新島襄の足跡を辿る : 近畿編:生野銀山、出石、城 崎温泉、宮津・天橋義塾 : 北陸編:山中温泉、大聖 寺、福井、長浜教会
著者 田島 繁
雑誌名 新島研究
号 108
ページ 159‑170
発行年 2017‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000220
新島襄の足跡を辿る
―近畿編:生野銀山、出石、城崎温泉、宮津・天橋義塾 北陸編:山中温泉、大聖寺、福井、長浜教会―
田 島 繁
1.新島襄の足跡を辿る旅
1回目(2005. 8)米国編(ボストン、アンドーヴァー、アーモスト、ラッ トランド)
2回目(2008. 7)欧州編(スイス・サンゴタール、ドイツ・ヴィースバー デン)
3回目(2009. 4)京都・安中walk
4回目(2010. 5)安中・会津・白布walk、東華学校跡 5回目(2011. 4)大阪・奈良・宇治・京都walk 6回目(2012. 5)風間浦・函館・札幌
7回目(2013. 4)岡山・高梁・玉島・笠岡・今治・松山 8回目(2014. 4)熊本、水俣、阿蘇、柳川
9回目(2015. 4)生野銀山、出石、城崎温泉、宮津・天橋義塾 10回目(2015. 8)山中温泉、大聖寺、福井、長浜教会
2.今回の旅行のポイント
1.余り知られていない近畿編と北陸編を「新島襄の足跡を辿る旅」の最 後として仲間たちと楽しく実施したい。
2.新島先生が実施した同じ月(4月と8月)に実施。近畿編に出石(川
崎尚之助墓碑と桂小五郎隠れ家)を入れた。
3.新島先生は山岡尹方氏に「加療の為山中に参り湯治仕候」と書いた3)
が、それだけだろうかと調べてみた。
3.近畿編 1882(明治15)年 4. 21〜28 8日間1)
4/21 古沢滋に大学設立主意書依頼。大阪の板垣退助見舞。船で明石、人 力車で姫路に。
4/22 午後3時生野銀山着。銀鉱見物。山火事後始末で入坑できず説明聞 く
4/24 豊岡経て城崎湯島、油筒屋西村六右衛門方一泊
4/25 宮津へ、天橋立の景色楽しみ天橋義塾について聞く 4/28京都着
北陸編 1883(明治16)年8. 6〜27 20日間2)
8/6 京都発大津から汽船で長浜
8/7 汽車で敦賀、船で坂井港(三国港)着 8/8 山中温泉泉屋に泊る
8/9 朝、腸カタル
8/11 草鹿甲子太郎来訪 宿主人「客に耶蘇教の話をして宿に迷惑をかけ ないで」
8/17 大聖寺の陶器会社飛鳥井清訪問 8/18 草鹿案内で那谷寺見学、山代で一浴 8/19 江沼郡長滝譲と面談
8/22 同志社の竹原義久・三宅荒毅と下錦町松浦庄之助の家で演説。
8/23 杉田定一に面会「大学の必要性、耶蘇教の大切さ話し合う。氏は大 に賛成せり」
8/24 福井の信徒のため演説「道理と信仰の関係」
8/25 三国港に、船で敦賀へ
8/26 長浜の信徒に「真理を求めるに一日も待つべからざる」
8/27 帰京
*8/28 岸和田の山岡尹方氏に「小生 先達中加療之為加州山中ニ参リ 湯治仕居 昨日帰京仕候」3)
4.日程と参加者
4月20日(月)生野銀山、出石(川崎尚之助墓碑、桂小五郎隠れ家)、城
崎温泉
4月21日(火)宮津(天の橋立、天橋義塾)
8月6日(木)那谷寺、九谷焼窯跡(飛鳥井清窯跡)、山代温泉、山中温 泉、泉屋跡・芭蕉の館、菊の湯
8月7日(金)大聖寺(飛鳥井清墓)、福井(松浦宅、横井小楠像)、三国 港(坂井港)、長浜教会
[参加者]畝目襄治、河村隆夫、蔵岡信彦、森永長壹郎、岸本展、阿部 泰士、竹山由利子、田島繁(以上近畿編8人)、北陸編 桜 井彰人 初参加で合計9人
