本洋学校のネットワーク
著者 山下 智子
雑誌名 新島研究
号 109
ページ 110‑133
発行年 2018‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000252
新島襄と会津若松教会設立期の人々
−民権家と熊本洋学校のネットワーク−
山 下 智 子
Ⅰ.はじめに
本研究は、前稿「新島襄の福島伝道−会津若松教会の設立を巡って−」を 踏まえたものである1)。
前稿では1882年7月27日から高湯(現米沢市関)での湯治と米沢訪問を 挟んで8月末に至る新島襄はじめての会津訪問と、この時代の会津地方の自 由民権運動に注目した。そして新島が会津で出会った「気骨アル人間」であ る民権家たちへの関心が、新島に会津若松(以下、若松)を伝道地として意 識させたこと、しかしながら自由民権運動の激化にともない、最も伝道の可 能性を感じた民権家たちは県令三島通庸側の弾圧を逃れて姿を消してしまい
「世ノ志ヲ尽ス能ハサリキ」という状況であったことを論じた。なお福島の 自由民権運動は三方道路(会津から山形、新潟、栃木に向かう街道)建設を めぐる県令の横暴な姿勢をめぐり会津を中心に活発化しており、1882年は8 月に「清水屋事件」、その後11月に「喜多方事件」がおこり、これをきっか けに12月に入り河野広中をはじめとする県下の自由党員が一斉に捕らえら れた「福島事件」が起こった。
本稿ではこれを踏まえ、会津若松教会(現日本基督教団会津若松教会、以 下、若松教会)設立の直接的あるいは間接的な推進力となった人々とそのネ ットワークについて論じる。1882年、会津は自由民権運動の激化とその弾 圧により伝道の難しい状況だったが、その後新島の熱意もあり、1885年10 月13日から15日に日本基督伝道会社(以下、伝道会社)の派遣で東北巡回 伝道中の小崎弘道が会津を訪れ、さらに1886年1月21日に杉田潮と星野光 多により若松で第1回キリスト教演説会が行われた。そして1886年5月23
日に再び会津を訪れた新島から14名が洗礼を受け若松教会最初の信徒が誕 生し、1891年1月22日に若松教会(当時は日本組合基督教会若松教会)の 自給独立宣言式がなされるにいたった2)。
具体的にはまず新島の若松訪問の数少ない実りである望月興三郎の同志社 入学について論じる。さらには兼子重光(常五郎)、杉山重義、安瀬敬蔵、
小島忠八といった会津の民権家たちと、そのネットワークを見ていく。あわ せて若松在住でキリスト教に関心を寄せていた中村衡三と照井正六と、1885 年9月にかれらの招きで若松を訪れ伝道師派遣を依頼された「美以美教会の 信徒」の飯田勇記について述べ、若松伝道がメソジスト教会ではなく伝道会 社によって行われることになったのは、熊本洋学校のネットワークの影響も ある事を論じる。
なお若松教会の設立につながる直接の伝道活動という意味合いでは、1882 年7、8月と1886年5月に若松を訪れた新島襄はもちろん、新島の熱意をう け伝道会社から派遣された牧師たちの働きが大きい。しかし本論は、これら の牧師たちではなく、若松教会設立の推進力となったそれ以外の人々を取り 上げ論じるものである3)。
Ⅱ.新島襄と会津の民権家
(1)望月興三郎−会津出身学生のさきがけ−
1882年7月27日から8月、新島襄がはじめて会津訪問をした際に出会 い、若松は「随分人物ノアル地」だと感じる一因となった戊辰戦争の「生キ 残リタル人々」かつ「気骨アル人間」とは具体的に誰の事だろうか。もちろ ん、新島の良き協力者かつ理解者であった妻八重やその兄で同志社創立の立 役者の一人である山本覚馬などはそこに含まれるだろう。しかし1882年の 若松訪問時に接点があった人物となると、新島が米沢から会津へ戻る途中に 訪ねた「清水屋事件」の犠牲者で下柴(現喜多方市関柴町)の民権家である 宇田成一以外は不明な点が多い。しかし、新島がこの時「遊奥記事」に名を 記している数名の人物の中で、戊辰戦争の生き残りである旧会津藩士であ り、かつ県令の手先といってもいい帝政党ではなく、民衆の立場から抵抗運
動をおこなった自由党壮士であり、さらに新島の会津訪問直後に山本家関係 者を除く会津出身者でいち早く同志社で学ぶ事となった人物が一人だけい る。
望月興三郎(1862年8月17日−1924年12月19日)
がその人物である。望月に関しては『同志社山脈』や
『日本YMCA人物事典』などに経歴が簡単に紹介さ れているが、ここではなるべく重複を避け、望月の同 志社入学に関する新島の影響を検証することを主な目 的として彼の生涯を紹介する4)。
望月は会津藩士であった辦次郎の子である。つまり この親子は戊辰戦争を「生キ残リタル人々」である。
望月家は150石の藩士で藩主の寝所の隣の部屋に宿直 する御次番の家柄であった。望月家の屋敷は山本覚馬と八重の生家の北、同 じ米代にあった。父の辦次郎は慶応年間の記録では御小姓衆御膳番となって いる。戊辰戦争籠城中、御小姓の一人であった井深梶之助が、八重が不発弾 を藩主の前で分解説明したという勇ましいエピソードを後年証言している が、辦次郎も同じように目立つ存在であった八重を知っていたと考えるのが 自然である。辦次郎は戊辰戦争後、斗南に移住し1870年5月20日に「御家 扶被仰付」、その後再び会津に戻り、小学校句読兼習字小助教試補、小区長、
戸長などをへて1879年2月には、大沼郡の書記となっている。三島県令の 時代には郡役所の書記というと、県令の手先として密偵のような事や、代夫 賃徴収に応じない者の財産差し押さえなどをする事などもあったようだが、
大沼郡書記には辨次郎の後に複数の人物が就任しており、辦次郎は1882年 ごろにはすでに書記をしていなかったと考えられる5)。
望月興三郎は戊辰戦争時には6歳の子どもであったが、新島夫妻が会津を 訪れた1882年には、20歳の青年となっていた。望月は1878年4月には東 京下谷に住み島田重礼私塾で漢学を収め、同年12月に福島師範学校に入学、
翌1879年12月に卒業した6)。1882年には高田小学校の七等訓導をしていた が、高田は父辨次郎が書記をつとめた大沼郡であるので、父の影響もあった だろう。辦次郎が政治的にどのような立場であったのか不明であるが、息子
望月興三郎
の興三郎は旧会津藩士の中では数少ない自由党壮士であった。高田でも道路 工事に関する激しい抵抗運動がなされたが、この地の指導者であった佐治幸 平は、高田近郊で教員をしていた会津士族の若手グループを同志として民権 運動を展開しており、望月はまさにその一人であった7)。
