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雑誌名 新島研究

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初期同志社英学校に学んだ真鍋定造の軌跡 : 伝道 師から児童雑誌の編集者へ

著者 柿本 真代

雑誌名 新島研究

号 102

ページ 113‑134

発行年 2011‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013035

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はじめに

 初期同志社英学校の卒業生には、社会事業や出版活動をはじめとした、

様々な分野における開拓者として活躍した人物が少なくない。本稿では、

初期同志社英学校出身であり、児童文化の領域で知られざる功績を残した 真鍋定造(1856-1891)について論じる。

 真鍋は、その人柄・信仰によって新島襄の寵愛を受けた人物として、ま た新約聖書の聖句辞典『聖書語類』の編纂者として、『天上之友』第一篇

(今泉真幸編、日本組合基督教会牧師会、1915、pp.79-82)に記されてい る。真鍋は恩師新島を臨終の際まで看病したとされるが、その翌年自らも 結核により、36歳で短い生涯を閉じる。真鍋は故郷今治を中心に、周辺地 域の伝道師として活躍したが、実は晩年『聖書語類』の編纂と並行して、

『幼稚唱歌集』という子ども向けの洋風楽譜付き唱歌集および総合的児童 雑誌『ちゑのあけぼの』の編集者を務めた。近代日本ではじめて全国的に 流布した総合的児童雑誌『少年園』の登場が1888(明治21)年であったこ とを考えると、1886(明治19)年に創刊された『ちゑのあけぼの』および 編集者は、児童文化の先駆的役割を果たした存在として、刮目に値する。

 本稿では各教会史やキリスト教関係新聞などを用いて、真鍋の生涯を可 能な限り跡付ける。それと同時に、『同志社百年史』やDoshisha Faculty Records1)(以下DFR)、『同志社英学校学籍簿』などの史料を用いて、初期 同志社英学校の活動を復元する。以上によって、同志社英学校における教 育が、児童文化の先駆者となった真鍋の人生にどのような影響を与えたの かを考察することが本稿の目的である。なお、本稿の引用文については、

─伝道師から児童雑誌の編集者へ─

柿 本 真 代

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原文のニュアンスを損なわない限りにおいて、適宜旧字を新字に改める。

Ⅰ 最初の同志社英学校(1876−1880)

1 故郷今治時代 真鍋定造は、父与平、母ヒデの四男として、1856(安 政3)年今治に生れた(日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリ スト教歴史大事典』教文館、1988、p.1336)。長兄は為之助で、今治では

『農業雑誌』などを販売する書店を経営しており(『海南新聞』1134号、

1880・10・6)、のち大阪に出てからは刺繍を生業としていた。次兄である 政造は、のち英国聖書会社の聖書販売人となって、伝道の傍ら聖書販売に 力を注いだ(『信仰三十年基督者列伝』警醒社書店、1921、pp.132-133)。

三男に関しては史料を欠き、現在のところ不明である。四男である定造 は、キリスト教に入信する以前は商業を営んでいたようである(『基督教新 聞』421号、1891・8・21)。しかし、アッキンソン(JohnL. Atkinson, 1842- 1908)の伝道によってキリスト教信仰に目覚めた後は商業を廃し、伝道師 を志した。やがて父母や兄達も定造の感化を受けてキリスト教に入信した ということからも、彼の影響力と信仰の深さを伺い知ることが出来る。

 今治への伝道は、1876(明治9)年春、神戸のアッキンソンが四国の信 徒からの招きを受けて訪れたのが発端である。アッキンソンは翌年5月、

二階堂圓造、小崎弘道を伴って伝道し、その翌年春には女性宣教師ダッド レー(JuliaE. Duddley, 1840-1906)らも今治で伝道を行った。その頃40名 程度の有志者によって、聖書研究の為の組織、愛隣社が結成された。これ は今治教会の母胎となった組織だが、社員の中で最年少だったのが当時22 歳の真鍋定造である。6月には同志社英学校の学生であった赤峰瀬一郎が 今治へ派遣される。赤峰は約二ヵ月間滞在し、地質学の講義によって神が 全知全能であることを示したという(「今治基督教会歴史」「湯浅与三関係 資料」同志社大学人文科学研究所所蔵)。彼は他に聖書研究会や定期集会 を催し、愛隣社員の指導に尽力した。やがてその赤峰も夏季休暇を終え、

同志社英学校の新学期を迎える頃、ひとりの青年が伝道献身を決意し、赤 峰を追って同志社英学校へ入学を希望することになる。それが真鍋定造で

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あった。

2 同志社英学校入学 真鍋は赤峰を追い京都へ赴き、同志社英学校入学 を果した。『同志社英学校学籍簿』Ⅰ(同志社社史資料センター所蔵、成績 表。以下『学籍簿』)には、1878(明治11)年秋学期以降、真鍋の成績記録 が残されている。同時期に入学した者に、徳富健次郎(蘆花)や新島襄の 甥・新島公義らがいた。

 伝道師を志して22歳で入学した真鍋は、同志社英学校でどのような教育 を受けたのか。成績表から真鍋の受講科目を復元すると、以下の表の通り である。

表1 1878(明治11)年度の受講科目(出典 『学籍簿Ⅰ』)

1878(明治11)年 秋学期(9−12月)

1879(明治12)年 学期(1−3月)

1879(明治12)年 春学期(4−6月)

綴り 福音書 第1読本

第2読本 綴り 邦語演説

初歩英語2)

これは、1879(明治12)年6月に「同志社概則」として発表されたカリキュ ラムとほぼ共通している3)(同志社社史資料編集所編『同志社百年史』資料 編一、同志社、1979、p.28)。真鍋は入学と同時に、基礎的な英語と福音書 の手ほどきを受けることになった。この中で注目されるのは、1879(明治 12)年冬学期の邦語演説で、飛びぬけて優秀な成績を記録していることで ある。真鍋はこの頃から、のち雄弁家として活躍する伝道師としての片鱗 を見せている。

 この頃、今治では1879(明治12)年3月、大阪教会仮牧師であった上代 知新が伝道に来て、遂に仮会堂が出来上がる。この日、愛隣社の社員たち は、「ケフカリカイドウヒラクカミヘイノレ(今日仮会堂開く。神へ祈 れ。)」との電報を、京都にいる真鍋に宛てて送ったという(菅原菊三『今 治基督教会沿革小史』1929、p.8)。冬学期が終わった後、真鍋は今治出身の

