山本覚馬と新島襄III
著者 井上 勝也
雑誌名 新島研究
号 104
ページ 147‑173
発行年 2013‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013412
山本覚馬と新島襄Ⅲ
井 上 勝 也
23)同志社女学校の開校
新島は明治10(1877)年4月23日、同志社分校女紅場開業願を京都府 に提出し、同月28日に許可された。
山本覚馬は「管見」で「国家ヲ治ムルハ人材ニヨルモノナレバ是ヲ育 スルハ緊要ナリ。日本支那ハ婦人ニ学問ヲ教ヘズ、自今以後男子ト同ジ ク学バスベシ。夫婦トモ精神十分ノ智ヲ尽スモノナレバ其子親ニ優リ又 其子モ親に優リ、追々俊傑ノ生ルハ其理也。」1)と述べている。山本は、
近代国家を建設するには人材(才知のある人物)の育成が緊急の課題で あり、男子のみならず女子も教育を受ける必要があると考えていた。彼 には儒教的な男尊女卑の発想はない。両親の教育レベルが高ければ、子 どもも高くなって親に優り、これを繰り返すことによって俊傑(秀才)
を生み出すことができるともいう。子どもは母親と共にいる時間が長く、
従って賢い母親が子どもに教えるのと、愚かな母親が子育てするのでは 大きな相違を生むともいう。2)山本の発想は極めて現実的である。彼が このような考えを公けにしたのは慶応4(1868)年5月であった。日頃の 信念を述べたのであろう。
山本はこの「管見」で封建体制を長く支えてきた伝統的な「家」制度 の存続を否定する斬新な発想をいくつか打ち出しているが、この発想の 延長線上に彼の女子教育論も位置づけられている。明治5(1872)年4 月に京都府が開校した女紅場は女子の中等教育機関で、読み書き算はも とより、裁縫、手芸、技芸や礼儀作法に加えて、英学が外国人教師によっ て教えられるもので、恐らく京都府顧問山本覚馬のアイデアが加味され ていると思われる。
同志社女学校の濫觴である同志社分校女紅場は男子の同志社英学校の 開校に1年6カ月遅れたが、これは新島が女子教育を男子に比べて二次 的に考えていたことを意味するものではない。彼はキリスト教主義の中 等教育機関である同志社英学校の開校を最優先して槇村権知事と交渉 し、槇村も男子の近代科学(modern sciences)を教える私立学校の設 立に強い関心をもっていたことが第1の理由である。第2の理由は新島 の頭の中に既に遠大な計画があった。それは京都の地にキリスト教主義 の学校をつくり、明治6(1873)年8月に文部省が付達した「西教伝教 士ヲ学校教師トシテ不可雇」(布達第八十七号)という大きな壁をぶち破っ て宣教師を雇い入れるという難事業を密かに考えていたからである。
新島が同志社女学校の開校後も女学校に充分な指導力を発揮しなかっ たのは、彼が創業期の同志社英学校に矢継ぎ早に起こる難題に対処する ことにエネルギーと時間を奪われていたからだと考えられる。彼は明治 11(1878)年7月、岸和田での伝道活動で彼の女子教育観について次の ように語っている。「私は男子と同じく女子にも私の福音を説きたいと いう願望を説明しました。私は男子が救済の道を学ぶ唯一の被造物なの ではなく、女子も救済の道を学ぶ被造物であると話しました。女子が我 が国のように、奴隷のように押さえられている間は、社会状態は決して 改善されないでしょう。それに対してもし女子がキリスト教徒になり、
教育を受け、高められるならば、彼女たちは社会の浄化に男子よりも大 きなことをするでしょう」。3)
新島も山本も男女の性別を越えてトータルな人間の教育の必要性を痛 感していたので、同志社女学校の開校は同志社英学校と共に車の両輪が 動き出したことを意味し、二人にとって誠に慶賀すべきことであった。
24)同志社英学校第1回卒業式
熊本洋学校の廃校にともない、明治9(1876)年の秋、30数人の生徒 たちが大挙同志社英学校に編入学してきた。主に彼らのためにつくられ た余科と称するadvanced courseに在籍して研鑚を重ね、明治12(1879)
年6月に、そのうちの15人が卒業式を迎えた。「熊本バンド」と呼ばれ る彼らは既に熊本洋学校でジェーンズ(L. L. Janes, 1838–1910)の厳し い指導のもとに4年間の教育を受けた優秀な生徒たちであった。
ジェーンズはニューヨーク州のウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒 業した後、南北戦争に従軍した砲兵大尉である。彼は、明治4(1871) 年熊本藩が近代国家の建設に役立つ人材を育成するために、実学党の思 想を受け継いだ人たちによってつくられた熊本洋学校に宣教師フルベッ キ(G. H. F. Verbeck, 1830-98)の推薦を受けて教師に採用された。約 500人の応募者から熊本藩以外からも優秀な生徒の入学を認め、1期生 45人が全寮制でウェスト・ポイントのような厳しい規則のもとに集団生 活を体験した。
ジェーンズはイギリスのラグビー校の校長トーマス・アーノルド
(Thomas Arnold, 1795–1842)の影響を受けている。ジェーンズに学ん だ森田久万人は「ヂェンス先生ニ就テノ回想」に次のように述べている。
「師(ジェーンズ)ガ平素門人等ニ談話セラレシ人物ノヒトリハ、彼ノ 有名ナル英国ノログビー中学校々長タリシトマス・アルノルドノ事ナリ キ。是レヨリ師ノ教育ノ目的ヲ推測スルニ、全マッタク書生各自ノ品性ヲ修養 スルコトニテアリシ。故ニタトヒ数十巻ノ読書ヲ為スモノアリシモ、敢 テ之ヲ奨ハゲマサズ、亦諸学科ノ奥義ニ功者ナルモノアリシモ、殊ニ之ヲ尊 シトセズ、然レドモ若シ智情意三性ノ健全ニシテ、円満ナル発達ヲ遂ゲ ツツアルモノヲ見テハ、太ハナハダシク之ヲ賞嘆セラレタリ。而シテソノ教授 法ニ付テ云ヘバ 則スナワチ開発的ニシテ、所謂注入的教授法ニアラザリシ。(中 略)其精神ヲ察スレバ愛国心ノ発達、博愛心ノ発達、宗教心の発達ノ三 者ヲ以テ教育者ノ負フベキ重任ト為ラレタリ」。1)
AMERICAN SAMURAI – Capt. L. L. Janes and JAPANを書いたノート ヘルファー(F. G. Notehelfer)教授はジェーンズの教育方法を教師と生 徒の心的交流を重視し、「ジェーンズは生徒たちに質問するように駆り 立て、彼らが主張するどのような答えにも抵抗した。彼ら自身が答えを 引き出すことができるまで、彼らに質問を考えさせた」2)という。典型 的な開発主義教育の方法である。
当時の日本の伝統的な教育方法である注入主義とはまったく対極にあ る自学・自習を主とする教授方法で培われた生徒たちは同志社英学校の 入学時には既に高いレベルの学力を有し、人格的にも磨きをかけられて いた。新島校長を始めデイヴィスなど当時の教師たちは彼らの質問攻め に苦しみながらも、彼らの人間的成長を喜んだ。合わせてジェーンズの 教育方法が同志社英学校の方法と共通することも大きな喜びであった。
