著者 森 一郎
雑誌名 新島研究
号 107
ページ 78‑101
発行年 2016‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015597
J. N. Harris のメッセージ
―J. N. Harris の手紙から―
森 一 郎
1890(明治23)年に同志社ハリス理化学校は開校した。これはJ. N. Harris
が日本での新島のキリスト教に基づく教育活動に強く心を動かし、理科教育 の為に10万ドルの寄付によって開校したものである。この寄附に対してJ.
N. Harrisから同志社ハリス理科学校宛に送られた趣意書である書簡(1889
年12月6日)は『同志社百年史』資料編二に全文1)が掲載されている。こ の外にも同志社にJ. N. Harrisの6通の来簡(1通は同志社理事会宛、残り の5通は新島宛)が残っている2)。あまり目に触れることがないものだが、
その内容については『新島襄全集』第8巻「年譜編」にごく簡単に紹介され ているのみである。今回はこの6通の手紙が『新島襄宛英文書簡集(未定 稿)(3)』(同志社大学人文科学研究所)に活字化されているので、その内容 を紹介するものである。
最初にHarrisの経歴を先行研究、中西進3)、大越哲仁4)の論文に基づいて
まとめたものが資料1である。農民の家庭に生まれたものの、雑貨店の店員 を手始めに、その後独立して会社を興し、製薬会社、石炭採掘業、銀行頭 取、鉄道会社、船舶業、ガス会社など、実業家として成長し、業種も拡大し て多くの資産を作った人物であったと思われる。
政治家としての立場では、1855年40歳の時コネティカット州議員に、
1856年41歳ニューロンドンの市長に就任(6年間)、1864年49歳 ニュー ロンドン選出の上院議員も務めている。
ボランティアの面では、福音主義者 Dwight L. Moodyの熱心な支持者で Mount Hermon School, Northfield Seminary5)の設立に協力している。後には78 歳の時にMount Hermon Schoolの校長をも務めている。このMoodyには新 島も関係があって、1885年2月14日、新島は渡米中でThomas L. Gulick牧
資料1 J. N. Harris略歴
1815年11月18日 コネチカット州Salem市(New Londonの北西約10マイル)で 農民の子として生まれる(13人兄弟の長男)。
1832年(17歳) Hamburgの雑貨店店員となる。
1836年(21歳) New LondonのSmith & Cady店(食料品と金物を扱う)の店員 となる。
1838年(23歳) 雑貨商として独立(資本金100ドル)する。
1843年(28歳) Jane M. Brownと結婚する。
1844年(29歳) Harris & Brown社をJaneの兄弟G. W. Brownと設立する。
1848年(33歳) 独立し農具や農機具も扱う、さらに鉄や鋼鉄を直接輸入し事業拡 大する。
J. N. Harris & Co.という製薬会社をオハイオ州Cincinnati市に設 立(Perry Davisと共同)する。
1852年(37歳) New London市YMCAの設立に努力する。
1853年(38歳) Harris, Ames & Co.と名乗る。
1855年(40歳) コネティカット州の議員となる。
1856年(41歳) New London市市長となる。1862(47歳)まで務める。
1857年(42歳) Harris, Williams & Co.と改称する。
1862年(47歳) Hill & Harris Coal Mines(石炭採 掘 業 ) を ペ ン シ ル バ ニ ア 州
Mahoney市に設立する。
1864年(49歳) New London選出の上院議員を務める。
1865年(50歳) New London City Bank頭取(20年以上勤め、同市銀行協会の理 事も務める)となる。
1869年(54歳) Martha Ann Strongと再婚する。
1893年(78歳) Mount Hermon School校長を務める。
その他
Fellowes Medical Manufacturing Co.(カナダ、Montreal)設立発起 人、社長
Davis & Lawrence Co.(カナダ、Montreal)役員 New London & Northern Railroad 役員、社長 New London Steamboat Company 役員
New London ガス会社 社長 等を歴任する。
福音伝道者のDwight L. Moody(1837−1899)の熱心な支持者で Mount Hermon School, Northfield Seminaryの設立に協力する。
師を通してMount Hermon Boy’s School, Northfield, Massに蔵原を受け入れ てもらえるように手紙を書いてお願いしている6)。37歳のときにはニューロ ンドン市のYMCA設立に貢献があった。また、ハリス病院(後にはローレ ンス・メモリアル病院となる)を創設し、一般市民に広く開放している。
所属教会はニューロンドンのSecond Congregational Churchで、役員も務 め、会堂の維持、牧師館やパイプオルガン、カーペットの寄附等に功績があ った。American Boardから同志社に宣教師として派遣されたD. W. Learned もまたこの教会の教会員であった。
American Boardの理事を務めており、米国での新島襄の養父であり学業
をはじめ生活全般の面倒を見たA. Hardyとも知己である。後述のHarris自 身の手紙の中にもこのことが記されている。
しかし、家族についてはもう一つ恵まれなかったようである。Harrisの家 族と新島の生存していた年限を図示したものが資料27)である。結婚は2度 しており最初の夫人のJaneとの間には8人の子供が、2人目の夫人Martha との間には子どもは無かった。Harrisは81歳と長命であったのに対して、
子どもたちは皆短命で父親である Harrisはすべて子供を見送っているので ある。
Harris病院をつくりNew London市に寄付し、市民に広く開放
(後にローレンス・メモリアル病院となる)。
所属教会はNew LondonのSecond Congregational Churchで役員も務めた。D. W.
