京都」 : 大阪川口から奈良、宇治、坂本、比叡山 を越え京都三条へ(1875年)
著者 田島 繁
雑誌名 新島研究
号 103
ページ 170‑191
発行年 2012‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013047
1.はじめに
私は昨2010年秋、同志社中学校教職員OB会で『新島襄中山道の旅』を 著した山田興司元同志社中学校校長から「新島研究の人で標題のウォーク をまだ誰もやっていない」と伺い、2009年4月に「京都・安中 中山道365 kmウォーク」を実践した私は即座に「私にやらせて下さい」と申し出た。
新島が京都にキリスト教主義の同志社英学校を設立するきっかけとなった ウォークでもあり面白いと思った。そこで、『新島研究』81号(1992年)に 収録されている新島襄の英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」関連 の英文日記の原文(1)、英文翻刻(2)、日本語訳(3)と関連資料(4、5)そして『新島 襄全集』8巻(年譜編)(6)を丹念に読み今回のウォークの準備をした。
新島は1874(明治7)年11月米国から帰国し、翌、1875(明治8)年1 月大阪(川口)外国人居留地のM.L.ゴードン(アメリカン・ボード派遣宣 教師)宅に仮住まいをして、日本にキリスト教主義の学校を設立する運動 を開始し、その年の11月29日京都に官許同志社英学校を開校した。京都の 地を選ぶきっかけとなった大阪からの小旅行を、新島は1875年4月1日
(木)「一嚢を帯ひ一本の杖と一本の傘」とを持って始めた。私は2011年4 月30日に新島と同じ時間に出発し、同じ道をウォークすることにより、私 自身新たな発見をしたので、下記のように報告したい。
新島襄の足跡を辿る「新島ウォーク:大阪・奈良・京都」
─大阪川口から奈良、宇治、坂本、比叡山を越え京都三条へ(1875 年)─
田 島 繁
2.プロローグ:「新島ウォーク:大阪・奈良・京都」
の実施と新しい発見
2.1 なぜ新島が「奈良、滋賀を廻って京都への小旅行」を行ったか 新島が帰国後翌年の新年早々の1月に大阪へ来、なぜ「奈良、滋賀を 廻って京都への小旅行」をしようとしたかについては、吉田曠二氏の明快 な説明がなされている。(4) 新島(アメリカン・ボードから準宣教師として 日本に派遣)はキリスト教主義学校を日本に開校したいと願っており、帰 国後神戸のアメリカンボードの宣教師達と連絡を取り、神戸、大阪での学 校設立のために大阪へ赴いていた。新島は宣教師以外にもアメリカと ヴィースバーデンで知り合った木戸孝允に助力を依頼(7)、木戸は2月12日 渡辺大阪府権知事に会い斡旋を試みると共に2月19日には京都の槙村正直 や山本覚馬を訪れ、新島の希望の実現のための調整を計ったものと思われ る。
新島は1月に大阪に来た後、2月頃リューマチ、特に神経性頭痛、不眠 に悩まされることになり、3月30日には安中の千木良昌庵への手紙で「悪 魔之事御聞尋に相成候処兎角神経ニ而夜々失眠いたし、医師当分可廃学よ し呉々も被申候次第」と、病状が深刻なことを伝えている。この様な神戸 大阪の状況で健康を害している新島に対し、ゴードンら宣教師達は新島に 気分転換にと京都視察も兼ねたこの小旅行を勧めたものと思われる。
2.2 ウォークの準備と計画
私は『英文日記』に書かれている所をバイクで7回下見し、距離を計り 調査をした。そして、今年ゴールデンウイークに教え子ら7人と歩き、4 日間で130kmを完歩した。新島の旅は5日間の旅であり、新島は途中日曜 日の安息日には旅をしていないが、私は4日間でのウォークを企画し、新 島の4日目と5日目を1日で歩くことにした。歩いた順路と距離、実際に 掛った時間は次の通りである。
1日目:4月30日(土)大阪(川口教会)~308号線~東大阪~暗峠~榁木 峠~奈良 38 km、10時間
2日目:5月1日(日)奈良~ 754号線~木津~24号線~新田~宇治・菊屋 28 km、6.5時間
3日目:5月2日(月)宇治~隠元橋~黄檗山~二尾~石山寺~瀬田唐橋~
大津 35 km 10時間10分
4日目:5月3日(火)大津~唐崎の松~坂本~比叡山~修学院~三条大橋 29 km、9時間55分
(約18.5万歩) 合計 130 km、36.5時間
2.3 新島ウォークを通して私が得た新しい知見
①新島が出発した時のゴードンの自宅跡を発見
②高木医師と別れたフタツ神社は玉造稲荷神社(Toyotu豊津神社)であろ う
③宇治の旅籠「菊屋」の場所発見
④奈良・宇治間で人力車に乗ったのは、木津から宇治手前の14マイルでは ないか
