山本覚馬と新島襄II
著者 井上 勝也
雑誌名 新島研究
号 103
ページ 3‑26
発行年 2012‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013038
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序
「山本覚馬と新島襄Ⅱ」では1875(明治8)年4月、新島と山本が出会っ て意気投合し、同志社英学校の開校とその後の発展に向けて二人が渾身の 力をふりしぼって一つ一つ困難な問題を解決していく道程を描くことを目 ざしている。新島だけでは全く不可能な事業を進めるにあたって、山本と いう強力な援軍を得たことが、新島にとって誠に幸いであった。
これまでの先行研究では同志社の創設と発展は新島と山本とデイヴィス の三人によってなされたという言説が定着している。私はこの言説を否定 するものではないが、とりわけ創業期の同志社にあって京都府の権知事槇 村正直との交渉や天皇制国家体制の樹立に向けて準備をしつつ、重要な各 国との条約改正上キリスト教の取り扱いに苦慮する明治政府、そして文部 省との交渉には、自分の良心に忠実に生き、国家権力にも果敢に戦いを挑 む新島と、海千山千で人の心の内を読み、将来展望の利く山本のコンビが 不可欠であったといえる。
私は既に「新島襄の畢生の事業─開始にあたっての努力・忍耐・苦悩・
祈り」を『新島研究』第100号(2009.2刊)に載せているので、本稿は1875
(明治8)年4月に新島と山本が出会って11月に念願の同志社英学校の開 校に至る部分は可能な限り内容の重複を避ける。しかしその後の研究に よって得られた新しい発見や解釈は適宜補足して、全体の理解を深めるよ うに努めたい。
井 上 勝 也
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1)新島襄と山本覚馬の背景
18世紀のアダム・スミス(Adam Smith, 1723-90)は『諸国民の富』(The Wealth of Nations)の中で、神の「見えざる御手の導き」(4編2章)とい う表現を使い、以後キリスト教界ではしばしばこの表現が使われる。明治 8年4月上旬、京都の地で新島と山本が運命的な出会いをしたことはまさ に「見えざる御手の導き」であり、同志社英学校の創設を可能にした。
新島襄(1843-90)は幕末江戸にあって幕藩体制の諸矛盾をもろに受け、
封建的桎梏に窒息しそうになっていた。下級武士の彼は自分がおかれてい る状況が何に起因するかを冷静に認識し、清国から(密)輸入される漢文 で書かれた書を理解することができた。彼が読んだ数ある書物の中で、キ リスト教関係の書と共に、アメリカの歴史や地理や文化を紹介する『連邦 志略』から強烈な印象を受け、アメリカへの憧れを強めた。彼は世界の現 状を知り、日本の在り方を考えるにつけて、当時の若者のように尊皇攘夷 や倒幕の運動に走ることなく、彼独自の道を勇猛果敢に歩むことを決意し た。それは官憲に見つかれば命を奪われる危険な密航という選択肢であ り、国禁を犯すという大罪であった。彼は21年間住んでいた江戸とは対極 にあるアメリカのニューイングランドに1865(慶応元)年到着した。そこ で彼は中等・高等教育を受け、専門の神学教育を受け、正式なキリスト者 になり、1年余岩倉使節団の随員となって米欧8ヵ国の教育や文化事情を 調査して廻った。9年間の米欧滞在中に彼は大学の果たす役割が近代国家 の形成に如何に大きいかを、彼が在籍したアーモスト・カレッジを始め多 くの近代国家の大学を通して実感した。このような日本、米欧での貴重な 体験が帰国後の彼の生き方、行動を決定づけたのではないかと考えられ る。
他方山本覚馬(1828-92)は佐幕藩である会津藩の大砲頭取として兵学を もって身を立ててきたが、彼は視力を失い、会津藩が官軍によって徹底的 に攻撃を受けた。鶴ヶ城を始め会津の街が破壊されて彼は敗者の側に突き 落とされたが、1868(慶応4)年薩摩藩邸内に幽閉中に「管見」を著わし、
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近代国家のビジョンを公けにした。彼は二度にわたる江戸勤番や長崎への 遊学で国の内外の情報を収集し、藩主松平容保が京都守護職に命ぜられる と藩主に同行した。彼は西洋列強による外患を意識しつつ、幕藩体制崩壊 寸前の日本の都の治安を維持するという大役を命ぜられた。とりわけ蛤御 門の変や鳥羽伏見の戦いで兵学によって治安の維持をはかることの限界を 痛感した彼は、高度な政治力が必要であるという貴重な体験をした。
新島が9年に及ぶ米欧とくにニューイングランドでの生活を通して到達 した結論は、近代国家の形成は自立した人民によってなされ、国家のリー ダーとしての牽引車役は私立の大学でキリスト教主義の全人教育(liberal arts education)を受け、良心と良識を生きる指針とし、人民や国家の安寧 のためには、時には自己犠牲を厭わない人物であると考えていた。当時の 明治国家が官立の東京大学をつくり、そこでは国家の命令に忠実な官僚を 育成して、彼らが国の方針をtop-downで末端の府県に伝達する、或いは府 県の責任者になって末端の市町村に方針を伝えることを使命とするのに対 して、新島の発想はその逆であった。彼は人民の真摯な要求を汲み上げて 国家の方針を構築し、人民のための国家の建設に貢献する政治家、行政マ ン、法律家、教師たちの育成を真剣に考えるといったbottom-up方式であ る。これは日本の歴史と風土には馴染まないデモクラティックな国家観で あった。彼にとって近代国家は国家に忠良な人民によってではなく、主体 的な人民によって構成され、時には国の方針を批判し、変更を求める見識 と勇気と実行力をもった人民でなければならないと考えた。彼は1874(明 治7)年祖国日本に帰ってこのような人物の育成を畢生の事業にかかげ、
1890(明治23)年に亡くなるまで、ただひたすらその実現に向けて驀進す るのである。
2)京都府の近代化と山本覚馬の「管見」
京都府は東京遷都後の寂れた京都を活性化させるために山本覚馬の「管 見」に示された先見性と近代国家構想を利用しようとして、1870(明治3)
年彼を京都府の顧問に採用した。彼は1872(明治5)年以降博覧会で入京
