太郎とJ.N.Harris
著者 大越 哲仁
雑誌名 新島研究
号 106
ページ 106‑132
発行年 2015‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014633
同志社ハリス理化学校設立次第
−新島襄と下村孝太郎と J. N. Harris−
大 越 哲 仁
はじめに
本年2015年は、1875年の同志社英学校開校から140年、1890(明治23)
年の新島の逝去と同志社ハリス理化学校開校から125年、ハリス理化学校の
「生みの親」であるJonathan Newton Harris(1815−1896)の生誕200年とい う記念の年に当たる。
しかし、同志社ハリス理化学校に関する研究は進んでいるとは言い難い。
『同志社百年史』における島尾永康氏の論文1)は同校を総括する労作である が、それ以外は、故・末光力作氏の一連の研究2)程度である。
その中で、筆者は、一昨年の2013年11月、今出川キャンパスで、同志社 大学理工学部同窓会の招きにより、「同志社大学理工学部講演会 洋学者と しての新島襄と山本覚馬・八重兄妹 〜新島襄の大学設立運動から理工学部 へ〜」という講演を行ったが、同講演では、1890年に設立された同志社ハ リス理化学校こそ、日本最初の私立の理科系大学であると論じた。
本稿は、同講演の要旨に新知見を加えて論文にまとめたものである。
なお、理系の中の医学については、筆者は本誌前号で論じたので3)、本稿 では医学を除く理科系の大学や学部について論じることとしたい。
1.理学士としての新島襄
1)洋学者としての新島
幕末、安中藩江戸藩邸時代の新島襄すなわち新島七五三太(1843−1890)
は、これを洋学者として捉える視点が重要である。
この場合の洋学者の定義は、幕末期に於いて、西洋の言語で西洋の学問を 研究する者という意味である。もちろん、そのためには西洋の言語自体の知 識も不可欠である。
我が国における洋学は、18世紀の半ば以降、オランダ医学の研究から始 まり、地理学、天文学、数学、と発展していったが、19世紀前半には、モ リソン号事件(1837年)の勃発やアヘン戦争(1840〜1842年)に関する情 報により、士族の先覚者が危機意識からオランダ語による兵学や近代科学を 学ぶようになった。
その後、日米和親条約の調印(1854年)と米・蘭・露・英・仏各国との 安政の五カ国条約の調印(1858年)による我が国の開国以降は、当該各国 の言語での研究も行われることになったが、中でも英語を中心とする西洋の 学問の研究が中心となっていった。
新島七五三太は、1856(安政3)年、13歳の時に藩命により田島順輔に就 いて蘭学を始める。彼は、田島が長崎の海軍伝習所に移った翌年の夏以降、
漢学との両立が困難になったために、一時蘭学修行を取りやめる。
しかし、翌1858年7月、幕府が日米修好通商条約を調印し、尊王攘夷派 が勅許を得ないままの幕府の調印を厳しく批判して幕政が混乱しはじめる と、新島は、安中藩「家老」の尾崎直記に書簡を送り、「日本騒動紛然将に 乱有り、もし乱に及ばば、敬幹〔新島の元服名〕書を学ぶ能わず、今にして 学ばざれば、時を失うを恐る、宜しく敬幹をして入塾せしめ、矇目を開かし めよ」4)と訴える。同書簡には、「今誤りて交易を為せば、彼〔米国〕日本の 利物を取り尽くして、日本には彼の鈍物を満たしめる」と述べているので、
当時の新島は攘夷派であり、彼は、対外危機対処のために蘭学研究を再開し たいと訴えたことが分かる。
そして、新島はそれからまた蘭学修行を開始し、1860(万延元)年には、
幕府の軍艦教授所に入って、J. C. Pilaar のHandleiding tot de Beschouwende en Werkdadige Stuurmankunst, Amesterdam, 1847,(ピラール『理論及び実用 航海術教本』)というオランダ語の教科書によって航海術を学んだ5)。
その頃、新島は江戸湾で威風堂々たるオランダ軍の艦隊を見て衝撃を受 け、進んだ文明を誇る西洋に対する日本の遅れを痛感する。新島の心には
「我が国の全面的な改革と革新を行わなければならないという大志」6)が沸き 上がり、まずは、海軍の創設と貿易用の洋式船の建造が必要だと考えるよう になる7)。この時、海外貿易を前提とする日本人の通商知識習得の必要性も 強調していることから8)、新島は、その頃には開国派に転じていたようだ。
そして、1862年には彼は蘭学者の甲賀源吾の塾に私費で通うのである。
その新島が本格的に英学を学び始めたのは、快風丸での玉島(現在の岡山 県倉敷市)航海の後の1863(文久3)年であった。江戸に帰帆して2ヶ月 後、新島は、「英吉利文典直訳」の翻訳を開始している9)。
新島が英学の必要を感じた理由については、彼が乗船した快風丸がアメリ カ製だったことも一つの理由であったと思われる。また、同年に新島は、米 国の歴史地理の書物である『連邦志略』を読み、自分の頭がとろけそうに思 えるほど、アメリカの民主主義を賞賛しているから10)、その頃すでにアメリ カに対して大きな興味が沸いてきたと考えられる。
2)数学と天文学の応用科学としての航海術
新島が学んだ当時の航海術とは、陸岸を利用する沿岸航法とは異なり、陸 地の全く見えない大洋の中で、航海暦(天文位置表)を参照しながら六分儀 により天体の高度を観測し、それによって船の位置を計算し、海図と羅針盤 により目的地への針路を定めて安全かつ効率的に航行させる技術である(天 文航法)。それは、球面三角法を中心とする数学と天文学、歴法等の応用科 学というべきものであり、実践数学の一種ともいってよい。
今日、「新島遺品庫」に「数学ノート(三角法)」と題して残されている新 島のノートがあるが11)、筆者が確認したところ、それは、Nathaniel Bowditch
(1773−1838)のTHE NEW AMERICAN PRACTICAL NAVIGATOR の一部分で あった。新島のノートには、同書に収録されている図が、記号を含めて正確 に記述されているのである。
3)Phillips Academy
とAmherst College
時代の新島それでは、アメリカに渡った新島が、学生として主に何を学んだのかとい えば、キリスト教や英語は勿論だが、それ以外は主に自然科学であった。
Phillips Academy時代、新島は、算数、代数学、幾何学等を学び、三角法 と測量術、生理学、化学等を学ぶことも希望していた12)。
Amherst Collegeに進学すると、新島は、理系の科目を多く選択した。す
なわち、化学、物理学、解剖学と生理学、数学、幾何学、三角法、天文学、
地質学、鉱物学、植物学、建築学等、判明している限り、彼が受講したのべ 32の科目の内の23科目が理系 の 科 目 だ っ た13)。 な お 、 新 島 が Phillips
AcademyとAmherst Collegeで学んだ理系各科目の内容については、島尾永
康氏の緻密な研究がある14)。