⑤三室山で迷った山道は高峰山でその場所を実地検証
⑥新島が昼食を戴いた松田孫左衛門のその後とお墓
⑦比叡山下山途中で迷った所は水飲対陣乃跡碑の三差路であろう
⑧旅籠調査 奈良の「煙草屋」、大津の「八丁の高島屋」、坂本の「竹屋文 左衛門」
⑨三条大橋の宿「メガネヤ」は「目貫屋」の間違い
2.4 木戸孝允と大阪府権知事渡辺昇との関係
新島が大阪にキリスト教主義の学校を開校するために木戸孝允に斡旋を 依頼したことから、木戸は大阪府権知事渡辺昇(1838~1913年)に接触し た。渡辺は大村藩士の剣豪。負けん気が強く、幼くして剣を学び、江戸で は神道無念流練兵館で学ぶ。その時の塾頭が長州藩の桂小五郎(木戸孝 允)で親しい仲になる。長崎で坂本龍馬から薩長同盟の必要性を説かれ、
桂小五郎に薩長同盟の急務を説き、同盟の締結に大きな働きをした。明治 になって「浦上四番崩れ」でキリスト教弾圧に加担した。その後、大阪府
権知事(1872-77)となり、新島が木戸に学校設立を頼んだ時は渡辺昇が大 阪府権知事であった。(8)
3.新島ウォーク:大阪・奈良・京都
3.1 新島と私が出発した日時と場所
新島は、1875年4月1日午前8時、川口の外国人居留地外の雑居地にあ るゴードン宅から出発した。私は2011年4月30日午前8時,場所はゴード ン宅跡が分からなかったので、外国人居留地のシンボル・川口基督教会か ら、教え子の中尾憲和君(同大3回生)と一緒に出発した。川口基督教会 は「レンガ造の教会塔が阪神大震災の時、液状化で傾き損傷した。ジャッ キで2m押し上げ床下に免震構造を設置し鉄骨で補強修復した。今では観 光スポットになっている川口居留地はミッションスクール発祥の地です」
と同教会の内山望牧師より教えられた。
3.2 川口外国人居留地は多くのミッションスクール発祥地 幕末諸外国との修好通商条約の締結にともない、大阪は1868(明治元)
年に開港場となり、川口には外国人居留地( 1899(明治32)年廃止)が設 図1 ゴードン宅跡の場所 真中のやや黒
い部分 図2 1日目の新島と私の出発地点
けられた。港の浅い川口は貿易に適さず、1873(明治6)年にキリシタン 禁止令廃止が出されたが、それ以前にもキリスト教諸派の宣教師が多く居 住したところであり、ゴードンとデイヴィスは1872(明治5)年から居住 した。 特に英国国教会を母体とする日本聖公会は1869(明治2)年ウイリ アムス主教が川口に根をおろし、1882(明治15)年に川口基督教会を建立 した。 川口はその後、大阪府知事が渡辺昇からイギリス留学の経験を持つ 建野郷三(知事在任1880-89)に代って以降、大阪信愛女学院、桃山学院、
平安女学院、立教大学、大阪女学院など多くのミッションスクールの発祥 地となった。
3.3 ゴードン宅(川口与力町三番、のち本田三番町32番)の場所 を発見
新島襄の『英文日記』の訳者・北垣宗治先生から桃山学院史料室の西口 忠氏を紹介して頂いた。居留地研究会の西口氏にメールで尋ねると「ゴー ドンの家は雑居地にありここだと特定することはできない」と。そこで
『新島襄全集』第8巻に書かれているゴードンの住所を探してみようと西区 役所に行き「川口与力町三番」であった現在の「本田三丁目」の地図をコ ピーした。お寺には過去帳があるはずだと三丁目の「九島禅院」を訪ね、
奥田啓知住職から古い地図をたくさん見せて頂いた。その中に「与力」と 書かれた地域があり、居留地地図と重ねてみると「外国人雑居地の跡」の 碑に近い。早速、桃山学院の西口忠氏(9)を訪れ「この辺りでは」と問うと 明治41-42年発行の地図を出し「本田三番町32番はここです」と色鉛筆で印 をつけてくれた。ゴードン宅のあった場所を発見できた。今は西税務署の 南西、楠大神の隣の「繁製作所」の場所にあたる。現住所は西区川口3丁 目21番である。
3.4 『新島襄全集』と『英文日記』、『英文日記日本語訳』との微 妙な違い
新島が川口を出発した後の足取りに関して、以下の様な違いがあること を見つけた。
『新島襄全集』第8巻p.141:
4月1日8時川口発→ムツムラ医師訪問。高木玄真がTutatuginjaま で同行→暗峠まで人力車、三里半→1マイル歩き→奈良まで人力車→
奈良4時着
『英文日記』:
Kawaguchi at 8 o’clock called on Dr.Mutsumura. Dr.Takagi accompanied me as far as Futatu Ginja. Thence I took Jinriki Shia for this side of Kuragari Toge,paid 14.5 for 3 ri and a half.
