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同志社「大学設立義捐金募集運動」再考 : 取扱窓 口となった新聞雑誌についてのスケッチ

著者 田中 智子

雑誌名 新島研究

号 106

ページ 133‑152

発行年 2015‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014634

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−取扱窓口となった新聞雑誌についてのスケッチ−

田 中 智 子

はじめに

明治前期は、全国各地において、新聞雑誌の発行という新たな文化が花開 いた時代である。本稿は、これらを媒介とした同志社大学設立目的の募金活 動の実相と意義に迫ろうとするものである。

本主題に関わる実証研究の端緒を開いたのは、杉井六郎であった。『同志 社百年史』通史編一(1979年)の第九章「大学設立義捐金募集運動」(以下

「百年史第九章」と略)を公にし、後に刊行された『新島襄全集』3・4(書 簡編Ⅰ・Ⅱ、同朋舎出版、1987・1989年)の各書簡に施した詳細な注釈を もって、「百年史第九章」を補っていった。

『同志社百年史』は、第九章の直前に、第八章「同志社大学設立運動」(執 筆担当:井上勝也)を置いている。第八章同様、「同志社大学設立運動」で あるにもかかわらず、別途章立てされた杉井の叙述には、その独特の視角や 手法がよくあらわれ、異彩を放っている。

第八章、あるいは『新島襄全集』1・5(教育編、日記・紀行編、1983・1984 年)において関連書類・日誌類の解題を手がけた河野仁昭の詳細な研究1)

は、京都府下では知事や府吏、府会議員などの有力者、そして大隈重信・井 上馨・渋沢栄一等々に代表される中央の大物政財界人の支援実態に比重を置 いている。

一方で「百年史第九章」は、『国民之友』、あるいは現在同志社社史資料セ ンターが所蔵する「義捐金募集関係帳簿」2)を基礎史料とし、少額の義捐者

・義捐団体の多様な実例を紹介する、統計処理を用いて府県ごとの寄附額を 割り出す、といった試みを披露している。同志社を支えた勢力として、著名

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人とは異なる「地のささめき」を捉えようとしているのである。

「百年史第九章」は、「義捐金募集関係帳簿」の系統性のなさも災いし、い ささか構成力を欠き、連想的筆致であるとの感は否めない。しかし同志社史 を同志社の中に閉じ込めず、広い歴史の文脈へと開く可能性を提示してお り、大いに学ぶべき先行研究であると考える。

さて、同志社大学義捐金募集運動は、各地の新聞社が協力した点を一特徴 とするが、「百年史第九章」においては、同志社側の記録に基づき、各社ご との寄附額や寄附者が断片的に説明されるにとどまる。杉井自身、「いまこ れらの諸新聞のいちいちについて渉猟する機をえないでいるが」(254頁)

と釈明したが、その後も新聞雑誌記事の発掘・収集作業は長く放置された。

近年、この問題の周辺に着目したのは、太田雅夫である3)。太田は先行研 究によって、『国民之友』誌上の「同志社大学設立の旨意」(以下「旨意」)・

その説明記事・「同志社大学義捐金募集取扱広告」(以下「取扱広告」)の掲 載日に対する理解がまちまちであることを問題視し、これらを「三点セッ ト」と名付けて、各紙面における掲載日の確定を試みた。そして、義捐金取 扱窓口とならなかった『時事新報』『東京日日新聞』『読売新聞』もこれらの 一部を掲載したことを指摘した。続いて『東雲新聞』掲載記事の分析に着手 し、これを「同志社大学設立運動を、ジャーナリズムを通して捉えるという 新しい視点」と記した。

太田論文の一節でテーマとされた『北海道毎日新聞』の募金活動について は、その後、小枝弘和が北海道大学附属図書館所蔵の同紙を通じた詳細な検 討に取り組んだ4)。一方、いわば「旨意」への反応という観点から、協力姿 勢を示したわけではない個別の新聞雑誌を素材とした論文も出されるように なった5)

さて、杉井による留保から30年以上が経ち、復刻版やマイクロの刊行、

あるいは国立国会図書館新聞資料室の充実により、新聞雑誌へのアクセス環 境は格段に向上した。今日、地方紙「渉猟」のハードルは、決して越えられ ないものではなくなった。

ただ、いくら手間が減じたとはいえ、当時刊行されていたありとあらゆる 新聞雑誌をめくり、同志社大学設立運動関係の記事の有無を確認すること

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は、目下の筆者のキャパシティをはるかに超える。

そこで当座の方針としてはやはり、『国民之友』第34号(1888.11.16)掲 載の「取扱広告」の意義を重視し、義捐金募集取扱窓口として列挙される新 聞雑誌全体に関する検討を行いたい。具体的には、『報知新聞』『毎日新聞』

『朝野新聞』『東京電報』『改進新聞』『東京朝日新聞』『東京経済雑誌』『東京 輿論新誌』『基督教新聞』『国民之友』である。本来『公論新報』『絵入朝野 新聞』もここに並列されるが、残存する原史料が極端に乏しく、現在系統的 閲覧ができる状態にないので割愛せざるをえない。

また、その後義捐金取次に加わっていったことが広告上で確認できる親和 的な紙誌すべて──『六合雑誌』『朝日新聞』『東雲新聞』『大阪毎日新聞』

『大阪公論』『中外電報』『日出新聞』『京都日報』『神戸又新日報』『女学雑 誌』『海南新聞』『土陽新聞』『福岡日日新聞』『北海道毎日新聞』──も射程 に収める。

ただし京阪神の紙面(上記のなかでは、『朝日新聞』から『神戸又新日報』

までの8紙)の分析に関しては、紙幅ならびに分析視角上の問題から6)、本 稿には含めず、別途公にしたい。また、『基督教新聞』紙上には、実に多く の信徒が義捐者として名を連ねており、「キリスト教界の対応」という観点 から精緻に考察すべきものと考える。よって今回は、同じ警醒社系の『六合 雑誌』と合わせ、そのものについては取り上げず、脇役としての言及にとど める。