英学校開校前も後も多くの難問をかかえて、時には学校の存続が風前 の灯火になる時期を乗り越えて、新島も山本もやっと第1回の卒業式を 迎え、優秀な生徒たちをキリスト教界を始め各界に送り出すことができ た。創業の苦労を共にした二人の喜びは格別であった。明治12(1879)
年6月12日、卒業式は午前10時から午後5時までおこなわれ、その間卒 業生たちは堂々と日本語或いは英語で演説したことが卒業式次第で知る ことができる。3)新島校長は卒業生に“Go, go, go in peace. Be strong ! Mysterious hand will guide you.”と励ましの言葉を贈っている。4)
25)山本覚馬、京都府会議員、府会議長に選出される。
山本は明治10(1877)年12月、京都出仕を免ぜられた。槇村知事には 山本が京都府顧問でありながら、耶蘇教徒である新島襄や同志社英学校 に肩入れし過ぎているという判断があったからである。しかし山本は再 び京都府政にかかわることになった。即ち府会が初めて明治12(1879) 年3月30日に開設され、山本は上京区選出の府会議員に選出された。彼 は当時視力障害と脊髄損傷という重度の障害をもっていたが、京都府顧 問時代の実績と識見が高く評価されて、95人の議員の互選で45票を得て 初代の府会議長に選ばれた。彼は議長席につくや全議員に向かって「拙 者不マ具マナルニ付動作進退ノ諸式ニ至ッテハ副議長ニ代理ヲ依頼スベキ 旨」1)と述べている。
槇村知事は明治6(1873)年の小野組転籍事件で示したように、強引 な手法を用いる地方官僚であった。彼は明治13(1880)年5月、地方税 追徴布達事件を起こしている。この事件は槇村知事が前年度の地方税の
収入に不足が生じたので、府会を無視して独断で地方税の追徴をおこ なったことに起因する。注)
同志社大学人文科学研究所に「明治十三年京都府第弐百拾壱号地方税 追徴布達事件ノ顛末」と題する小冊子が所蔵されている。同史料によれ ば、府会議長山本覚馬名で下記のような伺書が知事宛に提出された(原 文は縦書)。「当府第二百十一号布達ヲ以テ十二年度地方税予算徴収額ニ 不足ヲ生ジ候趣ニテ更ニ予算取調之上追徴可相成趣御達シ相成右者何等 之法律ニヨリ御追徴相成義ニ候哉至急御指令相成度此段相伺候也 明 治十三年五月二十七日 京都府会議長山本覚馬 京都府知事槇村正 直殿」。2) この伺書に対して槇村知事は6月10日付で「十二年府会之 決議ヲ以テ施行候儀ト可心得事」3)とそっけない回答を送り、議会を押 し切ろうとした。府会議長山本は6月14日付で内務卿松方正義に宛てて 長文の伺書を送っている。4)彼は6月22日に未だ指令がないために再度 内務省に宛てて次のような電報を打った。(原文片仮名)「過日本会ヨリ 地方税追徴ノ事ニ付伺ヒタル件至急御指令ヲ仰グ」。5)上記の電報に対 して6月30日付で内務省より次のような指令が届いた。「京都府会議長 山本覚馬 地方税追徴ノ義ニ付差出シタル伺書ハ建議ト見認メ其侭留 置指令ニ及ハス」。6)府議会は内務省に建議したものではなく、あくま で伺書であり、山本議長は建議でない理由を述べて、再び内務省に次の ような伺書を送達した。(原文片仮名)「曩サキニ地方税追徴ノ義ニ付差出シ タル伺書ハ建議と見認メ指令ニ及バザル旨御報アリ。然ルニ右ノ事タル 非常ニ起リタル者ニシテ法律上明文ナク将来大ニ彼此ノ権限ニ関係アル ニ付伺ヒタルワケニテ素ヨリ建議ノ旨意ニハアラザルユエ実ニ曩ノ伺ヒ 書ニ対シタル御指令ヲ仰ク。若シ御指令ナリ難キ事ナラバ建議ト見認メ ラレタル理由ヲ示サレン事ヲネガウ」。7)府会は上記のような電報を打っ てその指揮を待ったが、内務省からは指令がなく、7月末通常の府会は 閉会された。
同年10月、槇村知事は臨時府会を開会し、山本府会議長名で内務省に 伺書を度々送付し、指令を求めているが、これはすべて府知事に申出て、
その指揮を受けるのが筋であるので、「伺書ハ当府ヨリ却下可致段達有
之候」8)と、彼は知事槇村正直代理大書記官国重正文の名を用いて府会 議長に返答している。彼は知事の頭越しに内務省に直訴したことを憤っ ているのである。槇村は府民によって選ばれた府会議員の決議の重さを 未だ認識せず、上意下達の旧態依然とした感覚をもって高飛車に府会の 態度を批判している。
地方税追徴議案は最終的には槇村知事のごり押しで、府会側の敗北に 終わった感があるが、当時自由民権の勢力が全国的に拡大し、マスコ ミが槇村知事を批判する記事を新聞に載せ、結果として槇村が明治14
(1881)年1月に閑職である元老院議官に転出するきっかけをつくるこ とになった。
府会議長山本覚馬の在任期間は約1年半と短かかったが、彼の建白書
「管見」によって示された視野の広さ、日本はもとより世界情勢の把握 の堅実さ及び政治、経済、法律、文化についての豊富な知識によって、
彼は府会の司令塔的役割を立派に果たしたといえる。議長自ら修正案を 提出し、賛成意見を述べている例を次に紹介したい。山本は府会議事細 則議案第十八条「大祭日祝日は休会たるべし」という議案に対して、「祝 日の下に及び日曜日」の五文字を加える修正動議9)を提出して、起立69 人で可決された。杉井六郎教授は「かれのキリスト教信仰に基づく安息 日の聖日を守って、神に感謝する姿勢がその底にあったと言って差し支 えないと思われる」10)と述べている。また博物館の諸経費を2500円と することの賛成演説を山本は次のようにしている。「夫ソれ博物の館たる や国家に益を与ふる必用の者なり」とまず述べて、その理由を「凡オヨそ国 の内外を問はす、宇ウ内ダイの万物を蒐集し、一目にして古今の変遷を考察し、
知識の開達を補成(ママ)し、所謂百聞一見にしかさるの理にて、一日も欠く可 からず。(中略)又聞く、欧州にては戦闘の際敵国に入り、城市を焼く とも、惟オモウに博物館は殊に之を守護して保存せしむるほとのものなりと」
11)いう。彼が欧米の博物館の果たしている役割を正確に理解し、1000 年の歴史と伝統を有する京都に博物館の必要性を説得力をもって述べて いることに注目したい。
山本は地方税追徴布達事件が終息する前の明治13(1880)年9月頃、
府会議長を後進に譲り、改選期を待たずに府会議員も辞職した。在任期 間中妻時栄に背負われて議場に運ばれ、議長席につく彼は重複障害を押 して京都府政のために精一杯頑張ったといえる。「明治十二年京都府会 議日誌」及び明治十三年八月の「京都府会議録事」(いずれも同志社大 学人文科学研究所所蔵)を見ると、府会議長の職務が視力と身体に障害 のある山本には苛酷であることがよくわかる。
26)同志社英学校と山本覚馬の演説
同志社英学校は創立の当初から「演説」を重視し、明治11(1878)年 の「同志社規則」には正式に科目として挙げられている。1)
