3 転がり疲労寿命試験と水素侵入
3.2 グリース潤滑
3.2.3 結果及び考察
3.2.3.5 XPS によるフッ素系グリース潤滑面の表面分析
大野らの研究によると,ある種のPFPEオイルは加水分解によってフッ化水素(水)を生じ,
鋼中の特異な組織変化を伴う早期転がり疲労を誘引することを示した[31].本節においては,
フッ素系グリースを例にとり,転走トラック面の表面分析から,グリース潤滑状態の把握 と転がり疲労寿命,およびグリース潤滑寿命に至るプロセスを検討する.XPS による表面 分析の結果の1例をFig. 3-27に示す.すべての測定において測定箇所はトラック面だけで なくトラック外も実施して有意性を確認している.Figure 3-27においてFe:710eV付近に おけるピークとO:530eV付近のピークは酸化鉄や水酸化鉄由来のものであり,C:285eV付 近のピークは炭化水素由来のピークとなる.さらに,フッ素系グリースではF:684eV 付近 にフッ化金属由来のピークがあらわれ,689eV付近にはPTFE由来のピークがあらわれる ことが知られている.これらのピークは転走トラック表面に形成される反応膜の存在を示 す手掛かりとなる.Figure 3-28にO1sスペクトルの試験雰囲気依存性の例を示す.
99
Fig. 3-27 XPS spectra for a)iron, b)fluorine, and c)oxygen on the track surface tested in air with Krytox
Fig. 3-28 Changes in O1s spectrum of tested surface with environmental gases
F 1s BE (eV)
696 692 688 684 680 676
0 5 10 15 20 25 30
Fe 2p3/2 BE (eV)
730 725 720 715 710 705 700
0 5 10 15 20 25 30
O 1s BE (eV)
540 536 532 528 524
0 5 10 15 20 25 30
525 530
535 540
Intensity, A.U.
Binding energy, eV
Air H2 Ar Metal oxide
O‐H bond PFPE oil
C*F (PTFE)
Fex*Oy Fe*O, Fe*OH
Fe 2p1/2 F 1s
O 1s
Fe*F
*OH
100 雰囲気によるスペクトルの違いの理由
フッ素系グリースを使用した際の分析結果では,大きく分けて以下の(Ⅰ)~(Ⅲ)の3 種類のタイプがあることがわかった.
I. 酸化鉄とフッ化鉄のピークが大きく,PTFEのピークが小さい.
II. PTFEの強度が高く,酸化鉄やフッ化鉄のピークがほとんど見られない.
III. 酸化鉄とPTFEのピークが大きく,フッ化鉄のピークが小さい.
雰囲気に着目すると,空気中では(Ⅰ),アルゴン中では(Ⅱ),水素中では(Ⅲ)に分け られる傾向にある.そこで(Ⅰ),(Ⅱ),(Ⅲ)をそれぞれ空気パターン,アルゴンパター ン,水素パターンとよぶことにする.また,これらのピークが検出される理由を以下のよ うに推定する.
空気中では,先ず増ちょう剤のPTFE は表面に吸着・堆積するが,PTFEは鋼に比べて やわらかいために,すぐに摩耗して新たな新生面の露出が起こる.新生面が露出した際に PFPEオイルの酸化劣化や,加水分解が起こり,同時に,空気中に存在する酸素と反応して 酸化鉄が形成される.形成された酸化鉄は摩耗を抑制することから,空気中における摩耗 はやや少なくなる.しかし,水分の存在のためある種のPFPE オイルの加水分解は止まら ない場合がある.フッ化水素は水に溶解し,フッ化水素水となり鉄と反応してフッ化鉄と 水素を生成することが[27]に示されており,フッ化鉄と酸化鉄が強く検出されることになる.
アルゴン中では,新生面の露出が起こったのち,強い表面活性により PTFE の吸着・堆 積が強く起こったものと考えられる.雰囲気中に酸素を含まないため酸化膜は形成されず,
摩耗は大きい.基本的には水分がないため PFPE オイルは分解されないが,新生面の露出 は持続的に発生するのでアルゴン中の微量な不純物としての水などの分解が起こり,場合 によっては鋼中(特にボール)に若干の水素侵入が確認されるものと考える.
水素中では,新生面の露出とPTFE の吸着・堆積がおこるが,雰囲気が水素であること から新生面の露出の際に水素の分解が起こり,鋼中へ侵入して鋼中の水素量が増加する.
同時に,フッ化水素や水酸基が生成することで酸化鉄,水酸化鉄表面膜も形成され,PTFE の堆積と併存していると考えられる.
ここで,363K時の試験片のXPSによる分析結果に以下のように①~⑪まで番号を記し,
3つのパターンに分類する.その際に寿命と損傷形態も共に記す.