A.近畿編
Ⅰ.生野銀山
新島は米国より帰国直後の1874年12月2日、親戚・知人8人と当時最新 鋭の溶鉱炉を持つ群馬県下仁田の中小坂鉄山(製鉄所)を訪れた4)。
1868(明治元)年日本初の官営鉱山。フランス人技師を雇って日本の近代 鉱業模範製鉱所を目指す生野銀山を新島は1882(明治15)年に訪れた。し かし新島が訪れた日は生憎山火事の後始末で入坑できず、何とか聞きたいと 長官の家を尋ねる。留守のため次官の家を訪ね尋問。「十三年度費用十七万 円、純益八万円。大盛山ノ坑夫二百五十ヨリ三百人、機械場ハ殊ニ立派広大 ナリ、人家凡千戸」5)など図入りで克明に記録している。最盛期は徳川吉宗 の頃月150貫(362 kg)の銀を産出。1889(明治22)年佐渡金山と同時に皇 室財産に。1896(明治29)年三菱合資会社に払下げられ、1973(昭和48)
年の閉山まで国内有数の大鉱山であった。坑道長さ350 km大阪から静岡、
深さ880 m、鉱石70種。世界遺産指定の石見銀山より規模は大きい。採掘
の様子を電動人形で再現し40分間の見学も楽しかった。資料館には生野銀 山一分銀や銀/金本位制の説明もあった。ガイドは雨降る中、鉱山を流れる 汚染水を川に放流できず、外の貯水池で永久に浄化しなければならない「負 の遺産」を背負っていると最後に語った。
Ⅱ.出石
①新島八重の前夫・川崎尚之助のお墓のある願成寺を訪問した。位牌の横 には「八重の最初の夫。義理と縁を重んじ会津藩に命を捧げた人物。明治8 年3月20日卒」6)満39歳」と。川崎家の当主川崎修氏でさえ、あさくらさ んから話を聞く迄、5代前の先祖の弟が尚之助であることを知らなかっ た7)。「八重の桜」放映の2013年1月立派な「川崎尚之助供養の碑」が建立 された。また、八重や尚之助の新刊書が90冊程出版され多くの新事実が明 らかにされた。
②新島が欧米で会い同志社設立に協力的であった木戸孝允(桂小五郎)の 隠れ家を訪れた。禁門の変で敗れた桂小五郎は広戸甚助・直蔵兄弟に助けら れ出石に9ケ月程潜伏。荒物屋等で働き、愛人幾松も訪れた。会津の追手が 来たと聞くと、母と娘タキが営んでいた城崎の松本屋(現つたや旅館)に逃 れ潜伏した。「逃げの小五郎」と言われる。幕末には坂本龍馬の仲介で西郷 隆盛率いる薩摩藩と薩長同盟を締結させた。明治維新三傑に抜擢され木戸孝 允(たかよし)8)と名を改める。岩倉具視遣外使節団副使として、アメリカ にいた新島襄とワシントンで会い、また療養中の新島とドイツのヴィースバ ーデンでも再会。帰国後、新島がキリスト教主義の学校を大阪に創りたいと 相談した時、渡辺知事に働きかけた。ダメと分かると同じ長州藩の槇村京都 府知事に働きかけた。それが京都府顧問の山本覚馬と出会うきっかけとな り、「天道遡源」をゴードンから贈られ「キリスト教に理解のあった」山本 覚馬から誘われ、薩摩藩邸5800坪の土地を500円と格安で譲り受け9)、約 半年後に同志社英学校を開校した。まさに木戸孝允の尽力のお蔭である。
Ⅲ.新島が泊った城崎「油筒屋」の「詠帰亭」
「ゆとうや旅館」の女将は皇族宿泊専用の「詠帰亭」で私達の質問に答え てくれた。「大正14年の北但大地震で全焼し新島先生が泊ったという記録が なくて残念。西村六右衛門は間違いで六左衛門です(油筒屋は歴代西村六左 衛門を襲名)」と。戴いた『油筒屋の歴史と文化資産』10)には、「明治9年現 京都迎賓館の位置にあったデイヴィス邸で創設した「女子塾」(10年同志社 女子校に改称)が11年上京11区(現同志社女子大)に移転する。同志社女