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浪花教会会員、前神醇一と共に故郷今治へ一時帰省し、町内で説教をして 回った。上代知新も去り、牧師が必要となったそのとき、牧師の人選は真 鍋定造に託された。1879(明治12)年4月、真鍋は1歳年下で、当時同志社 英学校余科に在籍し、卒業間近であった伊勢(横井)時雄を推薦した。伊 勢は4月に今治へ赴き、信徒から着任を懇願される。伊勢は1879(明治12)

年6月同志社英学校を卒業し、約束どおり今治へ着任した。こうして、教 会設立式按手礼式及び受洗式が1879(明治12)年9月21日、盛大に行われ ることになった。これには、アッキンソン、新島襄、上代や二階堂らも駆 けつけた。受洗に際しては、厳格な試問が行われたため、多数の愛隣社員 の中でも、受洗することができたのは6人のみであった。このうちのひと りが真鍋である。彼はアッキンソンから洗礼を受け、今治教会最初の受洗 者のひとりとなった。故郷を離れて京都に学びながらも、故郷の信徒たち から常に信頼されていた真鍋は、やはり洗礼も今治で受けたのであった。

3 第2学年下級組 真鍋は受洗を終えて京都に戻り、9月からは同志社 英学校にて第2学年に進級する予定であった。しかし、真鍋はこのとき正 式な第2学年に進級することはできなかった。彼が進級したのは、第2学 年の「下級組」だったのである。入学時は同級だった徳富や新島公義は、

上級に進級している。この学年は、合併騒動により「自責の杖」事件の発 端となった学年として有名である。本井康博氏は『新島襄と徳富蘇峰』(晃 洋書房、2002)などの一連の研究において、上級・下級の編成が、単に入 学年度の違いによって分けられたものではないことを実証的に明らかにし ているが、この真鍋の例においても氏の論を傍証することになろう。下に この年の真鍋の受講科目を挙げておく。

表2 1879(明治12)年度の受講科目

(出典 『学籍簿Ⅰ』、DFR pp.6-20、【 】内は担当者)

1879(明治12)年 秋学期 1880(明治13)年 冬学期 1880(明治13)年 春学期 第3読本【森田久萬人】

英語初歩【山崎為徳】

暗算【森田】

中地理【山崎】

Absentees of theⅡyear

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 「同志社概則」(『同志社百年史』資料編一、p.28)では、第3読本などは 第1学年の春学期に履修とある。しかし真鍋は、該当する1879(明治12)

年春学期に初歩英語だけしか受講していない(表1)。彼が第3読本を履 修するのは1879(明治12)年秋学期である。つまり真鍋は、1879(明治12)

年春~秋学期までの半年間、英語しか受講していないことになる。本井康 博氏が「両者(上・下級─筆者)を分つものはひとえに英語力であった。」

(本井、p.47)と指摘するように、真鍋には正式な第2学年に進学するほど の英語力がなかったと考えるのが妥当であろう。このクラスは、DFRでは 1 1/2と表記され、『学籍簿』4)では2d year Bと表記される。上級組(『学籍 簿』では2d year A)には、合併に抗議する意見書「御伺書」に署名した9 名を含む10名の成績が記録されている。ちなみに上級組には、真鍋が今治 で出会った赤峰瀬一郎の弟、赤峰久蔵も在籍した。彼の入学は『学籍簿』

によると真鍋より1年早い1877(明治10)年の秋であるから、この点でも 上・下級の差異は入学時期の差異とは一致しない。

 合併後の1880(明治13)年春学期、真鍋の成績記録は残されていない。

合併に際しボイコットを行った松田大三郎や赤峰久蔵らと共に、「常習欠 席者」と記されているだけである。しかし残念なことに、この期間の真鍋 の動向を知り得る史料は見当たらない。ただひとつ確実なのは、ここで退 学したわけではないということである。次年度の1880(明治13)年秋学期 には、森田久萬人の担当した代数学に名前の記録はあるからである。しか し、この授業も沢克己と共に欠席と記録されており、1880(明治13)年12 月の試験には出席していないことがわかる。そしてこれ以降、真鍋の成績 の記録は名前すら存在しない。すなわち、この1880(明治13)年秋学期に 何らかの理由によって退学した可能性が極めて高いのである。伝道師を目 指して同志社英学校に入学した真鍋に、一体何があったのか。以下、新聞 資料に基づいて検証する。

4 「和合丸」事件から中退へ 『天上之友』第一篇、p.79には、真鍋は1880

(明治13)年9月、故郷今治から「同志社神戸女学校への入学者数名を伴ひ 行きてそれゞの学校に送」ったとある。無事それぞれの学校に送り届けた

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後、自身は今治へ戻り、報告をするつもりででも居たのであろう。しか し、今治へ帰る途中、真鍋は思わぬ事故に遭遇することになる。

 真鍋が今治へ戻るために選んだのは和合丸という汽船であった。『朝日 新聞』395号(1880・5・23)によると、この和合丸は、大阪川口波止場よ り出航し、多度津、三津浜、今治、上の関、三田尻に寄航する汽船であっ た。しかし、真鍋が和合丸に乗り込んだ9月15日の深夜、四国・近畿地方 に台風が上陸した。『朝日新聞』494号(1880・9・18)は、「這こ た び回の疾風猛 雨は実に近来珍しき疾風」であり、「機械損所ママを生じ不時の休刊」をせざる を得なくなったと報じている。また、愛媛の地方新聞である『海南新聞』

1119号(1880・9・17)は、「一昨夜は非常の降雨なりしが…略…当地電信 分局より大坂への通信が不通」になったと伝え、陸地での被害も大きかっ たようである。『朝日新聞』498号(1880・9・22)および『海南新聞』1122 号(1880・9・22)の報道によると、和合丸は9月15日午後、大阪川口を 出航した。しかし、神戸和田岬付近で天気の異変を感じ、和田岬の灯台の もとで錨を下ろし、停泊することにした。その数時間後の午前3時ごろ、

淡路島の岩屋港へと航海を再開したところ、突如疾風に襲われ、暗礁に衝 突し錨を下ろすも効果はなく、船は大破した。「了さ す が得の汽船も宛ら手鞠を 突くが如く今や風の為に転覆せられ看みるみる海底の藻屑となり蔭も止ずなりぬ べき有様」であったという(『朝日新聞』498号)。『朝日新聞』498号では、

