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明治漁業制度と県漁業-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第67巻 第 1号 1994年7月 21-48

明治漁業制度と県漁業

唯 之

I 混乱する漁業制度 一一海面官有宣言から漁業法制定まで一一一 漁場というものは,もともと,上からの強い統制があってはじめてその秩序 の維持が可能となるものであるが,しかし幕藩時代の漁業秩序は廃藩置県に よって藩の消滅とともに崩壊した。廃藩置県後,日本沿岸の漁場は新旧漁業者 が無秩序に入り会って混乱状態におちいった。香川県の場合一一『香川県は当時, 名東県時代であった一一ーにかぎっていえば,明治6年7月24日に、陸をへだて る l里より外の海は,たとえそこが旧来特定の漁村が占有する漁場であったと しても,これからは各浦の入会漁場となすべしかとの旨の達が出された。漁業 生産の何たるかをわきまえないあまりにラデイカルな内容のものであったこの 達は,そのために公布からわずか約

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年半後の明治

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日に取り消され たが,しかしこれによってただでさえ混乱状態にあった香川の海が一層混乱し たであろうことは想像に難くない。 なにはともあれ,崩壊した漁業秩序は新国家の手によって再建されなければ ならない。明治34年の漁業法成立にいたる再建の途のその第一着手が,明治8 年の太政官布告第195号であった。 海面官有宣言 明治8年12月,維新政府は太政官布告第195号を達した。 布告にいわし「従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ,捕魚採藻等ノ為,所用致候者モ 有之候処,右ハ固ヨリ官有ニシテ,……従前ノ通所用致度者ノ¥・t…借用ノ儀 其管轄庁へ可願出,此旨布告候事」と。いわゆる海面官有宣言一一ここでいう 官有とは地租改正における官有林の官有とおなじく,維新政府が権利として排

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22 香川大学経済論議 22 他的に所有するもの,という意味一ーがこれであり,この太政官布告第 195号 とあわせて,海面借区制にかかわる太政官達第215号が達せられた。捕魚採藻 のため漁業を営まんと欲するものには官有の海面を貸与し,その代償として借 用料をとるという趣旨の達であった。 右の布達にもとづき,県下の漁村も海面借用の願書を提出することとなった。 備讃瀬戸屈指の漁場である瀬居島漁場をもっ香西浦もそうした漁村のひとつ で,瀬居島漁場の海面区域とタイ・サワラの営業状況を記した「漁業海面拝借 願」が香川県権令新田義雄宛に提出されたのは明治9年 2月のことである。 だが,海面借区制にかかわる太政官達第215号には漁業占有利用権を誰にあ たえるか,その許可規準があきらかにされていなかった。あきらかでない以上, 形式上は借用料を支払いさえすれば誰でも漁業を営むことが可能である。事実, 太政官達第215号をそのように理解し,これを好機として,従来,封建的諸規 制にはばまれて出漁できなかった漁場に進出するζとをくわだてる漁村が続出 した。そうなれば当然,当該漁場に既得権をもっ漁村と当該漁場に進出をくわ だてる漁村の間で紛争がひきおこされるであろう。漁場出願をめぐる漁業者間 の紛争の収拾に香川県当局も苦慮することになる。 海面借用をめぐる漁村聞の対立 高松市の東方約10キロ,小豆島に向かつ て南北に長く備讃瀬戸の海に突き出るように庵治半島がある。この半島の東側 にひろがる志度湾の,その内奥部に位置しているのが志度浦の漁村である。幕 藩時代,志度湾は高松藩からその独占的占有を認められていた志度浦の専用漁 場であった。その志度湾一円を借用したい旨の漁業海面拝借願が志度浦から香 川県権令新田義雄宛に提出されたのは明治9年3月8日であった。ところが, その 1週間後の3月15日,おなじ志度湾に面した2つの漁村一一漁村の名を 原,大町というーーからも海面借用願が提出された。幕藩時代,志度浦の名請 けがなければ漁業を営むことができなかったこの両村が,海面官有宣言を機に 自村の海として借用しようとしたのであった。資料的には確認するすべはない がおそらく,幕藩時代長く,原,大町両浦の漁民たちは志度浦の漁民たちの顔 色をうかがわねばならぬ屈従の日々を強いられてきたのであろう。しかしもし

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23 明治漁業制度と県漁業 23 この両村に借用が認められれば,志、度浦はかつての占有漁場を一部奪われるこ とになる。 旧時代の特権的漁村とその支配下にあった漁村の間での漁場借用をめぐる争 いは,東讃は大内郡の播磨灘でもみられた。それは,旧時代に東讃の海の西半 分を占有していた三本松村と,三本松村の西に隣りあう小磯,西,横内の三カ 村の争いであった。これも資料のうえでは確認できないが,志度湾や播磨灘以 外の香川県の海でも,特権的漁村が支配する漁場であるかぎりその漁場の借用 めぐって,程度に多少の差こそあれ,おなじような争いが展開したであろう。 こうした事態に対して県当局はどういう態度でのぞんだか。ところで当時, 日本の地方行政制度が大区小区制であったことは前稿 (66巻4号「香川県の地 租改正 J)でも指摘した。香川県は郡を単位として12の大区に編成されており, 右に登場した大内郡の三本松村や小磯,西,横内の村むらは第

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大区に属して いた。その第1大区の大区長が,次のような興味ある上申書を県当局に提出し ている。すなわち「第一大区各浦網代場ノ義ニ付,意見上申J(明治

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日)は次のようにいう。旧高松藩時代,東讃の海の漁場については藩当局は東 は引田村,西は三本松村に対しそれぞれ「他ヲ束縛スノレノ権利ヲ与エ,……他 沿海ノ各村,若干ノ漁夫有ルモ,右両村漁夫ノ名請ケナラデハ許可ナラザルノ 厳則」であった。しかるに廃藩置県後,古き束縛の弊害を除去して自由の権利 を付与せしめるべしとの立場から,香川県は各漁村の入会営業を許可,このた め「両村ハ旧慣ヲ主張シ他ハ居村ノ接海ナノレヲ主張シ,互イニ権利を争フテ壬 申年(廃藩置県の翌年の明治

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年一注)ヨリ今日ニ至Jレ迄,葛藤一日モ解クノレ 事」がないという混乱した状態にあった。そしていままた,海面官有・海面借 区の太政官布告が発せられていっそう混乱は深まる状況にある,と。 それではこのような状況のもとでの引田,三本松の両村の立場を大区長はど のように認識していたかといえば,それは「両村ノ漁夫,何ノ罪有テ斯ク数百 年来所有ノ網代場ヲ他へ引キ裂キ取ラJレルヤ其不幸ヲ偶諒スベク」というもの であり,他方,新規に漁場進出をくわだてる漁民たちに対しては r(彼らは)従 来農ナリ商ナリ,各自産業ノ差シ支エナキモノ御維新ノ際ニ乗ジ他ノ権利ヲサ