本稿はしたがって、下線を付した計14紙誌の同志社にまつわる行動や論 調を総体的に把握し、相対的な位置づけを図ることを目的とするものであ る。であるから、先行研究が紙誌現物を閲覧したか否かにかかわらず7)、対 象紙誌すべてに目を通すことにする。

記事の収集は、『国民之友』が前述の同志社大学義捐金募集の広告を出し た1888年11月から始めることとする。新島の大学設立構想、そして「明治 専門学校」設立運動の開始から「同志社大学」設立運動へと、1880年代全 般を一連の流れとして描く従来の視角の意義は、十分に承知している。だが 本稿は、『国民之友』と同一の広告を通じ、広範な新聞雑誌による募金が開 始された義捐金募集形態の変革期、また帝国大学誕生のインパクトを受けた

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「私立大学」設立の試みの始期として、1888年11月の画期性を重視したい。

募金活動および寄附は、新島没後も続けられ、明確な終着点はない。その ため、史料収集もいわば果てしなき作業となる理屈だが、今回は差しあたっ て、「大学設立義捐金第一回募集」の時期、すなわち応募期限に設定された 翌年4月末日までの約半年間(実際には記載内容の流れから、5〜6月あた りまでを含めた場合が多い)の記事を収集し、検討を加えることとする。

筆者はかねてより、同志社史全般に関する新聞史料収集の遅れは、校史を

「地域史」の一環と捉える視角の弱さと並行していると考えてきた。また、

同志社史を一校史としてではなく、全国的な「教育運動史」として捉えるこ とを目指している。このような視角から『同志社百年史』各章を再構成すべ く、関連論考を執筆してきたが8)、本研究は当該連作の一環でもある。

なお、本稿で取り上げる新聞雑誌については、便宜上、章・節ごとに番号 を振り直さず、①②……の通し番号を付す。また記事を典拠とする際は、煩 雑さを避けるため注に回さず、本文中に年月日を記す形で挿入している。

取り扱う新聞雑誌の多くが、義捐者名を逐一掲載している。「百年史第九 巻」や小枝論文が、特定の紙誌にそくして個人名を列挙していることからす れば、今回扱う14紙誌に連ねられる義捐者名もすべて列挙するのが公平と いえようが、大部となるため、本稿においてはとりあえず見送りたい。

一 東京の新聞

①『国民之友』(民友社)

徳富蘇峰が大学設立運動のブレーンであり、広範な新聞雑誌への協力呼び かけの仕掛け人であったことは、もはや常識に属し、『国民之友』の義捐金 募集実態も、「百年史第九章」が扱っている。ここでは②以下の行論の前提 となりうる指摘をするにとどめる。

『国民之友』に「同志社大学義捐金募集取扱広告」(前述「取扱広告」)が 掲載されたのは第34号(1888.11.16)であるが、すでに同じ号において「十 日迄ノ分」と題し、3件の義捐者の掲載がみられる。他誌に先に掲載された

「取扱広告」に民友社の名が列挙されているのを見て、早速送金してきた義

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捐者があったことによるのだろう。

「取扱広告」はよく知られる史料であるが、同調した新聞雑誌の基本姿勢 を共通に示すものであるので、再掲し内容を確認しておく。

今般同志社大学設立ニ関シテ発起者新島襄氏ヨリ其主旨ヲ普ク江湖ニ告 ゲ同感人士ノ義捐金ヲ募集被致候ニ就テハ各社ニ於テモ其主旨ヲ翼賛シ 右義捐金募集取扱候ニ付篤志ノ諸君ハ多少ニ限ラズ金円相添ヘ各社ノ中 ヘ御申込ミ被成候ハヾ取纏メノ上発起者ニ相渡シ同志社大学設立資金ニ 充テ可申候

一 金円御寄送ノ向ハ之ヲ受取リタル社ノ新聞雑誌上ニ其金高並ニ姓 名ヲ記載シ別ニ受領書ヲ差シ出サズ

一 義捐金額ハ拾銭以上ニ限ル

一 来ル明治廿二年四月卅日ヲ以テ締切期限トス

〔田中注:以下新聞雑誌社名列挙〕

ただし10銭未満の寄附も受け付けられ、4月30日以降も募金は継続した のが実態である。末尾の社名部分において、あえて自社は最後に配置し、謙 虚さを示す新聞雑誌も複数みられたが、以下おおよその並び順に従い、順次 分析を加えていくことにする。

②『郵便報知新聞』(報知社)

「取扱広告」では一貫して『報知新聞』と記されるが、当時の正式タイト ルは『郵便報知新聞』である。

「取扱広告」と「旨意」を1888年11月7日に公にした本紙は、28日より 早速、「同志社大学設立の賛成寄附」と題する義捐者一覧の掲載を始める。

初回には、箕浦勝人・加藤政之助・小栗貞雄といった慶応義塾系の人物が、

揃って1円(本紙への個人寄附最高額)を拠出したことが記される。翌年4 月初めまでに計6回の義捐者一覧掲載が確認されるが(1888.11.28、12.7、

12.12、12.18、1889.1.29、4.3)、第二高等中学校有志生徒(12.7、29名×10 銭)、富山県尋常中学校有志一統(1.29、11円65銭)、群馬県佐位那波高等

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小学校職員一同(4.3、3円)といった各地の学校関係者による集団寄附が目 立ち、個人寄附者は全体で10名程度である。締切までに28円25銭が集め られた。

