極東衛生事業の展開と日本対国際機関外交 - 国際連盟から国際連合へ
-が、上記の通り、満州事変後の日中対立を内包するものとなった28)。中国にとって当該事 業は、国際的支援を得て衛生制度を整え、強い中央政府の(を)確立し、ひいては国際 的地位向上を目指すための一手段であった29)。他方日本は、中国に強い中央政府が設 立されることを警戒し、1931年以降は対決姿勢を鮮明にした30)。
以上の通り、LNHOは戦間期の東アジアにおいて、確かな衛生改善効果をもたらし た。対中国技術協力はその後、国連に引き継がれるなど31)、戦後の事業の土台を築い たことも功績の一つであった。他方、東アジアでの衛生事業は日本政府にとって「極東に おける主導的地位」獲得のための手段でもあった。1931年以降は日中紛争を内包するも のとなり、連盟幹部も紛争解決の目的で事業に介入した。安全保障問題と社会的国際協 力事業を連盟理事会が共に扱っていたという、連盟の行政構造がこうした歪みを生み出し たのであった。
LNHOの活動は戦後、WHOとユニセフに引き継がれた。戦後体制構築の際には、以 上の経験を踏まえ、より自立的で中立的な活動体制が摸索された。具体的には活動を支 える専門家と政府代表のバランス、地域分権化と中央集権化のバランスを図ることが重要 だとされた。この結果、国連の下では国際協力事業を専門に扱う経済社会理事会(以 下、経社理)が設立され、各専門機関は経社理に属しつつも、活動にあたっては高度な 自立性が付与された。以下、戦後の事業展開が地域内の国際関係と再びどのように関 わったのか、日本に焦点を当てて検討していきたい。
3. 戦後初期東アジアにおける国際衛生事業―ユニセフと日本の関わりを中心に -
ユニセフは1946年12月に、LNHO保健部長を約15年間務めたライヒマンによって設 立された。設立直後はヨーロッパ戦災国での救済復興活動を中心に行っていたが、
1940年代後半以降、アジアでの活動を拡大し、1950年代以降、その規模はヨーロッパ を上回るものとなった。アジアでの最初の活動は、1948年4月に中国で開始され、食糧 支援の他、公衆衛生に携わる人材育成が行われた。東南アジア諸国でも1948年夏に母 子感染症対策が実施され32)、1949年8月には脱脂粉乳と原綿の供給を中心とする対日 救援活動が始まった。粉乳は学校給食用に、原綿は衣料に加工され、児童の発育に寄 与した33)。
他方、ユニセフの活動は、冷戦期の東アジア国際関係と無関係ではいられなかった。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、国連では朝鮮半島救済復興計画(Plans for Relief and Rehabilitation of Korea)が立案され、同年10月、その一環としてユニ セフでも衣料支援計画が立案された。同年11月、ユニセフはこの原綿加工を日本政府 の費用負担で行うことを打診した。当時、日本では国内の配給に手一杯であったが、日 本政府は参画を決定した34)。この理由として第一に、ユニセフから既に多くの支援を受け ており、参画することが「ユニセフの感情をよくする」という儀礼的な理由、第二に、本格的 な寒さの到来が間近に迫っており、早急に対応する必要があるという人道上の配慮が挙げ られている35)。ただ、この他にも日本の参画を後押しするものがあった。連合国軍総司令 部(General Headquarters, GHQ)はこの貢献がユニセフへの寄付とみなされること の重要性を指摘して、日本政府の寄与を暗に勧めていた36)。アメリカにとって本件は、国 連の専門機関と日本の関係を緊密化させ、日本を西側陣営に組み入れるための絶好の 機会であった。
この朝鮮半島救済復興計画は「緊急かつ人道的問題」であり、「本件を政治的介入の 梃にしてはならない」と表面的には認識されていた37)。しかし実際には、その計画策定プロ
32) UNICEF, UNICEF in Asia: a historical perspective , UNICEF, 1988, pp.4‐15.