Learnedもこの教会の教会員であった。
American Boardの理事も務めた。A. Hardyと面識あり新島について話を聞いて
いる。
1896年10月18日(81歳) 逝 去
1949年 同志社工業専門学校(1944年開校)から、大学工学部(電気学 科、機械学科、工業化学科)が設置される。
1950年10月18日 ハリス氏の54回目の命日に、同志社創立75周年記念とハリス理 化学校60周年記念式典が栄光館で行われ、その記録が『同志社 工学会誌』第1巻2号(1951)ハリス氏記念号として発行された。
次にHarrisから同志社に寄付の申し出があった期日、またその額はどの ように変化していったのかを、書簡、日誌、論文等に寄附に関することが示 されているものを書かれた時間を追って並べてみたものが資料3(本文の 後)である。
同志社側というか日本側でのHarrisの寄附のことが記されている『同志 社百年史 通史編1』8)には、「1888(明治21)年春、新島の希望を知ってい たラーネッド教授がこれをコネティカット州在住の母堂に伝えたところ、母 堂からニュー・ロンドンのハリス氏に談合してはという注意があった。……
交渉がはじめられたところ、同年秋、同志社へ一万ドルの寄付申し込みがあ り、」とあって時期としては一番最初である。
ところがポール・V.グリーシーの『同志社の土着化(1875−1919)』9)とP.
F.ボラーの『アメリカンボードと同志社1875−1900』10)には1888年1月31 日にJ. N. Harrisから15,000ドルあるいは15,500ドルの寄付の申し出のあっ
たことをN. G. Clarkから京都に連絡したとある。これは同一資料に基づく
もので、N. G. Clark からD. W. Learned に送られてきたAmerican Board
Papersよるものである。半年以上のずれがある。新島はLearnedからはすぐ
資料2 J. N. Harrisの家族
に聞いているはずだし、聞いていたとすれば、親しい人物、特にアメリカに 留学中の下村孝太郎にはひそかにでも知らせるはずである。しかし、同年8 月11日付の下村孝太郎宛の新島の手紙11)、同志社における科学(Sciense)
教育教育の隆盛の為の協力を要望する内容であるが、Harris寄付のことには 一切触れていない。新島の書簡に最初に現れるのは1888年10月13日徳富 猪一郎宛12)で、誰とは言わずに「本年八月中米国ノ一友人一万弗ノ寄附」と ある。これは「同志社設立の旨意」を作成の材料(マテリアル)として送っ たもので、11月16日の「同志社設立の旨意」13)とは内容として同じもので ある。
11月12日の下村宛英文書簡14)にはprivate individualからごく最近10,000 ドル(の寄附の申し出が)あったと伝えている。ここでもHarrisの名前は 無い。ついでながら、この同じ下村宛書簡の中に記されている50,000ドル は徴兵制度を免除されるように高等教育機関として同志社のレベルを英学校 から大学に上げるための基金をAmerican Boardに提供を求めていたもので ある。
この半年以上のずれがある疑問に答えることになるかもしれないのが2月 28日のLearnedの書簡15)である。「現在、Harris氏の申し出について誰にも 話さないようにしてください」とある。またこの書簡には寄付金の増額と、
学校の名称にHarrisを冠することについても言及されている。
以後、1889年(明治22年)3月9日下村孝太郎宛16)では「レールネド氏 之一友人(ニューロンドンノ人)」と人物限定され、サイエンス・ホールの
為に15,000ドル、場合によってはサイエンス・デパートメントの為に50,000
ドルの寄付の可能性に言及している。
この頃に先の1通を含めLearnedから二通、D. C. Greeneから二通新島に 書簡が寄せられている。この書簡のうち4月27日付のGreeneの書簡17)は
100,000ドルに増額されたことをマサチューセッツから新島宛に発信してい
る。書簡の到着はひと月後ぐらいと思われるが、新島の5月30日の北垣国 道宛書簡18)からみると5月29日到着と思われる。
1889年5月8日の「同志社設立募金日誌」19)によると Harrisの名前と
15,000ドルと地代1500ドル、更に50,000ドルの寄附が確定したようであ
る。
1889年5月13日付北垣国道宛書簡20)では合計67,000ドルの確定とHarris の名前も連絡している。5月15日にはN. G. Clark宛書簡21)に喜びの気持ち を、Hardy夫人宛22)には寄付が丁度良い時に来たことを報告している。
5月17日に新島はHarrisに対して礼状を出したと「同志社大学募金日 誌」23)記載している。これはLearnedからの3月4日の書簡24)中に「Harris 氏に手紙を書くことを希望します」とあるのに答えたものであろう。
5月28日の「同志社社員会記録」25)の17条にある「礼状」は先のもの(5 月17日の新島の礼状)とは別でHarris宛の6月7日の新島書簡26)でこれに
Learnedが翻訳文をつけて送ったのであろう。
5月30日付の北垣国道宛書簡で合計100,000ドルなったことを報告してい る。これはGreeneの手紙が29日に届いたことを示し、「昨日来着之米信中
・・・」からわかる。
7月8日付以降Harrisからの新島宛あるいは理事会宛の書簡が来ている。
資料3の中で、二重下線がハリスからの来簡で、単一下線がHarris宛新島 の書簡である。新島の書簡はHarrisの書簡の内容から日付がわかったもの で、現在その所在は不明である。
Harrisの来簡のうち12月6日付のものは理化学校宛で「寄付の趣意書」
に相当するもので『同志社百年史 資料編2』27)に英文で入っている。また、
『同志社五十年史』の付録に中瀬古六郎の訳文で入っている。残りの6通に ついては、全集8巻の詳年譜にその内容が簡単に記載されているので資料3 に加えた。
逐次Harrisの手紙を見てゆく。この英文手紙は『新島襄宛英文書簡集
(未定稿)』(3)同志社大学人文科学研究所(2007年3月)に拠った。また、
先のLearnedの二通、Greeneの二通もこれに拠った。
1889年7月8日付の書簡は2通あって、同一の封筒に入れて送られて来 たと思われる。一通は理事会宛、もう一通は新島宛である。
1889年7月8日 Trustees of Doshisha College宛28)
