著者 布施田 哲也
雑誌名 新島研究
号 105
ページ 114‑126
発行年 2014‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014145
新島襄の持病リウマチズム (Rheumatism) について
布施田 哲也
はじめに
新島襄は、成人前後より病苦に悩まされ本人曰く「諸病の問屋」「病魔 の一囚人」と称している。新島襄の病状については、宮澤正典、坂部慶夫、
森中章光らの先行研究があり詳細に述べられているが、リウマチズムに関 しての記載は少ない。1)2)3)また新島襄逝去前後の模様と当時の新聞、雑 誌等に掲載された追悼文については『新島襄先生就眠始末』で知ることが できる。4)今日新島襄の全体像は新島襄全集や新島襄遺品庫等の豊富な史 料で自由に概観でき、新島襄が函館から日本を脱国してたどりついた米国 ボストン周辺は最高級の文化生活水準を誇っており、異文化交流の記録と しても興味深い。今回は医学的側面から新島襄が成年期以降に苦しめられ たリウマチズムの全体像について考察していく。
主たる病歴
新島襄の主だった病歴は以下の通りである。8歳ごろ左のこめかみにけ がをする。大きな外傷であったようで、肖像画・写真よりその傷跡を確認 することができる。
1.19歳時(1862年)麻疹に罹患する。全快するのに3ヶ月を要するほど の重症であった。
2.27歳時(1870年)春、リウマチズムに罹患、以後何度も繰り返される 発熱に悩まされる。
3.41歳時 (1884年) ヨーロッパ単独旅行中スイスの山中で、突然の呼吸 困難の発作に襲われ遺書をしたためる。
4.44歳時(1888年)正月に動悸をおぼえ、以後動悸の症状は終生続く。
5.46歳時(1890年)1月11日よりの胃腸症状から盲腸部の痛み、鼓腸、
衰弱となり23日永眠した。
文久二年の麻疹大流行(1862年)
新島襄は、少年期を通じ壮健であったが、19歳時(文久二年・1862年)
の麻疹大流行の際に麻疹に罹患した。武蔵国江戸の年表に「武江年表」と いうものがあり、文久二年に次のように記されている。
「夏の半ばより麻疹世に行はれ、七月の半ばに到りては弥(いよいよ)
蔓延し、良賤男女この宿痾に罹らざる家なし。此の病、夙齢(としわか)
の輩に多く、—天保七年の麻疹にかゝらざる輩なり—、強年の人には稀な り。凡そ男は軽く女は重し。それが中に、妊娠して命を全ふせるもの甚だ 少し。産後もこれに亜(つ)ぐ。後に聞けば、二月の頃西洋の舶、崎陽(な がさき)に泊して此の病を伝へ、次第に京大坂に弘まり、三、四月の頃よ り行はれける由、江戸に肇まりしは小石川某寺の所化何がし二人、中国よ り江戸に来りし旅中に煩ひて、四月の頃病中寺内に入り、闔山の所化に伝 染しけるが、夫より五月の末に至り少しく行はれ、六月の末よりは次第に 熾にして、衆庶枕を並べて臥したり。」と記されている。5)
青年期の麻疹であり軍艦操練所を3ヶ月休むほどの重症であった。その 後視力低下や頭痛を訴え学業に妨げがあったと記載している。この当時、
麻疹は数十年に一度大流行し幼少児から成人まで多くの方が一度にかか り、また亡くなる怖い病気であった。回復後も重い合併症で体力が回復せ ず、失明することもあった病気であった。先の大流行は武江年表にもある ように天保七年(1836年)であり26年ぶりの大流行となった。麻疹後の新 島襄は、眼病にかかってしばらくして回復していて麻疹の眼科合併症であ る角結膜炎になっていたと考えられる。
リウマチズムの記載のはじまり(1870年)
1870年27歳のアーモスト大学卒業前に何週間も続く発熱で起き上がれ なくなっている。1870年3月25日の Hidden 女史にあてた手紙の中では、
“I can staying in Prof. Seelye’s house to be cared for my sickness. It was very
severe rheumatism. I suffered greatly about 2 weeks ago.” という
記載がでてくる。6)この時のことは、1871年2月の弟の新島双六あての手 紙にも、「乃兄ニ於も昨年三月より悪き風邪及熱病をやみて兎角身体虚弱、已む事を得ず同八月迄廃学致し居候」と記載している。7)