上記一覧掲載の間隔からわかるように、当初は強い協力の姿勢が感じられ るが、年が明けてからは勢いが急速に鈍る。その一因には、慶応義塾の大学 設立運動の開始があると考えられる9)。福沢諭吉らの名による「慶応義塾資 本金募集の趣旨」が掲載されるのは3月5日のことであったが、その後、同 志社への義捐金については特段のてこ入れも行われず、4月末の締切日を迎 える。5月16日には、再締切を11月末日に設定した「同志社大学義捐金の 第二回募集取扱広告」(以下「第二次広告」)が掲載されるが、特に関連記事 はみられず、6月1日からは「慶応義塾学資金広告」と題する募金結果報告 が連日広告欄を賑わせるようになる。くしくも同日の『国民之友』第52号 は、半年の活動成果として、新聞雑誌社別同志社大学義捐金取扱高報告(以 下「第一回報告」)を掲載したが、その成果総額1万余円との数字は、千円 単位での申し込みも相次ぎ、10日のうちに交詢社内慶応義塾学資募集掛に

49513円を集め(1889.6.11)、千円単位での申し込みも相次いだ慶応義塾の

前に、吹き飛ばされてしまいそうである。

大学設立運動開始当初は、慶応義塾関係者が運動に関心と好意を寄せてい たが、慶応自身の大学設立計画の勃興と引きかえにそれが退潮していったこ とを、本紙はよく示している。

③『毎日新聞』(毎日新聞社)

本紙も『郵便報知新聞』同様、1888年11月7日に「取扱広告」「旨意」

が揃い踏みし、25日より「同志社大学校設立費義捐人名」が紙面に載り始 める。翌年5月下旬に至るまで計10回掲載された一覧では、総計約130人 の名が確認され、うち6割以上が上州の寄附者である(1888.11.25、11.28、

1889.1.12、1.24、2.3、2.9、3.2、3.3、4.7、4.21、5.1、5.24)。ここには三重 県南牟婁郡の私立教育会員18名による醵金も含まれる(1.24、2.3)。「第一 高等中学校英予科3級2の組有志」の寄附もあり(3.3)、上州以外の地域で は、福島県下からのまとまった寄附が認められる(4.21)。

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本紙は「第一回報告」を公表した数少ない新聞であり(1889.5.22)、「第二 次広告」も続いて掲載される(5.24、5・27)。「第一回報告」によると、本 紙を通じて124円68銭が集まった。民友社やキリスト教系の警醒社を除け ば、東京の新聞雑誌中、出色の成績であるが、上州人の窓口となったことが 大きいといえよう。慶応義塾募金関連の報道もみられるが(1889.3.13、ただ し募金趣旨は掲載なし)、『郵便報知新聞』とは異なり、その影響はほとんど 見出せない。

④『朝野新聞』(朝野新聞社)

多数の読者を獲得していた本紙も、②③同様、1888年11月7日に「取扱 広告」「旨意」を公告し、13日には「同志社大学へ義捐金人名」の掲載に至 る。その中には「尺振八亡妻」の名もある(5円)。18日には、長野県尋常 師範学校生徒有志者より10円60銭が寄附された。だが以後、締切直後の

「同志社大学義捐金人名」(1889.5.3。米沢からの33件。米沢義社、私立米沢 中学校を含む)掲載にいたるまで、約半年もの間、寄附人名録はみられな い。また、本紙を通じた義捐総額は、「第一回報告」では30円弱と多額とは いえず、第二回募金の報道も広告ではなく記事として示されるにとどまるが

(1889.5.2)、紙面には全体的に同志社への好意がただよう。

年始には、北海道千島国紗那郡の篤志家河内敬太郎の寄書が掲載された

(「私立大学の義捐金」1889.1.1)。新島とは面識もなくキリスト教徒でもない が、その志望に投合したと述べ、毎年寄附する所存であること、2人の幼い 息子をいずれは同志社に入学させたいことを告げ、次の5月における20円 の寄附を約したものであった。あるいは、同志社から送付されたという彰栄 館・図書館・講堂の写真に対し、見事な建物だと評している(「同志社建物 の写真」1889.1.12)。

本紙には「慶応報道資本金募集の趣旨」の掲載もみられるが(「慶応義塾 の改良」1889.3.5)、同志社・慶応に続くものとして英吉利法律学校・東京専 門学校・明治法律学校の改革動向を取り上げるなど(「私立学校設立の企」

4.12)、私立全般の動向に対するフラットな視線を感じさせる。

(9)

⑤『東京朝日新聞』(東京朝日新聞社)

本紙に「取扱広告」が掲載されるのは1888年11月7日のことであるが、

復刻版に関して言えば、前後の日を含めても「旨意」その他は見当たらな い。原本に別刷附録があったのかもしれないが、太田の述べる「三点セット の同日記載」に関しては、再度何らかの方法による点検が必要である。

『東京朝日新聞』にはほとんど協力的な姿勢が感じられず、義捐者一覧が 掲載されたこともない。「第一回報告」にも社名・達成額が挙がらないこと が、それを裏付ける。約半年間の同志社に関する報道は、帝国大学という存 在を動揺させている私立大学設立構想主体の一例として(「帝国大学の将来」

1889.3.12)、あるいはハリスによる理化専門科開設についての記事がみられ る程度である(「同志社大学」1889.5.16)。ただし、「第二次広告」だけは、

きちんと載せている(1889.5.12、5.15)。

1888年7月に大阪の朝日新聞社に買収され、改称間もなく、お付き合い 程度に「広告」掲載という協力のポーズを示しはしたものの、それ以上は特 に何かするほどのスタンスを有していなかったのが、当時の『東京朝日新 聞』という媒体ではなかったかと想像される。