33) 詳細については安田佳代「国際連盟からの機能的国際協調の継承と発展-戦後初期ユニセ フによる対日救援活動からの一考察-」(日本国際政治学会編『国際政治』160号、2010 年)。
34) 国立公文書館所蔵「第三次吉田内閣・閣議資料綴・昭和25年11月の1」、1950年11月2 日、閣議資料。
35) 国立公文書館所蔵「公文類集第75編・昭和25年・第97巻・外事」、1950年12月8日、官房 渉外課長による報告書。
36) 国立公文書館所蔵「公文類集第76編・昭和26年・外事1」(史料C)、1951年2月20日、外 相による請議。
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-セスにおいて冷戦の展開と密接に関わるものとなった。たとえば、経社理での計画策定段 階では、北朝鮮への対応を巡って東西両陣営が対立した。北朝鮮が韓国の医薬品を略 奪したこと、国連に挑戦的な態度を示したこと、治安の悪さを理由に、西側諸国は北朝鮮 からは支援要求を聴取する必要はないと主張した。これに対してソ連と東欧の衛星国は、
南北分け隔てなく支援要求を聴取し、提供するべきだと主張した38)。結局、ソ連側の主 張は受け入れられず、ユニセフによる支援活動も主に韓国で展開されたが、ユニセフで は北朝鮮向けの活動資金が用意されていた39)。国際政治動向に翻弄されつつも、実際 の活動にあたっては、極力中立性と自立性を追求する姿勢は戦前とは対照的であり、この 点は戦後体制下での進展の一つといえる。
(2) ユニセフ ・ WHOとの互恵関係の強化 1951-1958年
1950年代前半以降、復興支援活動が一段落すると、日本は国連加盟をはじめとする 外交課題を見据えて、ユニセフ・WHOとの互恵的関係の強化を図るようになった。たとえ ば、1952年9月には、ユニセフによる対東南アジア支援計画について、通商産業省が 10万ドルに相当する製品を買い上げ、ユニセフの指定する諸政府に引き渡すことを日本 政府は決定した。当時の日本政府は賠償額をなるべく切り下げ、経済協力に組み込むこと を望みつつ、東南アジア諸国と戦後賠償交渉を行っていた。ユニセフによる対東南アジア 支援計画に参画することは、賠償交渉に有利だと認識されたのである40)。
また当時、喫緊の外交課題であったのが国連加盟問題であった。日本は1956年に国 連に加盟したが、それに先立つ1951年5月に、WHOに一般加盟国として加盟した。当 時、WHOへの加盟方法としては一般加盟国と準加盟国の二種類が用意されており、独立 前の日本とドイツが一般加盟国として加盟することは、WHO憲章の規定上難しいと考えられ ていた。それにも関わらず日本外務省は、準加盟国がWHOの総会において投票権が与え られず、その他の権利においても一般加盟国に比べて劣ることを理由に、あくまで一般加盟 国としての加盟方針を堅持していた41)。更に、日本がWHOに加盟することの利点としては「
37) UN Doc., E/SR. 420, 20/10/1950 . 38) Ibid.
39) UNICEF, op.cit., UNICEF in Asia, p.19, p.36, pp.42‐43.
40) 国立公文書館所蔵「公文類集第77編・昭和27年・第128巻・外事11」、1952年9月13日、 岡崎外相・高橋通商産業相による請議。
41) 外務省戦後外交記録、マイクロフィルムB‐2351、1950年7月25日、外務事務次官から厚生事 務次官。
この種の国際協力が保健の分野において与える実際的利益は頗る大なるものがある。のみ ならず平和条約未締結の現在、我国の国際社会への復帰を早からしめる点からしても保健 機関へ加入する事は極めて望ましいことは論をまたない(傍線は筆者)」42)ことを挙げてい る。国連の専門機関との関係強化は国連加盟への早道として認識されていたのである。
実際、こうした認識はその後のユニセフとの関わり合いからも窺い知ることができる。ユ ニセフ執行理事会(Executive Board)は26カ国(当時)の代表から構成されるユニ セフの最高企画機関である。この理事会について日本は、1954年8月の第18回経社理 にて、1955年1月1日から3年間の議席を得た43)。当時の日本が戦後外交構想を実現し ていく上で、国連及び国連と相互補完関係にある多国間国際枠組みを活用したことは先行 研究で明らかにされている44)が、ユニセフもこうした多国間国際枠組みの一つとして認識 されていったのである。
おわりに
連盟の社会的国際協力事業は、連盟理事会の指揮・監督下に置かれ、国際政治動 向に大きく翻弄された。この反省から、戦後は経済及び社会的国際協力事業に自立性を 付与し、国際政治動向に左右されない国際協力の促進が模索された。こうして国際衛生 事業は国連の下で、より自発的な活動主体へと立場を変え、その中で国際政治動向と密 接に関わりつつも、機能的協調面での役割を高めてきた。
ユニセフによる対日救援活動は確かに、アメリカの冷戦戦略の一翼を担った。アメリカ は、国連の専門機関が戦後初めて本格的な対日復興支援を行うことを重視し、ユニセフ の活動を全面的にサポートした。冷戦が熱を帯びていく中で、ユニセフによる人道目的の 越境活動計画は、日本を西側に組み入れ、且つ復興を促進させたいというアメリカの政策 において、非常に好都合なものであった。その一方で、ユニセフの活動は比較的中立且 つ自立的に遂行された。更に、戦後外交形成期の日本はユニセフとの関係を緊密なもの
42) 史料C、1951年1月25日、吉田外相から吉田首相。
43) 国立公文書館所蔵「昭和29年・任免閣議決定人事・第7巻」、1954年12月13日、閣議決定 人事。
44) 井上寿一「戦後日本のアジア外交の形成」(日本政治学会編『年報政治学 日本外交にお けるアジア主義』岩波書店、1999年)134頁、同「戦後日本の外交構想」(日本政治学会編 集『年報政治学 オーラル・ヒストリー』岩波書店、2004年)76‐79頁。