「京都の同志社につながるschool of scienceの設立及び維持のために
金を寄附するに到った理由を述べます。
米国と日本の最初の条約の時1854−8年から日本のことに、又この国 の人々について知っています。(日本)政府の調査団がやってきて米国 政府に関する重要な事項や教育のシステムについて調べにやってきたこ とを覚えています。
また、日本の若者が教育を受けるために来ているが、自分の知ってい る限りでは気質・能力も好評で、彼らの多くはまじめなクリスチャンに なっているし、彼らは国民を尊敬しています。
私は新島氏のことについても知っており、彼がボストンへの上陸の時 から現在までのロマンティックな経歴、日本での大きな使命の成功に深 く関心を持っています。キリスト教に基づく教育のシステムを設立し、
維持する重要さに人々を導き、吹き込みました。国民に成したものは非 常に大きく成功したものです。そして人々を高尚にするでしょう。
聖書には我々は神の同労者であると、私は全ての心、知性で持って信 じます。神は日本での神の王国の設立を望んでいることも信じます。こ の為に人々に対し私のするべき大きな仕事があります。私の助けを必要 とする理由です。そうすることが私の大きな喜びでもあり、正しく高尚 な国民にすると信じています。
今まで日本について与えることを頼まれたり示唆されたことは無い。
私は神に何度も世界に対して私の義務を示すように頼みました。現在、
福音の真が育つ豊かな土地である日本に注目するように彼(神)から指 示されました。人々には直ちに援助が必要と思えたのです。
新島校長宛PS
この学校はキリスト教教育の道筋に保たれていると考えています。手
紙をProf. Learnedに見せてほしい。あなたの意見でなされるべき良き
ものは何かを示唆してほしい。」
この書簡中1854年は「日米和親条約」、1858年は「日米修好通商条約」
のことで、政府の調査団というのは1872年1月15日から8月6日のいわゆ る岩倉使節団である。Harrisは1855年には政治家としてコネティカット州 の議員となっているので、国際関係にも関心があった違いない。教育にも関 心があって日本の留学生のことにも関心を示している。また、新島の経歴に ついては、アメリカン・ボードの理事をしていたことから、同じ理事をして
いたA. Hardyから聞いていても不思議ではない(後出の12月26日付の書
簡ではA. Hardyと知己であることがわかる)。新島の日本に於いてキリスト
教に基づく教育システムを設立し、人々を導いていることに関心を持ち、協 力するとの意思表示をしている。
この文面でHarrisは熱心なクリスチャンであることがうかがわれ、自分 は神の同労者であって神の王国を建設に力を貸すことに大きな喜びを感じる と記している。日本人の若者の留学生の米国でのまじめな姿勢を見、日本は 福音が豊かに伝わる国であると理解し、寄付が意味あるものと考えている。
同じ日付の書簡で、
1889年7月8日 Mr. Neesima宛29)
「5月17日付のあなたの書簡を受け取りました。すぐに返事をしようと したが、他の仕事が忙しかった。あなたの健康が回復していることをう れしく思います。健康を取り戻すことを願っております。
理事会に手渡す書簡を同封しました。そこにはあなたが計画している 大学(Univ.)に関連した School of Science設立についての私の計画の 思いのいくつかの理由があります。
この学校に対するキリスト教教育に関してはProf. Learnedにこの手
紙を見せてください。
PS あなたの写真をありがとう。近々私の写真を送ります。」
5月17日の新島の書簡は資料3の[同志社大学募金日誌]にあるもので、
寄付に対する礼状だと思われる。この書簡は多分新島がHarrisに出した初 めてのものと思われる。これに関しては同年3月4日付Learnedは新島宛書 簡の中で、「Harris氏に手紙を書くように」促しています。また「同志社」
の名前を諦めることは不可能だと思いますが、Harris氏の名前を学部名に与 えるのは当然であります」とあり、2月28日付Learnedの書簡を受けて新 島は寄付に対する思いをLearnedに伝えていたのだろう。
Harrisは新島の健康がすぐれないことをこの時点ですでに知っていて、最
初に健康の回復を願っている。また5月17日の書簡で新島は自分の写真を 送っていることがわかる。
HarrisはLearnedを意識している。同じ教会に所属しているということも
関係しているのであろう。Greeneとも米国でかなり相談し検討し、学校名 に「Harris」を冠することなど話の中で出ていたのだろう。寄付が適切に運 用されることを助言してほしいというような意味もあったに違いない。
1889年7月25日 Mr. Neesima宛30)
「1879年に写した写真を同封いたします。今年写したものが他にありま す が 、 私 の 友 人 が む し ろ 送 っ た も の の 方 が 良 い と 言 い ま す 。Mr.
Shimomuraが後の方の写真を持っています。
明日 Mr. Learnedに郵便でScience Hall勘定の3,000ドルを送りま す。」
新島が送った写真の返礼として送ってきたのであろう。遺品庫の目録に
Harrisの写真が1枚あるが多分これに当たると思われる31)。10年前のもの
を送ったというのは面白いことである。
Science Hallの費用3000ドルをLearnedに送るのは彼に信頼を置いている ことを示している。
また、今年写した自分の写真を下村に渡していることから、この時点で
Harrisは下村とはかなり懇意になっていることがうかがわれる。
1889年9月6日 Rev. Joseph H. Neesima. Prest宛32)
「7月17日付の手紙をありがとう。同志社大学(Univ.)と関連したHarris School of Scienceを設立するための私の寄附100,000ドルを同志社大学
(College)の理事会が感謝するとの連絡をありがとうございます。
私はこのことに喜びと感謝をします。神は私に喜ぶ心を与え、あなた にこのお金を与えることを求められた。これは神の栄光とあなたの(国 の)国民に大きな良いことと信じています。われわれは神との同労者で あり私の義務であることを疑いません。あ な た の 考 え て い る 大 学
(Univ.)は大きくなるという私の望みがいかに大きいものであるか言い ようがありません。手を使わずに山から切り出された石が全地球に満ち たように(ダニエル234−)。