そもそも、当時においてアメリカで最も聖職者を輩出した宗教色の強い保 守的なリベラル・カレッジであるAmherst Collegeになぜこれほど多くの理 系の科目が多く設置されていたのかというと、それは、科学を教える目的 が、自然神学の原理を示す点にあったからである。新島が入学する3年前に 亡くなった同大学の元学長、Edward Hitchcock(1793−1864)は聖職者であ るとともにアメリカの代表的な地質学者であり、聖書の記述と地質学は一致 すると考えていた。多くの版を重ねた彼の著書、The Religion of Geology and its Connected Sciences, 1851,(『地質学の宗教』)はそのことを論じたもので あった15)。Amherst Collegeで当時最も有力な科学であった地質学を学んだ 新島は、生涯を通じて地質学への興味を持ち続けた。宗教と科学を日本に導 入しようと企図した新島にとってAmherst Collegeほど相応しい大学はなか ったのである。
1870年7月、新島は同大学を卒業し、理学士(B. S.)の学位を得て、日 本人として最初の正規の大学の卒業生となった。2ヶ月後、新島はAndover
Theological Seminaryへ進学するが、そこで彼は、気鋭の地質学者兼会衆派
牧師のGeorge Frederick Wright(1838−1921)に出会う。Wrightは、著名な クリスチャン・ダーウィニストであり、彼との出会いが、新島をして日本で 最も早く同志社で進化論を講じることを認める背景ともなった16)。
4)欧米の理科系大学調査
1872年3月、新島は、神学校を休学して訪米中の岩倉使節団に参加し、
田中不二麿(1845−1909)等と共にアメリカ東部とヨーロッパ各国の教育制
度調査を行った。その間に二人が訪問した理系の大学の内、医学系の学校を 除く17)主なものは、Massachusetts Agricultural College とYale College、City College of New York、Columbia College(以上米国)。Edinburgh University、
Oxford UniversityとCambridge University(以上英国)、スイスの工芸学科の ある公立大学等である。このうち、後述するハリス理化学校との関係では、
Yale CollegeのSheffield Scientific Schoolが重要である。新島と田中は、同 カレッジのNoah Porter(1811−1892)総長の家に招かれた後、同校で音声に よる振動を可視化する装置を見学したり、望遠鏡によって太陽の黒点を観察 したりしている18)。
5)同志社英学校での理科系授業
1875(明治8)年、新島は山本覚馬(1828−1892)、Jerome Dean Davis(1838
−1910)とともに同志社英学校を開校する。周知の通り、同志社英学校は英 語で西洋の知識を学ぶ「英学」の学校である。全学科の基礎となる英語と選 択科目の「支那学」を除いた開校時の科目は全19科目。そのうちの理系の 科目は、算術、点算(点竄、代数)、度量学、三角法、天文、窮理(物理)、
人身窮理(生理学)、化学、地質学の9科目であり、文系の科目は、地理、
万国歴史、文明史、万国公法、文理学(文章学?)、経済学、性理学(心理 学)、修身学の8科目であった(私塾開業願)。理系の学科の数が文系のそれ を上回り、かつ、その理系の学科には三角法、地質学、天文学、物理学等、
新島のAmherst Collegeでの修学経験の影響があった。
2.同志社ハリス理化学校設立次第
1)新島の大学専門部構想における理系学部
本誌前号で論じたとおり、新島の大学設立運動は、同志社英学校をカレッ ジのレベルに格上げすることと、そのカレッジに接続する専門部を設置して 同志社をユニバーシティにすることの2つの目的を持ったものであった19)。 その専門部については、次の通り、1882年における新島の最も初期の大 学構想においてでさえ、一つの学部に限定するものではなく、理系も含んだ
複数の専門学部を備えるものであった。
我輩大学ヲ立ツルノ主旨ハ普ク諸学科ヲ脩〔修〕スルニアレハ、只ニ一 二ノ専門ニ限ルベカラス、資力ノ加増スルニ随ヒ学科ヲモ増加セシムベ シ、然リト雖欧米諸国ニ於テ設ケラレタル宗教、哲学、理学、文学、医 学、法学等大学専門科ノ如キハ容々ニ設クヘキモノニアラサレハ、先ツ 三部〔宗教兼哲学、医学、法学〕ヲ設ケ布イテ諸学科ニ及フベシ
(「同志社大学設立之主意之骨案」1882(明治15)年11月7日草稿)20)
新島の構想は、当時の日本の学制である「教育令」と、当時日本に唯一校 だけあった官立の東京大学を意識したものだったが21)、上記引用文に「欧米 諸国ニ於テ設ケラレタル宗教、哲学、理学、文学、医学、法学等大学専門 科」とあるとおり、彼の大学構想は、欧米各国の大学を視野に入れた、当時 の日本人として希有のものであった。それは、彼自身がアメリカのカレッジ を卒業した上で、神学の専門科を修了した学歴の上に、岩倉使節団のメンバ ーとして欧米各国の大学を見てきた経験に基づくからであろう。
同年に彼が綴った他の草稿(「同志社大学設立ヲ要スル主意」、〔同志社大 学設立の旨趣〕)には、米、英、仏、独、伊、露等々、欧米各国に於ける大 学の数や資金、設立年等が極めて詳細に綴られており22)、新島のグローバル な視野には驚かされる。
その中でも、理科系大学という観点で注目されるのが、アメリカの Harvard CollegeとYale Collegeに関する新島の理解である。
両校について新島は次のように綴っている。
一「ハーウォルド・コルレジ」ハ、マスサチュセッツ邦ケンブリヂニア リ、千六百三十六年マスサチュセッツ海湾植民社ノ裁判所ヨリ四百ポン ド(弐千弗)ヲ寄附セラレ、千六百三十八年基督教会牧師ジョン・ハー ウォルド氏ヨリ八百ポンド(四千弗)ト其ノ所有ノ書籍若干ヲ寄附セラ レシヨリ創立スルモノナリ、該校現今ノ資金ト有所物ノ代価ヲ合算スレ ハ弐百八十万弗ノ巨額ニノボリ、資金ノミハ壱百八十五万弗、其利子十
三万三千六百七十六弗ナリ 書籍ノ数ハ十三万四千巻 教員助教ノ員、壱百十人
専門科ハ神学、法学、医学、治歯学等。別ニ有名ナルローレンス技芸学 校ノ設ケアリ
一「エール・コルレジ」ハ、コンネチカト邦ノニウヘヴンニアリ 大学ノ資金ハ壱百五十五万弗
授業料ノ金額ハ拾万七千弗
資金ヨリ生スル利子ト授業料トヲ合算スレハ、一年ノ収入高ハ二十三万 五千弗
生徒ノ員、壱千ヨ〔余〕人
専門学科ハ神学、法学、医学、治歯学、鉱山学等ニシテ、内学芸講究ノ 為設ケラレタル学校アリ、之ヲシャツフィールド技術校ト号フ23)
(引用文中の下線は筆者による)
新島は、Harvard CollegeもYale Collegeも、いずれもリベラル・アーツ教 育を行うカレッジと「専門(学)科」で構成されている、と説明し、「専門
(学)科」には、前者には「ローレンス技芸学校」が、後者には「シャツフ ィールド技術校」がある、と述べている。
「ローレンス技芸学校」とは、アメリカの実業家で政治家だったAbbott
Lawrence(1792−1855)が生前に5万ドル(遺贈を加えて計10万ドル)を
Harvard Collegeに寄附して1847年に設立されたLawrence Scientific School のことである24)。
「シャツフィールド技術校」とは、Sheffield Scientific School のことであ る。Yale Collegeは1852年にBachelor of Philosophy(Science)の学位を与