番号 グリース 雰囲気 寿命(時間) 損傷形態 スペクトルパターン
① Krytox Air 67 Disk (Ⅰ)
② Krytox Argon 239 Ball (Ⅱ)
③ Krytox Hydrogen 66.5 Ball (Ⅲ)
④ Fomblin Air 59 Disk (Ⅱ)
⑤ Fomblin Argon 20 Wear (Ⅱ)
⑥ Fomblin Hydrogen 28 Ball (Ⅲ)
101
⑦ Fomblin Argon 44 Ball (Ⅰ)
⑧ Molykote Air 63 Wear (Ⅰ)
⑨ Molykote Argon 33 Wear (Ⅱ)
⑩ Molykote Hydrogen 64 Ball (Ⅲ)
⑪ Molykote Argon 115.4 Wear (Ⅰ)
これを3つのスペクトルパターンに分類し,さらに寿命順に並べると以下のようになる.
スペクトルパターン 寿命 短い → 長い 空気パターン ⑦→①→⑪ アルゴンパターン ⑤→⑨→④→②
水素パターン ⑥→⑩→③
寿命の短い順に損傷形態を示すと,空気パターンではBall → Disk → Wearとなり,ア ルゴンパターンではWear → Disk → Ball,水素雰囲気では Ball のみとなっていること がわかる.この結果より,アルゴンパターンでは表面にPTFE膜が形成された後に,PTFE 膜が磨滅する現象が繰り返し起こる.その際に,潤滑膜が枯渇状態となり,焼付きという 突発的な現象が起こることで試験片にフレーキングが生じないまま大きい振動で試験が停 止する(Wear)と考えられる.焼付きの発生が起こらず試験が継続され,寿命が延びていく と,Disk,Ballの順に損傷がおこる.このときの水素量に着目すると,次第にBallへの水 素侵入量が大きくなっており,仮にディスク試験片の水素による影響がない場合にでも,
ボール試験片の水素量の増加によりボールのフレーキング損傷に至ったと考えられる.
空気パターンでは,PFPEの加水分解に伴い,鋼中水素量の著しい増加のため早期にボー ル試験片にフレーキングが発生した例が観察されたが,水素侵入量が増加しないときには ディスク試験片にフレーキングが生じる.最も長寿命であるのがWearであったことから,
酸化膜存在下では突発的な焼付きではなく,滑らかな表面を形成しながらも過大な摩耗が,
この条件下で生じる“Wear”の原因と考えられる.
水素パターンでは,PTFE膜と酸化膜被覆率が比較的大きい事から,ある程度の穏当な摩 耗とともに新生面が露出することで雰囲気の水素ガスが解離し,鋼中へ水素が侵入するこ とで特にボール中水素量が増加しボール損傷に至ったと考えられる.
Wearを軽微な焼付きと考えると,アルゴンパターンで初期にWearが多いのは,焼付き の発生原因としての新生面露出と,酸化的被膜の不在,および,PTFEの被覆率の低さが摩 耗量の大きさと結びつけて考えられる.一方,空気パターンでWearが他の損傷形態より後 に起こるのは,空気中での PFPE の加水分解とそれによるフッ化水素の腐食作用により生 じる過大摩耗が,転がり疲労の起点を磨滅させたものと考えている.結果的に寿命も長く
102
表面粗さも小さいが,形状変化(トラックの幅や深さ)は甚大で,最終的にはアライメントが ルーズになり振動増大により停止に至る.つまり,空気パターンにおけるWearに限っては 焼付きというより腐食的な過大摩耗と考えたほうが合理的である.
また,空気中の Fomblinグリースにおいては,鋼の断面観察において特異な組織変化が 認められた.Figure 3-29に空気中におけるFomblinグリース試験後の転走面直下の断面組 織ナイタール腐食観察像を示す[32].ここでみられる組織変化は,1章Fig. 1-6で紹介した,
“水素の存在しない場合に生じる”白色組織と酷似している[33].
また,この組織は,転走表面まで貫通しており,表面における腐食現象との関与を示唆 する.フッ素系グリースの空気中での転がり損傷に関しては,このように,腐食摩耗と転 がり疲労亀裂の成長のバランスによって,過大摩耗か転がり疲労損傷(フレーキング)いずれ かの形態への分岐が観察された.複雑な現象のため,詳細検討を次の3.3節において行う.
Fig. 3-29 Cross section of ball tested in Air at 303K lubricated with Fomblin[32]
以上のことをまとめると,フッ素系グリースにおいて雰囲気が転がり疲れに及ぼす影響 を考えるうえで,雰囲気はまず,表面膜の形成過程に影響を及ぼす因子としてとらえるべ きである.表面膜にはその組成から 3 パターンに分類でき,それぞれの表面膜組成パター ンにおいて現れる,損傷を支配する因子の序列が異なる.結果として,表面膜の形成と損 傷形態には雰囲気それぞれに異なる進展プロセスが存在することになる.