「遊奥記事」の若松に関する記述の最後に、新島は山口千代作(新島の記 録では忠作)、望月興三郎、田中勘三郎、高橋善太郎、三浦信六、宇田成一、
田母野秀顕(新島の記録では多門)の7名の民権家を記している。そのうち 山口、三浦、宇田は会津における自由民権運動の指導者であり、田母野は三 春の人だが、宇田と一緒に「清水屋事件」で襲われた人物である。田中、高 橋については、「遊奥記事」に新島が民権家までもが県令側の帝政党に強引 に加入を迫られる当時の状況を「大町ノ田中勘三郎、六日町ノ高橋善太郎ノ 輩ハ、民権ヲ主張セラルヽニ屡人ヲ遣シ之ヲ誘リ」と書き残している。そし て残る1人が「若松材木町十九番地 望月興三郎」である。「十九番地」と 詳細な住所を書きとめているのは7人のうち望月のみであり、新島はその住 所を知り得る何らかの接点があった事が伺える8)。
例えば「日抄」には米沢で「面会セシ者ハ左之通」として、「川村彦太郎
〇徳友〇 山形県下南置賜郡西土手ノ内十六番地」のように番地入りの住所 と共に氏名が記録されているので、新島は望月に直接面会した可能性も高 い。また米沢での面会者のうち「山崎新太郎 米沢元馬喰町」は、その後新 島に頻繁に手紙を出しており、1885年に東北巡回伝道中の小崎弘道が米沢 に立ち寄った際には「新島先生の知人で、中学校の教頭である山崎某が大い に斡旋の労を取り、県会議長や其他有志の人々に私を紹介し、劇場に大演説 会を開いて少なからぬ感動を招集に与えた」という。つまり望月にも山崎同 様の新島との出会い、その後の交流の深まりがあっても不思議ではない9)。
実際のところ望月は1882年9月に同志社英学校普通科に入学した。新島 が米沢行きを挟み7月27日から8月末まで若松に滞在したことを考えると、
本当にその直後のことである。従来望月の入学に関しては「山本覚馬を頼っ ての上洛であった」と説明されてきた10)。元会津藩士同士であるのだから京 都で覚馬を頼るのはごく当然である。しかし入学のきっかけとしてはそれだ けでは不十分だろう。
望月は新島が覚馬の妹である八重を伴って会津を訪れた直後に同志社に入 学した。望月は新島が大いに共感した元会津藩士でありながらも県令の圧力 に屈しなかった数少ない民権家である。望月は新島の「遊奥記事」に記され ている会津の人々の中でも唯一、名前と共に詳細な番地を含めた住所が記さ れている。以上の事から判断すると、望月の入学の直接のきっかけはむしろ 新島の会津訪問であったといえるだろう。
望月は1883年11月4日に同室の親友である松本亦太郎と共に洗礼を受 け、京都第二公会(現同志社教会)の会員となった11)。在学中、会津からの 先駆けとなる入学者らしく、後述の兼子重光と共に、会津出身者のリーダー 的存在であり、八重と同郷のよしみで新島家にも出入りした。新島の銃猟に 同行し、何の成果も得られずに意気消沈し無言で帰る新島を目撃するなど親 しい交わりがあった12)。
1887年6月に無事に同志社英学校普通科を卒業すると神学科に入学した が中退し、その後女子教育の道に進んだ13)。もともと故郷の会津若松に帰り 教育に従事することを強く望んでいたが、喉の病気や、梅花女学校からの招 聘などのため、その願いが叶えられることはなかった14)。従来、望月が女子 教育に携わった期間と学校についてはあいまいな表現がされてきたが、各学 校の資料によるならば望月は1889年から1892年1月まで梅香女学校教頭、
1892年1月から神戸の松蔭女学校教頭、1892年10月から1895年8月まで 岡山の山陽女学校校長を務めている。なお、松蔭女学校と山陽女学校では、
東京女子師範学校出身の教育者でもあり、晩年は神戸幼稚園長など幼児教育 の分野で大きな働きをする妻クニも共に働いている15)。
望月のこの頃の女子教育に対する考えと熱意は、望月が松蔭女学校の教頭 になったばかりの春期休業中に執筆し1892年7月に出版された著書『家族 主義女子教育』にも明らかである16)。
望月が女子教育の他に力を注いだのは、キリスト教青年会(YMCA)の活 動である。現在の大阪YMCAにつながる「大阪基督教徒青年会」で1889 年4月から1890年3月まで第3代会長、1891年1月から1893年3月まで 第5代会長を務めている。また1890年3月からは西日本各地区の代表が集 まり組織された「関西連合基督教徒青年会」の会長も務めている17)。望月は
1897年から1914年ごろまで「朝鮮京城竜山鉄道青年会」の主事だったとい われるが、1912年「日本基督教青年会同盟」の第4回総会の際には、望月 は朝鮮の新任幹事であり、同盟は1908年3月頃から直轄事業として竜山を はじめとする朝鮮沿線の各駅で「鉄道青年会」事業を行ったので、年代につ いてはさらに確認する必要がある。いずれにしても彼が青年会活動を通し青 年伝道に取り組んだことは確かである18)。
さらに故郷の若松伝道に関しては、卒業直後帰省した機会を逃さず1887 年7月2日に若松教会の応援に駆け付け、その後も例えば、山陽女学校を辞 任した1895年9月27日に帰郷し伝道集会を行っている。
また望月の妹キヨは、1895年2月17日に会津若松教会で兼子重光牧師よ り洗礼を受け、その後深川六郎と結婚した。深川六郎は佐賀県有田の陶器市 の提唱者で町の興隆に尽くした人物であり、夫妻は有田の伝道や幼児教育に も大きな役割を果たした19)。父の辦次郎は1912年5月16日に、若松教会牧 師の兼子重光より病床受洗した。その際のことは若松教会の教会記録である
「教会歴史」に「午後三時より望月辨次郎 氏宅に於いて洗礼晩餐の二大礼典を執行 す。出席者十八名なり」と記さ れ て お り、洗 礼 の 際 の 誓 約 書 が 残 さ れ て い る20)。
望月は主に女子教育と基督教青年会に おいて活躍しており、会津や東北での伝 道に専念したわけでないが、その後の家 族の入信や、妹キヨ夫婦の有田での活躍 などを見ると、新島が「予ノ志ヲ尽ス能 ハサリキ」状況だった1882年の会津訪 問においては、数少ない具体的かつ重要 な成果だったと言える21)。
(2)兼子重光(常五郎)−小崎弘道に会津の民権家を紹介−
望月以外にも、新島や若松伝道に大きなかかわりを持つ事になった会津の 望月辨次郎誓約書