『英文日記 日本語訳』
8時 川口を出て松村矩明医師を訪ねる。高木医師がフタツ神社まで 同行……3里半に対して12銭5厘払う。
高木医師と別れたFutatu Ginjaは⇒ Tutatuginja⇒ Toyotuginjaの可能 性が高い。
私は新島が人力車に乗ったところをバイクで走った。
① 新島が人力車に乗った3里半(14km)を、暗峠(くらがりとうげ)
入口から逆に遡ると玉造稲荷神社になった。6月9日玉造稲荷神社に電話 をし、鈴木権禰宜(ごんねぎ)から「玉造稲荷神社は豊津神社とも呼ぶ」
と伺った。Toyotu と『新島襄全集』にあるTutatuと似ている。そしてさ らに「玉造は大阪の東玄関で、暗越奈良街道を通って「伊勢おかげ参り」
に出かける人はこの玉造稲荷神社でご祈祷を受け、二軒茶屋で見送りの人 と別れを惜しんで出発した所である」と伺った。
Futatu Ginjaを、もう一度新島直筆の『英文日記(原本)』で見た。
Accompaniedのpの下がTutatuginjaのTに重なりFのように見える。しか しよく見ると「FではなくTである」「FutatuではなくTutatu」である。『新 島 襄 全 集 』 に あ る(Tutatuginja) の 方 が 正 し い。 新 島 は「Toyotuを Tutatu」と聞き間違えたのではないだろうか。新島は3里半(14km)に対 し14.5銭お金を払っているから、暗峠入口から14km手前にある玉造稲荷神 社こそ高木医師と別れを惜しんだ神社であると私は確信した。
②暗越奈良街道沿いに同名の「熊野大神宮」が2つある(大今里,東今 里)。この由緒ある神社の白江宮司に聞くと、「今までフタツ神社と呼ばれ
たことはない」と言われた。距離も合わないので没とした。
4.新島ウォーク:大阪・奈良・京都 第1日目
4.1 大阪から奈良まで新島が歩いた距離
私がバイクで計測した距離と新島の記録とを比較した。
ゴードン宅 歩 フタツ神社 人力車 暗峠登口 歩 暗峠 歩 暗峠下り 歩 榁木峠 人力車 奈良
① 4.1 km 14 km 3.3 km 5.5 km 1.6 km 12.5 km(4計 1km)
新島の記録 (3里半、
14.5銭) 上30丁 下50丁 1マイル ②(12.5銭)
私の計測 17.9 km 20.7 km 26.6 km 38 km
(注)①フタツ神社は玉造稲荷神社とする。
②人力車代「3里半(14km)14.5銭」から1km = 1銭と考え、榁木峠・奈良間は 12.5銭 = 12.5kmとした。
③暗峠は登り口から急な坂で人力車では上れないから、登り口までの距離とした。
④1里=4km、1丁=110 m、1マイル=1.6 kmとした。
新島が歩いたのは4.1km+3.3+5.5+1.6=14.5kmで、大阪・奈良41km(私 の計測では38km)の36%。 新島が1日目に歩いた距離は約15kmで、約 4割である。
図3 1日目のルートと暗峠
4.2 難所の暗峠(くらがりとうげ 標高455m)
暗峠は生駒山(642m)を越える難所で、昔は大阪と奈良を結ぶ主要道 路、お伊勢さん詣の道であった。今は、第2阪奈道路が出来たので主に観 光客が訪れる峠だ。近鉄枚岡駅からいきなり急な坂道で汗を拭き拭き登る こと55分、やっと峠に着いた。中腹の芭蕉句に刺激され、私も一句 「杖持たず暗峠 初音かな」。
「伊勢遷宮」を2年後に控え、芸人の暗峠を登るテレビ番組も影響して か、頂上の茶店は賑わっていた。私は「東北支援日本ガンバレ 同志社新 島襄 大阪奈良京都」と松井会の藤井寛氏に作って戴いた幟をリュックに 付けていたので、同志社卒の人らが話しかけてくれた。バイクで全行程往 復2回下見したが、暗峠と榁木峠の間で道に迷った。国道308号線とは言 え運転手も知らないマイナーな超狭い道だ。
4.3 宿泊許可が必要だったホテル「煙草屋」
奈良で「ホテル(煙草屋)に宿泊する許可をえるため『たむろじょ』に 行かなければならなかった」と『英文日記』にある「たむろじょ」とは屯 所、今の警察署で、宿泊許可が必要とは…現在と比べると大きな違いがあ る。新島は興福寺の五重の塔にのぼり、春日大社を訪れ、ホテル(煙草屋)
に泊った。「煙草屋」について、奈良市観光センターに聞くと「もしかして 有名人がよく泊った奈良国立博物館前にあった日吉館(今の「志津香」)で は」と。早速「志津香」を訪れると、女主人は「隣の家には志賀直哉など 有名な文人がよく泊られたのでそこではないか」と。
5.新島ウォーク:大阪・奈良・京都 第2日目
5.1 奈良・宇治間で人力車に乗ったのは、木津~宇治手前の14マ イルではないか
新島の日記には次のように書かれている。
『英文日記』
I left Nara at. 10P.M.[A.M?] Came to Kizu, at the noon, 21 Sen. I rode 4 miles that afternoon i.e. a mile beyond Kizu to S[h]inden.