私 は Mr. Learned に 郵 便 で 建 物 勘 定 の3,000 ド ル を 送 り ま す 。 WorcesterのMr. Hullerに購入してもらっているScience Hall の装置の 支払いをします。
同志社の教授団、理事によろしく伝えてください。7月の生徒の集会 の写真33)をありがとう。」
7月17日付の手紙は5月28日の[同志社社員会記録]にある17条のこ
とで、6月7日のHarris宛の新島の書簡の草案及び、同日の[同志社社員会
記録]34)にはHarris氏の名前を付けた学部名のことについて言及している。
これは3月4日の新島宛Learnedの手紙にあった内容とは関連している。
Harrisは自分の名前の付いた学部が出来ることに、また、神の導きに感謝
し、このことが日本人にとって大変良いことであり、神の栄光になることを 信じている。ダニエル書を引き合いに出して同志社がさらに発展することを 信じている。ここでも Learnedを通じてお金を送っている。Mr Hullerはウ ースター工科大学の学長で下村の先生に当たる人で、一時はこの家に居留し ていたこともある。
1889年11月25日 Rev. Joseph H. Neesima President宛35)
「10月18日付のあなたからの手紙受け取りました。同志社とそれに関
連したschool of scienceの興味あることについてあなたから聞かせても
らうことはうれしいことです。
The Harris Scientific Schoolの化学の教授(regular professor)に下村氏 を任命することは賛成です。
支払うべきサラリーは理事会で調整するべきで同志社に関係するアメ リカ人教授と協議してもらえればうれしいことです。
Dr. Greeneとの話から私の印象ではあなたが手紙で示したよりも、教
授団の平均サラリーは少ないと思います。
私はMr. Learnedに下村氏のサラリーを支払う準備をするように手紙
に書きました。あなたがその学部を準備するために下村氏に世話を頼ん でいるからであります。Scienceの学部は同志社Institutesの大きな信用 になるでしょう。
下村氏について私が知っている限り彼は理解力があり、まじめなクリ スチャンで教授にはぴったりで好ましく思っている。私は下村氏の手紙 に非常に関心を持っています。その中には理事会としての報告や、実際 の学校との関係等を知らせてくれます。私は将来のことに非常に関心を 持っていて、アメリカンボードの主事Dr. Clarkに手紙を書きました。
私はあなたの理事会のメンバーが品位が高く永続的であって基金を委託 しても管理してもらえることを知って喜んでいます。
建築の基本計画は学長室、応接室その他であるが最近の手紙では計画 は変更されています 。 私 の 考 え は 建 物 す べ て は 理 科 学 部 (Sciense Department)が必要とする限りは優先して使用されるべきと思います。
それまでは同志社の為に使用しても構いません。Dr. Clarkとの相談で
はむしろHarris Schoolの計画の示唆と寄付金の基金の投資のことです。
彼は私がMr. Laernedに送った(計画の)コピーを私に送るでしょう。
彼は理事会に意見として述べると思います。21日に私はMr. Learnedに
N-york 3000ドルの為替手形を送りました。
あなたの健康の回復と、多くのアメリカのクリスチャンが深く関心を
持っている日本でのあなたの仕事の大成功を見ることを心から願って、
お祈りします。」
下村孝太郎のHarris Scientific Schoolの教授任命に賛成している。またそ のサラリーについてもどうするべきかを提案している。
Harrisは下村に対して絶大なる信頼を置いていることをこの書簡から読み
取ることが出来る。
建築物は、先ずScience Depertmentが何よりもまず優先して使用すべきで あると、それまでは同志社で使用しても構わないと。またLearnedを通して 為替で寄附金を送っている。
1889年12月26日 Rev. Joseph H. Neesima宛36)
「11月22日の東京からの手紙受け取りました。Mr. Learnedからも京都
でSciense Hallの定礎式が行われ上部構造が建ったことを知ってうれし
く思います。私は未だ建物のプランは知りませんが、近々Mr. Learned がスケッチを送ってくれます。建物の完成があなたの目的に良い答を出 すことを心から願っています。
建物が建ってあなたのキリスト教教育のシステムに関連して使用され ることは私にとって大きな喜びです。私はあなたの国民に大きな良きこ とが芽生えることを深く信じております。私は神がアブラハムをカルデ ス(ヘブル118)から呼び出したと同じように、あなたをこの国に呼び よせ、あなたに特別の仕事を準備したと信じております。
神が私に日本に与えるお金を備えさせ、その国民の繁栄に深い関心を 持たせ、価値ある方法で助成することを要求されたと信じています。
神は方法を提案し、それからそのことをする私の心を動かされた。と いうのは私の計画を示すまでに、以前から日本に関する私の心のなかに あることに誰か(人間)が知っていたのは確かです。
我々はそれがキリストの為であることを知るとき、与えることは簡単 であり、喜びである。
郵便で受け取った美しい写真、そしてMr. Gainsに託された珍しい菊
にお礼を申します。私は未だ彼から聞いてはいませんが、間もなく確か なことになるでしょう。
私の庭師はあなたがMrs. Hardyに送った菊について知っています。
その栽培についても理解しています。彼は我々のコレクションの中にこ のような菊のあることを誇りに思うでしょう。
私はMrs. Hardyと面識がないのは残念ですが、Mr. Hardyとは面識が
あり、何度かあなたについて話しています。我々はどちらも American
Boardのメンバーでした。
あ な た が Phillips Academy に 在 学 し て い る 時 、 私 の 娘 が Abott
Academyにおり、彼女はあなたの顔を見知っていました。
健康でありますように。」
Harrisに手紙を書いた11月22日は新島は東京の茂林館に移っていた。
(ちなみに16日には熱気があり食欲無く小川医師にかかっていた。)37)この 日、書簡中にあるM. R. Gainsと、H. Loomisが新島を訪問している。Gains は1884年12月から1889年11月まで同志社に在職の宣教師で英語と科学