民権家が数名いる。1882年の会津訪問の際に、新島が名を書き残したわけ ではないが、ぜひ取り上げなくてはいけないのが後に若松教会の牧師となっ た兼子重光(1858年8月5日−1940年10月14日)である。兼子に関して は内海健寿『会津のキリスト教』、本井康博「兼子重光『八重の桜』と共に 咲く−民権闘士から牧師となった会津人−」などの先行研究がある。ここで はそれらを踏まえ、兼子が若松教会の創立に関して果たした重要な役割を中 心に紹介する22)。
兼子は河沼郡勝常寺村の生れであり、1880年に栃木師範学校を卒業し小 学校教員となった。1882年頃は、自由党会津部に加入し、三島県令の三方 道路建設を不当とする訴訟運動の委員として宇田らと共に活動していた。喜 多方事件の際にはとらえられ福島重罪裁判所で軽懲役に処せられている。教 員であり民権運動に身を投じたという点で、先に述べた望月との共通点も多 いが、兼子の場合は指導者の一人であり、望月以上に運動の中心にいた人で ある。
兼子は弾圧を逃れ1885年9月に同志社英学校に入学した。1884年には
「福島事件」の余波として数人の過激化した福島の民権家たちが中心となり 当時栃木県令となっていた三島通庸の暗殺を企てた「加波山事件」が起こ り、事件に直接関係がない民権家たちにとっても受難の時代が続いていた。
本人の回想によれば、山本覚馬が同志社入学を強く勧め、最初はキリスト 教の学校であるから「固く入らず」と答えていたが、しかし「予は余儀なき 場合にて止むを得ず入校せしめる」事となった。やがて新島の祈りに感激し
「それまでは天下国家という時は日本帝国をさしたるものにてありき、然る に其後は天下国家という時には万国万民を意味することとなれり」という変 化があり、1886年3月14日、新島襄より京都第二公会(現同志社教会)で 受洗した。前述の望月と共に会津人のリーダー的存在で、八重も慕うかつて の会津藩主・松平容保の息子である松平容大が同志社に入学すると望月と共 にその後見人を任された。容大の退学騒動の際にも兼子と望月が連名で退学 を回避すべく哀願書を記している。
牧師を志し1887年に同志社神学校別課に入学、1891年に卒業すると、彦 根教会、岡山落合教会で伝道に従事した。落合教会時代には望月が同県の山
陽女学校校長を務めており、兼子も女学校の「賛助員」として名を連ねてい る23)。1895年に故郷の若松教会牧師に就任し、「新島襄先生記念会」を開催 するなど、若松教会において積極的に新島を覚えつつ、以降約35年の長き にわたり、牧師をつとめた。兼子が洗礼を授けた人々の中には三方道路の工 事の際には県令側で先頭に立っており、後に会津若松市長となった海老名季 昌もいた24)。
兼子に関しては、35年間の牧師としての貢献もさる事ながら、実はすで に若松での伝道が具体的に開始され、若松教会が設立される以前に、若松伝 道に関して決定的な役割をはたしている。それは1885年9月に同志社で学 び始めたばかりの兼子が、同年9月20日から約1カ月間の東北伝道旅行に 向かう小崎弘道のために紹介状を記した事である。「湯浅与三関係資料」の 中にある「若松キリスト教会略史」には次のようにある。
当時京都同志社在学中ノ兼子重光(元常五郎ノ事)ノ当若松在住ノ安瀬 敬蔵氏及其地有志者ニ宛タル基督教伝道開始ノ紹介状ヲ携帯シテ当地ヘ 到達セラレ小崎氏ハ安瀬氏ノ紹介ヲ以テ照井氏ヲ訪ハレ(後略)25)
小崎は10月13日、米沢から会津に入ると兼子の紹介状を携え、まず喜多 方戸長なども務めた土地の有力者である安瀬敬蔵に会った。安瀬は河野広中 と親しく自由党会津部の地方部理をつとめるなどこの地の民権運動の大物だ った。兼子が安瀬への紹介状を記すことが出来たのは、兼子が安瀬の同志で ありこの地の民権運動の指導者の一人であったからである。その安瀬の助け で小崎は若松の照井正六と彼の知人で同様にキリスト教に興味を持っていた 中村衡三に会う事が出来た。照井と中村については、詳しく後述するが、そ の後この二人が帰京した小崎に書を送り伝道師派遣を願ったため、翌1886 年1月21日に伝道会社が派遣した安中教会牧師の杉田潮と、高崎教会(西群 馬教会)牧師の星野光多によって若松で最初の伝道集会が開かれるに至った。
なお、小崎は後に若松訪問を振り返り「若松で、二三の有志に歓迎され」
たとしており、その中で特に印象的だった人物として、小崎は照井でも、中 村でもなく、次の項で述べる杉山重義の名を挙げている。兼子が小崎への紹
介状を書く直前、彼が弾圧を逃れ京都に来ることになったのは「杉山重義の 示唆」によるともいわれる26)。当時の兼子と杉山の交流を詳細に裏付けるこ とは現時点では難しいが、二人が確かに民権家のネットワークの中にいたこ とは間違いのないことであり、いずれにしても神の導きとでも説明せざる得 ないような不思議な巡りあわせで、彼らのネットワークが会津若松教会の設 立にむけ大きな意味を持ったことは間違いない。
小崎は、新島の若松伝道の情熱を受け止めて若松へ来たわけだが、小崎を 地元の人々に繋ぐ鍵となったのが兼子であり、それを可能にしたのが新島も 共感した会津の民権家達のネットワークであった事は非常に重要である。
(3)杉山重義−新島と共に教会合同に反対−
さらに覚えたいのが、杉山重義(1857 年6月27日−1927年1月)で あ る。杉 山に関しては『基督者列伝 信仰三十 年』や『日本キリスト教歴史大事典』に 簡単に経歴が紹介されているが、ここで はなるべく重複を避け、会津や新島襄と のつながりを明らかにすることを目的に 彼の生涯を紹介する。
杉山は愛媛県伊予国温泉郡木屋町生 で、1874年5月24日、大阪教会(梅本 町公会)創立時にM・L・ゴードンより 受洗した。その後慶応義塾に学び編集翻 訳をしつつ自由民権運動に参加し、1881年『福島自由新聞』主筆に迎えら れた。福島では記者としての仕事にとどまらず、自由党の演説会で弁士とし ても活躍した。1882年4月24日付の三春(田村郡)で開かれた演説会の届 け出によると「馬鹿氣タル哉某政党ノ組織」との題で帝政党の組織について 演説している27)。
杉山は応援のため会津に派遣され、1882年11月28日、宇田成一らの逮 捕に抗議し弾正ヶ原に集まった1,000名を超える農民たちの前で声を張り上
杉山重義
げ演説し、彼らを鼓舞するなどして喜多方事件に関わった。杉山も兼子重光 同様とらえられたが、彼の場合はより重罪で国事犯の河野広中や宇田成一と 共に東京の高等法院に送られた58名のうちの一人である28)。