『英文日記 日本語訳』
奈良を午前10時に出発。正午木津着。21銭。午後人力車で4マイル
(6.4km)行く。新田を1マイル(1.6km)過ぎたことになる。
『新島襄全集』第8巻
奈良(朝8時)→木津(正午)(21銭)→午後、宇治の入口、木津新田 の1マイル先までの4マイルを人力車→茶畑の中を平等院に行く。
新島は人力車に乗ったらいくら払ったかを書いている。しかし、奈良か ら木津は人力車に乗ったと書いていないのに21銭と。午後、木津から木津 新田の1マイル先まで人力車に乗ったのに代金を書いていない。では、新 島が払った21銭はどの区間の人力車代だろうか。私はもう一度奈良・宇治 間をバイクで走り計測した。奈良(日吉館)~木津6.6km。大阪の人力車 代「3里半(14km)14.4銭」から1km=1銭とすると、奈良~木津6.6km は約7銭で21銭は高すぎる。奈良から木津は2時間あれば十分歩いて行け る距離だ。一方、木津から4マイル(6.4km)は井出町役場付近で、降り ても見るものはない。どうしてこんな所で降りて10km先の新田、13km先 の宇治まで歩いて行かれようか。木津~新田は17km、宇治は20kmであ る。新島の払った21銭は木津から新田の1マイル先の宇治の手前であると 思う。4マイルではなく14マイル(22.4km)だと思う。
新島の直筆英文をもう一度見た。21 Senの後が他のピリオッドと同じで はなく少し長いアンダーバーにも見える。見方によっては次の“I rode 4
miles that afternoon”に21 Sen払ったと読めなくもない。人はいくら払っ たかはよく覚えているが、その距離が何kmかは正確に言えるだろうか。
新島は何mile、何丁と正確に記しているのでびっくりするが…。払った21 銭は確かだから、逆算すると木津から新田の1マイル先の宇治(20km)手 前まで人力車に乗ったと思う。とすると、新島が二日目に歩いた距離は28 kmの内、約7km程としておこう。
5.2 宇治の旅籠「菊屋」の場所
新島は宇治平等院を訪れ「川の畔のサクラマチの菊屋に泊る」と『英文 日記』に記している。宿賃1貫500文(37.5銭)の上等な旅籠だ。教え子の 稲房直君に「新島の泊まった菊屋は今の表参道にある『きくや』か(図 4)」と聞いたら「否、菊屋は私の店のすぐ隣にあった大きな旅館です。萬
(b) 旧「菊屋」の現在の場所 図4 2日目 (a) 旧「菊屋」と
船着場(手前の白い建物)
碧楼から中村藤吉平等院店と6、7代替わっている」と。彼に「新島は黄檗 山に行くのに渡し舟で隠元橋まで行く」事を伝えたところ「その船着場が 菊屋の裏のここです」と教えてくれた。稲房君は「坂本龍馬伝」で友人か らよく聞かれ、調べてみたという。宇治市歴史資料館に問い合わせたら、
間違いないと確認できた。
6. 新島ウォーク:大阪・奈良・京都 第3日目
6.1 「三室山」で迷った山道は高峰山であることを実地検証(10)
新島は『英文日記』に「黄檗山に行く。それからナガサカの地蔵へ行こ うとしたが道を間違え、三室山の道を辿るうちに、道を間違えたことに気 づく。最高の地点に登って周囲を眺め、正しい道を見つけようとしてみ た。山道を行きつ戻りつするうちに2、3人の樵(きこり)に出会う。谷 間を隔てて炭山への道を訊ねる。彼らから道を教わり、その谷間に下りて 行き、そちら側の山へ行く。ようやく炭山への道を見つける」と記してい る。私はこの迷った道を検証しようと、6月4日一人で歩いてみた。
(b) 大津の旅籠「八丁」の地図 図5 3日目 (a) 「三室山」で迷った
山道
新島は黄檗山万福寺から長坂峠に向かって歩く。宇治カントリー倶楽部
(C.C)に沿って南に幅3−4mの道があるので新島はこの道を通ったと思 う。15分程歩くと道は細くなり三差路に来た。川を横切り左にUターンす れば宇治C.Cと日清都C.Cを結ぶ小道(私はその小道を歩いた)に突きあた り、日清都C.Cを通って長坂峠そして炭山に行ける。しかし新島はUター ンする道を選ばず、川に沿って真っ直ぐ山に登って行く。山道が途切れ間 違えたことに気づく。元の三差路に戻ればよかったのに、そのまま最高の 地点(高峰山298m)に行こうと道なき急坂を駆け上る。頂上まで行かない 所で樵に会い道を尋ねる。新島は谷間まで下り現在の日清都C.Cへの小道 に辿りつき、長坂峠を越えて炭山への道を見つけたと思う。迷った路は三 室山の裏山である今の高峰山であると私は確信した。
私は新島が「三室山」で迷ったというから、三室戸寺の辺りかと思い同 寺を訪れた。僧侶に「三室山はどの辺ですか」と聞いたら「奈良の三室山 では」と。宇治市歴史資料館の学芸員から、「三室戸寺の裏山一帯を三室山 と呼んでいた」と聞いて得心した。
6.2 二の尾で昼食を戴いた松田孫左衛門
新島が「宇治郡第二区二の尾村、松田孫 左衛門方で食事をする」と日記に書き、英 語で“I took my dinner”と書いている。