子大にあった伏見宮家御殿は油筒屋に移築された。その御殿は「詠帰亭」と して今も使用されている。移築に尽力した人が宮家と同志社双方に親しかっ た禁裏御用商・二代目丹波屋茂助・廣吉と推測」。当時、同志社女子校の校 長は新島襄で、この移転の当事者である。新島が城崎を訪れ、「油筒屋」に 泊りたいと思ったのはこの移築に関係しよく知っていたからであろう。伏見 宮家御殿の隣にあった二条邸の茶室は同志社大学に移築され今も寒梅軒とし て使われている。
Ⅳ.宮津 天橋義塾
新島は久美浜より人力車に乗り、殊に嶮なる峠(比治山峠180 m)を越え 荷箇、大野、岩滝に。そして船で宮津へ。約40 kmもかけ宮津を訪れた。
訪問理由はなんであろうか。私達も日本三景の天の橋立を「股のぞき」など で楽しんだ。新島はそれだけではあるまい。きっと「天橋義塾」を見たいと 思ったからであろう。実は京都に着いた2日後に、新島は田辺に出来た「南 山義塾」開校式に出席し祝辞を述べている。「天橋義塾は明治八年許可。生 徒四五十人、教員二人。九時ヨリ十二時迄、聴講。社員ヨリ一口十二円、五 百株募ル(12円×500株=6,000円)。此利ハ月六十円(年720円÷6000円
=年12% の利子)。月謝二十銭(社員ノ子ハ三分ノ一減)、月俸は米炭代実
価四円位」11)。月謝20銭×4、50人=8、10円。教員2人×4円=8円。生徒 が納める月謝がほぼ教員給与に。ということは12% の利子が貴重な財源で、
この金利で塾を維持管理している。今ならこんなに高い金利は認められない だろう。ハリス理化学館の「同志社ギャラリー」で同志社本科の算術テスト
詠帰亭
の問題が展示されていた。なんと年利12% の複利計算の問題であった。当
時は年利12% は普通だったのかと驚いた。
新島が「南山義塾」の開校式に出席した後、伊藤熊夫校長などが同志社大 学設立の募金に協力してくれたり、「天橋義塾」の卒業生が「南山義塾」や 田辺の小学校の教員になっていたことを知った。
B.北陸編
Ⅰ.新島の病気
1883(明治16)年、新島は頭痛がひどく、家での面会時間を午後3時か
ら5時までに制限する広告を「七一雑報」12)に2回も出してる。また全集13)
にも「本日(16. 2. 9)ハ脳病宜シカラサレトモ無理シテ出向シ」と。医師 の布施田哲也先生は「新島は脳痛(頭痛)や脳病(ノイローゼ)の為J. C.
Berryから胃薬やモルヒネ(痛み止め)をもらって飲んでいたようだ」と。
宮沢正典先生も「新島襄と病気」14)で、他に胃痛、リューマチなど深刻な持 病を持ちながら対症療法に終始し、根本的な治療を後回しにしてきた」と指 摘した。
Ⅱ.「同志社大学設立旨趣 成ル」15)
「明治16年4月下旬、同志社大学校設立旨趣冊子作レリ。同5月、襄東上 シ東京府ノ紳士ニ賛成ヲ乞フ。安中駅ニ於テ湯浅治郎氏ト他二三有志者ノ賛 成ヲ得タリ。同年8月、大聖寺ニ於テ襄 郡長滝譲氏䮒九谷陶器会社長飛鳥 井清氏ニ面会シ賛成ヲ乞フ。8月下旬、福井ニ至リ自由党員杉田定一氏ニ面 接シ、私立大学ノ発起者トナリ県下ノ募集金等ニ尽力アラン事ヲ乞ヘリ」。
新島は同志社大学設立の募金活動のために北陸に来たことがはっきりした。
*杉田定一(政治家、自由党員、衆議院議長)
妻・杉田すゞは夫が欧米に行っている時、病弱な長男を連れて医療の進 んだ京都に移り、新島襄の支援をうけて英学を学んだ。感謝を示す杉田 から新島への手紙が新島遺品庫にあった16)。
新島が福井で杉田に会い「大学ノ必要ナルコト耶蘇教ノ大切ナル事ヲ説
キ、氏ハ大ニ賛成セリ」。