創立者新島襄がニューイングランドで学んだフィリップス・アカデ ミーやアーモスト・カレッジでは演説が重要な科目に挙げられ、毎年必 修であった。ちなみに札幌農学校では明治9(1876)年7月、クラーク
(W. S. Clark, 1826-86)が実質的な校長として来日し、それまでのカリキュ ラムを廃棄してリベラル・アーツを中核とし、演説を必修にしてその上 で将来北海道開拓及びロシアの南下を阻止しうるリーダーの育成に必要 な科目を設けている。2)
同志社英学校では、1000年以上にわたって帝の宮殿のあった都であり、
寺院と神社の勢力が極めて強大な京都の地にキリスト教主義の学校を設 立し、将来は大学に昇格させることを目ざしていた。自らの力で正邪善 悪を区別し、神を畏れ、良心と良識にもとづいて主体的に生きる人間、
個が抹殺される全体主義ではなく、個を大切にし、個の力の結集によっ て民主主義国家を樹立することに貢献し、場合によってはそのために生 命を賭するような人物を育成することを目ざしていた。そこで演説が上 述のような人物の育成には不可欠であったのである。勿論演説は将来キ リスト教の伝道に従事する時に大衆の前で説得力をもって話ができる能 力を培うという意味もあるが、本来は全人的な人間形成に不可欠な科目 としてギリシャの時代から中世、近世を経て重視されてきたものである。
新島のよき理解者であり、協力者である山本覚馬は新島のように「演
説」を学校で学問的に学ぶことはなかった。しかし彼は生涯にわたって 自分の思想を若者たちに伝える機会を大切にしていた。彼は会津藩の大 砲頭取であり、藩校日新館の教授として日本や世界の情勢を語り、近代 兵器の必要性を説き、大砲の打ち方を科学的に説明し(現在の数学、物 理、化学の知識が必要)弾丸のつくり方まで若き藩士たちに教えていた。
文久2(1862)年藩主松平容カタモリ保が京都守護職に任命されるや、藩主が 上洛し、山本も大砲隊を率いて上洛し、元治元(1864)年の禁門の変(蛤 御門の変)では自ら大砲隊を指揮して長州軍と対峙した。他方彼は京都 に洋学所をつくり、会津藩の兵士にととまらず、広く学ぶことを求める 町衆にも門戸を開いて、彼の得意とする政治、経済、法律や万国公法を 教え、明治維新後も続けている。
山本は幕末我が国の洋学者のトップである横井小楠や佐久間象山、勝 海舟、江川太郎左衛門、西周といった人たちに直接教えを乞うか、或い は彼らの思想から積極的に学び取り、自分の思想を構築していった。彼 は既に幕政を支える会津藩を越えて、世界の動向の中で日本のあり方を 考えるスケールの大きな人物に成長していた。
山本の建白書である「守四門両戸策」や「管見」を見ると、彼の視野 の広さ、話題の豊かさ、先見性が感じられ、とりわけ幕藩体制が崩壊し、
近代国家が樹立される変革の時期には、彼の展望や予見を求めて憂国の 志に燃える若者たちが集って彼に意見を求めるのはけだし自然であっ た。
山本は上洛中公用人として藩を代表して各藩との交渉の矢面に立って いた。彼は尊皇攘夷から倒幕を目ざす勢力が武力衝突し、暗殺が日常化 して無法状態に陥っている京都で数年間過ごし、貴重な体験を積んだ。
彼は西洋列強から植民地主義の矛先を向けられている日本が今後どのよ うにして内政を整え、外圧を防ぎ、国家の独立を維持するかといった根 源的な問題を真剣に考えていた。武力による統治の限界を感じ始め、彼 は若き志士たちに自論を説くことに喜びを抱いていた。
このような背景をもつ山本は同志社英学校や女学校の生徒たち、或い は彼に教えを乞いに来る若者たちにどのような演説をおこなったのか。
この場合の演説は数百人の聴衆の前で自説を述べる場合と、学校や彼の 私塾で若者を相手に語る場合の両方を含んでいる。
山本は明治13(1880)年6月25日、同志社英学校第2回の卒業式に「書 生の心得」と題して、演説をしている。3)波乱万丈の人生を送ってきた 彼は卒業生へのはなむけに彼の人生観を語ったのであろう。
同志社英学校が京都の町衆に学校のプレゼンスを示し、合わせてキリ スト教を宣教するために演説の場をキャンパスから町の中に求めたのは 明治13年9月のことである。この行為は大きな英断であった。明治政府 は自由民権派の国会開設運動に対処するために、同年4月「集会条例」
を公布した。そして政治集会、政治結社の警察署への届け出と認可を義 務づけた。地方長官の結社解散権や軍人、警察官、教員、生徒の集会結 社への参加を禁止、屋外の政治集会も禁止した。槇村知事の京都ではこ の法律によって集会の自由は厳しく制限されていた。しかし新島と山本 は槇村知事が地方税追徴問題によって権威を失墜し、全国的に広がる自 由民権運動に後押しされ、さらに近い将来計画している同志社大学設立 運動の先駆けの意味もこめて、学術演説会の実施を決断したのである。
将来展望に鋭い感覚をもっている山本のアドヴァイスが大きな力を発揮 したと考えられる。本井康博教授は論文「同志社演説会―キリスト教と 仏教―1881年」で、英学校が京都府に演説会の開催を申請するにあたっ て、「新島のよき協力者、中村栄助(1883年に同志社理事に就任)を会 主に立て(中略)知事に開催許可を進言したのは山本覚馬であった」4)
という。京都府会議長山本覚馬注と中村栄助の二人を全面に押し出して、
中村に演説会の司会をさせるというのは高度の政治的判断がなされてい たといえる。
9月25日、第1回の学術演説会が寺町四条下ルの浄教寺を会場に500 人の聴衆を集めて実施された。小室信介が社長で関西における民権派 の新聞である「大坂日報」がその模様を次のように報じている。「昨 二十五日は予カネて報道せし如く寺町浄教寺に於て演説会の催しありしか ば、その景況を目撃せんと参堂せしに、実に神武天皇以来初めての開会 なれば、聴衆は四方より来たりてさしもの広き大堂も錐を立つべき地な
き程に詰め掛け、今や遅しと待つ間なく(中略)第二番第三番と演説先 生は更カワる更ガワる場に上ぼり各々弁舌を揮フルひたれども、孰イズれも弟たり難く兄 たり難きものにてありし。扨サて終席は有名なる山本覚馬氏にて、同氏は
「弾道の大道理」と云える題にて演説せられたりしが、如何せん、同氏 の音声は極めて低く、且つ其弁舌訥トツにして、爽サワやかならず、只タダ独言する ものの如く、聴衆は頗スコブる失望し演説中ばにして坐を立ち散じ、同氏の演 説し了オワりし頃は最早闃ゲキ(ひっそりして)として一人もなき程にて実に気 の毒千万なりし。然れども、京都府下槇村君の御鼻先きに於て、始めて 演説会開きしは、此の諸氏の力なり。京都府下人民一般の面目という可 し」。5)上記の新聞記者の分析も面白いが、山本覚馬が「弾道の大道理」
という題で演説しながら、声が小さくて聴衆に聴きとれず、せっかく期 待された演説も失望して会場を去る人が多く出たという。これは大砲頭 取であった山本が得意とする演題で、大砲の弾丸が放物曲線を描いて飛 行する物理学の法則を利用して、それを世の中の現象にあてはめて説明 しようとしたのであろう。