⑥『東京電報』(東京電報社)

本紙は1888年11月7日、新島の言を引用しながら、「私立大学校の計画 及び同志社の発達」と題する論説を一面トップに掲載し、同志社大学設立運 動への支援姿勢を明確に打ち出している。この論説は、「官治」と「民治」

との概念を用い、①「官治」の帝国大学は、政略に左右され、十分な効用を 与えうるか疑問があること、②官立物には師弟の情誼がないことなどを述べ て、私立大学主唱者の栄誉を新島及び同志社に負わしめると説く。そして、

新島が仏教の中心においてキリスト教の中心を設け、東京で大学設立の計画 を公にし、他の教育家を瞠然自失させたことは、「奇観」だと表現している。

「取扱広告」は翌8日に掲載され、以下11月末日まで9回に及ぶ。また

「旨意」については、上記の論説が「本号附録」と述べていることから、そ もそもは添付されていたのであろうが、マイクロフィルム上になく、現物は 未確認である。

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しかし12月に入ると関連の情報がほとんどなくなり、本紙自体も翌年2 月9日で廃刊した。2月11日に後継紙『日本』に転ずると、義捐金取扱窓 口となる件は引き継がれなかったとみえ、広告等は一切掲載されていない。

⑦『改進新聞』(三益社)

本紙は当該期に広く購読されたものの、月単位での欠落があるなど残存状 況が悪く、歴史過程について確定的なことがいえないが、可能な範囲でその 特質を述べておこう。

1888年11月7日に「取扱広告」が掲載されているが、「旨意」は見当た らず、9日には早速、府下より1名(1円)の拠金があったことが確認でき る。だが、翌年4月末までの合計額は4円30銭であり、活発な活動や強い 協力は認められないと考えてよいのではないか。

⑧『東京経済雑誌』(経済雑誌社)

徳富蘇峰の『将来之日本』(1886年)を世に送り出した当社も、1888年11 月10日の「取扱広告」「旨意」掲載をもって、義捐金報道を開始する。「取 扱広告」は4月の締切までに計9回掲載された。1889年1月中旬からは、

「同志社大学義捐金広告」と題する義捐者一覧が計5回載り(1889.1.12、

1.26、3.2、4.20、5.4)、主宰者田口卯吉(10円)をはじめ、8人の名が挙が

っている。居住地は多様であり、総計28円50銭が集まっている。独自の支 援記事は書かれていないが、同志社への好意的な扱いが感じられる。「取扱 広告」や義捐者一覧は、巻末掲載のケースもあるが、表紙のタイトル下3分 の2ほどのスペースを用いて配置される号も散見し、後述の『女学雑誌』以 上に、誌面上の押し出しが強いのである。

『東京経済雑誌』には論争を重視する性格が認められ、同志社に関係して、

二つの議論が闘わされている。ひとつは、本誌と民友社との論争で、民友社 が精神的文明と物質的文明の価値に対し、結局は前者に若干の軍配を上げて いる点、「精神的文明」の語義が不鮮明である点を批判している(「精神的の 文明と物質的の文明と同価」1889.1.19、「観察点を異にするも自家撞着に到 るなかれ」2.9、「精神的の文明」3.2)。さらにそこから派生して、「『国民之

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友』が同志社大学に熱心するが如き方法」(すなわち募金運動を指す)は、

精神的文明を重んずることに属するのか、という問いに至っている。

今ひとつは、匿名者 O.S.C. による投書「同志社寄附慈善音楽会の不経 済」の掲載である(1889.5.11)。この人物と佐々城豊寿との応酬は、数週間 後に『女学雑誌』へと発展的に転載されるので、そちらで扱うことにする。

いずれにおいても、本紙には一種の経済主義が貫かれていることがうかが われ、民友社との論争をふまえれば、「精神教育」の語には必ずしも賛同し ない立場であったといえる。だが、1889年2月11日に創刊された『日本』

について、「〔国家主義の主張については同意するけれども〕痛く基督教を駁 撃し其信徒を非難し、恰も売国臣視するが如きに至りては、豈に苛酷に過る 者に非ざる耶、又同志社大学設立者が外人の補助を受くるを悲憤し筆を投じ て剱を撫するの慨ありとは、少しく早やまりたる者に非ざる耶」と批判し、

「基督教豈夫れ此の如く恐る可き者ならんや、同志社大学豈夫れ亡国の一分 子たるものならんや」と総括しており(「「日本」と保守新論」1889.2.16。読 点筆者)、同志社に対してユニークな位置どりを示した媒体であったといえ よう。

⑨『東京輿論新誌』(嚶鳴社)

本誌も1888年11月7日に「取扱広告」「旨意」を掲載している。しかし、

以後半年の誌面のうちに、義捐者一覧や関係記事などを発見することができ ない。ただ、「取扱広告」は締切までに再掲している。このように、特段の 協力姿勢も見せず、金銭的成果も挙げなかった本誌であるが(したがって自 社名は登場しないにもかかわらず)、「第一回報告」は律儀に掲載している

(1889.5.29)。また「第二次広告」も5月1日以来翌月まで、数次にわたって 広告している。以上のことから、『東京朝日新聞』と同種の、お付き合いの 論理による関わり方であったと考えてよいのではないか。

⑩『女学雑誌』(女学雑誌社)

『女学雑誌』は最初の取扱窓口には入っておらず、いわば自主的にこれを 引き受けた雑誌社であり、その意味で特異な存在である。1888年12月29

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日になって自誌・自社名を末尾に付記した「取扱広告」を掲載し、以後、4 ヶ月後の締切まで数度に及んだ。裏表紙の下半分をこれに充て、常に目立つ 位置に掲げている。