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-24 香川大学経済論叢 24 マタグル新規営業ヲ企テノレヤ其ノ校滑,尤モ憎ムベキニアラズヤ」というもの であった。 それではもとにもどって,県当局はこのような漁業秩序の乱れにどう対処し たか。右の上申書は引田,三本松の両村に旧来どおり漁業用益上の強い権利を あたえること,つまり旧慣の尊重を強調している。この大区長の上申どおりに 県当局が動いたかどうかはあきらかでないが,しかし事態をおさめようとすれ ば,海面借区上の権利主体に関して固から基本的方針がしめされていない当時 の状況ではこの旧慣尊重の線でいくしか方法がなかったのではないか。事実, さきの志度浦借用願のとりあっかいについて県当局は,志度浦に対しては「書 面ノ趣,可間届候条,相当借用料取極メ更ニ可申候事,但,原,大町漁業ノ義 ハ従前ノ通,可為相営候事」とその願を許可する一方,原・大町の両村に対し ては「書面ノ趣,難聞届候事,但,漁業ノ義ハ従前之通リ志度浦へ熟議ヲ遂, 相営可申事」とその願を拒否している。まさしくこれは旧慣尊重の線にそった 措置であった。 香川県の海に混乱をもたらした海面官有・海面借区の太政官布告は,全国津々 浦々の漁場にも混乱をもたらした。そこで明治9年7月,維新政府は太政官達 74号を発して太政官達第215号を撤廃し,これからはあたらしい漁場占有利用 権の付与規準としてなるべく旧慣を尊重するよう指示するとともに,漁業税は 各地方において府県税として適宜賦課することとした。こののち,明治政府の 漁業制度は府県段階において具体的に展開することになる。以下,香川県にお けるその展開の過程を概観しよう。 「漁場及営業取締収税仮規則J(明治10:年)の制定 以上のような維新政府 の基本方針を踏まえつつ,愛媛県一一骨川県は9年8月に愛媛県に合併ーーは 明治10年12月 r漁場及営業取締収税仮規則」を制定した。同規則によれば, その第

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条に「従来,海面ヲ区.画シ漁場ヲ設ケ営業シ来ノレ向キノ¥,全テ旧慣ニ 拠リ……」とあるように,漁場が貸し渡される相手は当該漁場を古くから利用 してきた漁村とされた。第2条によると,讃岐国の沿海は9つの漁区に区分さ れることになったが,その区分も旧慣にもとづいたものになっている。たとえ

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25 明治漁業制度と県漁業 -25-ば第6漁区は旧高松藩の支配がおよんだ海域であり,また第 5漁区は幕藩時代 に天領であった直島,男木島,女木島の

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島の漁場を一括した海域,第 7漁区 は塩飽一円の沿海である。その塩飽島から愛媛県権令岩村高俊宛に「海面漁場 之儀ニ付,願」が提出されたのは明治

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日のことで,願によると, 貸し渡しをうけるべき漁場は「塩飽島海面一円J,その

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年間の収穫高は

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円であった。漁業税は収穫高の

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分の3であったから,塩飽島が支払う漁 業税はしたがって397円

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銭ということになる。漁業税のほかに営業税もある が,これは漁業種類に応じ漁業者各人に対して賦課される。 右の仮規則は若干手直しのうえ明治

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月 r愛媛県漁業規則」として正 式に公布された。入会の漁場で操業する場合は入り会う浦々の漁夫総代と漁区 取締人の連署が必要なこととか, [日慣が判然としない漁場の境界線は県当局の 手によってあらためることができることとか,県当局の漁業調整上の統轄力を 強化したことがその主な手直しである。同漁業規則は明治

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年に改正された が,この改正によって漁区制が廃止されて郡単位での再編成一ーただし,漁場 の占有状況は旧慣のままーーがおこなわれ,また税金の徴収方法がこれまでの 営業税と漁業税の2本建方式から漁種ごとの営業税1本にあらたまった。 「水産取締規則J(明治 19年)と漁業資源問題 右の漁業規則は明治

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月に廃止,かわって「水産恥怖規則」が制定された。同規則によれば,讃岐 国には次の6づの水産区,つまり大内・寒川・三木郡の第1水産区,小豆郡の 第2水産区,山田・香川郡と高松市の第3水産区,阿野・鵜足郡の第4水産区, 那珂・多度郡の第5水産匹,それに三野・豊田郡の第6水産区が設げられてい る。各水産区には頭取と取締りを置き,その統轄のもとに各漁村から選ばれた 総代人に漁場の取締りにあたらせた。漁場を取り締まるにあたってのよりどこ ろとなる旧慣尊重というこれまでの基本線は,その第2条に「捕魚採藻等ノ営 業ハ都テ旧慣ニ依ノレベシ」とあるようにやはり固持されている。したがって当 然,新規の漁業は,旧来からその漁場で漁業を営でいる関係漁村の承認なしに は営むことはできないことになる。これに関してひとつの事例をあげれば,第 4水産区に属する阿野郡の王越村などの四カ村と坂出町,それに鵜足郡の宇多

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26 香川大学経済論叢 26 津村から阿野鵜足郡役所へタイ大網営業許可の申請があった(明治27年8月)。 申請のあった操業区域内には瀬居島漁場がふくまれていたが,もともとこの瀬 居島漁場での操業をねらつての申請であったと思われる。しかし古くから瀬居 島漁場を占有している香西浦が峻拒したため,許可は下りなかった。 ところでこれまでの漁業規則とくらべてこの水産取締規則で特徴的なこと は,その第

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条に「水産ノ繁殖ヲ謀リ,捕魚採藻ノ業ヲ保護スノレ 1…」とある ように,資源保護の立場が明示され強調されていることである。江戸時代の末 ころまでにはわが国の代表的沿岸漁業もほぼ出揃い,その技術段階のもとで漁 場の狭隆化・乱獲が目立ちはじめた明治10年代以降,明治政府の手によって漁 業資源を保護するための諸施策が講じられることになるが,漁場の狭降化と乱 獲ということでは瀬戸内海は日本の沿岸海域ではもっともきびしい環境にあっ た。瀬戸内海において漁業資源問題が今後いっそう深刻化していくことについ ては次稿で詳しくみるところである。 漁業取締規則と香西浦の組合加入問題 愛媛県から分離して6年後の明治 27年12月,香川県は水産取締規則を廃止し,あらたに「漁業取締規則」を制定 した。同規則によれば,その第9条に「各漁場ニ於テ営業セントスノレ者ノ¥,県 ノ内外人ヲ問ハズ総テ其地ノ組合ニ加入シ其規約ニ道フベシ」とあるように, 県内の海域で漁業をいとなもうとする者に対する漁業組合への強制参加がうた われている。組合員に対し所轄の郡長または市町村が貸与した営業許可鑑札が なければ,備讃の海で操業できないことになったのである。その意図するとこ ろは,すべての漁業者を組合の支配下におき,その組合を県が上から統制する ことによって隣接町村聞の漁場占有利用関係を適正化し円滑化することであっ た。 ところで,ここでいう漁業組合とは,漁業取締規則と同時に制定の「漁業組 合規則」によって結成されたところの,大内・寒川・三木郡漁業組合,小豆郡 漁業組合,山田・香川郡・高松市漁業組合,阿野・鵜足郡漁業組合,那珂・多 ※ 度郡漁業組合,三野・豊田郡漁業組合の以上6つの漁業組合である。これらの 漁業組合はどのような性格のものであったか。山田・香川郡・高松市漁業組合

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27 明治漁業制度と県漁業 27 の場合,その組合規約によれば,高松市西浜・東浜,庵治村,潟元村,香西浦 の中笠居村,下笠居村,雌雄島,直島の各漁村の漁夫総代を議員とする組合を 開催してときどきの問題の審議と談話をおこなう一方,組合はあたらしい漁具 や漁法の開発,水産物製造技術の改良,不正販売の防止,海難事故や不漁にそ なえての積立などの諸事業をすすめるものとされている。これからすれば,こ こでの漁業組合は商工業における茶業開業組合や蚕糸業同業組合とおなじよう な同業組合的機能をもった組合であって,のちにみる明治