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の心の空洞を満たし、新しい生き方を示唆するものとして大変重要になっ ていった。彼は宣教師たちから漢訳聖書をプレゼントされたかも知れな い。彼らが京都府顧問である山本に接近し、彼をうまく利用してキリスト 教に門戸を閉ざしている京都の地を解放させるために、彼への宣教を始め 懸命の努力をしていたからである。
山本は明治8年4月、新島に会う前に宣教師ゴードンから『天道溯原』
を贈られ、それを読んでもらって意識変革を起こす程のショックを受け た。キリスト教入門書である本書は山本の儒学の知識や外国事情に精通し ていたことが理解を早めたと考えられる。前述のように彼は漢訳聖書の予 備知識をもっていたのではないか。もっとも彼の口から聖書を読んだ(読 んでもらった)という発言は見あたらない。彼がそれまでに無意識に探し 求めていたものがこの『天道溯原』から見つかり、彼にとって「やっと朝 が来た」1)のである。
幕末、個が抹殺されていた日本にあって、もっとも大切なものは自分の 心、魂に忠実に生きることであり、耶蘇の教えに生きることであると考え るに至った山本は新島との接点ができ、彼との会話に弾みがついたと思わ れる。
明治8年4月以降、新島と山本は学校設立のために頻繁に会っている が、この場合の学校は単に近代科学(modern sciences)を教える中等教育 機関にとどまらなかった。キリスト教主義の全人教育がおこなわれ、将来 キリスト教を宣教することに生涯をささげる人物や彼の構想する近代国家 の形成を可能にするような主体的なプロフェッショナルの育成を目ざし、
将来大学の設立を考えていることを山本に説明し、同意、賛同を得た筈で ある。山本は「管見」に示したように、当時の国際情勢を的確に把握し、
その上で我が国の近代国家構想を打ち出していたので、新島の遠大な教育 構想を理解することができる希有な人物であった。
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3)西教伝教士を学校教師に雇うこと
明治6年8月に文部省は「西教伝教士ヲ学校教師トシテ不可雇」という 布達第八十七号を出していた。新島の構想する学校は西教伝教士、すなわ ちキリスト教宣教師を雇わなくては開校できなかった。宣教師たちもそれ を当然のことと考えていた。新島にとってこの問題をどのように克服する かが一番むつかしい課題であった。既に明治8年2月の段階で彼は田中不 二麿文部大輔に宣教師を学校教師に雇い入れる件につき打診したが、それ は不可能であるという返事を得ている。2)将来大学に発展させる上での橋 頭堡であり、それが築かれなくては彼の遠大な構想の実現が不可能になる 程重大な問題であった。
山本は京都府顧問として京都府権知事(明治8年7月から知事)槇村正 直の性格をよく知っており、彼は幕末に敵の弾を何度もくぐり抜けてきた 猛者であった。彼と新島は学校設立の前提となる宣教師を教師として雇い 入れる件につき熟慮を重ねた。その結果京都府及び文部省の防衛線を強行 突破する方法を考え出した。それは正攻法である。まず新島の戸籍を寄留 ではなく安中から京都に正式に移すとともに明治政府、文部省内の情報取 集を積極的におこなった。新島は7月に文部省の四等出仕九鬼隆一が京都 に来たことを機会に彼から貴重なアドバイスを引き出すことができた。新 島に好意的である九鬼3)に文部省の根廻しを頼み、彼から宣教師を雇い入 れるためにベストを尽くしましょう、4)という発言を引き出している。彼 が頭から不可能とはいわなかったので、新島は何らかの手応えを感じたの であろう。九鬼は新島に文部省には「信教の自由」という視点から攻める ことをアドバイスした。これはニューイングランドでデモクラシーを学ん だ新島にとって極めてオーソドックスな攻め方であった。
九鬼は、文部省或いは広く明治政府では「信教の自由」が問題になり、
いずれこの方面から宣教師を学校に雇い入れなくてはならない時期が来る ことを暗示したのではないか。もっとも一方において天皇制国家主義体制 の構築が少しずつ進む中で、耶蘇教の宣教師が学校の教壇に立つことは教
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明治政府は1871(明治4)年岩倉使節団を米欧諸国に派遣して条約改正 の下交渉を始めたが、アメリカを始めいずれの国も日本がキリシタン禁制 を続けていることを批判し、人民に信教の自由が保障されていない実態を 衝いて、日本に近代国家としての体制が整っていないことを指摘した。条 約改正には信教の自由の保障が不可欠であることを使節団や政府に認識さ せた。
明治6年2月、政府は切支丹禁制の高札を撤去したが、それ以後も政府 のキリスト教に対する禁止の方針は変わらなかった。鈴木英一氏は論文
「切支丹禁制高札撤去布告後の禁教政策」に次のように書いている。「七四 年、七五年(明治7年、8年 筆者注)にかけて、キリスト教徒の活動に 対する各処分伺に決定を与えないことによって、禁教政策の貫徹を政府自 ら崩しつつあったのである。また解禁・黙許を促す主要な契機の一つとし て外交問題のみならずキリスト教各派による宣教活動の多様な展開が禁教 政策の維持・継続を無効化していった点をも見逃してはならない」。5)また 引き続いて「外務省内部において禁教政策の放棄が1876年時点で公然とし た議論になっていた」6)とあり、「キリスト教宣教活動の拡大のなかで、禁 教政策の維持が無効化し、1873年−75年の間に政府部内の決定行為の放棄 が進行し、次いで黙許の態度を選択するに至ったと概括出来る」7)と結論づ けている。また上述のような事情を示す文書が教部省から明治9年4月、
太政大臣三條実美に宛てて出されている。
「耶蘇教取扱之儀ニ付伺」(原文縦書)
耶蘇教徒取扱之儀ニ付八年十月中千葉愛知静岡三県ヨリ申出之趣相伺更 ニ同年十二月中静岡県事情切迫之趣上申致置候処今般該県官員出京此侭差 置候節ハ県治之障害不尠ニ付孰トカ指令無之而ハ平穏之取扱ニ難相運旨申 出候 依テ右八年十月伺書中丁印御指令之趣モ有之候ヘハ右ニ準據シ致処 分可然哉此段更ニ相伺候條至急御指揮有之度候也
明治九年四月二八日
教部大輔 宍戸 璣 太政大臣 三條 実美 殿8)
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明治政府は1870(明治3)年神道国教化政策を打ち出したが、結局失敗し、