年明けになって、取次を行う旨が記事となったが(「同志社義捐金」、

1889.1.12)、ここでは同志社女学校の実績(教授陣や生徒数、財政、校地建 物面積など)が併せて紹介されていることが特徴的である。一方、「旨意」

そのものは掲載されない。

「同志社大学寄附金」と題する寄附者一覧は2月から登場し、締切まで8 回に及ぶ(1889.2.16、2.23、3.2、3.16、3.30、4.6、4.27、5.4)。第1回には 巌本善治(5円)、第2回は木村駿吉(2円)の名が認められる。これらを計 算すると、計68人+4件となるが、明治女学校関係者が判明するだけでも 半数以上を占め、「○号室」といった寄宿舎の部屋単位での醵金も散見する。

5 月 に 入 る と 、「 第 一 回 報 告 」「 第 二 回 広 告 」 が 続 い て 掲 載 さ れ

(1889.5.25、5.18)、『女学雑誌』は募金の第2段階へ引き続き関わっていく。

月末にはすでに「第二回広告」への呼応者も登場した(6.1)。

なお『女学雑誌』は、クリスチャン女性たちが募金のために開催した「慈 善音楽会」をめぐる論争の場となった。この音楽会については、『基督教新 聞』(1889.3.13)が、その発起旨趣を報じていることが知られている。発起 人は佐々城豊寿と潮田千世(勢)で、9名の賛成人──湯浅初・徳富静・伊 勢玉・工藤さの・相良龍・本田孝・小野寺千賀・元良米・小崎千代を伴っ た。彼女らは、教育は独り男子専有の事業にあらず、われわれ姉妹も殊に精 神的教育事業を忘れてはならないとし、「新島君」の美挙である大学設立費 の万々一に供するために、3月14・15日の2日間、厚生館での慈善音楽会 を計画した。切符は女学雑誌社のほか、民友社や警醒社でも販売され、上等 1円、中等50銭、下等30銭の値段が付けられた。

金銭的成果は、「東京有志音楽会」からの寄附103円22銭として『国民之 友』が受け取ったが(第50号、1889.5.12)、この額をめぐり、先述したごと く『東京経済雑誌』上に匿名の投書が掲載され、それは『女学雑誌』にも飛 び火した(5.28)。なるべく多くの婦人に知らせてほしいという投書者の希 望を要れ、『東京経済雑誌』編集に関わる伴直之助が、『女学雑誌』に回覧し

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たのである。伴は専門の経済学だけではなく婦人問題にも関心をもち、『女 学雑誌』にもたびたび投稿経験があった。

「同志社大学寄附慈善音楽会の不経済」と題するこの投書は、「売券料」と

「紳士寄附金」による302円余りの収入のうち、約103円しか同志社への寄 贈金とならず、同志社への寄附を望んだ有志拠金の3分の2は、どこかへ消 費されてしまったと批判するものであった。

これに対し佐々城豊寿は、「O.S.C君に答ふ」と題する長文の釈明を一度 は試みたが(『東京経済雑誌』1889.5.25)、『女学雑誌』においては論調を一 変させてさらに大きく加筆し、自分がいかに無知であったかの一例であった と位置づけた(「同志社大学寄附慈善音楽会の不経済と題する投書に答ふる 発起人の主意書併せて伴直之助君の好意を謝す」6.1、6.8)。

佐々城が、音楽会を開くこと自体に関心があり、同志社を客寄せの手段に 利用したのかどうかは不明である。しかし「百年史第九章」でも記されるよ うに、彼女はすでに『国民之友』を通じて、2人の娘の分を含め計5円30 銭を寄附しており(第40号、1889.2.2)、匿名生の指摘を受けると、動揺の あまりかもしれないが、さらに寄附のつもりがあるのだと述べている。ま た、新島本人とは、謝状や報告のやりとりが行われ、関係は良好である10)

二 地方新聞

京阪神のみならず、四国・九州・北海道といった地域において、同志社大 学設立義捐金取扱の窓口となる地方紙(いずれも民権派機関紙としての性格 を有した)が登場した。次に、それらの報道について順次検討を加える。

⑪『海南新聞』(海南新聞社)

伊予地方を販路とする本紙においては、1888年11月10日、「私立大学」

との記事が掲載され、広く義金を募るための趣意書が新島より頒布されたこ とが報道された。『国民之友』は松山の「特別大売捌所」広道館にて頒布さ れており、「旨意」等を掲載した第34号の発行も『海南新聞』上で宣伝され ている(11.22)。

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「取扱広告」が紙面に登場するのは12月2日のことであり、東京や京阪神 の諸新聞の末尾に、紙名・社名が追記される体裁であった。以後、翌年1月 23日まで計19回、連日のように同一の広告が掲載される。

その後、「取扱広告」はしばらく消えるが、2月24日より突如復活する。

はげむ

この月の15日より、同志社の神学科生、山中百が遊説に出かけ、22日には 県会常置委員の長屋忠明に新島から依頼状が送られたこととの関連がうかが われる11)。長屋は本紙の後援者でもあった。

さらに紙上には、「同志社大学校設立に付県下の有志者に勧告す」と題し、

義捐を勧奨する論説が掲載された(3.2、3.3)。『海南新聞』は当初から「旨 意」を掲載したことはなかったが、ここでその大意を紹介している。そし て、「余輩は素より同志社に縁故なき者にして又宗教家にも非ず」と弁明し た上で、キリスト教拡張・伝道師養成が目的であるとの風聞もあるが、この たび企図される大学は宗教機関ではないと否定し、いまだ送付するほどの金 額に達していない義捐実態に言及して募金を促すのであった。

