九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
水素誘起転がり疲れの発生条件と水素の起源
田中, 宏昌
https://doi.org/10.15017/1932011
出版情報:Kyushu University, 2017, 博士(工学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
水素誘起転がり疲れの発生条件と水素の起源
平成 29 年度
田中宏昌
目次
1 緒言 ... 1
1.1 転がり軸受の疲労損傷 ... 2
1.1.1 Lundberg – Palmgrenの式 ... 2
1.1.2 表面起点型の転がり疲労損傷 ... 5
1.2 鋼材の水素脆化 ... 7
1.2.1 水素脆化と機械要素 ... 7
1.2.2 軸受鋼の組織変化について ... 8
1.2.3 オルタネータ軸受損傷の模擬試験について ... 10
1.2.4 発電用風車について ... 11
1.2.5 Evansの研究と水素誘起転がり疲れ ... 12
1.2.6 水素利用機器 ... 15
1.3本研究の目的 ... 15
1.3.1滑りに関する諸問題 ... 16
1.3.2プレチャージの問題 ... 18
1.3.3本研究の条件設定 ... 19
1.4本論文の構成 ... 22
参考文献 ... 22
2 実験方法 ... 27
2.1 環境制御型スラスト軸受転がり疲労試験機 ... 27
2.1.1 試験片 ... 28
2.1.2 接触圧力の計算 ... 28
2.1.3 膜厚比の算出 ... 29
2.1.4 寿命データの取扱い ... 30
2.1.5 表面起点き裂の伝ぱ ... 30
2.2 鋼中の水素量の測定 ... 35
2.2.1 昇温脱離分析装置 ... 35
2.2.2 水フラグメントのパターン係数の予備測定 ... 37
2.2.2.1 測定方法 ... 37
2.2.2.2 測定結果 ... 37
2.2.3 水素侵入量の測定 ... 38
2.2.3.1 測定方法 ... 38
2.2.3.2 分析準備 ... 39
2.2.3.3 分析 ... 39
2.3 本研究で用いる潤滑油基油と劣化試験 ... 41
2.3.1 本研究で使用した潤滑油 ... 41
2.3.2 分析 ... 42
2.3.4 実験結果 ... 43
2.3.4.1 酸化劣化試験 ... 43
2.3.4.2 触媒劣化試験 ... 47
2.3.4 考察 ... 52
2.4 油劣化試験 ... 54
2.4.1酸化劣化試験装置 ... 54
2.4.2触媒劣化試験装置 ... 56
2.4.3実験条件 ... 57
2.4.4分析 ... 57
2.4.4.1ガスクロマトグラフィー ... 58
2.4.4.2カールフィッシャー水分計 ... 58
2.4.5 実験手順 ... 60
2.4.5.1 酸化劣化試験 ... 60
2.4.5.2 触媒劣化試験 ... 61
参考文献 ... 62
3 転がり疲労寿命試験と水素侵入 ... 63
3.1 転がり疲労寿命と水素侵入量の関係 ... 63
3.1.1 転がり寿命評価 ... 63
3.1.2 疲労寿命と水素侵入量の関係 ... 67
3.1.3 転がり試験後の鋼の断面観察 ... 68
3.2 グリース潤滑 ... 77
3.2.1 グリースとは ... 77
3.2.1.1 基油と増ちょう剤 ... 78
3.2.1.2 グリース潤滑の概念 ... 82
3.2.1.3 増ちょう剤の影響 ... 83
3.2.1.4 潤滑寿命 ... 84
3.2.2 転がり疲労試験 ... 84
3.2.2.1 実験装置 ... 85
3.2.2.2 試験片 ... 86
3.2.2.3 試験グリース... 86
3.2.2.4 実験条件 ... 89
3.2.2.5 実験手順 ... 91
3.2.3 結果及び考察 ... 91
3.2.3.1 転がり疲れ寿命 ... 91
3.2.3.2 TDSによる測定結果 ... 94
3.2.3.3 雰囲気により水素侵入量が異なることへの考察 ... 97
3.2.3.4 ボールへの表面損傷と水素侵入 ... 98
3.2.3.5 XPSによるフッ素系グリース潤滑面の表面分析 ... 98
3.2.3.6寿命と損傷形態,表面粗さの関係 ... 102
3.2.4 まとめ ... 104
3.3フッ素系グリース潤滑下の転がり疲れ ... 105
3.3.1 実験条件 ... 106
3.3.2 実験結果および考察 ... 106
3.3.2.1 転がり疲れ寿命 ... 106
3.3.2.2 水素侵入量 ... 107
3.3.2.3 転がり接触表面の観察および分析 ... 109
3.3.2.4 断面観察 ... 114
3.3.3 組織変化に及ぼす諸因子の影響 ... 118
3.3.3.1 組織変化に及ぼす雰囲気温度の影響 ... 118
3.3.3.2 組織変化に及ぼす水分量の影響 ... 118
3.3.3.3 組織変化に及ぼす電場の影響 ... 119
3.3.3.4 フッ素系グリースによる組織変化とHELPに関する一考察 ... 128
3.3.4 まとめ ... 128
3.4 本章の総括 ... 129
参考文献 ... 130
4. 転がり接触試験による水素侵入と防止 ... 133
4.1 空気環境下転がり接触における水素侵入に及ぼす基油種の影響 ... 133
4.1.1 実験方法 ... 133
4.1.1.1 試験機および試験片 ... 133
4.1.1.2 実験条件 ... 136
4.1.1.3 潤滑油基油 ... 136
4.1.1.4 昇温脱離分析 ... 136
4.1.2. 実験結果 ... 137
4.1.2.1 水素侵入量 ... 137
4.1.2.2 転走トラックの断面形状 ... 140
4.1.2.3 潤滑油の水分濃度 ... 142
4.1.3機器分析 ... 143
4.1.3.1 表面分析 ... 143
4.1.3.2 構造解析 ... 146
4.1.4 弾性接触域における水素拡散挙動 ... 150
4.1.5 まとめ ... 152
4.2 潤滑油添加剤 ... 153
4.2.1 耐摩耗剤と極圧剤 ... 154
4.2.2 実験 ... 159
4.2.2.1 試験片 ... 159
4.2.2.2 潤滑油 ... 159
4.2.2.3 実験条件 ... 164
4.2.2.4 実験手順 ... 164
4.2.3 実験結果及び考察 ... 164
4.2.3.1 TDSによる水素侵入測定結果 ... 165
4.2.3.2 温度による水素侵入量の変化 ... 167
4.2.3.3 光干渉式表面粗さ計による断面曲線 ... 167
4.2.3.4 AESによる元素分析 ... 169
4.2.4 潤滑油添加剤の効果のまとめ ... 176
4.3 本章の総括 ... 176