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年の漁業法によっ て設立されたところの,漁業権の管理主体としての漁業組合とはあきらかにべ つのものであった。なお漁業組合設立のとき,その連合体である県漁業連合会 も設立された。 そこで問題となるのは,このような性格の漁業組合がはたして漁場占有利用 関係を適正化し円滑化することができるか,ということである。このことを象 徴するのが香西浦の組合加入問題であった。つまり漁場用益上の慣行からすれ ば,香西浦は山田・香川郡・高松市漁業組合に加入するのが当然であるが行政 区としては阿野郡に属していることから,阿野・鵜足郡漁業組合が香西浦の大 綱元・久保栄吉に対し同組合への加入を強要したことに端を発した紛争であっ た。阿野・鵜足郡漁業組合にしてみれば,もし香西浦を組合に加入させること ができれば香西浦が占有する瀬居島漁場を掌握することができる。漁場にめぐ まれない阿野,鵜足両郡の漁民にとって瀬居島漁場への進出は長年の宿願で あった。その途がこのたびの漁業取締規則制定によってひらけようとしている。 さきに阿野郡の王越村などから阿野鵜足郡役所へ瀬居島漁場での操業をねらっ てタイ大網営業許可の申請があったことを述べたが,今回の阿野・鵜足郡漁業 組合の動きもおなじ意図にでるものであった。しかしもしそうなれば,県漁業 連合会が述べているように,同組合は瀬居島漁場へ「私壇ニ他ノタイ網ヲ誘導 シ,或ハ同組合ガ名前ヲ共同ニ借リ新規仕卸スル等,種々ノ挙動アノレハ必然ニ シテ,終ニ山田・香川郡・高松市漁業組合内旧慣固有ノタイ網ノ漁権ヲ侵害セ ラノレヲ以テ一層紛争ヲ醸スル」ことになるであろう。 岡野・鵜足郡漁業組合は明治30年7月,組合加入をこぼむ久保栄吉を漁業取

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28- 香川大学経済論叢 28 締規則違反で告訴,裁判は大阪控訴院にまでもちあがったが,結局,原告側の 阿野・鵜足郡漁業組合の敗訴に終わった。判決理由は「組合加入の根拠なし」 というきわめて簡単なものでその真意はよくわからないが,やはり原告側の言 い分を認めては漁場の安定的秩序が崩壊してしまうであろうとの大局的判断が 裁判所側にあったのであろう。 香川県当局は明治32年4月2日,県令を発して漁業取締規則を改正し,組合 強制加入にかかわる第9条に次のような但書を加えた。すなわち「従来,各漁 場ニ入会漁業ノ慣行アル者ハ其組合ニ加入スルヲ要セズ…ぃ」と。県側でも大 阪控訴院の判決にそった規則改正がおこなわれたのである。香西浦の組合加入 問題をみるかぎり,明治

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年の香川県漁業組合規則による漁業組合は,漁場占 有利用関係を適正化し円滑化できるような性格のものではなかった。 (注)右の 6つの漁業組合は,明治 32年の郡制改革のときに小豆郡漁業組合のほかは編 成替えされたり名称があらたまったりしているので,ここにそれを記しておけば,大内・ 寒川・三木郡漁業組合および山田・香川郡・高松市漁業組合の2つの漁業組合は大川郡漁 業組合と木田郡漁業組合,それに香川郡・高松市漁業組合の3つに編成替えきれ,阿野・ 鵜足郡漁業組合は綾歌郡漁業組合に,那珂・多度郡漁業組合は仲多度郡漁業組合に,三野・ 豊田郡漁業組合は三豊郡漁業組合にそれぞれ名称があらたまった。 II 争いの海 一一明治

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年代の備讃の海一一 頻発する漁場紛争 幕藩体制の終駕とともに崩壊した漁業秩序は早急に再 建されなければならない。しかしその再建の途はたどたどしく,近代国家にふ さわしい漁業法が成立する明治

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年まで,廃藩置県の明治

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年からかぞ、えれば じつに

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年のあいだ,日本沿岸の漁業秩序は混乱のただなかにあった。瀬戸内 海ももちろん例外でない。国や県は旧慣を強調した。しかし旧慣とは過去の歴 史的事実の積み重ねであって,それを根底でささえてきたのは漁民たちの実力 であった。実力に消長があれば旧慣もかわる。また,旧慣はその内容において かならずしも明白なものではなかった。明治17年に愛媛県が管轄下の漁村に対

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29 明治漁業制度と県漁業 -29-し漁民状況調査をおこなったとき,大内・寒川郡役所が「旧慣ナノレモノハ稀ニ ノ¥確固動カスベカラザ、ル旧記等アノレト雄,多クハ漁夫ノ口碑ニ伝ワルノミニシ テ確タノレ証濃無之故ニ,甲ハ是ヲ慣行ナリト言ヒ,乙ハ彼ヲ慣行ナリト言フガ 如キ,ソノ論一定ナラザノレ……」と述べているが,

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日慣とはまさにそのような ものであった。したがって,このような旧慣に準拠して漁業秩序に安定をもと めること自体,そもそも無理なことであったといわなければならない。 かくして明治10年代から20年代,日本各地の漁場で紛争が頻発した。とり わけ瀬戸内海は漁船と漁民の密集海域である。備讃の海でも争いは次々とお こった。明治

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年代における備讃の海の漁場争いで特記すべきはやはり,香川 う ざ い しも の香西浦と岡山の下津井の争いであろう。その舞台となったのが瀬居島漁場で あった。 瀬居島漁場と香西浦 備讃の海でタイの漁場といえば,まずその筆頭にあ がるのが瀬居島漁場(図

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参照)で,古く幕藩時代から土地の漁師たちはここ を金手の漁場とよんだ。金手とよばれる由来は,群泳するタイが海中で金色に 輝くさまを指したものとも,銭の稼げる漁場だからともいわれているが,由来 のとおりに瀬居島漁場は備讃瀬戸屈指のタイの漁場であった。盛漁期には東は 室 木 色 同 島 木 男

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図1 瀬居島漁場 注) r香西漁業史』より作成

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30ー 香川大学経済論叢 30 か む ろ 摂津の明石や鳴門の堂ノ浦,西は周防の家室島からもタイの釣船がやってきた という。 ここ瀬居島漁場は,古く幕藩時代から香西浦の網元たちの専用漁場であった。 瀬居島漁場で網をおろせるのは香西浦の網元たちにかぎられたのであり,そし て網元たちがもっとも大事にした網がタイの大網であった。ただ,瀬居島漁場 が香西浦の専用漁場となったのは,寛保以降のことである。寛保にさきだっ延 宝年間,天領の塩飽と高松藩の香西浦の聞で瀬居島漁場の帰属をめぐって争い があり,それが寛保元年に幕府の裁定によって香西浦に帰属することで決着し たのであった。あきらかに塩飽諸島の沿海に属し,これまでの慣例から判断し でも塩飽の支配下にあったというべき瀬居島漁場が結局は香西浦に帰属するこ とになったのは,裁定の裏で高松藩の画策があったといわれている。総じてい えば,幕藩時代,生産力の高い漁場に対して領主は運上を期待したから,帰属 が明白でない優良漁場は領主的対抗のただなかにあったとみてまず間違いない であろう。瀬居島漁場もそうした漁場のひとつであった。 ところでなぜ,讃岐の瀬居島漁場に備前の下津井の漁民たちがかかわってい たのか。そのことを知るためには,そもそも下津井とはどういう漁村であった のか,を知っておかなければならない。 塩飽漁場と下津井の漁民 下津井の漁村は,塩飽諸島のなかで一番北に位 ひついし 置する橿石島と幅わずか

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キロたらず、の狭い水道をへだ、てた対岸の岡山側にあ る。児島半島の最南端に位置するこの下津井は,下津井四カ浦と称されるとこ ろの,大畠・吹上・下津井,それに田ノ浦の

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つの漁村からなる。いずれも集 落後背地の山の斜面に少しばかりの畑があるだけの貧しい漁村で,なかでも田 ノ浦は狭い谷聞に小さな漁家がひしめく瀬戸内海に典型的な零細漁業の漁村で あった。 下津井の眼前は塩飽の海である。しかしその海は塩飽漁民の特権的漁場(図 2参照)であり,下津井の漁民たちが自由に船を出せるのは児島半島周辺の狭 い海域にかぎられていた。かれらが「漁場な'き漁民」とよばれたゆえんである。 明治12年の記録によると,かれらの出漁範囲は東は紀州から西は豊後まで内海