ところが、1870年7月25日にシリー夫妻に充てた手紙では、「3月に経 験した熱病は、アーモストにいたときにも実はあったが、誰にも知られた くなかったため秘密にしていた」と記載している。
“I had the same trouble、while I was in Amherst, but I kept it secret, because I disliked to speak of it.”8)年譜によれば1868年の3月から4月に かけて3週間あまり頭痛、悪寒によって歩けなくなり3週間あまりベッド ですごしている時のことと思われ、最初のリウマチズムの発作は、1868年 である可能性もある。
その後、再々リウマチズムの発作には悩まされている。1871年の冬には リウマチズムにかかり数週間何もできない状態が続いた。日本への手紙に は 「ルーマチスムと申足痛」と記されている。9)
1871年2月には、アンドーバーからボストンへ移動する際、クラスメイ トに抱えてもらい移動しており、自分だけの力では移動が困難な状態で あった。10)
1872年10月には岩倉使節団の田中不二麿に同行しヨーロッパ各国の 教育制度調査の際、ベルリンから手紙でリウマチズムのことを “my old trouble” “this rheumatic trouble” “my rheumatism” と記している。11)注目 に値するのは1873年10月25日の手紙で “I was taken down with a severe
rheumatic fever and was quite ill for 6 weeks.” と、ここでは “Rheumatic
fever” という記載がなされている。12)手紙、日記等より1874年帰国以前で は1870年3月25日、1870年12月、1871年2月10日、1872年10月2日、1873年1月15日、1873年6月、1873年11月24日にリウマチズム関連の記載があり、
周期的に発熱・頭痛・関節痛等で日常生活が大きく妨げられていた。
サン・ゴダール峠での出来事(1884年)
1874年10年ぶりにアメリカン・ボードの準宣教師として帰国した新島襄 は、日本に必要なものは、教育とキリスト教の伝道であると考えて教育機 関の設立に力をそそいだ。1875年2月には軽いリウマチズムが出たとの記 載があり、その後約10年は、具体的にはリウマチズムの記載はないが、頭 痛や不眠等には悩まされていた。
1883年11月、仕事の激務が続く新島襄には海外での静養が必要であると の手紙が医療宣教師ベリーよりアメリカン・ボードの海外伝道部クラーク 師に出された。その後アメリカン・ボードより「必要とされるだけの期間 にわたり、休暇を取ることができる」という休養を許可するという通知が 新島襄に届いた。
1884年2月11日、熱海で伊藤博文の別荘での会見を終えた翌日熱海の湯 に浸かった際には、「眼ト脳ニヨロシカラス。ルーマチス等ニヨロシ。」と いう記載がある。リウマチズムの再発にはたえず気になっていたようであ る。13)
その後休養のため、1884年ヨーロッパ経由でアメリカに出かけている。
インド洋から紅海を北上し、地中海に入り、イタリアを訪問する。暫く滞 在した後、アルプスを越えてスイスに入るためサン・ゴタール峠に向かっ ているとき、呼吸困難の発作に見舞われる。
1884年8月6日のことは「サンゴタールトノ雪山ニ試ム。冷風膚ヲ浸シ 厳冬ノ感ヲ起コサシメタリ。山中俄ニ心臓ヲ発シ、一歩毎ニ足ヲ止メ、漸 ク山中ノ一旅店ニ投ス。苦痛甚シク、薬ナク医ナク最早骨ヲ雪山ニ埋ムベ シト決心シタリ。併シ芥子泥ヲ胸ニ張付タレバ一時間ノ後苦痛去ル、然 シ苦痛ノ去リシ後歩行ヲ試ミタルニ、全身力ナキヲ覚ユ」と記載してい る。14)異国の地で死を覚悟した新島襄は、遺書をしたためて「心臓に何か 故障が起きたに違いない」と書き残している。 その後ルツェルンまで移
動しストッカー博士の診察を8月9、11、17、19日の計4回受けている。
1884年8月19日 朝ストッカー博士に呼ばれて新島襄は次のような説明 を受けていたと記載している。“I called on Dr. Stocker that morning. He told me that my left heart is affected. It does not shut quite tight enough.