興味深い事は杉山がその後1885年、東北巡回伝道中の小崎弘道に若松で 面会し、次の通り上京を約束した事である。
次は若松で、二三の有志に歓迎された。殊に杉山重義君は河野廣中等と 共に福島事件に関し国事犯として下獄したのが恰も出獄した時であった 故、彼に勧め此際精神を一新し、信仰に復ると同時に進で伝道に身を捧 げ東京に帰るべきことを約した29)
すでに述べたように、この時小崎は兼子の紹介状のおかげで若松の有志者 である照井昭六、中村衡三に会っている。杉山も同席していたのか、彼らと は別に面会したのかは不明である。いずれにしても杉山は1887年5月24日 に霊南坂教会に転入しており、小崎の日記には1886年5月14日に「杉山兄 ト共ニ布田駅ニ行ク」「下曽根杉山ト余演説ス」とあるので、この頃にはす でに東京に来ていた事がわかる。その後も小崎の日記には名前が頻繁に見ら れる30)。
杉山に関して特筆すべきことは、彼が霊南坂教会で活躍した後、1888年 から1891年にかけては原市教会牧師を務めたことである。この頃は教会合 同問題で意見が対立していたころだが、杉山は新島の側にたって教会合同に 反対し、新島と書簡のやり取りをしている。新島は亡くなる直前まで伝道へ の情熱を燃やしたが、対象地域には東北はもちろん新潟や信州なども含まれ ていた。杉山は、会津や東北の伝道で大きな役割を果たしたわけではない が、新島の意向を受け信州伝道を手掛けた。一時は教会を離れ民権家のネッ トワークにいた彼が、新島のよき理解者として組合教会の中で力を発揮した のは意義深い。
一方、前述の望月興三郎が1895年8月に経済的に行き詰まり廃校の危機 にあった山陽女学校を、規模縮小、経費削減により何とか継続させるため惜 しまれつつ辞任した直後、杉山は同年10月31日に開かれた評議員会に評議
員として出席し、学校存続の緊急決議の一端を担っているのも興味深いとこ ろである31)。
なお杉山は一時期『基督教世界』の編集にもたずさわり、後には代議士、
早稲田大学教授、早稲田第二高等学院長としても活躍した。杉山の妻は同志 社女学校の卒業生、広瀬恒である32)。
(4)安瀬敬蔵・小島忠八−会津伝道のよき理解者−
安瀬敬蔵と小島忠八は民権家であり、自らクリスチャンになったというわ けではないが、若松教会の設立や、草創期の周辺地域の伝道に関して力を発 揮した。
安瀬敬蔵に関してはすでに記した事は省くが、その後1886年1月に伝道 会社からの派遣で杉田潮と星野光多らによる若松最初の伝道集会が実現して 以降、喜多方伝道に大きな協力をしている。2月14、15日には杉田、星野 による第1回喜多方演説会が開かれているが、これを斡旋したのが安瀬であ る33)。
また新島襄が2回目の会津訪問を果たし若松教会最初の信徒となる14名 の洗礼式を行った際も、洗礼式の翌日5月24日に安瀬が新島を訪ね、新島 と中村衡三、そして当時会津伝道応援のため伝道会社より派遣されていた長 田時行(霊南坂教会)を喜多方に導き、説教会を開いている。新島はこの時 の旅の記録である「出遊記」に、若松教会の受洗志願者を記し、その欄外に
「キタ方ノ有志家 元郡長 安瀬敬蔵」と記している34)。
小島忠八は野沢(現耶麻郡西会津町)の旧家で小地主の出身である。自由 党員で県議会議員を務め、三島県令に対抗し議案毎号否決に賛成した一人で ある。宇田成一などと共に会津を代表する民権家で、清水屋事件の際も宇田 と行動を共にしていた。ただし小島はいち早く襲来に気づき難を避ける事が できた。小島もまたその後、伝道に大きな協力をした。
1885年3月22、23日に長田が野沢伝道を行った際、若松教会記録による
と小島が開会の趣旨を述べており、会主であった事がわかる。また4月23 日にも長田は野沢へ出張したが、この時には小島も説教をしている。
このように、若松教会の草創期には、会津の民権家達のネットワークが伝
道の大きな力となっており、民権家達の協力がなければ、若松教会の設立、
さらには若松を拠点とした周辺地域への伝道も難しかったといえる。
Ⅲ.若松教会「教会歴史」の冒頭に記される人々
(1)中村衡三
ここまで新島襄や、民権家のネットワークを中心に据え、若松教会の設立 を巡って論じてきたが、最後に中村衡三と照井正六、飯田勇記を取り上げた い。なぜならば若松教会に保存されている教会記録「教会歴史」の冒頭に記 されているのは、新島襄でも小崎弘道でもなく、この3人だからである。そ して彼らが教会設立に果たした役割を確認する。
中村家は1668年に開かれた会津秤座である。秤座とは幕府機構の末端的 役割を担い、秤改めの際に、苗字帯刀、伝馬証文など武士に類するような特 権があたえられており、町人とはいえ力があった。会津秤座は戊辰戦争の戦 火で焼けてしまい、幕藩体制に支えられていた中村家は、明治期に入り会津 の士族同様生き残りの危機にあったと言えよう。しかし中村衡三は幸運にも 1875年8月5日、太政官達第一三五号「度量衡取締条例」により各県一人 の権衡制作請負人の認可を受ける事ができた。棹秤、天秤、分銅制作請負人 の認可を受けた旧秤座の関係者は全体の3分の1ほどであった35)。
中村は1886年10月には、第5期県会議員に当選している。当時の選挙で 被選挙権があったのは一定額以上の税金を納めた男性のみであり、この事か らも中村が地元の有力者であった事がわかる。しかし同年12月には事故退 職をしている。1881年4月15日に「会進社員」であった中村らは、若松で 演説会があった時に自由党の花香恭次郎と面会し、社員のうち10数名が入 党しているが、そこに中村が含まれるかは不明である36)。
すでに述べた通り、中村は照井と出会い、キリスト教について興味を持 ち、1885年9月に飯田、10月に小崎と面会し、1886年1月杉田潮と星野光 多による若松伝道開始の際も協力をした。この時期の中村の活躍をみるなら ば、名前が明記されている事だけでも次の通りである。
まず中村は1月21日から23日にわたり開かれた第1回キリスト教演説会
の会場七日町の一新亭を照井と共に周旋し、2月19日には初めての婦人集 会の際には自宅を会場として提供した。3月10日には星野と交代する形で 伝道応援に加わっていた長田時行、杉田に同行し喜多方伝道に向かった。3 月15日、杉田の送別会でも司会をし、梅の花を例に引き感話をした。3月 30日には本六日町の講義所に続き紺屋町に第二基督講義所を設けるに至る が、それもまた中村をはじめとする信徒の尽力だった。4月4日、鈴木始三 郎の送別会では祈祷をしている37)。
