってはいるが,アジア殊に中国史の叙述にいたっては大部分が荒唐無稽なもの である。欧化主義の教育政策を採った文部省は,中学校で西洋史を重視したように,アジ アや中国の歴史にはあまり注意しなかったものであろう。このことは,江戸時代の漢学尊 重,漢史重視の気風とは全く反対である。

けだし,西洋に対する歴史的意識は,江戸時代末期より起っているが,アジアに対する 歴史的意識は明治初年に於ては薄弱である。明治5年2月に作られた岡田輔年訳述の東洋 史略,上,下(国立教育研究所附属図書館蔵)は,カッケンボスの米国史,ゴイツの地理誌

などの抜葦で,今日の所謂東洋史ではなく,アメリカ合衆国の地誌と歴史である。その本 文の冒頭に合衆国の位置を,「……南西は墨西科,西は大東洋を限り云々」と記している。

元代(14世紀)にボルネオ以東の南洋方面を東洋と呼び,その後,今の東シナ海,太平洋 方面を小東洋,大東洋など称したところからその名をとったものである。新刻書便覧(明 治7年刊)の中に,岡田伴治という人の東洋史略2巻が見える(杉本直次郎博士,本邦に於け

る東洋史学の成立)。これはおそらく同一書ではあるまいか。

学制にもとずき,文部省は一応近代的なカリキュラムを制定したが,これは理想であっ て,地方の実状は読書,習字,算術が教えられたにすぎず,唯読書や習字に新しい教科書 が使用されたにすぎなかった。文部省も小学教則の公布と同時に,師範学校(東京)に命 じて,我国小学校に適切な教則を作成させ.明治6年5月,師範学校刷定のものを基準と して普及させる方針をとった。この師範学校作製の教則による明治6年の同校附属小学校 の下等小学の教科は,読物,算術,習字,書取,問答,作文,復読,体操等となり,上等 小学ではこれに,輪講,輪読,暗記,罫画等を加えている(東京文理科大学創立六十年)。

ここでは歴史は独立していないが,下等小学第1級,読物の中で万国史略巻L2.問答の 中で万国史略,上等小学第2級,読物の中で万国史略巻3.4.5をあげている。尚,日本史 の教科書としては,読物の中で日本史略があげられている(仲新:氏,近代教科書の成立)。

当時小学校の教科書は不足しており,明治6年4月,文部省は新しい教科書目録を布達し

(10)

たが,この中に史略(文部省版)がある。史略は日本史,支那史,西洋史を以て構成され たものである。

これら小学教則の地方における実施の状況を茨城県の例で示すと(樫村勝氏著茨城県教 育史参照), 県の第工次小学教則で,下等小学3級,地学ヨミ方で世界国尽,上等小学4 級,史学で西洋新書,国史略, 3級の史学で西洋事情,十八史略, 2級史学は前級の如

し,1級史学は五州紀事,元明史略とある。第2次の小学教則(明治7年頃?)で,下等小 学第4級,読物の中で史略(皇国支那ノ部),3級の読物,問答の中で史略(欧羅巴ノ部),

世界国尽,2級の読物,問答の中で史略(亜墨利加ノ部),世界国尽が課されている。上等 小学では,読物の中で,7級で西洋新書,5級で内国史略,4級で工代一覧,3級で王代 一覧,近世史略となり,別に口授書として西洋英傑伝をあげている。明治9年第4次の教 則では,下等小学3級2級で,日本:略史(東京師範掌校版),1級で万国史略(L2)を課し ている。上等小学では陸軍文庫日本略史を課しているが,外国史はない。ここに見える万 国史略は東京師範学校版の大槻文彦著であろう。

これらの県制定の教則がどれだけ実行されたか,実際は無理であったようで,正規の課 程を経て進級の方法がとられるようになったのは明治9年頃であったという。しかし,以 上の教則はある程度実行せられたと見てよく,教科書の例によってみても,文明開化の波 に乗る外国史教育はここにもあきらかに見られるのである。

新に師範学校が東京に設けられ,教師として米人M.M. SCottが招れた。

明治7年の同校の教則によると,史学では皇朝史略,十八史略,元明史略,泰西史鑑,

西史綱紀,万国新史が使用され,明治10年の教則では,小学師範科で,皇朝史略,続国史 略,古代西史綱要,近世西史綱要,通鑑肇要,清史撹要が用いられ,中学師範科(羽治9 年併置)で,皇朝史略,西史綱紀,テーロル万国史.ギゾー開化史,史記,左伝,清史携 要などが課された。以上を見ても,日本史にうすく,外国史でも西洋史が重視せられてい る。明治14年の小学校教則綱領の公布により,小学校の歴史科は日本史に限定された後,