第2回の学術演説会は翌10月16日に洛東の双林寺文阿弥でおこなわれ た。およそ700人が出席し、山本覚馬は今度はしんがりをつとめ、「人間 之四務」と題して演説している。彼は人間の四務―金銭、智識、身体、
徳義について持論を展開させた。「七一雑報」によれば、「第一に金銭を 得て宜しくこれを仕用する事、第二に智識を開発するに励む事、第三に 身体を強壮にする事、第四に徳義を修むる事は人間欠くべからざる務な る事を説いた」。6)
山本は第4回の演説会(1881年1月15日)で新島と共に演説し、彼の 演題は「統計表論」で、夫人に背負われての登壇あった。7)「朝野新聞」
によると彼の演説に臨席の警察官との間に次のようなやりとりがおこな われている。「有名なる山本覚馬氏が統計学の理を述べられるたる末、
此事到底政府にて世話すべき事なりと述ぶるに及んで、臨場の警官は直 ちに其政事に関するを以て中止すべしと命ぜられしかば、山本氏には大 に驚き、是れは日本政府を指したるに非ず、只世の政府なる者が世話せ ざれば不可也との理を述べし迄也と理解されしにより警官は黙して止み
たりと。一は眼鋭く、一は耳純なり。誠に二幅対の奇談と謂ふ可し」。8)
国家権力の末端にあって権力を行使する警官に言論を制約されながら も、勇猛果敢に言論統制の壁を乗り越えて真理を語ろうとする人たちの 努力によって、槇村知事の京都にも少しずつではあるが言論の自由が拡 大されていった。
『創設期の同志社―卒業生たちの回想録』は創設期の生徒たちが同志 社から何を学んだかを知ることができる。明治10年代後半に普通科を中 退した葛岡龍吉は明治18年12月、同志社創立十周年の式典で山本が駕籠 のまま壇上に運ばれ「学芸教育」と題して蘭学者の苦心談を話したが、9)
彼の講話は「生徒一同に非常に感動を与えられた」10)と述べている。
山本は幕末江戸で蘭学を学び、蘭学を通じて外国事情を知り、大砲の構 造を理解しようとした。彼の体験談は説得力があり、興味があったと思 われる。当時の生徒たちは山本が波瀾万丈の人生を送ってきた歴戦の勇 士であったことを知っていた筈である。
山本の演説の圧巻は明治20(1887)年6月24日の演説である。新島校 長が仙台の東華学校の開校式に出席のため、山本が校長代理を務め、卒 業生に「貧民の友となれ」といった次のようなはなむけの演説をおこなっ ている。「諸子の今や業を終へて、各其目的とする処に進まんとす。或 いは尚学海に遊泳を試みるものあらん。或いは宗教社会に入るものあら ん。而して其従事すること等しからずと雖イエドも、子等是非とも勉むべきは 貧民の友たること之れなり。吾れ思ふに日本は将来英国の如く、貧富の 懸隔追日甚しきに至らん。此時に当たり能く弱を助け強を挫き、貧を救 ひ富を抑ゆるものは誰ぞ。諸子乞ふ、吾が言を常に心に服フクヨウ膺して忘るる 勿ナカ
れ」。11)
博学な山本は資本主義が貧富の格差を大きくすることに注目し、イギ リスのような資本主義社会では早くも1800年代の始めにはロンドンの イーストエンドに貧困者や労働者が流れ込み、スラム街をつくっている こと、オックス・ブリッジの学生たちや宗教家が彼らの自立を促すため のセツルメント運動を起こしていることを知っていたかもしれない。慶 応の福沢と違って、同志社の新島は学生たちに「地の塩」として「世の光」
として「世の中のために」生きることを説いてきた。山本ははなむけの 言葉に彼の人生観とともに同志社の建学の理念であるキリスト教ヒュー マニズムの理念を述べている。
教育とは信頼が大前提である。山本と関心をともにし、彼に全幅の信 頼を置く生徒たちは彼から「非常な感動を与えられ」ることは自然であ る。講演者の人生哲学や人格のすべてが演説に込められている時、聴き 手に大きな感動を与える。山本の演説は当時の目的意識の明確な生徒た ちにとって刺激的であり、やる気を起こさせるものがあったと考えられ る。
27)山本覚馬と松方正義大蔵卿の財政改革
山本の経済に対する感覚は極めて鋭いものがあった。彼は会津藩の兵 学者であり、大砲頭取であったが、常に費用対効果を考えていた。例え ば「管見」の⑥建国術では次のように述べている。商業国は農業国より も豊かで、ヨーロッパではイギリス、フランス、プロイセンは商業国で、
国が隆盛である。それに対して日本や中国は農業国であるので、そうで はない。例えば百万石の土地より納められる租税がおよそ百万金と見て、
それを職人に渡して器物を作らせば、倍の二百万金になる。しかしそれ を商人に渡して商いをさせれば、その二倍すなわち元金の四倍になる1)、 という。また⑧貨幣の項を見ると、彼は外国貿易を意識して貨幣制度を 考え、「世界不通用ノ我貨幣ヲ以テ外国ト交易セバ日ヲ追ッテ日本ノ衰 耗窮シ、速ニ外国ニ模倣シテ是ヲ改ムルハ急務ナルベシ」2)という。
明治政府は明治10(1877)年の西南戦争の戦費をまかなうために紙幣 を大量に発行した。しかし不換紙幣であったためにインフレーションが 起こった。明治14(1881)年の政変で松方正義が大蔵卿になり、いわゆ る松方財政を推進した。即ち大量の紙幣の整理をおこない、翌15年には 中央銀行として日本銀行を設立して日本銀行のみに紙幣の発行権を認 め、18年以降銀貨と引き換えできる兌ダ換紙幣を発行した。いわゆる銀本 位制である。我国で金本位制が成立するのは、日清戦争の賠償金を準備
金とした明治30(1897)年以降である。
明治政府の近代国家建設時の財政・金融政策は困難を極めたが、大蔵 卿松方正義は山本覚馬からアドヴァイスを得ている。昭和10(1935)年 日本銀行総裁になった深井英五は明治19(1886)年同志社英学校に入学 し、同24年に卒業したが、彼は『人物と思想』(昭和14年刊)を公刊し、
その中で「松方正義の請益せる山本覚馬」と題する章を設けている。ち なみに請セイエキ益とは「会釈して許しを請コう」という意味である。松方の方か ら山本に面会を求め、教えを乞うたのである。松方は山本に自説を述べ て意見を求めたら彼は「申し分のない御案だが、実際にやり通うせましょ うか」と問うた。松方は「殺されなければやり通す」と答えた。「其の 御覚悟があれば結構です」と山本は賛成した。深井は「是れが私の記憶 に残る公(松方)の回顧談の口調である。公は山本の賛成を得て大いに 自信を強くしたと云ふ」。3)松方の命を賭しての財政改革は山本のアド ヴァイスによって補強され、彼に自信を抱かせたのである。
28)明治18年の山本覚馬
明治18(1885)年、山本覚馬は既に57歳になっていた。重複障害をか かえる彼にとって、57歳は当時の平均寿命からいっても高齢であった。
明治17(1884)年4月、新島校長は静養とアメリカン・ボードへの大 学設立の情宣と募金を兼ねて欧米に長途の旅に出た。校長留守中の同志 社英学校では山本が校長代理を勤めることになった。彼は同年6月、同 志社女学校、同志社英学校本科、同余科の卒業式に卒業証書を授与して いる。