1872(明治5)年には神祇省を廃止し、教部省を設置して仏教勢力を含ん だ国民教化政策に転向した。しかし1877(明治10)年には教部省も廃止し た。このような国家方針の変更の中でキリスト教に対する政府の態度は条 約改正交渉ともかかわって曖昧さを露呈しつつある時期と1875(明治8)
年9月、同志社英学校における宣教師雇い入れ問題が通底しているのでは ないかと考える。
4)正面突破作戦
新島は知慧者である山本の力を借りて京都府や文部省の動向を見極めつ つ、宣教師の雇い入れについて正面突破作戦を試みた。即ち明治8年8月 23日付で新島、山本の連名で京都府庁に「私学校開業・外人教師雇い入れ につき許可願」を提出した。その内容は驚くべきものがある。一歩も退か ない姿勢である。おおよそ次のようなことを主張している(原文縦書)。
「私は文部省の規則の中に宣教師を雇い入れて学校教師にすることが許さ れないことを承知している」とまず述べて、「京都の近辺に英学校が甚だ少 ないことを考えると、一日も早く開校したいと思う」と述べ、「英学校を開 校して貧しい少年の志を実現させるために授業料を安くし、(中略)彼らに 聖賢の道を学ばせ、(中略)我が国の発展に寄与することを望んで私立学校 を設立しようとしている」という。以上が開業願いの前書きであり、次に 宣教師の雇い入れについては「私は文部省の規則を守ればデビスの雇用は できず、計画を捨てざるをえないが、国家の近代化を押し進めなくてはな らないこの時期にそれはふさわしくないと考えるので、敢えて犯則の罪を かえり見ず京都府に同人の雇い入れをお願いする」と述べる。そしてさら に「宣教師の雇い入れが許可されれば学校を開校し、今後生徒が増えれば 他の宣教師の雇い入れもお願いするかも知れない。(中略)生徒の学業が 進歩すれば遂には大学をつくり、彼らの進学をはかりたい」9)と将来のビ ジョンにまで言及している。さらに再び駄目押しするように次のように主 張している。「(学校の開校は 筆者注)右の宣教師(デビスのこと 筆者
− 10 − − 11 − 注)の雇い入れを許可されるか否かにかかっているので、よくよく調べて
いただきたい。私立学校が我が国の文明進歩上どのような利害があるかを 十分考え、害があれば無論不許可、利益になれば一日も早く許可をお願い したい」。10)新島は堂々の論陣を張っている。彼は「犯則の罪をかえり見 ず」と書いている。彼は1864(元治元)年に国禁を犯して、渡米したこと を想起しつつ、自分の良心と良識に照して正しいと確信することは「犯則 の罪をかえり見ず」国家権力に戦いを挑むのである。山本の入れ知慧が あったとはいえ如何にも新島らしい攻め方である。他方8月27日、槇村知 事は文部省の田中不二麿文部大輔に次のような伺書を送っている。意訳す れば次のようである。「新島襄が外国人宣教師を雇い入れて私塾を開業し たい旨願い出ているが、文部省が付達した明治6年の第八十七号『西教伝 教士ヲ学校教師トシテ不可雇』に抵触するので如何いたしましょうか。先 般文部省の九鬼隆一殿が来洛し、新島は九鬼に相談した旨申し出ている が、如何取り計らいましょうか」。11)
5)文部省の宣教師雇い入れ許可
槇村は文部省付達第八十七号があるので、宣教師を学校教師に雇い入れ る件につき、文部省は不許可にすると信じていた。新島は槇村のアドバイ スを受けて上京し、9月1日に文部省で田中、九鬼と交渉を始めた。3日 になって彼は「書面西教伝教師ヲ私学校教師ニ相雇候儀事実無余儀相聞候 ニ付許可相成不苦候事」12)(原文縦書)という正式の許可書を文部大輔田中 不二麿から受け取った。7ヵ月前の2月に田中は新島の問い合わせについ て宣教師の雇い入れは「否」と返事している。仏教勢力を刺激しないよう に 配 慮 す る と い う 条 件 が つ い た と は い え、 新 島 が「 奇 跡 だ!」
(Miraculous!)13)という程に困難な問題がたった3日間の交渉で許可され たことは、文部省、外務省、教部省等に大きな政治的変化が起こっている からではないか。新島と田中が懇意であるとか、九鬼が新島に好意的であ るといった個人レベルの問題ではなく、もっと大きなキリスト教に対する 対応の仕方の変化が明治政府の内部に起こっているといわざるをえない。
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ちなみに教部省は1875(明治8)年11月27日、神仏各宗に信教の自由を口 達している。14)これに先立ち11月10日付で寺島外務卿は関税自主権回復の ために条約改正交渉の開始を三條実美太政大臣に上申している。15)信教の 自由も条約改正交渉と無関係ではない。このような一連の動きが新島の外 国人宣教師を学校教師に雇い入れる件に追い風に働いたと推察される。
槇村知事は文部省が宣教師の採用を不許可にするものと信じていたが、
まったく彼の予想に反して許可したことにびっくり仰天した。京都府顧問 山本が新島に入れ知慧をし、新島が自分の頭越しに文部省の官僚九鬼と直 接会って情報収集し、田中と九鬼との人脈を巧みに利用して不可能を可能 にしたことに大きな危機感を抱いた。京都の地に宣教師を教師として雇い 入れてキリスト教の学校を設立することは、仏教、神道勢力と真っ向から 衝突するだけでなく、行政の責を負う自分に批判の矛先が向けられること を彼は恐れたからである。また山本が宣教師である新島と意気投合して結 社し、同志社英学校の設立に全面的に協力していることも槇村には不愉快 なことであった。
新島は文部省が外人宣教師を教師に雇い入れることを許可したことを受 け、10月、J. D. デイヴィス宣教師を英学教師に雇い入れ、合わせて、京都 府が、外国人が開港場以外に居住することができないという掟を撤廃して デイヴィスに京都居住を許可したので、彼とその家族は京都御苑内の旧柳 原邸に落ちつくことができた。それは10月下旬のことである。新島と山本 の共同作戦が成功し、朝廷の御座所のあった京都のしかも御所と古刹相国 寺の間に学校を設立する見通しがつき、キリスト教宣教の大きな橋頭堡を 築くことができた。
6)新島と山本八重の婚約
槇村は1875年10月15日、新島が山本の妹八重と婚約したことを知り、早 速4年間女紅場の舎監であり、教導補であった八重を解雇した。16)11月に は新島も京都府博物館御用掛を罷免されている。17)槇村は実質的には明治 2年頃から山本の知慧を利用して京都の活性化、殖産興業を進め、確実に