(Science)を教えていて帰国する直前の訪問である。Loomisは米国長老派教 会の牧師で横浜第一長老教会を設立した人物である。
22日にこのM. R. GainsとH. Loomisが新島を訪問しているが、この日の
「漫遊記事」38)に「ゲーンス、ルーミス来ル。氷上ノ霜ト称スル菊二株、黄ニ シテ同種類ノモノ一株ヲ求メ、白一株、黄一株ハゲーンス、白一株ハルリス 氏ニ送ル」とある。新島はこの日にHarrisに手紙を書いている。
Science Hallの定礎式は1889年の11月15日である。
Harrisは、新島の活動を、聖書の譬えで、アブラハムが生まれ故郷のカル
デアを神の指示に従って、目的は知らず、ただ神を信じて旅に出た。そのも のに対し神はきっちりと準備しておられるというのと重ねている。その新島 に力を貸すことのできる自分を知って神に感謝している。
新島はお礼の気持ちだろうが珍しい菊(「氷上の霜」と言う)をGainsに 託して送っている。かってHardy夫人に日本の珍しい菊を送った39)のと同 じようにである。Harrisは手紙のなかでHardy夫人に送られた菊のことは知
っていると述べている。また夫人には面識ないが、A. Hardyとは面識あり、
新島について話したことがあると言っている。更に新島がPhillips Academy に在学の時期に、Abott Academyに在学中であった自分の娘から新島を見知 っていると聞いていると述べている。資料2で新島のPhillips Academyの在 学期間と娘の年齢から考えて娘のMary Woodruffと思われる。このことか
らHarrisは新島が米国にやってきたごく初期の時からその存在は知ってい
たことになる。ところがこの手紙はおよそ1カ月後に日本に届いているはず で、その時新島はすでに天国の旅に出発しており読むことは無かったに違い ない。Phillips Academyに在学中の時から自分の存在をHarrisが知っていた ことを知れば新島はどう思ったであろうか。
Harrisは早くから米国と日本の関係の動向については知っていたと思われ
る。このことは1889年7月8日付理事会宛書簡から読み取れる。日本との 関係が大きく動き出している時に、市長や州の議員、或いは上院議員を務め ていたことから日本にも関心は持っていたと思われる。日本からの留学生の 状況のことにも関心があり、新島のことについ て も 早 く か ら 、Phillips
Academyに在学しているときから娘Maryを通して、また、Hardyを通して
知っており関心を持っていたはずである。寄付の決定に至るまでHarrisは
LearnedやGreene、あるいは在米中の下村孝太郎を交えかなり話し合い、学
校名に Harris 名の表示の形式などが決まってきた時点で新島との書簡の
交換が始まったと思われる。
1889年7月8日付理事会宛書簡には寄附に対するHarrisの思いがよく表 れている。若い日本の留学生を見て、彼らが能力がありまじめに取り組む姿 勢、キリスト教信仰に対するまじめな姿勢を感じている。日本国民にはキリ スト教を伝え広める必要があり、その価値を認めて日本に対する援助に強く 期待を持ったと思われる。勿論この若者の一人として新島襄が強く映ってい たことだし、寄附の実務に対応した下村孝太郎の存在もHarrisの寄附に対 する思いを強くしたに違いない。
一方多額の寄附に至ったHarris自身の心の問題では1889年2月11日付
Greeneの書簡にあるように、Harrisは子どもを亡くし、自分の子孫が途絶
えてしまったことを気にしていた。それで自分の立場を証明するものを後世
に残したかったのである。下村孝太郎が講義の際に学生に語ったこととして 牧野虎次は『ハリス氏特志の動機』40)の中で「同氏の特志寄附に對し、特に 御禮を述べ度、且つ御指導を受ける必要もあって、自分は態々往訪した。同 氏は初對面とも思えぬ親しみを以て、未知の外人たる自分を歡待して下され た。食後に廣やかなる庭内を散歩するとて、奥まつた後庭に案内せられた。
豈に圖らん、そこに五つの墓碑が建てられたのを見出し、自分は怪んで同氏 を見上げた。同氏が頷き乍ら「この墓碑は孰れも我が愛児の爲に建てたもの だ。彼等は不幸にして先立ち逝いた。彼等の教育費にと用意したものを、そ の儘、同志社に寄附し、日本學生の科學教育に供する次第だ。君等は我が微 志にそうて盡力して貰いたい」と語れる同氏の眼には滴の光るものが見え た。」とある。同じことは「『ハリス氏理科学校寄附に関し下村孝太郎氏実 話』波多野培根先生ノートより」41)、からもうかがえる。多額の寄付をする
Harris理化学校が永久に存続することを願って、12月6日学校宛の趣意書
には建設費用の他にファンドとして日本で50,000ドル、米国で25,000ドル を用意して、運営の為の果実を考えたのだろう。
また、書簡を通して読み取れることはHarrisはピューリタンの流れをく む正当な会衆派の信仰の持ち主で、神の国の建設とその繁栄の実現を強く願 っていた。そのためにはA. Hardyの場合と同じように事業によって得た富 を社会に提供することで実現することを目指していた、所謂キリスト信徒的 実業家の模範である。更に新島(同志社)に対する寄付は理科教育に対する こだわりが強く、同志社の為ではあるが、先ず理科教育が優先されなければ ならないと言っている。資産を築いた事業に製薬会社や石炭採掘業、ガス会 社など理系・技術系の内容が関係しているのだろう。Learnedの紹介、申し 出で寄附を決めたとはどの手紙にも書いてはいないが、「Learnedに手紙を 見せてほしい」とか送金はLearnedを通して日本側に送るなど、関係が密接 であることを示している。それだけLearnedを信頼していたし、日本側で寄 付が適正に、また、永続して使用されることを願っていたのであろう。ま た、Harrisは新島のことを信頼していたことは間違いのないことだが、現場 での実務については下村に絶大な信頼を置いていたに違いない。下村を非常 に高く評価していたことも間違いない。このことは先のエピソードからも理
解できる。
新島の逝去の後、ハリス理化学校42)はその年の9月に授業を開始し、翌
1891(明治24)年4月7日に開校式を行った。1892(明治25)年に薬学部