える Engineering Schoolを設立、1852年には、同校は、冶金学と分析化学、
工業機械学を加えてYale Scientific Schoolとなった25)。その学校に対して、
アメリカの鉄道業界の大立て者であったJoseph E. Sheffield(1793−1882)は 1846年以来継続的な寄付金と建物を寄贈。Yale Collegeは、彼に感謝の意を 表するために1861年に同校の校名を変更して彼の名を冠したのである。
Sheffieldが寄贈した寄付金は、教授職のために13万ドル、ほかに図書基金 のために1万2千ドルという巨額に上る26)。なお、彼の告別式におけるpall bearer(棺の付添人)には、新島も旧知のYale College総長Porter等が務め ている27)。前述の通り、新島は岩倉使節団の教育制度調査チームの一員であ っ た 際 に 、Yale College の Porter 総 長 の 自 宅 に 招 か れ た 後 、Sheffield Scientific Schoolを訪問しているから、同校がSheffieldの寄附によるもので あることは承知していたはずであるし、ハーヴァードの Lawrence Scientific
Schoolについても、「有名ナル」と述べていることより、アメリカ滞在時代
から承知していたであろう。
上記のように新島は、アメリカの2大大学であるハーヴァードとイェール の理科系の専門科が、いずれも個人篤志家の10万ドルを超える多額の寄付 によって支えられていることを承知していたはずであって、そのような寄附 がなければ、実際にはなかなか理系の専門科を設置することは困難であると 考えていたことであろう。それが「容々ニ設クヘキモノニアラサレハ」とい う言葉になっていたと考えられる。
しかし、それでも、「大学ヲ立ツルノ主旨ハ普ク諸学科ヲ脩スルニア」り と考える新島は、理学の専門科をいずれ設けたい、と考えて、「明治専門学 校設立主旨」(1884年)、「同志社大学設立の趣意」(1888年)等、活版印刷 で広く世に訴えた趣意書の中でも「漸次」や「進みて」という修飾句を付し つつも理系の大学専門科を構想に加えるのを忘れないのである。
ところで、新島は1882年から亡くなる前年の1889(明治22)年まで、草 稿を含めて学部構想を明記した大学構想の文書を10編ほど残しているが、
実は、その具体的な学部は、初期の構想からほとんど変わっておらず、宗教 及び哲学、医学、法学(政治学)、文学、理学の5学部であった。
しかし、1889年に発行した活版の「同志社大学設立の大意」ではじめて、
理学に加えて工学も構想に加えている。
それでは、新島はなぜ、1889年になって自身の学部構想に理学と共に工 学を加えたのであろうか。
2
)新島の「理学、工学」構想とJ. N. Harris
問題の「同志社大学設立の大意」の印刷日は明確になっている。本書は活 版一枚刷りのビラで「明治22年4月10日 大阪東区本町1丁目17番地 大阪国文社印行」と記されているからである28)。
実はそのちょうど1ヶ月程前、新島は下村孝太郎(1861−1937)に注目す べき書簡を送っている。その書簡の重要部分は次の通りである。
先般は縷々之御書面被下難有奉謝候、已ニ前書ニ申上候通、レールネド 氏之一友人(ニューロンドンノ人)一万弗スイヨンス〔サイエンス〕ホ ール之為寄附致し呉、又続而五千弗寄附相成り、又殊ニより候ハヽサイ ンテフィクデイパルトメントノ為メニ五万弗ノ寄附アルトも難計候、左 スレハサイヨンス拡張ノ為ニ大ニ勢力ヲ得可申事ト存候
1889(明治22)年3月9日 下村宛新島書簡29)
この文面は、新島が下村に、同志社の教員のD. W. Learned(1848−1943)
の友人30)のJ. N. Harrisがサイエンス・ホール建設のために同志社に1万ド
ルの寄附をしてくれることになり、それが5千ドル加増されたので、もしか したら、Scientific Departmentのために5万ドル寄附してくれるかも知れな い、という喜びを伝える内容である。この時、下村はアメリカにあって、既 に Worcester Polytechnic Institute(ウースター工科(工芸)大学)を卒業 し、Johns Hopkins Universityの大学院に進学して有機化学を専攻していた。
書簡の中で新島が5万ドルという金額を思い浮かべたのは、その金額が、
ちょうど、LawrenceがLawrence Scientific School の設立のためにHarvard
Collegeに寄附した金額と同額であることから、新島は5万ドルあれば同志
社にも理系の学部(学校)ができると想定したからであろう。
その理系の学部については、新島が同志社に於けるサイエンス振興の牽引 役として期待する下村がウースター工科大学の卒業生であったから、理学か 工学の学校になるだろう、そう新島は見込んだに違いない。そのような大き な期待が生じたために、「同志社大学設立の大意」に「工学部」を入れたと 考えることができる。周知の通り、新島はその前年夏、下村に書簡を送っ
て、「小生ハ我カ校ニ於テサイヨンスノ振ハサルヲ痛嘆シ候間、貴兄ニシテ 充分ご用意アリ其ノ方ヲ負担し賜ハ丶必ス我カ校ノ面目ヲ一新スルニ至ラ ン」31)と熱く語っていたのである。
なお、1886(明治19)年に帝国大学令が公布され、当時唯一の官立大学 だった東京大学は法学部・医学部・理学部・文学部の4学部制から分科大学 制に移行して帝国大学となり、大学院の下に法科・医科・工科・文科・理科 の5つの分科大学が編成された。理学部から工芸関係が分かれて工科大学と なったのである。このことも新島の念頭にあったはずである。
3)J. N. Harris
略伝ハリス理化学校を同志社に寄附したJonathan Newton Harris については、
今日、「アメリカ、コネティカット州の実業家、市長、議会議員」であった ことだけが知られている32)。実際は、彼はどんな人物であったのだろうか。
日本語で書かれたHarrisの伝記で最も詳しいのは、中西進氏の「同志社 の恩人、ハリス理科学校寄付者 ジョナサン・ニュートン・ハリス伝等」と いうエッセイだが33)、同エッセイは、今から40年以上も前の『新島研究』
(第38号,1971年刊)に収録されており、今日、ほとんどの方は入手が困 難である。
そこで、筆者が、中西氏のエッセイと他の 英文の1878年までの半生記34)と1901年頃執 筆された略伝35)をもとに、Harrisの経歴と人 物をここで紹介したい。
Harrisの6代前の先祖のJames Harrisがボ ストンで生まれたのは1640年である。その 年は、ピルグリム・ファーザーズがメイフラ ワーでアメリカに渡った1620年からわずか に20年を経た年であった。1690年頃、James
Harrisは妻と三人の子ども達と共にコネティ
カット州ニューロンドン(New London)に 移住し、以降、一族はニューロンドンを中心
Jonathan Newton Harris
(1815−1896)36)
に栄える。このように、Harrisはまさにアメリカ建国の父たちの子孫であ り、彼等はそれを誇りとしていた。Harris生前の1878年に、James Harris以 来の彼の家系を綴った本(上記の英文の半生記)37)が刊行されているが、J.