参考文献 ... 176
5 単純接触試験による水素侵入における滑りの影響 ... 179
5.1 環境制御型単純接触滑り試験機 ... 179
5.1.1 試験片 ... 179
5.1.2 実験装置 ... 180
5.2 単純接触試験 ... 180
5.2.1 点接触の弾性変形と塑性変形 ... 180
5.2.1.1 実験方法 ... 181
5.2.1.2 実験結果 ... 181
5.2.2 弾性変形内での単純接触試験 ... 183
5.2.2.1 実験方法 ... 183
5.2.2.2 実験条件 ... 183
5.2.2.3 TDSによる水素侵入量測定および分析 ... 184
5.2.2.4 SEMによる表面観察 ... 188
5.2.2.5 AESによる表面分析 ... 191
5.2.3 塑性変形領域に及ぶ単純接触試験 ... 195
5.2.3.1 試験片 ... 195
5.2.3.2 実験条件 ... 195
5.2.3.3 TDSによる水素侵入量測定および分析 ... 195
5.2.4 単純接触試験のまとめ ... 198
5.3 SUJ2すべり摩擦試験 ... 199
5.3.1 実験方法 ... 199
5.3.2 水素のTDSスペクトル ... 200
5.3.2.1 しゅう動を行っていない試験片 ... 200
5.3.2.2 すべり摩擦試験時の水素スペクトル ... 202
5.3.2.3 雰囲気による影響 ... 203
5.3.2.4 環境温度の影響 ... 205
5.3.2.5 潤滑油による影響 ... 206
5.3.2.6 時間依存性について ... 209
5.3.3 摩擦表面の粗さ状態観察 ... 209
5.3.4 摩擦面のXPS及びラマン分光を用いた表面観察 ... 219
5.3.4.1 XPSによるディスク試験片摩擦面の酸化評価 ... 219
5.3.4.2 ラマン分光によるボール試験片接触点の物質同定 ... 221
5.3.4.3 水のTDSスペクトル ... 222
5.3.5 SUJ2すべり摩擦試験のまとめ ... 223
5.4 総括 ... 225
参考文献 ... 225
6 考察 ... 227
6.1 Cathodic WEC fatigueとEnergetic WEC fatigue ... 228
6.1.1 Evansらの研究とLoosらの研究 ... 228
6.1.2 本研究における水素パスモデルの提案と適用範囲 ... 229
6.1.3 水素パス ... 232
6.1.3.1 剥離防止剤 ... 232
6.1.3.2 黒色酸化物表面処理 ... 232
6.1.3.3 鋼組成の改善 ... 233
6.1.3.4 塑性変形の問題 ... 233
6.2 き裂の起点の問題 ... 234
6.2.1 き裂進展過程と組織変化 ... 234
6.2.2 き裂生成と進展について ... 236
6.2.3 炭素の拡散とWSF ... 237
6.3 本章のまとめ ... 239
参考文献 ... 240
7 結論 ... 243
7.1 転がり疲れと水素侵入の関係 ... 243
7.2 転がり接触における水素侵入 ... 243
7.3 単純な接触における水素侵入挙動 ... 244
7.4 今後の課題 ... 244
謝辞 ... 247
1
1 緒言
転がり軸受(Rolling-element bearing)は,高速,高負荷回転体の支持になくてはならない 機械要素であり,比較的コンパクトで長寿命,かつ,グリース潤滑を用いることができる ことなどからメンテナンス性に優れる.用途は多岐にわたり,電子機器の機構部品からロ ケットエンジンや発電用風車まであらゆるスケールにおいて用いられ,また,その使用環 境は,真空機器や腐食性の高いガス中での使用,食品加工機器のように水がすぐそばにあ る環境や,周囲環境の汚染を許されない場合もある.作動条件の観点からは,産業用ロボ ットのように,微小往復動を高速で繰り返すような厳しい潤滑状態や,軸受ではないもの の,等速ジョイントのように大きな滑りを伴う転がり接触下での運転を余儀なくされる機 械要素もある.
これらの転がり軸受に向けられる要求に対し,場面に応じてセラミックス要素を用いた り,耐荷重能が低くてよい場合には樹脂を用いたりするが,高負荷,耐衝撃性,精密な成 形性や大型化にまで幅広く適応できる優位性により,現在においても転がり軸受のほとん どは高強度鋼製である.一般的には,高強度鋼とは,高炭素クロム鋼と呼ばれる,焼入れ 性の良い,いわゆる軸受鋼と,耐腐食性に優れたマルテンサイト系ステンレス鋼を指す.
前者は各経済圏でそれぞれ違った呼称で呼ばれるが(北米:AISI 52100,ヨーロッパ:
DIN100Cr6,日本:JIS SUJ2),焼入れ焼き戻しマルテンサイトのマトリックスに微細な 球状セメンタイト組織が高密度かつ均質に分散しているのが特徴であり,後者の鋼におい ても構造上大きな相違はない.その他,M50等が使われる場合もある.
一方で軸受鋼の弱点も古くから指摘されている.その代表的,かつ深刻な問題が,水素 脆化である.水素脆化とは,鋼中に侵入した水素(原子,イオン)がもとで生じる鋼の劣化で,
一般には,水素濃度が高ければ高いほど劣化が顕著となる.ただ,このいわゆる“脆化過 程”はいまだに未解明な部分も多く,組織構造に大きく依存する.そのような観点から,
耐“水素脆化”の処方として,鋼を改善する研究も多くなされている.一方で,転がり軸 受の使用は潤滑剤を伴うのが常であるので,潤滑状態の観点から水素脆化を防止する研究 も多くなされている.
本研究は,転がり軸受の寿命と水素の関係を明らかにしようとするものである.その目 的のため,様々な条件の転がり疲労寿命試験を実施し,水素の存在が軸受寿命にどう関係 するのか示した.また,水素の表面からの侵入特性において,種々の実験的アプローチに より水素の挙動を追跡した.
2
1.1 転がり軸受の疲労損傷
1.1.1 Lundberg – Palmgren の式[1]
転がり軸受の寿命は,材料,加工,使用条件などのほか,潤滑などの因子も影響する ことがわかっている.そのために,軸受寿命を推定する計算式が長年にわたり提案され,
進化変遷を続けている.軸受寿命計算式は20世紀初頭に初めて提案されて以来,数多 くの提案がなされているが,ほとんどは初期に提案されたLundberg – Palmgrenによ る基礎式を修正・発展させてきたものである.
Lundberg – Palmgrenの理論では,転がり軸受寿命が軸受材料の繰返し応力に耐え る確率に応じて決まり,その支配応力は転がり接触面の表面付近で発生する転がりに伴 う表面に平行なせん断応力の最大振幅値であるとし,その付近の軸受材料の最弱部分か ら寿命に至る疲れ亀裂が発生するものとした.さらに,その発生深さが浅いほど,また 最大応力を受ける深さまでの材料体積が大きいほど寿命が短縮するものとして以下の 基礎式を定めた.