新設、1893(明治26)年には理化学校第一回卒業生4名を出した。また同 年検査部を設け一般からの化学分析等に応じた。順調に発展していくと思わ れたが、1894(明治27)年日清戦争以後国家主義が台頭し、日本国内での 外国人やキリスト教に対する敵意が高まってきた。その結果、学生に対する 徴兵制度の猶予・免除の問題や、1890(明治23)年に発布された教育勅語 が同志社に大きく圧し掛かり、同志社の発展はおろか存続すら危ぶまれるよ うな社会状況になっていった。1886年度の学校報告では「徴兵に対する恐 怖のために、毎年われわれは最良の生徒多数を失っており、同志社は徴兵免 除を受けている官立学校のための予備校になる傾向がある。」43)と報告してい る。同志社を日本の教育制度に適応させる方針を追求して、1895(明治28)
年時の社長小崎弘道は同志社の名前のついているものはすべて同志社の管理 下にあると見なして権限を集中化しようとした。ハリス理科学校も管理下に 置く対象であった。このことでハリス理化学校を指導するべく選ばれた下村 孝太郎と衝突した。下村はハリス理化学校は同志社との関連で運営されるけ れども、同志社からは完全に独立したものであるという保証を与えられてい
た44)。下村はJ. N. Harrisの寄附の手紙(趣意書)を小崎に再度見直すこと
を要求したが応じられず下村は辞表を出した。この後1896(明治29)年8 月には薬学部が廃校になり、翌1897(明治30)年「理科学校の学科程度を 引き下げて、同志社高等学部の一部となし、以て科学的専門教育を授くるこ とを中止し」45)ハリス理化学校は廃校となった。卒業生総数は22名で終っ た。日本が明治維新を迎え欧化主義がうたわれていたが、時の経過とともに 国家主義の台頭で徴兵制度の問題や教育勅語の発布と重なり、キリスト教主 義をうたっていた同志社には厳しい環境になり、その対応でこのような結果 に行きついたことは返す返す残念なことである。
国家主義の台頭と同志社との関係は重要な研究テーマであり別の機会に考 えるべき問題として残っている。
資料3 ハリス理化学校寄付金に関する書簡・記録等
1888年1月31日 特に理化学科設置の為に15,000ドルの寄付金が期待されている。
これの寄付者はコネティカット州ニュー・ロンドンの会衆派教会 の著名な実業家、ジョナサン・N.ハリスJonathan N. Harrisだっ た。この寄付金に関する知らせは1888年1月31日にN. G.クラ ークからミッションに送られてきた。そして1889年にこの金は 寄付者によって十万ドルに増額された。
『同志社談叢』vol.23(2003年3月)p 9−10
ポール・V・グリーシー「同志社の土着化(1875−1919)」(その 3)北垣訳(N. G. Clark to D. W. Learned, January 31, 1888, American Board Papers.)
1888年1月 新島は「旨意」の中で・・・寄付者のリストをかかげ、次に、つ いでながらアメリカの一友人が最近理科学校校舎の為に一万五千 五百ドルを寄付する約束をしてくれたと書いている。この金額 は、コネティカット州ニュー・ロンドンの会衆派の実業家である
J. N.ハリスが約束したものであり、ハリスはアメリカン・ボー
ドの外国担当主事を通して同志社に興味を持つようになったので あった。自然科学部門を収容する校舎を建てるために使うべき金 が約束されたという知らせは、1888年1月にクラーク主事から 京都へ、喜びの気持ちを込めて連絡してきた。
P. F.ボラー『アメリカンボードと同志社1875−1900』北垣訳p 95
(2007年2月)(N. G. Clark to D. W. Learned, Boson, Jan. 31, 1888, Japan Mission Papers.)
1888年春 1888(明治21)年春、新島の希望を知っていたラーネッド教授
がこれをコネティカット州在住の母堂に伝えたところ、母堂から ニュー・ロンドンのハリス氏に談合してはという注意があった。
・・・・・交渉がはじめられたところ、同年秋、同志社へ一万ド ルの寄付申し込みがあり、
『同志社百年史 通史編1』p 372(1979年11月)
1888年8月11日 下村孝太郎宛新島書簡 同志社に於いて科学教育の隆盛のための 推進依頼。
(書簡中にはハリス氏からの寄付金のことにはまったく触れられ ていない。) 全集③pp 619−622 1888年10月13日 徳富猪一郎宛483号
本年八月中米国ノ一友人一万弗ノ寄付金ヲ申込ム
全集③p 648 ⑧p 461 1888年11月12日 下村孝太郎宛(英文)274号
As you know, the American Board has given us $50,000 as our fund and $10,000 more from a private individual quite lately. If we get
$100,000 more it will help us finely. 全集⑥p 336 1888年11月16日 「同志社設立の旨意」(国民の友)
又た本年八月、米国の一友よりして更に壱万弗の寄付金を申し込
まれたり、 全集①p 134
1889年2月11日 D. C. Greene来簡(在マサチューセッツ)
あなたはMr. Learnedを通して同志社の寄付に対して50,000ドル
というMr. Harris大きな約束について聞いています。
彼(Mr. Harris)は結局学校に対してもっとするだろうと思いま す。あなたの計画を自由にLearnedやMr. Davis、その他に相談 するべきです。それでMr. Harrisに充分に伝えることが出来ま す。彼には子どもがありません。そして彼を証明する何か頼りに なるものを当然ほしがっています。
『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』(3)pp 646−649 1889年2月28日 D. W. Learned来簡(在京都)
「同志社設立の旨意」の翻訳の写しを一人の紳士におくりました。
その人は新しいScience Hallに対して15,000ドルをあたえてく れます。丁度彼から回答を得たところです。非常に関心を持って いて私からいろいろ聞きました。New LondonにDr. Greeneを招 いて長く話しました。大学に対してかなりのことをしたい。その
結果50,000ドルの申し出を暗示しました。大学に自分の名前を