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31 明治漁業制度と県漁業

-31-勺

荘内半島 図2 塩飽漁場 注) r塩飽人名共有文書」より作成 沿岸全域におよんでいる。いわば瀬戸内海全域が彼らの漁場であったのである。 しかしなんといっても下津井漁民の生活をささえていたのは塩飽の海であっ た。「漁場なき漁民」とよばれた下津井の漁民たちは,それとは対照的に「羽織 衆」とよばれた塩飽人名の末商たちに血の出るような高い入漁料を払ってでも 塩飽の海に船を出さなければ暮らしていけなかったのである。さきに,瀬居島 漁場の帰属をめぐる塩飽と香西浦との争いは,寛保元年の幕府裁定によって香 西浦に帰属することに決着したと述べたが,寛保以前,下津井の漁民たちは塩 飽の支配下にあった瀬居島漁場にも入漁していた。むしろ,下津井の漁民にとっ て瀬居島漁場は塩飽沿海の各漁場のなかでもっとも重きをなした漁場であっ た。しかし寛保以降は,高松藩が入漁を峻拒したために下津井の漁民たちは瀬 居島漁場から完全にしめだされることになる。 とにもかくにも,幕藩時代,眼前に広がる豊穣の海一塩飽沿海において,塩 飽・香西浦に対し下津井は圧倒的に不利な立場にあった。そのような立場の下

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32- 香川大学経済論叢 32 津井漁民にとって,明治の御一新が封建的漁業秩序を打破し特権的漁場を広く 漁民に平等に開放してくれる夜明けと映じたのは,当然といえばまことに当然 のことであった。 香西浦対下津井の瀬居島漁場紛争一一「漁場侵害解除ノ訴訟」 距岸

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里以 遠の海は自由入会漁場とすべしとの布達が明治6年7月に讃岐の浦々に達せら れたことについては,本稿の官顕で述べた。香西浦にとっては驚天動地の悪報 であったが,下津井にとっては予期せぬ朗報であった。さらに明治8年12月, 海面官有にかかわる太政官布告第195号が達せられた。海面が政府の官有する ところとなるならば,瀬居島漁場もこれを香西浦が独占することは許されない。 これで瀬居島漁場は開放される,と判断した下津井は瀬居島漁場への出漁を開 始した。しかし香西浦は旧慣尊重を主張し,県当局も県外からの入漁に対して は旧慣堅持の態度でもって対応した。さきにみた明治12年の愛媛県漁業規則も 旧慣尊重が原則であった。しかし,愛媛県の規則は讃岐の漁民に適用できても, 岡山の漁民までしばれるものではない。かくして瀬居島漁場における香西浦と 下津井の衝突は不可避となった。たとえば明治15年,下津井の釣漁船3隻が香 西浦に拘引され,また,下津井の漁民が丸亀警察署の派出巡査に逮捕された。 そしてついに明治16年,裁判事件へと発展する次のような事件がおこった。 明治16年の春,下津井漁民はタイの漁期をむかえた瀬居島漁場に出漁した。 彼らがもちいる網は,タイを追い回して獲るゴチ網であった。だから,大網の 近くでゴチ網がつかわれると,タイが散ってしまって大網にタイが入らなくな る。事は重大であるとして,香西浦の漁民たちはゴチ網を実力で阻止する行動 にでた。しかし下津井の漁民たちは,ここ瀬居島漁場は岡山,高松共同の入会 漁場だと主張してしりぞく姿勢をみせず,坂出の警察署から巡査が出向くなど して騒ぎは次第に大きくなった。愛媛,岡山両県も事態を重くみて収拾にあたっ たが両者譲らず,争いはついに裁判所にもちこまれることとなった。事件名を 「漁場侵害解除ノ訴訟」という。 法廷において原告側の高松の漁民たちは,瀬居島漁場が古く幕藩時代から自 分たちの専用漁場であったことを,次のような事実をあげて主張した。

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33 明治漁業制度と県漁業 -33-まず第1に,幕藩時代,香西浦は毎年,タイ網運上なる税金を納めていた。 このことは瀬居島漁場において香西浦が高松藩からとくにタイ大網の使用を許 されていたその代償であるが,そのことはまた,瀬居島漁場が香西浦の大網専 用漁場であったからにほかならない。 第

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に,幕藩時代,高松の漁民と塩飽の漁民が漁場の境界線をめぐって争っ たときの寛保元年の幕府裁許状によれば,文面に「沖は地瀬居島,小瀬居島, 室木島三箇所,東の端を見通し,西面は塩飽の猟場,東面は高松の猟場たるべ し」と記されている。そして文末の「東面は高松の猟場」とあるそのもっとも 西よりの漁場が瀬居島漁場なのであるが,もし,瀬居島漁場が岡山側の主張す るように岡山と高松の入会漁場とするならば,裁許状には当然 r高松,岡山の 猟場」と記されるべきであろう。しかし,そうは記されていない。 第3には,大槌島から東に帯状にのびるオゾノ瀬とよばれる漁場の帰属をめ ぐって,やはり岡山と高松が争ったときの享保 17年 (1732年)の幕府裁許状に よると,大槌島から東に線をひき,それより北は岡山藩,南は高松藩の海との 裁定であった。のちの寛保の裁定では室木島は高松藩領内の海とされたのだか ら,室木島と大槌島をむすんだ線から南側の海も,やはり,讃州の海というこ とになるであろう。 裁判は控訴審の進行中,被告の岡山側が高松側の主張を全面的に認める内容 の和解が成立した。ただ,被告の

1

人が和解に応じなかったために控訴審はは じまったが,その

1

人も裁判所からの再三の呼び出しにもかかわらず出廷しな かったため,裁判自体も高松側の勝訴におわった。明治

1

9

2

月の判決であっ た。 ちなみに右の裁判において,判決のよりどころとなったのは瀬居島漁場をめ ぐる旧来からの慣行的事実であった。しかしこれはなにも当事件にかぎったこ とではなし漁業法が制定される以前,全国各地の漁業紛争事件において裁判 所が判決のよりどころとしたのは総じて慣行であった。当時,水産施策実施の 当局者である明治国家が漁業秩序維持の法的根拠を慣行においた以上,国家権 力の一翼をになう司法当局がそのような姿勢で裁判にあたったことは当然のこ

(14)

34ー 香川大学経済論叢 34 とであった。 かくして,瀬居島漁場は香西浦の専用漁場と確定し,下津井の漁民たちの瀬 居島漁場への出漁ははばまれた。しかし瀬居島漁場から西の海,つまり塩飽諸 島沿海への出漁は明治期から大正,昭和期へとつづく。ただしその代償として 高い入漁料を支払わされ,入漁契約更新のたびごとに屈服と隷従を強いられな がら。塩飽に対する下津井漁民たちの欝屈した感情が爆発して塩飽の漁業組合 長宅を襲撃するというあの昭和 6年の塩飽騒動については,そこにいたる経緯 をふくめ,次稿でくわしくみることにしたい。 明治 10年代の後半,瀬居島漁場で発生した下津井と香西浦の争いは以上のよ うなものであった。このあと,明治20年代,さらには30年代も,備讃の海に 漁民たちの争いは絶えなかった。 続出する漁場紛争一一明治20年代以降一一 当時,香川県にとって漁業は 農業につぐ重要産業であったから,地元新聞である香川新報の紙面においても, 漁業のことは逐一ことこまかに報道された。表1は,その香川新報の記事を適 宜摘出して作成した香川県漁業紛争史である。年表の時期は明治26"-'33年,始 点の明治26年は香川新報が創刊された年,終点の明治33年は漁業法が制定さ れた年の前年である。この年表にしたがいながら,漁業法が制定される以前の 時期の漁業紛争はどのようなものであったか,そのもょうをひとつひとつ紹介 しよう。 [明治26