その後、東華学校設立準備のため仙台に向かう新島が再び若松を訪れた 1886年5月23日、新島司式によって最初の聖餐式、洗礼式が執行された際 に、妻タカ、同居人の横地豊三郎らと共に洗礼を受け若松教会最初の信徒 14名のうちの一人となっている。受洗と同時に早速に仮執事となり、設立 前後の教会で中心的な働きを果たした。またこの前日の夜には、新島襄を夕 食に招きもてなしている38)。
中村から新島宛の書簡が3通知られている。1888年2月3日、1889年3 月15日、1889年4月27日のものである。そこには同志社で学ぶ息子の衡 平の事や、若松教会の牧師交代に関する事、新島から依頼された山本家の墓
(八重と覚馬の父・権八の墓)の建立の事、会津の中学校設立の事、大学設 立運動への協力など、公私にわたる話題が記され新島や八重から信頼されて いた事がわかる39)。
1890年1月23日、新島がなくなった際には、「センセイノシヲイタム」
との八重宛の弔電を若松教会牧師の東正義との連名で送っており、ここから も彼が信徒代表の役割を果たしていた事がわかる40)。
なお息子の衡平は記録によると1890年5月時点で同志社普通学校普通科 1年に在籍しており、それ以前には同志社予備学校で学んでいたと考えられ る。衡平は1889年1月1日兼子重光(当時常五郎)らと共に年賀の手紙を 新島夫妻に送っている41)。
ところが中村衡三は次第に教会の記録から名前が見られなくなっていく。
執事を続けていたが1892年1月の総会で執事に再選されたのを最後に、翌 年以降は執事ではない。その後1895年1月23日には牧師として赴任したば かりの兼子重光のもと、同志社同窓会の発起で新島襄の記念会が開かれ、息
子の中村衡平らが演説をしている。同年7月27日には、連絡等のためであ ろう、教会員が10組ほどに分けられた際、中村の妻タカは組長となってい るが、衡三の名はみられない。家族が教会での働きを担っているので、完全 に教会の交わりから離れてしまったわけではない。病気であったのか、欧化 政策の後に国粋主義が強まっていく社会状況の中での信仰の減退か、事情は 分からないが、1896年3月22日には申し出により除名となっている42)。
(2)照井正六
照井正六は、1885年3月に岩手県花巻の西上根子村から若松へ移り住ん だ。照井は民権家である安瀬敬蔵や、飯田勇記と交流があった事から、彼自 身も自由民権運動に関わりのあった人物と考えられる。1885年10月安瀬の 紹介で若松の照井を訪ねた小崎が滞在した上一之町湊屋は民権家の活動拠点 であった場所である43)。
照井は知人の飯田勇記が「身を基督教に任せ以て天父の祐助に沐浴し居る こと」から若松で出会った中村と共に「断じて基督教の助に頼らんと決意 し」、相談を受けた飯田は1885年9月に若松を訪れ、伝道師派遣などについ て依頼を受けた。
その後、小崎との面会などをへて、伝道会社が若松伝道を手掛ける事にな るが、照井は中村と共に設立前後の教会で中心的な働きを果たした。例えば 1月21日から23日の第1回キリスト教演説会の際には、会場七日町一新亭 の周旋を中村と共にしただけではなく、連日「会主」として開会の際にまず 主意を述べている。2月4日から4日間にわたり行われた第2回キリスト教 演説会の際も同様に会主として挨拶をしており、中村以上に積極的な役割を 担っている事がわかる。また2月24日、会津を発つ星野光多の送別会でも 挨拶をしている44)。
しかし照井は中村と共に5月23日に新島から洗礼を受け最初の信徒とな ったわけではなく、3年後の1889年9月19日に伝道教会設立式の際、小崎 弘道より洗礼を受けた。洗礼を受けてすぐに執事に選出されており、教会内 での信頼は厚かった。妻タケはすでに1887年6月5日に洗礼を受けている。
照井も、中村同様、教会の草創期には中心的な役割を果たしていた。若松
教会の記録によると執事への再選が続いたほか、例えば1889年12月15日 には病中の牧師に代わり説教をし、1891年、東正義の按手礼式の際には各 組合教会からの代員の質問に教会を代表して答えている。また同年7月15 日には、箱根で行われる夏期学校に出席するため会津を出発している。1893 年3月15日には「祈祷会後二、三の有志者深く教会の現状に感ずる所あり、
有志者の連夜祈祷会を開く事に一致し、直ちに執事照井氏の宅にて初回を開 けり」ともある。また同年10月21日に書籍館の開会式を行った時には、教 育勅語の奉読を照井が行っている。
ところが照井も教育勅語の奉読に見られるような時代の影響なのか、原因 は不明だが、次第に教会記録に名前が見えなくなる。そして1899年1月14 日に、照井夫妻は盛岡に引っ越す事となり、教会で送別会が開かれた。その 時の様子は若松教会の記録である「教会歴史」に以下の通り記されている。
午後七時より照井正六ご夫妻の盛岡へ転居せらるるを以て送別会を開 く。これは同氏当時に於いて信仰なきも、先年来教会の為に尽力せらる たるを以て、信仰の復活を希望するために本会を開きたり。会する者四 十名なり45)
(3)飯田勇記
1885年9月にキリスト教に興味を持った照井正六が中村衡三と共に、飯 田勇記に相談をするのは、自由民権運動とのつながりからだと考えられる。
飯田は「教会歴史」冒頭に「在白河」で「熊本県人にして美以美教会の信徒 なり 照井氏と親交あり」と紹介される46)。
ではメソジスト教会の会員である飯田が白河からはるばる若松に出向き伝 道開始の相談をうけ、伝道師派遣についても依頼を受け具体的に話し合った にもかかわらず、その直後に小崎弘道が若松を訪れ組合教会が若松伝道を手 掛ける事になった際に、「飯田氏も却て之を喜び居れり」と実に寛大な反応 を見せているのはなぜだろうか。メソジスト教会の伝道師不足も理由であろ うが、実はこの飯田は熊本洋学校の出身で、小崎の一学年後輩であり、小崎 を良く知っていた事が背景にあるだろう。以下では「自由民権運動」と「熊
本洋学校」のネットワークという事に注 目して飯田の歩みについて述べる。
最初に断っておかなければならないの は、飯田は、小崎ら同様「熊本バンド」
とはいえない事である。『岩波キリスト 教辞典』によるならば、熊本バンドは熊 本 洋 学 校 で、L・L・ジ ェ ー ン ズ(L.