Ⅲ.私たちの訪れた所
1.那谷寺 草鹿の案内で新島が訪れた名勝地那谷寺を最初に見学。芭蕉 の有名な句碑あり。
2.九谷焼窯跡展示館 ここは新島が「帰路山代の手前に陶器製造所あ り」と記しているところだ。飛鳥井清氏が山代に作った窯元である。飛 鳥井清氏は「勧業家、石川県令、九谷陶器会社創設、第八十四国立銀行 副頭取、九谷焼と鉛筆製造で地元産業を大いに振興させた大聖寺の著名 人」17)である。
*新島が募金活動で頼りにした飛鳥井清氏は新島が会った4ケ月後に大聖 寺の本社が類焼し、翌17年病死した。
*新島が面談した江沼郡の瀧謙郡長も半年後に死亡した。
Ⅳ.湯治、温泉
3.新島が一浴した山代温泉古総湯に入っ た。凄く熱かった。新島はぬるま湯が好 きなのに。
4.泉屋 山中温泉「菊の湯」のすぐ前に 新島の泊った「芭蕉逗留泉屋の跡」の石 碑(写真)を見つけた。
泉屋は「当地一二ヲ争旅店ナリ。家具 殊ニ美ニ皿茶碗ノ如キ皆古今里ニアラサ ルナシ、茶具ノ如キモ実ニ上等ノ品ナ リ。楼上ニハ 八九ノ部屋アリ、楼下ニ ハ五ツ程、当時総湯ノ普請出来セサルニ ヨリ内ニ風呂三箇ヲ設ク。朝ヨリ夕ニ至 ル何時ニテモ入湯シ得ルナリ」18)新島は 高級な宿で湯治生活を楽しんだであろ
う。泉屋は1901(明治34)年に宿泊し 泉屋の趾
ている湯治日記があるところから、旅館業を廃業したのは明治30年代 後半のことである19)。
5.芭蕉の館 芭蕉は1689(元禄2)年秋、9日間泉屋に逗留した。当主 久米之助は14歳の少年だったが、芭蕉に俳句の手ほどきを受け、「桃 妖」の俳号を賜った。泉屋の隣に親戚の扇屋が1905(明治38)年に旅 館業を開業した。しかし老朽化等で1999-2000(平成11-12)年に閉館 した。建物の風情と恵まれた立地から扇屋の別館(五明館)を山中町が
再整備し2004(平成16)年に「芭蕉の館」として再生再出発した。
6.「菊の湯」 山中温泉発祥の「菊の湯」に入った。入口に「諸国温泉効 能」の番付表があった。「西の方」大関有馬の湯、関脇城崎の湯、小結 道後の湯、前頭山中の湯と。私たちは春に2位城崎の湯、夏に4位山中 の湯に浸かることが出来た。新島は「山中温泉は湯治に効能がある」と 聞いていたであろう。
Ⅴ.伝道、教会
1.草鹿甲子太郎(書生、東京帝国大学卒、地方裁判所歴任、神戸で弁護 士開業、衆議院議員)の来訪。泉屋主人「客ニ耶蘇教ノ話ヲシテ宿ニ迷 惑ヲカケナイデ」と低頭平伏し頼まれる。「コノ地並ニ大聖寺辺ト雖、
兎角頑固人ノ多キ事ナレハ、如何ナル困難ノ起ラン事モ計リ難し。何卒 御身ニ災難ノ及ンデハ…、一笑」20)
福井は一向宗(浄土真宗)の強い地盤だ。キリスト教の浸透は難しか ったであろう。
2.松浦庄之助の家 新島が説教した松浦庄之助の家は下錦町と分かっ た。錦公園の南にあるはずだ。近くの郵便局に入り調べたが下錦町は今 の地図にはなく、「福井パレスホテル」や「天春」あたりかと。
3.新島は同志社の神学生竹原義久と三宅荒毅に出会い一緒に福井に行 き、松浦庄之助の店で演説した。題は「道理ト信仰ノ関係」である。説 教全文21)を読むと、野蛮時代や開明の時代など未信者には難しすぎる内 容だ。新島「福井ニ於テ聴衆窓外ニ出ツ」と。
4.長浜教会訪問 30年前、百周年を記念し長浜駅から車で15分程の所
へ移転した。同志社大学神学科卒川上幹太牧師が出迎えてくれ、自作の ブドウを戴きながらお話を聞いた。新島は1882(明治15)年彦根教会 からの応援牧師・本間重慶と共に講演。北陸からの帰り明治16年8月 末にも立ち寄り、信徒の前で「真理を求めるに一日も待つべからざる」
