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LNHOによる東アジアでの事業展開

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1920年代半ばになると、LNHOは東アジアにも事業を拡大した。本節ではその概要 と、それが東アジアの国際関係にどのような影響を及ぼしたのかについて、2つの事例から 見ていきたい。

(1) LNHO極東支部シンガポール伝染病情報局

東アジアにおける伝染病蔓延状況、とりわけ満州とシベリアにおけるペストとコレラの蔓

6) League of Nations Archives, United Nations Library, Palais des Nations, Geneva (LNA), R6150/8A/42169‐41755, Notes by Ludwik Rajchman, 9/1943.

7) Goodman, op.cit., pp.110‐127.

8) LNA, R6062/8A/13441‐985, T. Madsen à J. Avnol, 10/11/1934.

9) LNA, R6061/8A/8864‐985, Extract from minutes of the Council, 24/5/1933.

10) 安田佳代「国際連盟保健機関から世界保健機関へ1943-1946年―機能的国際協調の継承と 発展―」(日本政治学会編『年報政治学』2010‐Ⅱ号、木鐸社、2010年12月刊行予定)。

延を改善する必要性は、第一次世界大戦前から指摘されていた。LNHO設立直後の 1922年にLNHO保健委員会にて、日本代表が東アジアにおける伝染病情報が極めて不 正確であることを指摘し、LNHOから調査団を派遣することを提議した。この際、日本代 表は、もしこの提案が実行に移されるのであれば、連盟の活動が欧州のみに局限されな いことを証明することになろうと発言した。この結果、1922年11月から翌年7月にかけて、

LNHOから東アジア主要港に調査団が派遣され、調査団の報告書に応じる形で、1925 年3月にシンガポール伝染病情報局(以下、情報局)が開局した11)

情報局の任務は大きく分けて2つであった。第一は、伝染病情報業務である。情報局 は主要港の伝染病情報を毎週無線でシンガポールに集め、集めた情報を地域別の週広 報にまとめ、毎週金曜日に発信していた。ちなみに1925年10月には交信を行っていた港 の数は47港であったが、1938年には180港にまで増加していた。情報局の第二の任務 は専門事業への取り組みであった。参加国の専門学者による委員会を組織し、ペスト、

肺炎等の各種専門研究が行われていた。その他、対中国技術協力や極東衛生会議な ど、LNHOが東アジアで展開する事業の補佐役も担っていた12)

LNHOによる東アジアでの事業展開は、当該地域に具体的にどのような影響を及ぼし たのかを、ここで確認しておきたい。言うまでもなく、情報局の設置によって、東アジア関 係諸国が正確な伝染病情報が把握できるようになり、感染者の数は減少し、確かな衛生 改善効果をもたらした。ただ、効果はそれだけにとどまらなかった。連盟が東アジアで国際 衛生事業を展開するということは、それまで「ヨーロッパの機関」とみなされていた連盟の活 動を、非西欧地域にも拡大することを意味した。当時、船便でジュネーブまで数か月を要 したアジア諸国にとっては、近場で連盟と関われる場となり、日本や中国、インドからは外 交の一手段としても認識されるようになった13)

(2) 東アジアでの事業展開と日本

日本と国際衛生事業の関わりについて、ここで簡単にみておきたい。日本はLNHOが 設立されるまで、国際衛生枠組みには加入していなかった。そのため20世紀初頭のヨー ロッパでは「日本=不衛生」というイメージさえ存在し、たとえば日本製のブラシに対して輸 入禁止措置が取られるという事件も起きていた14)。国際衛生に協力姿勢を示すことは、ア 11) 外務省記録B‐9‐10‐2‐17(史料A)、1924年3月24日、杉村連盟事務局次長から松井外相。

12) 同史料、『国際連盟保健部東局業務概要』、1931年4月。

13) LNA, R6062/8A/27201‐985, S. Lester to A. Russell, 12/5/1937.

