日本の韓国併合をめぐる国際環境と大韓帝国外交の挫折 163
併合断行の時期を急遽早め、それも日進会を全面に掲げて併合請願書を提出させること により、韓国民が自発的に合併を請願しているように見せかけ、韓国併合に対する列強介 入の可能性を極力避けようとしたものと考えられる。
が変化したのだろうか。10月26日の安重根による伊藤狙撃事件で、併合推進の波が急 激に押し寄せたとはいうが、時期的に見れば小村外務大臣が準備して桂首相と協議した 併合案に対し、伊藤統監は4月に同意を表明しており、6月には統監職を辞任してい る21)。これは単に、伊藤がこれまで進めてきた自治育成政策の失敗を自認したものであろ うか。
日本の韓国併合に対する国際列強の同意を問題視する場合、これまでの主張のよう に、ロシアからの同意が最大の障害であったとすれば、ロシアは1906年のイズボルス キー外相就任当時から、既に日本との妥協関係に背を向けていた点が注目される22)。 ポーツマス条約の交渉時(1905年9月)において、ロシアは日本が韓国における政治軍事 および経済的な優越権を承認し、日本が韓国を指導・保護および監理に必要な措置を取 ることを妨害もしくは干渉しないことを約束する」とする一方、「韓国皇帝の主権を侵害するこ とはできない」という条項を盛り込むかどうかをめぐり、日本と議論を繰り広げていた。これは
「日本が将来韓国において必要とされる措置が、同国の主権を侵害する場合には、韓国 政府との合意の後、執行することを声明する」という内容の決議表明を会議録に盛り込むこ とで妥結された23)。すなわち韓国の独立主権問題については再論の余地があり、その年 の暮れ、ロシアは1906年に予定されていた万国平和会議に大韓帝国代表を招請し24)、 国際会議の席上で再度、韓国問題を取り上げることを試みたのである。だが1907年の万 国平和会議開催時には、7月30日の第一次日露協約において「ロシアは、韓日両国間に おける現行の条約協約関係を承認し、韓日関係の発展を妨害・干渉しない」ことを秘密裏 に約束してしまった。これは、ロシアが外蒙古における特殊権益を日本から認められた代 価として、韓国に対する保護権を認めたものであり25)、これこそがハーグ特使の支援要 請に背を向けた背景であったことは、周知の事実である。このように考えれば、満州にお ける権益をめぐり、欧米列強が主張するopen door policyに対し、日本と共同で対処す るため韓国問題をあきらめたロシアの最終承認を勝ち取るため、日本が1910年まで韓国 併合を保留したという論理は、説得力に欠けると思われる。
21) 小松緑『朝鮮併合之裏面』中外新論社、1920。
22) チュエ・ドッキュ「第2次万国平和会議とロシアの東アジア政策」『1907年ハーグ平和会議と大 韓帝国、そして列強国際学術会議資料集』、2007。
23) Raymond A.Esthus, 1988 Double Eagle and Rising Sun‐The Russians and Japanese at Portsmouth in 1905, Duke University Press
24) 徐栄姫、前掲論文(2008)、69頁
25) 日本外務省編『日本外交年表並主要文書』、280‐281頁。
日本の韓国併合をめぐる国際環境と大韓帝国外交の挫折 165
問題は、当時における満州鉄道問題をはじめ、東アジア進出に最も積極的であった米 国の態度である。1909年3月、ルーズベルトに次いで大統領となった「桂‐Taft Memo」
の主役、William H.Taft26)は、ルーズベルトの親日的東アジア政策基調27)を維持する という一般的な期待とは異なり、P.Knox国務長官と共に、積極的なドル外交を展開し、
日本と対立した。日露戦争の従軍記者として日本の蛮行を目撃し、1905年にはソウル駐 在領事として赴任、反日感情を抱いていたWillard Straight(当時は奉天総領事)も28)、 米国資本による満州鉄道進出を積極的に推進めていた点で、従来のElihu Root国務長 官やW.Rockhil駐中公使の立場とは異なる政策基調を示した。このように、米国が日本 の満州における利権の維持に正面から対立したことにより、英国メディアも反日基調へと転 換した。
日本の満州進出は、1907年8月における統監府の間島派出所の開設によって本格化 し、これに対する清の反発は、1909年3月の間島問題をはじめとする日本との問題を、
ハーグ仲裁裁判所に回付するという通告により、現実化した。日本は満州進出に対する清 の反発と、欧米列強の疑いを晴らすため、1908年9月、第2次桂内閣の小村外相が閣 議に提出した「対外政策方針」において、日英同盟、日露協約、日仏協約体制を堅持 し、排日論防止のための日米交渉締結を試みることを決定した29)。これによって日本は、
満州に関する諸案件を間島領有権と一括して妥結することを試み、1909年9月に間島協 約を締結した。
山県による「第2対清政策意見書」(1909年4月)によると、当時の日本においては、満 州問題をめぐって列強がすべて敵となった場合、それが韓半島に影響を及ぼし、保護国 に過ぎない韓国を放棄しなければならない可能性があるという点を、大いに憂慮していた。
しかも「自治育成」を掲げているにもかかわらず、激しい義兵抗争に代表される反日抵抗が 続く現実は、保護国とした後の日本による韓国統治実績に対して欧米列強の批判的な態 度をもたらした30)。従って欧米列強の満州問題に対する不満は、保護国であった韓国に
