明治期熊本における近代工業建築の研究
2009年3月
磯田桂 史
「明治期熊本における近代工業建築の研究」
目次
第1章序論
●●●●●●DC●●●●■●●●。■●。●C●●●ひ●●、●、●●。●●●●●●■●□●●●●■●●●●●0●CCD●●●●●●●●S●●●●●印●● 113455681研究の背景と既往の研究………
2研究の目的……・…………・………・………
3研究対象の範囲………・………・………・………
4研究の方法………・………・…….
5論文の構成……・………・……・……
6用語の定義………
7本研究の位置づけ………
1111111
第2章 2章明治期熊本の近代建築………12 2-1マンスフエルト邸とジエーンズ邸一明治最初期の近代建築……12
2-1-1はじめに…・………..………12
2-1-2医学校兼病院及び洋学校の設立経緯………12
2-1-3医学校兼病院の建物について……・………・…・…13
2-1-4洋学校の建物について………16
2-1-5まとめ.………・………・…17
2-2明治10年代までの建築―いわゆる擬洋風建築の時代………20
2-2-1国の建物………..……・………・………..……20
2-2-1-1陸軍関係建物……・………..……20
2-2-1-2郵便電信関係建物………・・・………21
2-2-1-3国のその他の建物・………・…………・………22
2-2-2県等の建物・………・………・………22
2-2-3民間の建物………25
2-2-4まとめ…・………・………・26
2-3熊本県庁と第五高等中学校一本格的近代建築の登場………32
2-3-1熊本県庁舎………32
2-3-1-1熊本県庁舎の建設経緯………32
2-3-1-2熊本県庁舎の建築的特徴………35
-3-1-3まとめ..………・………38 3-2第五高等中学校………38 3-3まとめ………・………・…………・…38 明治20年代以降の工業建築一近代建築の普及と多様化…………42 4-l日本セメント(株)八代工場………43 4-2東肥製紙(株)工場………43 4-3大蔵省専売局熊本製造所………44 4-4熊本県工業学校…………・………・…・………45 まとめ………・………・………・……・…・………・………48
2’’4|’’一522一2222’
22
第3章熊本紡績(株)工場の平面の計画
………533-1はじめに………・………・………・…53 3-2既往の研究及び本研究の目的………・………・…………・……53 3-3熊本紡績について………・………・………・……54 3-3-1明治期における全国の綿糸紡績工場のなかの位置づけ……54 3-3-2設立経緯とその後の変遷…・………・……・………55 3-4月星化成(株)熊本工場に残存していた工場建物について………57 3-4-1工場建物の概要………・…………・………・…57 3-4-2建築年・………・………・62 3-5熊本紡績の紡績機械・………・………・…63 3-5-1日本側の記述………・…・………・………64 3-5-2英国側の記述………..………・……65 3-6ドブソン・バーロー社の図と熊本紡績の平面図との関係…………66 3-7熊本紡績の平面の設計………73 3-8まとめ………・………・…・………74
第4章日本窒素肥料(株)における石灰窒素製造工場…………84
4-1はじめに……・………・………・…・………・……・…84
4-2日本窒素肥料(株)の設立経緯………85
4-3建築的特徴・………・・………・……..………86
4-4建築年………・…・………・……92
4-5設計者、施工者.………・………・………95
4-6まとめ………・…………・………・……96
第5章 5章熊本高等工業学校本館………100
5-1高等工業学校設立の経緯と明治末の状況………100
5-2既往の研究及び研究の目的・……・…・………101
5-3熊本高等工業学校の誕生までの経緯………102 5-4校舎建設の経緯…・…………・………・………103
5-5現存図面………106
5-5-1現存図面の概要………106
5-5-2図面の作成時期…………・…・………・………107
5-5-3掲示図の信頼度………・………・…109 5-6本館図面の復元………110
5-6-1復元のための参考資料………110
5-6-21階平面図の作成………・………・……・…110
5-6-3北側及び東側立面図の作成………114
5-7本館の特徴・………・………・116
5-7-1平面の計画・…………・………・………116
5-7-2平面計画の寸法………・………..………125
5-7-3フアサード…・………・………・………・………・・125
5-8設計者、施工者.………・………・……131
5-8-1設計者・………..…131
5-8-2施工者………132
5-9まとめ………..…・…………・………..………133
第6章総括
………・………・……・………143Abstract………・………・………・………146
謝辞………149
(資料)
l図面集………付1
2古写真集………付22
3熊本県庁舎設計者船越欽哉…・………・……….付114
第1章序論
1-1研究の背景と既往の研究
日本の近代建築については、1980年日本建築学会によって『日本近代建築総 覧』いが出版され、全国のリストが作成されている。そしてその動向について は、様々な先駆的研究があり、例えば著作としてまとまったものは、村松貞次 郎による『日本近代建築史ノート』21、『日本近代建築技術史j31、『日本近代 建築の歴史肥'、桐敷真次郎の『明治の建築建築百年のあゆみ』5)、稲垣栄 三の「日本の近代建築[その成立過程]」(上)(下)61、村松貞次郎編『日本 の建築[明治大正昭和]j7i、藤森照信の「日本の近代建築』(上)(下)81等 がある。しかしながら、これらは日本全体を大所高所から見渡した研究であり、
それが都道府県レベル程度の地域では近代建築がどのように普及していったか、
あるいはどのような人物がどのような建築にかかわったのか等のテーマについ ては、十分な研究が進んでいるとはいえない状況にある。
例えば、前記藤森照信著『日本の近代建築』では明治初期の擬洋風建築につ いて、先ず木骨石造系擬洋風建築があり、次いで漆喰系擬洋風建築、さらに下 見板系擬洋風建築という流れがあったことが記されているが,'、熊本において は木骨石造系も下見板系も集団としての存在は確認できず、漆喰系のみが存在 したようである。このように日本全体を見た場合と都道府県のような地域レベ ルで見た場合とは必ずしも一致するわけではない。
しかしながら、都道府県単位の研究は次のような状況であり、大都市圏や札 幌等比較的西洋文明との接触が早かった地域以外では一定の地域の近代建築の 進展状況に視点を据えた研究はあまり進んでいない。