明治16年の教則で,小学師範科は日本史・支那史・万国史となり,中学師範科は開化史と されている(東京文理科大学創立六十年)。このことは,小学佼の歴史科が日本史だけとな っても,師範学校では外国史が課されたことを知ることができる。小学校教則綱領で,小 学校の歴史科から外国史がしめだされた事情を究明するまでに,学制以来各種学校の外国 史教科書として例示又は指示されたものを中心として,当時における外国史教育の性格を しらべてみよう。(この節で教育制度の資料として,主として,明治以降教育制度発達史第1巻に

よった)

(11)

満 井:明治初期の外国史教育       63

3 外国史教科書

ここでは一応第1節で述ぺたものは省くこととする。「グッドリッチ米国史」・「グッ ドリッチ英国史」(ともに開成学校)グッドリッチ氏羅馬史(東奥義塾)は,夫々パーレー 万国史の著者GoodrichのPictorial Hictory ob the United States, England・Rome にあたる。前者の訳本には,桑田親五の合衆国小史(明治7年,文部省刊)がある。

「独ウェルテル歴史」(洋学を以て教授する中学校)の訳本には西村茂樹の重訳本である 泰西史鑑(官許,曜治初年)がある。

「英ウィルソン万国史」(洋学を以て教授する中学,開成学校,東奥義塾)はwillson, M・

駅011tline of Hiotory皿vols. N. Y.1854,同上書, N.ヱ1875 (共に東京教育大学附属

図書館蔵) などにあたると思われる。「近世西史綱紀」,米ウィルソン著,堀越愛国,小島忠 廉訳(明治4年文部省版)はこれの訳本である。 また続西史綱紀(明治12年東京師範学校蔵 版)というのもある。

「テーロル万国史」(東京師範学校)はTaylor W. C.による哩曜A MaPual of Ancient and Modern History. がこれにあたる。この訳書には,「迭洛爾氏万国史」,巻一,二,木 村一歩訳(明治11年文部省印行)がある。この訳本は西紀1867年のニュー・ヨーク版によっ

たもので,ついで,同名書,巻三,永田建助訳(明焔17年文部省編輯局版)がある。これは 列国史的な万国史でなく,大体古代より近世にいたる広い意味での西洋通史である。著者 Taylorはアイルランドの首府Dablin市のTrinity Collegeの教授である。西紀1876年 版(第11版)の原書(東京教育大学附属図書館蔵)によると,アメリカ合衆国の章はニュー・

ヨーク市の大学教授C.S. Henryの記したもの。中国史については,孔子(Confucias)

の時代から阿片戦争までを近世史の一章でのべているが,同じく近世史の一章をあててい ても,合衆国史の場合とは比較にならぬ程うすい。しかも清朝初期からの記述が大半をし める。阿片戦争についての記述は,道光帝のヨーロッパ人への偏見更Tao−Kwang, who is even more prejudiced agalnst Europeans を指摘したり,中国人の中華思想を批 判しながら,阿片の害毒については何らふれていない。また℃anton(広東)and NingPo

(寧波)……were taken by mere handfuls of British troops, and the immense 1nasses collected in the imperial armies were unalle to withstand an organized

force rarely amounting to the tenth of their numbers. と記して,近代兵器(火砲 軍艦)の優秀による勝利をあげていない。全くイギリス側の記述である。またキリスト教 的な偏向については,パーレーの万国史其他に見るアダムとイブを以て人類の祖とするよ

プレステイソ

うな記述はないが,上古史の不列斯底(Palestine)紀(木村訳, P.63)は多く教会史によっ

(12)

ていると思われる。またローマ帝国のユリアヌス帝Julian the Apostate(在位361−63)

のキリスト教迫害の記述の如き(原書P.306),明にキリスト教護持の立場にあるものであ り,ことにマホメットについては「其門徒ハ彼ノ謳言ヲ以テ上帝ノ啓示トナシテ固ク箆信 シ,加之其醜態見ルニ忍ビザルガ如キ放蕩ノ所行ト難トモ,此偽予言者ノ為ス所ハ悉ク信 受セザルハナシ」(永田訳P.129)とあり,原文は更受his followers recieved his words as the inspired oracles of God, nor were they undeceived by the gross Iicentiousness in which the pretended prophet indulged. (P.358)となっている。

「ギゾー開化史」(開成学校,東京師範学校など)は,ギゾーのヨーロッパ文明史 F.P.