N. Harris自身が同書をニューロンドン郡歴史協会に寄贈している38)。
J. N. Harrisの経歴は、アメリカン・ボーイの成功物語そのものであり、
彼は多年に渡ってニューロンドン市で最も傑出した市民の一人であった。
彼は、1815年11月18日、ニューロンドンから15キロ程北西にある同州 セーラム市(Salem)で農民の子として生まれた。小さな農場での厳しい生 活を送った後、17歳の時、彼は同州Hamburgの雑貨店の店員となる。1836 年、Harrisはニューロンドンに出て、食料品と金物を扱うSmith & Cadyと いう会社の店員となり、1838年、資本わずかに100ドルで雑貨商として独 立する。
1843年、彼はニューロンドンのBenjamin Brownの娘のJane M. Brownと 結婚、1844年には、Janeの兄弟のGeorge W. BrownとHarris & Brownとい う会社を設立、その4年後には独立して、農具や農機具も扱い、さらには、
ニューロンドンで初めて鉄や鉄鋼を直接輸入して事業を拡大させる。彼の会 社は、1853年にはHarris, Ames & Co.と名乗り、1857年にはHarris Williams
& Co.と改称し、1865年に彼が金融業に転じるまで同社は発展を続けた。
その間の1848年、彼はロードアイランド州プロビデンス(Providence)市 のPerry Davisと共同で、J. N. Harris & Co.という製薬会社をオハイオ州シ ンシナティ(Cincinnati)市に設立し、この事業も非常に成功した39)。
なお、中西氏によれば、Harrisはカナダのモントリオール(Montreal)市 にもFellowes Medical Manufacturing Co.という会社を設立しているとのこと だが40)、別の出典では、Harrisは同社の発起人の一人で数年間社長を務めた ようであり、また、彼は同市にあるDavis & Lawrence Co.の役員も務めて いる41)。
1862年、Harrisはフィラデルフィア(Philadelphia)市のHillと共同でHill
& Harris Coal Mines( 石 炭 採 掘 業 ) を ペ ン シ ル バ ニ ア 洲 マ ホ ー ニ ー
(Mahoney)市に設立、この事業も成功した。
こ の よ う な 事 業 を 行 う 傍 ら 、Harrisは20年 以 上 も New London City
National Bankの頭取を務め、数年間、同市の銀行協会の理事を務めた。そ の他、New London & Northern RailroadやNew London Steamboat Company、
他数社の役員を兼務している。
彼は様々な産業に従事しつつ、1855年にはコネティカット州の議員を務 め、翌1856年から1862年までニューロンドン市において人気のある市長と なった。1864年にはニューロンドン選出の上院議員にも就任した。
Harrisがニューロンドン市の市長の時に南北戦争が勃発したが、彼は、政
府や、州知事を強く支持して北軍の勝利に貢献している。
Harrisは信仰の厚い人物で、戦死者や戦争の犠牲者に関心を寄せた。沿岸
にある石造りのTrumbull要塞で北軍の新人兵が集められた際には、Harris は同所で日曜礼拝が行われるように最善を尽くした。
彼はまたYMCA の熱心な支援者であった。ニューロンドン市のYMCA
はHarrisの努力で1852年に設立され、彼は、ニューヨークにあったYMCA
International Committeeの会長も兼ねた42)。
また、彼は、福音伝道者のDwight L. Moody(1837−1899)の熱心な支持 者で、MoodyのMount Hermon SchoolとNorthfield Seminary設立を助けた。
1893年には、HarrisはMount Hermon Schoolの校長を務めている。なお、
1885年2月、2度目の滞米中だった新島はMoodyに手紙を書いて、同志社 を中退した後に滞米し、当時入学できる学校が無く労役していた蔵原惟郭が 同校へ入学できるよう依頼し43)、そのおかげで蔵原は同校に通うことが出来 た。新島とHarrisはMoodyを介して、奇しき縁でその当時から結ばれてい たとも言えよう。
Harrisが所属した教会は、ニューロンドンのSecond Congregational Church であり、アメリカン・ボードの理事も務めた。なお、Harrisは病院も作り、
市民に広く開放したという44)。
Harris は 妻 の Jane と の 間 に Janie Newton、Ella Lyon、James、Frank Newton、Jonathan Newton、Mary Woodruff、Gertrude S.、Edith Courtneyの8 人の子供をもうけたが、Ella Lyonは2歳、James は生まれた翌日、Frank Newtonは1歳、Jonathan Newtonは4歳、Gertrude S. は1歳で夭折してい る。この世で最も美しい娘の一人と讃えられたJanie Newtonも22歳で亡く
している。Mary Woodruffも29歳で、最後に残ったEdith C.も1885年に29 歳の若さで亡くしている45)。Harrisが同志社にハリス理化学校を寄附するこ とを決意したのは1889年だが、それ以前に、すべての子供達を自分よりも 先に亡くしていたのである。
HarrisはJaneと離婚し、彼女は離婚後まもなく亡くなっている46)。離婚
の原因と離婚の年は不明であるが、その後の1869年、彼54歳の年にマサチ ューセッツ州ノーサンプトン(Northampton)市のLewis Strongの娘で16歳
年下のMartha Ann Strongと結婚している。彼女はマサチューセッツ州知事
Caleb Strongの孫娘であり、彼女の母は、コネティカット州ハートフォード
(Hartford)郡長官だったStephan Chesterの妻であり、名門である47)。しか し、2人の間に子供は出来なかった。
1896年10月、Harrisは亡くなった。享年81歳。彼と家族の墓領は、ニ ューロンドン市最大の墓地であるCider Grove Cemeteryにある48)。
以上が、Harrisの半生記と略伝の主要部分を略出し、中西氏のエッセイ等 で補ったものであるが、その内の英文略伝にハリス理化学校のことが記載さ れているのか、と問われれば、実は英文略伝のまとめとして次のように大書 されているのである。
彼は、日本における宗教と教育の援助を表すという更なる分野に熱意を 込めた。1889年、彼は10万ドルの豪勢なギフトで、日本の京都にハリ ス理化学校を設立して、寄付したのである。〔略〕多くの人が必要とす る時に彼が個人的に与えた援助は、ほとんど限りなかった。Garfield通 りのMemorial HospitalとState通りのHarris Building、−それらの純利 益は、教育的、慈善的、宗教的な目的に捧げられている−は、彼の他者 に対する思慮深い心遣いを表す不朽の記念碑である。
Harrisは非常に魅力的な容姿の男性であった。そして、力強く知的な
顔とすばらしい体格、そして威厳があって上品な振る舞いに恵まれた人 物であった49)。(邦訳:大越)
この英文略伝は1900〜1901年頃、すなわちHarris逝去の4−5年後に書か
れているので、Harrisの生前の風貌を良く伝えていると考えられる。