2月24日に復活した「取扱広告」は、4月30日の締切当日まで計25回、

再び連日のごとく掲載され、最後は、締切間近であることに注意を喚起する 文章にアレンジされた。

「百年史第九章」では、『国民之友』に対し、今治から広がる愛媛県下から の醵金が目立つことが指摘されている。一方、第1次募集に応じて『海南新 聞』に寄せられた金額は、計77円52銭5厘であり、5度にわたって掲載さ れた人名録を通算すると(「同志社大学義捐金」、1889.3.24、4.20、4.23、

4.28、5.1)、106名+有志数名となる。最高額は山内豊盈(容堂の弟)・野田

直幹(松山監獄副典獄)の各5円であり、松山病院からも醵金があった。

⑫『土陽新聞』(土陽新聞社)

高知県を本拠地とする本紙は、1888年11月10日から16日にかけて、

「旨意」を5回に分けて連載した(付表は除く)。初回は「私立大学」との見 出しにより、広く義金を募るための趣意書が新島より頒布されたことを前文 で示している。

「取扱広告」は、12月20日に単独社名で掲載されたが、25日からは東京

(15)

や京阪神の各紙と併記されたものとなった。ただし、少し前に「取扱広告」

に名を連ねはじめた前述『海南新聞』の名は見られず、自社を末尾に置いて いる。隣県同士の新聞ではあるが、特に連携した動きをとっていたわけでは ないようである。

「旨意」は当初、単なる紹介記事であり、義捐金取扱窓口となるという協 力姿勢を表明するための掲載ではなかった。いずれ帰省の折に窓口化を取り 計らう旨、在阪の植木枝盛が新島に書き送ったことからもわかるように12)

『土陽新聞』は、年末になるまで主体的な協力団体ではなかったのである。

「旨意」掲載と「取扱広告」掲載の時間差は、そのことを意味している。た だ、「取扱広告」は植木書簡の前日にすでに掲載されているので、窓口化は、

彼の周旋以外の要因があって実現したものと想像される。

「取扱広告」は、12月、翌1月、2月と月末中心に掲載され、3月12日に 至るまで9回に上る。ただ運動に本腰が入るのは3月下旬からであったと思 われる。3月22日に、足立道衛「私立大学の必要」、上代知新「同志社大学 の性質を明かす」を内容とする演説会が開かれた(「基督教演説」、1889.3.

22)。また同日より義捐成果が報じられ始め、吉岡弘毅・本川二郎の2名が

挙がっている。5円を寄附した吉岡は、牧師として滞留中であった。

以後、20回弱にわたって掲載された「同志社大学義捐金広告」(4.14、

4.16、4.18、4.19、4.21、4.24〜5.2、5.11、5.12、5.14、5.16)から算出する と、計97人・1団体、計52円93銭の成果があった。団体とは土佐山東部 婦人修風会(80銭)であり、97人のうちには、土佐教会が集めた義捐金15 名分も含まれる。最高額は、板垣退助の息子鉾太郎(私立泰平学校長)の10 円であった(1889.5.14)。

足立・上代の連名により、義捐者が「僅々暁天ノ星ノ如キ」であることは 慨歎の至りであり、期限を15日に延長するとの旨が広告されている(5.11。

板垣鉾太郎の寄附はその後である)。同志社の募金成果全体についての報道 はあるものの(「私立大学の義捐金」、5.19)、新聞社自体が前面に出た支援 記事はみられず、同じ四国の『海南新聞』に比すれば協力姿勢は弱かったと いえる。キリスト教勢力の主導によって運動は展開し、『土陽新聞』はその 広報の場を提供する、という構図であったと捉えられる。

(16)

⑬『福岡日日新聞』(福岡日日新聞社)

同志社が所蔵する「義捐金募集関係帳簿」には、新聞雑誌社を窓口とした 個々の義捐者記録は原則記されないにもかかわらず、『福岡日日新聞』を通 じた寄附者の個人名が例外的に残っている。そのため「百年史第九章」は、

本紙の活動をとりわけ具体的に記す結果になっている。

本紙において、「旨意」は1888年11月10〜14日に連載される(付表は除 く)。さらに16日には、紙面トップの社説「同志社大学設立の計画」におい て、キリスト教徒でも新島の知友でもないが、宗教・政治いずれの機関でも ないことを明言した新島の挙に賛意を表するとの旨がうたわれている。この 間の記事は新島に送られ、新島から謝状が送付された13)

「取扱広告」は、11月30日に文面同一・単独の社名で掲載され、以来2 月7日まで平均1週間間隔(計8回)で続けられた。特徴的な点は、12月22 日になると、山門郡や柳川の読者が義捐金郵送の手間を省けるよう、柳川の 森信夫方の広津友吉を窓口とする旨、社名での「特別広告」が発せられたこ とである14)。これが、『福岡日日新聞』に寄附した義捐者の個人名が、例外 的に同志社側の「義捐金募集関係帳簿」に存在する理由ではなかろうか。つ まり、代理窓口広津の手を通した分のみが、彼によって同志社に持ち帰られ ることになり、したがって帳簿に記載されるに至った、との推測が成り立 つ。「百年史第九章」が、「多くは柳川の人」との分析に導かれたのも当然と いえよう。それは間違いではないものの、帳簿には広津経由の分のみが載 り、『福岡日日新聞』が直接集めた分が載らないのだから、ますます柳川出 身者が多く見えるはずである。

本紙上では、同じく「特別広告」とのタイトルの下、義捐者の一覧が逐次 掲載された(1889.1.6、1.11、1.23、2.15、3.2、4.16、4.23)。このうち一部の みが、「義捐金募集関係帳簿」に記載される個人名(「百年史第九章」255〜258 頁)と符合する。「百年史第九章」は2月21日分までで133円20銭とする が、実際の応募は締切間際まで続き、新聞に掲載される4月23日の分まで を加算すると、170円30銭となる。