東京については近代化を積極的に進める明治政府の首都であったこと、また 横浜は開港以来外国との窓口の役割を担ってきたことから、日本全体の動向の 記述にはこれらの地域の記述が欠かせず、東京横浜の動向は上記の著作に盛り 込まれている。北海道は、政府機関の開拓使によりアメリカ文化の導入が行わ れるという他と異なる特色を持つ地域であり、現在研究が相当進んでいる。関 西も東京と似た事情があり、上記の著作以外には石田潤一郎の「関西の近代建 築」'0)がある。また愛知県においては近年、瀬口哲夫『官庁建築家・愛知県営 繕課の人々」’'1が出版され愛知県の状況がまとまった形で明らかになった。こ の他三重県については菅原洋一'21、山梨県では渡辺保忠'31、福岡県では石井邦
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信'鋤によって若干の解明がなされている。また地方で活躍した人物について は上述の瀬口哲夫の著作以外に角幸博等による北海道の建築家についての一連 の論文151があるがこれは明治時代中心ではない。
明治期政府機関が数多く立地し大都市圏に次ぐ近代建築先進県と考えられる 熊本においても、熊本大学において行われてきた研究'61や「熊本県の近代化 遺産」171という報告書はあるものの網羅的体系的な研究は未だ行われていない。
このように建築の分野においては、近代建築について地域レベルでの動向を 研究することが必要な段階にあると考えられる。
一方、別の観点から見ると、産業遺産に対する社会の関心の高まりという背 景がある。政府の世界遺産条約関係省庁連絡会議は、2008年12月、九州5県及 び山口県から文化庁に提案があった「九州・山口の近代化産業遺産群一非西欧 世界における近代化の先駆け」を、日本の「世界遺産暫定一覧表記載文化遺 産」に追加記載することを決定した'81。既に前年「富岡製糸場と絹産業遺産 群」が同リストに掲載されており、これで暫定一覧表記載12件のうち、近代の 産業遺産は2件となった。この「九州・山口の近代化産業遺産群」には旧集成 館機械工場、小菅修船場跡、宮原坑施設、万田坑施設、官営八幡製鉄所旧鍛冶 工場等の工場建築等が構成資産として含まれており、それらは明治期日本の近 代化を支えた工場としてその歴史的重要性を認められたのである。このような 産業遺産は、従来は、技術革新により不用になった時代遅れの古ぼけた遺物と して撤去すべき対象と考えられていた。しかし近年、近代化の歩みを目の当た りに実感できる貴重な遺産であるという認識が急速に高まっている。加藤康子 によれば産業遺産とは「その国の、その時代を担った人々の生活文化と知恵の 結晶」'9'であるという。
また、文化庁は、1990年から都道府県が行う近代化遺産に関する調査に補助 を行っている。熊本県におけても調査が行われ、その結果は1999年に『熊本県 の近代化遺産jx11として出版され、農林水産業、鉱業、工業、電力等14分野に わたって現存している遺産が明らかになった。
全国的には1990年代以降、各都道府県における調査の結果が活用され、近代 化遺産が国の重要文化財(建造物)として指定される件数が増加している。重 要文化財(建造物)のうち、近代は宗教、学校、官公庁舎、産業・交通・土木、
住居、文化施設、商業・業務、その他と8つに分類されているが、産業・交 通・土木という分類で61件ありそのうち19件には建築物が含まれている。この
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19件のうち1990年より前の指定は1956年の旧造幣寮鋳造所正面玄関(大阪府)、
1968年の旧菅島燈台付属官舎(愛知県)の2件のみで、それ以外は1990年の旧 阿仁鉱山外国人官舎(秋田県)、1994年の読書発電所施設(長野県)等全て 1990年以降の指定となっている。
さらに、1996年の文化財保護法の改正により登録文化財制度が生まれた。文 化財保護法による文化財の定義である「我が国にとって歴史上又は芸術上価値 の高いもの」(文化財保護法第二条)という部分に変更はないものの、従来の 重要文化財のようなレベルでの歴史上又は芸術上価値の高いものでなくても、
地域に親しまれているもの、時代の特色をよく表したもの、再び造ることがで きないものは文化財として登録されるようになった。平成21年3月現在7407件 の登録有形文化財(建造物)があり、そのうち近代以外や建築以外も含まれて いるが産業関係に分類されているものは全体の24%の1796件にのぼっており、
また工業である産業2次として分類されているものは10%、752件となってい る。熊本県内においても、例えば明治期熊本紡績工場内につくられた電気室は 移築された後、登録文化財となった。
以上のように、近年、産業遺産やそれに関連する近代建築の重要性が認識さ れつつある状況となっている。
1-2研究の目的
以上のように、近代建築については地域レベルでの動向を研究することが必 要な段階になっていること、近代建築も含まれる産業遺産に社会の関心が高 まっているという背景を踏まえ、熊本県の近代建築の歴史を体系化する研究の 第一歩として工業建築を取り上げる。近代化には工業が大きな役割を果たすこ と、その工業の発展には優秀な技術者の存在が不可欠であり優秀な技術者を大 量に生み出すには高等教育が必要であることから、本研究では熊本の明治期に おける工場建築と工業教育建築に焦点を当て、それらの建物の持つ建築的特徴 及びその建設経緯を解明し、熊本県の近代建築の歴史の一端を明らかにするこ
とを目的とする。
工場建築は、生産ラインの容れ物であり、生産が効率よく行なわれるための 建築が求められる。それに加え、建築コスト面においても厳しい要求があり、
一般に豪華な建物は造られにくい。また、技術革新等による生産ラインの変更 の障害となる場合は取り壊しとなりやすい。さらに綿糸紡績工場のように、か
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つては花形産業であり大規模な工場がつくられたが、産業構造の変化によりそ の業から撤退する場合、工場が取り壊され商業施設や住宅団地となるなど土地 利用が変化してしまう例もある。一般に工場建築は壊されやすい建築である。
しかし、そこでつくられた建築は、大規模なもの、大空間を持つものなどがあ り建築技術の発展を知る上で欠かせないものと考えられる。そして近年これら の建築に対し脚光があたり始めたことは先に述べた通りである。近代的工場の 勃興期である明治期に建設され、現在まで残ってきたものは、極めて貴重な存 在である。本研究ではこのような背景を持つ工場建築とその工場に技術者を送
り出した工業教育建築を対象とする。
1-3研究対象の範囲
l)対象地域を熊本県とする。明治期において熊本は福岡と並び多くの国の行 政機関が立地し、それらの建築は近代建築として建設されたため、他地域に 比べ、洋風化の進行が早かった特徴を持つと考えられる。いわば、大都市圏 に次ぐ二番手のグループと位置づけることが出来、そのような二番手グルー プの一例として熊本県を取り上げる。さらにそれだけでなく地元である熊本 県を対象とするのは、大学が自らの存在する地域のことを明らかにしその地 域に貢献することは大学の使命の一つであると考えるからである。