G.Guizot, Histoire g6nerale de la civillisation en Europe,1828 ,が原著で,英訳本 も多い。慶応義塾では,慶応3年以来最上級のテキストとして用いられていた。訳書とし ては西洋開化史2巻(明治8年,魏訳局訳)がある。これは原語がそのまま用いてある点か らフランス語からの直訳であろう。また永峰秀樹がその英訳本から重訳した欧羅巴文明史

(明治7−10)などがある。ギゾウはソルボンヌ大学に史学を担当し,またフランスの立憲 王党の領袖で,自由主義者として活躍したイギリス流の立憲主義者であった (北海道学芸 大学編学芸2巻2号所収,高橋功氏,幕末明治初年における西洋史研究参照)。維新以来.日本 史・中周史関係の史爵は人々の満足するところでなく,西洋史学の影響を受けた新しい史

観にもとずく啓蒙的史書が盛行し,これが明治初年の一大特色となっている。従来のよう      ●

に,単に編年体・列伝体の記述に満足せず,人類の発展,文明の進歩の跡を求めんとする 動きが顕著で,この点明治2年の修史の御沙汰書に「速二君臣名分ノ誼ヲ正ン,華夷内外

ノ弁ヲ明ニシ,以テ天下ノ綱常ヲ扶植」するものとは異るものであった。ここに発展とか 進歩の観念を歴史のうちに求めるようになったことは,後の史学に大きな影響をもたらし たのみでなく,人間の理性の勝利から生じた進歩思想は,当時の知識階級を強くひきつけ た。大体ヨーロッパ史書の紹介には,手頃の通俗書の刊行と,進歩発展の傾向を明快に鋭 く著作の翻訳とがある。パーレーの万国史は前者の最も代表的なもので,スイントンの万 国史,テーラアの万国史をはじめその他多くのものは前者に属する。第二の類では,ギゾ 一のヨーロッパ文明史,バックルのイギリス文明史,ミニエーのフランス革命史などがあ る。田口卯吉の日本開化小史はバックルの文明史によってその著述の動機を得たかと思惟 されるが,ギゾーの欧州文明史はバックルのように大冊でなく,明快な講義をそのま・出 版した小冊子であって,一般にヨーロッパの歴史についての知識をあたえたのはギゾーで

あったらしい。(高橋氏前掲論文,開国百年文化事業会編,明治文化史参照)。

「ジユルイ小仏史」 「ジュリー歴史」(開成学校),「仏チュリュー氏歴史」(洋学を以

て教授する中学校)については,法蘭西志6巻 (仏ジユリ撰,高橋三郎訳,明治14年版,東京教

(13)

満 井:明治初期の外国史教育      65 育大学附属図書舘蔵)があるが,デュルイ小仏史はこれの原書ではあるまいか。後の二者は 名称からすれば一般的な西洋史である。

洋学を以て教授する下等中学の教科書であるパーレー氏万国史は原書で,その訳本では 巴来万国史(明治9年,文部省刊,牧山耕平訳)が最も有名で,その他にも巴礼氏万国史略

(囎礁橋順一訳環:枇万国史鰭古,亜細亜(明治礁真蝋思文鵬醐書

目録所見),ペートルパーリー著万国歴史直訳(訳者,刑行年不詳)などがある。

原訂は慶応3年,福沢諭吉がアメリカ合衆国から購入して持ち帰ったことは前述した が,この書は,当時アメリカでも標準教科書であった。歴史学の点からすれば推奨すぺき ものではないが,躍動的な筆致をもってするその名文は,一種の文学であって,少年の心 理を巧にとらえている。日本でもこれが他の万国史より最も早く,また最も広く流布して

いる。葦者Samuel Griswold Goodrich(1793−/860)はアメリカの著述家で, Peter Parleyはその筆名である。ボストンで璽The Token 誌を編揖して新進作家を養成,ま

た少年読物 The tales of Peter Parley about Am∋rica を刊行して人気を博したと

いう(岩波,西洋人名辞典)。上野図書館蔵の原書は,1873年ブイラデルフピアで発行され             o

ス改訂新版である。同書の初めに,Entered, according to the Act of Congress,1n the yerr 1854, by S. G. Goodrich, in the Clerk s Office of the District Court

for the Southern District of New york.とあり,この書の初版は1854年であろう。

最近の諸書にパーレーの万国史の発行年次を1871年(男治4年)として紹介してあるが,

これは読者に誤解をあたえると思う。

牧山耕平訳のものと比べると,1873年版のものは,構成,内容ともや㌧ちがっており,

日本のことについても牧山氏訳本にくらべて簡単で,訳本では1860年の遣米使節に及んで ペルリの名も出ているが,原本は Atreaty of peace and commerce was made between this country and Umited States, in IS54. で終っている。牧山氏の訳本 は1873年以後出版のものによったのであろう。

その構成は,第1章から第5章迄が緒言,ここに「歴史並に地哩誌の説話」「地球上水 陸の区分」とあるように,地理誌としての性格をもつ。第6章から37章までが亜細亜を取

イ ウ フ レ ー ツ

扱う。「アダムトイウノニ人ハ創造セラレテ亜細亜二現出シ,由非刺底河ノ近傍ナル以典

アツシリア   ヘブリ

ノ国二住シタリ」と人類の起原をキリスト教的に説明し,ノアの洪水から亜幽里亜,希伯 ウ来,猶太,キリストの出現などの記事は聖書にもとずくところが多い。ペルシヤの史を経