「取扱広告」も、広津を窓口とする旨の「特別広告」も、2月3月とコン スタントに掲載されたが、4月に入るとさらにスパートがかかり、数日と措

(17)

かずに紙面に登場するようになる。そして締切を過ぎるとすぐに「第二次広 告」が掲載されだし、『福岡日日新聞』の募金活動は途切れなく続いていく

(1889.5.2〜)。

同志社側の「義捐金募集関係帳簿」に個人名が残るがゆえに、運動が盛ん だったと理解されてきた『福岡日日新聞』であるが、地元紙に依拠しても、

やはり活発な義捐金募集活動が繰り広げられていたことを確認できた。

しかし、同時期に掲載された「修猷館維持費特別寄附者姓名広告」(5.26)

が、1回で2000円以上の金額を集めていることを念頭に置くなら、地域自 身の教育に対する動きとしては、同志社への募金はそれほど大きなものとは いえないことも理解しておくべきだろう。

⑭『北海道毎日新聞』(北海道毎日新聞社)

1888年12月1日に「取扱広告」を掲載し義捐金取扱窓口となる本紙は、

特に強力な支援活動を繰り広げた新聞である。一貫して単独社名での広告を 続け、翌年5月15日には自発的に締切延長を設けるなど、独自の活動が際 立つ。金額的にも、在京各社をしのぐ成果を挙げた。具体的掲載内容につい ては、太田に続く前述の小枝論稿が詳しいので、そちらに譲りたい。そこで 指摘される札幌農学校・札幌基督教会関係者らとは別に、坑山労働者階層か らも寄附が集まったことが地域の特性として目を引くことのみ、追記してお こう(「同志社大学設立費寄附人名第十七回報告」1889.4.26)。

むすびにかえて

以上、1888年11月から1889年5月にかけての時期に、東京や地方の新 聞雑誌が同志社大学義捐金募集運動に示した協力姿勢、あるいは報道の実態 を整理してきた。理解の便を図るため、諸記事の掲載日や集金状況をまとめ たのが表1である。

義捐金取扱窓口を引き受けるということは、同志社大学設立構想への賛意 を行為にあらわすことであった。東京府下において、10を超える新聞雑誌 社からそれが取り付けられたことは事実であった。特異な民友社や女学雑誌

(18)

社は別として、旗振り役に躍り出るほどの新聞雑誌社はなく、幽霊支援社と でも呼べそうなケースも見受けられたが、総じて「そこそこ」の好意が寄せ られていた。ただその好意が、いわば頼りなさを伴ったものであったこと は、『郵便報知新聞』の事例に顕著だといえよう。

同時代の新聞『日本人』は「私立大学の計画」において、「〔同志社大学の 発企ありといえども〕宗教の臭みを帯ぶるにあらざるやの嫌ひを懐き、未だ 一般の望みを傾むくるに至らざるものあるを奈何せん」「今又更に府下にお いて純然たる私立大学の起らんとするを聞き、余輩は欣舞に堪へざるなり」

と論じている(1889.2.3)。かたやキリスト教への警戒感・忌避感はたしかに 存在しており、別の大学設立計画が出て来たならば、「そこそこ」あった好 意を別の方向へと難なく振り向けてしまうという、あいまいな思想状況が存 在していた。

東京の新聞雑誌に集まった義捐金は、府下の諸学校関係者を除けば、多く 表

1

義捐金取扱窓口となった新聞雑誌(本稿取上分)の活動状況一覧

新聞雑誌名 取扱広告掲載 「旨意」の掲載 第一次寄附高

① 国民之友

11月16日 11月16日 2708.85.6

② 郵便報知新聞

11月 7

11月 7

28.25

③ 毎日新聞

11月 7

11月 7

124.68

④ 朝野新聞

11月 7

11月 7

29.60

⑤ 東京朝日新聞

11月 7

日 附録?(原資料未確認) ─

⑥ 東京電報

11月 8

11月 7

日附録?(原資料確認不能) ─

⑦ 改進新聞

11月 7

日 ×?(原資料確認不能)

4.30

⑧ 東京経済雑誌

11月10日 11月10日 28.50

⑨ 東京輿論新誌

11月 7

11月 7

日 ─

⑩ 女学雑誌

12月29日

×

50

⑪ 海南新聞

12月 2

日 ×

77.52.5

⑫ 土陽新聞

12月20日 11月10〜16日(付表なし) 52.93

⑬ 福岡日日新聞

11月10〜14日 11月10〜14日(付表なし) 170.30

⑭ 北海道毎日新聞

12月 1

12月 1〜5

日(付表なし)

226.30

(単位:円。小数点以下は銭、厘。)

(19)

は地方から寄せられたものであり、発行地の意思のあらわれとはいえない。

だが地方紙に寄せられた義捐金は、その地域の人々の意思のあらわれであ る。地方紙のなかには、東京の一般紙誌が示せなかった運動の華やぎと現実 の金額実績を残すものもあった。

本稿は、同志社関連紙誌の傾向を大づかみに捉えることを目的とするもの であり、それぞれを表面的に概観したに過ぎない。報道姿勢や募金成果の違 いをもたらした時代的・地域的背景、人脈などを精緻に考察することが課題 となる。

とりわけ、地域教育との関わりという問題を、森有礼文政下における地域 の中等教育体制再編期であることとからめて追究したいと考える15)。義捐者 リストに確認される多数の教育関係者は、来たるべき「同志社大学」設立に どのような教育上の期待をかけていたのであろうか。