そして、ここにあるMemorial Hospitalは、現在、私立の非営利病院であ るLawrence+Memorial Hospitalとなっている。また、Harris Buildingは当時 のまま現存していて、Harrisが同志社に寄附した10万ドルの内の一部が資 本に組み入れられており、現在もその純益が同志社に寄附され続けているの である。
4)下村孝太郎のアメリカ留学と新島
議論は下村の米国留学に戻る。1885(明治18)年5月、当時保養と募金のためにアメリカに滞在してい
た新島は、同月26日付で京都の同志社の教員に手紙を送り、同志社の教員 養成のために日本で奨学金を新設し、同志社の卒業生で最良の者数名を留学 生としてこの地(アメリカ)に送って一流の教授を養成したい、との考えを 伝えた。新島は、日本では政府が東京大学に対してこのような奨学金を出し ているが、東大で出来て我々同志社でできないはずはないと意気軒昂な言葉 も伝えている。さらに新島は、手紙の中で、先日Yale CollegeのPorter総 長を訪ねて、この新しい計画に対して、アメリカで奨学金を得られるかどう か意見を求めたところ賛成してくれたので、さっそく当地で、極々少数の留 学生をJohns Hopkins UniversityやYaleやAmherstに留学させるための難し い募金活動を開始している、とも伝えた50)。
この手紙を送った9日後の6月4日付けで、新島は、今度は下村に手紙を 送った。その書簡は残されていないが、その書簡に対する下村の7月13日 付けの返信は残されている51)。
その返信で下村は新島に、「彼事件」には大変なお世話を蒙り、その上、
自分の留守中に家族にまで毎月5円も御恵金を送って下さるとの新島の思し 召しについて何ともお礼の言いようがないほど感謝している、「然ル上ハ正 敷米国留学ノ都合出来タル者ト心得申候」、と述べる。さらに、下村は、旅 費は湯浅吉郎がその母より内々受けた金子から2百円を無利子で貸してくれ ることになった、同志社教員のJ. D. Davisとグリーン(D. C. Greene(1843
−1913))も寄附をしてくれると言っている、と報告した上で、新島の手紙
を読んで母も落涙している、「寔(まこと)ニ先生ハ我父ナリト思候、此度 打立〔出発し〕テ留学ヲ遂ケ後志ヲ達シテ帰朝致サバ我カ得タル処凡テ先生 ノ賜ニ外ナラズトコソ思居ル事ニ御座候」、「一銭ナシニ英学ヲ遂ケ、一文無 シニ洋行ヲ致ス、天ノ恵之ヲ去リテ何処ニ在ランヤ」と感激していることを 述べるのである。
さらに、下村は、留学先はウースター工科大学にしたい、その理由として は、同校は自分がかねて学びたかったドイツ語を重視していること、同校校 長の「フーロル」(Homer T. Fuller)も「スチンプソン」も、皆グリーン先 生の知人であることを挙げている。
熊本バンドの一人の下村は、1879(明治12)年に父を亡くし、母と妹6 人を扶養する必要があった52)。そのために、同年に最初の卒業生の一人とし て同志社英学校を卒業すると、出身地熊本の英学塾に赴任していった。その
後の1882(明治15)年9月、下村は同志社英学校の教師になったが53)、当
然、家族の扶養義務があった。「彼事件」とは、下村は元々留学の志望があ ったであろうが、家族の扶養のために留学は困難だと考えていたことを新島 に伝えていたであろうから、「難しいと考えていた自分の留学の件」という 意味で、彼はそう書いたのであろう。
そこに助け船を出したのが新島であった。新島は、同志社の卒業生の中の 最良の人物の若干名をアメリカの名門大学に留学させて、帰国後一流の教授 として同志社のアカデミズムの興隆を担わせるという計画の対象者として下 村に白羽の矢を立て、下村の母に生活費まで贈ることを約束したのに違いな い。下村は、これで留学が出来ると考えて歓喜し、新島を「我が父」と思 い、留学して帰国後に自分が為し得ることは、すべて新島の「賜」に外なら ない、と新島に伝えたのである。
下村がウースター工科大学を卒業した後、新島が例示した Johns Hopkins
Universityの大学院に進学したのも偶然とは考えにくく、新島の考えも考慮
したように思える。『新島襄全集・来簡集』(第9巻)には、下村が同大学院 で学んでいる期間に下村の母の房から新島宛てに送られた書状と送金の礼状 が4通収録されており、その中の1通には、新島から「来年ハ孝太郎帰る」
と知らせたことに対する喜びも記されているのである54)。
5
)下村のアメリカに於ける大学設立義捐金運動下村は新島のおかげで留学が出来たことを大変恩に感じて、留学先のアメ リカで自ら大学設立義捐金運動を行うことを新島に申し出た。このことを直 接伝える下村の書簡は残されていないが、その申し出に対する新島の返事が 新島書簡に残されている。
それが、新島の1888(明治21)年8月11日の下村宛新島書簡である。
そこには、「大学資本を募ろうとするならば米国に及ぶ国はない。かねて 貴兄の企画のように、アメリカンボードとは全く無関係に、プライベート に、富豪の誰かに日本の現状を述べて、大学が日本に甚だ必要である事を説 いて、彼の感情を惹起してくだされば、あるいは募金も成就できるでしょ う。貴兄ぜひこの大任を御負担下さい」という主旨の文言があった。
さらに、新島は、この手紙の別紙に、アメリカにおける「資本募集」等の ことは、「貴兄にて独断の事」(あなたが独断で考えていることである)とも 述べているのである55)。
このように、アメリカ留学中の下村は自発的に同地で大学設立運動を展開 していたことが分かる。
6)新島と下村が Harris
から10
万ドルを引き出したHarrisが同志社に対して募金の意思を初めて示したのは、1888年1月以
前のことであった。同年1月31日の日付でボストンにあるアメリカンボー ド本部のN. G. Clark(1825−1896)総幹事からD. W. LearnedにJ. N. Harris が同志社に1万ドルを寄附する意向を記した書簡が届いている56)。1888年1 月時点は日本における大学設立運動もまだ本格的に開始されていない時期で あって、Harrisのその頃の寄附の目的は、理科学教育のための「理科学教 場」57)建設のためであった。同志社は、のちに、B. W. Clarke 夫妻から亡き 息子(Byron S. Clarke)の記念のためとして1万ドルの寄附の申し込みを受 けてByron Stone Clarke Theological Hall(クラーク神学館、現在のクラーク 記念館)を建てたが、それと同じ建物のための寄附だったのである58)。な お、新島の本格的な大学設立運動は、同年4月の知恩院での大学設立募金集 会を皮切りとするものであった。
このHarrisの1万ドル寄附の話が新島に伝わるのは同年8月のことだっ た。新島は知恩院の集会の直後から東京に出張し、途中一時危篤となり、後 にどうにか回復して、この頃は伊香保で静養していた59)。
その後の同年12月24日付下村宛の英文の書簡でも、目的は依然として
a Science Hall だが、5千ドル追加されて合計1万5千ドルとなってい
る60)。それまでの間にHarrisが増額したのである。5千ドル追加の理由は、
「1万弗ニテハ充分ノ事ハ出来マシキヲ恐レ」たためであった61)。
そして、前述したとおり、1889年3月9日付の下村宛新島書簡でも、目 的は「スイヨンス〔サイエンス〕ホール」で金額も1万5千ドルである。し かし、その時、既述の通り、新島は、「殊ニより候ハヽサインテフィクデイ パルトメントノ為メニ5万弗ノ寄附アルトも難計」と下村に書き送っていた のである。なお、この書簡では、2月25日の社員会の結論、すなわち、下 村の帰国旅費300円と下村の家族の扶助料を送ることも伝えている62)。