乗客159人中63人が溺死したと伝えられ、『海南新聞』1122号では、80人の 屍が陸に上がったといい、また「生命を扶かりし者も多少負傷せざる者な し」と伝えている。

 真鍋は運良く淡路島に上陸し、かろうじて一命を取り留めた。その数日 後、三津浜からの汽船竜丸に迎えられ、真鍋はようやく今治へ帰ることが できた。9月24日の『七一雑報』5巻39号には、「豫州今治教会の真鍋氏は 去る十五日の和合丸に乗組て帰郷の際淡路浦にて難船(本日の雑報を見 よ)にあたりしが幸にして生命には別條なく淡路へ上陸し四五日前別の汽 船にて該所より帰郷されたり」とある。しかしこの事故が原因で、真鍋は

「爾来肺部に故障を覚ゆる」に至った(今泉、p.79)。以降、この時に患っ た肺病が、真鍋を生涯苦しめることになる。結果、1880(明治13)年9月

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から始まった同志社英学校の新学期には間に合わず、この学期の試験に出 席することはできなかった。かくして3年目の秋、真鍋は同志社英学校を 中退することになった。

Ⅱ 伝道師としての活躍(1881−1884)

1 今治付近の伝道 こうして同志社英学校を去った真鍋は、今治へ帰 り、しばらくの療養の後、今治を中心に、盛んに伝道活動に従事すること になる。1881(明治14)年1月には、さっそく香川県多度津へと伝道に赴 いた(『七一雑報』6巻2号、1881・1・14)。半年後の7月3日には今治教 会の新会堂落成式が行われ、かつての恩師である新島襄をはじめ、松山高 吉、上代知新、アッキンソンら錚々たる面々が駆けつけた。真鍋はこの式 で聖書の朗読を担当した。5日には彼等と共に、伊予松山大説教会を開催 した。昼の部では上代が開会の主意を述べた後、真鍋は「生命の洗濯」と いう演題でトップバッターを務める。続いて夜の部でも真鍋が先陣を切 り、「上帝の必要を論ず」という題目で演説を行った(同前6巻28号、

1881・7・15)。この大会は聴衆1200人強の大盛況に終わったという。

 1882(明治15)年5月には、のち松山東雲学園を創立する二宮邦次郎が 伝道師として今治教会に着任した。真鍋は彼と共にますます盛んに伝道を 行い、松山はもちろん、6月からは西条方面にも度々伝道に赴くようにな る(同前7巻27号、1882・7・7)。さらに同じ頃、大井村の有志者からの 招きを受け、大井村学術演説会を開催した。これは大井村初の学術演説会 であった。真鍋は最初に開会の主意を述べ、大会の最後も「農業論」とい う演説で締めくくった(同前7巻26号、1882・6・30)。また、8月には大 島地方に盛んに赴き、翌年夏からは波止浜でも二宮らと度々演説会を行う など、精力的に伝道活動を展開した(「波止浜基督教会史」「湯浅与三関係 資料」)。その結果9月には波止浜の医師、鎌田秀夫が今治教会で受洗し、

10月にはそれに続いて8名の受洗希望者が現れた(同前)。

2 笠岡教会仮牧師就任 このように真鍋は今治を拠点に伝道に専念した

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が、1883(明治16)年秋、転機が訪れる。1883(明治16)年9月、伊勢時 雄と新島襄が笠岡伝道に赴いた際、両氏の周旋によって笠岡へ招聘される ことになったのである。11月に入って、真鍋は当時岡山教会に在った金森 通倫と共に度々笠岡に訪れ、笠岡製糸場や東本町二丁目の講義所で交代説 教を行った(『東京毎週新報』24号、1884・2・1)。真鍋が正式に笠岡定 住伝道師となったのは、1883(明治16)年12月のことである。今治教会で は12月1日に送別会が催された(『福音新報』1巻25号、1883・12・18)。こ れ以降、真鍋は笠岡を拠点に伝道することになる。

 真鍋は就任後、笠岡の信徒、江浪喜平宅に寄宿し、月の半分を玉島伝道 に、もう半分を笠岡教会の為に尽くした(「笠岡教会史概略(未定稿)」『笠 岡教会六十年略史』同志社大学人文科学研究所所蔵)。1884(明治17)年3 月には、八軒屋町に仮会堂が設立され、笠岡基督教会設立式が行われる。

これと同時に、真鍋は笠岡教会仮牧師に就任した(『福音新報』2巻8号、

1884・2・20)。当時の笠岡を知る貴重な資料に、柚木小太郎が、教会設立 当時からの信徒であった父吉郎のノートを元に執筆した『種麦』(柚木真 吉、1968)があるが、柚木吉郎5)は当時陶器商を営んでおり、杯や徳利な ど、酒をつぐための商品も扱っていた。当時は禁酒を重視していたため、

真鍋は柚木に対し、この様な品物を売る事をやめなければ、洗礼を受ける ことは許されぬと頑なであったという(柚木、pp.41-42)。これは自らも道 を求めるため商業を廃した、真鍋らしい厳格さを物語るエピソードであ る。

 以上みてきた通り、真鍋は同志社英学校を中退して以来、笠岡教会仮牧 師に至るまで、未だ福音伝播の至らぬ地域を中心に伝道を繰り返し、着実 に信徒を増やしていった。このことを可能にした背景には、真鍋の高い演 説能力があった。柚木吉郎は、真鍋を「音声の非常にきれいな天才的な雄 弁家であった。其の上風采も堂々として立派であり、…略…当時教会の集 会は毎回盛況で、又雄弁滔々たる氏の説教は、多数の聴衆を引き付けるに 充分であった」(柚木、p.36)と回想している。また『今治基督教会沿革小 史』p.50では「我教会の創立者にて弁舌に秀で、同志社に学び、各地方伝 道に多大の尽力を為したる真鍋定造氏」と評されている。これらの記述か

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らも、真鍋が特に演説に秀でた人物であったことが証明される。この演説 力は、明らかに同志社英学校在籍中に培われたものであろう。先述した通 り、真鍋の邦語演説の成績は大変優れており、学年でも最高点であった。