Fig.1-1 Stressed volume in the Lundberg – Palmgren theory [2]から転載
・接触する範囲が大きくなると介在物が存在する確率も高くなる a:width z0:depth rr:length
3
・接触する範囲が大きくなるには荷重が大きくなるなどの因子が考えられる
・現在使用されている寿命計算式の理論的根拠となる機構.材料内部の金属欠陥を起点 とする考え方.つまり,材料の洗浄度が関連する.
V z N
N z func S
e h
0 0
, 0
0, )
.(
/ 1 ln
―――― (1-1)式(1-1)に対して次の各量の関係
l az V b z Tp uL
N ,
0
max,
0 ,
0を用いて,式(1-2)を得る.
n w h e eh c
w h
c w h c h w
c D D u L
D Q a
D D T E
S
2 1 22 2
1 2
1
2 1 0
/ 3 1
ln
――― (1-2)さらに,L=1(寿命走回転数1×106回転)でS=0.9(90%信頼度)における軸受荷重P を,その軸受の基本負荷容量Cとして,軸受寿命計算式を式(1-3)のように与える.
ころ軸受 玉軸受, 10/3:
:
3
p p
P L C
p
―――― (1-3) 基本負荷容量Cは実験と解析に基づいて式(1-4)のように与えた.
) 4 . 25 (
647 . 3 ) (
) 4 . 25 (
) (
: )
cos (
: ) ( )
cos (
4 . 1 8 . 1
27 4 29 3 9 7 3 2 7 . 0
mm D
D D
F
mm D
D D F
D Z L
f C
D F Z i
f C
w w w
w w w
w we
c
w c
ラジアルころ軸受 ラジアル玉軸受
―――― (1-4)
スラスト軸受についても,同様にしてCの式を与えている.
軸受にラジアル方向とアキシアル方向から荷重が同時に加わる一般的な場合には,式
(1-3)におけるPは動等価荷重Pとして,次式によって与える.
a
r
YF
XVF
P
―――― (1-5) なお,以上の各量の単位は[mm,kgf]としている.S : 軸受材料が軸受寿命に耐える確率
τ0 : 転がり接触表面付近(表面下)に転がりに伴い発生する表面に平行なせん断応力 の最大値の半振幅
4 z0 : τ0が発生する深さ
N : 軸受寿命までの作用応力繰り返し数 V : 作用応力の範囲を代表する体積 e : ワイブル勾配
c : 軸受材料に固有の係数 h : 軸受材料に固有の係数
u : 軸受一回当たりの軌道面の応力繰り返し数 L : 軸受寿命(90%)
T : Hertz弾性接触理論でのパラメータ pmax : Hertz最大接触応力
ζ : 弾性接触最大せん断応力位置を示す係数 b : Hertz接触楕円の短半径
a : Hertz接触楕円の長半径 l : 軸受軌道の円周長さ E0 : 弾性率の関数 Dw : 転動体直径
μ: Hertz弾性点接触理論式における定数 ν : Hertz弾性点接触理論式における定数 Σρ: 接触部曲率和
Q : 接触荷重 Dn : 軸受軌道直径 P : 軸受荷重 C : 基本負荷容量 i : 転動体列数 α: 接触角
Z : 軸受1列あたりの転動体数 F : 潤滑係数
X : ラジアル荷重係数 Y : アキシアル荷重係数 Fr : 許容荷重;ラジアル荷重
Fa : アキシアル荷重(スラスト荷重)
上式が意味するものは,例えば,風車用軸受に用いられる転がり要素のようなサイズ の大きな部材は,Lundberg – Palmgrenの式が指摘する応力領域に一定規模以上の介 在物が存在する可能性が高くなり,したがって介在物を起点とするき裂から生じる損傷,
いわゆる,内部起点型転がり疲労損傷を生じる可能性は高まるだろう.内部起点型転が
5
り疲れは,軸受損傷の典型的な発生機構であり,Lundberg‐Palmgren の式が提示す るのも内部起点型損傷の発生機構に則っている.一方バルブ等に用いられる軸受のよう に比較的小型で,接触曲率の小さい軸受は,むしろ表面粗さなどに起因する突起間干渉 が疲労損傷の起点になりうる場面も想定される.また,のちに示すように突起間干渉に よる材料の新生面露出と,活性化が水素侵入過程において大きな役割を占める場合,表 面こそが疲労寿命特性を決める主因子となりうる.この場合,表面起点型の損傷の進展 過程も視野に入れるべきである.
1.1.2 表面起点型の転がり疲労損傷[3]
表面起点型転がり疲れは,潤滑油中に混入した固形異物が原因で形成した圧こん周辺の 盛り上がり高さが油膜厚さよりも大きい場合(異物混入条件),あるいは軌道面と転動面の 表面粗さの突起高さが油膜厚さよりも大きい場合(低条件)に生じる転動剥離である.一 般に,前節のLundberg-Palmgrenの式を基にした軸受寿命計算式(1-3)で予測される寿命よ り低寿命化し,他のいくつかの補正係数も合わせて,補正定格寿命Lnaは次式のように表わ される.
使用条件係数 軸受特性係数
信頼度係数 : :
: 2 3
1
3 2 1
a a
a
P a C a a L
p
na
―――― (1-6)
ここで,信頼度係数a1 は,90%以外の信頼度(10%以外の累積破損確率)に対する寿命 を計算する際の係数であり,軸受特性係数a2 は特殊な材料特性を有する軸受に対する寿命 の補正係数で通常 1 を用いるが,高温焼戻(寸法安定化処理)によって硬度が標準品より も低い軸受やその他特殊な熱処理が施された軸受では1 以外を用いる場合がある[4].一方,
低条件に関係する,使用条件係数a3 も通常1 を用いるが,潤滑条件(潤滑油に異物が混 入する条件,潤滑油の動粘度が低い条件,回転速度が低い条件等)や使用温度等によって1 以外を用いることがある[4].
低条件の表面起点型はく離においては,1960 年以降,弾性流体潤滑理論(EHL 理論) の発展があり[5,6],この理論で計算した油膜厚さと軸受寿命との関係が Tallian[7] と Skurka[8]によって研究され,その成果が寿命計算の補正に適用されるようになった[9,10].
値とは,Fig. 1-2に示すように,EHL 理論により計算される最小油膜厚さ hminと接触 2 面の合成粗さの比であり,突起間干渉の厳しさの指標である.SkurkaとTallian の両研究 で得られた値と寿命との関係[10](Fig. 1-3,ASME の推奨曲線)は,軸受の表面粗さと 油膜厚さから使用条件係数 a3 を決定できる線図である.この係数も軸受特性係数 a2 と同 様に軸受メーカ各社の知見に基づいてことなる値を用いることができる.