2)対象時期は明治期とする。明治期は、日本の建築史上最も変化の激しかっ た時期であり、その時期を対象とする。建築の変化は洋風化という形となっ て現われ、それは幕末からはじまり、明治以降も続いた。建築の潮流を画す る時期と日本の年代区分が一致するわけではないが、ここでは便宜上明治と いう年代区分で区切ることとする。
3)対象建物の用途を工業関係とする。日本の近代化に大きく貢献したのは工 業と教育である。日本では、明治20年代後半に軽工業を中心とした第一次産 業革命が興り、明治30年代後半には重工業を中心とした第二次産業革命が 興ったとされている。開国後僅か数十年で、産業革命を成し遂げることが出 来たのは、日本人の教育水準の高さに依存するところ大であるといわれる。
本研究では、工場用途の建物に加え、工業関係の教育用途の建物も対象とす る211。
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1-4研究の方法
研究方法は以下のとおりである。
l)実測により現状図面を作成する。
研究対象建物が現存している場合は、実測により図面を作成する。現存して いない場合は、次の2)の段階からスタートする。
2)公的文書、当時の新聞、古写真等の歴史的資料の収集・分析
関連する文書、新聞22)、古写真等各種資料を国会図書館、国立公文書館、県 立図書館等で収集し、その当初の状況、その後の変遷及び建設経緯等を明ら かにする。また、現存していない建物については、図面を収集し、各種資料 からその図面の作成年代を分析する。
3)これらによる当初図面の復元と考察
以上のような過程を経て、当初の図面を復元し、それがどのような建物で あったのか、その建築的特徴を分析考察する。
4)一方、2)で収集した資料により設計者、施工者の人的情報についても 明らかにする。
1-5論文の構成
第1章では、研究の背景と既往の研究、目的、対象範囲、方法、論文の構成、
用語の定義、研究の位置づけを述べる。
第2章から第5章までの構成は次図の通りである。
明治期熊本の近代建築第2章
_「壬~蘂~蓬~蘂 ̄ ̄ 工業建築
工場建築
工場建築 工業学校建築 工業学校建築
第3章第4章 第5章
まず第2章では、明治期熊本の近代工業建築の基盤をなす近代建築を概観す る。工業建築の母胎として熊本の近代建築がどのようにして生まれ、どのよう に進展を遂げてきたのかを概観する。そこで注目すべきは明治20年頃が時代を 画する-つの時期であったということである。明治期の熊本における近代建築
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の様相は明治20年前後で大きく二分されると考えられる。明治20年頃以前は本 格的近代建築のいわば先史時代ともいえ、その時代の、最初の近代建築とその 後の明治10年代までのいわゆる擬洋風といわれる近代建築について述べる。次 に熊本に本格的近代建築の時代をもたらした熊本県庁と第五高等中学校につい て述べる。その中でもこれまで殆ど語られることがなかった熊本県庁の建築に ついてはその建設経緯等を詳述する。そしてそれ以降は、近代建築は様々な分 野に普及するため、その中から工場関係及び工業教育関係の4つの建物を取り 出しその概略を述べる。さらに特に重要な建物については第3章から第5章ま でに詳述する。
第3章では2003年に取り壊された明治27年建設の熊本紡績工場を取り上げ、
その平面が、内部に設置されていた英国の紡績機械のメーカーが作成した機械 配置図にほぼ忠実に建設されていることを明らかにする。そして、地震対策等
日本で必要な技術的工夫を加え建設していることを明らかにする。
第4章では、水俣に現存するれんが造の工場の建築的特徴を述べ、さらにそ の工場が、当時の世界の最新技術を用いて石灰窒素をつくるため、日本窒素肥 料株式会社により明治42年に建設された工場の一部であることを明らかにする。
第5章では、明治期後半、工業界が優秀な技術者を大量に必要とする情勢に 対応し政府が全国に設置した高等工業学校のうち、全国5番目の学校として設 置された熊本高等工業学校の本館について、資料や写真を基に平面図、立面図 を復元し、当時文部省が建設した全国の学校とも比較し、その建築的特徴を明 らかにする。
第6章では、以上を総括する。
1-6用語の定義
ここでは、本論文で使用する基本的な用語の定義をする。
l)近代建築
『建築大辞典j塵〕'には「19世紀以来の建築の総称。」と冒頭に説明があり、そ の後に、主として欧州諸国を意識した説明が続き、「この語は狭義には1920年 代を中心とする国際建築の動向を指す。」と書かれている。
『建築学用語辞典」型'では、-番目の説明に「合理主義や自由な空間構成を 基礎に近代特有の問題解決に積極的な建築」とあり、二番目の説明に「日本 では近代の洋風建築をさす」とある。同辞典の洋風建築の項をみると「主と
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して幕末から昭和戦前期に、ヨーロッパやアメリカの影響を受けてつくられた 建築」と説明されている。
「日本近代建築総覧」25'では、「収めた内容は幕末・明治初期から第2次大戦 の終結まで、…の日本の近代建築」とし「いわゆる和風の建物は除いた。」と
して、近代建築についての積極的な説明はない。
村松貞次郎の「日本近代建築の歴史」は、冒頭「日本の近代建築が本格的な 展開をはじめたのは、幕末、明治維新のころ、すなわち十九世紀の後半に入っ たあたりからである。」261という記述から始まる。そしてもともと「私たちの いう近代建築は、合理主義・機能主義をそのデザインに標傍している建築だっ た」が、この本が書かれた昭和50年頃には「幕末や明治維新にまで遡って日本 近代建築の歴史を書きはじめることができるようになった。」と記述27)してお り、近代建築という言葉が指す範囲がそれ以前と比較して相当拡大したことを 述べている。
また日本の近代建築に関する各種の著書は幕末から書き始められている。稲 垣栄三箸「日本の近代建築[その成立過程]」(上)(下)では日本の近代建築 として「幕末・明治初期から第二次大戦の終結までの期間を取扱う。」281とさ れている。藤森照信著「日本の近代建築」(上)(下)では、近代建築について の明示的な説明はなく上巻に「幕末・明治篇」と副題が付けられている。石田 潤一郎、中川理編「近代建築史」では「日本の場合、「近代」という時代の出 現は、西洋化の開始とほとんど同義であった。」そのため「日本の建築史に関 して「近代建築」という場合、一般に西洋建築を指す。つまり、それは歴史様 式の建築も含み、近代主義に限定されない。」鋤としている。これらの著書に 対し鈴木博之編著、五十嵐太郎、横手義洋著「近代建築史」では「日本におい ては、近代化と西洋化はしばしば同一視されるが、その両者には明らかに違い があるはずである。」として「近代が生み出した和風建築についても述べてい る。」301としている。多くの著者は近代化と洋風化が異なる概念であることは 意識しつつも日本の建築では近代化と洋風化が重なることから近代建築として 洋風建築を対象としているのに対し、このように和風建築をも対象とするのは 例外的である。