極東衛生事業の展開と日本対国際機関外交 - 国際連盟から国際連合へ

-ヘン、婦人児童売買15)、委任統治等、連盟の手掛ける諸問題にも連動するものであり、

日本に対する誤解や批判を牽制する手段になりうると日本政府は考えた。更に、国際衛生 枠組みに加入することは「連盟の常任理事国・日本」の品位面目に関わることだと認識され ていた16)。こうして1921年にLNHOが設立されると、日本は積極的に国際衛生事業に関 与しようと試みたが17)、遠方であるために定期的に保健委員会に出席することは難しかっ た。このため、1925年に情報局が設立されたことは東アジアの衛生を改善するのみなら ず、「東洋における指導者たる日本の地位を実現しうる、絶好の機会」として日本政府に歓 迎された18)。以下、LNHOと日本の具体的な接点を、3つの事例から見ていきたい。

第一は1925年秋に日本で開催された衛生技術官交換会議である。この会議はヨー ロッパ衛生先進国の施設や制度を、他国の医学者に見学させる目的で1922年に始まっ たもので、アジアでも開催しようということで、1925年に日本で開催された。会議では日 本とその植民地の主要衛生施設が紹介されたが、ハンセン病患者の施設や工場労働者 の労働環境など、日本にとって都合の悪い施設は見学対象から除外された。開催の結 果、日本の「衛生水準の高さ」を国際的に認識させる結果となり、LNHOでは日本人の医 学者を対象とした奨学生制度の確立、国際共同研究チームの発足、日本人医学者の招 待講演等、「衛生先進国・日本」との協調を深める様々な計画が立案・実行された19)

第二の事例は情報局における植民地代表権である。情報局は中国、日本、フィリピ ン、タイ、イギリス領、フランス領、オランダ領から構成されており、植民地保有国は情報 局の諮問委員会において、本国代表の他に植民地代表権を要求した。この中で唯一、

日本のみが「極東に本国と植民地の双方を有する特別な地位にある」ことを理由に植民地 代表権が認められ20)、1928年以降、本国代表1名のほか、植民地から計2名の代表を 派遣した21)。第三の事例は情報局における次長ポストである。1925年の衛生技術官交 換会議の結果、日本人を次長に据えることがLNHOから提案され、1926年から1939年

14) 外務省記録B‐9‐10‐0‐6‐4(史料B)、1924年2月5日、石井大使から松井外相宛。

15) Susan Pedersen, “Maternalist Moment in British Colonial Policy: The Controversy over ‘Child Slavery’ in Hong Kong 1917‐1941” (Past & Present, No.171, 2001).

16) 史料B、1924年2月5日、石井大使から松井外相。

17) 安田佳代「戦間期東アジアにおける国際衛生事業―テクノクラートによる機能的国際協調の試 み―」(東京大学国際関係論研究会編『国際関係論研究』27号、2008年)21頁。

18) 史料A、1925年3月17日加藤嘱託から幣原外相。

19) 外務省記録B‐9‐10‐0‐10、内務省衛生局による報告書、1926年3月。 20) 史料A、1927年11月10日、佐藤連盟事務局長から田中外相。 21) 同史料、1930年10月30日、小林拓務次官から吉田外務次官。

まで日本が次長ポストを独占した22)。日本は次長ポストを「極東における主導的地位の象 徴」と捉えていた23)。次長ポストの外交的価値を認識していたのは日本政府にとどまらな かった。1931年の満州事変以後、日本は連盟と対決姿勢を強め、1933年に連盟を脱 退したが、LNHOとの協調関係は維持していた。そのため1933年以降、連盟事務総長 ら連盟幹部は、国際衛生事業を日本と連盟の貴重な懸け橋と認識し、積極的に介入する ようになった。たとえば、1935年に情報局にて日本人次長を解任しようという事件が起きた 時、連盟事務総長の介入によって、日本の地位は温存された24)