年]

[ 1 ]一漁区侵犯に注意す なぎ はぎま 塩飽諸島のなかでもっとも西方に位置する佐柳島,その西南の海を狭 海といい,塩飽が支配するタイの優良漁場のひとつであった。佐柳島に 近く,その北西の海上に浮かぶ、北木島は岡山県に属す。その北木島の漁 師たちが狭海に追建網をもって侵漁した。 [ 2 ]一岡山漁夫と本県漁夫の争闘 ひ ぴ 高松市西浜の漁船

8

0

隻が岡山県児島郡日比沖で操業中のところ,下津 井の漁民たちが入漁料を要求,西浜の漁民は当漁場への入漁は慣例なり

(15)

35 明治漁業制度と県漁業 35 表1 香川県漁業紛争史(明治 26~33 年) NOi 年月日 事件名〈紛争の漁場〉 紛争当事者 1 明26. 5, 6 漁区侵犯に注意す〈復鈎狭のi毎〉 塩飽:北小島〈岡山〉 西浜:下津井(岡山〉 3 I 7.11 ~飽漁場の瀦漁者〈溢飽沿海〉 海飽:小豆島 4 I 8,,16 侵漁船取押へ〈伊吹沿海〉 香JIi:広島 5 I 27. 5.10 漁夫の紛鑓(~飽佐柳島) 佐柳島:岡山 6 I 29" J,,14 漁場紛議の件〈号l田浦沖合〉 一番網:二番網 7 I 12,,16 入漁拒絶の件〈徳島県宍喰沖〉 香JIi:徳島 8 I 30" 5" 2 漁夫の乱暴〈塩飽沿海〉 温室主:字多津〉 9 I 8.17 徳島県漁夫侵漁の真相〈仁尾沖〉 香JII:徳島 10 I 8,,22 侵入漁業紛数百般〈寒川郡沖〉 香川1:徳島 11 I 9.22 徳島県無事E祭〈徳島板野郡沖〉 香川1:徳島 12 I 31. 7.28 漁業紛議〈多度津沖〉 多度津:字多津 13 I 32. 1.24 漁業事件後関〈徳島宍喰沖) 香川:徳島 香川1:徳島 151 5" 4 侵漁者処分〈瀕居烏漁場〉 香川1:岡山 16 I 5.18 伊吹島漁報〈伊吹近海〉 伊吹:広島 17 I 5,,24 東讃海の侵漁者(大川郡沖〉 香川:新居浜(愛媛〉 注) ~香川新報」より作成 と主張してこれをこばんだために擢や竿で打ちあう暴力沙汰となった。 [ 3 ]一塩飽漁業の濫漁者 塩飽では漁民たちの申し合わせによって新規発明の漁具をみだりに使 用することを禁止している。近ごろ,禁止漁具のひとつであるパタ網の 操業がめだっため,取締りにあたっていたところ,夜中にパタ網をひく 小豆郡豊島の漁師を取り押さえた。なお十数隻の違反漁船があるとのこ

(16)

-36- 香川大学経済論叢 36 と。

[

4

]一侵漁船取押へ 伊吹近海へ広島から帆打瀬網の漁船が侵入との地元からの知らせで, 観音寺警察署の巡査が三野・豊田郡漁業組合の頭取と同行して違反漁船 をとりおさえた。 [明治

2

7

年]

[ 5 ]一漁夫の紛擾 塩飽佐柳島の沖合で同島漁夫と岡山漁夫の争闘が発生,塩飽広島に駐 在の巡査からの連絡で丸亀署長と郡役所書記が現場に急行したが,なお 不穏な状況であったため高松署からもでむくことになった。 [明治

2

9

年] [ 6 ]一漁場紛議の件 ボラの寄魚漁場である大内郡引田浦は古く幕藩時代から一番網,二番 網と称する中高網が2帖あって一番網,二番網の順で網をおろす慣例で あったが,明治

1

4

年,二番網はその漁業権を一番網に売り渡し,以後, 引田浦の中高網は一番網のみとなった。しかるに明治

2

7

1

1

1

3

日, はからずも二番網の元所有者たちが郡役所に鑑札下附の願書を提出,こ れに驚いた一番網の所有者たちが抗議したため一度は却下となったが, 明治

2

8

1

2

2

8

日,唐突にも郡役所から二番網に鑑札が交付された。 目下,一番網の所有者たちはこ番網の鑑札を取り消すよう県当局と談判 中との由。なお,この年の冬は一番網と二番網がさきを争って投網した ため,折角の寄り魚が散ってしまって漁にならなかったという。

[

7

]一入漁拒否の件 徳島県海部郡宍喰沖に香川県から出漁中の観音寺・小田・引田の漁船 が地元の漁業組合から入漁を拒否された。目下,三野・豊田郡漁業組合 の頭取・近藤氏が現地で談判中。 [明治

3

0

年]

[

8

]一漁夫の乱暴

(17)

37 明治漁業制度と県漁業 -37 塩飽牛島は,本島の南,坂出の沖合に位置する。例年のごとく侵漁に そなえて塩飽の取締船

3

隻にて牛島付近を巡視中,宇多津の侵漁船を発 見,丸亀警察署から派遣の巡査をのせた塩飽の取締船が漕ぎ寄ってその 不法をとがめたところ r彼(侵漁船の漁夫一注)は兼ねての合図にや, 疎

I

I

帆様なものを吹きしに, 15, 6般の漁船四方より集まり来たり中嶋巡 査の乗れる船を取り囲み,小石などを散々に投げ付けるに付,取締の乗 りたる船は之を救わんと急ぎ漕ぎ着けたるに之を取り固まれ,端しなく もま互に一場の海戦」となった。しかし多勢に無勢,やむなく取締船は現 場をしりぞき,あらためて坂出警察署に応援をたのんで宇多津の港に直 行,侵漁の漁夫たちが帰港したところを逮捕した。 [ 9

J

一徳島県漁夫侵漁の真相 香川県西部海域において高瀬警察署は徳島県板野郡北灘村の漁夫たち を侵漁の容疑で逮捕,彼らは違警罪の罰金刑に処せられた。 [10J一侵漁船数百般 徳島県からアジ釣り漁船が播磨灘に日毎侵入,その数百余隻におよぶ。 地元の漁業組合から番船を出して巡視にあたっているが,衆寡敵せず, 効果はあがっていない。

[

1

1

J

一徳島県無警察 徳島県板野郡北灘村沖合において香川県引田村の漁夫が操業中,北灘 村漁夫総代が彼らを盗漁の件で告訴,目下,裁判手続中とのこと。香川 県側は当該漁場が徳島・香川の入会漁場たること明白ゆえ,告訴をとり さげるよう,徳島県に通告した。 [明治31

年]

[12J一漁業紛議 慣行上,多度津漁民は宇多津沖合へ入漁できないが宇多津漁民は多度 津沖合へ入漁できるかどうか,について多度津漁民と宇多津漁民の聞で 係争中。 [明治32

年]

(18)

38- 香川大学経済論叢 38

[

1

3

J

一漁業事件後聞 徳島県海部郡宍喰沖に出漁中の香川県漁船が徳島警察の巡視船によっ て現地の警察署へ引致された。 [明治

3

3

年]

[

1

4

J

徳島県の乱暴 徳島県海部郡宍喰沖に出漁中の小田村の漁夫が徳島警察の巡視船に よって現地の警察署へ引致され,五カ日間拘留された。

[

1

5

J

一侵漁者処分 過日来,瀬居島漁場を巡視中の県水上巡視船屋島丸は,夜間に乗じて 侵入してくる岡山県日比の流網漁船

3

隻を逮捕,坂出警察署へ連行した。

[

1

6

J

一伊吹島漁報 タイの盛漁期に入った伊吹島近海を巡視中の屋島丸の通報によれば, 県内の漁船数百隻にまじって広島からの侵漁船多数あり,漁場を去るよ う説得中とのこと。