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られて東京に拘禁中の槇村の釈放に奔走し、やっと成功したが、この頃の 槇村と山本は協力し合って京都の近代化のため、目的の遂行に邁進してい た。それが明治8年4月、新島が京都にやってきて、山本と急接近して以 来彼らが槇村の意向に沿わず関係がぎくしゃくし始めたのである。
7)「同志社仮規則」の制定
11月、同志社社長新島襄と結社人山本覚馬は連名で「同志社仮規則」を 作成し、京都府学務課に提出した。最初に「我等同志ノ者我国ニ於テ文学 ノ隆盛セン事ヲ望ミ社ヲ結ヒ英学校ヲ開キ之ヲ名テ同志社ト称シ米国宣教 師ジエーデーデビスヲ招キ普通学科ヲ教授セシメ且日本教師数名ヲ雇ヒ其 足ラサル処ヲ補シム。但シ当年中別ニ米国教師二名ヲ雇入ヘキ目的ナレハ 教員ノ足ラサル上ハ二名ヨリ数名ニ及ヘシ」18)と書き、デイヴィス以外に 2名を雇い入れ、足らなければ数名に増やすことを予告している。これは 京都府学務課へのしたたかな先制攻撃である。デイヴィスの教員採用を京 都府より上位機関である文部省が正式に許可したのであるから、京都府に は宣教師の採用にクレームをつけるべきでないといった意志表示と受けと れる。「同志社仮規則」で注目されるのは履修科目の一覧表を揚げ、まず英 学校らしく英学、綴字、文法、作文、正音を挙げ、次に支那学、史類、本 朝史、支那史を挙げて生徒の選択に委ねていることである。次に新島が フィリップス・アカデミーで受けたような全人教育に必要な科目を挙げ、
最後に修身学、講説を挙げている。聖書或いはキリスト教という名称を挙 げることを拒まれた結果である。このカリキュラムから新島が京都の地で 開校する英学校の目ざす教育が展望できる。次に新島は次のような校則を 挙げている。「生徒中金銀ノ借貸飲酒登楼喧嘩等ヲ固ク禁止シ且ツ塾内ニ 於テ喫煙ヲ許サス」。19)新島は1865年秋ニューイングランドのフィリップ ス・アカデミーに編入学し、同じキャンパスに併設されているアンドー ヴァー神学校の学生が品行方正で真摯に求道の生活を送っていることを目 の当たりにして強い感銘を受けていた。他方当時天下国家を放言しなが
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ら、ふしだらな生活をしている江戸の若者たちを意識しつつ、自らも ピューリタンの生活を心掛けていた。キリスト教主義をもって全人教育を 目ざそうとする新島にとって、生徒たちの日常の生活態度は強い関心事で あった。
8)京都府の動向
11月に入って新島は学校の設立準備のために槇村に面会を求めるが、多 忙を理由に断わられた。彼はこの頃の京都府の動向をハーディー夫人に詳 しく伝えているが、およそ以下のような内容である。11月22日、「私(新 島)は槇村知事の事務所に呼ばれて、私に聖書を(履修表から 筆者注)
抹消するように言われました。そして彼は私に命ずるのではなく懇願する ように(not command but rather requested)学校でキリスト教を教えな いように言われた。保守派即ち今京都に集まっている薩摩藩主の友人たち が、明治政府がここ京都でクリスチャン・スクールを始めることを私に許 可したために、政府に反対して立ち上がるかも知れないからです。そこで 私は学校でキリスト教を教える代わりに当分自宅で教えるつもりです」。20)
槇村がキリスト教を自宅でならよろしいといったのは、彼が信教の自由を 少しは意識していたのか、それとも山本が槇村に入れ知慧をした可能性が ある。
9)同志社英学校の開校
11月29日、新島と山本は多くの困難を乗り越えて同志社英学校の開校に こぎつけた。当日の朝、新島の自宅で6名の生徒と共におこなわれた彼の やさしい、涙にあふれた熱心な祈り(tender, tearful, earnest prayer)21)
は、新島が山本の全面的な協力、アドバイスを得て不可能を可能にして実 現した開校を心から神に感謝する気持を示したものである。
新島と山本は苦労してスタートさせた同志社英学校の入り口に「官許同 志社英学校」の表札を掲げた。「官許」という表現は平民主義者の新島には
− 1 − − 1 − 若干抵抗を感じたであろうが、この二文字こそがさしずめ仏教・神道勢力
を撃退するためのものであり、また京都府に対して同志社は文部省で正式 に認可を受けたことを示すものであった。恐らく知慧者の山本のアイデア であろう。
10)仏教勢力からの伺い書と槇村の回答
同志社英学校の開校1週間前である11月22日付で仏教寺院側から槇村知 事宛に「新嶋氏私学ニ外国宣教師雇入候儀ニ付伺」と題して、槇村を詰問 する書簡が届いた。おおよそ次のような点が強調されている。1)英学校 では普通学科のみ教授すると伝え聞いているが、この度頒布された「仮規 則」によれば、学科中に聖書と題する科目があるが、公然耶蘇教を講義す るのか、2)明治6年8月に出された文部省の布告─学校教師に教導職を 兼ねさせることはできない─は外国人教師も同様と考えるが、この度学校 教員として公然聖書を講義する許可を出したのはどのような理由かを明ら かにされたい。3)断然差し止めて人心の疑惑が広がらないように取り 計ってもらいたい。22)再び12月3日付で仏教寺院側から上申書が出され た。おおよそ次のような点が骨子である。1)米国宣教師の雇い入れを許 可すれば、ロシアのギリシヤ正教、フランスのカトリック教、イギリスの プロテスタント教の教師が願い出ればそれを拒否することはむつかしく、
短期間に京都府はこれらの宗教の巣窟になり、騒乱が起こる。2)同志社 英学校の結社人は京都府が雇っている山本覚馬であるので、あらゆる機会 に英学校教授の名を使って耶蘇教宣布のために京都府からの内命であるな どと道理のわからない人間が流言するので、このまま捨てておくと混乱の もとになる。3)何卒明治6年8月の文部省布達に準じて、たとえ私学校 でも宣教師の雇い入れを断然差し止める命令を出されるならば疑惑などが なくなる。23)杉井六郎教授はこの上申書に対して次のように述べている。
「要するに同志社の雇入れるJ. D. デイヴィスの雇用を差し止め、同志社は 表は英学校と称しているが、裏では耶蘇教宣布を企図するのではないかと 京都府に訴えている」。24)以上のような仏教勢力の厳しい京都府批判に対し