真鍋の演説は高尚に過ぎたものでなく、一般の聴衆に訴える啓蒙的なもの であったのであろう。だからこそ福音伝播の未だ届かぬ地域でも聴衆を獲 得し、信徒を得ることが可能になった。

 しかし、これまで見てきた真鍋の活動からは、児童文化に対する先見を 持つような人物像は描けない。恐らく、真鍋が児童文化に関心を寄せたの はこれ以降であったと考えられる。以上の観点から、笠岡教会仮牧師就任 後の真鍋の動向を確認する。

Ⅲ 二度目の同志社英学校(1884−1885)

1 特別邦語生 真鍋は1880(明治13)年秋学期に同志社英学校を中退し た。しかし『同志社校友会名簿』(同志社校友会、1977、p.1)には真鍋の 名前が記録され、邦語神学第3学年科目修学証を受け取ったとある。ここ で、真鍋が受け取ったのは正規の卒業証書ではなく「科目修学証」である 点に注目したい。「笠岡教会歴史大要」(「湯浅与三関係資料」)に「牧師真 鍋君神学研究の為同志社に入学せらる」という記述がある通り、真鍋は 1884(明治17)年、速成神学科の1年コースに再入学していたのである。こ のコースの新設については、教員会議で1884(明治17)年5月29日から検 討されている6)(DFR p.68)。1885(明治18)年の「同志社記事」(『同志社 百年史』資料編一、p.732)には、以下の記録がある。

此学期中已ニ各地方ニアリテ現ニ伝道に従事セシ者一年間神学ヲ学バ ンガ為来校セシモノ十四人ナリ…略…其人々ハ西尾文亭、二階堂円 造、長田時行、片桐清治、上代知新、横田勝次、高橋優、黒水亀、真 鍋定造、松村竹夫、松原孫七郎、安藤乙五郎、酒井真輔、菱田仲行氏 等ニシテ之ヲ邦語特別生ト称ス

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 「現ニ伝道ニ従事セシ者」とあるように、このコースは既に伝道活動に従 事している者の為に、1年間神学に特化した授業をするものであった。か つて今治に伝道に来た二階堂や上代もこのコースで学んでいる。真鍋は笠 岡教会の仮牧師を務めつつ、体力的に卒業しえなかった同志社英学校で再 び神学を学ぶことになった。

 邦語特別生の活動は1884(明治17)年当時、邦語神学科第3学年に在籍 した池袋清風の日記に記録がある。『池袋清風日記』明治17年 下(同志社 社史資料室編、1985)から1884(明治17)年9月16日の記録を挙げる。

我等邦語神学第三年生及び一年傍聴生共にデビス氏受持第〔ママ〕教 場、…略…同級の人々は…略…又此秋期より新入一年傍聴生…横田勝 次…西尾文平…長田時行…菱田中行…二階堂円造…酒井県輔 〔以下 ほぼ四行分空白〕(『池袋清風日記』下、p.131)

 「新入一年傍聴生」と記された人物は、「同志社記事」にも「邦語特別生」

として名前が挙げられている。この日記の最後の空白は、真鍋ら何人かの 邦語特別生の名を加筆するべく空けられたものではないか。つまり真鍋ら 邦語特別生と邦語神学科第3学年は共にデイヴィス(JeromeD. Davis, 1838-1910)が担任するクラスであったと考えられる。『池袋清風日記』下、

p.139には、9月21日に邦語神学科第3学年の親睦会が礼拝堂で開かれたと ある。この親睦会は池袋が司会をつとめ、同じクラスの「一年傍聴生」も 参加した。感話をしたのは、真鍋、長田、二階堂の「一年傍聴生」3人で あった。これらの史料から、真鍋ら邦語特別生は、邦語神学科第3学年に編 入したと考えてよいだろう。親睦会の次の日、9月22日の池袋の日記に は、真鍋と共に相国寺へ昼食後の散歩に出掛けたというクラスメイトらし いエピソードも記されている(『池袋清風日記』下、p.141)。

2 在学中の伝道 真鍋は同志社英学校で学びながらも、以前と同様に故 郷四国での説教会にも参加している。1885(明治18)年1月には二宮が牧師 となる伊予松山第一教会設立式に参加し、「人に従うより神に従え」、「基督

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教の進歩」の題で演説を行った(『福音新報』3巻6号、1885・2・11)。2 月には小松教会設立式で、祈祷と聖書朗読をし、「基督教の伝播」という題 目で演説をしている(同前3巻7号、1885・2・18)。

 また、真鍋は京都でも級友らと共に、活発に説教会に足を運んでいる。

3月に四条北劇場で行われた京都大説教会には、同じ邦語特別生の長田時 行や、教師であるゴードン(MarquisL. Gordon, 1843-1900)、デイヴィス、

森田らと共に参加し、真鍋は「万民に関る喜の音」と題して演説を行った

(同前3巻14号、1885・4・8)。真鍋は6月の長浜教会設立式でも「夜は

既に 央なかばにして日近ちかづけり」という題目で演説をしている。彦根説教会には長田

時行、西尾文亭ら邦語神学生や、ラーネッド、ゴードンと共に参加し、真 鍋はここでも「人に定むる事あり」という題目で演説を行った(同前3巻 25号、1885・6・24)。四条劇場で行われた基督教大説教会にも長田時行、

辻密太郎、山岡邦三郎ら同志社英学校生と共に出席するなど、真鍋は在席 中も勉学の傍ら、様々な場所で雄弁を振るった(同前3巻27号、1885・7・

8)。

 真鍋は多忙ながら充実した日々を過ごしたが、1885(明治17)年6月26 日、遂に卒業式を迎えた(同前3巻26号、1885・7・1)。卒業生の進路を 伝える『福音新報』3巻26号の記事に「真鍋定造氏は備中笠岡へ帰られ…」

とあるように、真鍋は卒業後、再び笠岡教会の仮牧師を務める予定であっ た。しかし、真鍋が再び笠岡に帰任することはなかった。「笠岡教会歴史 大要」には「先きに神学校へ入学中なる真鍋君は業既に終り帰任将に近き に当り不幸病魔の襲ふ所となり遂に郷里今治に帰らるゝに至る」とある。

真鍋は最初の遊学ではかなわなかった卒業を無事果たした。しかし、退学 の原因となった和合丸事件以来の持病が、奇しくもこのとき再発した。真 鍋は再び病に苦しむようになり、結局卒業後は今治へ帰郷し、療養の日々 を過ごすことになった。