本論文では、以上のような著書のうち多くの例に従い、期間は幕末、明治初 期から昭和戦前までの間において、構造、材料、意匠等様々な面で、欧米諸国 からの何らかの影響がみられる建築を「近代建築」と称することとする。そし
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て実際には、熊本においては幕末において近代建築があったことが確認できな いため、本論文では明治期を対象とすることとする。
2)洋風建築
「建築大辞典」では、「和風建築に対して、西洋風の建築をいう。幕末、開港 場に建てられた外人居留地の建物」と期間、場所を限定しているのに対し、
「建築学用語辞典』では「主として幕末から昭和戦前期に、ヨーロッパやアメ リカの影響を受けてつくられた建築」と「近代建築」とほぼ同様の意味に使っ ている。村松は「洋風建築」という言葉を使わず、「西洋建築」という言葉を 使っている。
本論文では、基本的に「近代建築」という用語で統一するが、明治初期から 熊本に本格的近代建築が登場した明治20年頃までの間、和風でない建築が珍し かった時期の建築について、例えば「洋風の意匠」というような用例では「洋 風」を使用することとする。
3)工業建築
一般には「工業建築」という項目は「建築大辞典」や「建築学用語辞典」に はない。また、「工場建築」という項目はあえて説明するまでもないかの如く
『建築学用語辞典」にはなく、『建築大辞典」に「建築種別の分類名で、用途が 工場」という説明がある程度である。
本論文では、工場建築と工業関係の学校建築両方を扱うため、それらを包括 する言葉として「工業建築」という用語を用いる。そして「近代工業建築」と は工業建築の中の近代建築をいうこととする。
1-7本研究の位置づけ
本研究は、本章の「1-1研究の背景と既往の研究」においても述べたが、
明治期九州の拠点として政府機関が数多く立地し大都市圏に次ぐ近代建築先進 県と熊本県を位置づけ、明治期の熊本の建築を体系的に把握するための第一歩
をなすものである。
これまで熊本の明治期の近代建築について全体的に述べられたものは、「熊 本県史」Ⅱ)と「熊本県の近代化遺産」型'である。熊本県史においては明治期の 建物として具体的に挙げられているのは、「近代編第一」ではジェーンズ邸、
第五高等中学校、「近代編第二」では洋風れんが造として第五高等中学校、熊 本電話局、熊本高等工業学校機械実験工場、同校冶金実験工場、熊本地方裁判
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所、熊本専売局、洋風木造として済々饗(明治33年、39年)、九州学院、熊本 県庁、熊本駅、上熊本駅である。ここではそれぞれの建築を概括的に述べられ ているだけであり、また参考文献としてこれらの詳しい研究が挙げられている わけではないため個々の建物について詳しい研究に基づく記述かどうかはわか らない。「熊本県の近代化遺産」では相当の数の近代建築が報告されているが、
産業別に述べられており建築を中心とした立場からその動向を追ったものでは ない。
しかし、熊本県の近代建築を全体的に扱ったこれらの業績は貴重なもので、
これらの成果や個々の建物に関する既往の研究成果も踏まえ、本論文は、熊本 の近代建築を網羅的体系的に把握しようと目指すもので、今回その第一歩とし てまず工業建築のうちの重要なものいくつかを取り上げその一端を明らかにし たものである。そしてそれらを単に紹介するのでなく建築的特徴などを詳しく 論じたもので、今後他分野の建築についても詳しく論じて行き、その上で網羅 的体系的に把握することを目指すものである。
以上のように、工業建築についてこのように詳しく研究を行ったのみならず、
このような目的を持って取り組んだところに本研究の特色がある。
注
l)日本建築学会編「日本近代建築総覧」技法堂出版1980年 2)村松貞次郎「日本近代史ノート」世界書院1965年 3)村松貞次郎「日本近代建築技術史」彰国社1976年 4)村松貞次郎『日本近代建築の歴史」日本放送協会1977年 5)桐敷真次郎『明治の建築」日本経済新聞社1966年
6)稲垣栄三「日本の近代建築j[その成立過程](上)(下)鹿島出版会1979年 7)企画・編集村松貞次郎、写真増田彰久『日本の建築[明治大正昭和]』全10巻、三省
堂、第一巻越野武「開化のかたち」昭和54年、第二巻小野木重勝「様式の礎』」昭和54 年、第三巻藤森照信「国家のデザイン」昭和54年、第四巻長谷川堯「議事堂への系譜」
昭和56年、第五巻坂本勝比古「商都のデザイン」昭和55年、第六巻山口廣『都市の精 華」昭和54年、第七巻石田潤一郎「ブルジョワジーの装飾』昭和55年、第八巻伊藤三 千雄十前野異「様式美の挽歌」昭和57年、第九巻谷川正己「ライトの遺産」」昭和55年、
第10巻近江栄十堀勇良「日本のモダニズム」昭和56年 8)藤森照信『日本の近代建築』(上)(下)岩波書店1993年 9)前掲注8)「日本の近代建築」(上)、plO5
10)石田潤一郎「関西の近代建築」中央公論美術出版、平成8年
9
11)瀬口哲夫『官庁建築家・愛知県営繕課の人々」C&D出版、平成18年
12)菅原洋一「明治期の三重県関係建築施設における洋風意匠について-三重県第二・
三・四中学校の建築を中心として」日本建築学会計画系論文報告集第408号、1990年2 月、ppl65~177
13)渡辺保忠「山梨県における明治初期洋風建築とその棟梁建築家について」日本建築
学会論文報告集第69号、昭和36年10月、pp845~848
14)石井邦信「明治洋風建築の地方への普及について-福岡市を一例として」日本建築 学会論文報告集第66号、昭和35年10月、pp637~640
15)例えば殿新のものでは、原朋教、角幸博、大田雄介「建築家・岡田鴻記の経歴と建 築活動について」日本建築学会計画系論文集第625号、2008年3月、pp669~675 16)熊本県知事寺本広作編集兼発行人『熊本県史近代編第一」熊本県、昭和36年、
pp579~578。「熊本県史近代編第二」、昭和37年、pp503~522。「熊本県史近代編 第三」昭和38年、pp364~pp382この他個別的に多くの研究がある。
17)熊本県教育委員会「熊本県の近代化遺産」1999年
18)熊本県教育委員会文化課19)加藤康子「産業遺産」H本経済新聞社1999年p3
20)熊本県教育委員会『熊本県の近代化遺産』1999年前掲注17)
21)このようなまとめ方の例として、明治14年に東京職工学校として設立ざれ明治23年 東京工業学校となった同校の「教旨」を紹介する。「東京高等工業学校二十五年史」
(明治39年、復刻版森仁史監修「叢書・近代日本のデザイン7」の一部(株)ゆまに
