新島の墓前におけるジョン F. ガウチャーの一枚の 写真
著者 森田 喜基
雑誌名 新島研究
号 110
ページ 180‑186
発行年 2019‑02‑12
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000624
新島の墓前における
ジョン F. ガウチャーの一枚の写真
森 田 喜 基
はじめに
一枚の写真を紹介したい。
この写真の下には説明書きとして筆 記体でこう記されている。
74714 Dr. Goucher at grave of Neesima.
杖を右手に持ち、左手で帽子を持つ 白髪の男性
Goucher
が新島襄の墓前 にて、祈りを捧げているように見受け られるが、墓石に名を刻まれたその人 に対する心からの敬意を、その背中から伺うことが出来うるであろう。この写真は、2013年に小生が青山学院を研修で訪れた際に、当時の青山 学院院長山北宣久先生より、コピーを頂戴したものである。
青山学院大学、その美しい青山キャンパスには、個人名が冠された建物が 二棟存在する。一つは「ウェスレーホール」、そしてもう一つが、ステンド グラスがひときわ目を引くエントランスが特徴的な「ガウチャー・メモリア ル・ホール」である。
「ウェスレー」は勿論、メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレ
ーのことであるが、もうひとつが「Goucher」メモリアルホールなのである。
「Goucher」とはどのような人物であったのか。その人となりをまず一瞥して おきたい。
John Franklin Goucher、ジョン・フランクリン・ガウチャー(以下ガウチ
ャーと記す)(1845-1922)は米国ペンシルベニア州ウェインスボロに生ま れ、ディキンス大学に学び、1872年修士号、1885年に博士号取得している。1869
年、アメリカ・メソジスト監督教会で按手礼を受け、合衆国の西部開 拓地域の200
以上の教会建設を助けた牧師である。1877年、富豪の相続人 であったメアリー・セシリア・フィッシャーと結婚し、その財を用いて、そ の伝道地をアメリカのみならず世界各地へ広げていった。特にインド、中 国、日本でのメソジスト教会の伝道事業にため多大な尽力をしていったので あるが、日本においては青山学院の設立に多大な貢献をし、青山学院の財政 的、精神的な最大の貢献者であった。またボルティモアに黒人のためのモル ガン大学と、若い女性のためのガウチャー大学を設立し、1890-1908年自ら 大学長を務めた。さらに南北戦争を契機に分裂をきたしていたメソジスト各 教派の合同を推進し、日本においても1907
年、アメリカ・メソジスト監督 教会、カナダ・メソジスト監督教会、アメリカ南メソジスト監督教会が、日 本メソジスト教会として合同した際も重要な役割を果たした、アメリカと日 本のメソジスト史における重要な牧師・教育者である。そのガウチャーが新 島の墓参をしているこの写真は、いつ撮影されたものであったのか。写真からの情報
まずこの写真の所在を調べるために、青山学院資料センターに問い合わせ たところ、青山学院がお持ちなのは、この写!真!の!写!真!とのことであった。現 物は、アメリカ東海岸ニュージャージー州にあるドリュー大学の合同メソジ スト教会資料館(The United Methodist Archives and History Center)1)が所蔵 しており、私が頂いた写真のコピーは、青山学院資料センターが合同メソジ スト教会資料館を訪ねた際に、撮影された膨大な写真の中の一枚であるとの ことだった。
新島の墓前におけるジョン F.ガウチャーの一枚の写真
年
7
月14
日」も「1974年7
月14
日」もガウチャーと新島の生きた時代か らしてあり得ない。青山学院によると「ガウチャー関連の写真、資料を整理 された方がつけた番号と資料館の方から伺った」、「前後の写真との比較で大 まかな年代を明治後期、大正初期などと類推するくらいしかできないと思わ れる」とのことだったが、これは有力な情報であった。また写真からいくつかのことが読み取れる。まずガウチャーの服装や、
木々や地面に草花が生えていない事、また落ち葉などが見当たらない様子か ら、夏冬ではなく、そして秋というよりは春先の写真と考えられる。木々に は緑がほとんどなく、墓前に供えられた花にネコヤナギのようなものが見え る事、バックの木立の中に辛夷の花と思しきものが見える事、などもその理 由である。
そしてこの写真の墓石は所謂「二代目」の墓標である。新島は臨終の際に
「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄の墓とだけ書く」と言い残したこ ともあって、最初の墓標は遺言通りのものとなった。そして新島の没後
1
年 が経過し、徳富蘇峰が勝海舟に碑文の揮毫を依頼し、快諾されたものが彫り 込まれたもの、それがこの「二代目」である。ここでもう一枚写真を提示したい(左下写真参照)。これは同志社社史資 料センターが所蔵する「二代目」が設置されてまもないと推察される写!真!の! 写!真!である。下部右に「堀真澄」と書かれているが、同志社の黎明期の写真 を多数撮影している「堀写真館」による写真であることがわかる。ただしこ の資料には、撮影日等が記され ていないが、「二代目」が設置 されてまもないと推察する理由 は、まず墓石の下段の「JOSEPH
HARDY NEESIMA」の 文 字 の
色がしっかりペイントされた状 態である事、石も白黒写真では あるが、白く汚れていない事、塗装で言えば木製門扉も同様である事が確認出来る。おそらく「二代目」の 竣工(1891年)を記念して撮影されたものではないだろうか。ガウチャー の写真と比較すると、背後はまだうっそうと茂っており、墓所として開かれ ていない。墓石の後ろに生えている左側の杉と考えられる木の太さは、ガウ チャーの写真と比較すると約