(中略)He said that the way medicine for me is rest and do nothing. If I take a proper care it can be healed possibly within a short while, if not it might last me for a long time.”「心臓の左側が悪くぴったりと弁が閉じな い。有効な治療法は休息と何もしないことである。適切に療養すればすぐ に治るであろうが、無理するとあとあとまで影響が及ぶであろう」という アドバイスを受けている。15)
このときは、体動時呼吸困難、疲労、起座呼吸様の記載があることから 心不全の症状があらわれたものと考えられる。ストッカー博士は、左の心 房と心室の間の弁がきちんと閉じないこと、すなわち僧帽弁の閉鎖不全が 心不全の原因であると説明している。本来の血液の流れは、肺からの血液 が左心房にはいり、左心房と左心室のあいだの僧帽弁を通過して左心室に 血液がたまり、左心室から全身に血液が出て行く時には僧帽弁はぴったり と閉じ大動脈弁が開き、左心室の強い収縮力によって全身に血液が流れだ されるという動きになっている。僧帽弁が完全に閉じていないと、左心室 が収縮し全身に血液を送り出す際に左心房にも血液が逆流することにな る。この病態生理をストッカー博士は新島襄に説明したのである。5日分 の水薬をもらったが、思いのほか早く治ったと感じた新島襄は リギ山
(1797m)に登山も試みている。「何之苦もなく一時間あまりにて山の頂迄 登申候」とあり1時間余りで山頂まで登ることが可能な状態に回復してい る。16)この年の11月14日ボストンにてリウマチズムが出て2週間ベッド生 活をしている。17)
元旦の動悸(1888年)
1885年12月に帰国して以降は小康を保っていたようであるが、心臓に関 する記載は以下のように散見される。
1886年1月「 軽いリウマチがでた。」1887年1月2日 「昨夜より心臓の 加減よろしからず。」
1887年6月13日、 黒磯の宿で「心臓に激動をおぼえる。」との記載があり、
心臓病が進行していたものと思われる。そして1888年(明治21年)元旦に 動悸を自覚する。
「朝、同志社に行く途中、御所内申ケ辻付近で動悸起こり、目が眩み、
一歩も進めなくなる。しばらく立ち止まって休息ののち同志社に行き、新 年の挨拶をして再び気分が悪くなり、夫人の乗ってきた人力車で帰宅、ベ リーの診察を受ける。病状悪く、高声で話すことを禁じられる。また、こ の動悸は一向に治らず、永眠に至るまで全癒せず。」18)
動悸はこの日以降治ったことがなかったということである。動悸の一番 の原因は、脈の不整すなわち不整脈によるものが多いが、めまいや体動時 の気分不良もあることから心不全がより悪化して動悸の症状をおこしてい るとも考えることができる。
医師の所見
動悸を自覚するほどに心臓病は悪化していたが大学設立のための資金集 めはうまくいかず、新島襄は再度渡米して資金を募る計画を考えるが多く の人から反対される。
「小生一月来心臓之加減尚宜シカラス、ベレー医師ハ予之米国行ハ予自 殺ノ策ナリト被申、相拒ミ呉レ候得共、今回生死ニ関ハラス是非一撃ヲ試 ミ度存居候、何レ出発ハ六月中カ七月早々タルヘシト存候」19)いったん渡 航を見合せるものの6、7月には是非渡米したいと考えていたが、主治医 でもあった医療宣教師ベリーより渡航は自殺行為に当たるといわれ厳しく 慎むよう説得された。
心臓の状態がはっきりしない新島襄は、1888年4月20日の上京の際、森 有礼文部大臣に東京大学ベルツ医師の診察を依頼している。森大臣は直ち に秘書官に紹介をするよう手配をおこなっている。22日に陸軍軍医で日本 赤十字病院院長の橋本綱常が診察し、「診甚悪シ、胃ニ水気多シ、診ノ悪
キ割ニ身体ノ挙動ハアシカラス、甚解シ難キ理由ナリ」といわれている。
23日にはベルツ医師が難波一医師と診察している。診察所見は「胃ハアマ リ悪シカラス、水気ナシ、脈モ意外ニヨシ」といわれており、ジギタリス の処方を受けている。
そして7月ベルツ医師と共に診察していた難波一医師より、妻八重に対 して心臓病がおもいこと、完治することはないであろうということ、突然 の絶命もありうることが説明されている。