明治18年1月、同志社女学校校長代理山本覚馬名で京都府学務掛に「同 志社女学校修身科加入上申書」を提出し、使用教科書のトップに「新約 全書」を挙げた。その他の教科書としてホプキンス氏の「修身論」、近 藤芳樹編の『明治孝節録』、干河岸貫一著『日本立志編』、宮崎嘉園訳の
『西洋列女伝』、千村五郎訳の『西国女訓』、中村正直訳の『西国立志編』
を挙げている。1)
既に同志社英学校では明治8(1875)年8月、「私学校開業・外人教 師雇入につき許可願」を京都府庁に提出し、履修科目表に「聖経」を挙 げたが、その削除を求められた経緯がある。10年後の明治18年、国内で は4月に各国との条約改正会議の予備交渉が始まり、他方伝統文化否 定の西洋化政策に批判的な勢力が抬頭し始めた。教育関係では明治13
(1880)年の改正教育令で府知事、県令の学校監督権が強化され、修身 が筆頭教科になり、明治15(1882)年2月、儒教主義的教育方針の貫徹 を求める勅諭が出され、同12月文部省は元田永孚らの編集した『幼学綱 領』を修身教師用書として各校に下付する通達を出している。
このような時代背景の中で、明治17年京都府は読書科を置いた私立 学校に修身科を「加載することを求め」、2)各校は府にその報告をした。
同志社女学校は上述のように修身科加入の上申書を提出した。上申書の 中に修身科で用いるテキストを挙げ、そのトップに聖書を挙げたが、学 務掛の内部で物議をかもしたことが『同志社百年史』資料編13)で知る ことができる。明治18年1月21日、学務掛が文部省に伺上申した文書の 中に次のような表現が見られる。「我国固有ノ道徳教ニ基キ儒教主義ニ 依ラシムル義ニ有之然ルニ右女学校之義ハ米国耶蘇会社トカ申スモノガ 設置セシモノニ有之ト推察サレ候ニ付容易ニ其主義ヲ変スルモノトモ不 被存候故ニ遂ニ之ヲ変セサルトキハ学校ト見做ナサズ 則スナワチ本願寺ノ教校ト 一般視スベキ…」。4)槇村知事とは異なり、北垣知事のもとでの学務掛も、
文部省の指令の末端機構として厳しい考え方を示している。即ち同志社 女学校が言うことをきかない時は各種学校にしてしまう方法もあるとい うのである。
同志社女学校には同年もう1つ大きな事件が起こった。既に拙稿の17 新島・山本と宣教師たちの文化摩擦(井上勝也「山本覚馬と新島襄Ⅱ」
『新島研究』103号2012 pp.19-20)で英学校の場合を述べたが、女学校の 場合はもっと深刻で学校の存立にかかわる事件に発展した。即ち女子の 宣教師たちは学校の経営や教育を宣教師主導で進めたいのに対して、日 本人教員は日本人主導でという考え方が表面化したのである。ジャパン・
ミッションは女子宣教師の引き上げと学校の廃止を決定した。それを聞
いた女生徒たちは校長代理山本覚馬に嘆願書を提出5)している。結局相 方は行き違いを認め、「日本人関係者はすこしずつ姿勢を変え」、6) 「学 校運営に関しても口を出すだけでなく、経済的にも参与しはじめた」。7)
女学校同窓会長荻原芳枝のいうように、「此結果は、内外一致、衆心協力、
校運隆昌の動機とな」8)ったのである。
明治18年の山本覚馬にはもう1つの大きな出来事があった。彼は明治 8年に『天道溯原』を読んで(もらって)、キリスト教を理解し、精神 革命ともいえる意識の変革を体験した、といわれる。彼にとって生きる ための立脚点を確固とすることができたのである。
山本は、17歳年下の八重にキリスト教を学ばせ、洗礼を受けさせ、キ リスト教の宣教師である新島襄と結婚させることに成功した。しかし彼 自身は洗礼を受けて正式にクリスト者になるということをしなかった。
ところが10年後の明治18年になって彼は洗礼を受ける決心をしたのであ る。
明治18年2月28日、新島は懐かしいアーモストに着き、シーリー総長 宅を拠点として、病床にあるW. S. クラーク博士を見舞ったり、多忙な 日々を過ごしていたが、妻八重から兄覚馬の受洗についての手紙を受け 取った。彼は4月3日付で八重に次のような喜びの返事を書き送ってい る。「…御兄ニハ此度洗礼御望みのよし珍重…、日本を出しより是程喜 はしき新聞ハ未た承リ不申候…、御兄様にも其節(日本信徒大親〔睦〕
会京都にて)御受洗、京都府下の人々に大関係をも生す事…」9)。文章 中の珍重は「めでたいこと」という意で、新聞は「新しい知らせ」とい う意である。新島は鶴首して待っていた山本の受洗を心から喜んでいる。
山本は5月17日、第二公会で宣教師グリーン(D. C. Greene)から妻時 栄と共に受洗した。10)
山本は5月に京都商工会議所の二代目の会頭に就任し、11月まで続け ている。欧米の商工会議所の京都への導入を勧めたのは山本で11)、明治 15(1882)年10月、「京都商工会議所設立大旨」の冒頭で「商工ノ盛衰 国家ノ富強ニ関スル」12)と明言しているが、これは彼の「管見」に見 られる発想である。京都の地場産業の発展を目ざして発足した京都商工
会議所の主だった役員は、新島襄より洗礼を受けた大沢善助13)や山本 の私塾で政治、経済、法律や万国公法の講義を受けた中村栄助や浜岡光 哲、田中源太郎等である。同年12月の常議員会で山本は会長を浜岡光哲 に、副会長を中村栄助に引き継いでいる。14)
山本は明治14(1881)年、北垣新知事から琵琶湖疏水事業を起こすに 当たり、勧業諮問会員に推挙された15)が、愈々この年(明治18年)6 月に疏水事業が起工された(明治23年4月完工)。
29)山本覚馬に教えを受けた京都の町衆たち ―中村栄助、浜岡光哲、田中源太郎
山本覚馬は藩主松平容保に随行して上洛し、維新までの数年間京都に あって本務の傍ら洋学塾を開いて後進の指導にあたった。彼は維新後の 京都にあって京都府顧問として京都の活性化に豊富な知識を提供し、多 くの斬新なアイデアを実現していった。近代国家がスタートし、遷都後 の寂れた京都を近代化することに情熱を燃やそうとする優秀な若者たち にとって山本の国家ビジョンは瞠目すべきものであった。山本の周囲に 集まって彼から学び、関西の実業界で指導的役割を演じるとともに、新 島、山本の同志社大学構想の実現に積極的に協力を惜しまなかった人た ちから3人を選んで、次に紹介する。
1.中村栄助(1849-1938)
明治14年から府会議員、同27年から31年まで府会議長を勤めた。彼の 生業は石油商、鰹節商である。明治15年京都商工会議所会員、次いで理 事になる。同31年から35年衆議院議員。山本覚馬に政治、経済を、市原 盛宏に英学を学ぶ。明治25年から28年まで平安神宮の造営に現場監督と して奮闘した。明治16年第二公会でJ. D. デイヴィスから受洗した。同 志社社員、理事、大学設立の発起人を勤め、設立の義捐金募集に尽力す る。総長代理、1)
中村は新島に全幅の信頼を置き、新島も彼を信頼していた。彼は新島