Ⅳ 編集者としての活躍(1885−1890)

1 『聖書語類』の編纂 これまでの真鍋の生涯は福音伝播のため、様々な

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地方に赴き、演説や説教によって直接人々を啓蒙し導くことに捧げられ た。しかし病によって地方伝道が不可能になったとき、真鍋は決して無為 に過ごした訳ではない。自らの人生を、今度は出版活動に捧げることにし たのである。真鍋が編纂したのは、『幼稚唱歌集』、『聖書語類』、そして児 童雑誌『ちゑのあけぼの』の三種で、いずれも1886(明治19)年以降に出 版された。真鍋が出版活動に関わるきっかけはどこにあったのか。それ は、真鍋自身の筆によってある程度推測することが出来る。以下に、『聖書 語類』(真鍋定造編、米国聖教書類会社、1890)の緒言を挙げる。

回顧すれば明治十八年の事なりき、余の猶同志社学院神学部に在り て、同窓諸友と共に、主の道を講ぜしとき、教師ラールネデ氏は、一 日余輩に向ひ、日本に於て現今聖道に最も欠乏を感ずる書籍は、如何 なる種類に属するやとの諮問をなせしことあり、当時余輩は之に対へ て、邦語のコンコルダンスなる可しと、… (真鍋、p.1)

 真鍋の編纂した新約聖書の語句辞典『聖書語類』は、ラーネッドとの会 話の中で企画されたものだった。「是よりして、余輩十余人の同志者は、師 の吩咐に従うて、各々任を分ち、先づ聖語の抜粋より始めし」(真鍋、p.1)

とあるように、真鍋の編集活動は、恐らくこの時に始まったのだろう。改 めて、真鍋が邦語特別生として同志社英学校に在籍した時の受講科目を復 元すると、以下の表のようになる。

表3 1884(明治17)年度の受講科目

(出典 DFR pp.69-90、『池袋清風日記』下、pp.131-278)

1884(明治17)年 秋学期 1885(明治18)年 冬学期 1885(明治18)年 春学期 神学【デイヴィス】

書簡【ラーネッド】

漢学【岡本巍】

神学【デイヴィス】

旧約聖書【グリーン】

説教学【ゴードン】

神学【デイヴィス】

牧会学【ゴードン】

旧約聖書【グリーン】

 確かに真鍋は1884(明治17)年の秋、ラーネッドの授業を受けている。

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この授業では、黙示録やエフェソス人への手紙を教材として扱っていた

(『池袋清風日記』下、p.239)。おそらくこの授業の前後に、『聖書語類』の 編纂計画が立てられたのであろう。結局編纂途中で真鍋らは卒業となり、

すべてをラーネッドに任せた。しかし、ラーネッドも編纂を続けることが 出来ず、中断しそうになった。そこで真鍋は、「進んで其業を成就せん事を 欲し、師(ラーネッド─筆者)に請ふて許諾を得、明年冬遂に原稿を斎もたら して家に還」った(真鍋、pp.1-2)。真鍋は卒業後今治へ帰ったが、1886

(明治19)年2月には、一時体調を回復し、村井知至の手伝いとして九州伝 道に赴いている(『基督教新聞』132号、1886・2・5)。また、9月には松 山教会の説教会に参加しているが(同前164号、1886・9・15)、それ以降 の約2年間は、伝道に携わった形跡はない。従って、真鍋が本格的に『聖 書語類』の編纂を手がけ始めたのは、この後1886(明治19)年9月以降で あると推測される。すなわち真鍋が原稿を持ち帰ったという「明年冬」は 恐らく1886(明治19)年の暮れであろう。そして真鍋は『聖書語類』と同 時に、もう一冊の刊行をこの時既に計画していた。

2 『幼稚唱歌集』の出版 『聖書語類』の編纂計画は、確かに同志社在籍 中から持ち上がっていた。しかし、『聖書語類』は完成まで時間がかかり、

1890(明治23)年真鍋死去の前年にようやく刊行された。初めて真鍋定造 名義で刊行されたのは『幼稚唱歌集』(普通社、1887)である。これは1886

(明治19)年12月出版許可とあるので、『聖書語類』の編纂を引き継ぐと決 めた頃には既にある程度計画は出来ていたのであろう。奥付によると、編 集撰譜人は真鍋定造、出版人は真鍋廣助、住所は二人とも普通社と同じ大 阪市西区江戸堀北2−9である。

 真鍋廣助についての詳細は不明だが、恐らく真鍋の親類だろう。彼は 1885(明治18)年6月、家族と共に、今治教会から浪花教会へ転入してい る(「会員名簿 浪花教会」浪花教会所蔵)。真鍋は、ラーネッドから原稿を 受け取った後、恐らく大阪の廣助宅へ身を寄せたのであろう。廣助宅は大 阪市西区江戸堀北に所在し、キリスト教出版物の出版や販売を一手に担っ ていた今村謙吉の福音社(大阪市西区土佐堀)とも程近い場所にあった。

(15)

真鍋はこのような印刷の便を考え、拠点を大阪に移したのかも知れない。

 真鍋が編纂した『幼稚唱歌集』は、各楽曲に楽譜と歌詞が付されてい る。『ちゑのあけぼの』17号(1887・3・19)に掲載された『幼稚唱歌集』

の広告は、次のように書かれている。

従来幼稚園等にて、之(唱歌─筆者)を教ゆるには、一定の書籍なく、

たヾ教師なるものが嘗て文部省に於て選ばれたるものを口牌にて伝え られ、復び之を児童に伝ふるが故に、まゝ詞句語調の間違等を免れ ず、真鍋茲に憂る所あり、是迄世上慣用せしものを集録増補して一巻 となし、加ふるに楽譜を挿入して、大家諸先生に請ふて、訂正を厳に した…

当時は唱歌教育用の楽譜入り教則本がなかったために、真鍋自らが編纂し たのだという。真鍋が在籍した今治教会には、1886(明治19)年6月にア メリカからオルガンが寄贈されている(菅原、p.57)。安息日学校での讃美 歌教育に、ふさわしい譜面がないことを真鍋は目の当たりにしたのであろ うか。しかし真鍋は楽譜入りの唱歌集を編纂し得るまでの音楽の素養をど のように身につけたのか。実は、このことを明らかにする鍵も邦語特別生 として同志社英学校に在籍したころにあった。