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て、槇村は明治9年2月に次のように回答している。「11月22日付の書を 教部省へ送付したら、新島の同志社仮規則中の聖書を削除するように指令 があったので、先般京都府は新島に説明し処理したので、その旨承知する ように」。25)いかにも槇村らしい高飛車な内容である。
12月15日、新島は槇村と会った。その様子がDavis - Soldier Missionary に次のように書かれている。「1875年12月15日、新島氏は昨晩(槇村)知事 と長く話し合った。彼は神道の関係者があらゆる方法で我々に抵抗するた めに仏教の僧侶と団結していると言った。即ち京都府は僧侶を恐れている のではないが、京都府につながってトラブルを起こそうとしている薩摩の 人たちの一団を恐れている。それゆえにこれ以上(京都府に 筆者注)申 請するのは賢明でないと思う。私は新島氏にものごとをせきたてないで、
当分はそっとしておくようにアドバイスした」。26)槇村が新島の矢継ぎ早や の要求に手を焼いている様子が伺われる。ラーネッド宣教師の雇用につい ても要求したのであろう。
12月29日、『京都府百年の年表5教育編』によれば、同志社の生徒たちが 新島校長と共に加茂の河原で体操をしたことが、世間では「同志社のキリ スト教徒が戦いの稽古をしている。いまに天草騒動の二の舞いをしでかす ぞ」と噂し、府の密偵が調査している。27)これは当時京都の住民が同志社を どのように見ているかを示すものである。
11)新島と山本の協力の成功
明治8年4月以降、新島は超多忙であった。彼が在米中に到達した結論 は日本にキリスト教を宣教し、キリスト教主義の大学を設立し、近代国家 を牽引する人物を育成することであったが、そのために布石を京都の地に 打つことに成功した。勿論彼と京都府顧問である山本が槇村知事の性格を 十分に認識して打つ手を慎重に考え、例えば京都府へ提出する書類にはか ならず新島と連名にし、槇村が新島を個人攻撃する隙を与えなかった。槇 村は地方官僚の権限を最大限に行使し、時には明治6年の小野組転籍事件 のように不当と考えられるようなことも敢えてやる専制的な官僚であった
− 1 − − 1 − からである。
12)山本と新島の義兄弟の関係と八重の性格
新島は将来の伴侶になる山本八重の兄貴である山本に全幅の信頼をおい ていたし、山本も義弟になる新島を全面的に擁護し、二人の考える学校を つくるために完全に呼吸が合っていた。6月末から10月まで新島は山本宅 に止宿した。英学校設立の困難な問題を相談するには同じ屋根の下で生活 するのが一番便利であったからである。
山本は4月以降新島の人柄や考え方を観察し、彼を自分の17歳年下の妹 八重の婿にふさわしい人物と見込んで、八重に新島をすすめると同時に、
新島に八重をすすめたのではないか。八重は不幸にして会津の戊辰戦争時 に夫の川崎尚之助と離婚している。川崎は江戸で蘭学と舎密学(化学)を 学んだ人物で、山本が藩校日新館に蘭学所をつくり、その時に彼を招き入 れた。彼の将来を見込んでのことであろう。戊辰戦争で父権八と弟三郎を 失い、不幸にして八重が離婚せざるをえなくなったことに兄として大きな 悲しみと責任を感じていた。山本は男まさりの妹を何とか幸せにしてやり たいと願っていた時に彼の前に新島が現われた。新島は槇村から結婚の相 手について尋ねられ、彼は「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を 向いている東洋風の婦人はご免です」28)と答えたという。八重は当時の日 本の女性の中では例外的なタイプであった。それは彼女が会津鶴ヶ城の籠 城戦で男装して敵に大砲をぶっぱなした女傑というだけでなく、新島がア メリカで見てきたような自立した女性であったことが彼には結婚の決め手 になったと考えられる。会津藩士の長男で、ともに籠城して八重の行動を つぶさに見ていた井深梶之助は後年牧師になり、明治学院の創立にかかわ るが、八重は官軍が城に打ち込んだ不発の着発弾を藩主松平容保の面前で 分解し説明したエピソードを伝えている。29)新島はこのような男まさりの 女性に魅力を感じたのである。
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13)新島と八重の結婚
明治9年1月2日、デイヴィス宅で山本八重はデイヴィス宣教師より洗 礼を受けた。京都における最初の洗礼式であった。30)翌3日同じくデイ ヴィス宅でデイヴィスの司式のもとに新島と八重の結婚式がとりおこなわ れた。愈々二人の生活が始まった。偏頭痛を始めいくつかの持病をもつ新 島は自宅を一歩出たら多くの敵と戦わねばならなかったが、自宅に戻れば 母港のような安らぎと癒しを得ることができた。包容力のある妻八重のお 蔭である。
アメリカン・ボードの機関誌Missionary Heraldには各国の海外伝道記 事が毎号詳しく載っているが、早くも1876(明治9)年1月号に次のよう な記事が載っている。「日本では新島氏が京都でクリスチャン・カレッジ
(Christian College)の始まりになると彼が望んでいる学校の開設ととも に、宣教師を教師に採用するという待望の許可を得た。そしてミッション の伝道師養成学校がまもなく開設される」。31)恐らく前年の9月上旬、新島 は文部省から上記の許可を得てすぐにアメリカン・ボードにこの朗報を 送ったと考えられる。「クリスチャン・カレッジの始まり」になる学校とい う表現に注目したい。ジャパン・ミッションの宣教師たちはこの文章をど のように読んだであろうか。新島は深く潜りながら、その実彼の遠大な構 想を実現すべく着々と布石を打っていると理解できる文章である。
14)宣教師たちの不満
1876(明治9)年3月、英学校が開校して5ヵ月目であるが、次の文章 は学校での聖書が教えられないことについて宣教師たちが不満と将来の不 安を抱いている様子を伝えている。「テイラー博士とラーネッド博士が京 都に住んで教えることを認める許可─新島が5ヵ月間それを得るために努 力してきた許可─を受けとった。しかし聖書は今なお教科課程から除外さ れており、ミッションの何人かはそのような条件のもとで長く京都にいる
− 1 − − 1 − ことが賢明であるかを問題にした。3月に大阪で開かれた特別委員会で多
くの不安をともないながら京都に残るという票決がなされた」。32)日本の事 情や京都の事情、槇村知事の性格を知らないで、新島や山本の苦労を尻目 に短絡的に大阪への移転を考える宣教師がいたということである。