6
1990年代以降の鋼の清浄度向上と,それによる内部起点型転動疲労寿命向上の頭打ちに 伴って,表面起点型転がり疲れによる寿命低下に注目が集まることが多くなった.藤井ら は,極表面近傍から生じる特異な双方向き裂の発生,進展過程を多角的に分析・検討して いる[11].また,藤田らは,低条件における転動疲労の発生メカニズムを,X 線残留応力 測定法を用いた鋼の劣化解析と,精緻な数理的処理を駆使して,表面粗さの経時変化や塑 性変形による残留歪みの推移により説明した[3].
このように,低条件における表面起点転がり疲れは,洗練された軸受疲労損傷メカニズ ムの一過程であるが,本研究で取り上げる,水素脆化を伴う転動疲労剥離研究においては,
これまでのところ議論の中心とはなっていない.これは,水素誘起転がり疲れにおける,
組織変化を伴う材料強度低下という側面が強調され,本来もっと考慮すべき鋼表面での水 素侵入過程に対する考察が相対的に軽視された結果であると推察される.したがって,内 部起点型転がり損傷と,表面起点型転がり損傷という二つのき裂発生機構を可能な限り多 角的に評価し,総合的判断により推論を構築していくことが必要である.
Fig. 1-2 油膜パラメータ
Fi
1.2 鋼
1.2.1
水素 表面化 さま んに議 ける軸 て問題 意識 ミッシ 頻発す
g. 1-3 Relat
鋼材の水素
水素脆化
素脆化の問題 化したのをか ざまな様態が 議論されるよ 軸受使用の問 題となる水素 される場面で ションや,発 するようにな
tionship bet
素脆化
化と機械要素
題は,古くは かわきりに,
が早くから認 ようになり[
問題と膜厚比 素脆化は,古 であった[14 発電補機(オル
なり,トライ
tween Film
はハーバーボ メッキや,
認識されてい 12],宇宙環 比Λでの接触
古くはCirun
4-16].一方1 ルタネータ) イボロジー分
7 parameter
転載
ボッシュ法に 腐食環境に いた.転がり 環境(微量の水 触状態の評価 naらが取り上
1980年代以
の軸受に水素 分野の研究対
and bear
によるアンモ における構造 り軸受におい
水素やヘリウ 価提言[13]が
上げたように 以降,乗用車な 素脆性の関与 対象として広
ring life 出典
モニア生成プ 造材の強度異 いては,1950
ウムしか存在 なされた.転 に腐食環境や など一般輸送 与が疑われる 広く認識され
典:文献[10
プラントにお 異常の問題と 0年代後半か 在しない環境
転がり軸受に や水の存在が 送機器のトラ る軸受寿命低 れるようにな
0]より
おいて として から盛 境)にお におい が強く ランス 低下が なった
8
[17-21].代表的な組織変化を伴う損傷例を Fig. 1-4 に示す[20].ここで問題となった水素
脆化は,潤滑剤の状態管理の上で生じる,基油や添加剤の分解が水素供給源となった水素 脆化とみることができる[20].故に解決法として提案された処方も潤滑剤の改良が多い[19].
この時期の研究対象となっているものには,乗用車用発電補機にかかわる発生例が多く,
やはり電蝕的なメカニズムとの関連が疑われるケースがかなりの割合を占める.一方トラ イボロジー要素以外の分野において水素脆性は,鋼中の水素に誘起された転位の局在化や 水素の存在状態と位置の把握[22]など,アカデミックな探究方法で現象解明の試みがなされ てきた.その国内における代表的な見解が,高強度鋼のねじり試験において確認される介 在物まわりの応力集中を起点とする白色組織剥離による低寿命化である[23].その他,等速 ジョイントにおける摩耗増大や疲労の助長など[24],転がり軸受に限らずアプリケーション の変遷とともに設計予測を裏切る形で表面化するのが水素脆性の問題の特徴といえそうで ある.耐“水素脆化”の処方としては,鋼を改善する研究が多くなされており,軸受メー カ各社がしのぎを削っている[25,26]一方で,転がり軸受の使用は潤滑剤を伴うのが常であ るので,潤滑状態の観点から水素脆化を防止する研究も多くなされている[18,19,27].
Fig. 1-4 Cross section of failed bearing for automotive alternator 出典:文献[20]より 転載
1.2.2 軸受鋼の組織変化について
上述のように,白色組織なる組織変化が伴う転動疲労が,転がり軸受の寿命を低下させ ることが多くの研究により示されてきたが,鋼材の水素誘起転がり疲れと組織変化の関係 が当初から意識されていたわけではなかった.例えば,1960 年台初頭から 70 年代にかけ ての水素脆化による転動疲労寿命低下を示す研究において,そのほとんどは白色組織変化 自体を確認しているわけではない[14-16].転動疲労による鋼の組織変化は 1946 年の
Jones[28]の観察までさかのぼり,そこでは接触下に黒く腐食されやすい組織(Dark
Etching Region, DERまたは,Dark Etching Constituent, DEC)が分布していることが示 された.その後,1960 年台から 90 年台にかけて多くの転動疲労による組織変化,硬度変
9
化,残留応力の変化に関する研究が数多くなされている[29,30]. Voskamp は転動疲労に よる組織変化と残留応力の変化を詳細かつ系統的に調査した[30].そこでは,転動疲労損傷 を3つの過程で論じている.第1にシェークダウン過程,第2の安定期を経て第3に組織 変化を多く生じる不安定期にいたる.多くの疲労損傷はこの第 3 期において現出する.そ こで述べられている代表的な組織変化をFig.1-5に示す.このような鋼の強度と疲労の関係 を注目する気運の中で,白色組織(White Etching Constituent, WEC)と乗用車用オルタネ ータ軸受の異常な寿命低下の関係が議論されるようになり,組織変化における水素の影響 への考察と分類が進んだ.Figure 1-6に平岡らが示した3つのタイプの組織変化を示す[31].
ここで注目したいのは,Voskampが示した組織変化は,Fig. 1-6(a)にあたり,平岡らは“水 素のないときに生じる組織変化”と分類している点である.本研究においても,Fig. 1-6(a) と極めて類似する組織変化を観察しており,その詳細は本文で後述する.