[

1

7

J

一東讃海の侵漁者 愛媛県新居浜の漁船が播磨灘の鹿ノ瀬漁場へ向かう途中,大川郡沖合 で投網,その操業のありさまは「彼らは一帖の網に

8

0

名位係り居り,喧 嘩腰にて漁業を為し,時としては県内の漁業者が投網し居る其の中へ網 を入るるさえありて殆ど強奪に類することあるも,本県の漁業者は一致 結合の力なきより彼らの横暴を認むるも敢えて不法を責むるの勇気な し」。 以上みてきたような明治10年代"'30年代前半の時期における漁場紛争は, 総じていえば,旧慣をめぐる漁民たちの実力闘争にほかならなかった。そして そのような争いが複数の県にまたがるとき,それぞれの県当局の思惑も重なっ て争いは紛糾し,あるいは長期化するのが通例であった。右に徳島県海部郡宍 喰沖における香川!と徳島の争いを

3

件紹介したが,この

3

件の漁場紛争はいず れも,その背景において香川県と徳島県の水産行政当局間で政治的なかけひき が展開したところの,ひとつづきの事件であった。香川県は香川県で自県の漁

(19)

39 明治漁業制度と県漁業 -39-業者を保護する立場から入会の│日慣を主張し,他方,徳島県は徳島県で地元の 漁業利益をまもる立場から入漁を排斥しようとする以上,両県の衝突は当然と いえば当然のことであった。その解決のためにいくども両県の水産関係者の間 で折衝がおこなわれた。明治

3

2

年の

5

月には国の水産行政の最高責任者である 牧水産局長をまじえて両県知事の会談がもたれたが,不調におわっている。 こうした漁業争いはもちろん全国規模のものであり,この時期,全国津々浦々 の漁場で漁師たちの争いが頻発していた。時代は国家権力による強力な漁業統 制を必要としていたのである。 III 明治漁業法の制定と漁業組合 漁業法の成立 明治34年2月,第15回帝国議会において『漁業法』は成 立した。ここに,これまで慣行の名のもとに漁民相互の実力で維持されてきた 漁場利用は,国家権力を背景とする漁業権にまで高められた。いうところの漁 業権,すなわち他者を排斥して独占的に漁業を営む権利としての漁業権をとお して明治政府は漁場紛争を上からおさえ,漁業秩序を維持しようとしたのであ る。そして,漁業法の法的構成はといえば,沿岸漁業の漁業秩序は漁業権を中 心として編成し,これに行政官庁の許可制度による許可漁業がくわわる,その ような仕組みであった。ちなみに漁業法は,明治43年

2

月の第

2

6

回帝国議会 において,いくつかの重要な点一一漁業組合に経済事業を営む途をひらき,入 会権を創設し,漁業取締規則を強化するなどーーで改正がおこなわれた。いわ ゆる明治漁業法とは,この43年改正の漁業法のことをいう。そして,明治8年 の海面官有宣言以来,長き試行錯誤の過程を経てようやく成立したこの明治漁 業法は,戦後のあたらしい漁業法制定(昭和24年)にいたるまでの間,漁業生 産に関する基本的制度としてわが国の漁業を規制しつづけることになるのであ る。 さて,漁業法における漁業権の種類には次の 4つがあった。 (1) 漁具を定置してなす大敷網や落網などの漁業の定置漁業権 (2) 水面を区画してなす養殖漁業などの区画漁業権

(20)

40 香川大学経済論叢 40 (3) 定置,区画漁業ではないがとくに主務大臣の免許を受けなければす ることのできない地びき網漁業や船びき網漁業などの特別漁業権 (4) 以上三種の漁業以外で水面を占有してなす漁業の専用漁業権,これ はさらに地先水面専用漁業権と慣行専用漁業権にわけられる。 以上の 4つの漁業権漁業に対し,運用漁具をもって回避性の浮魚をおいかけ る網漁業は許可漁業としてあっかわれることとなった。どの漁業を許可漁業に するか,その権限は地方長官の知事がもち,地方ごとに許可漁業にかかわる取 締規則が制定された。香川県の場合,-香川県漁業取締規則J (明治

3

5

年制定) て。り によると,縛網漁業やタイ大網漁業,中高網漁業,サワラ瀬びき網漁業,手繰 うたせ 網漁業,打瀬網漁業などが県の許可漁業であった。いずれの漁業もタイやサワ ラ,ボラなどの回遊性の浮魚を捕獲する網漁業である。もちろんこれらの漁業 は漁業権漁業の対象でもある。許可漁業のタイ縛網もあれば,漁業権漁業のタ イ縛網もあった。ただ,漁業権漁業が漁業を営む権利として泊場利用が排他独 占的であるのに対して,許可漁業はたんに漁業を営んでもよろしいという漁業 であって,他の漁業者を排斥できるような強い権利ではない。だから通常,許 可漁業は漁業権漁業区域外で操業し,その区域内で操業するときがあっても漁 業権漁業を妨げてはならなかった。許可漁業が認可されると漁業鑑札があたえ られるが,鑑札には操業区域が明記されるとともに,-他人ノ享有スル漁業権ヲ 侵害シ,又ハ慣行アノレ漁業ヲ妨害スベカラズ、」と記されていた。 漁業組合の設立 漁業秩序編成の基軸として漁業権を設定する一方,その 管理主体として漁業組合を設置するというのが,漁業法の基本構成であった。 いうところの漁業組合はその成立の由来を幕藩時代にまでさかのぼる。 幕藩時代の浦浜制度のもとでは,通常,地先の漁場は地元漁村が排他的に使 用権をもっていた。領主に納める運上金はその代償としての税金である。香川 県の漁場で塩飽の海や志度浦などは,幕府や藩から強い独占的利用権があたえ られていた漁場としてよくしられている。瀬居島漁場でタイ大網をいとなむ香 西浦のように,地先でなくとも古くからの慣例として特権的に漁場を占有する 鴻村もあった。が,そのいずれの場合も,漁場を利用する権利は漁民全体のも

(21)

41 明治漁業制度と県漁業 -41-のであって,漁場はいわば浦百姓の総有とでもいうべき性格のものであった。 すなわち,個々の漁民は漁民たち全員で占有しているところの漁村持ちの漁場 に入会ながら日々の暮らしをたてていたのである。漁業組合規則の制定を機に 漁業組合として設立されたのは,このような共同体的地域集団としての漁民た ちの集団であった。明治国家はこの漁業組合に漁業権を付与した。漁業組合に 排他独占的な漁場の利用権をあたえることによって,水産資漉の維持と漁民生 活の安定をはかろうというのが,漁業法の意図するところであったのである。 ところで,さきに漁業法における 4種類の漁業権をあげたが,第 4の専用漁 業権のうち地先の漁業権は,漁業法第

4

条に r(専用漁業権の)免許ハ漁業組合 ガ其ノ地先水面ノ専用ヲ出願シタル場合ノ外,之ヲ与へズ」とあるように,漁 業組合以外にはあたえず,かつ出願がありさえすればかならず当該漁業組合に あたえられる漁業権であった。そしてまた,もうひとつの慣行専用漁業権もほ とんどが漁業組合にあたえられた。もちろん,漁業権は漁業組合にだけあたえ られるのではない。一定の小範囲の漁場を独占しなければなりたたず,また, その経営に多額の資本を必要とする定置漁業権の大敷網漁業とか区画漁業権の 養殖業などは個人経営のものがおおししたがって,その漁業権は個人に対し 貸与された。ただ,香川県の場合,個人有の定置・区画漁業権は,