草創期の新島は前からも後からも攻められて十字砲火を浴びていたが、
度重なる修羅場を潜ってきた知慧者である山本から恐らく「今は忍耐 だ!」といったアドバイスを受け、ぐっと我慢していたのではないか。同 年3月彼はミス・ヒドゥンに宛てた書簡に英学校開校後の苦難を次のよう に伝えている。「この学校を開校してから色々なことがあり、説教や教授 の他に我々の仕事を進める上で非常に多くの妨害や試練がありました。し ばらくの間私は我々が望んでいるように、我々の目的を成就することがで きないのではないかと恐れた時がありました。京都の全ての僧侶が大会を 開いて京都でキリスト教を教えることを許可しないように知事に嘆願し て、我々の仕事をやめさせようとしました。知事は彼らの嘆願を取り上 げ、それを中央政府に送りました。その結果学校でキリスト教を教えては ならないという命令が出ましたが、家でそれを教える自由はあります」。33)
15)新校舎の完成と山本の評価
明治9年5月、ジャパン・ミッションの年会で同志社英学校の校舎の建 築費用として3000円を支出することが決まっていたが、それが9月になっ て相国寺前の校地に二棟の校舎と一棟の食堂が完成し、18日に献堂式がお こなわれた。34)約70名が出席し、ドーンとラーネッド宣教師が英語で、新島 と山本が日本語で祝辞を述べている。このことについて新島はハーディー 夫妻に次のように報告している。「山本氏の演説は短いが、しかしすばら しくふさわしいものでした。彼は肉体的には弱く無力ですが、我々の最も 優れた思索家の一人として見なされています。京都ミッションの存在は大 いに彼に拠っています。彼は日本のような不道徳な国はキリスト教以外の 如何なるものによっても清められないと確信しています。そして彼の影響 力と働きによって高慢で威厳のある知事も我々に耳を傾け、ついに我々の
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努力に対して微笑するようになりました。昨年の冬の暗くて苦しい時に
(in the dark and trying hours of last winter)彼は我々を擁護し、知事を 説得するためにベストをつくしました。知事は我々の献堂式を妨害しませ んでした」。35)これらの文章から新島が山本をどのように評価しているかが 理解できる。そして槇村知事への困難な説得も山本がやり成功させている ことが推察できる。
16)豆腐屋の廃屋を買い取り、聖書を講義
明治9年9月、新島は京都府が学内で聖書を用いることを禁じているの で、キャンパスの道路を隔てて東側にあった豆腐屋の廃屋を買いとり、そ こで聖書や神学の講義を始めることにした。あくまでキャンパス外で新島 の個人名義の私宅であるという解釈である。槇村は新島に「キリスト教は 学校で教えてはならないが、自宅でならよろしい」といったことを逆手に 取っての行為である。屁理屈とさえとられる行為であるが、新島が廃屋で 聖書講義をすることが槇村によって大目に見られたのは山本の内々の説得 があったのではないかと想像される。
17)新島・山本と宣教師たちの文化摩擦
アメリカ人宣教師はキリスト教の宣教という強い使命感をもって日本に やって来た。しかし彼らは日本の国土や民族性や根強く残っている耶蘇教 に対する拒否反応、邪教意識などを認識しようとせず、宣教の効果を急ぐ あまり、新島や山本の日本的で地味な問題解決方法─例えば新島が槇村に 学校では聖書を教えないという誓約書を提出─を理解することができな かった。両者に文化摩擦ともいえるような意識のずれ、考えのずれが表面 化してきた。次の文章はそれをよく示している。同年9月のことである。
「新島氏と山本氏は学校の名義上の経営者であるが、学校管理は全面的に 在留宣教師の手に委ねられています。教科課程や学校行事に関する詳細は いかなるものも山本氏に任せられていませんし、新島氏もかならず宣教師
− 20 − − 21 − 仲間の提案に従ってきました。私的なチャンネルを通して寄付され、全く
自分の裁量で使われる基金の支出さえも、彼らと相談しています。学校の 組織や管理において彼らはあたかも日本人の経営者がいないかのように自 由であり、新島氏の全ての努力は彼らのアドバイスや提案に従うことでし た」。36)この文章の内容は宣教師側の一方的な見方であり、実際は新島や山 本によって学校の運営や教学がなされていることも事実である。とりわけ 京都府や文部省との交渉は理想主義者の新島と人生経験豊富な現実主義者 である山本の知慧と方法が有効に機能していた。彼らの時には名を捨てて 実を取るという方法は宣教師たちには理解し難く、彼らの合理主義と相入 れない方法であった。日本人とアメリカ人の考え方の相違が創業期の英学 校の経営と教学に顕著に露呈してきた。それがとりわけ新島の苦悩を増幅 することになったといえる。新島の好きな聖句にヨシュア記第1章9節の
「強く、また雄々しくあれ、あなたがどこへ行くにもあなたの神、主が共に おられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」というのがあ る。彼は諸々の苦難を熱い祈りと持ち前の情熱と誠実さをもって唯一筋の 道を歩み続けるのである。
18)熊本バンドの大挙編入学
明治9年の秋、同志社英学校が未だ基礎固めに苦労している時、30名を 超える熊本洋学校の優秀な生徒たちが大挙転校してきた。彼らは1879(明 治12)年同志社英学校を卒業後、明治・大正・昭和期の我が国のキリスト 教界、思想界、教育界、実業界でキリスト教精神を手腕にして活躍するの である。
19)札幌農学校のクラーク博士が来洛
1877(明治10)年5月上旬、札幌農学校のクラーク博士(W. S. Clark, 1826-86)が帰国の途中わざわざ京都の地に立ち寄った。彼は4月に札幌郊 外の島松で1期生と握手を交わし、「必ず一枚のハガキであなたの消息を