しかし、その1ヶ月後の4月12日付の下村宛の書簡で、新島は、3月28 日に行われた社員会の内容を伝えて、下村には今8〜9ヶ月もしくは1年ア メリカに滞在して「例の大学之為資本募集之労を願ひ度」、ついては、「此夏 御帰り之為旅費を呈する事ハ当分見合セ」たいが同意してくれるかどうか至 急ご返答を願いたい」と連絡する63)。
そして、この書簡の「追伸」で新島は非常に重要なことを書いた。それ は、「レーネルト氏之友人ハルリス氏之イントレストハ御ツナキ被下度候、
貴兄之御目的ニ関し大切ト奉存候」というものである。つまり、Harrisの同 志社に対する関心を繋いでほしい、それは下村の大学設立募金に取って大切 だ、というのである64)。
それから事態は急展開し、5月末までに新島に届いた情報として、Harris の募金が単なる建物から理化学校の設立に拡大してゆき、金額も10万ドル に達するのである。
具体的には、「同志社大学設立募金日誌」に5月8日付けでHarris氏より
「芸術館新築ノ為1万5千弗、地代1千5百弗、更5万弗ヲ寄附シ呉レタリ」
とあり、この時点で寄付金総額は6万6千5百ドルになった65)。この時、
Harrisは、たとえ自分に万一の事があっても、この寄附が問題なく実行され
るように3人の委員を依嘱したいとして、委員に下村とD. C. Greeneと、
ウースター工科大学のFullerを選んでいる。
そして、この金額は実際には5百弗加算されて、6万7千ドルになったこ とが5月13日付の北垣国道宛新島書簡に記述されている66)。
その後の5月30日の北垣宛の新島書簡では、「又々3万3千円〔弗〕之遂 加寄附致し合計10万弗」に上ったことが記されている67)。
ところで、なぜ、4月中旬から5月下旬までの短い期間に(実際には書簡 の往来に要する日にちを引けばもっと短い期間に)、Harrisの寄附の金額が 1万5千ドルから10万ドルに膨れあがったのであろうか。
その理由について、新島は5月12日付書簡で蘇峰に次のように語ってい る。
〔ハリス氏は〕曽テ吾人〔我等〕カ我カ日本青年薫陶ノ事ニ熱心従事シ オルヲ聞キ、今日鋭意文化ニ進マントスル日本人ノ精神ヲ大ニ愛セラ レ、其ノ所有ノ金ヲ惜マス喜テ我カ同志社ニ役セラルヽハ真ニ博愛ノ人 子ト称スヘキナリ68)
末光力作氏は、このことから、「新島の募金に対する命がけの誠意と努力、
それにアメリカに於ける下村の活動がハリスを動かしたものであろう」と指 摘した69)。
同志社大学理工学部70周年記念出版の『人間のための科学技術を求めて 同志社大学理工学部の70年』では、Harrisが「下村青年の意気に大いに 感じ」たことを理由に挙げている70)。
筆者もまた両者と意見を同じにするものだが、あえて付け加えれば、ある いは、Harrisは、新島の助言もあってHarrisの関心を繋ぎ止め、彼に日本の 現状と理科系を中心とする大学の設立を熱心に彼に説いた下村に、亡くした 子供達の姿を重ねたのではないだろうか。すでに述べた通り、Harrisの経歴 の中でも同志社への寄附は特別なものである。
末光力作氏は、牧野虎次同志社元総長が下村孝太郎から聞いた話として同 志社工学会誌の「ハリス氏記念号」に寄稿した次のエピソードを紹介してい
る。
下村は在米中、同志社を代表してHarrisの寄附に対し礼を述べにニュー ロンドンのHarris邸を訪問した。Harrisは初対面とも思えぬ親しみをもって 下村を歓待し、2人は食事を共にした。食後、広い庭を散歩し、下村は後庭 へと案内された。そこには5基の墓石が立てられており、Harrisは下村に
「此所に私の愛児が眠っている。私は子供たちの教育費を用意したが、不幸 にして子供たちに先立たれたので、そのお金をそのまま同志社に寄附し、日 本青年の科学教育に提供したい。君たちは私の微志にそって活用して欲し い。」と眼に涙をうかべて語ったとのことである71)。
Harrisの強い思いを考えると、下村がハリス理化学校に掛けた情熱が良く
分かるのである。
さて、Harrisの募金の目的が建物から理化学校のためへと拡大していった 1889年5月20日付で、下村は新島に書簡を送っている。その書簡の内容 は、7月5日付の新島からの返信で推測できる。下村はHarrisからの寄付金 が多額になったので、自分はアメリカでの募金活動を止めて帰国したい、と 進言したのである。
これに対する新島の返信は次のようなものである72)。
・4月に下村に対して、アメリカに留まって募金活動を行うように説得し た時には、Harrisの募金がこれほど巨額になるとは全く分からなかっ た。
・Harrisから素晴らしいギフトを受け取ったからには、アメリカでこれ以 上の寄附を募ることはHarrisの心証を害するかもしれないからかなり 注意を要する。
・我々は理科学館をすぐに建て始めるから、下村には我々と日本のために 働く場所を準備している。
・だから、下村君、カムホーム!できるだけ早く。
そして下村は旅費を受け取り、帰国の途に就くのである。
以上のHarrisの10万ドルの寄附の経緯を見ると、Harrisの理化学校のた
めの寄附は決して突然生じた僥倖ではなく、新島と下村、それにGreene等
がHarrisに働きかけた結果であった。筆者はこれを、同志社のアメリカに
於ける大学設立運動の成果と位置づけたい。
3.大学部としての同志社ハリス理化学校
1889年5月17日、Harrisの寄付が6万7千ドルに上った段階で新島は
Harrisに手書きの礼状を送った。新島遺品庫にはその下書きが残されている
が73)、冒頭で新島は、Harrisの心のこもったギフトがどんなに嬉しいものか という喜びとお礼を述べて、Harrisのギフトによるschoolは、 as a part of
Doshisha University にすると約束している。まさに新島の理解では、ハリ
ス理化学校は同志社の理科系大学なのである。
実は、Harrisの寄附がまだ建物の段階の時に米国で募金活動を続けていた 下村は新島に、寄付者が自分の名前を冠した大学にするなら寄附すると言わ れた場合はどうすればよいか、という主旨の問い合わせを行っていた。それ に対する新島の答えは、同志社の名前は今や日本全体に拡がっているから、
その名前が無い大学だと日本人の通りが悪いけれど、もし寄付者の名前を付 けるなら、同志社カンパニーに所属する「何氏大学」というようなことにな ろうか、しかし、これはかなりデリケートな問題なのでGreene氏に相談し てほしい、と回答している74)。この回答は、新島が寄付者の名を冠した大学 を拒絶しているわけではないことを示す。それは、すでに、YaleやHarvard の事例を新島が知っているからであろう。
一方のHarrisも同年9月6付の新島宛書簡で my gift of $100,000. to found the Harris School of Science in connection with the Doshisha University と述べ ている75)。
また、1890年1月、Harrisが同志社ハリス理化学校理事会宛てに送った 正式な書簡には、冒頭に次の文言が掲げられている。
In the hope of promoting the Cause of Christ in Japan and of providing opportunities for instructions in science under the best Christian influence, I
devote one hundred thousand dollars to the Establishment of a school of science and for scientific instruction in connection with what is known as the Doshisha at Kyoto, Japan.