書房、2007年)によれば、明治23年教旨は「職工長又ハエ業教員タルベキ者ヲ養成スル所トス」(plO、復刻版p506)と定められたが、卒業生がこの枠組みには納まりきれ なくなったため明治29年「軍ニエ業二従事スベキ者ヲ養成スルコト、セリ」(pl3、復 刻版p513)と改められた。
ここでは工場と工業教育を包含する用語として工業が使われていることがわかる。
22)主な新聞としては、明治7年に始まり明治29年まで発行された「白川新聞」及び
「熊本新聞」、明治15年に始まり明治年間中発行された「紫漠新報」及び「九州日日新 聞」、明治22年に始まり明治年間中発行された「海西日報」「九州自由新聞」「九州新 聞」「熊本毎日新聞」「九州新聞」がある。
23)(株)彰国社編「建築大辞典第2版」彰国社、1993年
24)(社)日本建築学会編「建築学用語辞典第2版」(株)岩波書店、1999年 25)前掲注1)「日本近代建築総覧j
26)前掲注4)「日本近代建築の歴史jpl2 27)前掲注4)「日本近代建築の歴史」ppl2~15
28)前掲注6)「日本の近代建築」[その成立過程](上)p7 29)石田潤一郎、中川理編「近代建築史」昭和堂、1998年、pl4
10
30)鈴木博之編著、
えがき」
31)前掲注16)
32)前掲注17)
五十嵐太郎、横手義洋著「近代建築史」市ケ谷出版社、2008年、「ま
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第2章明治期熊本の近代建築
熊本においては、明治3年の藩政改革以降、近代建築の歩みが始まる。そし て、明治19年に熊本県庁、明治22年には第五高等中学校が完成する。この両建 築とも近代建築についての本格的教育を受けた建築技術者によるものであり、
ここで熊本の建築の近代化は一つのピークに達したと考えられる。そこで、明 治20年前後までは、各分野の建築について近代化の歩みを述べ、それ以降は主 題に沿って主要な近代工業建築について、その概要を述べる。
2-1マンスフェルト邸とジェーンズ邸 一明治最初期の近代建築
2-1-1はじめに熊本においては、明治最初期の近代建築としてジェーンズ邸!)(図2-1-
1)が現存している。この建物は熊本藩が設置した洋学校2)の教師として招 かれた米国退役軍人ジェーンズの住宅として、明治4年に建築されたものであ る。ここではこのジェーンズ邸も含む洋学校における建築群や洋学校より少し 早く開設された医学校兼病院3)の建築群について、特にその中の近代建築に 着目し、その概要等について述べる4)。
図2-1-1現在のジェーンズ邸
2-1-2医学枝兼病院及び洋学校の設立経緯
明治2年版籍奉還が行なわれ、土地と人民は中央政府のものとなったが、熊 本における行政機構は、実質旧来の体制のままであった。明治3年になり、横 井小楠の弟子達による実学党体制が成立し、この体制により近代化の第一歩と して医学校兼病院及び洋学校が設けられる。場所はいずれも熊本城のはずれ古
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城と呼ばれる、旧重臣達の屋敷があった地域(図2-1-2)であった。
図2-1-2熊本市内における古城地区の位置
明治3年7月、藩政時代における医学の中心機関であった再春館が廃止され、
新たな病院設立に向けた動きが始まった。同年10月には病院の開院式が行われ、
その後、本格的な西洋医学導入のため、外国人を招くこととなり、当時長崎に いたオランダ人マンスフェルトを迎えることとなった。
洋学校は、横井小楠の甥横井大平の知り合いであった文部省のお雇い外国人 フルベッキを介し、米国人ジェーンズが教師として迎えられた。授業は全て ジェーンズが英語で行なったとされる。修業年限は4年であった。
2-1-3医学校兼病院の建物について
医学校には旧薮邸、病院には旧松井邸が使用されたが、マンスフェルトの住 宅には旧中根邸跡の場所が充てられた(図2-1-3)5)。当時、医学校兼病 院において幹事という役職であった内藤泰吉は「マンスを招くには居宅が要る。
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、
図2-1-3古城内侍屋敷の医学校兼病院及び洋学校の位置
13
長崎より大工を呼寄せ洋館建築に着手した。」と後年、息子の内藤勝に述べて いる6)。この建物は、マンスフェルトが来熊した明治4年4月20日前に竣工し
たとされる7)。
一方、熊本市において現在もなお営業を続けている冨重写真館の創業者冨重 利平が、明治7年撮影した写真8)(図2-1-4)には、このマンスフェルト 邸と考えられる建築が写っている。この写真は熊本鎮台の山''1奇練兵場を東側か
ら撮影したものであり、山崎練兵場の奥すなわち西側に古城一帯が写っており、
その中にベランダを持つコロニアルスタイルの2棟の近代建築が写っている。
洋学校に明治5年入校した第二回生の郡徳隣9)による「洋学校見取図」(図2
-1-5)'0)では北側に二階建の「洋学校教師ジェーンズ邸」、南側に平家の
「医学校教師マンスフェルト邸」がある。これに加え現地の石垣等の状況から 推定すると、図4の写真の左(南)側の洋風の建物がマンスフェルト邸、右
(北)側がジェーンズ邸と考えられる。
図2-1-4富重利平作品集による古城地区のマンスフェルト邸とジェーンズ邸
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図2-1-5洋学校略平面図
14
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マンスフェルト邸は写真で見ると平家建て、瓦葺き、平面はL字型と見られ る。暖炉の煙突は確認できない。外壁の外側に柱列があり、ベランダを設けて いると考えられる。それは南側から東側、北側を巡っており、北側にも巡らせ ているのは珍しい例と考えられる。なお、西側は写真撮影の反対方向のため不 明である。また、ベランダ部分と考えられる柱の間には垂れ壁がある。菱組で あるかどうかは読み取れないが、下部の形状は、ジェーンズ邸のような雲形で なく、長崎のグラバー邸のアーチ形をやや扁平にしたような形となっている。
外壁の出隅には隅石状のものがあり、また東側の開口部は縦長窓かフランス窓 である。
後に述べるようにマンスフェルト邸とジェーンズ邸の両方の建物とも長,,,奇の 大工によるものであることや建築時期がほぼ同時期であることから瓦の葺き方 も同様と仮定し、両者の瓦の枚数を比較し、ジェーンズ邸の寸法をもとにマン スフェルト邸の東側の両端の柱間寸法を推定すると約16.8mとなる。これは ジェーンズ邸の正面側(南側)の両端の柱間寸法17.72mu)に近い寸法となる。
そして5スパンであることは両者とも同じである。なお、両棟の隣棟間隔は20 m弱程度と推定される。
この建物の工事を担当したのは先に紹介した内藤泰吉によれば、長崎の大工 である'2)。
一方、病院は旧松井邸の建物を改修したもの'3)であり、その略平面図が図 2 ̄1-614)である。この建物には「硝子障子」が使われていたと記述,5)され ているが、それ以外に特に洋風を示す特徴は見られない。