三室山で迷った後、美味しいご馳走を戴い た感動が伝わってくる。私は二の尾を訪れ た際に、藤田千代次区長にバッタリお会い した。松田孫左衛門のことを質問したとこ ろ、藤田氏は「松田家は私の家の隣で、松 田家は旧家で子供がたくさんいた。ある日 夕方、松田家の親達は野良仕事に。帰りが 遅いので子供達はランプに灯油を入れるの 図6 松田孫左衛門のお墓
に、カンテラの火を1斗缶に近づけたら爆破して火事になった。お墓が近 くにあり、横浜にいる子供が時折お墓参りにくる」と。図6に示す様にお 墓を案内してもらい手を合わせた。藤田氏から宇治茶を栽培し宇治田原に 出荷していると聞いたので、「新島が味わった玉露の味を」とお願いした。
熱湯を冷まし最後の一滴まで搾り出した茶を飲んだ。その美味しくてまろ やかな味に舌を巻いた。新島の『英文日記』に「松田が石山まで付き添っ てくれる。石山で牛を返す」とある。新島は牛に乗って石山寺まで行った と思う。
6.3 石山寺と瀬田の唐橋
『英文日記』に「石山寺で半時間ほど休む。観音堂、月見堂。石灰石。そ の石はなかなか割れない」とある。石灰石は天然記念物の硅灰石であろ う。「瀬田の橋まできてから大津まで人力車に乗る」と『英文日記』に書か れているが、私も足が痛み始め瀬田の唐橋で靴下を脱いだら水膨れが4ケ 所もあった。粟津の原(晴嵐)、膳所山(今の茶臼山であろう)、市民の憩 いの場になっている膳所城跡を見、芭蕉の墓がある義仲寺を通り旧東海道 を歩いた。ロシア皇太子を襲撃した大津事件の現場に来た。この通りはま だ旧東海道風情が残っていた。新島が三日目に歩いた距離は35kmの内、
迷った道を含め約13kmであろう。
6.4 大津の旅籠「八丁の高島屋」
「八丁の高島屋に泊る。旅代2朱」と『英文日記』に書かれている。旅代 12.5銭は宇治の「菊屋」の3分の1である。4月20日、私は大津市歴史博 物館を訪れ、八丁の古地図をコピーさせてもらった。旅籠を尋ねている と、「八丁に屋号が高島屋」というお店があると聞いた。お店は大津市中央 1に移転していた。ご主人に聞くと「戦後に質屋を創業した。高島町出身 なので高島屋という屋号を使った。旅籠ではありません」とのことで残念 ながら旅館ではなかった。大津にある旅籠の調査で以前、立命館大学の先 生と学生たちが旅籠「富田屋」を訪れた。先生によると「江戸時代からの
…」と。80歳台のおばあちゃんは「私の小さい頃から旅篭。ここが昔なが
らの帳場。今も残る旅籠は「草津屋」と「東園」の三軒で、都市再開発で 5年以内に立ち退き、もう無くなるのでは」と言った。
7.新島ウォーク:大阪・奈良・京都 第4日目(新 島の旅の4日目と5日目)
7.1 唐崎の松
大津では近江宮の遺跡が保存され、額田王や柿本人麿の歌が刻まれた石 碑があり文化的な香りがした。近江神宮で歌会始がある理由が分かった。
歩道には「近江八景」がタイル張りではめ込まれ「唐崎の松」もあった。
日吉大社から来た巫女に聞くと、初代の松は633年に植えられ、今の松は3 代目で東西26m、南北30m、高さ10m。新島が見た2代目(1591年植付)
は今の2、3倍もあり琵琶湖まで張り出していたという。芭蕉が「花より も唐崎の松朧かな」と詠み、俳句や和歌が盛んな土地柄だ。
7.2 坂本の旅籠「竹屋文左衛門方」
「安息日につき上坂本の宿で休息する」と『英文日記』に書かれている。
新島はその日が日曜日だと分かり坂本で旅を中止し、元三大師堂や西教寺 などを訪れ、竹屋文左衛門方で泊る。旅代は2朱200文(13.75銭)で大津 の旅籠よりは上等な宿だ。創業280年の本家「鶴㐂そば」を訪れ竹屋文左衛
図7 4日目 坂本の旅籠「竹屋」と登山ルート
門について尋ねた。「日吉そばの東の当社駐車場が旅籠『竹屋安兵衛』(屋 号は竹安)があった所です。日吉大社や比叡山延暦寺に通じるこの前の
『作り通』には商店や旅館が並んでいたので、竹屋文左衛門もこの辺りに あったのでは」と伺った。
7.3 新島の頃の延暦寺
私はJR比叡山坂本駅で教え子岸本展、北川晋也、片岡省太の3君と松 井会の蔵岡信彦氏と合流し比叡山に登った。古希の蔵岡氏も同行なので休 憩もとり1時間半かけてゆっくり登った。新島は五日目、『英文日記』で
「早朝、叡山(838m)目指して出発する。1時間かけて寺院に到着する。
午前10時に比叡山のこちら側におりる。ほとんどずっと雨。ほとんど道を 見失いかけた」と記している。新島が1時間で根本中堂まで行くとは早足 だなあと感心した。私も一人で歩いた時は55分だった。
根本中堂は法然上人800回忌で賑わっていた。釈迦堂の前には水琴窟が あり美しいハーモニーを醸し出していた。しかし、新島は父民治へ「寺前 ニ草茂れども之をかる者なく、何レ遂ニハ破壊ニ可及、其有様往古之叡山 と相違し今は兵を出し天下を騒動する勢無く、今日糊口ニ窮する次第な り」(11)と当時の荒れた様子を二日後に書いている。
7.4 比叡山越えで道を見失いかけた三差路
釈迦堂からドライブウエイを横切りケーブルの比叡山駅に向かう。ミツ バツツジが満開で見晴らしも良かった。比叡山駅からは京都市内が一望で き、同志社小中高の校舎や京都国際会館、御所、同志社大学が見渡せた。