Fig. 1-5 転動中の組織変化の過程 出典:文献[30]より転載
Fig. 1-6 Optical micrographs of white type microstructural changes in rolling contact fatigue 出典:文献[31]より転載
10
1.2.3 オルタネータ軸受損傷の模擬試験について
前節で示した,乗用車用オルタネータ軸受の,白色組織変化を伴う寿命低下に関する問 題では,多くの再現試験が試みられた.ここでは代表的な試験法を紹介する.Figure 1-7(a)
は,Tamadaらが使用した急加減速再現試験機である[17].グリースに起因する白層発生の
再現のため,グリースの分解性に注目して,急加減速によって軸受に付与される滑りに注 目した.また,武村らによって開発された再現試験機をFig. 1-7(b)に示す[32].ここでは,
水素侵入促進の駆動源は,駆動ベルトとプーリ間の静電気と考えられており,模擬試験時 にはベルト‐プーリ間の静電気測定値が数百から数千ボルトであったことと,白色組織が 観察された軸受から水素が検出されることが確認されている.最近では,Loos らの試験機 を紹介する(Fig. 1-7(c), [33]).彼らは,ベルトやプールの組合せによって白層や寿命低下の 発生を再現している.ここで留意すべきなのは,これら再現試験において,上にあげた研 究では,それぞれの試験機によって,白色組織変化を伴う軸受寿命の評価を行っているが,
その多くはプーリとベルトを持つ構造で,滑りや,潤滑剤の分解,ベルト‐プーリ間の帯 電など,いずれも実際のオルタネータのおかれる環境を模擬している.
(a) Tamada et al. (1996) 出典:文献[17]より転載
11
(b) 武村浩道ほか,(1997) 出典:文献[32]より転載
(c) Joerg Loos et al.(2016) 出典:文献[33]より転載 Fig. 1-6 (a-c)オルタネータ軸受模擬試験機の例
1.2.4 発電用風車について
2000年以降,エネルギー事情の切迫と,環境への低負荷を求める機運の高まりとともに,
再生可能エネルギーに注目が集まると,発電用風車の大型化とそのメンテナンス性の問題 が大規模に研究されるようになった.Evans らはレビューの中で,風車ギアボックス軸受 の早期表面剥離例を示しながら,鋼中の非鉄介在物(主に MnS)を応力集中源とするバタフ ライの生成がその後の白色き裂(White Etching Crack)の生成・成長を促し,これがネッ トワークを形成して顕在化するのが白色組織フレーキング(WSF, White Structure
Flaking)と比定している[34].また,WSFに対する水素の影響を指摘するとともに,トラ
イボ化学反応,水の存在,接触や滑り,衝撃荷重,腐食や帯電の影響を網羅的に論じてい る[35].一方DOE(米国エネルギー省)のWind programでは,大規模な風車の故障モード
12
解析が実施されており,ギヤボックスの故障の70%は軸受に起因するものであり,潤滑剤 の状態管理の必要性が議論されている[36].風車はオフショアで運用される可能性が高く,
また,高出力化のため大型化しており,メンテナンスコストの問題は甚大で,Evans らに よるとギアボックスの交換費用は300Kポンド(2009)としている[34].上述の理由により現 時点において転がり軸受の水素脆化に関する研究の多くの努力は発電用風車の保全の問題 に注がれている.
Fig. 1-7 Optical images of axial sections through wind turbine inner ring bearing raceways showing WEC. 100CrMo7-3 bainite steel, double row spherical roller bearing, oil lubricated. Copyright M.-H. Evans 出典:文献[34]より転載
1.2.5 Evans の研究[35]と水素誘起転がり疲れ
Evansは,前節で述べたように発電用風車のギアボックの軸受におけるWSFに対する水
素の影響を指摘するとともに,トライボ化学反応,水の存在,接触や滑り,衝撃荷重,腐 食や帯電の影響を網羅的に論じている[35].これを和訳し一部抜粋したものがFig. 1-8にな る.Evansは,転がり疲れ発生プロセスを,Operation, Drivers, Effectsの連鎖からなり,
Consequenceとして,Hydrogen-Enhanced WEC(後にHydrogen-Induced WECと修正)
と Stress-Induced WEC に分類した.この両者は最終的には,White Structure Flaking
(WSF)に帰結する.
Figure 1-8は発電用風車のギヤボックスにおいて生じるWSFを論じているが,そこで参
照されている多くの文献は決して風車の問題に限定されているわけではない.その多くは,
1.2.1節で述べた多様な機械要素に生じた類似の損傷と,そこに掲げられた対応策であるこ
とから,本図の要素の多くは,むしろ,さまざまな機械要素に起きる水素誘起転がり疲れ 現象を表していると考えられる.
また,Evansは同論文中の同じ図の中で,Preventative mechanismsも開陳している.
それによると,1.表面工学(例えば,コーティングや表面処理)を援用した方法や,2.合 金や,前処理といった冶金学的な方法,3.トライボ化学的な方法があると述べている.
13
本研究においては,鋼材には積極的な処理を施さない.よって本研究は上述の解決法の中 の3,つまりトライボ化学的な方法に注目する研究ということができる.
なお,Fig. 1-8は,WSFに帰結するプロセスを抽出したものであり,風車のギヤボック ス軸受に生じる損傷にWSF以外の形態があることを否定するものではない.
14
停止,休止や低速アイドリング メンテナンスや中断 落雷,迷走電流 変動トルク 加減速 トルク反転 突風による荷重 軸変位 ミスアライメント
OPERATIONSDRIVERS 腐食 微量残留水分 電流 トライボ化学反応 滑り 振動 曲げ応力 衝撃荷重
EFFECTSCONSEQUENCE 新生面露出 クラック内での水素発生 水素拡散の助長 潤滑不良による水素供給源 腐食 添加剤の消耗 新生面露出と水からの水素 熱分解 添加剤の攻撃性による表面 ダメージ,水素被毒,トライ ボ被膜形成 新生面露出,トラクション, せん断応力 機械要素の動的外乱による潤滑不良 新生面露出 せん断・引張応力の極大化 衝撃せん断応力
Sress‐induced WEC
Hydrogen‐enhanced WEC White structure f lacking(WSF)
Fi g. 1 ‐ 8 Whi te st ru ct u re flak ing fo rm at io n dr iv er summa ry in wind tu rb in e ge ar bo xe s 出典: M ‐ H. Ev an s[ 35]
15 1.2.6 水素利用機器
2000年台に入ると,水素燃料電池を用いた発電機器や乗用車の大衆化の現実味が高まり,
水素利用機器の安全性評価が急務となった.水素利用機器には構造部材のほか,バルブ,
シール,ベアリングなど,多くのトライボロジー要素も含まれている.バルブやシールの ような純滑り接触部においては,樹脂など,摺動特性の良いやわらかい材料が用いられる ことが多く,耐摩耗性向上のため高強度鋼を用いても接触面圧は低いこともあり,水素脆 性の問題は表面上存在しない.
本研究で取り上げる転がり軸受の水素脆化は,2000年台初頭には,実際に転がり軸受を 水素中で長時間動作させなくてはならない構造も存在したため,実際的な研究対象であっ た.その後,水素脆化の懸念から水素中での転がり軸受の使用は多くの場合回避されるこ ととなり,現在も基本的な対処法は変化していないようである.