の信頼に十二分に応えたといえる。とりわけ彼が同志社大学や京都看病 婦学校の設立に果たした役割と総長代理として極めて困難な問題の解決 に尽力したことは彼の新島や山本、さらに同志社を思う熱い気持からで ある。中村の森中章光に口述した『九拾年』と題する回想に「山本覚馬 翁」と題する章があるので、注目すべき個所を引用する。「明治十六年 には洗礼を授けられて公然と基督者になったのであるが、知的方面に於 ては山本覚馬先生に師して、大いに指導啓発されるところがあった」。2)
「私が新島先生の紹介で山本先生を識るようになったのは三四年も前の ことであったが、議員になってからは特に山本先生に接する機会が多く なったばかりでなく、其人物に平素から深く敬服していたので殆んど毎 日のように先生の宅を訪ねて講義以外の教導を仰いだものである。従っ て私の知的向上のためには此の山本先生に負ふところ少なからざるもの があったわけだ」。3)
2.浜岡光哲(1853-1936)
明治14年から16年、17年から22年まで府会議員4選、その間北垣知事 を助けて琵琶湖疏水の完成に尽力した。ドイツ語を飯塚、山越某に学ぶ。
山本覚馬に政治、経済、法律を学ぶ。彼の生業は印刷業と新聞発行であ る。「中外電報」と「日出新聞」の社長を35年まで勤めた。15年京都商 工会議所を設立し、17年会長に就任。19年京都商工銀行を創設し、頭取。
同年京都織物、京都陶器、関西鉄道の各取締役。20年関西貿易合資会社 を創立し、社長。20年商工及び商工会議所の制度視察のために欧米各国 を巡遊。28年京都鉄道株式会社を設立し、社長に就任。34年関西貿易合 資会社の破綻により一切の公職を辞す。44年京都工商株式会社取締役及 び京都電鉄株式会社社長。22年から28年市会議員、23年から24年、及び 44年から大正3年衆議院議員3選。同志社社友、監事、大学設立の発起 人、設立の義捐金募集に尽力した。京都薬学専門学校理事、京都帝国大 学の創設に尽力した。田中源太郎は母方の従兄弟。4)
西川正治郎編著『浜岡光哲翁七十七年史』に面白い記事がある。「翁(浜 岡)の談によれば、当時政府は京都市の衰退を匡キョウ救すべく産業の振興、
教育の普及を計るため西周氏を府の顧問とせしが、氏の就任せざる以前、
神田孝平、津田真道氏と和蘭留学の事となれるため、その後任を物色し、
氏は自身親交のある山本氏を最適任者として推薦せしものなり」。5)「元 来山本氏は武人の出なるも文事に長じ、蘭語を解し、西欧の事情に通じ、
改革家として理想的の資質をもち、その難事に処するや才知一時に忿フン湧 するのあり」。6)「一言にして謂へば、山本氏は識見の人にして、槇村知 事は徹頭徹尾手腕の人なりき」。7)
3.田中源太郎(1853-1922)
明治13年から23年まで府会議員(断続的)であった。15年から退任ま で府会議長。生業は農業、遭運業、金銭賃貸業。藩儒杉山某に句読を学 ぶ。京都の横井忠直に師事。山本覚馬に政治、経済を学ぶ。明治17年京 都株式取引所を設立し頭取。19年亀岡銀行取締役、頭取に就任。24年京 都商工銀行頭取。21年京都電灯株式会社社長。28年京都鉄道株式会社設 立。23年から27年まで衆議院議員、30年から37年及び44年から大正7年 まで貴族院議員、京都宮津間の車道開設事業、京鶴鉄道建設に尽力。8)
垂水新太郎は義兄、浜岡光哲は従兄弟。田中は明治23年、直接国税935円、
同30年1590円を支払い、当時府下きっての大地主であった。9)
三浦豊二編『田中源太郎翁伝』(昭和9年刊)は名実ともに関西実業 界の重鎮に成長した田中の生涯を余す所なく描いている。田中は「小林 駒之助という人の世話で宣教師の西洋人でデビスといふ人に紹介して貰 ひ、この人について暫く英語を学んだ。恰度明治七年頃二人が二十二歳 の時で」10)という文章がある。田中は友人と2人で神戸まで行き、英 語を学んでいる。このデビスは新島を助けて同志社英学校の発展に寄与 した宣教師J. D. デイヴィスのことであろう。田中は新島、山本の目ざ した明治専門学校(同志社大学)設立に協力し、明治17(1884)年4月、
明治専門学校の募集草案の作成を引き受けた。11)もっとも彼は設立の 発起人に名を連ねることを固く辞退している。新島は大物である田中に 是非発起人になってもらいたいと強い願望をもっていた。明治16(1883) 年10月1日、田中源太郎宛の新島の手紙は彼の田中に対する期待の大き
さを示している。「貴君之如き兼而より御賛成被下候故、必らす発起人 中ニ御加入之事ト予認候而、先ツ発起人中へ相加候間、臥而御辞退無之 様奉仰候」。12)しかしながら田中からは辞退の手紙が届き、再度新島は
10月4日田中に発起人への連名を強く求める手紙を書き送っている。「過
日一書奉呈候処、早々御回答被下難有奉謝候、乍去茲ニ反腹〔復〕御委 頼申サ丶ルヲ不得情実アリ敢而寸書ヲ呈シ御再考ヲ奉仰候、貴書ニヨリ 発起人御加名之義ハ御辞退之事ナレトモ、貴兄ニハ当春モ大学之為ニ大 ニ御配慮被下、特ニ府会議員ニ向ヒ懇ニ御説諭モ有之候次第、万一貴兄 ニシテ御辞退アラハ恐クハ郡中ニテ誰壱人モ承諾スルモノハアルマジト 懸念仕候、且郡中ノミナラズ、区中之人ニも貴兄ニシテ御加入ナキ上ハ 奇異之感情を惹起シ、我モ我モト辞退サル丶事ハ小生輩之疑ヲ容レサル 所ナリ、卑見ニヨレハ今回京都管内ニ於而発起人ヲ募ルノ成否、特ニ貴 兄ノ承諾セラル丶ト否トニ関スヘク候間、土地之懸隔ヲ以テ御辞退アレ トモ、発起人ニハ一回御集会ヲ相願候ハ丶決シテ度々京都迄玉足ヲ労ス ル事ハアルマシト存候、且有名無実ト被仰候得共決シテ不然、兄之一諾 克ク衆人ヲ動スヘキ事ナレハ、右様之御謙遜無之様仕度、」13)
10月11日、新島は田中に直接会って発起人を依頼しているが、不景気 と時期尚早を理由に再度断られている。
「富小路四条下ル深政方ニ於テ田中源太郎君ニ面会シ、三周間前ヨリ 発起人不承諾ノ事ニ懇々示談ニ及候所、敢テ発起人加名ヲ辞セラル丶ニ アラス、近来米価地価ノ下落ト加之当夏ノ旱魃ヲ以テスルヨリ村落ハ非 常ニ困却、随不景気不融通ヲ醸シ、到底此ノ実況ナルレハ賛成家ヲ得ル ニ見込ナケレハ、此レ時機ノ未タ至ラサルナルベシト思ワレ断然発起人 加名ハ辞シ度ト云レタリ」。14)
新島の大学設立の執念は彼の最晩年の明治23(1890)年1月5日に詠っ た和歌「いしかねも透れかしとてひと筋に射る矢にこむる大丈夫の意志」
の通りである。彼の大志を実現しようとする意気込みは瞠目すべきもの がある。
明治21(1888)年4月、新島は知恩院において大学設立につき京都府 民に告ぐ650人の大集会を開催した。その演説原稿が『新島襄全集』1
に収載されている。彼の熱気が伝わってくる文章を引用したい。「凡ソ 一国ノ開明ヲ進メントナレバ、必ラズ理学ナリ、化学ナリ、哲学ナリ、