医師からの話の内容は、そのまま妻八重より本人に次のように伝えられ ている。「心臓病ハ全治ヲ期スベカラズ、又心臓中ノ薄皮ノ如キモノ血中 ニ混ジ、脳中ニ上昇セバ直ニ卒中ノ如キ病症ヲ来シ落命スルニ至ル場合モ アルベケレバ、予ノ身内ノモノハ予メ之ヲ承知スベキ旨」20)
これは、僧帽弁閉鎖不全などで心不全になって肥大した心臓内の血流の 悪い所に血栓のようなものができ、これがふとした拍子に、全身に飛んで 脳の血管に詰まり、詰まる場所が悪ければ直ちに命を落とすこともあると 説明しているのである。
この時、難波一医師は、くれぐれもご主人には内密の上でとのことで妻 八重に話したのであるが、その秘密を八重は守ることができず主人に語っ ているということが、ハーディ夫人あてへの手紙からわかる。21)包み隠さ ずありのままの病状を八重が主人に話したことは、きわめてオープンかつ フェアであると思われ、先端的な夫婦像がみてとれる。
リウマチズムについて
Rheumatism について、当時の医学雑誌・教科書等での記載は以下の通 りとなっている。「20−30歳代の男性に多く見られ春先に発症することが 多い。突然の高熱で、40度を越すこともしばしばで、2 、3 の関節痛を伴う。
安静時は痛くないが、ひどいときには寝ているときの毛布の重みや上掛け がすれるだけでも飛びあがるほどの痛みとなり、ただひたすら発熱の時期 は安静が必要である。1回の発作はだいたい10日から14日続くとのことが 多い。発作は年余にわたって繰り返すことがある。」22)
19世紀後半には、発熱があり関節痛を伴うものを広くリウマチズムとし てとらえており、リウマチ熱と関節リウマチ等をほぼ同じ病気リウマチズ ムとして扱っていた。すなわち Acute Rheumatism(Rheumatic fever、リ ウマチ熱)と Chronic Rheumatism(Rheumatic arthritis 、慢性関節リウ マチ)の区別が充分認識されていなかった。もっとも細菌学や疾患概念の 確立などの主たる進歩は20世紀にはいってからであり、当時は痛風とリウ マチズムは違うものであろうという認識があったくらいであった。
一方で、急性リウマチズムに罹患した人からは、長年の期間をおいて心 臓疾患になることがわかりつつあった。「急性リウマチズムに伴う心内膜 炎はたいていの場合自然治癒傾向にある。その後心臓弁の変性変化は進む ものの症状が顕著になるのは長い年月のあとであり、おおむね中年期以降 に症状があらわれてくるのである」と記載されている。23)
新島襄が生きた19世紀後半のアメリカでは、リウマチ熱が大変流行しリ ウマチ熱の約半数は長い潜伏期を経て心臓合併症をおこすことが分かって きていた。24)
新島襄の病歴の今日的理解
1868年3月ごろよりのリウマチズムによる数回の発熱発作、1884年の心 不全、1888年の正月に心房細動などの不整脈が起きたものと思われる。こ こまでの病状を一つの流れで説明することは今日的には可能で、溶連菌感 染症後のリウマチ熱の発作に20代後半でたびたび侵された新島襄は、約10 年の時を経てリウマチ熱の晩期合併症である僧帽弁閉鎖不全の症状が徐々 に出てきて頭痛や疲れやすいなどの症状を呈していたのである。その後 1888年以降は心不全が日常生活を妨げる状態になっていたと考えるのが妥 当である。
新島襄が受けた治療
リウマチズムの発作に何度も苦しめられた新島襄の療養方法は、急性期
にはキニーネなどの解熱剤とただひたすらベッド上での安静が主であっ た。温泉による湯治をすすめられ1873年にはドイツのウィスバーデンにて、
また1884年末にはクリプトン・スプリングス(ニューヨーク州)にての温 泉療法を試みている。また心不全の症状がでてからはジギタリスも処方さ れている。
1870年代には、リウマチ熱に効果的とされるアスピリン等の薬は、一般 的には使用されず新島襄が服薬していた記載はない。このように19世紀に 生きた新島襄は、今日であれば当然のように受けることができる抗生剤、
抗炎症薬、利尿剤、抗不整脈剤、強心剤等の恩恵をほとんど受けることな く、当時リウマチ熱にかかった多くの人がたどったような晩期心臓合併症 に苦しみ、また虫垂炎も対症療法に終始する医療であり1890年に一生を終 えた。