ア ラ プ   シ リ ア

て,支那,日本,亜劇伯,叙里亜などを取扱い,ついで印度をはじめ南アジア諸国, 靱

ア  フ リ カ

に関する記事である。第38章から47章が亜非利加の史,第57章から159章までが欧羅己史

で,希強、伊太利,土耳其,西班牙,葡萄牙,仏蘭西,日耳曼,填地利,勾牙利,普魯 ゲルマン

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ベルギ_       ブ リ テ ン

西,魯西亜,那威,丁扶,和蘭,比耳時,波蘭,大貌列顛の順で,凡そ国別にその史を述 べ,第160章から亜米利加史で,合衆国やメキシコなど,第188章から193章がオーシェ アニカ(Oceania)の史で,オーストラリアを含む南洋諸島の記事である。後の5章で,「

国政ノ渕源及ヒ進歩」「建築及ヒ貿易」「諸芸術ノ起元及ヒ進歩」「者発明ノ月日」とい うような題目で,近代的な色彩を出している。こ》に芸術というのは技術というほどの意 味である。列国史的世界史で,万国史という名にふさわしい。

つぎにこの書の性格を検討する。第一に,非常にキリスト教的史観キリスト教第一主 義で,宣教師の述作かと怪しまれるほどである。ノア(Noab)の子ハム(Ham)の後がア

フリカの人民,ノアの子シヤフェス(J6−pheth)の後がギリシアにいたり,ヨーロッパ諸 国の基礎をなし,ノアの子シユム(Shem)の後がユーフラテス河附近に散居し,シユムの      

qイラム(E−lam)がペルシア人の祖となるなどはともかく,支那の「基ヲ同キシ人ハ其 名ヲフヲヒ(Fohi)ト云フ,某史家(some Writers)ハ之ヲ以テノアト同人ナリトス」と述 ぺている(第28章支那ノ古代史う。また第36章「亜細亜史ノ復説」で, 「福音真道(コスペ ル)ノ聖教ヲ識ラザル間ハ彼人民許多ノ邪教ヲ尊仰セン,是レ亜細亜ノ真二同化シ難キ所 ナルベシ,マホメタニズム (回々教) ハ亜細亜中二蔓延スレドモ,此邪宗ヲ宗信スル所ノ 国ハ其人民曾テ幸福ヲ享クルコト能ハズ」など,古代ギリシヤ入の宗教,仏教,ラマ教,

ヒンヅー教みなよからぬ宗教として否定せられている。キリスト教即文明,ヨーロッパ即 文明というのである。

第二に,英米中心の世界史であって,アジア,アフリカ観は人種的偏見にみちたもので ある。このことについては,已に稲富栄次郎博士の詳論があるが(明治初期教育思想の研究)

一応こ〜でも触れてみたい。訳書の凡例にも「董中支那ノ条二至リテハ其謬誤アルヲ観ル

」と言い,訳者もその信じがたきことを認めている。ほとんどが猟奇的な説話である。例 えば「支那国帝ノ革命二十二朝ナリ……然レトモ其帝国ノ記臆スルニ足ルヘキ事ヲナシシ 者ハ僅々ノミ」(28章)と記し,ついで「チョース(Chaus)ノ治世二至ルマテ其帝王ノ顕

著ナル事 ハ余知ル所ナシ,チョースハ紀元前一千年ノ頃在世ノ帝ナリ,帝極メテ猟ヲ好      

ミ,毎二馬ヲ馳セテ民田ヲ踏籍シタリ……終二其民ノ殺害二遇ヘリ」(28章),にはじまり 帝ウハチ(Vati)が世界統御の欲あり,「万世不死ノ飲液ヲ醸造セント専ラ心ヲ尽シ」そ

の成らざるに先立ち不幸にして死んだとか(29章),「今・一人ノ帝……国政ヲ与リ聴カズシ

テ専ラ文学二従事……其首相……乱ヲ起シ」帝は書庫に入り其書を焼却,後終に逆徒の為

めに殺数せられた(29章)とかの類である。また「支那人ハ其俗誰詐狡酷」で,「其人民

ノ食物ハ……死狗ヲ市二販キテ之ヲ食二供シ間々鼠肉ヲ食ス」(30章) とかで中国を野蛮

視している。尤も孔子について「孔子ハ紀元前五百年頃ノ人ニシテ支那二於テ古今二卓絶

(15)

滴 井:明治初期の外国史教育      67 シ・最モ彰明ナリ,孔子博学ニシテ多ク著述ヲナシ旦道ヲ講ジテ之ヲ時人二授ケタリ,又 周遊中弟子ノ陪従シタルモノ数多ナリ」(29章) と記しているが, これなどは例外であ

る。

そ1853年(嘉永6年)ペルリ来航,1860年(万延元年)の遣米使節の記事である。日本は広 大の帝国,人口2600万,数千年間纂奪革命の大変もないこと,1853年に至るまでオランダ を除いて・外国船が港口に進入するを禁じたなどとある。1860年の遣米使節については,