This school of science is to constitute a part of Christian university which is to supplement the present Collegiate Course and is to be known as the Harris School of Science.
It is to offer a post graduate course to such students of the collegiate department as may desire to pursue advanced studies in science and its application to the arts. Other young men possessed of qualifications equivalent to those acquired in the Collegiate Course may be received as students76).(引用文中の下線は筆者による)
このハリス理化学校理事会宛ての文書にある通り、Harrisは1889年度に 同志社が開校したCollege Courseを補い、キリスト教主義の大学の一部を構 成するものとしてハリス理化学校を同志社に寄附したのである。そして同理 化学校は、college courseの学生で、「高度の科学研究と、それの学芸への応 用を研究したい人たちに、大学院程度のコースを提供する」ものなのであっ た。
これはHarrisの用途指定寄付金の趣意書であって10万ドルはそのために
同志社に委ねられた信託財産なのであった。
すなわち、ハリス理化学校は、Harvard CollegeにおけるLawrence Scientific School、Yale CollegeにおけるSheffield Scientific Schoolと全く同じように、
1889年度から開校したDoshisha College(同志社普通学校高等学科)におけ るHarris School of Scienceであって、同志社の理系の大学だったのである。
この認識は、J. D. Davis等、同志社に於いて英文のアニュアル・レポート を作成していた宣教師達にとっては当然のものであった。
同志社の1892年度報告書である SEVENTEENTH ANNUAL REPORT OF
THE DOSHISHA SCHOOL には、次のような記述があるのである。
In 1889 Mr. Harris pledged $100,000 for the Harris Science School of
the University, and this department was opened in Sep.1890.77)
以上のように同志社は、1890年、新島が逝去した年に、彼の遺志を継ぎ、
我が国の私学初の快挙として理科系の大学専門部を開校したのである。
おわりに
新島や下村はアメリカの大学や大学院に留学し、自らアメリカで募金活動 を行った経験もあるから、同国の大学制度や寄附制度について熟知してい た。
同志社ハリス理化学校(1892年、同志社ハリス理科学校と改称)は輝か しい業績を残したが、新島や下村以外の同志社のスタッフには、アメリカの 大学制度や寄附制度について知識を持つ者がほとんど居なかったようだ。
そのために同志社執行部はHarrisの意思に反した用途に信託財産を用い、
それがHarrisとの間に大きな軋轢を生み、同志社の存続にも大きな影響を
与えるようになった。下村はそのような執行部に抗議して1895年にハリス 理科学校を去った。Harrisも翌1896年に亡くなる。最晩年のHarrisの同志 社に対する思いは如何ばかりであったであろうか。
1897(明治30)年、すなわちHarris逝去の翌年、ハリス理科学校は規模
を縮小して同志社高等学部ハリス理科学校に移行し、後の1904(明治37)
年に開校した同志社専門学校の第二部に移行した時点で実質的な活動を止め た。それから1944年に同志社工業専門学校が開校するまでの40年間、同志 社大学では大学専門部としての理科教育が行われなかった78)。
しかし、1944年に定員を十数倍上回る入学希望者を集めた工業専門学校 が開校し、1949年には同校は大学の工学部に昇格し、2008年には理工学部 となった。その間、ハリス理化学校が設置されたハリス理科学館は同志社の 宝物の一つとして大切に守られ、耐震強度不足が判明した際も外観を保持し たまま耐震補強を行うという最も困難な改修を加えられて現在も今出川キャ ンパスに屹立している。工学部が京田辺キャンパスに移転した際もその中心 的な建物はハリス理化学館にちなんで理化学館と命名され、その正門のアー
チ に SEEK THROUGH YOUR VOCATION TO SERVE GOD AND
HUMANITYというHarrisの言葉が刻まれている79)。また、理工学部は毎
年、Harris Buildingから生じた法定果実によって、同志社ハリスフォーラム を開催している。
このように常にJonathan Newton Harrisへの感謝を忘れない同志社人に対 して天上のHarrisは微笑んでいるに違いない。ハリス理化学校から現在ま で、同志社で理系の学部に関わる人々は皆、「襄の児」であると同時に「Harris の児」でもあるのである。
本論考執筆に当たり、米国のMs. Patricia M. Schaefer, of the New London County Historical Society、元同志社大学教授島尾永康先生、同志社大学名誉 教授北垣宗治先生・同大鉢忠先生、同志社大学理工学部同窓会会長橋詰源治 様、同副会長東城哲朗様、同事務局小野裕子様、他同会幹部の方々にお世話 になった。お名前を記して謝意を表する次第である。
注
1)島尾永康「第二部 キリスト教教育の受難 第一章 同志社ハリス理化学校」
『同志社百年史』通史編1(1979年).
2)末光力作「ハリスによる10万ドルの寄附をめぐって」『同志社工学会報』32号
(ハリス理化学校100周年記念特集)、同「同志社理化学校と新島の夢」『同志社 時報第91号』(学校法人同志社、1991年)、同「同志社ハリス理化学校の内容と 使命」『新島研究』78号(同志社新島研究会、1991年).
3)拙稿「大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか」『新島研究』105号(同志社 大学同志社社史資料センター、2014年).
4)『新島襄全集』3巻(同朋舎出版、1987年)、p.5.原漢文。引用者が読み下し文 に直した。
5)島尾永康「新島襄と自然科学」『新島襄の世界』(晃洋書房、1990年)、pp.181−
182.
6)Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima,(Reprinted by Doshisha University Press, Kyoto, 1980), p 28.
7)『新島襄全集』10巻(同朋舎出版、1985年)、p.35.
8)同書、p.14.
9)『新島襄全集』8巻(同朋舎出版、1992年)、p.15.
10)前掲『新島襄全集』10巻、pp.11−12.
11)同志社大学同志社社史資料センター、目録番号0848.
12)前掲『新島襄全集』10巻、p.78.
