• 検索結果がありません。

雑誌名 新島研究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 新島研究"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

関口徹氏「新島襄の母とみと浦和宿の中田家‑籠谷 次郎氏の所説にふれて‑」を読んで

著者 籠谷 次郎

雑誌名 新島研究

号 103

ページ 139‑143

発行年 2012‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013043

(2)

 『新島研究』102号(2011、2)所載の標記の論説(以下、関口稿と略)

は、副題からもわかるとおり拙稿「鍵屋六之丞考」(『新島研究』101号、

2010、2)への提言として記されたものである。提言は多方面にわたるが、

関口稿4節「籠谷氏が指摘する疑問点と氏の見解」に要約されており、拙 稿を見なくてもよくわかる。提言には、研究上、これまであまり使用され なかった中山道浦和宿関係文書、浦和玉蔵院文書など地元史料が多く使わ れ、内容豊かな提言となっている。私にははじめて接する史料も多く、教 えられ、学ぶべきことが多い。なかでも、大きなご教示は、これまで関心 をいだきながらも明らかでなかった鍵屋の系譜を明らかにされ、提示され たことである。拙稿「鍵屋六之丞考」では、六之丞の父傳兵衞以前は明ら かでなかったが、関口稿では傳兵衞以前に、傳十郎、善五郎の二人を加え、

同家の系譜は中田傳十郎─善五郎─傳兵衞─六之丞とする(図参照)。幕 末、新島七五三太が「浦和のおぢさん」と呼んだ六之丞の子(後継者)金 蔵がとり上げられていないのが残念であるが、幕末の六之丞まで4代の系 譜を明らかにされたことになり、同系譜の提示は、今後の鍵屋研究の新た な起点となるであろう。論調も明解であり、説得力にも富む。しかし、そ の反面、史料解釈上、理解に強引なところがある。本稿はこの点につい て、とくに二点につき述べるものである。 

 研究対象となっている浦和宿とみの実家の姓については、今日、一般に は中田とされ、これが定説となっている。しかし、拙稿「鍵屋六之丞考」、

本稿では、苗字「中田」をとらず、屋号「鍵屋」としている。新島民治筆

関口徹氏「新島襄の母とみと浦和宿の中田家

─籠谷次郎氏の所説にふれて─」を読んで

籠 谷 次 郎

(3)

140 141

図      関口稿が提示する浦和宿中田家の系譜 1.関口徹「新島襄の母とみと浦和宿の中田家龍谷次郎氏の所説にふれて」(『新島研究』102号、2011.2、同志社大学同志社社史資料センター、所収)から作成。 2.六之丞の子(相続人)金蔵については、関口稿ではとくにとり上げていないので、ここでは省略。

傅十郎 善五郎 傅兵衛 六之丞天保12年日没 1841)       72歳

生没年不明年以前に没(推 1754) 宝永年生 1707)宝暦年にはすでに家督を 1754)         ついでいる享和年97歳 1803)文化年までには没 1810)100歳をえる

享保18年生 (享和月17日没1733)(家督はつがす) 1803)     71歳 明和年生 1770)

文化年11月には

善五郎から家督を (1810)ついでいる

(4)

関口徹氏「新島襄の母とみと浦和宿の中田家─籠谷次郎氏の所説にふれて─」を読んで

『新島家祝物到来覚帳』(天保3年─慶応2年)および『(新島家)過去帳』

(新島遺品庫収蔵文書、目録番号、上1679)によっている。

 1、関口稿では傳十郎、善五郎を親子とみるが、根拠はいまひとつ明ら かでない。関口稿が根拠としているのは、関口稿が資料3として掲載する

『短才見聞録』(浦和宿玉蔵院家老宮崎喜六が日毎月毎に見聞したことを記 した記録集、明和3年編、玉蔵院文書、『浦和市史』三巻近世史料編Ⅰ、浦 和市、昭和56年、所収)所載「三十 鹿嶋神主寺之事」に見える末尾二行 の記載である。

此本紙ハ中奉書半切ニ而御座 、浦和宿中田傳十郎殿方ニ有之、宮崎 写し置者也、今ハ中田善五郎殿事也

 同史料の全文は関口稿(69p)にも掲載されているので、ご覧いただく として、ここに記されているのは、中奉書半切に記された「鹿嶋大神宮  社内ノ木札」の本紙の所在について、本紙は当初(寛保年間、 1741−1744)

中田傳十郎方にあり、その節宮崎も写し置いたもので、本紙は今(明和3 年、1766)は中田善五郎方にあるというもので、ここから両人を親子と読 む。

 同史料を最初にとり上げたのは韮塚一三郎氏である(「同志社の創設者 新島襄の母 とみ」『埼玉の女たち 歴史の中の25人』さきたま出版会、昭 和60年、所収)。ここでは同氏は両人を六之丞の祖と読んだが(277p)、関 口稿は両人を親子と読む(73p)。