L. Janes)の感化を受け1876年に「奉教 趣意書」に署名した学生たちのうち、特 に同志社で学んだ三十数名の学生を指 す。その代表が小崎ら同志社英学校第1 回卒業生の15名である。飯田は熊本洋 学校で学んではいるが、「奉教趣意書」
に名前は見られず、しかも同志社で学んでもいないからである47)。
飯田の経歴は越山鬼城の『近畿弁護士評伝』に比較的詳しい。それによる と1859年1月、熊本・上益城郡島田村に細川家の家臣飯田定治の第3子と して生まれた。1872年に熊本洋学校に入学した第2回入学生である。同期 に宮川経輝、下村孝太郎、加藤勇次郎、不破唯次郎、金森通倫、海老名弾 正、市原盛宏らがいる。また第1回入学生には、小崎弘道、横井(伊勢)時 雄、山崎爲徳らがいる。3年生に進級時の成績は28名中、各科目10番から 12番、上位3位には市原、宮川、海老名の名前がみられ、彼らに比べれば 学業の面で目立つ存在ではなかっただろう48)。
1875年、飯田は上京する。2期生が卒業するのは1876年の事であるので、
飯田は熊本洋学校を卒業しなかった事になる。2期生は入学当初72名であ ったが、1874年3年生になる時には28名に激減していたので、飯田が卒業 を待たずに東京へ向かったのも特別な事ではない。1875年7月には1期生 が熊本洋学校を卒業し、その中の山崎爲徳はこの年の秋に東京開成学校に入 学し、翌年の4月には横井時雄も続いた。飯田が上京したのはこうした1期 生の影響もあったかもしれない。
飯田は山崎や横井とは異なりかなりの苦学生であった。生活のために必死 飯田勇記
で職工や代書人をし、なんとか三上義塾に入学した。細川要蔵の記した『兵 庫弁護士列伝』によりさらに彼の歩みを補うと、「明治十二年ノ頃東京築地 印刷局ニ職ヲ奉ジ幾葛失ヲ経テ該局ヲ退キ身ヲ政党ニ入レ自由主義ヲ執ッテ 各地ニ遊説ス」とあることから、飯田が自由民権運動に身を投じたのは 1879年頃、築地で働いていた時の事である。築地といえば長老派の宣教師 C・カロザース(C. Carrothers)の影響を受けた「築地バンド」と呼ばれる 原胤昭や鈴木舎定らのクリスチャン達を生み出したが、彼らは自由民権運動 ともかかわりが深い。
また飯田は宮地茂平、熊谷平蔵等の勧誘により各地を巡り民権運動をした という。宮地茂平は高知平民の自由党員で、茨城県水戸にいた1881年に
「地球上自由生」として太政官にあて「日本政府脱管届」を出し刑に処せら れた。また宮地と共に「脱管届」に名を連ねた栗村寛亮は宮城県士族で、さ らにその後1882年12月福島県磐城で福島県令三島を非難する自由演説会を 開き刑に処せられている49)。
熊谷平蔵は水戸の人で、自由党員。1884年9月の加波山事件の関係で逮 捕された岩崎萬次郎の警察調書の中にその名前がみられる。それによると同 年7月10日に筑波山で自由党の茨城、群馬、千葉、栃木、福島各地の同志 による会合後、岩崎は帰路下妻に向かう熊谷と途中まで一緒であった事を証 言している50)。
このように飯田は民権家であったが故に、活動が盛んであった福島県を身 近に感じられる状況にあった。飯田は1882年、福島県では民権運動とそれ に伴う弾圧が激化していったころ「終身を浪々の間に送るの不可なるを悟 り」、東京法学校(現法政大学)に入学し、1884年に今でいう弁護士である 代言人の試験に合格した。1884年には加波山事件が起こり、飯田はまさに このころ加波山事件の舞台である「常陸ノ国ニ歴遊」していたという。加波 山事件は武力に訴える事も辞さない過激な一部の民権家達によるものであ り、飯田がそれにかかわった様子はないが、この事件後、多くの民権家が事 件への関与を疑われ取り調べを受け、犯人隠匿などの疑いで逮捕されたもの も複数いた。そうした事からであろうか、1885年に飯田は東北に向かう。
同年秋、キリスト教に興味を持った若松の照井と中村に招かれた時、彼が白
河に住んでいた経緯は以下の通りである。
更らに見聞を博くせんと欲し、奥羽地方漫遊の途に上る、其途次奥州白 川に於て、一訴訟を取扱ひしが結果好良なり為めに村民懇願して、代言 事務所を開始せん事を欲す、即ち在留すること一年余51)
白河は古来「白河の関」で有名であり、県内外の有力な民権家達がこの町 を通って東北と関東を行き来していたため「捕縛の地」であった。また白河 では飯田同様の若い代言人が活動の中心を担っていた事に特色があった。ま た加波山事件の時も死刑囚の一人、小針重雄がこの地域(現矢吹町)の出身 であった事から厳重な捜査が行われており、あらぬ疑いをかけられ弁護が必 要な者もいた52)。
飯田がいつ洗礼を受けクリスチャンになったのかは定かではない。しかし 飯田が上京した頃は熊本洋学校で一級上の横井と山崎も東京におり、彼らは 1876年にカナダ・メソジスト教会の宣教師で、牛込教会を設立したG・カ クラン宣教師(G. Cochran)から洗礼を受けているので、この時期が考えら れるかもしれない53)。
いずれにしても飯田がクリスチャンだった事は間違いない。飯田はその後 神戸に転じるが、神戸教会所蔵の「神戸公会姓名録」によると、飯田は 1886年9月5日、「仙台教会」より神戸教会に転入している。神戸教会での 飯田は信徒の中心的な役割を果たしており教会当務者(役員)、教会学校校 長を務めている54)。
残念ながら神戸教会の記録には飯田の受洗日や母教会、授洗者は記されて いない。また「仙台教会」の教派も記されていない。若松教会の記録では飯 田は「美以美教会」と記されているが、1885年に白河で当時伝道を開始し ていたプロテスタント教会はメソジスト教会だけであった。また神戸教会に 転入した1886年にすでに成立していた仙台のメソジスト教会というと仙台 五橋教会(仙台美以教会)であるが、飯田の名前は確認できない55)。
当時、神戸教会の牧師は、熊本洋学校の後輩である原田助である。神戸教 会での飯田の働きを示す手紙が残されている。1889年7月27日新島襄が飯
田に宛てた手紙がそれである。これは飯田が「海老名君御招聘之儀」に関し て新島を訪ね相談した事を受けて出された手紙である。当時神戸教会は牧師 在任のまま渡米した原田助の後を補う新しい牧師を招聘しようとしており、
飯田の熊本洋学校時代の同級生でもあり当時熊本英学校(1888年設立)の 校長をしていた海老名が候補者だった。新島は海老名弾正を招聘することは 熊本での後任がいなければ難しいが、今のところ海老名に代わる人は思い当 たらないと答えている。このように、飯田は熊本洋学校のネットワークの中 にいた人物でもある56)。