一方で新しい概念のもとで水素社会の将来像を描く試みもなされている.その一例とし て,ここでは再生可能エネルギーの有効利用を目的としたハイブリッドエネルギーインフ ラである,先進超電導電力変換装置を挙げる.これは,大電力の入出力応答性と繰り返し 耐久性に優れる超電導電力貯蔵装置(SMES)と,大容量貯蔵に優れた水素貯蔵システム(電気 分解装置,水素貯蔵タンク,燃料電池)とで構成するハイブリッド貯蔵システムで,激しく 変動する再生可能エネルギーを一定の制御された電力へ変換するのに適している.さらに,
SMES の線材に経済性の高い MgB2を用いると,液体水素で冷却できることになり,近い 将来の燃料電池車のガスステーションとして経済性と環境性が期待できる液体水素ステー ションの冷媒を利用できる.これらの装置を構成要素とした先進超電導電力変換装置 (ASPCS, Advanced Superconducting Power Conditioning system)が提案されている[37].
液体水素冷却超伝導大容量電力機器には複数の液体水素槽と液体水素供給系,水素ガス加 圧系,ベントラインなどをもつ.これらのシステムには転がり軸受を含む多くの機械要素 が使用されるものと思われる.
1.3 本研究の目的
本研究は,これまであまり系統的に扱われていない,転がり軸受の“作動条件”や“潤 滑状態”が,いかにして“水素誘起転動表面剥離”を生じさせるかを,可能な限り定量的 に,一般化して明らかにすることを目的とする.なぜなら,これまで議論されてきた白色 組織変化を伴う転動剥離は,特定の作動条件で生じ,また,実験室ではそれを再現するた めに,Fig. 1-6に例示したように特定の条件で再現試験を実施することが多いからである.
このような再現試験の場合,対処的解決策に至るのは早いが,水素脆性全般にわたる包括 的な知見の蓄積にはなりにくい.本研究においては,多くの因子の一般化をできるだけ進 め,転がり軸受損傷における水素の影響にスポットが当たるよう実験を計画した.従って,
用い への水 水素侵 られ りう では水 した.
章に
1.3.1
軸受 め,そ 潤滑
酸
熱
る材料はJI 水素侵入現象 侵入のための る[14-16].
る(Fig. 1- 水素ガス中で
.なお,水素 おいて詳細
滑りに関す
受鋼の水素誘 それらを分類 滑油
酸素,酸化
熱,滑り 活性 金属
S SUJ2鋼一 象を第一義的 の水素供給源 また,潤滑剤 9).これら で試験を行 素侵入と転が 細に考察する
Fi
Fig. 1-1
する諸問題
誘起表面剥離 類整理する必 水
性表面,
属触媒 分解
一種に固定し 的な“水素誘 源としては,
剤の多くは炭 の分解生成に うことで,水 がり疲れの関 る水素のフロ
ig. 1-9 新生
10 転がり接
離を評価する 必要がある.
水素ガス,
原子
熱,滑り
16 し,さまざま 誘起転動表面
通常,“空気 炭化水素であ による水素供 水素ガス自体 関係も議論の ロー概念図を
生面露出と
接触下の軸受鋼
るうえで,さ なぜなら,
吸着・解離
活性表面,
金属触媒 酸化,水素 の再結合
な接触条件 面剥離”過程の
気”環境下に あり,これも 供給を意識し 体を水素供給 の中で適宜示 を示す.
水素脆性の
鋼表面の水素
さまざまな条 潤滑下の転 水素侵
入
熱 素
,潤滑条件に の分水嶺的現 においては,
も分解すれば しながらも,
給源と見立て 示していく.
連鎖
素フロー
条件が複雑に 転動剥離現象 侵 拡散
応力分 熱 塑性変
構造安
において生じ 現象とみなし 水の存在が ば水素供給源 本研究の大 てて実験系を Fig. 1-10
に関連してい 象に影響する 散 水素
脆化
分布,
変形 安定化
じる鋼 した.
が挙げ 源にな 大部分 を構築 0 に 5
いるた る軸受
素 化
17
運転の作動条件は,互いに独立した因子であることはまずなく,きわめて強い非線形性を 持つ不静定問題と認識される.その中で,まずは滑りに関して,いくつかの重要な知見を 顧みる必要がある.
藤田らは,転がり滑り転走面直下に生じる白色組織の発生数を計測することにより,よ り多くの組織変化が最大せん断応力場ではなく,PV値(ローカルな垂直圧力と作動滑りによ るローカルな相対すべりの積)の高い接触部直下から見いだされることを発見した.この事 実に対して藤田らは,油等の分解による水素発生と,その鋼中の拡散により,PV値が閾値 を超えた部位の直下に白色組織が生成し,それが水素誘起表面剥離を生じせしめると考え た[25].
また,原田らは,急加減速下や滑りを付与した転がり軸受において,鋼に生じる組織変
化をTEMやSIM(Scanning Ion Microscope)を用いて詳細に検討しており,塑性変形によ
る異相界面での転位の集積と再配列およびそれに起因するボイド形成,もしくは塑性変形 領域のアモルファス化を経てWEA (超微細粒)が形成されると述べている[38,39].
大貫らは,等速ジョイント表面の疲労損傷シミュレータを作製し,さまざまな接触条件 を実現するとともに,それに対応したさまざまな損傷モードが現れうることを示した.そ の中で,摩耗が顕著なモードや,俗にいう表面起点フレーキングの典型的な特徴を持つ損 傷のほか,きわめて滑りの大きな条件においては乗用車用発電補機においてよく観察され る白色組織を伴う転動疲労も再現されることを明らかにした[24].この損傷は実際の等速ジ ョイントの疲労挙動とはやや異なるようだが,滑りがいかに転動疲労に影響を及ぼすかを 示唆するものと考えられる.
以上の議論において,大きな滑りに対しては,大きな発熱が見込まれ,これに起因する 潤滑状態の悪化や潤滑膜せん断速度の増加がさらなる発熱を誘起する悪循環に陥る可能性 がある.さらに,新生面露出により活性化した鋼表面が転がり転走面上における潤滑剤の 触媒的分解反応に寄与する可能性も考えられる.潤滑剤が劣化すると,水素ガス,もしく は原子,イオン等が放出され,その一部が固体材料内部へ拡散することが予想される.こ のように,相対すべりの増加は水素誘起表面剥離と強く連動していることが指摘される.
たとえば,遠藤らは,水素ガス中の 4 球転がり試験による先駆的な研究の中で,転がり疲 労寿命が潤滑剤によって変化すること,転がり接触による表面の酸化的被膜形成が白色組 織フレーキング発生を抑制することを示しているが,転走面温度の変化にも注目している [27].ここでは転走面温度が高ければ高いほど疲労寿命が低下する傾向が示されており,4 球転がり試験上不可避な滑りの存在と,その滑り場における潤滑油添加剤の反応熱を含む 発熱の問題はやはり無視されるべきでない.