1.3
倍の太さに撮影されているが、それをもっ てこの2
枚の写真の間に何年間が存在するということを言うことはできな い。この写真が「二代目」竣工の日とするならば、ガウチャーの墓参が何年 後かということは、確定的に言うことはできない。しかし数十年は経過して いるように、私には見受けられる。他資料から
ガウチャーの来日に関しては、まず日本メソジスト教会の機関紙であった
『護教』にいくつか記載がある。
「個人(消息)」ガウチヤ博士 支那(ママ)伝道視察の為二令嬢を伴 い本多監督と同船にて十四日来朝の筈2)
「ガウチヤ博士教育談」余の来朝は之が三度目である。
「個人(消息)」ガウチヤ博士 二十七日東京を発し朝鮮へ赴き3)
すなわち
1910
年10
月14
日にガウチャーは日本メソジスト教会初代監督 の本多庸一と同時に来日し、27日には東京を離れ、朝鮮へ出発しているが、これ以前に
2
回来日しているということである。またこのことは後で詳しく 述べるがイギリスのエディンバラで1910
年世界宣教大会が行われ、ここで アジアにキリスト教主義大学を設立することが提案され、その実行委員長に ガウチャーが選ばれている。このことでガウチャーは1911
年4
月4)、また1914
年10
月にも来日している5)。同志社側の資料としては、『同志社時報』が当時同志社を来訪した人々に ついての消息をまとめている。ガウチャーが召天する
1922
年までの同志社 の記録では、『同志社時報』115号に新島の墓前におけるジョン F.ガウチャーの一枚の写真
諸氏と午餐を共にせられたり。6)
の記述があり、また『同志社女学校期報』に
講話 十月二十六日午後二時より米人ガウチャー博士の所感7)
と同日のことをそれぞれ紹介しているのみである。ガウチャーほどの人物が 同志社を公式に訪れた場合、必ず何度でも『同志社時報』は報告したはずで ある。すなわちガウチャーの同志社公式訪問は、1914年
10
月26
日のみな のである。しかしガウチャーの写真は、どう見ても秋というよりは春であ る。これらを踏まえると、ガウチャーの新島襄の墓参は、残念ながらその日 時を特定することはできない。ガウチャーの墓参の日は、もしかしたら1911
年4
月の来日の際かもしれない。また別の機会であったかもしれない。いずれにせよ、それは同志社が把握していない、非常に個人的な墓参りであ ったのであろう。付け加えるならば、訪問日が確定しない以上、この写真の 撮影者も特定することはできない。
ガウチャーのキリスト教連合大学構想
ガウチャーはなぜこの時期、日本を度々訪れていたのか。それは先に少し 触れた通り、イギリスのエディンバラで
1910
年世界宣教大会でアジアにキ リスト教主義大学を設立することが提案され、その実行委員長に教育委員会 の代表であったガウチャーが選ばれたことによる。すなわち1911
年及び1914
年に、在日の各教派宣教師社団と首都圏を中心に大学設立の可能性に ついて協議を重ねるために来日したのである。ガウチャーを中心としてこの 構想のために何度も委員会は開催され、「東亜大学」という仮称や設置候補 地が決まるなど具体的な進展を見せたものの、最終的にこの計画は頓挫し た。これは男子の大学を設置することが当初の目的であったが、当時の日本において立ち遅れていた女子教育への超教派的な取り組みにつながってい き、この流れから
1918
年に新渡戸稲造を初代学長として東京女子大学が設 立されていったのである8)。おわりに
この写真はいつ撮影されたものか。今回まずはこの写真を紹介させていた だく機会を得たが、撮影日時を特定するに至らなかった。しかし青山学院設 立の支柱であったガウチャーが新島の墓参をしているこの写真は、新島がキ リスト教連合大学の構想のために奔走した他教派の宣教師から、没後少なく とも数十年が経過したと考えられる時期に、当然のことながらこうして覚え られていたことを、客観的な事実として語っている。
ガウチャーが新島の墓前にてどのように神に祈ったかは知る由もない。し かし今日、日本にあるキリスト教主義学校は、青山学院もそうである、同志 社もそうである、その産声はこのような人々の祈りによって生まれたという ことを改めて覚えたいものである。
本稿執筆にあたり、調査、撮影、更にご助言を頂いた青山学院資料センタ ーの傳農和子氏、同志社社史資料センターの布施智子氏に心より感謝した い。
注
1)The United Methodist Archives Center https : //www.drew.edu/library/special-collections -archives/umahc/
2)『護教』第1003号 明治43年10月15日、p.15.
3)『護教』第1005号 明治43年10月29日、p.11.
4)大森秀子「基督教女子教育会とキリスト教連合女子大学運動」『キリスト教学校 教育同盟百年史紀要』キリスト教学校教育同盟、2003年、p.15.
5)青山学院編『青山学院九十年史』青山学院、1965年、p.371.
6)『同志社時報』115号 大正3年12月1日、p.8.
7)『同志社女学校期報』37号 大正4年6月25日、p.10
新島の墓前におけるジョン F.ガウチャーの一枚の写真
参考文献
J. W. クランメル「ガウチャー Goucher」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、
1988年、p.281.
本井康博「同志社墓地」『同志社論叢』24巻、同志社人文科学研究所同志社社史資料 室、2004年、pp.172-220.