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(麺Iこ憧鮠氏鷺拳崎行)
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図2-1-6病院略平面図
15
この病院の一角に「調薬所所謂薬局」'6)(以下「薬局」という)があった。
この建物は「洋館式の建物」であり、「窓は凡て西洋式であった」'7)とされる。
規模は「間口3間、奥行6間許の建物」とされ、図2-1-6と病院部分を南 西側から写した写真(図2-1-7)'8)を比較し、図2-1-7の中央に見え る縦長窓の建物が薬局であると推定される。この縦長窓が上下窓か開き窓かは 判別が困難である。外壁は漆喰壁と思われる。この建物の完成時期は早ければ 開院式のあった明治3年10月、遅くともマンスフェルトが到着した明治4年4 月頃と考えられる。
また、医学校の略平面図は図2-1-819)であるが、これは旧薮邸を改修し た20)ものであり、洋風であったとする記述や写真は見当たらない。
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図2-1-7病院の写真 図2-1-8医学校略平面図
2-1-4洋学校の建物について
洋学校の校舎や寄宿舎は、旧三淵邸が充てられた2')。前述の郡徳隣の「洋学 校見取図」(図2-1-5)によれば、敷地の中央部に講堂(伝習堂)が位置 し、北側に寄宿舎、南側に12畳の部屋が5室並んでいる。一方、洋学校を西側 から写した写真(図2-1-9)22)によれば、右側すなわち南側に5つの窓が ある建物があり、これが郡徳隣の12畳5室の建物と考えられる。図2-1-9 をみると、5つの窓は縦長窓であり、ガラスが入り、ガラリが両側に開け放た れている。壁は白く、漆喰壁と考えられる。
一方、寄宿舎については、洋学校幹事であった野々口為志によれば、「西洋 風の寄宿舎一流と教師館一棟を建築致候事に致し候」23)としており、洋風の計 画だったようであるが、洋学校第二回生海老名弾正は「新築二階建ての寄宿舎 があり、又南西に洋式建築の大教場あり」24)と発言しており、寄宿舎が洋風 だったかどうかわからない。明治6年に入校した徳富猪一郎の「蘇峰自伝」に
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図2-1-9洋学校教場
よれば「寄宿舎杯は却々進歩したるものにて、硝子窓を張りつめ、室の横に棚 を架け、それを寝床としていた。」25)と書かれている。また寄宿舎と思われる 建物が写っている3枚の写真26)があり、これらの資料と写真からは、寄宿舎
はガラスを使用したこと以外には洋風の意匠は確認が困難である。
この洋学校の教師として迎えられたジェーンズのために建築されたのが ジェーンズ邸である。この建物は3度移転し、現在、熊本市水前寺公園22-16 に現存している。その詳細は、有明工業高等学校教授山口正臣による移築の際 の工事報告書27)に詳しい。
この建物を担当したのは、マンスフェルト邸同様長崎の大工である。前述の 野々口為志は、先の文に続けて「就中教師館の如きは長崎より態々洋館受負大 工の-組を招き之に其建築を受負しめ候」28)としている。
以上により、外観から近代建築とわかるのはジェーンズ邸と12畳5室の教場 の2棟であり、寄宿舎は確認が困難である。
2-1-5まとめ
熊本においては、明治3年の藩政改革の一環として医学校兼病院及び洋学校 が開設された。両校には外国人が教師として招聰され、そのための住宅はいず れも長崎の大工を招いて、コロニアルスタイルの住宅が建築された。これら教 師の住宅以外にも、病院の薬局、洋学校の教場が近代建築であった。
2-1注
l)現在、熊本県指定文化財となっており、名称は「洋学校教師館」であるが、本稿で
は、マンスフェルト邸との混同を避けるため通称で呼ぶこととする。2)ジェーンズが熊本に来る以前は洋学所という名称であり、その後「洋学校」という
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名称に変更されたとされる。篠[H一人監修|司志社大学人文科学研究所編「熊本バンド
研究」みすず書房昭和40年p79本稿では「洋学校」で統一する。
3)明治4年4月、マンスフェルトが熊本に来た時に名称は「医学所及び病院」となり、
明治4年7月廃藩置県にともない「医学校兼病院」と改称された。山崎正董纂箸「肥 後瞥育史.」l鎮西醤海時報社昭和4年pp314-315o本稿では、「医学校兼病院」で
統一し、それぞれを指す場合は「医学校」、「病院」という。4)ジェーンズ邸については、昭和45年、3度目の移築が行なわれた際の「熊本洋学校
教師館(ジェーンズ邸)移築復元工事報告書」(担当、山口正臣有明工業高等専門学校 教授)熊本市教育委員会昭和49年3月等がこれまで報告されている。
5)前掲注3)p299
6)内藤勝著作兼発行「北窓閑話j昭和2年pl5この書は内藤泰吉の息子勝が、明治
30年、父の話を聞き取りまとめたものである。7)前掲注3)pp310-311
8)荒木精之編著『写真の先駆者富重利平作品集」富重利平作品集刊行会昭和52年 p24この写真の撮影時期の説明では「明治7年か8年頃と推定される」となっている が、熊本県教育委員会編集発行「冨重写真所資料調査報告書」平成11年PlO7では明
治7年とされているため、後者に拠った。なお、この写真とは別に古城一帯を東側から撮影されたものが冨重写真館に所蔵されている。
9)白川新聞第二号明治7年9月及び前掲注2)pl59
10)潮谷総一郎『熊本洋学校とジェーンズ熊本バンドの人びとj熊本年鑑社平成3 年p66本書によれば、潮谷は郡と面識があり、度々‘懐古談を聞いたという。
11)前掲注4)p82 12)前掲注6)pl5
13)「鎮西醤報」第74号明治36年4月30日発行の附録「肥後醤史資料其二」p45なお、
この鎮西麟報によれば、この時期「肥後醤青史jのための資料収集が始まっており、
そのための第一回会合が明治36年3月行なわれたことが記載されている。
14)この図は熊本市歴史資料室が所蔵しているが、前掲注3)の「肥後瞥育史jp352
に掲載されている。15)前掲注3)p353 16)前掲注3)p354
17)前掲注3)pp354-355
18)富田紘一「古写真に探る熊本城と城下町」(増補・改訂版)肥後上代文化研究会、
1999年、p69この写真も富重利平の撮影と思われる。撮影時期は、同書によれば、明 治5年から明治7年2月の間とされる。同書p71
19)前掲注3)p350 20)前掲注13)p45
18
21)前掲注3)p299 22)前掲注18)pp78-79
23)伊喜見謙吉編集兼発行『改訂肥後藩国事史料巻10」侯爵細川家編纂所昭和7年 p874に「故護久公御事蹟調」「野々口為志話」として引用されている。
24)渡瀬常吉著『海老名弾正先生』龍吟社昭和13年p78 25)徳富猪一郎『蘇峰自伝』中央公論社昭和10年p53 26)前掲注8)p24,36及び前掲注18)p78