26) Tyler Dennett, President Roosevelt's Secret Pact with Japan, Current History xxi, 1924
27) キム・ギジョン「1901‐1905年にかけて米国の大韓政策研究(1)‐セオドア・ルーズヴェルトの世 界観の分析を中心に」『東方学志』66、1990、213頁。「1901‐1905年間の米国の大韓政策 研究(2)‐大統領と国務省官僚等の役割の比較分析」『東方学志』80、1993、68‐69頁。 28) Herbert Croly, Willard Straight, The MacMillan Company, 1924
29)『小村外交史』
30) かねてより反日的であったParis Figaro紙だけでなく、慎重な英国紙Manchester Guardian も、日本の韓国政策について批判的だするNew York Observer and Chronicleの記事
おける日本の独占的地位の確保にまで影響を及ぼし得るとの判断のもとで、日本政府は 急遽1909年7月6日付で併合方針を決定したのである。
だが列強は、1909年9月に行われた日清間の協約締結にも疑問を抱いており、このよ うな雰囲気は米国とロシアの接近をもたらした。伊藤は、こうした動きをみせるロシアを日本 側に引き寄せるため、Kokovsoffとハルピンで会談を試みたのであり、それが安重根の 狙撃事件によって霧散したのである。また米国は1909年12月、満州鉄道の中立化案を 示し、欧米列強が共同で日本の満州利権独占を抑制するよう提案した。駐ロシア大使の Rockhilは、同年11月に米露同盟を提案しており、駐ロシア日本大使の本野一郎も、同 じ時期、新たな日露協約の締結をイズボルスキーに提案した。ロシアをめぐる日米の綱引 きが行われていたのである。結果は、英国が日本の小村外相の要請を受けてロシアを説 得し、これによって1910年1月、ロシアが米国の提案を拒否し、1910年3月に第2次日 露協約に締結することが決定した。4月にはロシアが韓国併合を最終承認し、5月には英 国による承認があり、日本は6月、併合推進のため拓植局を設置した。7月には第2次日 露協約が正式に締結され、韓国と日本は8月22日、併合条約を締結した。
結果だけをみれば、ロシアと英国による最終承認が、日本が韓国併合を断行する国際 的条件のようにも捉えられるが、併合推進の直接的な動因は、満州問題が韓国問題へと 影響を及ぼすことを容認しないという守りの姿勢、そして欧米列強、特に米国介入の可能 性に対する憂慮にあった点は注目されるべきである。米国に対し、併合の事実を事前に通 報すらしなかった日本の態度は、ポーツマス会談当時、ロングアイルランドのサガモアヒ ルにあったルーズベルト大統領の邸宅を訪れ面談した李承晩が「日本人が将来、米国の 後顧の憂いとなるのは明らかであり、今まさに韓国を支援し、日本人の計画に陥らないよう にすべきだ」と主張した事実を思い起こさせる31)。
4. おわりに
(1909年12月9日付)を参照。
31) ロバートオリバー、Syngman Rhee‐The man behind the myth.
陈红民 (浙江大学)
现实政治与历史研究 :
中国大陆地区的蒋介石研究 ( 1949 — 2000 )
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中国大陆地区的蒋介石研究(1949-2000)
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中国大陆地区的蒋介石研究 ( 1949-2000)
陈红民 (浙江大学)
<目 次>
一、1949-1979:一本书影响30年
二、1980-1989:从“为政治服务”向“学术研究”转型 三、1990-1999:学术研究路上的跋涉
四、找寻真实的蒋介石:路有多远?
(本课题尚在研究中,欢迎批评,引用务须征得作者同意)
如果细数近年来中华民国史研究的热点,蒋介石研究定能名列前茅。随着蒋中正档案 与蒋介石日记的开放,越来越多学者涉足该领域,一些国家与地区建立了专门的研究 会、研究群与研究机构,1)相关的研究著作、论文层出不穷,连续召开过不少的学术会 议。2)有海外媒体说,中国大陆史学界现在有“蒋介石热”。日本知名学者山田辰雄断言,
蒋介石研究是目前与未来一段时间民国史研究具有根本性、方向性的课题。3)
由于蒋介石的特殊地位,对他的研究一直是民国史研究的焦点与标尺之一,不仅是学 术问题,有时还是政治问题。1949年中华人民共和国建立后,大陆地区蒋介石研究的学
1) 如“日本蒋介石研究会”、台湾有两个“蒋介石研究群”、浙江大学有“蒋介石与近代中国研究中
2) 2009年,有浙江大学与日本蒋介石研究会合办“蒋介石与近代中国工作坊”(1月)、台北中研心”等。
院近代史所(8月)、加拿大女王大学(8月)、日本蒋介石研究会(11月)举办过蒋介石为 主题的国际学术研讨会,2010年,浙江大学与中正文教基金会、珠海书院联合举办了大陆地 区首次以蒋介石为主题的国际学术会(4月)。目前所知,台北中国文化大学(8月)、中国 社科院近代史所(9月)将举办相关会议,12月,台北还将举行“蒋介石日记与民国史研究学 术研讨会”。以一个民国人物为主题如此密集地召开学术会议,是个学术奇观。
3) 山田辰雄教授2010年5月23日在中国社科院近代史研究所主办之“第三届近代中国与世界国际学 术讨论会”闭幕式上的发言。