病とむきあう姿勢
新島襄のリウマチズムは、長期間のベッド上安静を余儀なくし日常生 活を著しく制限した。しかしリウマチズムの発作に見舞われた時ハー ディ夫人への手紙の中で次のように書いている。“I was so much pressed by my duty, and kept up my study just much as I could. I never liked to complain for it, and kept up cheerfully my studies and my prayers till I was taken down entirely by this rheumatism.”25)リウマチズムによって行 動が自由にならないわが身ではあるが、病で倒れるまでは自分の任務・勉 学により一層真摯にとりくむという使命感が強くなっていると述べてい る。また、1888年、橋本軍医、ベルツ医師に診断をうけてのち、心臓病は 完治を望むことができないと宣言されて友人にあてた手紙には次のように 記している。
「先日来名医橋本軍医、其他ベルツ先生等之説ニよれハ、小生之病症ハ 早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばな らざる由、然し摂生之仕方ニよれは五年ヤ拾年ハ保ツへきも難計よし承知 仕候間、向後ハ全く事を打捨而閑散之身となるへきカ、将タ益戦場ニ向ひ
血戦を試むへきかは、一身上断行すへき一問題ニ有之候、生熟考するに寧 ロ戦地ニ在而一歩も退かさるは、平素戦士之心得たるへしと存候」26)長生 きするために仕事からはなれて静かに余生を送る身となるか、戦場におも むいて第一線で戦うかの決断がせまられているが、一歩も退くことなく戦 士の心構えをもって生きていたいという考えを持っていた。自分の身より も神や国、仲間を大切と考えている。
“Unseen Hand”
手紙からもわかるように個人よりも国、全体を大切と考えること、自分 自身の存在は神から与えられたものであって自分ひとりの利益のための行 動は慎まなくてはならないという新島襄の人生観は、一冊の漢訳聖書抜粋 との出会い以降、終生変わることがなかったようである。27)そんな新島襄 の人生を考える上で “Unseen hand” という言葉が書物、演説などにも出て くる。
1885年ハーディ夫妻に謹呈された My younger days では、「中国語で書 かれたこの短い聖書の歴史の中で、神の宇宙創造に関する単純な物語を読 んだ時ほど、創造者という言葉が胸にひびいたことはなかった。私たちが 生きているこの世界は、神の見えない御手によって創造されたのであって
(created by his unseen hand)、単なる偶然の産物ではないことを私は知っ た。」とある。28)
また二度目の渡米に際し、学生達に別れの演説をしたとき、「わたしの 一生はアンシーン・ハンド(Unseen Hand)に導かれ今日に至っている。
今後もわたしはこのアンシーン・ハンドの導くがままに行くべきところに 行くのである。今わたしがこの別れに臨んで諸君に願っておきたいこと は、わたしが万一この務めを終らないうちに、もし天に召される時が来た 場合、わたしが心の底から『神よ、われ、わが意のままをなすにあらず、
ただみこころのままになし給え』と祈り得るよう、何とぞわたしのために 祈ってくれ給え。今、諸君に願うところは、ただこの一事である。」と語っ ている。29)
このように自分の存在は、神が与えてくれたもので、病気になることも 神の考えがあって自分に与えられているに違いなく、まさに自分の一生は
「見えざる御手 Unseen hand」といったものに突き動かされていると確 信していた。
次の発作がいつ起きるかわからないリウマチズムによる突然の高熱や已 む無き休息といったものは、神がまさしくそうした試練を考えて与えてく れているもので、自分ひとりではどうにもならない大きな流れであり、そ の時々の自分の立場・使命・限られた命をより深く内省することになって いたと考えられる。
最後に