神学、文学、社会学、経済学、政事学、法律学等、諸学科ヲ講究シ得ベ キ、大学ガナケレバナリマセン、又況イワンヤ、大学ハ、学者芸人ヲ作リ出 スノミナラズ、実ニ一国ノ元気トナリ、精神トナリ、又柱石トナリ得ベ キ人物ヲ養成セネバナリマセヌ、本立而末生ズ、開明ノ花ヲ望マバ、先 ズ開明ノ根ヲ培カヒ、文化ノ流レヲ汲ントナレバ、宜シク文化ノ源ニ遡 ラネバナラヌ事ト存ジマス」。15)
ここに新島の考え方の基本が示されている。「開明ノ花ヲ望マバ、先 ツ開明ノ根ヲ培カ」うというのである。大学は国家の政治、経済、法律、
教育、医療、農工商漁業等に従事する人たちのリーダーとなる人物を育 成し、彼らが良心と良識をもって国家を動かし、政策に修正を加え、発 展させていく。薩摩や長州が牛耳る国家ではなく、国を愛し、国のため に献身するすべての国民のものでなければならない。新島の発想は、明
治国家がtop-down方式で国造りをすすめようとするのに対して、新島は
bottom-up方式であった。
新島や山本が目ざした大学設立運動は、自由民権運動を支える人たち と思想的に通底していたために、中村栄助や浜岡光哲や田中源太郎と いった京都の有力者も協力、貢献を惜しまなかったのであろう。
30) まとめ
幕末に国禁を犯して密航を企て、明治7(1874)年、10年ぶりに帰国 した新島襄は、キリスト教を宣教することがもっとも困難だと思われた 京都の地で、幸いにも山本覚馬という人物に邂カイコウ逅した。新島の遠大なビ ジョンを理解し、万難を排して協力を約束し実行しようとした山本と新 島には、近代国家の形成には自立した人民が必要であり、それを可能な らしめるキリスト教主義の教育が不可欠であるという点で意見の一致を 見た。二人は人材(才能のある人物)が国家の柱にならねばならないと 考えていたからである。
西洋列強に関心のある山本が密かにキリスト教関係の文献を読むこと は、我々が現在想像する以上に可能であった。彼は形骸化した「東洋の 道徳」を批判し、「西洋の芸術(技術)」の背後にあるものを探ろうとし ていたのではないか。彼は漢訳聖書を含めて漢文で書かれたキリスト教 関係の文献をあらかじめ読んでいたから、明治5年以降の宣教師との情 報交換もはずんだし、明治8年宣教師ゴードンに貰った『天道溯原』の 理解も早く、キリスト教の本質に迫ることができたのではないか。同年 4月以降の新島との接触がスムーズにいったのは山本と新島の関心事が 重なり合う部分が多く、山本が新島の思想を理解しうる受け皿を既に もっていたからだと思われる。
山本は「万国公法」に強い関心をもち、彼自身も研究するとともに多 くの人たちに万国公法を講義している。彼にとって弱小国日本を大国か ら守るために万国公法が必要であった。万国公法は「管見」⑤の国体の 項で述べているように、「タトヒ外国タリトモ万国公法ニ信シンレイ戻スル者ア ラバ、彼ヲモ討夷スルニ足ル可シ」1)であった。
万国公法は自然法であり、弱小国、強国を問わず「一視同仁之道、萬 国平行之権」2)であった。そして万国公法は「正義と平等を体現する学 理であって、それに対するまっとうな認識と実践こそ近代文明世界に並 び伍するために必要条件と考えられた」3)のである。だからこそ山本は 明治4年京都の小学校のカリキュラムにも高学年で万国公法を配当した のであろう。4)彼は日本が弱小国であるという認識にプラスして彼の属 した会津藩が朝敵、賊軍のレッテルを貼られ、悲惨な状況におかれてい ることも万国公法に関心をもつもう1つの理由であった。
山本覚馬の会津藩は、幕末の幕政を積極的に支え、自藩の崩壊を招く ことを予測しながらも敢えて京都守護職を引き受け、帝のいる京都の治 安の維持に貢献した。しかし倒幕を意図する勢力からすれば幕府の存続 に寄与することになり、結局会津藩は戊辰戦争で敗北し、領地を奪われ、
陸奥の斗南に左遷されるという最大の悲劇を体験した。兵学でもって藩 に貢献してきた山本は自己の立脚点を完全に失った。追い討ちをかける ように彼は視力を失い、脊髄を損傷するという重度の障害によって自由
な行動を奪われた。しかし彼にはそれまでに蓄積してきた国内外の情報 や幕藩体制崩壊後の近代国家の青写真を描き、それの実現に邁進するし たたかな敢闘精神を持ち続けていた。
山本が明治2(1869)年薩摩藩邸から解放され、活力を失った京都を 活性化するためのアドヴァイザーとして実質的に京都府で働き始めたの は、解放されてそれ程間を置かない時期であると想像される。しかるに 28)の2浜岡光哲の項で述べたように、浜岡の記憶によれば薩長主導の 明治政府が京都の活性化のために当初長州藩出身の西周を顧問に予定し ていたが、彼のオランダ留学が決まったので、後任に西の友人である山 本に白羽の矢が放たれたという意味のことを書いている。この話を山本 から聞いた浜岡の記憶違いか、山本の記憶違いの可能性もある。
西周がオランダに留学したのは文久3(1863)年から慶応元(1865)
年であり、彼は慶応2(1866)年徳川慶喜の政策顧問として上洛し、四 条大宮の更雀寺に開いた洋学塾では山本がフィセリングの万国公法の講 義を熱心に聴いている。西は明治元年以降は「万国公法」を翻訳して刊 行したり、明治3(1870)年9月に明治政府の兵部省に出仕し、11月に 東京に私塾育英舎を開塾して「百学連環」の講義を始めている。西が京 都府顧問を断ったのはオランダ留学ではなく、他の理由からであろう。
いずれにしてももし西周が京都府顧問を引き受けていればどうなった か。山本の明治8年の新島との出会いの可能性は小さくなり、新島は彼 のような有能で強力な助っ人を得ることはできなかったであろう。同志 社英学校の開校は不可能であったかも知れない。またもし山本が失明せ ず、鳥羽伏見の戦い後に会津に戻り、戊辰戦争に参加しておれば、我々 は彼の優れた建白書「管見」を知ることはできないし、彼は高い確率で 鶴ヶ城の落城とともに戦死していたであろう。人生何が幸いするかわか らないのである。
歴史に「もし」は禁句であるといわれるが、上述のような可能性を考 えることも重要である。それ程山本覚馬の存在は新島にとって大きく、
彼がいなければ明治8年京都の地にキリスト教主義の同志社英学校の誕 生は望み得ないといわざるをえない。新島は明治12(1879)年6月、第
1回の卒業式で“Mysterious hand will guide you.”と卒業生にはなむけの 言葉を贈っている。この言葉こそ新島にとっても、山本にとっても真理 といわねばならない。
山本は進取の気象をもち、重複障害をものともせず、常に時代の先を 見ることのできる人物であった。彼の性格は豪放磊落で、彼の見識が若 者を引きつけていた。彼は新島のパートナーにふさわしく、同志社にも、
京都にも余人をもって代え難い貴重な存在であった。
山本や新島の人格と思想に影響を受けた中村栄助、浜岡光哲、田中源 太郎等多くの人たちが明治16年以降同志社大学設立の牽引車役を引き受 け、関西の実業人に働きかけ、自らも設立のために多額の寄付をしてい る。明治23(1890)年の国会開設の年を期して同志社大学がスタートす る筈であったが、新島のあまりにも早い死によって実現は先送りされた。