と説教した。仏教僧侶の耶蘇排斥運動もあって本間重慶牧師が辞任。同 志社卒業の堀貞一牧師が就任し教勢が一気に拡大。同志社のリバイバル でデイヴィスや市原盛宏が応援、聴衆は4百人にも増えた。受洗者が増 え、1885(明治18)年彦根教会から独立して長浜教会が設立された。
Ⅵ.福井基督教会と「同志社分校設立伺書」
私は新島研究会会員で福井市在住の布施田哲也先生に「福井には同志社系 の教会はありませんか」と質問した。すると先生は菱本文夫著『新島襄先生 の手紙と福井』22)の中にある『福井時代に於ける予が回顧』を送って下さっ た。その中の「(二)福井基督教会」で、「予(大宮季貞、幼名貞之助)は明 治21年10月日本伝道会社より福井の教会に伝道師として派遣された。会員 数十名、且つ小なりと雖も新会堂が竣工していた(多分松浦氏の寄付で新築 されたと思ふ)」と。大宮翁は同志社を卒業、ラーネッド博士を補佐し、福 井に在住する最初の牧師で、良寛上人の研究家でもある。福井基督教会の設 立を証言している。
では今も存続しているのかという疑問を持って、「(五)女学校創立計畫」
と「同志社分校設立伺書」(明治21年12月大宮、吉田編制)を読んだ。「当 地は人心非常の頑固にして聖教を悦ばず。基督教基礎の学校設立を発起し櫻 州義塾(英学塾)を興起せり。新島先生の賛成保護の力を得て社員(寄付)
を募り、同志社学院に入学せしめる為の「同志社分校設立伺書」を作成し た。英語を教えた佐藤氏(鮮魚大問屋主人)と福井藩家老職の佐野氏(子息 子女が同志社で学ぶ)の両氏が発起者となり女学校創立の話が纏まる。資金 約三千円は両氏が引き受け、学校は旧藩主の三秀園をあてる。「同志社分校 設立伺書」(発起人大宮、吉田、佐藤、佐野他2名)を以て新島先生に協議 する為、大宮は1888(明治21)年12月下旬京都に行く。先生は病気で諏訪 山で療養中と聞き神戸に行き、面会することができた。先生は大いに喜ば
れ、曰く「米国よりの資金は困難だから内国で都合する必要がある。併し外 国教師の事は多分出来ると信ずる。京都でゴルドン氏と相談するがよろし い」と。京都でゴルドン氏に会うと曰く「元福井藩の雇教師のグリフヰス師
(「皇国」を著作し日本を世界に紹介した有名人)は兼て福井の為なら今一度 日本に行ってもよいと。交渉してやる」と。福井に戻ると大火で佐藤氏宅が 半焼。また米国より資金を得る望みなき事が原因で計画は水泡に帰した。大
宮は1890(明治23)年福井の伝道を辞任し10月福井を去り越後に帰省し
た。
新島が北陸地方を訪れた後、松浦氏の寄付や日本伝道会社の支援で福井に 基督教会が設立された。その後、大宮貞之助が福井基督教会に伝道師として 派遣。伝道が難しい福井市に学校を作り同志社に生徒を送り出す「同志社分 校設立伺書」が纏められ、新島に相談に行くまで成長した。しかしその計画 が頓挫し、大宮牧師が福井を去り、また後ろ盾だった新島も亡くなった。
松浦氏や神学生らの努力で福井県内に同志社系(会衆派)教会がないか調 べてみたが見つからなかった。福井県内の日本基督教団の教会は殆どメソジ スト派教会で、資金や外国人宣教師を途切れなく派遣してきた。同志社系
(会衆派)教会が福井で育たなかった背景にはこんな理由があったのかなあ と思った。
おわりに
新島は1872(明治15)年4月、「近畿の旅」直前に古沢滋に「大学設立主