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聞かせてほしい」といい、最後に “Boys, be ambitious!” という言葉を残し て立ち去ったが、彼は京都の今出川キャンパスに来て新島夫妻と食事を共 にし、彼の親戚にあたるラーネッド宣教師にも会っている。37)実は新島は 1867(慶応3)年9月、アーモスト・カレッジに入学して、クラークの化 学(chemistry)の授業を取って以来彼からmy first Japanese pupil と呼ば れ、学生と教師の関係を超えて親しい人間関係にあった。新島は、英学校 を開校して1年半が経過したが、文字通り四面楚歌であった。そのような 時に恩師クラークの訪問を受けて励まされた。クラークはキャンパスの建 物に寄付をし、帰国後も新島を励ますために教会で献金を集めて送ってく れる、そういう教育者であった。新島には生涯彼を庇護し、支えてくれる 人たちがいた。そして彼のピンチの時に不思議にそのような人が彼の前に 現われるのである。クラークもその一人であった。
20)山本 京都府顧問を解雇される
明治10年12月、槇村は、明治3年から共に京都の殖産興業に尽力してき た京都府顧問山本覚馬を解雇した。「御用無之当府出仕差免候事」38)という そっけない辞令である。長州藩出身でキリスト教嫌いの槇村は、明治8年 4月以降山本が宣教師新島に急接近し、その上二人は結社してキリスト教 主義の中等教育機関の設立を京都府に申請した。しかし実際は知事である 槇村の頭越しに文部省で直接交渉がなされ、事もあろうに槇村の予想に反 して宣教師を学校教師として雇い入れることを含む学校の設立が許可され た。以後槇村は仏教勢力から詰問攻めにあい、同志社とキリスト教に深く かかわる山本が京都府顧問であることが、自分の行政にマイナスになると 判断して解雇したものと考えられる。明治6年の小野組転籍事件に示した 行政マンとしての専制的な姿勢と同じである。
21)新島の二通の弁明書
英学校では生徒数が増えるに従って、豆腐屋の廃屋の小さな部屋では聖
− 22 − − 2 − 書講義が困難になり、キャンパス内でやっているところを諜者(探索方)
に見つかり、京都府学務課の係官の視察を受けることになった。山本は既 に明治5年、京都博覧会の期間中宣教師が上洛して山本と面会する段階で 早くも彼が耶蘇教徒として諜者にマークされていた。39)
槇村の京都府は英学校でキリスト教を教えることに神経質で、新島、山 本を始め宣教師たちの動向を厳しく看視していた。英学校の創業時に京都 府に提出した誓約書(学内で聖書を教えない)に違反してデイヴィスが授 業で聖書を使用した件につき、新島は1879(明治12)年6月7日付で槇村 知事に提出した弁明書「修身学講義中聖書を講じたとの注意に対する弁明 書」40)を読むと、京都府の態度と共に新島の苦悩に満ちた弁明を読みとる ことができる。おおよそ次のような内容である。「英学校創立の際に耶蘇 教を学内で教授しない旨の書面を提出しましたが、先般学務課長横井忠直 殿他1名が授業見学のため来校された際デイヴィス教師が聖書を使って授 業をしている様子を見届けられ、昨6日呼び出しの上かねて府庁に提出し ている誓詞に違背するが、どうしたのかと尋ねられました。恐れながら小 生が見た様子を申し上げます。誓詞には耶蘇教を学内では教授しないと申 し上げましたが、聖書を学内で一切用いないといった意味ではなく、1つ の教科書として学内では教授することはないと誓いました。そして修身学 に関する耶蘇の教えは聖書の中に沢山あり、それをもって自分の意見を証 明する基礎とし、最も大切な点を論ずるには耶蘇の教えに依らざるをえま せん。ゆえにこれを全て断ち切ることは極めて困難と申し上げねばなりま せん。(槇村知事は 筆者注)修身学に関する分だけはやむをえないとい われましたので、修身学に関する分は本校において教授することは差しつ かえないと判断し、教師たちに修身学に関する分は教授しても差しつかえ ないと許してきました。デイヴィス教師が聖書を用いたのは、教科書中に 不足の分があり、生徒から質問が出ましたので、やむをえず聖書中より教 えを引用して教授したという事情です」。41)
上記のような詳細な弁明書にもかかわらず、槇村知事はそれを不服とし て再度提出を求め、新島は6月15日付でおおよそ下記のような内容の弁明 書を再提出した。「本校創立の際に耶蘇教の聖書は学内に於いて教授しま
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せんという書面を提出しましたところ、先般学務課長横井忠直殿他1名が 授業を見学のために本校にお越しになり、その際にデイヴィス教師が聖書 をもって生徒に教授している様子を見届けられました。去る6日にお呼び 出しを受け、かねて京都府庁に提出している誓詞に違背するがどういうこ とかとお尋ねになりました。早速調べましたところ、デイヴィスは学務課 長が見学の際はホプキンスの修身学を終わり、生徒からホプキンスの論説 の基礎としている耶蘇の教えに不審の点があり、生徒と問答をし、教科書 中の不足分があったので、やむをえず聖書中より耶蘇の言葉を引用して答 弁した旨述べていますので、私より今後十分に注意するように申し渡しま した」。42)槇村は執拗に学校の非を追求し、新島はかなり苦しい答弁をして いる。これらの弁明書は当時のキリスト教主義学校の苦悩を如実に示すも のである。明治12・13年という年は殆んど毎月京都府の学務課の視察があ り、学校は厳しい監視のもとにあった。
22)京都府の同志社探索書
日本英学史及びキリスト教史研究の第一人者である重久篤太郎教授は論 文「京都府の同志社探索書」の冒頭で「同志社開学から間もない明治10年 代はじめに京都府が諜者を潜入させて同志社の外国人宣教師の動静を探索 したことは私の管見では明治10年8月と同12年6月に京都府から外務省へ 上申した報告によって知ることができる」43)と書いている。明治10年8月 には京都府の学務課が探索方を派遣して、時には公然と、時には「子弟が 入学を志望するためであるといって諜者的な立場から調査している」44)と は驚きである。これはキリスト教に対する国家や京都府の厳しい姿勢で あった。
明治12年4月、外務省は各府県知事宛に、その管下の人民が学校教師と して雇い入れた外国人の業務課明細書を雇主から提出を求めると共に、
「時ニ業務掛之者偶然其教師場ニ至リ、業務上ヲ視察シ実地之景況ヲ詳記 シ毎月末ニ当省ヘ可被届出此段相達候也」45)という通達を出している。佐 伯有清氏は「横井忠直の明治十二年─『同志社視察之記』をめぐって」と
− 2 − − 2 − 題する論文を書いているが、新島は明治12年6月7日、デイヴィスの聖書