しかし、新島は「ずっと雨で道を見失いかけた」と『英文日記』に書いて いる。その場所は「水軍対陣乃跡碑」のある赤山禅院、曼殊院、北白川に 抜ける三差路だと思う。私達は同志社中学校の夏のキャンプ「唐松岳登 山」の予備訓練で歩いた比叡山参道のキララ坂を下りた想い出があり、教 え子達はその頃を思い出し懐かしがっていた。
叡山電鉄の修学院駅で待っていた畝目襄治、河村隆夫、前田良平氏と合 流し河川敷を歩いた。たんぽぽや菜の花など明るい景色を満喫し、ゴール
の三条大橋に5時15分に到着した。
毎日新聞社の記者が取材で待ってい てくれたようだが会えなかった。新 島の『英文日記』にはどのルートを 通って三条大橋に着いたのか書かれ ていないので、車が絶え間なく通る 白川通りを避け、高野川と鴨川の河 川敷を歩いた。
7.5 新島が歩いた距離は全行 程130kmの約半分
新島は雨の中比叡山を越えて大津 から三条大橋までの29km全てを歩
き、正午京都三条大橋に到着した。大変健脚である。私の計算では、新島 は約130kmの内半分の64kmを歩き、半分は人力車等を利用した事が分 かった。すなわち1日目15km、2日目7km、3日目13km、4+5日目 29km=64km / 130km = 50%
7.6 三条大橋の「メガネヤ」は「目貫屋」の間違い
『英文日記』に「三条大橋のメガネヤに至る。夕方ゴードン氏を訪う木屋 丁通三条上る十二」と書かれている。私は新島会館の北にある京都市歴史 資料館を訪れ、三条大橋の「メガネヤ」または新島書簡に出てくる「目貫 屋」の場所について聞いた。すると『新撰 京都叢書』 第7巻(12)を出し
「『諸国定宿』に目貫屋藤左衛門があります」と図8を紹介して頂いた。「位 置はどこですか?」と聞くと、「三条大橋西つめ」とのことであった。今 回、このウォークを通して吉田曠二氏の「新島襄を京都に導いた一冊の 本」(4)を読んだ。その中に「めざす旅宿目貫屋(木屋町三条角)に投宿し た」と書かれており、吉田氏に電話で尋ねると「小さい頃、目貫屋が木屋 町三条角にあったのを覚えている」と。資料館の方も「これは必ずしも三 条大橋の西端という意味ではない」と。『英文日記』の訳者北垣宗治先生も 図8 目貫屋の記述のある『諸国定宿』
「Meganeya は新島のうっかりの表現ではないかと思います」と。長い間 疑問に思っていたことがやっと解明できた。
8.エピローグ
8.1 大阪にいたゴードンが新島の到着日に京都にいた理由 仕掛 人はゴードンか
京都への旅を勧めたゴードンが新島の到着前に京都の宿(木屋丁通三条 上る十二)に来ている。『新島襄全集』8巻142-3頁によると、この後、新島 は「4月24日まで滞在、知事(槙村正直か)に度々面会」「槙村正直の紹介 で山本覚馬に会い、学校設立について相談する。山本はゴードンから贈ら れた『天道遡原』について話し、キリスト教による人心の改善を説き、キ リスト教による学校の設立を勧める」。まさに新島が京都に着く前に、お 膳立てをしていた仕掛人はゴードンであったといえよう。ゴードンはアン ドーヴァー神学校、ニューヨークの医学校を卒業後、アメリカン・ボード から日本に医療宣教師として派遣された。最初は川口外国人居留地に住 み、帰国した新島襄を仮寓させた。後に、同志社で神学と音楽を教えた。
8.2 新島が持っていただろう地図、ガイドブック
関西は初めての新島は、どんな地図やガイドブックを持って旅をしたの であろう。同志社大学図書館で調べたら、明治初期の地図を見つけた。超 大型版の『日本近代都市変遷地図集成~大阪 京都 神戸 奈良』である。(13)
図9の地図が明治9年版で宇治、黄檗山、炭山、貮尾の地名が書かれてい る程度の大ざっぱな絵地図である。持っていたとしても当てにならない地 図だ。この地図では黄檗山から炭山に行く途中で道に迷うのも無理はな い。
吉田曠二氏は「新島襄を京都に導いた1冊の本─山本覚馬発行の英文『京 都案内』」(4)で、「私が最も驚いたのは、新島が宇治から石山寺、さらに瀬田 の唐橋─大津の三井寺、坂本─比叡山の延暦寺へと辿ったコースと名所が すべて山本の英文ガイドブックに挿絵と英文の説明入りで紹介されている
図9 明治9年の京都東南 部地図(13)
図10 英文『京都案内』の京都市内の地図(14)
点である。また、英文『京都案内』に挿入された Map of the Surrounding Places of the Town Kiyoto には叡山の延暦寺から京都に到る山道が記入 されていて新島がその地図を頼りに京都三條の宿に向かったと考えるなら 新島は一人でも安心して、迷ってもあわてることなく旅を続けられたと思 われる。」と書いている。(図10は英文『京都案内』(14)の京都市内の地図。
地図の地名は英語で書かれているが、日本語も併記した。)
8.3 山本覚馬の英文『京都案内』を新島が持っていたと確信する 理由