2

4

ページの 表

2

をみてもわかるように,その数が少ない。狭降な香川の漁場に個人有の定 置・区画漁業権を認めた場合,個人と漁業組合との衝突が不可避との判断から, 定置・区画漁業権はなるべく個人にはもたせないというのが,県の水産当局の 立場であった。大川郡において定置漁業権を申請中の個人に対し県当局が説得 してその権利を漁業組合に譲渡せしめたことを報じている明治40年2月 8日 の香川新報の記事なども,そのような県当局の立場をうかがわせるが,いずれ にせよ,香川県の場合,漁業権を掌握したのはもっぱら漁業組合であり,した がって明治から大正,戦前昭和を通じて漁業組合は漁業生産の中核的存在で あった。 香川県の漁業組合 漁業法第四条「一定ノ区域内ニ住所ヲ有スル漁業者ハ 行政官庁ノ認可ヲ得テ漁業組合ヲ設立スルコトヲ得」にもとづき,明治35年に

(22)

-42 香川大学経済論叢 42 「漁業組合規則」が制定され,同法にしたがって全国津々浦々の漁村に次々と 漁業組合が設立されることとなった。 香川県の場合,明治

3

5

年から

3

6

年にかけて,香西浦漁業組合'を筆頭に,漁 業組合がつぎつぎと設立されていった。『香川懸史~ (明治 42・43年)によると, 当時,大川郡に志度浦漁業組合など13組合,木田郡に庵治浦漁業組合など3組 合,小豆郡に土庄漁業組合など 26組合,香川郡に香西浦漁業組合など 5組合, 綾歌郡に宇多津漁業組合など7組合,仲多度郡に塩飽の本島村漁業組合など7 組合,三豊郡に伊吹島漁業組合など17組合のほか,高松市と丸亀市にそれぞれ 1組合,総数にして 80の漁業組合が存在した。組合員数にして総計 5,945人を 数える。 ところで香川懸史』には木田郡の漁業組合として庵治浦漁業組合のほかに 原・大町浦漁業組合の名がある。原と大町の 2つの漁村はさきにみたように, 幕藩時代,庵治浦に対し従属的立場にあった。それが漁業組合規則制定を機に 独自の漁業権をもっ漁業組合として誕生したのである。旧慣にまもられた既成 勢力としての庵治浦に対し,新興勢力として力をのばしてきた原,大町の漁村 の存在はもはや無視できず,これを独立の漁業組合としてその設立を認めよう というのが,県当局の立場であった。このような県当局の立場はまた,漁業制 度の再編過程でしだいに地先漁業地元主義とでもいうべき考え方にかたむいて いった明治政府自体の立場であったとみるべきであろう。 漁業権の設定 漁業権は専用漁業権については農林大臣が,定置・区画・ 特別の3種の漁業権については当該漁場を管轄する地方長官がそれぞれ免許を 許可する。免許を許可するにあたって,行政官庁は出願の内容を仔細にチェッ クし,必要があれば条件や制限を設けたり,また,場合によっては許可しない こともあった。こうした行政官庁による漁業権の免許許可によって,各地の沿 海に漁業権が設定されていったのである。 当時の香川新報をみると,農商務省水産局の技師が再々来県しているが,こ れは管轄官庁の立場から出願の専用漁場を調査するためであった。漁場のひし めきあった香川の海の調査は時間をかけ慎重におこなわれたようである。出願

(23)

43 明治漁業制度と県漁業 43 がはじまってから

6

年後の明治

4

1

年の

1

1

月の時点でなお,出願の専用漁業権

1

0

0

件中,許可のあったのはそのほぼ半分の

5

2

件という状況であった。許可が おりたものの,漁場区域および漁業種類が大幅に制限されたため,その解除を もとめて訴訟をおこした三豊郡の漁業組合のようなケースもあった。 定置・区画・特別の3種の漁業権については,香川新報の香川県公報の欄に, 免許のつど,その旨の公示がある。たとえば明治

3

7

年の紙面をみると,

1

2

1

日=区画漁業免許

5

3

2

0

日=区画漁業免許

1

3

2

3

日=特別漁業 免許

1

0

3

2

4

日=特別漁業免許

3

件・定置漁業免許

4

件,

4

2

4

日=特 別漁業免許

1

2

件,

4

2

6

日ニ特別漁業免許

4

件,

4

3

0

日=特別漁業免許

6

件,

9

1

日=区画漁業免許

1

件,

9

2

9

日=区画漁業免許

5

件,

1

0

9

日 = 区画漁業免許l件,

1

2

2

0

日=区画漁業免許

2

件,

1

2

2

5

日=特別漁業免許

6

7

件,以上の公示が掲げられている。これらの漁業権についてその内容を確認 するなら,たとえば

3

2

4

日の場合,特別漁業免許の

3

件はいずれも引田村漁 業組合のイワシ地びき網,定置漁業免許の

4

件は綾歌郡宇多津間の漁業者の建 干網や桝網であった。区画漁業はそのほとんどがコイやウナギ、などのため池淡 水養殖であるが,

1

2

2

0

日の区画漁業免許

2

件については,三豊郡観音寺町の 漁業者の養殖業一一汐だまりでのボラの養殖一ーであった。 ところで,漁業権には組合が単独で所有する漁業権もあれば,いくつかの組 合が共有する漁業権もある。後者の場合は,漁業法施行規則の第

2

5

条に「従来 ノ慣行文ハ契約ニヨリ共有ノ性質ヲ有スル入会ヲ為シタJレモノガ,従来ノ慣行 ニヨリ専用漁業ノ免許ヲ受ケントスルトキハ,入会漁業者連印シテ出願スベシ」 とあるように,関係する組合が共同で出願し,認可されると組合共有の漁業権 となった。これを共有漁業権という。讃岐の海で共有漁業権といえば,その典 型は塩飽諸島のそれであろう。塩飽諸島の漁業組合は,本島村,広島村,佐柳 島村,高見島村,それに与島村の以上

5

つの漁業組合であるが,各組合が所有 する漁業権は全部もしくは大半が共有漁業権であって,組合が単独で所有して いる漁業権はわずかしかない。幕藩時代以来,塩飽諸島一円の沿海が塩飽の島々 を領有する人名たち共有の海であったという歴史的経緯のもとに,漁業法制定

(24)

-44- 香川大学経済論叢 44 以降は塩飽の海は右の

5

つの組合共同の専用漁場として継続することとなった のである。 慣行漁業権の海 さて,香川県の海において専用漁業権の設定が完了した のは,大正

3

年のことであった。明治

3

4

年の漁業法制定以来,

1

0

年以上の年月 を要して香川の漁業権漁場の地図がえがかれたことになる。いま,大正

2

年の 「香川勝慣行専用漁場連絡図」をみると,相生村と引田町の沖合の海は引田浦 漁業組合と相生村漁業組合共同の専用漁場,その西隣の白鳥本町沖合の漁場は よ だ 引田浦・松原・湊・三本松浦・誉田浦・小磯・馬篠の各漁業組共同の専用漁場 といったように,東は大川郡の相生村から西は三豊郡の和田村までの,播磨灘・ 備讃瀬戸・燈灘の香川県沿岸海域はあますところなく慣行専用漁場で塗りつく されており,あたらしい漁業者が新規に着業できる余地などははまったくない という状況であった。このような慣行専用漁業場で塗りつくされた海に,地先 専用漁業権,定置漁業権,区画漁業権,特別漁業権の漁業がくわわり,さらに 許可漁業がくわわって香川県全体の漁業地図がえがかれることになるのであ 表2 香川県漁業権数・許可漁業許可件数 組 合

個人

会社 言十 専用漁業権

1

3

2

1

3

2

定置漁業権

1

1

2

4

(

6

0

)

2

1

1

2

6

区画漁業権

1

8

5

0

0

(

2

4

)

5

1

9

特別漁業権

4

6

7

(

5

0

)

4

6

7

ー 許可漁業

4

5

2

0

(

4

6

)