 真鍋と同じクラスであった池袋の日記には、「氏(ゴードン─筆者)曰 ク、一週間課業日ノ五日中、水曜ノ一日ハ午後一時十五分ヨリ二時マデ讃 美歌ノ授業スベシト」(『池袋清風日記』下、p.132)とある。確かにゴード ンは真鍋の在籍中、説教学や牧会学の講義を担当している(表3)。この授 業で、真鍋は毎週水曜、ゴードンに讃美歌の授業を受けていた。

 真鍋が編纂したこの『幼稚唱歌集』は、その9ヵ月後に出版される文部省 編纂『幼稚園唱歌集』とほぼ同一の内容であることが、斎藤基彦氏7)、安 田寛氏の研究により明らかになっている(安田寛「第11章 キリスト教伝 道と日本の近代音楽」同志社大学人文科学研究所編『アメリカン・ボード 宣教師』教文館、2004、pp.409-411)。安田氏は真鍋の『幼稚唱歌集』を、

「音楽教育に関して文部省が日本ミッションの影響を受けていたこと、少

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なくとも両者が極めて近い関係にあったことを示している」例として取り 上げている(安田、p.409)。

 このように、真鍋が『幼稚唱歌集』を編纂するきっかけとなったのは、

ゴードンから受けた讃美歌教育であり、また採用した楽譜にはゴードンを はじめとした宣教師からの指導があったのではないかと推測される。『池 袋清風日記』下、p.157には、「ゴルドン氏…略…昨夏文部省刊行ノ小学唱 歌集、小横薄冊全二冊ヲ恵投」と、ゴードンがこれら唱歌集にも目を通し ていたことを示唆する記述がある。また、たとえば『幼稚唱歌集』集録の

「風車」という歌は、同志社大学図書館所蔵のHorace Mann&Elizabeth P.

PeabodyによるMoral Culture of Infancy, and Kindergarten Guide(J.W.

Schemerhorn, 1876, Songs, p.7)に集録されている。この本はフレーベル 式幼児教育の教則本でもあった。ゴードンがどのような教科書を採用した のかは明らかでないが、真鍋はこのような唱歌の掲載された教則本から、

間接的に幼児教育について学んだのではないか。真鍋は『幼稚唱歌集』の 出版を控えながら、児童雑誌『ちゑのあけぼの』の編集人となった。真鍋 が児童雑誌の編集を通して、子どもたちに何を伝えようとしたのか、項を 改めて論じる。

3 『ちゑのあけぼの』の編集 児童雑誌『ちゑのあけぼの』は、編集人佐 治篤三郎と印刷人真鍋廣助によって、1886(明治19)年11月27日に創刊さ れた。1部は4ページ構成で、すべてのページに豪華な挿絵が付されてい る。歴史伝記や科学紹介、クイズや投書を兼ね備えた総合的な児童雑誌だ が、先行する児童雑誌の多くが少年少女の作品を掲載する『頴才新誌』8)の ようなものであったことを考えると、これは『幼稚唱歌集』と同様、日本 児童文化史上先駆的なものである。この雑誌の編集人は3回交代するが、

関係者はすべて会衆派プロテスタントのキリスト者であった9)

 『ちゑのあけぼの』は、創刊後2ヵ月足らずで佐治から真鍋定造へ引き継 がれた。真鍋は2代目の編集人となり、第8号(1887・1・21)以降、『聖 書語類』の編纂と並行して、週1回のペースで児童雑誌を発行する。

 佐治は創刊時、「児童の観念力を暗々のうちに起こさしめて自然の薫陶

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涵養を加へ表面直接に受くる所の小学校教育に交ふるに裏面間接の教育を 以てして児童の智力を進むるの一小補佐たらしめんとする」ことが『ちゑ のあけぼの』の目標であると述べた(1号附録、1886・11・27)。つまり佐 治は、自然に子どもの感性や教養を育てることを目指したのである。これ は、真鍋が『幼稚唱歌集』で目指したものと同様であった。『幼稚唱歌集』

の広告には、「唱歌を教ゆるが如きは…冥々裡に、児童の品性を養成するも のと云ふべし、…童幼をして、自然に良善清潔なる習慣を養生せしむる事 を得べし」とある。真鍋も同様に、唱歌を学ぶことで、子どもたちは自然 に「良善清潔なる習慣を養生せしむる」ことが出来ると考えた。佐治と真 鍋は、子どもは強制でなく自然に教育するべきだ、という考え方は共通し ている。だからこそ佐治は創刊後間もない雑誌を真鍋に譲ったのであろ う。しかし、真鍋の書いた広告文には、佐治と異なる見解がみられる。そ れはその冒頭である。

街頭に出でヽ、児童の群を見よ、竹馬蹴鞠の余興には、実に聞くに堪 えざる、醜汚の言を為せるにあらずや、彼の児童輩は敢て其意志念慮 あるにはあらざれども、習ひ遂に性となり、成長の後は、無頼放逸の 徒となるべきなり、西人が我国を評して、淫乱国といふは、蓋し因な くんばあらざるなり

真鍋が唱歌教育を推奨する背景には、西洋諸国に日本がどうみられている かという意識があった。竹馬や蹴鞠で遊んでいる子どもたちが、「醜汚の 言を為せる」のを耳にするが、このような習慣は次第に身につき、将来子 どもたちは「無頼放逸の徒」となって、結局西洋人に日本は「淫乱国」だ と認識されてしまうのだ、という危機感があった。だからこそ真鍋は唱歌 教育によって「良善清潔なる習慣」を養おうとした。つまり、真鍋が子ど もの教育に関心を持ったのは、将来の日本を担う子どもたちは、西洋人に 評価されるような「良善清潔なる習慣」を身に付ける必要があると感じた からではないか。この点について、真鍋が編集した『ちゑのあけぼの』の 記事に基づいて考察を加えよう。

(18)

 9号(1887・1・26)の表紙は、4人の少年が橋のたもとにいる弁髪の 中国人を指差しているという挿絵である。少年正吉は、富三に「あの支那 人を見てごらん」と話しかけ、「扇をつかひながら傲えらそう慢に歩いて居ますが余 りに太いから象の立て歩いているようです」「彼の尾(辮髪にした髪の先─