「使節皆大二喜悦シ且其来訪ノ意旨ノ達スルヲ以テ満足シテ帰国シタリ」と記している。

筆者自ら日本史についての知識がなかったことは,当時アメリカ人の日本についての知識 の貧しさを示したものである。「宗門及ヒ風俗ハ支那二類シ,容貌ハ亜米利加印度人二似 タリ」「入民ハ像神ヲ信仰セリ」とか記して,日本を開明民族とは見てはいないが,日本 を 未開野蕃な国として極めて酷評 (唐沢富太郎氏著,教科書の歴史)してはいない。

その亜細亜観については,第36章亜細亜史の復説で,「其人民ノ情形古今同一ナルハ亜 細亜史ノ面目最モ奇異タル所ナリ,亜米利加及ヒ欧罹巴ノ如キハ知巧日二開ケ文化月二進

ミ,法制芸術凡ソ国ヲ利スルノ具日二新ナラザルモノ無シ,亜細亜ハ然ラズ,国王ハ何人 タリトモ人民ハ唯其奴隷ニシテ教化ハ毫モ進マズ,自由ヲ知ラズ,真正ヲ貴シトセズ,徳 行ヲ重シトセズ,而シテ又余謂フ所ノ安楽ナル事ト愛国ノ念ハ…・・亜細亜二於テハ之アラ ズ」「福音真道(コスペル)ノ聖教ヲ識ラザル間ハ…・・(前述)」とのべて,アジア史の後 進性をつくのならまだしも,その歴史のあることを否定しているのは,当時におけるヨー ロッパ人のアジア観を物語るものである。

アフリカについても(第45章),その内部の住民について,鼻のない人間,三眼或は四眼 を具える人民,首がなく胸に眼がついている人民,その頭が犬のような国王,など〜記し て全く人聞として扱っていない。信じがたき奇怪な活を紹介するとことわっているが,こ れまた当時ヨーロッパ人のアフリカ観を知るよすがとなる。現在アフリカ民族に自由独立 の運動が昂揚していること》比べてみよう。

ただし,パーレーの万国史が当時の日本人の教育にとって,どのような功果をもつか,

それは,第三の性格としての自由と独立,近代文明欧歌の思想であり,また,たとへそれ がヨーロッパ的キリスト教的なものであっても,その人道主義的な立場である。

奴隷売買を慨いて,「亜非利加史上最モ滲毒ナルハ売奴ノ 一大事ナリ……数千年間殆卜 地球上万国二行ハレタリ,然レトモ耶蘇宗門ノ行ハル・国ニテハ概ネ其弊風ヲ廃シタリ,然 ルニ1482年二方リテ葡萄人始メテ売奴ノ端ヲ開ケリ……其弊改マラス,然レトモ現今ハ殆 ト廃止セリ・売奴ノ商業始リシヨリ今日二至ルマテ黒奴ノ自国ヨリ略取セラレタルモノ数

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百万人二及ヘリ……抑々売奴ヲ禁ズル法ヲ立テ其売奴ヲ以テ海賊ナリト世上二告知セシバ 合衆国ヲ以テ首トス」 (46章)。

近代文明を欧歌して,「希臆人ハ学識無クシテ妄誕ノ説ヲ唱ヘシコト汝ノ既二知レル所

ナリ,即チ彼人民ハ此地球ノ円体ニシテ日々二運転スルコト及ヒ太陰惑星モ亦天空二於テ       嶋

回転スル所ノ大世界ナルヲ知ラス……」(,58章),

世の所謂英雄に対してもこれを道徳上から責めている。アレクサンダー大王について,

王を練めた老臣クリチユスを殺したことを記し,「鳴呼,歴山王其生命ヲ救ハレタル恩者 ヲ殺ス,惇虐ノ人ト謂ハザルベケンヤ」とその私行をのぺこれを批判している。その他シ 一ザー,ナポレオン,さては英国のエリザベス女王をも,その権力政治,私欲,残忍を巽 めている。英雄主義でなく,人道主我,人間主義である。

ヨーロッパを讃美するといっても,それは近代民主々義,自由主義をさすのであって,

ローマ帝国の歴史について,「此史も亦往古ノ諸国ノ史記ノ如ク戦争,虐殺,不正及ヒ罪 悪ノ話二富メリ……」(第68章),またローマが権勢を得たのはその外征によるもので,大 将は只敵を斬殺,却掠,その管下に屈服せしめたが,一方人民の苦痛はきわまりなしとの べている(第81章)。イスパニヤのメキシコ侵略,西インド征服についてはその非人道性を 痛撃しているが,イギリスのアジア,アフリカ侵略については,「亜米利加,亜非利加及