とって命名したがっている。50,000ドルの約束はそれを条件とし たものである。同志社の名前をHarrrisに変更するのは不可能だ が 、Yaleの Sheffield Scientific School と 同 じ よ う に 同 志 社 の Harris Scientific Schoolと呼ばれるでしょう。あなたにその意思 がありますか。現在、Harris氏の申し出について誰にも話さない ようにしてください。
『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』(3)pp 658−660 1889年3月4日 D. W. Learned来簡(在京都)
Harris氏の贈り物についてあなたが言っていることは何と素晴ら
しいことでしょう。同志社の名前を諦めることは私にはまったく 不可能なことだと思います。しかし私はあなたがHarris氏の名 前を学部名に与えるのは当然だと思います。私はあなたがHarris 氏に手紙を書くことを希望します。
『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』(3)pp 662−663 1889年3月9日 下村孝太郎宛598号
レールネド氏之一友人(ニューロンドンノ人)一万弗スイヨンス ホール之為寄附致し呉、又続而五千弗寄附相成リ、又タ殊ニヨリ 候ハ、サイエンティフィクデイパルトメントノ為メニ五万弗ノ寄 附アルトも難計候、左スレハサイヨンス拡張ノ為ニ大ニ勢力ヲ得
可申事ト存候 全集④p 71
1889年4月27日 D. C. Greene来簡(在マサチューセッツ)
Harris氏が私に渡したメモのコピーを同封しました。彼の贈り物
が下村氏の給与を除いて100,000ドルにまで増額されたことを知 るでしょう。 『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』(3)pp 679−681 1889年5月8日 [同志社設立募金日誌]
米国コンネテカット州ニューロンドン邑ノ住人「J. N. Harris」氏 ヨリ芸術館新築ノ為壱万五千弗、地代壱千五百弗等ノ外、更5万 弗ヲ寄附シ呉レタリ。 全集⑤p 467 1889年5月12日 徳富猪一郎宛642号
ハルリスト申人・・・、理化学教場建設ノ為トシテ1万弗ヲ寄附 シ呉レタルニ、一万弗ニテハ充分ノ事ハ出来マシキヲ恐レ、又更 ニ五千弗ヲ逐加セラレ、・・・維持費トシテ五万弗ヲ寄附スヘキ 事ヲモ約サレ、・・・下村孝太郎氏ノ求ニ応シ、理化学機械買得 ノ為、先ツ八千弗・・・ 全集④p 125 1889年5月13日 北垣国道宛645号
過般来少々噂も有之候米国人より敝社へ之寄附之義ハ弥近着之来 書ニより確定仕候間・・・
一 理化学教場建築費トシテ曩キニ壱万五千弗之寄附を申込、又 右維持費として更ニ五万ニ千弗を逐加被致候 全集④p 130 1889年5月14日 北垣国道来簡 610号
拝読来諭ハルリス氏寄付金之義委細敬承 全集⑨下p 907 1889年5月15日 N. G. Clark宛[AB]287号
We all rejoice for Mr.[Jonathan N,]Harris’s generous gift to the
Doshisha 全集⑥p 356 1889年5月15日 S. H. Hardy宛[L. L.]288号
(mid-May)my life is in his hand and I am not nervous at all. This sum in just right time to relieve me from to intense anxiety.
〔This sum=Mr. Harris generous gift to the Doshisha〕
全集⑥p 356 全集⑩p 348
(以下二重下線はHarrisからの来簡、単一下線はHarris宛新島書簡その所在は 不明である)
1889年5月17日 [同志社大学設立募金日誌]
ハルリス氏に一通ノ礼状ヲ出ス 全集⑤p 467 1889年5月28日 [同志社社員会記録]
十七条 礼状ハ日本文ニテ美麗ニ仕立差出ス後段ハラル子ット氏 ニ依頼 「百年史」資料編2 p 1264 1889年5月30日 北垣国道宛655号
扨昨日来着之米信中、兼而幣校へ六万七千弗(5万ハ維持費他ハ 建築諸雑費)寄附致し呉候ハルリス氏より、又々三万三千円之遂 加寄附致し合計十万弗ニ可致旨申来候間、 全集④p 141 1889年5月30日 北垣国道来簡620号
扨ハルリス氏寄付金尚又多額之増加有之候趣拝承不堪感佩之至 候、外国人ハ如此義ニ勇ミ仁ニ厚キニ、何故家国人ハ冷淡ナル ヤ、ハルリス氏之特志ニ感激スルト同時ニ・・・ 全集⑨下p 917 1889年6月1日 徳富猪一郎宛657号
又今回米国之ハルリス氏よりハ逐加寄附として先之六万七千弗ニ 三万三千弗を加へ、合セテ十万弗と成し呉申候、実ニ氏之好意ニ
ハ感服之外無之候、 全集④p 145
1889年6月4日 井上馨宛660号
米国之有志家コンネカット洲ニューロンドン邑之ハルリス氏よ リ、理化学教場建築之為一万七千弗寄附相成、続テ五万弗ヲ右維 持費トシテ寄附致シ呉候処、近着之来信ニヨレハ又々三万三千弗 ヲ逐加スヘキ計画モ有之候由 全集④p 149 1889年6月7日 ハリス宛(日本文草案か)661号
続々巨額ノ金ヲ寄附セラレテ、遂ニ拾万弗ノ多キニ達セシメラレ タリキ、嗚呼貴殿ノ寄附ノ如キハ我カ東洋未曾有ノ美挙ニシテ、
全集④p 150
1889年6月7日 [同志社社員会記録]
理科教場!ニ塾舎建築ノ委員ハ社長ノ特権ニテ金森大沢両氏ニ委 託ス
ハルリス氏ヘノ礼状草案ヲ新島氏ヨリ提出アリ其文中ヘ日本人民 永ク福祉ヲ受ケルト云文!ニハルリス氏理学館ノ名称ヲ記シ学科 ノ唱ヘヲ理学部ト称ス 『百年史』資料編2 p 1266 1889年7月8日 J. N. Harris来簡 理事会宛
理化学校に寄附する動機については、アメリカに来る青年が立派 であること、新島がボストンに来た話に打たれたこと、日本に神 の国を建てることを信じること等。 全集⑧p 529 1889年7月8日 J. N. Harris来簡 新島宛
理化学校設立計画につき理事会に一書を呈する。その学校のクリ スチャン教師についてラーネッドに送った手紙を読んでほしい。
全集⑧p 529 1889年7月17日 新島発信 J. N. Harris宛
1889年7月25日 J. N. Harris来簡 新島宛 1889年9月3日 J. H. Seelye宛
I suppose you know that Mr. J. N. Harris of New London has given us $100,000 to found a Scientific School in connection with us.