講義についての弁明書を槇村知事に提出し、再提出を求められ、同15日に 再提出した弁明書に対して、視察してデイヴィスの聖書講義の現場を押さ えた京都府学務課長横井忠直は、同年6月24日に記した第2回の視察記で ある「同志社景況記」の第十五項で新島の弁明に対して次のように書いて いる。前文略「嗚呼何ソ遁辞ノ甚キ吾曹ヲシテ目ナク耳ナク且神識ナカラ シメハ則チ如何ニトモ云ヒ得可キナリ。苟モ目アリ耳アリ神識アレハ何ソ 其誣ヲ甘センヤ」。46)横井は新島の詭弁とも思われる弁明書を徹底的に批判 している。ちなみにこの筆者である学務課長横井忠直は、佐伯氏の調査に よれば豊前国中津藩の藩校進脩館の教授を勤めた儒学者であった。47)
同志社社史資料編集所が編纂した『資料彙報』第二集(1968年11月刊)
に「同志社視察之記」が明治12年5月から同16年6月まで収載されていて 興味深い。前述の重久教授の解説によれば「槇村知事時代の報告書はキリ スト教学校を探索する諜者的な立場をとっているが、それに反して北垣知 事の時代になると、府学務掛の報告書は単なる学校視察記となり、その記 述も次第に簡単なものになっている」48)とのことである。槇村知事と北垣 知事のキリスト教に対する姿勢の違いと共に時代の変化が視察内容の違い になったものと思われる。
私は、明治8年9月3日付で文部省が宣教師を学校教師に雇い入れる件 につき、同志社に許可を与えたのは、総体的に明治政府のキリスト教に対 する緩和策がプラスに働いたのではないかと推察したが、その後の外国人 宣教師に対する外務省を始め各省の姿勢はその厳しさを変えていないとい える。新島、山本は努力と忍耐を重ねて厳しい茨の道を歩み続け、創業期 の同志社英学校が倒れないように懸命に支え続けているといわざるをえな い。〈続く〉
注
1) A. S. Hardy ed., Life and Letters of J. H. Neesima, Houghton and Mifflin & Co., 1891, p.198
2) 田中不二麿 新島襄宛書簡 明治8年2月22日付 『同志社百年史』資料編(一) 同
− 2 − − 2 − 志社 1979、p.5
3) 本井康博著 『新島襄の交遊─維新の元勲・先覚者たち』 思文閣出版 2005、
p.150ff
4) [To the Rev. J. D. Davis?]、Aug. 2, 1875 『新島襄全集』6、 同朋舎出版 1985、
p.166 以下『新島襄全集』を『全集』と略記する。
5) 鈴木英一 「切支丹禁制高札撤去布告後の禁教政策」 『キリスト教史学』53集 1997.7、 p.97
6) 同 上 p.98 7) 同 上 p.99
8) 「耶蘇教取扱之儀ニ付伺」 同志社大学人文科学研究所所蔵
9) 「私学校開業・外人教師雇入につき許可願」 『同志社百年史』資料編(一) pp.7-8 10) 同 上
11) 「文部省御達留(明治八年)学務課」 『同志社百年史』資料編(一) p.38 12) 同 上
13) To Alpheus Hardy, Sept. 4, 1879 『全集』6、 p.195
14) 小川原正道著 『大教院の研究─明治初期宗教行政の展開と挫折』 慶応義塾大学 出版会2004、 p.235
15) 『近代日本総合年表』第二版 岩波書店 1984、 p.64 16) To Susan H. Hardy, Nov. 23, 1875 『全集』6 p.169 17) 「明治8年布令書」 『同志社百年史』資料編(一) p.68 18) 「同志社仮規則」 同 上 p.9
19) 同 上 p.10
20) To Susan H. Hardy, Nov. 23, 1875『全集』6 pp.169-70
21) J. D. Davis, A Sketch of the Life of Rev. J. H. Neesima, LL. D., 1890. pp.47-48 22) 「新島氏私学ニ外国宣教師雇入候儀ニ付伺」『同志社百年史』 資料編(一) p.15 23) 「外国宣教師雇入之儀ニ付上申」 同上 pp.15-16
24) 杉井六郎 「排耶のなかの私学同志社の創業」 『排耶論の研究』所収 教文館 1989、 p.72
25) 「外国宣教師雇入についての指令」 『同志社百年史』資料編(一) p.16
26) J. M. Davis, Davis – Soldier Missionary – A Biography of Rev. J. D. Davis, Pilgrim
− 2 − Press, 1916, p.153
27) 『京都府百年の年表5教育編』 京都府 昭和45年 p.70 28) 永沢嘉巳男編 『新島八重子回想録』 大空社 1996, pp.66-67 29) 同 上 pp.69-70
30) To Mr. & Mrs. Hardy, Jan. 6, 1876 『全集』6 p.170 31) Missionary Herald, Vol. LXXII, Jan., 1876, p.18 32) A. S. Hardy ed., op. cit., p.203
33) To Mary E. Hidden, March 27, 1876 『全集』6 pp172-173 34) 「同志社記事」『全集』1 pp.232-233
35) To Mr. & Mrs. Hardy, Sept. 18?, 1876, A. S. Hardy ed., op. cit., p.207 36) A Letter to the Mission, Sept., 1876 A. S. Hardy ed., op. cit., p.204
37) 本井康博「新島襄とW・S・クラーク─アメリカン・ボードと『札幌バンド』をめ ぐって」 『キリスト教社会問題研究』52号(2003.12) p.17
38) 原田久美子「山本覚馬─おぼえがき・人と思想」 『新島研究』NO.64(1983.5) p.21 39) 杉井六郎 前掲論文 p.59
40) 「修身学講義中聖書を講じたとの注意に対する弁明書」 『同志社百年史』資料編
(一)pp.18-19 41) 同 上 42) 同 上 p.19
43) 重久篤太郎「京都府の同志社探索書」 『明治文化と西洋人』 思文閣出版 1987、
p.203 44) 同 上 p.197 45) 同 上 p.205
46) 佐伯有清 「横井忠直の明治十二年─『同志社視察之記』をめぐって」 『近代日本の 内と外』 吉川弘文館 1999、 p.99
47) 同 上 p.87
48) 同志社社史史料編集所編 『資料彙報』第二集 p.107