ヒ亜細亜ノ諸部ノ植民地ハ人口総計一億六千万二幾シ是皆英国王ノ管轄二帰ス,想フニ大 貌列顛ハ世界第一ノ富強ノ国ナリ(116章)としている点は注意を要する。

フランスニド命を叙して,「ガイルロタインノ斧,降下シテ王ノ首ヲ刎ネ終二身首処ヲ異 ニシタリ,王統ノ血斬首架上二注流スルコト此ノ如シ,是レ累代ノ仏王ノ積悪且権威ヲ疽 行セシ故二其罰寛二無皐ノ後胤二及フモノナリ」と(170章)。原文では DOwn came the axe of the guiUotine, and the head that had worn a crown was severed from the body! The blood of a kingly race gushed out upon the scafbold・

Thus the crimes and misused power of many kjngs had brought vengeance on thejr innocent descendant, P,218

アメリカの独立をのべたところで,印紙条令の発令について,「然レドモ亜米利加人ハ 協議シテ日ク,凡ソ地球上何レノ王ト趾モ余輩ノ応諾ヲ待タスシテ其産ヲ取ルヲ得ベカラ ズ,云々」Gτ6章),「革命ノ乱終リテ後合衆国ノ人民ハ憲法ヲ定設スルコトノ緊要ナルヲ 知レリ,即チ現今ノ憲法ハ是時国中ノ最モ賢明ナル人々ノ制定スル所ナリ」(179章)。「革

命ノ乱ハ重大ノ事件ナリ,其戦ヲ起ス所以ハ我ガ人民不鵬独立シテ自主自由ヲ得ンガ為ナ

リ」(179章)。

また合衆国の開化,繁盛の現状をのぺたあと,政府を家にたとえ,家屋を管理するには

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滴 井:明治初期の外国史教育       69 その人を要する.思慮なき人,怠惰,実心なき人に依托せば決してその家屋を保つことは できない。政府も家屋とひとしくその管理よろしきを得ざるとざは,或は炎焼し或は破壊 して我らの滅乏の原因となる,従って,「予力幼童此ラノ事ヲ熟考シテ,汝成人トナルノ 後ハ,国民ノ良友タル管理ノ任二適シ,且正直ナル者ノ外決シテ他ノ人ヲ管理者タラシム ル可カラズ」(179章)と。これはアメリカ合衆国の少年に教えることばであるが,明治初期 民権論盛行の頃の我が国の青少年に,立憲主義,自由,独立の思想を鼓吹したことは争え

ない。

この書のもつ第四の性格は,前述したことで分明であるが,教訓的,勧善懲悪的性格の もので,純粋な意味での科学的歴史でないことである。従ってそれは,或る意味で(キリ スト教史観),神秘的な色彩をもつことであり,物語り的史書であることである。第5の性 格としては,題目の(pictorial絵入り)が示すように,多くのさし絵,肖像,地図を掃入し て,直観教授の色彩が濃いことである。この点おそらく,当時のアメリカでも新しい型の ものではあるまいか。はじめから歴史に入らず,先ず現在のその国の地理人情風俗を説 き,次に歴史に入る。又しばしば人道主義,自由主義の見地から論評を加え,躍動的な構 成と叙述を示している。教科書として盛行した所以であろう。

次に日本人の手になる外国史関係の書として,先ずあげるべきは「史略」(明治5年,文 部省版)であろう。この書は各府県で多く翻刻されている。三巻よりなり,巻一皇国,巻 二支那,巻三西洋で,一,二巻は木村正辞編,三巻は内田正雄の編,例言に,「此書幼童 をして暗諦せしむことを要す。故に簡略を旨としすべて省略に従ふ」とあり,当時として は珍しい仮名交り文である。日本史,中国史,西洋史が一書にまとめられ並立的に取扱わ れたことは,幕末以来の皇漢洋の伝統を歴史書として受けついだもので,これは更に日清 戦争頃の日本史,東洋史,西洋史三区分法成立へと発展するものである。

このうち,西洋史略の緒言に,「古今の歴史概ね皆年代を上古,中古,近代の三段に分 てり・…・然れども此書国を以て分つが故に中古と近代の区別を為すときは反て混雑を生じ 易きが故に…・・」といい,上古歴史でアツシリヤ,フエニシア,猶太,ペルシヤ,希強,

羅馬についてのぺ,中古以下各国歴史として,仏蘭西よりはじめて亜米利加で終る。西洋 列国史の型である。その年代区分には西洋史学の影響がみとめられよう。

「支那の部」では,「天皇地皇人皇有巣燧人以上大古といふ」よりはじまり,清の同治 帝まて歴代王朝の順を追い,帝王の名をあげてその事蹟を略記している。清代の例をあげ       ■

驍ニ,「太宗名は蛮仔(エキチョ)年号を威豊といふ。その十年英仏北京をおとしいれしかば

燕河にのがる。明年講和せり」と。「皇国の部」の場合と同じ形式をとっており,内容も

政治史,戦争史である。ただし,西洋史略でフランス革命について,「路易十六世は仁恵

(18)