13)その他の科目は、ラテン語、ギリシア語、体育、歴史、英文学等である。(同志 社大学理工学部70年史編集委員会『人間のための科学技術を求めて 同志社大 学理工学部の70年』(同志社大学理工学部・同志社大学理工学会・同志社大学理 工学同窓会、2014年)、p.34.北垣宗治『新島襄とアーモスト大学』(山口書店、1993 年)、pp.290−291.伊藤彌彦『明治思想史の一断面』(晃洋書房、2010年)、pp.80
−81.
14)島尾前掲「新島襄と自然科学」pp.165−167.
15)同書、p.164.
16)同書、p.177.
17)医学系の訪問先は、前掲拙稿「大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか」p.83 を参照。
18)『新島襄全集』7巻(同朋舎出版、1996年)、pp.45−46.
19)前掲拙稿「大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか」pp.97−98.
20)前掲『新島襄全集』1巻、p.28.
21)前掲拙稿「大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか」p.98.
22)前掲『新島襄全集』1巻、pp.44−65.
23)前掲『新島襄全集』1巻、pp.48−49.
24)1911 Encyclopedia Britannica/Lawrence, Amos
(http : / / en. wikisource. org / wiki / 1911 _ Encyclop %C3%A6dia _ Britannica / Lawrence, _ Amos)(2014/9/22調査).
25)Yale : A Short History, The Making of the University
(http : //www.library.yale.edu/mssa/YHO/Piersons/makingOfUniversity.html)(2014/9/22 調査).
26)New York Times, Feb.17, 1882のJ. E. Sheffieldの死亡記事
(http : //www.webmousepublications.com/itow/whoswho/shefield/obit−jes.html)(2014/
9/22調査).
27)同上Feb.19.1882のJ. E. Sheffieldの二度目の死亡記事。同サイトに掲載(同日調 査)。
28)太田雅夫「「同志社大学設立の大意」の検討」、『新島研究』97号(同志社大学同 志社社史資料センター第一部門研究、2006年)、p.207.
29)前掲『新島襄全集』4巻(同朋舎出版、1989年)、p.71.
30)新島は後に、HarrisはLearnedの父母の友人であると言い直している。前掲『新 島襄全集』4巻、p.125.
31)前掲『新島襄全集』3巻、p.621.
32)現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善、2000年)、
p.297.
33)中西進「同志社の恩人、ハリス理科学校寄付者 ジョナサン・ニュートン・ハリ ス伝等」『新島研究』38号(1971年).
34)Nathaniel Harris Morgan, Harris Genealogy − A History of James Harris of New London, Conn. And His Descendants ; From 1640 to 1878,(Hartford, 1878). 35)American Book Exchange,Picturesque New London and Its Environs, Groton, Mystic,
Montville, Waterford, At The Commencement Of The Twentieth Century, Notable Features Of Interest Illustrated,(New Londo,n 1901).
36)Portrait of J. N. Harris,Ibid. p.107.
37)Morgan,op. cit.
38)E-mail of Mr. Pat Schaefer New London County Historical Society.
39)ハリスの略歴の出典はここまでMorgan,op. cit.pp.107−108.
40)中西前掲論文、p.27.
41)本脚注含め、以下のハリスの略歴の出典は、脚注にあるもの以外はAmerican Book Exchange.op. cit.pp.75−76.
42)中西前掲論文、p.27.
43)前掲『新島襄全集』7巻、p.216.なお、Moodyと新島の関係について,詳しく は,北垣宗治「金森通倫についての試論」『同志社時報』(No.138)学校法人同志 社,2014年)参照。
44)同論文同頁.
45)Morgan,op. cit.p.109、及び、中西同論文、p.30.
46)中西前掲論文、p.27.
47)Morgan,op. cit.p.107.
48)中西前掲論文、p.27.
49)American Book Exchange,op. cit.p 76.
50)『新島襄全集』6巻(同朋舎出版、1985年)、pp.268−269.
51)『新島襄全集』9巻(上)(同朋舎出版、1994年)、pp.183−184.
52)石光真清『城下の人』(中公文庫、1978年).
53)前掲『新島襄全集』1巻、p.164.
54)1888(明治21)年12月17日付新島宛下村房書簡。前掲『新島襄全集』9巻
(上)、p.588.
55)同書、p.622.
56)ポール・F・ボラー(北垣宗治訳)『アメリカンボードと同志社1875−1900』第3 章脚注119(新教出版社、2007年)、p.268.
57)前掲『新島襄全集』4巻、p.125.
58)クラーク記念館の建設費のためにClarke夫人が最終的に寄附した金額は1万6 千266円26銭2里(当時、ドルと円は同価)であった(本井康博『アメリカン
・ボード200年 同志社と越後における伝道と教育活動』(思文閣出版、2010 年)、p.284.
59)「同志社大学設立の旨意」執筆のために新島が蘇峰に送った「マテリアル」中の 表記。『新島襄全集』3巻、p.648.
60)前掲『新島襄全集』6巻、p.349.
61)前掲『新島襄全集』4巻、p.125.
62)同書70頁及び『同志社百年史』(資料編(2))(学校法人同志社、1979年)、
p.1262.
63)前掲『新島襄全集』4巻、pp.95−96及び前掲『同志社百年史』(資料編(2))
p.1263.
64)前掲『新島襄全集』4巻、p.96.
65)「同志社大学設立募金日誌」『新島襄全集』5巻(同朋舎社出版、1984年)、p.466.
66)前掲『新島襄全集』4巻、p.130.
67)同書、p.141.
68)同書、pp.125−126.
69)末光前掲「ハリスによる10万ドルの寄附をめぐって」p.4.
70)前掲『人間のための科学技術を求めて〜』p.37.
71)末光前掲「同志社ハリス理化学校の内容と使命」p.106.
72)前掲『新島襄全集』6巻、360.
73)新島襄遺品庫目録番号2292番.
74)前掲『新島襄全集』6巻、p.344.
75)1889年9月6日付新島宛Harris書簡。新島遺品庫、目録番号2727番.
76)ポール・グリーシー(北垣宗治訳)『同志社の独立 ミッション・スクールから の脱皮』(新教出版社、2012年)附録8(437頁)の原文。なお原文のコピーは 同書を翻訳された北垣宗治名誉教授から頂いた。
77)新島遺品庫目録番号0318番.p.6.
78)前掲拙稿「大学部としての同志社政法学校」pp.314−320.
79)Harrisの残した言葉の全文は以下の通り。
Seek through your vocation to serve God and humanity. The qualities that go into the doing of good work−patience, self-forgetfulness, a lively sense of responsibility−these also are the quality〔qualities?〕that go into the making of a good man, and without these qualities no man becomes good.(前掲『人間のための科学技術を求めて〜』
口絵p.6.)
(なお、拙稿を査読して下さった島尾永康先生は、本年(2015年)1月6日に急逝さ れた。拙稿の査読が島尾先生の最後のお仕事になったことに感無量である。島尾先生 は特に懇切丁寧にアーモスト・カレッジ時代の新島について指導して下さった。ここ に慎んで感謝と哀悼の意を申し上げ、先生の御霊の天上での平安をお祈りいたしま す。)