筆者)を犬が噛み切りはせぬかと思て心配でなりません」と中国人の容貌 に対する悪口を並べる。富三も「ほんとうに支那人は可笑しいですねー」

と言いながら、「然し正さん余り悪口も云えません」と諌める。「若し近々 西洋人が日本へ自由に住む事が出来る様になりて日本人の有様を見たなら ば嘸さぞ笑うことでしょ」「そんなら早く斯な賤しき家計を改めて彼の西洋人 に笑われぬ様高き家に住み便利なる洋服を着身体の為になる肉類を食ひま

た意こ こ ろ志をも真ま こ と実にし内も外も西洋の人に恥ぢなき様にせねばなりません」

と富三は説く。つまり真鍋は、富三の言葉を通して、日本人も西洋風の習 慣を身につけるべきだということを主張しているのである。

 また16号3面(1887・3・19)は、「不おきあがりこぼし倒爺」がなぜ起き上がるのかを説 明した記事である。人間が万物の霊長であるといわれるのは、知識という ものを備えているからだ、と記事ははじまる。そして、知識というものは 幼児のときから備わっているものであり、これを発達させれば智者に、そ うでなければ愚者になる、という。さらに記事はこう続ける。「目の色や、

顔の色や、衣服抔なども異ひますけれど、西洋の人も、日本の人も、皆人間に 相違ありませんなれども、西洋の人に智者多くして、日本の人に、愚者の 多きは如何なる事でしょ」。それは「小児の時より、見る物聞く物について 其道理を知る事の多いと少なひとによりてヾござります」。記事は、「不倒 爺」の仕組みを説明した後、「皆さん何物をご覧なさるにも、其道理をよく み究め、智者となり玉へかし」と結ばれる。ここでも真鍋は、お手本とし て「智者」である西洋人を挙げ、彼等のように「見る物聞く物について其 道理」を見極めよ、と伝える。17号2面の礼儀の大切さを説いた記事で は、「日本支那などにては古より是等(礼儀作法─筆者)の事をやかましく 教ゆるものヽ、其実はかへつて畜生同様に思ひたる西洋人に劣るものな り」という一文が、さりげなく挿入されている。

 以上の記事からもわかるように、真鍋は子どもたちに対し、西洋を手本

(19)

とすべきだということをはっきりと主張している。真鍋は今治にいるころ から、アッキンソンやダッドレーら、外国人宣教師からの影響を大いに受 けた。さらに同志社英学校に入学してからは、ゴードンやラーネッドら外 国人宣教師から学ぶ内に、西洋思想や文化に対する感化も直接的に受け た。このような真鍋だからこそ、幼少期から西洋文化に親しみ、西洋的価 値観を身につける重要性を感じていたのだろう。真鍋は雑誌編集を通し て、子どもたちに故習にとらわれることなく、西洋的価値観を身につける ことの必要性を繰り返し説いた。

 真鍋は8号以降、週1回のペースで順調に発行を続けていたが、17号を 発行した後、次の18号発行まで、約50日間発行が滞る。17号を発行した6 日後、本来なら18号を出す予定の前日に、浪花教会牧師でもあり、日本基 督伝道会社の創設者のひとりである沢山保羅が死去した。印刷人である真 鍋廣助は浪花教会の会員であり、沢山保羅埋葬式の臨時役員に選ばれた

(「浪花基督教会記録」梅花学園沢山保羅研究会編『沢山保羅研究』4、梅花 学園、1974、p.165)。この埋葬式の準備などで、発行もままならなかった のではないか。約50日後発行された18号は、編集人の名義は真鍋のままで あったが、発行所は普通社から福生社へと変更されている。このときすで に、真鍋は徐々に『ちゑのあけぼの』の編集から離れつつあった。

4 『聖書語類』の完成 真鍋がなぜ編集人を辞職したのかはわからな い。前述のように、18号から発行所は福生社に変更されており、19号

(1887・5・13)は、次に編集人となる福永文之助の署名入り記事が掲載さ れている。真鍋は20号(1887・5・20)に、「今般拙者義都合有之「ちゑの あけぼの」ヲ福永文之助ニ譲渡候ヘトモ編輯ノ事務ハ従前ノ如ク之ニ与リ 居リ候間左様御承知可被下候」と署名つきの広告を出している。

 こうして20号以降の『ちゑのあけぼの』は、のち警醒社書店の社長とな る福永文之助が発行することになった。この後の真鍋の足取りは、しばら くつかめない。広告のとおり、『ちゑのあけぼの』の「編輯ノ事務ハ従前ノ 如ク」執り行っていたのか。あるいは、『聖書語類』の編纂に力を注ぎ始め たのかも知れない。

(20)

 『聖書語類』緒言p.4には、1888(明治21)年の春夏ごろに原稿は完成し、

6月には今村謙吉の福音社で印行の準備が行われたとある。印刷の準備が 整った後、真鍋は大阪を離れ再び伝道に赴いた。真鍋は『基督教新聞』282 号(1888・12・19)に「予テ広告仕置候、コンコルダンス(新約聖書之部)

漸ク本年春脱稿致シ有ニ大阪福音社ニ於テ出版ニ着手相成居候間不日発売 スルニ至ルベク此段念為広告仕置候也 附キ旧約聖書之部ハ現今編纂中ニ 御座候也」と署名付き広告を出している。住所は兵庫県龍野町である。し かし『聖書語類』は印刷の段階になって、さらに聖句を増やすことになり、

結局発行には至らなかった。真鍋は引き続き龍野にて新約聖書の聖句編纂 を行うことになった。真鍋は 「所載の聖語を省くなくして、紙頁を減少す る」(真鍋、p.5)ことを目指し、余白部分に聖句を追加することにしたか らである。しかしこの頃、真鍋の身体は病魔に冒され、回復の見込みはな かった。

 真鍋がかつて仮牧師を務めた際、寄宿していた笠岡の江波喜平にあてた 1890(明治23)年の書簡(今泉、p.81)に、真鍋は「回顧すれば一昨年

(1888年─筆者)の春頃小弟重て持病に罹り病勢激烈殆ど快復の望なかり ければ…」と書いている。すでに1888(明治21)年春、病は相当に進行し ていたようである。実は龍野に移住したのは、療養の意味も含めてであっ た。書簡には「海辺最も涼しき処に暑を避け右の(『聖書語類』─筆者)校 正をも致したれば、業も進み身体も亦た大に健全を得たり…」とある。さ らに1889(明治22)年の暮れ、龍野から「一大希望を抱きて東京に出でた」