の君なれども,昔よりの弊風に因て貴族と僧侶とは威権を恣にし,門地有る者は坐食して 奢を極め,常に賦役を重くして平民を虐けしかば,国民皆政府を怨むこと深く,特に大な る騒乱に至らんとするの兆巳に顕る。」と。平静な叙述ではあるが,自由と人権の理をそ の中に寓している。

明治6年版の西村茂樹の「校正万国史略」は,明治2年版のものに手を加えたもの,彼 は同年,森有礼,福沢諭吉,加藤弘之,西周,中村正直,箕作麟祥らと明六社を組織,明 六雑誌を発行して民衆の啓蒙にあたっており.更に同年文部省の編書課長となっている。

アダム        エ  ワ

この、芽の構成は,上古,中古,近世に大別,上古史は「人類ノ始」を「亜当」と「夏娃」

の物語「椰亜」の洪水などで述べ,バビロン,アッシリアよりギリシア,ローマまで,中 ノ ア

古史は東ローマ,アラビアより「童子ノ十字軍」「東羅馬ノ滅亡」まで,近世史はコロン ブスのアメリカ発見から普仏戦争などを叙している。上古,中古,近世の各時代の夫々の 小区分ごとに各国史やその頃の事件をのべ,十字軍のごときも一括した項目にまとめられ ていない。この書の性格について考えると,たとえば,近世史四の下でイギリスのアジア 侵略のこと(印度の叛乱,アロー号事件など)を扱ったところでも,平静客観的で,むしろ肯 定的ではないかと疑われるほどである。この点,福沢諭吉の世界国尽の叙述と相通ずるも のがあるように思われる。これは明治28年9月版,宮本正貫著の「東洋歴史」がその総論 で,元代以来を近世とし,「東西ノ文明此二至リテ漸ク交通ノ端ヲ開キ,北方亜細亜,中 火亜細亜,及ビ印度ノ諸国首トシテ西人二侵入セラレ,一転シテ東方亜細亜二至リ,支那 ト西洋トノ衝突是二於テカ生ジ,我国及ビ朝鮮之二次ギ黄色人種ト白色人種トノ関係益々 密接スルニ至レリ」と論じて西欧勢力に対するアジア意識の昂揚するのとは,全く時勢変 遷の相違を感ぜしめるものがある。

校正万国史略の序に,三権分立の理想を論じ,イギリスの法を最善,アメリカの制を以 てこれにすぎたものとし,二国の政教風俗が天下に甲たる所以は,立政のその善をつくす ことに由らざるはない。アジア諸国に至っては君主独裁ならざれば官吏権を握る。そのヨ 一ロッパに及ばないのは人種の異にもとずくとはいえ,立政のその道を得ざるに由らざる はないと論じている。ここにも亦,自由民権を理想とするこの書の性格を観ることができ るo

大槻文彦の「万国史略」上,下は,明治6年,師範学校(東京)が小学校教科書として

編輯したもの。この書も地方版の翻刻書が多く出ている。この書の構成は,巻一亜細亜州

欧羅巴州上,巻二欧羅巴州下,亜米利加州で,亜細亜州では漢土の部が最も詳しい。ここ

で注意すぺきは,史略では皇国,支那,西洋の構成であったが,ここでは皇国は省き,と

くに,支那が亜細亜に拡大され,漢土の史のみならず,印度,波斯,亜細亜土耳古が加え

(19)

滴 井:明治初期の外国史教育       71 られたことである。印度波斯などの記事は,西洋の史書から訳出された(例言)ものであ るにしても,中央アジアや南海諸国の記事はないにしても,従来の支那史がアジア史に拡 大されたことは,後年の三区分法へ更に接近していることを示す。この書も,西洋の説に はとことわってはいるが,アダムとイブを以て人類の起原と為すというとしている。史略 でもこのように述べている(西洋史略上古歴史)。この書の西洋の部は史略を用いてこれを 増減したものである(例言)から,この記事も史略によったのである。すでに佐藤信渕の 西洋列国史略にも,アダムとイブの物語りが記述せられ,パーレーの万国史はもっとも詳 細且熱意を以てのべられているが,このような教会史観は中世以来のヨーロッパの伝統を ひくものと考えられる。

明治政府がキリスト教の禁を解いた明治6年の頃は,永い禁圧の影響でキリスト教はあ まりもてはやされなかったが,このような教科書がそれ以後のキリスト教の発展に多かれ 少なかれ一つの基盤を作ったことと想像される。

またこの書の合衆国史の末尾にアメリカの富強繁盛の状をのべて,「更二太平洋二蒸気 飛脚船ヲ置テ我日本及び清1国等ト期日ヲ定メテ相往来シ,且新タニ綿亘タル鉄道ヲ構造シ