27)前掲注4)
28)前掲注23)p874なお田中啓介、上田穣一訳、牛島盛光解説「ジエーンズ熊本回 想』熊本日日新聞社昭和53年p95では「長崎の西洋建築頭領辰吉」とされている。
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2-2明治10年代までの建築
―いわゆる擬洋風建築の時代 2-2-1国の建物
2-2-1-1陸軍関係建物
明治4年(1871)7月明治政府は廃藩置県を行い、さらに翌8月、東京、大 阪、鎮西、東北の4鎮台をおいた。この鎮西鎮台は熊本に設置された'1。さら に明治6年(1873)1月には、全国を6軍管に分け各軍管に鎮台がおかれるこ ととなった。九州は第六軍管となり、鎮西鎮台という名称は熊本鎮台と改めら れた21゜この名称は明治21年第六師団と改称されるまで続いた。
明治6年(1874)、先ず兵営が建設された31.明治9年2月には熊本鎭台病 院が完成する4'・その一方、鎭台本営は当初|日藩邸が使われていたが、明治7 年には熊本城内の本丸に移転し、西南戦争後の明治11年になり新築された5)。
歩兵、工兵、砲兵、轆重兵の兵営は明治10年代を通して建設されたい。これら 陸軍の施設は工兵が担当した71.図2-2-1は神風連の変前の熊本城内二の 丸の歩兵第13連隊の兵営とされる写真81である。
なお、熊本市史には、明治6年建設された「兵営の設計は、フランス人工兵 大尉ジュルダンに依頼し、彼が担当した。」91との記述があり、その根拠として あげられている明治村発行の報告書'0)には、陸軍本省が「佛国工兵大尉ジュ ルダン氏二商議シ佛国各種兵営ノ制ヲ掛酌シ以テ我国諸兵二便ナルヘキ営舎ノ 図ヲ製定セリ」との記述が紹介されている。直接ジュルダンが熊本鎭台の兵舎 を設計したのでなく、標準設計的図面をジュルダンが設計し、それを基に陸軍 本省から派遣された技術者の指導の下に、各鎭台で建設されたのではないかと 考えられる。
明治20年代以降の騎兵営諸建物ついては熊本大学右近和麿等によって明らか にされている''1。また、明治末以降、大阪の藤田伝三郎邸を手がけた関西の大 工棟梁今井平七は明治20年代前半日本土木会社社員として熊本で騎兵営舎等の 工事に携わっている121。
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図2-2-1歩兵第13連隊の兵営
2-2-1-2郵便電信関係建物
熊本においては、明治5年7月熊本郵便役所が設置され、明治8年3月には 電信分局が設置された。これらは既設建物をそのまま充当した'3)。西南戦争後、
明治11年6月電信分局舎が新町に完成する。これは木造二階建て30坪余の白漆 喰塗仕上げの建物(図2-2-2)'4)で当時の電信分局型といわれる建物で あった'5)とされる。この建物は明治29年熊本商業学校の新築にともない、同 校の校舎の一部として使われたが昭和10年頃取り壊された'6)。
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図2-2-2電信分局
また明治11年9月には本館20坪余の郵便局舎が完成する'7)。この建物は熊本 県の営繕係が担当したと熊本県史は記述している'8)が、明治11年1月改正の
「熊本県各課事務章程」では、第一課に土木科があり、営繕担当はこの土木科 に属していたと思われ、係を設置していたかどうか確認できない'9)。さらに明 治16年には木造二階建て瓦葺き、外部下見板張ペンキ塗り、延約200坪余の熊
21
本郵便局が完成し、それまで県で行なってきた郵便監督業務が国の業務となり そのための組織である熊本駅逓出張局がこの新築の建物に入った20)。明治11年
と明治16年に建設されたこの二つの建物はどのような建物であったか上述した 以外不明である。これら郵便電信関係の一連の建物は熊本城の南西、新町とい われる地区にある。
2-2-1-3国のその他の建物 裁判所
熊本においては、裁判所が明治9年に設置された。当初は熊本県庁内にあっ た2')。明治11年になり、独立の建物が建設された(図2-2-3)22)。この建 物は、明治10年3月完成の大審院の建物23)と屋根の形や窓の配置等よく似て おり、或いは大審院同様工部省営繕局の設計かもしれない。この地には後の明 治41年になりれんが造の建物が建設される。
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図2-2-3熊本裁判所
2-2-2県等の建物
県の施設では、白川県庁舎が明治5年6月建設され、城内から移転する。場 所は熊本の中心部から3km近く南へ離れた飽田郡二本木村である灘)。これは 石田潤一郎によれば「外観意匠は不明である。平面図から想像する限り、近世 的武家住宅を踏襲していたものと思われる。」25)とされている。その後明治8 年11月熊本城内古城地区に移転するが、これは古城病院(明治初年、旧松井邸
を改修したもの、マンスフエルト時代の病院)の建物を利用し増改築したもの26)
である。
明治9年10月県の医学校が完成する。これは既存の家屋を修繕したものであ
躯
るが、教場は半洋式であったとする談27)もある。半洋式とはどのようなもの であるか不明である。場所は、現在の上通りの東側手取カトリック教会のあた
りである28)。
明治10年の西南戦争で、主要な施設がある市街地が焼けてしまった熊本では、
この後建設が相次ぎ、これらの多くは近代建築であったと考えられる。
明治11年5月1日、手取本町に県立病院が完成し落成式が行われる29)。これ がどのような建物であったかは、正確には不明であるが後の時代に描かれた図30)
によれば、寄せ棟、桁行き9間、北側は両端部を除く7間にバルコニーが付い ている。両端部の隅には隅石状のものがあり、外壁は漆喰と考えられる。
また同日隣接地で師範学校の落成式も行われている31)(図2-2-4)32)。
この建物の窓はいわゆる縦長窓より幅がややひろく、外壁は漆喰仕上げと考え られる。
図2-2-4師範学校
同年7月に完成した校舎で熊本医学校が9月開校する33)(図2-2-5)34)。
この建物は開校式のときの出席者が写った記念写真と考えられる正面の鮮明な 写真が残されており、それによれば、木造2階建て、瓦葺き、桁行き方向5間、
正面側に1,2階ともバルコニーが付き、さらに中央に突き出して2階はバル コニーその下の1階はポーチとなっている。軒にも胴にも蛇腹がつきその下に はそれぞれ装飾がある小壁が付き、隅には隅石様のものがある。
23
砂、~ 可
図2-2-5医学校
明治11年9月には熊本の東の郊外大江村に製糸工場である勧業場が建設35)
され、同年11月には開業式が行われる36)。この勧業場は、「西南の役に罹災し た士族救済のため県営事業として始めた。士族の子女50名を伝習生兼女工員と して募集」37)した。明治14年7月には向栄舎に払い下げられる38)。向栄社時代 の図(図2-2-6)39)があり、これが熊本における工場の外観がわかる最も 古い例である⑩。その図では、二階建て、瓦葺き、縦長窓、-部は鎧窓となっ ている。隅石風の模様が描かれており、壁面は漆喰と思われる。また本館は腰 が隅石と同様の描き方となっており、石造風に見せている。