(今泉、p.81)。真鍋のいう「一大希望」や東京での活動については不明で ある。1890(明治23)年1月新島の永眠前には 「東京より大磯に駈け付けて 最後迄看護に尽力せり」(今泉、p.80)とあるが、史料的根拠は明らかでな い。ともかく、『聖書語類』の最終校正は東京で行われたことは確かであ る。緒言の最後には「一千八百九十年東京芝山客舎の楼上に於て」(真鍋、

p.7)と記され、奥付の住所は「東京市芝公園百七十二号寄留」となってい るからである。こうして、真鍋の悲願であった『聖書語類』は1890(明治 23)年2月、大阪福音社より無事刊行された。これは「日本で二番目の邦 語コンコルダンス」とされている(秋山憲兄『本のはなし』新教出版、

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2006、p.179)。

 病身の真鍋は神に「現今編纂中のコンコルダンスを成就せしむる日迄此 罪人なる我を此世にをき給へ」と祈った。そして刊行を終えた後、「今日神 より招かるゝことあらば只喜んで天に行かんのみと」。真鍋は1890(明治 23)年4月、東京から故郷今治へ帰省し、「家事も交際も打捨て養生に」あ たったが、「或る日過度の運動の為めに喀血」した(今泉、pp.81-82)。そ れから1年数ヵ月後、1891(明治24)年8月11日、真鍋は遂にこの世を去っ た。享年36歳であった。『基督教新聞』421号には、「十二日午後四時今治教 会堂に於て埋葬式を執行し執事太田氏の司会増田氏履歴をのべ山中牧師の 説教ありて殊の外盛会なりし 終りて天保山の埋葬地に送りしは午後六時 其見送りの人々は数百名なりき」と真鍋の葬儀について記されている。天 保山に葬られたという真鍋の墓は、今も今治教会にほど近い山中にあり、

父母、そして兄政造と共に眠っている。

終わりに

 真鍋定造の生涯はわずか36年、22歳で信仰に目覚めてからの人生は、

たった14年に過ぎない。しかしキリスト者としての彼の人生は非常に色濃 いものであった。今治教会の設立、雄弁家として各地方への伝道、そして

『幼稚唱歌集』、児童雑誌『ちゑのあけぼの』、『聖書語類』の出版である。

とりわけ後年の編集事業は、いずれも各分野において先駆的なものばかり であった。真鍋のこれらの活動には、同志社英学校における経験が深く影 響していた。雄弁家としての活躍には、同志社英学校で学んだ演説の技術 が役に立ち、編集活動にはラーネッドやゴードンからの薫陶が不可欠で あった。真鍋は教育を通して自身が学んだ知識を、伝道や出版物を通して 人々に伝え続けた。

 真鍋は晩年、特に子どもを対象とした出版を手がけた。それまでは演説 によって大人を対象にキリスト教を伝えた彼が、なぜ出版では子どもを対 象にしたのか。真鍋自身は青年になってはじめてキリスト教に触れた。彼 は命の短さを痛感し、もっと早くから入信していれば、と後悔したのかも

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知れない。だからこそ真鍋は未来を担う子どもたちに、幼少期から西洋文 化やその根底にあるキリスト教精神に触れて欲しいと願ったのではない か。

 真鍋は唱歌集や雑誌を通して、西洋文化やその重要性を多くの子どもた ちに伝えた。彼にとって、幼少期から西洋文化の感化を受けることは将来 的にキリスト教を信仰する為の土台となるものだった。その意味で、真鍋 は晩年まで啓蒙家であり、伝道師であった。彼の信仰の深さと伝道への熱 意は、多くの人々を信仰へ導いた。そしてそれは、児童文化の領域に新た な光を当てるものでもあった。

1) 松井全、児玉佳興子翻刻

Doshisha Faculty Records, 1879-1895(同志社大学人文科学研究所同志社社史資料 室、2004)

2) この学期は初歩英語のみの履修である。

3) 「同志社概則」では、キリスト教関係の授業が削除されているため、福音書につい ては言及がない。

4) 1879(明治12)年秋学期までは、名前順に各個人の受講科目と成績が付けられてい るが、1880(明13)年冬学期以降は学年・クラス順の成績記入へと変更される。

5) 柚木吉郎は初期からの信徒であったが、商品の問題のために、第1回の笠岡教会洗 礼式では受洗できなかった。結局柚木は酒のための商品を廃し、第2回の洗礼式で 受洗した。

6) 審議中は、“a new course in Theology…”と記され、入学後は“one year students in the vernacular course”と記されている。

7) 斎藤基彦「不思議な幼稚唱歌集」(http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/

music/manabe/manabe.html)2010・9・25閲覧

8) 1877(明治10)年創刊。少年少女の作文や漢詩などを掲載した投稿雑誌であり、児 童雑誌の先駆けであるが、大人が子どもに向けて書いた文章が掲載されるものでは なく、その点において総合的と呼べるものではない。

9) 他の編集者についての詳細は別稿に譲るが、たとえば、1887(明治20)年12月から

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『ちゑのあけぼの』の主幹を務める四方素は1891(明治24)年同志社本科神学校入 学、のちに札幌独立教会牧師となる。四方と同じ時期に英語欄を担当した大宮貞之 助(季貞)は1886(明治19)年同志社英学校中退、のち新潟教会牧師。

参考文献

飯峯明「今治教会創成期の人々」『創立百三十周年記念誌』日本キリスト教団今治教会、

2009、pp.100-110

清水正「日本基督教団今治教会の草創期の活動(明治前半期)」

『今治史談』合併号平成12年度 No.7、2001、pp.24-30

桝居孝「雑誌『ちゑのあけぼの』とその時代─明治十九年~明治二十一年─」『国際児童 文学紀要』13号、1998、pp.1-20

追記

 本稿は、同志社社史資料センター第1研究部門(代表:本井康博同志社 大学神学部教授)での発表内容を基に、修正執筆したものである。同志社 社史資料センターおよび同研究部門にて、史料の提供やご助言をいただき ました。また、枡居孝氏からは、本稿執筆のきっかけを与えていただいた だけでなく、多くのご教示をいただきました。記してここに感謝申し上げ ます。

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