 関口氏が同史料に見える両人の関係を論じたのは関口稿が最初ではな い。関口稿添付の別稿「埼玉と同志社」(刊行年は不記,昭和57年カ)にも とり上げており、ここでは六之丞の祖先はこの両人と結びつくのではない かと「推論」できなくはないと述べ、次いで平成13年「同志社創立者新島 襄とその母浦和仲町生まれの『中田とみ』について」(『さいたま市立浦和 博物館報 あかんさす』通号76号、2001.6.1、 所収)では、両人は六之丞に つながる祖先と述べており、当初の「推論」は稿を重ねるごとに変化し、

(5)

142 143 関口稿では親子となる。しかし、変化の根拠は、いずれも明らかでない。

 文化8年(1811)「浦和宿絵図」には、別紙裏書の住人署名211人の中に 傳十郎、善五郎の名もみえる。両人は別家の可能性も否定できない。拙稿

「鍵屋六之丞考」においても触れたところである(12p)。

 2、関口稿に掲載された資料10には、善五郎の住まいが見えるという

『短才見聞録』所載「七十四 玉蔵院絵図」(関口稿では「玉蔵院境内図」

と記す)で、資料11がその位置の拡大図である(78p)。同図には玉蔵院門 前の中山道をへだてて、東に六軒の民家が描かれている(資料10参照)。南 から彦四郎、釜屋十兵衞、善兵衞、□や善五郎、又四郎、友次郎と並ぶ。

このうち、読みで気になるのが「□や善五郎」の読みである(資料11参 照)。この読みについては、これまでいくつかの読みがあった。

 まづ、昭和56年刊行の『浦和市史』三巻近世史料編Ⅰは単に「善五郎」

と読み、右肩の二文字を省いている。省略の理由は不明。読みに苦慮して の省略のようである。

 次いで、昭和60年の韮塚一三郎「同志社の創設者新島襄の母 とみ」(前 掲)では、鍵屋善五郎と読み(277p)、韮塚氏はこの読みから、中田家は 善五郎時代にはすでに鍵屋を名のっていたとする。

 私の読みは、「鍵屋六之丞考」で記したとおり「鋤や(屋)」と読めても

「鍵や(屋)」とは読めないとするのが結論である。

 他方、関口稿では言う。同所を「鍵」と見るのも不安であるが、「鋤」と 読むのも確信がない。のち、同家では鍵屋六之丞を名のったのは確かなの で、この六之丞の祖父にあたる善五郎が「鍵や」とも「鋤や」ともとれる 筆跡であるなら、鍵屋とみた方が無難なのではなかろうかと述べ、読みを

「鍵屋善五郎」とし、同人を中田善五郎でもあるとする(79p)。中田にひ きつけての強引な解釈である。

 最後に、ひとこと、ご教示いただきたいことがある。鍵屋には中田の姓 があったという。関口稿では例証として、前述の『短才見聞録』所載「三十

(6)

関口徹氏「新島襄の母とみと浦和宿の中田家─籠谷次郎氏の所説にふれて─」を読んで

 鹿嶋神主寺之事」にみる「中田傳十郎、中田善五郎」、享和三年(1803)

造立の玉蔵院三界萬霊塔にみる「中田善五良」の刻名をあげている。近 世、農民・町人が私的に苗字を使用したことはめずらしいことではない。

近世中後期には彼らの多くは苗字を用いるようになっていたとの指摘もあ る(『国史大辞典』13、吉川弘文館、平成4年、『岩波日本史辞典』岩波書 店、1999)。こうした指摘をまつまでもなく、関口稿においても玉蔵院三界 萬霊塔を例に、その状況が紹介されている(90p)。後年、とみ口述による と、「中田氏ハ浦和ニ於テ相応ノ身代也、人望家」という(『新島家系関係』

森中章光写、新島遺品庫収蔵文書、目録番号、上1681)。中田氏人望家説 は、関口稿においても、とくに傳十郎、善五郎について強調されており、

それゆえ、関心が持たれるのは、中田姓の使用が、私的使用か、「苗字御 免」によるものか、知りたいところである。

参照

関連したドキュメント

関係会社の投融資の評価の際には、会社は業績が悪化

) ︑高等研

本稿で取り上げる関西社会経済研究所の自治 体評価では、 以上のような観点を踏まえて評価 を試みている。 関西社会経済研究所は、 年

「海にまつわる思い出」「森と海にはどんな関係があるのか」を切り口に

共同研究者 関口 東冶

最後に,本稿の構成であるが,本稿では具体的な懲戒処分が表現の自由を

総合的なお話を含めていただきました。人口の関係については、都市計画マスタープラ

関係の実態を見逃すわけにはいかないし, 重要なことは労使関係の現実に視