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図2-2-6向栄舎(旧勧業場)
明治11年11月には県会議事堂が建設ざれ熊本市に於ける洋館の嗜矢とする記 述もある41)(図2-2-7)42)。写真によれば窓は縦長窓で、外壁が漆喰仕上 げの建物であったようである。
24
図2-2-7県会議事堂
明治12年9年には熊本中学校43)も完成する。
この建物の南側の道向いには熊本監獄があり、明治11年から一部の建設が始 まり、明治13年からは本格的な建設が始まった")。この監獄は木造平家建てで あり、一部に十字型平面の獄舎を持つ初期近代監獄として全国的にも貴重な監 獄である。明治16年には天草の町山口監獄支署が完成する。総2階建て100坪 余、1590余円を要した建物である。これは県の石井信吉が担当したもので八角 形の西洋風建築とされている45)。明治15年3月23日、熊本県においては県庁の 土木課内に初めて営繕の組織である営繕係が誕生する46)が、石井信吉は明治 16年9月常務係兼営繕係担当となっている47)。
小学校も明治一桁代の年からかなり建築されていることが当時の新聞蛆)か ら伺えるが、明治13年の熊本新聞49)には「(前略)堅牢なる日本風の校舎を新 築するよし生意氣にヘンキ塗りを建築するよりは費用も少なく且つ毎年のヘン キ塗換も入らされは余程經濟なるよし各校とも新築の節は斯くあるへきことな り」とあることからペンキ塗の洋風建築が出現し始めていたことを伺わせる。
この記事の対象となった菊池郡隈府小学校も当初は和風の計画だったようであ るが結局は洋風建築として完成した50)。
2-2-3民間の建物
民間の近代建築では、以下のようなものがある。
明治6年設立の活版舎は、明治9年には洋学校教師ジェーンズが取り寄せた 印刷機の払い下げを受ける。同社は白)Ⅱ新聞や熊本新聞等を印刷する51)が、
その後明治11年に熊本県庁前の古城堀端町に新築移転した52)。それ以前の建物 は不明であるが、明治11年の建物(図2-2-8)53)は寄棟2階建て、入口に
25
はアーチ型の庇を持ち、隅石風の紋様が描かれていて、鎧窓を持つ。妻側には 3間の庇を付け柱の間の上部には、下部がアーチとなった菱組の格子を持つ。
明治14年12月には二本木遊郭の東雲楼が建設される。当時の新聞によれば楼
聯鯛棚噸纈繩鰈
図'2-2-8活版舎
主は大工をともない長崎に「西洋館見物」に行き、洋風3階建てを建てたとさ れる54)が、その建物はのちの時代の東雲楼の写真55)では確認できない。
明治16年7月頃には新町に物産陳列場が完成する。規模は敷地1100坪、東西 に2棟、梁間方向5間桁行き方向18間、事務所は4間に5間である56)。大工は 原田宇八とある57)。図58)では平家建て、入口のポーチの軒には繰り型を持ち、
入口上部には櫛形アーチ、窓は鎧窓を持つ。外壁の腰は石造風の表現となって
いる。明治19年3月には坪井に勧商場が完成する59)。これも図60)では二階建て、鎧 窓、窓の上には櫛形アーチを持ち壁面の角は隅石風仕上げとなっている。
この他年代不明であるが、米屋町の大倉組支店も2階建て、鎧窓、隅石風仕 上げである6,。
2-2-4まとめ
熊本における明治10年代までの主な近代建築には以上のようなものがあり、
それをまとめたものが表2-1である。
現在のところ、この時期の建物については熊本監獄の中の-部の建物につい ての図面がある62)ものの、それ以外は設計図面や仕様書は発見できておらず、
写真や絵図からその洋風意匠を判断せざるを得ない。概観すれば以下のとおり である。
(1)この時期までは、建物の構造は全て木造である。れんが造や石造の建物
26
’よ建築されていない。
(2)そしてその殆どは窓が縦長窓で鎧窓が多い。
(3)外壁は漆喰壁と考えられる。このことは桐敷が述べた明治初期は「しっ くい塗りの壁で建てられることの多かった地方の学校や病院や官庁建築」と いう記述631にも合致する。
(4)これらはいわゆる擬洋風建築の部類に入るものと思われる。
(5)藤森照信「日本の近代建築」641によれば日本は漆喰系擬洋風の時代の前 に木骨石造系擬洋風の時代、さらに後には下見板系擬洋風の時代があったと されるが、熊本においては木骨系や下見板系の時代はなかったようである。
(6)この段階では、本格的な西洋建築の教育機関であった工部大学校やその 後身の帝国大学出身者或いは欧米諸国で建築の教育を受けたものによる建築 は確認できない。名前が判明した建築技術者は、実務を行いながら、洋風意 匠を習い覚えたものと考えられる。
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表2 1 明治初期の近代建築
Ⅷ駆國囹艸孵國國國囹國■w””w”
2-2注
l)熊本県知事寺本広作編集兼発行人『熊本県史近代編第一」熊本県、昭和36年、
p270。「近代日本総合年表第四版」岩波書店、2001年、p48
2)前掲注1)『熊本県史近代編第一jp271「近代日本総合年表」p54 3)熊本市「新熊本市史通史編第五巻近代I」熊本市、平成3年、p287
28
年月 建築名 所在地 構造
階数
特記事項
明治4年4月頃 マンスフェルト邸 熊本、古城 W〕1F 熊本初の近代建築 ベランダコロニアル 長崎の大工
この頃か 病院調薬所 熊本、古城 W'1F 漆喰壁、縦長窓
明治4年夏から秋 _ンズ邸 熊本、古城 Wb2F 県内現存最古の近代建築 長崎の大工
この頃 洋学校教場 熊本、古城 W,1F 漆喰壁
明治6年から 熊本鎭台兵営 熊本城内 W'2F 漆喰壁、縦長窓 明治9年02月 熊本鎭台病院 熊本場内 WJF 漆喰壁、上下窓 明治11年05月 県立病院 熊本、手取本町 W62F 漆喰壁、バルコニー 明治11年05月 師範学校 熊本、手取本IHT W'2F 漆喰壁
明治11年06月 熊本電信分局 熊本、新町 W;2F 30坪余、漆喰壁、
明治11年06月頃 活版舎 熊本、古城堀端 W;2F 漆喰壁、
明治11年09月 熊本医学校 熊本、手取本町 W'2F ベランダコロニアル
明治11年09月 熊本郵便局 熊本、新町 20坪余
明治11年09月 熊本県勧業場 大江村 W,2F 漆喰壁 明治11年11月 県会議事堂 熊本、新町 W 漆喰壁 明治11年 熊本鎭台本営 熊本城内 W,IF
明治11年 熊本地方裁判所 熊本、京町 Wb2F 漆喰壁、上下窓 明治12年9月 熊本中学校 熊本、手取本町 W62F 漆喰壁、
明治13年 隈府'1、学校 菊池郡 ペンキ塗か
明治13年から 熊本監獄 熊本、手取本町 W;IF 十字形平面
明治16年 熊本郵便局 熊本、新町 W;2F 延200坪余、下見板 明治16年 町山口監獄支署 天草 W'2F 100坪余、八角形、県石井
信吉担当