繰り返しになるが,水素ガス分子は上述の金属活性面に吸着し,触媒作用により解離し た後,鋼内部へ浸透・拡散すると考えられている.つまり,新生面露出は水素誘起表面損 傷に至る重要な過程であると想定される.なお前出のCirunaらは,油や水の分解で生成し た水素原子が水素分子へ再結合するのを妨げる添加剤が,水素誘起表面剥離を助長すると
18 述べている[14].
1.3.2プレチャージの問題
1.3.1節で示したように相対滑りが水素侵入に直接関与する場合,鋼への水素侵入が促さ
れる可能性が指摘される.仮に水素侵入・拡散が促された場合,材料中の水素濃度の増加 が水素誘起転がり疲労の加速因子となる可能性が高い[40].
このような状況においては,転がり要素転走面上における水素生成,侵入プロセスと切 り離して,水素濃度自体が材料強度の低下に影響するかどうかを主眼とした,プレチャー ジによる転がり試験が広く行われている[34,35, 41-43].
プレチャージは,材料評価試験の前の鋼材にあらかじめ水素を溶解させることで,材料 強度に及ぼす鋼中水素の影響を見出す試験法である.プレチャージには,電気化学的チャ ージ(ケミカルチャージや,陰極チャージ)のほか,高圧,昇温下の水素ガス中に材料を一定 時間保持して水素を溶解させる高圧水素曝露チャージがある.これらの処置が転がり疲労 寿命に及ぼす影響をFig. 1-11に示す[44].
一般的にプレチャージ試験は,そのチャージ条件における飽和溶解まで材料中水素濃度 を上昇させる,水素の影響を顕著化させるための加速試験ととらえることができる.一方 でプレチャージと実際の機械要素の使用状況における水素侵入過程の違いが水素誘起疲労 特性に影響するのではないかという懸念がある.また,プレチャージにより鋼表面構造に 変化をきたしていないか十分注意を払う必要がある.
本研究においては,鋼表面からの水素侵入過程を探ることを目的とするため,また,鋼 自体の疲労特性の評価は基本的には別の研究に預けるため,試験前に鋼サンプルには水素 チャージや熱処理などは施さない.逆に,鋼の溶製プロセスにおいて鋼内にとどまってい る水素に対しても,特段処置をしないため,実験開始時において供試材はある一定濃度の 水素を含んだまま繰返し応力を受けることになる.
19
Fig.1-11 水素チャージと転がり疲労寿命(出典:文献44)
1.3.3本研究の条件設定
本研究の他の研究にない特徴は,転がり接触下における表面からの水素侵入に注目して,
定量的に取り扱っている点である(Fig. 1-9).従って,水素侵入量測定とその時の転走面の 物理的,化学的状態評価に注力できるよう,その他の多くの因子をできるだけ固定化する よう心掛けた.本編では,転がり疲労試験(3 章)と転がり接触試験(4 章),単純接触試験(5 章) に大別して議論を進めるが,ここでは第3章で議論する転がり試験を例に挙げ,条件設 定の概要をまとめる.
1. 軸受の材質は断りがない限りJIS SUJ2 2. 軸受表面の粗さは断りがない限り一定
3. 軸受の作動条件(転がり速度や荷重)は断りがない限り一定
4. 転がり軸受試験において転動体は自由転がり状態であり,強制的なバルクの滑りは与 えない(作動滑りのみ生じ,基本的には不変)
5. 断りがない限り油潤滑下転がり試験とし,油の供給量は一定で再供給しない
6. 潤滑剤の粘度は試験温度とともに調整して,初期油膜厚さ,および膜厚比は常に一定 (グリース潤滑を除く)
7. 雰囲気気体種は,断りがない限り水素ガス(1気圧)
8. 雰囲気ガスは常にオーバーフローして,反応生成された水蒸気等の不純物成分は絶え ず置換されるため,雰囲気ガス純度の変動をある程度抑制
このような状態に於いて,一定時間転がり(もしくは滑り)試験を実施したのち,サンプル
3 4 5 6 7
100 1000 10000
L50 寿命, x104サイクル
最大ヘルツ圧力,GPa
通常材,水素中 チャージ材,水素中 水素曝露材,水素中
20
軸受を取り出して,すみやかに軸受材料中の水素侵入量を計測,その後転走面の観察や,
化学分析を実施する.経験的に膜厚比Λが大きすぎると(Λ>3)十分な流体潤滑膜ができて 転走表面が保護されるため,水素侵入は抑制され,転がり疲労寿命は延長する.一方本研 究においてΛ値は断りがない限りΛ<2となるように調整している.面圧はシェークダウン 限界であり,定格荷重(Hertz 最大接触圧力で4.2GPa 程度相当)より少し高めの 4.8GPa,
また,多くの実験は雰囲気温度120℃で実施している.つまり,強制的な滑りを生じさせな いことで,相対すべりによる発熱は回避する代わり,雰囲気温度を高めに設定して,界面 での化学反応や化学吸着を促し,さらにΛ値を小さく保つことで突起間干渉を増やして新 生面露出を促す,比較的穏当に制御された加速試験となっているのが本実験の特徴である.
ヘルツ接触面圧がシェークダウン限界であるのは,のちに示す,塑性降伏に伴う鋼中トラ ップ水素の動きやすさ(易動度,拡散性)を考慮したためであり[22],これも水素脆化を促 す加速的措置ということができる.
上述のことを前提とすると,本試験が対象とする物理的,または化学的現象は以下のとお りである.
A. 水素ガス中での試験において,鋼への水素侵入が観測された場合,水素供給源は 雰囲気の水素ガスの解離である
B. 水素ガス中の試験で試験温度を変化させると,鋼内部の水素拡散速度(易動度)や,
表面における潤滑剤・添加剤の保護膜形成能を評価できる(ただし表面反応は水素中 で起こるものに限られる)
C. 雰囲気を非水素とすると,水素供給源は潤滑剤か潤滑剤中の不純物(例えば水)が分 解・生成した水素(分子,原子,イオン)とみなすことができる
D. つまり,非水素中の試験において用いる潤滑剤の種類や添加剤を変えると,潤滑 剤の表面反応や分解性・劣化の評価が可能である
E. 過剰な滑りがないために温度変化や温度勾配は小さく表面保護膜の形成は準静的 である
このように,本試験は準静的状態の転がり接触再現試験であり,たとえば乗用車用発電 補機で報告されるような,軸受短寿命化の原因とされる急加減速,ストップアンドゴー,
衝撃荷重などの動的現象,もしくは帯電の影響[17,32,33]を模擬してはいない.しかし,そ のような状況で接触部に生じる過酷な潤滑不良状態を準静的に再現することで,つまり値 を低く設定したり,潤滑油温度を高く設定することで,上述の現象を模擬できると考えた.