新島の『英文日記』には、山本覚馬著英文『京都案内』(14)を読んでいな ければ興味を示さないであろう黄檗、喜撰、池の尾、二の尾、瀬田、粟津、
唐崎という馴染みの薄い地名がたくさん出てくる。また、新島は英文『京 都案内』で紹介されている宇治や平等院、黄檗、大津、琵琶湖、唐崎、瀬 田、粟津、石山、比叡山を全て訪れている。特に比叡山については、If you go up that place you can see almost the whole of the Lake Biwa. It is one of the most famous views round this city,and well worth the traveler to go to the top of this mountain. It is three Ris from Sanjo.と書かれており、新 島は勿論、誰でも登りたいと思うであろう。
英文『京都案内』は京都41ケ所、大津9ケ所の名所を挿絵と5-10行の短
い英語で紹介している。京都到着の2日後に新島は、英文『京都案内』の 祇園、八坂の塔、清水寺、大谷、三十三間堂、新病院などを見物している。
新島はなぜ奈良から直接京都に入らず宇治、石山、大津、坂本、比叡山越 えで京都に入ったのかと人に聞かれるが、吉田氏の指摘(4)と同じく、私は きっと新島はこの本を持って歩いたためだろうと思った。
8.4 大阪にいた新島が山本の英文『京都案内』を入手できた理由 木戸孝允の仲介か
『新島襄全集』8巻139頁をもう一度読み直すと、新島は1875年1月27日 在阪の木戸孝允を訪ね「大阪での学校設立にご尽力を」と頼む。欧米で交 遊のあった木戸は新島の学校教育への熱い思いを知り協力を約束する。2 月12日木戸は渡辺大阪府権知事と会い説得するが賛同を得られなかった。
そこで木戸は2月19日同じ長州出身の槙村京都府参事を訪れ、また山本覚 馬と語る。この時、木戸は山本の英文『京都案内』を土産に受け取り、2 月22日新島と土佐堀の筑前橋にある尾道屋で会った時、新島に手渡したの ではないか」と私の推論を今年2011年6月13日の新島研究会で発表した。
発表後、北垣宗治先生から「英文『京都案内』はすでにギューリックや ゴードンを通して大坂の宣教師の間に出回っていた。槙村正直が1871(明 治4)年、京都の経済・文化を活性化するため第1回京都博覧会を西本願 寺(その後御所)で開催した。博覧会期間中は外国人が唯一京都で宿泊でき る期間となり、その外国人向けのガイドブックである英文の『京都案内』(14)
を山本覚馬が1873(明治6)年に作成した。妹の山本八重もドイツ製の印 刷機で活字を拾い製本に協力した」と教えて頂いた。
新島は京都に到着した後20日間京都に滞在する。その間に「槙村京都府 参事に度々面会する。また槙村の紹介で山本覚馬に会い、学校設立につい て相談する。山本覚馬はゴードンから贈られた『天道遡原』について話 し、キリスト教による人心の改善を説き、キリスト教による学校の設立を 勧める」(15)と書かれている。
新島が急転直下、京都に同志社を創立することが出来たのは、この木戸 孝允の根回し、大きな政治力があったことを知った。また『天道遡原』を
事前に山本覚馬に贈ったゴードンの見えざる働きがあったことも初めて 知った。
8.5 同志社開校を認めた京都府権知事槙村正直と木戸孝允との関 係
槙村正直(1834~1896)は東京遷都で衰退しつつあった京都の近代化政 策を強力に推進した中心人物である。1868年、木戸孝允は幕末時代から連 絡役として重用してきた同じ長州出身の槙村を京都府に出仕させ、初代京 都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槙村は1871年34歳で京都府大参事と なり1875年京都府権知事、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)を歴 任した。会津藩出身の山本覚馬ら有識者を重用し、小学校の開設(1869 年)、京都博覧会の開催(1871年)、日本初の女学校、女紅場開校(1872年)
など果断な実行力で文明開化政策を推進した。(16)
8.6 山本覚馬が新島に「キリスト教による学校の設立」を勧め、
土地を提供した理由
山本覚馬は1828年会津で生れ、1864年会津藩松平容保に従い京都に入っ た。京都守護職になった藩主の助言役であ
る。この頃より目を患いその後失明。1868年 薩摩藩の捕虜として一時幽閉された。その時 口述筆記させた「管見」で山本覚馬はその見 識を買われ、京都府顧問となり京都府議会の 初代議長を務めた。
山本覚馬はゴードン宣教師から贈られた
『天道遡原』によってキリスト教の教えに開 眼し、日本の道徳的退廃はキリスト教の倫理 によらなければ正すことはできないと確信し た。新島に「キリスト教による学校の設立」
を勧めると同時に、学校用地として旧薩摩藩
邸跡(山本覚馬の所有地)5エーカー(約2万 図11 『天道遡原』表紙