当時の社会において、新聞による義捐金募集は比較的頻繁に行われてい た。たとえばノルマントン号沈没や磐梯山噴火のような社会的大事件におけ る被害者救済のため、あるいは地域のインフラ(学校設置を含む)やモニュ メント建設に際しての義捐金広告を、各紙に見出すことができる。多くの地 方の人々にとって無関係な土地に所在する同志社への義捐金が、そこにどの ように食い込み得たのであろうか。「全国民の力を藉りる」ことを志す新島 への感動のみが、義捐を決意させたわけではあるまい。以上の点をふまえれ ば、「百年史第九章」が、各府県からの同志社進学者統計表を最後に付した 慧眼に、あらためて敬服せざるを得ない。

さらに今後の課題としては、本稿で言及した範囲外の新聞雑誌について も、地道な検索を継続することが挙げられる。第1に、アメリカン・ボード のステーション活動を通じ同志社とゆかりが深い地域の新聞が対象となる。

別稿に委ねた『神戸又新日報』に加え、岡山の『山陽新報』、蘇峰の郷里の

『熊本新聞』、東華学校設立募金に協力した『奥羽日日新聞』などは、運動の 成果や具体的な人脈が諸記録から明らかであるだけに注目される。第2に、

教育界の雑誌である。すでに、広く読まれた『教育時論』『大日本教育会雑 誌』の当該期発行分に関しては、彙報や広告も含め、同志社大学設立義捐金 募集自体を広報した記事はないことを確認している。対象とする時期や雑誌

(20)

を広げ、同志社の大学構想に対する教育界の対応を明らかにしたい。そして 第3として、仏教系の雑誌も将来的な検討候補に挙げておきたい。

1)「新島襄の大学設立運動」(一)〜(八)『同志社談叢』9〜16号(1989〜1996年).

2)「百年史第九章」の叙述では、「明治専門学校義捐金姓名簿」計

6

冊、「同志社大 学義捐者県別姓名簿」、「同志社大学義捐者姓名簿」、「同志社大学義捐金姓名帳 第二回募集ノ分」「同志社大学義捐金者名簿」の存在が知られる。本稿ではこれ らをまとめて「義捐金募集関係帳簿」と称することにする。

3)太田雅夫「同志社大学設立運動」『新島襄とその周辺』2章(青山社、2007年).

4)小枝弘和「北海道における同志社大学設立運動−『北海道毎日新聞』を手がかり に−」『新島研究』99号(2008年).

5)雑誌『日本人』掲載記事を検討した岡林伸夫「「同志社大学設立の旨意」に対す る論評とその解題」『同志社談叢』14号(1994年)、宮﨑晶行「『保守新論』の風 景−「同志社大学設立の旨意」をめぐって−」同

19

号(1999年)など。

6)従来、同志社の募金活動は、明治専門学校構想から大学構想へ、という流れにお いて捉えられてきたが、筆者は、同志社による義捐金活動形態の展開を理解する ためには、1886年から翌年にかけての京都看病婦学校あるいは東華学校(宮城 英学校)の設立募金運動を、歴史過程の一段階として組み込まなくてはならない と考える。注

8)③は、京都看病婦学校設立運動において、京都・大阪・神戸・

岡山の社会あるいは新聞がどのように動いたかを追った論考であり、当該地域に ついては、その実態を前提条件としてふまえた大学設立義捐金問題の分析が必要 だといえる。

7)太田の著書では、どの新聞雑誌の現物閲覧が行われたのかが明示されていない が、『新島襄全集』収録の諸資料や『国民之友』記事などを組み合わせることで 導かれた結論もあると察せられる。叙述から推測するにおそらく、この中では

『国民之友』『東京経済雑誌』『基督教新聞』『六合雑誌』『東雲新聞』『北海道毎日 新聞』、そして募金窓口ではない『東京日日新聞』『時事新報』『読売新聞』に限 り、現物に基づく「三点セット」掲載の有無と掲載日の点検が行われたのではな かろうか。

8)①「東華学校史再考−「半県半民」学校の射程−『一八八〇年代教育史研究年報』

3

号(2011年)。後に補筆改題の上、拙著『近代日本高等教育体制の黎明 交錯 する地域と国とキリスト教界』(思文閣出版、2012年)終章として収録、②「明

(21)

治中期における地域の私立英学校構想と同志社」『キリスト教社会問題研究』60 号(2011年)、③「京都看病婦学校開設運動の再検討−地域の支持形態に着目し て−」同

61

号(2013年)。また時代は下るが、④「戦時同志社史再考−運営体 制の分析から」同

62

号(2013年)も、財界という地域的要素を若干意識した。

新聞雑誌記事の発見により同志社史に一つの新事実を付け加える、というのでは なく、同志社史全体を描き直したいと考えているのである。

9)同志社と慶応の問題については、本井康博「新島襄と福沢諭吉」『新島襄と徳富 蘇峰−熊本バンド、福沢諭吉、中江兆民をめぐって−』(晃洋書房、2002年)な どを参照のこと。

10)佐々城より新島宛

1889

4

17

日、5月

1

日付書簡『新島襄全集』9巻〈下〉

(同朋舎出版、1994年)および「同志社大学設立募金日誌」(本文前掲『新島襄 全集』5巻所収)の

5

6

日の項参照。

11)同上「日誌」参照。

12)植木より新島宛

1888

12

21

日付書簡(前掲『新島襄全集』9巻〈上〉).

13)注

11)に同じ。

14)広津より新島宛

1889

1

1

日付書簡(前掲『新島襄全集』9巻〈下〉).

15)注

8)拙著第Ⅱ部を参照。例えば愛媛県では、伊予義会による中学校設置運動が

おこり、同じ時期に募金活動を繰り広げている(荒井明夫『明治国家と地域教 育』吉川弘文館、2010年)。それとの関連を無視して、同志社への募金の意味を 読み解くことはできないだろう。

参照

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