なお飯田は、教会外でも代言人として大いに活躍をしており、1891年か ら92年ごろ神戸組合代言人会副会長、神戸組合辦護士会常議員をつとめて いるほか、その後神戸市会議員や水道布設費国庫補助請願委員を務めるなど している。
公評散史による『兵庫県人物評3』によるならば飯田は「基督教」と「自 由党」に熱心だった事が、その後の活躍につながっているという。すなわち キリスト教に関しては、まだキリスト教が邪教視されていたころから「信用 を博するには到底此宗教の右に出るものなかるべし」と、他の信徒にもまし てキリスト教のために尽くしたため神戸教会内ではもちろん、代言人として も信頼され神戸組合代言人の長になり、自由党のために奔走した事が神戸市 会議員につながった57)。
社会的にも多くの責任が増していく中、教会役員こそ続けてはいないが、
1910年の『神戸教会々員名簿』によるならば「第十六組楠町」に住む会員 のなかで「第一幹事」を務めている。また1906年9月10日付の『教會月 報』の消息欄には「暑中須磨に滞在中なりしが前週帰神」と記載があるな ど、『教會月報』ではたびたび転居などの消息などが報じられている。家族 ぐるみで継続して教会の交わりの中にあった事がわかる58)。
Ⅵ.おわりに
本研究では新島襄が福島伝道についてどの様な考えを持っていたか、また それが実際の伝道にどの様に反映されたかを探るため、特に若松教会設立期
の人々と自由民権運動のネットワーク、熊本洋学校のネットワークに注目し 論じてきた。若松教会設立の経緯をみると、1882年、最初の若松訪問によ り生まれた新島の若松伝道にかける熱意が、伝道会社による1885年の小崎 弘道の若松訪問、1886年からの複数の牧師による若松伝道を現実のものに し、教会の設立へつながったといえる。しかしそれだけでは十分な説明には ならないだろう。
例えば、茂義樹は『七一雑報』を根拠に伝道会社の働きに関して次のよう に述べる。
よく伝道会社は新島襄によって指示され、担われたような印象を受ける ことがある。しかし(中略)同志社の学生、卒業生、宣教師、地方教会 の牧師と教会員の渾然一体となった伝道であったことが理解されよう59)
同じ様に若松教会の設立を巡っても、草創期の若松教会の中心信徒となっ た中村衡三や照井正六らの自発的な求道の動きは重要である。しかし若松の 場合は、さらに状況は興味深い。新島が初めての会津訪問の際に若松伝道に 大きな可能性を感じたのは、1882年の新島の会津訪問直後に同志社英学校 に入学した望月興三郎をはじめとする「気骨アル人間」である民権家の存在 が大きいが、兼子重光、杉山重義、安瀬敬蔵、照井正六、飯田勇記をむすぶ ような民権家達のネットワークが、新島の手が直接及ばないところで若松教 会の設立の重要な推進力となったし、若松周辺地域への伝道も民権家が積極 的に協力して行われている。またあわせて、伝道会社がメソジスト教会と競 合する事なく若松伝道を専ら手掛けられたのは、小崎弘道と飯田勇記という 熊本洋学校のネットワークが隠されており、これも間接的ではあるが興味深 い推進力となった。
なおその後の若松教会の歩みは、新島の熱い思いや伝道会社のサポートに もかかわらず消滅した福島教会の場合と対照的である。これに関しては民権 家達への共感や、合同問題への反対といったことによく現れる新島の考え方 に学ぶべき点があるだろう。教会合同に新島が反対した理由、例えば「教会 合同は、各地方の私たちの教会の力を集権化するものです」などという視点
は、その後の若松教会及び、会津伝道、さらには福島全体の伝道がたどった 歩みを予見するかのようである。これらは今後の研究の課題としたい60)。
注
1)山下智子「新島襄の福島伝道−会津若松教会の設立を巡って−」『新島研究』108
(同志社社史資料センター、2017年)
2)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』8(同朋舎出版、1989年)、pp.242-245 以下『新島襄全集』8 : 242-245のように表記する。
会津若松教会創立百周年記念事業百年史編集委員会編『会津若松教会 百年の歩 み』(日本基督教団会津若松教会、2001年)、pp.51-52。以下『百年の歩み』。
3)日本組合若松キリスト教会「教会歴史」(会津若松教会所蔵資料)
この資料は会津若松教会の手書きの教会日誌である。ここでは、創立100周年事 業として会津若松教会の方々が不完全ではあるが協力して翻刻を試み、ワープロ 打ちにしたものも参考にした。
4)同志社社史資料室編『追悼集Ⅵ』(同志社社史資料室、1993年)、pp.380-381 同志社山脈編集委員会編『同志社山脈』(晃洋書房、2002年)、pp.52-53 YMCA史学会編『日本YMCA人物事典』(日本YMCA同盟、2013年)、p.225 5)野口信一考証『会津若松いまむかし城下地図 幕末編』(歴史春秋社、2011年)
高橋哲夫『明治の士族−福島県における士族の動向−』(歴史春秋社、1980年)、
p.135
6)世良田元『大阪YMCA史』(大阪キリスト教青年会、1969年)、p.58 7)会津若松市出版委員会編『会津若松史』(会津若松市、1966年)、p.139
高橋哲夫『福島事件』(三一書房、1970年)、p.114
『百年の歩み』、p.66
8)「遊奥記事」『新島襄全集』5 : 221-222 9)「日抄」『新島襄全集』5 : 168
小崎弘道『七十年の回顧』(覚醒社書店、1927年)、p.74
なお『新島襄全集』に収められた山崎から新島への手紙は13通、新島から山崎 への手紙は1通。
10)『同志社山脈』、p.52
同志社社史資料編集所編『同志社百年史 資料編一』(同志社、1979年)、p.270 によると1884年4月時点での「同志社英学校生徒名」には2年生として望月の 名がある。「青森県陸奥国」の出身となっており、斗南に移住した元会津藩士や
望月家の状況を反映している。
11)松浦政泰『同志社ローマンス』(警醒社出版、1918年)、pp.181-182
本井康博「京都のキリスト教 同志社教会の19世紀」(日本基督教団同志社教 会、1998年)、p.262
12)同志社社史資料室編『追悼集Ⅱ』(同志社社史資料室、1988年)、p.256 13)『同志社百年史 資料編一』、p.619
『大阪YMCA史』、p.58.