新島襄は、アメリカ留学中の若き日にリウマチ熱(Rheumatic fever , リ ウマチズム)を発病し、その後何回も再発した。その結果40歳すぎよりは スイスのサン・ゴタール峠での心不全の発症、1888年元旦の動悸の自覚と なりリウマチ熱の晩期合併症である心肥大や心不全・不整脈等の心臓合併 症に苦しむことになった。新島襄の持病となったリウマチズムは、医師団 から心臓病は完治することがない、突然絶命することもあると宣告されて いたが、新島襄の命を直接奪ったものは、心臓ではなく虫垂炎の腹膜炎に よってであった。
新島襄の疾病史を注意深くみていくことで、彼のリウマチズムは溶連菌 感染症後のリウマチ熱でありその合併症である心臓弁膜症にともなう心不 全で日常生活が大きく制限されていたことがわかった。
病をうけいれる新島襄の姿勢は、クリスチャンとしてつねに一貫してお り自分自身の命は、神より与えられ神の導き “Unseen Hand” によってな されているとの思いが強く、すべてを在るがままにうけいれる自然体の姿 勢がみられた。
参考文献
1)宮澤正典「新島襄と病気—書簡を通じてみた」 (『新島襄全集を読む』伊藤彌 彦編 晃洋書房 2002年 pp.203-223)
2)坂部慶夫 「同志社創設者・新島襄の病状、治療と現代医学との比較考察」(『新 島研究』92 2001年 pp.3-21)
3)森中章光「闘病の半生 その診療に関係ある医師たち」(『新島研究』48 1977年 pp.33-41)
4)池本吉治編 『新島襄先生就眠始末』( 警醒社 1890年)
5)斉藤月岑 『武江年表』(図書刊行会 1926年 pp.310-311)
6)新島襄全集 6 英文書簡編 (同朋舎 1985年)p.71 7)新島襄全集 3 書簡編 (同朋舎 1987年)p.85 8)新島襄全集 6 英文書簡編 (同朋舎 1985年)p.75 9)新島襄全集 3 書簡編 (同朋舎 1987年)p.112 10)新島襄全集 6 英文書簡編 (同朋舎 1985年)p.81 11)新島襄全集 6 英文書簡編 (同朋舎 1985年)p.121 12)新島襄全集 7 英文資料編 (同朋舎 1996年)p.377 13)新島襄全集 5 日記・紀行編(同朋舎 1984年)p.254 14)新島襄全集 5 日記・紀行編(同朋舎 1984年)p.328 15)新島襄全集 7 英文資料編 (同朋舎 1996年)p.201 16)新島襄全集 3 書簡編 (同朋舎 1987年) p.300 17)新島襄全集 7 英文資料編 (同朋舎 1996年)p.211
18)新島襄八重子 「 逝きし夫を偲びて」 (『新島研究』8 1956年 pp.33-34)
19)新島襄全集 3 書簡編 (同朋舎 1984年)p.533 20)新島襄全集 5 日記・紀行編(同朋舎 1984年)p.346 21)新島襄全集 6 英文書簡編 (同朋舎 1985年)p.333
22)Charles Hilton Fagge The Principles and Practice of Medicine ( London 1886 ) vol.2 p.544
23)Peter C.English Rheumatic Fever in America and Britain: A Biological, Epidemiological, and Medical History ( Rutgers University Press 1999)
24)L Gordis The virtual disappearance of rheumatic fever in the United
States:lessons in the rise and fall of disease. T.Duckett Jones memorial lecture.
Circulation. 1985;72:1155-1162
25)新島襄全集 6 英文書簡編 (同朋舎 1985年)p.72 26)新島襄全集 3 書簡編 (同朋舎 1984年)p.568
27)布施田哲也 「新島襄が初めて読んだ漢訳聖書抜粋 『真理易知』 ついて」 (『 新 島 研究』103 2012年 pp.48-65)
28)新島襄全集 10 新島襄の生涯と手紙 (同朋舎 1985年)p.37
29)村井知至「みこころのままに」(『新島先生記念集』同志社校友会 1940年) p.169