(3) 国際連盟による対中国技術協力 1928年-

LNHOによる東アジアでの事業展開の二つ目の事例として、対中国技術協力について みていきたい。1925年に日本で開催された衛生技術官交換会議の岐路(帰路)、中国を 訪れた保健部長ルートビッヒ・ライヒマン(Ludwik Rajchman)は中国での伝染病蔓延 状況に驚き、国際的に何らかの措置を施すことを提案した。その後、一旦計画は下火で あったが、1928年秋に中国南京政府がLNHOに協力を依頼したことから、上海でのコレ ラと天然痘撲滅事業、検疫事務の刷新等が実施された25)。当初日本は、表向きは日中 親善の一環として積極的に関与することで、連盟が中国に肩入れしすぎることを牽制しよう と試みていた26)。ところが、1931年9月の満州事変以降、日中紛争は連盟理事会にお けるトップ議題となり、同じく連盟理事会で扱われていた対中国技術協力もその影響を受け ることとなった。中国は対中国技術協力に日本が参画することを拒否し、日本も連盟に対し て、事業責任者の解雇と事業の中止を申し入れた。連盟側は日中双方への融和策とし て、責任者を解雇し、事業自体は継続するという折衷策を講じた27)

LNHOによる対中国技術協力は、当初は日中紛争とは別次元のものと考えられていた 22) LNA, R6055/8A/41372‐749, Retrospect by Veillet‐Lavallée, 9/2/1942.

23) 外務省記録B‐9‐10‐2‐17‐2、1927年11月10日、佐藤連盟事務局長から田中外相。 24) 同史料、1935年12月5日、連盟事務局長代理から広田外相。

25) ドクトルライヒマン報告、同仁会訳『中華民国医事衛生の現状』(財団法人同仁会、1930 年)。

26) 後藤春美「国際連盟の対中技術協力とイギリス 1928年−1935年 ライヒマン衛生部長の活動と 資金問題を中心に」(服部龍二、土田哲夫、後藤春美編著『戦間期の東アジア国際政治』 中央大学出版部、2007年、第四章)。たとえば日本は、積極的に日本人顧問を採用するよ う事務総長に働きかけていた。

27) James Barros, Betrayal from Within: Joseph Avnol, Secretary‐General of the League of Nations, 1933‐1940, Yale University Press, 1969, p.47.

極東衛生事業の展開と日本対国際機関外交 - 国際連盟から国際連合へ

-が、上記の通り、満州事変後の日中対立を内包するものとなった28)。中国にとって当該事 業は、国際的支援を得て衛生制度を整え、強い中央政府の(を)確立し、ひいては国際 的地位向上を目指すための一手段であった29)。他方日本は、中国に強い中央政府が設 立されることを警戒し、1931年以降は対決姿勢を鮮明にした30)

以上の通り、LNHOは戦間期の東アジアにおいて、確かな衛生改善効果をもたらし た。対中国技術協力はその後、国連に引き継がれるなど31)、戦後の事業の土台を築い たことも功績の一つであった。他方、東アジアでの衛生事業は日本政府にとって「極東に おける主導的地位」獲得のための手段でもあった。1931年以降は日中紛争を内包するも のとなり、連盟幹部も紛争解決の目的で事業に介入した。安全保障問題と社会的国際協 力事業を連盟理事会が共に扱っていたという、連盟の行政構造がこうした歪みを生み出し たのであった。

LNHOの活動は戦後、WHOとユニセフに引き継がれた。戦後体制構築の際には、以 上の経験を踏まえ、より自立的で中立的な活動体制が摸索された。具体的には活動を支 える専門家と政府代表のバランス、地域分権化と中央集権化のバランスを図ることが重要 だとされた。この結果、国連の下では国際協力事業を専門に扱う経済社会理事会(以 下、経社理)が設立され、各専門機関は経社理に属しつつも、活動にあたっては高度な 自立性が付与された。以下、戦後の事業展開が地域内の国際関係と再びどのように関 わったのか、日本に焦点を当てて検討していきたい。

3. 戦後初期東アジアにおける国際衛生事業―ユニセフと日本の関わりを中心に -

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