『同志社百年史 資料編一』、p.669によると望月は1888年1月31日発行の『同 志社文学』9号の編集者を務めている。
14)『新島襄全集』9上:464
15)梅花学園百十年史編纂委員会『梅花学園百十年史』(学校法人梅花学園、1988 年)、pp.91, 95
松蔭女子学院『松蔭女子学院史料 Shoin historical documents 3』(松蔭女子学院、
1998年)、pp.145, 173
山陽高等女学校『創立五十年史』(山陽高等女学校、1936年)、pp.34, 57 16)望月興三郎『家族主義女子教育』(福音社、1892年)、p.2
17)奈良常五郎『日本YMCA史』(日本YMCA同盟出版部、1959年)、pp.99, 139, 151
18)『同志社山脈』、pp.52-53 19)『百年の歩み』、p.310
尾崎葉子「有田と会津の縁〜深川キヨさんをとおして〜」、『皿山』97(有田町歴 史民俗資料館、2013年)
20)誓約書には「口云フ事能バス キリストノ教ヲ堅ク相守ルベクニヨリ御答宜敷願 上候」と記されており、辨次郎が天保5年10月22日生で、当時は若松市栄町西 分533番地に住んでいたことがわかる。
21)『百年の歩み』、p.310.
22)内海健寿『会津のキリスト教−明治期の先覚者列伝−』(キリスト新聞社、1989 年)pp.111-156
本井康博「兼子重光『八重の桜』と共に咲く−民権闘士から牧師となった会津人
−」、『同志社時報』135(学校法人同志社、2013年4月)、pp.76-83 23)望月興三郎編『私立山陽女学校報告』(山陽女学校、1894年)、p.9 24)福島県編『福島県史』21(福島県、1967年)、pp.753-755
『百年の歩み』、p.88
25)若松基督教会「若松キリスト教会略史」、(「湯浅与三関係資料」同志社大学人文
科学研究所蔵)
26)『会津のキリスト教』、p.125 27)『福島県史』21、p.748
高橋哲夫『福島自由民権史』、(歴史春秋社、1981年)、p.49 28)『会津のキリスト教』、pp.129-131
29)小崎弘道『七十年の回顧』(警醒社書店、1927年)、p.74 30)警醒社編『基督者列伝 信仰三十年』(警醒社、1921年)、p.228
キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988 年)、p.716
31)『創立五十年史』、p.61
32)原市教会編『原市教会百年史』(日本基督教団原市教会、1986年)、pp.66-76 33)「教会歴史」
34)『百年の歩み』、pp.55-57、『新島襄全集』5 : 270
35)林秀夫『秤座』(吉川弘文堂、1973年)、pp.68-69, 106-107, 247, 250-251 36)福島県『福島県会史』(福島県、1917年)、p.279、『会津若松史』、p.138 37)「教会歴史」
38)『百年の歩み』、pp.56-59
39)『新島襄全集』9上:352-353、『新島襄全集』9下:794、876-877
40)東正義・中村航造「弔電」、1890年1月23日、目録番号1345、画像ファイル番 号11345001。「新島遺品庫資料の公開」、同志社大学、〈http : //joseph.doshisha.ac.jp /ihinko/html/n02/n02010/N0201005G.html〉より2017.10.1取得
41)『同志社百年史 資料編一』、p.615 42)『百年の歩み』、p.322
43)『会津若松史』、p.137
44)『基督教新聞』1886年2月19日号、p.4、3月5日号p.4 45)「教会歴史」
46)『兵庫県官民肖像録』(博道社、1918年)、p.45より画像転載。
47)大貫隆他編『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2002年)、p.333 48)越山鬼城『近畿弁護士評伝』(潜竜館、1900年)、p.37
杉井六郎「熊本バンド」、同志社大学人文科学研究所編『熊本バンド研究』(みす ず書房、1965年)、pp.163-164, 204
49)宮武外骨『明治奇聞』(半狂堂、1926年)、pp.9-12
50)稲葉誠太郎編『加波山事件関係資料集』(三一書房、1970年)、p.77 51)『近畿弁護士評伝』、p.37
52)白河市編『白河市史』3(白河市、2007年)、p.88
53)高橋光夫『山崎爲徳の生涯』(山崎爲徳を顕彰する有志の会、2010年)、p.96 54)『神戸基督教会略史』(神戸基督教会、1924年)、pp.57, 67
55)現在の仙台五橋教会牧師は宮川経宣牧師。熊本洋学校で飯田の同期である宮川経 輝の子孫であり、資料調査にご協力いただいた。「仙台は戦災にあっているので 古い一次資料がない」との事で、現存する資料からは確認できないが、可能性が 全くないわけではないとの話であった。
56)『新島襄全集』4 : 182
57)公評散史『兵庫県人物評3』(神戸同盟出版社、1892年)、p.58
58)日本基督教団神戸教会編『近代日本と神戸教会』(創元社、1992年)、p.224 59)茂義樹「『七一雑報』における日本基督伝道会社」、『キリスト教社会問題研究』
30(同志社大学人文科学研究所、1982年)、p.53
60)『現代語で読む新島襄』編纂委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善、2000年)、
p.240