しかし大学設立の精神が京都の地に根付き、同志社が137年の歴史と伝 統を誇りうるのも、創業期の新島や山本を始め多くの同志の筆舌に尽く し難い苦労があり、支援があったことを我々は銘記すべきである。とり わけ山本という特異な人物が新島の協力者になったことは新島にとって 誠に幸いであり、ひいては山本にとっても京都における彼の後半生を充 実したものにすることができたのではないか。彼の生涯に会津藩の大砲 頭取のど根性を見せつけられた思いがする。山本も新島も「義」のため に身命を賭したのである。山本は新島より2年後の明治25(1892)年12 月に亡くなった。享年64歳であった。〈完〉
注 23)
1) 「管見」『改訂増補山本覚馬伝』p.220 2) 同上
3) A.S.Hardy ed., Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Houghton, Mifflin & Co., 1891, pp.220-221
24)
1) 杉井六郎「続 熊本洋学校―教育編」『キリスト教社会問題研究』7号,1963,
pp.167-168
2) F. G. Notehelfer, AMERICAN SAMURAI – Captain L. L. Janes and JAPAN, Princeton Univ. Press, 1985, p.137
3) 「同志社英学校卒業式」『同志社百年史』資料編1,p.252
4) 「第四章 初期の同志社―神学教育と伝道活動」『同志社百年史』通史編1,p.111
25)
1) 「明治十二年京都府会議日誌」同大人文研所蔵 p.2
注) 槇村の地方税追徴の高姿勢の背景には、彼の性格にプラスして「明治11年7月 公布の地方税規則によってその税源と費目が決定され、同規則は地方税予算の 編成を府知事県令に義務づけると共に、府県会の予算審議権を規定し、かつ区 町村限りの費用を地方税から分離した。これらは徴収権の強化と相まって中央 財政の一環としての府県財政に初めて鞏固な基礎を与えた。このように地方税 は国家権力を物質的に支える一手段に他ならなかった」*ことが影響している。
要するに府議会が賛成しなくても知事の権限で原案をとりおこなうことができ るとの判断が槇村知事にあったものと思われる。
*原田久美子「民権運動期の地方議会―明治十三年京都府における地方税追徴 布達事件」日本史研究会編『日本史研究』38号 創元社 1958,p.37
2) 「明治十三年京都府第弐百拾壱号地方税追徴布達事件ノ顛末」同大人文研所蔵 p.13
3) 同上
4) 同上 pp.14-15 5) 同上 p.16 6) 同上 7) 同上 p.17 8) 同上 p.19
9) 「明治十二年京都府会議日誌」p.11
10) 杉井六郎「補遺編五 京都府会議長として」『改訂増補山本覚馬伝』p.301
11) 同上 pp.301-302
26)
1) 「同志社規則」『同志社百年史』資料編1 p.13
2) 小枝弘和著『William Smith Clarkの教育思想の研究―札幌農学校の自由教育の系 譜』思文閣出版 2010,pp.261-262
3) 松浦政泰著『同志社ローマンス』警醒社書店 大正7年 p.121
4) 本井康博「同志社演説会―キリスト教と仏教―1880年~1881年」『キリスト教社 会問題研究』39号 1991,p.104
注 山本覚馬が府会議長及び府会議員を辞任するのは明治13年10月の臨時府会が開 かれる直前の10月10日前後であったと考えられる。*原田久美子「山本覚馬―お ぼえがき・人と思想」『新島研究』64号 1983,p.25
5) 「大坂日報」明治13年9月28日付 原田久美子 前掲論文 p.27 6) 『七一雑報』5巻44号(明治13年10月29日) p.348
7) 本井康博 前掲論文 p.116
8) 「朝野新聞」明治14年1月26日付『新聞集成明治編年史4』 p.339 9) 松浦政泰著『同志社ローマンス』p.311
10) 「葛岡龍吉談」『創設期の同志社』 p.252
11) 丹羽清次郎「故山本覚馬先生を追念す」『改訂増補山本覚馬伝』 p.314
27)
1) 井上勝也「山本覚馬と新島襄Ⅰ」『新島研究』101号 2010 p.35 2) 同上 p.36
3) 深井英五著『人物と思想』日本評論社 昭和14年 p.358
28)
1) 「同志社女学校修身科加入上申書」『同志社百年史』資料編1 p.32 2) 「第七章 同志社女学校の開校」『同志社百年史」通史編1 p.205
3) 「官省伺上申 明治十八年一月二一日 学務掛」『同志社百年史』資料編1 pp.31-34
4) 同上 p.33
5) 坂本清音編著『女性宣教師「校長」時代の同志社女学校(1876年―1893年)―
アメリカン・ボード宣教師文書をベースにして』下巻 同志社女子大学2012 pp.12-13
6) 同上 p.17 7) 同上 p.18 8) 同上
9) 「新島八重宛 明治18年4月3日付」『新島襄全集』3書簡編1 p.343(以下『全 集』とする)
10) 同上 p.829 注解
11) 早川広中・本井康博共著『増補改訂新島八重と夫襄』 思文閣出版 2012 p.123 12) 髙橋眞一編著『京都府商工会議所史』京都府商工経済会 昭和19年 p.33 13) 大沼善助述『回顧七十五年』京都日出新聞社 昭和4年 p.46
14) 『京都商工会議所史』 p.43 15) 『改訂増補山本覚馬伝』 p.319
29)
1) 本山幸彦編著『京都府会と教育政策』日本図書センター1990 p.671 2) 森中章光編 中村栄助述 『九拾年』私家版 昭和13年 p.51 3) 同上 pp.51-52
4) 『京都府会と教育政策』pp.674-675
5) 西川正治郎編著『濱岡光哲翁七十七年史』濱岡翁表彰会 昭和4年 p.50 6) 同上
7) 同上
8) 『京都府会と教育政策』pp.666 9) 『改訂増補山本覚馬伝』p.391
10) 三浦豊二編『田中源太郎翁伝』内外出版印刷 昭和9年 p.9 11) 「同志社大学記事」『全集』1 p.194
12) 「田中源太郎宛 明治16年10月1日付」『全集』3 p.245 13) 同上 p.246
14) 「同志社大学創立記事」『全集』1 p.178
15) 「私立大学ヲ設立スルノ旨意―京都府民ニ告ク」『全集』1 pp.124-125
30)
1) 「管見」『改訂増補山本覚馬伝』 p.216
2) 尾佐竹猛著『近世日本の国際観念の発達』 ゆまに書房 平成18年 p.48 3) 狭間直樹「番組小学校の創設と『万国公法』―京都文化の国際性に見る山本覚
馬の役割についての考察」『京都産業大学日本文化研究紀要』12・13合併号2008 年 p.584
4) 同上