㎡)を550ドル(500円)で譲渡した。(17)
『天道遡原』はアメリカ人Martin(丁韙良)著の中国人向けキリスト教 伝道書である。私は同志社大学図書館で図11に示す原本を見たが、この難 しい漢文の本を失明した山本覚馬はどのようにして読みその内容を理解で きたのかと疑問に思った。きっと、側近の人に読ませ、山本覚馬の研ぎ澄 まされた心眼で、その深い内容を十分理解できたのであろうと思った。
9.最後に
「新島襄の足跡を辿る」シリーズ 第一弾「京都・安中 中山道365km ウォーク」(2009.4.25~5.7)、第二弾「安中~会津・白布ウォークと仙台・
東華学校跡」(2010.5.1~5.7)に次いで、第三弾「大阪から奈良、宇治、坂 本、比叡山越え京都三条130kmウォーク」を完歩することができ、大変嬉 しい。特に最初と最後の日に教え子らと一緒に歩けたことで喜びは倍増し た。
今回の新島ウォークは身近な近畿だったので、何回となく下見をし、ま た同志社大学図書館や京都、宇治、大津の各歴史博物館・資料館を訪れ調 査することによって、私にとって新しい発見がたくさんあった。また「同 志社が大阪ではなく京都にできた背景」には、木戸孝允の新島に対する大 きな期待と政治力、そしてゴードンの山本覚馬に『天道遡原』を贈った見 えざる働きが結実した結果であることを知った。新島の足跡を辿ることに よって「神の見えざる御手の働き」を知り私は大満足であった。
参考文献
1) 口絵写真 新島襄の英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」『新島研究』81号
(1992年)pp.1-16(文中では『英文日記(原本)』と記す)
2)オーティス ケーリ、新島襄の英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」翻刻、
『新島研究』81号(1992年)157(1)頁(文中では『英文日記』と記す)
3)北垣宗治、新島襄の英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」日本語訳、『新島 研究』81号(1992年)150(8)頁(文中では『英文日記 日本語訳』と記す)
4)吉田曠二、「新島を京都に導いた一冊の本-山本覚馬発行の英文『京都案内』」、『新島 研究』81号(1992年)97頁
5)松井全、『新島研究』81号(1992年)114頁
6)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』第8巻(年譜編)、同朋舎(1992年)
7)『新島襄全集』第8巻(年譜編)1872年3月22日に木戸は『木戸日記』に「今日西島
(新島)始て面会す。同人は7-8年前、学業に志し脱て至比国当時已に大学校を経 此度文部の事にも着実に尽力せり可頼の一友なり」と。(1873年5月26日)木戸孝 允らヴィースバーデンに来訪。新島と再会する。木戸から写真を贈られたとある。
8) 渡辺昇 大村観光ナビ/大村の歴史/渡辺 昇 www.omuranavi.jp/02history/
historiy05_03.html
9) 西口 忠、「川口居留地と同志社」、『新島研究』第95号(2004.2.28)新島襄はN.G.ク ラーク宛書簡(1875年1月25日付)に「ゴードン博士はデイビス氏と私に我々のト レーニング・スクールのための土地を探しに、この地の南東の地区に行くように と」。西口忠氏は「その南東の地区がJR桃谷駅西の桃山学院があった桃山の地で す」と私に語った。
10) 吉田曠二氏は『新島研究』第81号(106頁)の英文『京都案内』で、「宇治では平等 院を訪れ…宇治川を舟で登り滋賀県に向う」と述べられているが、正しくは「新島 は舟で隠元橋まで下り、黄檗山、炭山、二尾を歩いて滋賀県に向った」と思う。
11) 『新島襄全集』第3巻 134頁
12) 新撰 『京都叢書』 第7巻、 臨川書店(昭和59年10月15日)
13)『日本近代都市変遷地図集成~大阪 京都 神戸 奈良』 発売元 紀伊国屋書店 編集発行 柏書房
14) 英文『京都案内』山本覚馬 編『The guide to the celebrated places in kiyoto & the surrounding places』 published by NIWA(1873)には「三条からの方角」で、宇 治(南西)、御所(北東)、金閣寺(北東)の3ケ所で誤りがあるのを発見した。
15) 『新島襄全集』第8巻143頁
16) 槙村正直: http://www6.plala.or.jp/guti/cemetrery/PERSON/M/makimura_ma.
html
17) 『現代語で読む新島襄』 丸善、2000.11.29
(注) 明治4年5月の新貨条例で1両=1円に 1両=4貫文=4000文=16朱=1円
⇒ 1貫=1000文=4朱=25銭 (「八丁の高島屋」宿賃 2朱=12.5銭)