意書」の作成を依頼。大阪のテーラー医師から3週間分の薬をもらい、最初 に日本初の官営鉱山・生野銀山を訪れた。次に御所のデイヴィス邸で創設し た「女子塾」を同志社女子校(新島校長)に移転する際、そこにあった伏見 宮御殿を城崎「油筒屋」へ移築する当事者が新島であった。新島は城崎の老 舗旅館「油筒屋」(「詠帰亭」)に泊り、理学士らしく泉質など詳細な記録を 残している。その後、宮津まで足を延ばし4月25日に「天橋義塾」を訪れ ている。4月30日には田辺にできた「南山義塾」開校式に出席した。
そして「北陸の旅」出発前の1873(明治16)年4月「同志社大学設立旨
趣」を公刊した。それは新島が1872(明治5)年に岩倉使節団の田中不二麿 文部理事官の秘書・通訳として北米及び欧州の大学などの教育機関を巡視 し、「欧米文化の基礎は国民の教化に在ることを確信、我邦に帰らば必ず一 の私立大学を設立し、以て国家の為に微力を喝さんことを誓ふ」23)と言った その夢の実現に向けた第一歩である。東京や安中に支持を求めていくと同時 に、山中温泉にも「加療の為湯治生活を送る」だけではなく、郡長や九谷陶 器会社社長、政治家杉田定一など地元の有力者に募金への尽力を要請した。
また、宣教活動にも力を入れ、長浜教会では本間重慶牧師に代わって堀貞 一牧師を派遣し、長浜教会設立に向けたテコ入れ策まで考えていたことが分 かった。しかし、新島は本気で病気を治そうとしなかった為、身体を壊し命 を縮める結果になってしまった。
参考文献
1)新島襄全集編集委員会『新島襄全集』8巻 年譜編(同朋舎、1992年)pp.235-
236.(近畿編)
2)『新島襄全集』8巻 年譜編
pp.267-269.
(北陸編)3)『新島襄全集』3巻 書簡編Ⅰ(同朋舎、1992年)p.242 4)新島学園同窓会『新島学園同窓会報 根笹』第
47
号2014.10
5)『新島襄全集』5巻 日記・紀行編(同朋舎、1984年)p.1326)夫・川崎尚之助が死亡した明治
8
年3
月20
日は八重が新島襄と出会う前である。7)あさくらゆう『川崎尚之助と八重 一途に生きた男の生涯』知道出版
2012
年pp.241-243
8)本井康博『新島襄の交遊 維新の元勲・先覚者たち』思文閣
2005
年pp.45-60
9)現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』丸善2000
年pp.190
10)三輪泰司『油筒屋の歴史と文化財資産』2013.5.1版 ゆとうや旅館2013
年pp.1-5
11)森永長壹郎「南山義塾の誕生から消滅まで−南山義塾、同志社英学校、自由民権 運動−」『新島研究』104号 同志社社史資料センター
2013
年pp.51-57
12)雑報社『七一雑報』の6
号(2/9)と7
号(2/16)に掲載。13)『新島襄全集』5巻
p.193
14)宮澤正典『新島襄と病気』2002 同志社大学人文研
pp.18-30
15)『新島襄全集』1巻pp.185-6
16)杉田定一の新島襄宛の手紙 新島遺品庫 史料番号 下
0796
17)江沼地方史研究会『加賀江沼人物事典』1989年p.6
18)『新島襄全集』5巻pp.231-232
19)西島明正『芭蕉と山中温泉−山中温泉俳諧探訪−』1989年 山中温泉「奥の細 道」三百年祭実行委員会
20)『新島襄全集』5巻
p.232
21)『新島襄全集』2巻 宗教編(同朋舎、1993年)pp.145-150.
22)菱本文夫『新島襄先生の手紙と福井』発行年未詳(1970年代)私家版 23)『新島襄全集』1巻
p.73
情報提供
福井のこと、また菱本氏の資料については福井の新島研究会会員 布施田哲也氏よ り情報提供いただいた。