2

4

5

2

2

注) 1 漁業権数は昭和12年,許可漁業許可件数は昭和11年の調査。 2.. ( )内の数値は共有。 3 数値はあきらかでないが,個人有の区画漁業権は大半が淡水養殖。 4 r大日本水産会報J(第657号)より作成。

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45 明治漁業制度と県漁業 -45-る。 ちなみに,香川の海に存在する漁業権漁業および許可漁業の数はどの程度で あったか。表2は,昭和11・12年の漁業権数・許可漁業数である。漁業権漁業 はそのほとんどを漁業組合が掌握している事実とともに,その数の多さが確認 できょう。これは戦後の昭和 23年の統計であるが,香川県の慣行専用漁業権の 数は全国では第3位,特別漁業権は9位,定置漁業権も全国的には最上位のク ラスに入っていた。まさに備讃瀬戸を中心とする香川県の沿岸海域は漁業権漁 業の海であったといっても過言ではない。 それでは,このような漁業権漁業の海において漁民たちはどのように漁業を 営んでいたか。これを知るためには,漁業組合とその構成員である漁民の関係 を理解しておかなければならない。 漁業権と組合規約 漁業権とは漁業を営む権利である。漁業権を国家から 付与された漁業組合は,しかし,漁業権を管理するだけであって,実際に漁業 権を行使して漁業を営むのは組合員である漁民たちである。したがって,漁業 組合は組合員による漁業権の行使の仕方についてあらかじめこれを組合規約で さだめておく必要があった。 たとえば,庵治漁業組合の場合,その組合規約によると,庵治漁業の中心的 存在である中高網漁業は厳格な禁漁期聞が設けられ,漁場は標識で区域を明示 し,寄り集まったボラやコノシロなどの散逸を防ぐために他漁は絶対禁止で あった。そしてこの中高綱を操業する権利は入札で決め,権利をえたものは定 額の漁業料を組合に支払った。中高網のほかに,組合が組合員から漁業料を徴 収した漁業にイワシの地びき網,縛網,マテ突き漁などがある。 あるいはまた,丸亀漁業組合の場合,専用漁業権のサワラの瀬びき網は網数 を3統に制限し,これを営むものは旧来の漁業者に限られた。おなじく専用漁 業権の繰網漁業もその営業が旧来の漁業者に限られた漁業である。右の瀬ぴき 網と繰網以外の,中高網,サワラ流網,ゴチ網,漕網,建網などの専用漁業権 漁業は,漁業者を限定せず,組合員が個々に,あるいは共同して自由に営むこ とのできる漁業であった。また,定置漁業権の建千網は入札で漁業者を決め,

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-46- 香川大学経済論叢 46 区画漁業権のアサリの養殖業者は組合が業者を指定した。稼ぎの漁であるサワ ラ瀬びき網は漁業料が課せられたが,繰網や建干網,サザエ漁業なども漁業料 の課せられた漁業であった。 さらにまた,香西浦漁業組合についてこれをみると,香西浦にとってとくに 重要な専用漁業権のタイ大網とサワラ瀬びき網は,それぞれ統数を現行の統数 一一一組合設立当時,タイ大網は4統,サワラ瀬びき網は11統存在したーーに制 限し,漁業者は入札によって決定する方法がとられた。そして瀬居島漁場は両 漁業とも 1日l網の操業が限度であったから,操業の順番は抽選できめ,漁期 中,網元たちは輪番で出漁した。そしていずれの網も漁獲高の多い漁業であっ たから,落札金のほかにタイ大網は

1

統につき

6

円,サワラ瀬びき網は

1

統に つき

2

円の漁業料が徴収され,組合に納付された。両漁業のほかで,漁業料は 徴収しないが入札によって漁業者を決めた漁業に,定置漁業権の桝網漁業,区 画漁業権のアサリ養殖業,特別漁業権のアジ地びき網漁業などがあった。 漁業組合が単独で漁業権を所有している右のような場合に対して,漁業権が 共有の場合は,組合規約をさだめるその前に,各組合の聞で当該漁業権をどう 使うか,を取り決めておかなければならない。たとえば,塩飽

5

漁業組合の聞 では「共有漁業権申合規約書J (明治

3

6

年)が,また,讃岐中戸の丸亀・志々 島・詫間・白方・多度津の

5

組合の間では「共同専用漁業権契約書J (明治

3

6

年) がそれぞれ締結されている。 入漁する漁民たち 香川の漁民たちにとって漁業権にまもられた漁場は, たしかに誰からも妨害されることなく漁のできる生活の根拠地であった。しか し,彼らの稼ぎ場は,この狭い地先の海にかぎられていたわけではない。日帰 りで往来できる備讃の海一帯は,昔から彼らの漁船が漕ぎだす漁場であった。 ご ぷ し ょ 丸亀漁業組合に属する御供所の漁民たちも,丸亀東方の宇多津や坂出の地先の 海,あるいはまた丸亀北方沖合の塩飽の漁場へ入漁し,他方,宇多津や坂出の 漁民たちも丸亀地先の海へやってきた。総じて香川の漁民たちにとって,自分 たちの所属する組合の専用漁場に本拠をおきつつも,他方でより豊かな漁獲を 求めて他者の漁場へ入漁することは,日常一般のことであったのである。

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47 明治漁業制度と県漁業 -47 しかし,入漁する漁場は,漁業権が他の組合に属する海である。他の組合が 支配するその海へ.入漁するためには,その組合と入漁の協定を結ばなければな らない。だが,入漁を許可するかどうかは漁業権者であるその組合の一方的意 志にゆだねられており,入漁協定もその組合がいつでも一方的に破棄できる性 格のものであった。しかも戦前の漁業権は幕藩時代の漁業慣行をベースに設け られたものであるから,漁業権の享受に不公平はまぬがれず,なかには他者の 漁場に入らなければ暮らしていけない漁民も存在したのである。さきにもくわ しく説明したとおり,備讃瀬戸におけるその典型的な事例が,塩飽の漁場にお ける岡山の下津井の漁民たちであった。昭和6年4月 2日の夜半,下津井の漁 民たちが大挙して塩飽

5

組合の代表者である本島の田中茂穂宅を襲ったあの塩 飽事件の根底には,このような漁場利用上の大きな矛盾が存在していたことを 忘れてはならない。これまでの下津井との協定を一切破棄するという塩飽側か らの昭和

5

年の通告が直接の導火線となって塩飽騒動が勃発するにいたるまで の経緯を w 塩飽騒動記~ (角田直一著,昭和

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年)は生き生きとえがいている が,この著者が塩飽諸島と下津井四カ浦との基本的漁場関係として強調したこ とも,-この(塩飽の一注)海の領主として君臨する塩飽諸島の主体性と,この 海への入漁によってのみ生計を維持し得た下津井四カ浦の従属性」であった。 戦後,農村において農地改革が実施されたように,漁村においても漁業制度 の改革が実施されたが,改革がめざしたもののひとつは,前近代的・封建的漁 業秩序を根底でささえている排他独占的な慣行漁業権の解消であった。香川県 の場合,そのもっとも象徴的な存在が,塩飽の「慣行専用漁業権第 4371号」で あったといえるだろう。 参 考 文 献 (1) r讃岐中戸の漁業』丸亀漁業協同組合,昭和54年 (2) r香西漁業史』香西漁業組合,大正6年 ( 3) r明治八年・同九年漁場並漁業」香川県水産試験場所蔵 ( 4 ) r境飽人名共有文香」塩飽人名会所蔵

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-48- 香川大学経済論叢 (5) r愛媛県系布達達書」香川県所蔵 (6) r庵治漁業組合史』庵治漁業協同組合,昭和57年 (7) r香川県高史』香川県,明治 42・43年 (8 ) 香川新報 ( 9 ) r漁場用用益形態の研究』河野道博著,米来社,昭和37年 48

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