全集⑥p 362 1889年9月6日 J. N. Harris来簡 新島宛
寄付金によりハリス理化学校が創設されることを神と同志社に感
謝する。 全集⑧p 539
1889年10月18日 新島発信 J. N. Harris宛 1889年11月22日 新島発信 J. N. Harris宛 1889年11月25日 J. N. Harris来簡 新島宛
下村孝太郎のRegular Professor of chemistry任命を承認、そのサ ラリーに関することを記す。 全集⑧p 554 1889年12月6日 J. N. Harris来簡(理化学校宛)
10万弗の寄付 地所・建物・機器の為に25,000弗(含2,000弗 寄宿舎)
維持資本(日本政府の公債証書)5万弗、米国にて投資 2万5 千弗 『百年史』資料編二p 231−234、『同志社五十年史』
中瀬古訳p 415−418、『新島研究』46号(1976. 7)pp 37−38
注
1)『同志社五十年史』には中瀬古六郎の全訳がある。
2)この他に新島の逝去後1896年6月9日付で同志社社長小崎弘道あて「補充寄付 書翰」等がある。
3)中西進「ジョナサン・ニュートン・ハリス伝等」『新島研究』38号(1971)pp 25
−30.
4)大越哲仁「同志社ハリス理化学校設立次第」『新島研究』106号(2015)pp 115−
119.
5)いずれもキリスト教伝道師養成の学校である。
6)同朋舎出版『新島襄全集』第7巻 新島襄全集編集委員会1996年 p 216.以下
『全集』と省略。
7)上記中西進、大越哲仁論文から作成した。
8)『同志社百年史 通史編1』学校法人同志社 1979年p 372.
9)ポール・V・グリーシー『同志社の土着化(1875−1919)』(その3)『同志社談叢』
vol.23(2003年)pp 9−10.
10)P. F.ボラー『アメリカンボードと同志社1875−1900』(2007年)p 95.
11)『全集』第3巻 pp 619−622.
12)『全集』第3巻 p 648.
13)『全集』第1巻 p 134.
14)『全集』第6巻 p 336.
15)『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』(3)同志社大学人文科学研究所2007年p 660.
以下『英文書簡集』とする。
16)『全集』第4巻p 71.
17)『英文書簡集』pp 679−681.
1889年12月26日 J. N. Harris来簡 新島宛
ハリス理化学館Science Hallの礎石が置かれたことを喜ぶ。
全集⑧p 562 1889年12月27日 [同志社大学設立募金日誌]東京新島氏遇所ニ於テ会議ヲ開ク
第四 化学部 先ツ化学部丈ヲ設ル事、応用化学部ヲ追加スル 事、下村氏ニ取調へヲ委托スル事 全集⑤p 481
(会議の後大磯へ移動 全集⑧p 563)
1890年1月23日 大磯、百足屋旅館にて 新島襄逝去する
18)『全集』第4巻p 141.
19)『全集』第5巻p 466.
20)『全集』第4巻p 130.
21)『全集』第6巻p 356.
22)『全集』第6巻p 356.
23)『全集』第5巻p 467.
24)『英文書簡集』p 662.
25)『同志社百年史』資料編二p 1264.
26)『全集』第4巻p 150.
27)『同志社百年史』資料編二p 231,『同志社五十年史』に中瀬古訳がある。p 415.
28)『英文書簡集』p 708−709.
29)『英文書簡集』pp 709−710.
30)『英文書簡集』p 172.
31)『同志社新島先生遺品庫収蔵目録』下(1980)p 220目録番号3396.
32)『英文書簡集』pp 717−718.
33)『全集』第6巻p 359 7月27日の卒業式の写真ではないかと思われる。
34)『同志社百年史』資料編二p 1266.
35)『英文書簡集』pp 731−733.
36)『英文書簡集』pp 737−739.
37)『全集』第5巻p 397.
38)『全集』第5巻p 397.
39)末光力作「新島先生と植物」『新島研究』72号(1988)p 11.
礒 英夫「アルフィーアス・ハーディーの系譜」『新島研究』102号(2011)p 141.
40)牧野虎次「ハリス氏特志の動機」『同志社工学会誌』−ハリス氏記念号−第1巻第 2号(1951)pp 10−11.
41)この資料は同志社社史資料センター所蔵である。その内容は『下村孝太郎氏の実 話』と題して
「ハリス氏或時予に語られたるに我が此度の寄附を思ひ立ちしは人の勧に 因るに非ず、実は過ぎし十年間日本の事を考へ居たりし結果なり、日本人は 深く肝に銘して恩を忘れず思はざる時に昔日の恩を報するの風あり、余は智 慧ある者を好み、才能ある者を愛す、日本の学生此国来る者勉強心甚た盛ん にして何れの学校にても日本学生の地位高し、これ感心する第二なり、彼を 思ひ是を考え他日日本の為に一瞥の力を尽さん事を思ひ立ちしは昨今の事に
非ず、折しも新島氏の発起にて同志社大学設立の事あるを聞き心終に決して 今日の事あるに至れり
× ×
○氏涙を浮て語られけるは波里斯理化学校は是れ天の設け玉ふところなりと、
○又墓場に導き愛女の新しき石碑を指して曰く彼れ逝かざりしならば日本にハリ ス理化学校は起こらざりしと、
○又油絵を打眺めて曰く彼(小児を云ふ)居りしならんには日本人ハリス理化学 校を知る能はざりしならんと、
蓋し氏は子女数人を生みしも不幸にして皆夭死せり、氏愈富んて愈人生の不幸 に感じ大に慈善の心を起し深く思慮に沈みて是れ必ず神命のある所なるべし、
天意のある所嘱之をなさんのみ」と考へて遂に寄附するに到りしなり」
42)開校時校名は「ハリス理化学校」であるが、1892(明治25)年6月1日から
「ハリス理科学校」としている。『同志社ハリス理化学校録事』より。
43)P. F.ボラー『アメリカンボードと同志社1875−1900』(2007年)p 113.
44)同上 p 140.
45)「ハリス理化学校関係資料」『同志社談叢』第5号(1985年)p 121.