…… セ平洋ノ海岸ヨリ太西洋ノ海岸二達ス,実二東洋貿易ノ全権ヲ掌握ス」と記すあたり 英米の文明を欧歌している。

「泰西史鑑」は前述の「独ウエルテル歴史」(洋学を以て教授する中学校)がその原書で,

表題に,普魯斯,閲士得府学大教授 物的爾著,荷蘭 吻拉弗府学教授 珀ホ佃訳,日本 佐倉藩大参事 西邨鼎重訳とあり,東京教育大学附属図書館の蔵本に上中の二編がある。

上編は明治2年の作,中編は明治5年の作である。

「万国新史」上,中,下は箕作麟祥の編(明治4−9),フランス革命からの西洋近世史で ある。これは英書にもとずくのみならず,フランス語の史書によって纂輯された点,当時 として珍しい。その凡例に,「紀元干七百八十七年,仏国ノ人民其君主二背キ政治ノ改革 ヲ図リショリ……法治日二新ニシテ今日ノ生面ヲ開クニ至レリ,故二今筆ヲ仏国ノ争乱二 創スル,蓋シ人ヲシテ欧土ノ治化人文ノ隆源ノ此際二発スルヲ知ラシムル所以ナリ」とあ

るように,自由民権の思想,ヨーロッパ文明を欧歌し乍ら,アヘン戦争,セポイの乱,ア ロー号事件についての記述は非をアジア人に帰し,英仏の行動を正当としている。アヘン 戦争について,「昔歳以来支那鎖国ノ宿弊ヲ除キ頑僻固晒ノ旧習ヲ去テ東洋史記ノ新面目

ヲ開キシ故二,近歳ノ戦闘中特二偉功アル者ト称スルニ足ル」と。自由民権の思想を啓蒙 する点では妥当性はあるが,ヨーロッパ資本主義のアジア制覇の事実を肯定する点,英米 中心の歴史観に立つものである。このような点は当時の万国史のほぼ共通した性格であ

る。

(20)

次に,中国史関係の教科書について概観する。前期にひきつづいて,十八史略,元明史 略の類が多く行われ,とくに十八史略では平易を旨としたものが多く刊行された。東京師 範学校の教科書として指示された「清史撹要」(増田貢著,明治10)は清朝の興起から同治 ユ3年(西紀1874)までの編年史(漢文)。亀谷省軒の撰文に,我と同文にして最も近いのは満 清である。英仏普魯の史は訳してこれを伝えているのに,満清独り史書がないのはおかし い。いま増田氏が群籍を抜葦して清史撹要を著わされたが,その史学に於ける功績は浅く ない。清の国はその土地の大,人の多きこと英仏普魯にまさり,仁義忠孝の教は古より伝 わっている。英仏に敗れ,兵力は普魯に及ばないが,今や恭親王,季鴻章らは建鑑練兵,

頗る遠略を1溝じている。やがて英仏普魯がその強大を檀にしようとしても不可能な時がく る。そうなれば,忠孝仁義の教は天地の間にかがやくであろうとある。反欧米的,親中国 的である。注意すべきは忠孝仁義の説である。同じく外国史教育であっても,欧米流の史 書は,自由民権文明開化を高唱し,中国についての史書は忠孝仁義を主張する。しかもこ

貫した歴史教育が行われていないことを知る。

明治19年,文部省が師範学校用教科書として指示した「元明1青史略」 (五巻)は明冶 10年,石村貞一の著,その自序に十八史略をつぐの意がのべられている。参考1昏には,蒙 古源流をはじめ,香港華字日報,申報など148部をあげ,実録型の編年史(漢文)で元の 世祖から清の光絡3年(明治10)までの紀述である。一等編修官重野麦繹の序文に,読史 には最も近世を詳にせねばならぬ,時事の跡を按じて鑑戒とすべきである。道光阿片の乱 で清兵敗甥,二十年の後,米人来って我に互市を求めたとき,士論紛々たるなかに識者は 清が尊大で外情に暗かったことをあげ,開国の要を力説,国是一定して交際の盛なる今日 に至った。石村氏の元明清史略の著は時事の鑑戒とすべきもの,とくに政に従う者がこれ を参観すれば国家に稗補すること大であろうと説いている。近世現代史重視の傾向ととも に,ここにはやはり歴史を以て世の鑑戒となすとの東洋の伝統が主張され,当時の歴史教 育の性格の一面を物語っていることを知るのである。

4 教育令制定以後の諸問題

明治初期,政府による多くの西洋史書の翻訳・刊行,外国史(万国史・西洋史)教育の重 視は,その欧化主義政策によるものであり,西洋思想は一時わが国の思想界を風靡するか

に見えた。しかし,その近代化も,その基づくところは欧米諸国と拉立して,国家の独立

と繁栄を図ることにあり,また維新以来の文明開化の潮流はあたかも他人の晴着を借用し

たようなもので,その急激な変化の底には,これに反抗する思潮も根強いものがあったこ

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