そのうえで,接触の厳しさと水素侵入量の関係を対比して,接触面で生じている現象の定 量的評価を試みるのが本試験方法の特徴である.
本試験方法の特徴をさらに詳しく述べる.上述の研究に示される再現試験は,その開発
21
動機から,実機で生じた損傷(主に水素誘起転がり疲れと思われるが,一部電蝕というべき 損傷も含まれているかもしれない)を再現することに重点を置いて構築されているため,実 機に生じた形態と類似した損傷が実機で期待される作動条件で“再現”されることが主目 的である.一方本研究で目指すのは,水素脆化過程の解明である.そのためには,まず,
転がり軸受に生じる損傷全般における“水素誘起転がり疲れ”の相対化が必要となる.水 素誘起転がり疲れとは,どのような条件で生じる現象なのかを選別するためには,“あらゆ る潤滑状態を模擬でき,その潤滑状態に対応した損傷を再現する”試験法でなくてはなら ない.したがって,再現する対象は,“水素誘起転がり疲れ”に限らない.むしろ,損傷の 形態を網羅的に俯瞰し,作動条件と損傷との因果関係を明示的に紐付できるようなもので なくてはならない.そのうえで,“水素誘起転がり疲れ”がどのような条件で生じる現象で あるかを抽出することができれば,そのメカニズムへの理解が深まると考えた.
22
1.4 .本論文の構成
本論文は,以下の構成により議論を進める.第 1 章で転がり疲れと,転がり疲れにおけ る水素脆化の問題を概説する.転がり疲れの問題は,潤滑と鋼材双方の経時変化を含むた め,本研究において転がり疲れ全般をカバーすることは困難である.よって,本研究の目 的として,水素誘起転がり疲れの発生プロセスの中でも,水素の発生と侵入を,特に注目 すべき重要な問題として位置付けた.本研究では,水素発生,侵入プロセスにおいて,直 接的な物証として,軸受鋼の中の水素濃度を追跡した.第 2 章では水素濃度を計測するた めの昇温脱離分析装置(Thermal desorption spectrometry, TDS)を紹介し,合わせて,スラスト 軸受タイプの環境制御型転がり接触疲労寿命試験機を解説する.第3章では,第2章で説 明した装置を用いて転がり寿命試験水素侵入と防止について議論する.まず,3.1節で,鉱 油,合成潤滑油による転がり疲労試験の結果を示し,主に,水素を含む雰囲気の影響を紹 介する.3.2節では,グリースを用いた各種雰囲気下転がり疲労試験を,3.3節では,フッ 素系グリースを用いた試験を実施し,種々の潤滑剤が多様な潤滑状態と,それに起因する 表面損傷を受けることを示す.その表面損傷の中で,水素誘起転がり疲れがどのような位 置づけにあるのかを明らかにする.第 4 章は,転がり接触における水素侵入にさらに絞っ て議論をしていく.水素は潤滑システムのどこで生成され,どのように輸送,拡散してい くのかを,空気中,水素中における転がり接触試験によりそれぞれ 4.1 節,4.2 節で示す.
特に4.2節では,潤滑油添加剤の水素侵入防止効果に注目して議論する.第5章は,スラス ト軸受タイプの転がり疲労試験から離れ,より表面の接触問題に視点を当てる.そのため,
ここで新たに単純接触試験機を導入し,転がり接触を単純化した模擬接触試験を行い,雰 囲気種や温度,接触圧力が接触表面からの水素侵入現象にどのような影響を持つのかを評 価する.最後に第 6 章で本研究の総括と,シンプルな水素誘起転がり疲れ発生プロセスの 提案を行う.
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2 実験方法
本研究の具体的目的である転がり寿命評価と,水素侵入測定・評価に先立ち,用いた装 置の概要を本章で示す.1.1節では,転がり軸受寿命予測式の基礎理論であるLundberg –
Palmgrenの式を振返り,本研究において取り扱う転がり疲れ損傷の位置づけを示した.
2.1節では,本研究で転がり疲労寿命試験に用いた試験機の詳細と,試験条件を詳述する.
また,2.2節では,転がり試験後に実施される鋼中の水素量の測定に用いられる昇温脱離分 析装置の詳細とその測定手順を示す.2.3節では,3章以降用いる潤滑油基油を紹介する.
潤滑油の劣化解析手法を詳述し,本研究で使用する潤滑油基油の分解・劣化特性を示す.
これらの装置と前提条件の上に3章以降の水素誘起転がり疲労の実験,および考察を行う.
2.1 環境制御型スラスト軸受転がり疲労試験機
本研究では,ボール・オン・ディスク型の転がり疲労寿命試験機を使用し,転がり接触 試験を行う.Figure 2-1に本研究で使用した実験装置の概略図を示す.Figure 2-2に試験 チャンバの詳細を示す.また,本実験装置の諸元をTable 2-1にまとめた[1,2,3].
ディスク試験片はチャンバの下部に固定され,転動輪は上方の駆動軸に固定される.デ ィスク試験片の片当たりを緩和するため,チャンバ底面とディスク試験片の間にはシリコ ンラバーが敷かれている.ボール試験片はディスク試験片と転動輪の間にリテーナ(保持器) を 用 い て 配 置 さ れ る . リ テ ー ナ の 材 質 は , ポ リ エ ー テ ル エ ー テ ル ケ ト ン(PEEK, polyetheretherketone)樹脂である.荷重は,下方に設けた梃子を介して死荷重により負荷 される.梃子の比は1 : 5である.ヘルツの最大接触圧力は,使用するボール試験片の数と 負荷する荷重の大きさを変えることで調整できる.三相交流モータを動力源とし,タイミ ングベルトを用い,その動力は駆動軸に伝えられる.駆動軸が回転することで,ディスク 試験片とボール試験片は転がり接触する.
潤滑方法は,油潤滑下の転がり疲れ寿命試験時においては油浴潤滑である.グリース潤 滑下の転がり疲れ寿命試験時は一定量のグリースがディスク試験片に塗布される.試験中 のグリースの飛散を防止するため,ディスク試験片および転動輪はシールドされる.
チャンバにはガス導入ポートとガス排気ポートが設けられている.任意の気体をチャン バ内に導入でき,雰囲気気体を制御することができる.チャンバのふたにはオイルシール が固定されており,気体の外部漏れおよび外部からチャンバ内への異物の侵入を防いでい る.転がり疲れ寿命試験中に試験気体を絶えずチャンバに吹き込み続けることで,任意の 気体雰囲気を保持できる.
チャンバ内にはヒータと熱電対が設けられており,チャンバ内の温度は制御可能である.
フレーキング損傷の発生は,梃子に設けた振動センサにより検知される.振動レベルが 規定値以上になると,フレーキング損傷が起きたとみなし,実験装置は自動停止する.