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<実験的考察二>主客を超えた自己凝視

ドキュメント内 簡素な表現がつくる多弁なる空間 (ページ 67-71)

 もう一つ実験を行ないたい。今ここに真理というものがあるとする。それは球体のよう なものであり、しかもその周りには、それ自体が発する真の姿や内から輝く光を妨げるも のが幾重にも取り巻いているとする。っまり、無知や愚かさ、様々な人間関係によって自 分自身の内面に秘められた真理が隠されている状態となっている。その状態のままでかな

りの高さにまで持ち上げる。真下には美しく磨かれた鏡が用意してあり、その上に真っ直 ぐに落ちるように真理の球体注1g)から手を放すというものである。この実験の経過およ び結果は果たしていかなるものになるであろうか。(P70真理の球体落下進行の図解参

照)

 真理の球体を鏡に向かって手放した瞬間、真理の球体は重力に従って真下に落下してい く。次第に速度を増していくと同時に、落下の遠度の増加にともない真理の球体への風圧 も徐々に強くなっていく。真下に置かれた鏡には.真理の球体との距離がまだ大きくある ため、鏡面にはそれがぼんやりとしか映っていない。益々強くなっていく風圧は真理の球 体にある変化をもたらした。なんと風圧が真理の球体の周りに幾重にも取り巻き、その内 なる輝きを妨げていたものを取り払い始めたのである。真理の球体にしてみれば、自分の 本来の姿が隠された状態であったので、風圧によって成されたことは有り難いことであっ た。その後も真理の球体は落下し続け、速度もさらに増していった。風圧はさらに大きく なり、真理の球体の核である真理を隠していたものがみるみるうちに取り払われ、核とで も言うべき真理が徐々にその輝きを見せ始めた。鏡はその姿や変化していく様子を明確に 映し出していた。真理の球体は尚も落下を続け、今や取り巻いていたものはほとんどなく なり、真理の輝きを完全に取り戻しつつあった。それは真下にある鏡面にも輝きを放ち、

鏡面は四方へと輝きを反尉させた。尚も落下を続けていく真理の球体は、鏡面の反射の光 を直接に受け、余りの輝きに前方が見えないほどになった。そして鏡面と自分自身との間 に放たれた光の主が自分自身のものなのか、それとも鏡面に映し出された自分自身から発 せられたものなのかの判断ができなくなるほどになった。最後は鏡面に落下し、鏡面に映

る自分自身と接し、あたかも一体化するかのようなきわめて密接な状態になった。

 真理の球体は特定の人間を指しているわけではない。人間全般のことである。ただし、

本論において述べている芸術家は、実験の過程からわかるように、この実験の趣旨に最も そった人間であると言える。人間にとって真理は、そう易々と見出されるものではない。

と言うよりも、見出すことができないまま生涯を終える人間の方が多くいることだろう。

また、真理の価値や尺度も千差万別であり、普遍的で絶対的な真理、例えば人間は生きて いくものとか、人間は理性的な生き物であるといったものを見出すのは簡単なようで実は 大変に難しいものである。普遍的な真理は意外と身の周りにたくさんあると思われるが、

様々な姿に変わったり、何ものかに覆い隠されたりして明確になっていないことが多くあ る。科学者や哲学者は実証的かつ論理的に真理を探究していく。一方、芸術家は実体験を 基にした精神性を主なものとして真理を探求していく。例えば、カタルシス、時闘の進行、

内面の変遷などの実体験が精神性と連動することによって新たな芸術観が生まれ、それに 基づいた作品を創造していく。真理の球体の解釈はそうしたものを踏まえた上で成り立つ。

これまでの本論における内容と照らし合わせてみると次のようになる。

 真理の球体が落下するに従って、風圧によって真理の核と言うべきものに取り巻いてい るものが取り除かれていくのは、カタルシスの悪循環によって、抵抗のための絶対量の消 費による減少に反比例して無の存在が増加していくことを示している。また、落下速度が 増すほどに真理の核が明確になっていく過程は、時間の進行が純粋で無垢な空間に何より も最初に存在し、進行の軌跡に森羅万象を創造していく唯一無二の存在としての姿を思わ せるものがある。また円周上の進行においては、人間としての賢明さや深さが増加してい くに従って0地点に近づいていくのだが、その0というのは最小という意味の0ではなく、

完結されたポテンシャルの高い0であって、それは存在論を基本とした加算による論理で はなく、マイナスによる論理であり、真理の球体の核に至る過程もまたマイナスによる論 理が根底にある。真理にはその輝きを妨げる多くのものが取り巻き、実体が見えにくくな っている。真理の実体は小さな核として様々な所に身を潜めているように存在しているは ずである。たとえ小さな核であったとしても、それが絶対的で普遍的な真理だという存在 する意味の重要性を考えると、その密度は計り知れないほどの重さを持っているに違いな い。その輝きが見出されるまでの過程は、カタルシスにおける無の存在に至る過程や円周 上の完結した0に至る過程、そして時空問における原初で無垢な空間における時間の進行 がそれぞれ宇宙規模の遠大な過程を経て成されていくことに通じるものがある。真理は人 間の身の周りに存在しているだろうが、それを見出すことの困難さからいうと、けっして 近くに存在しているとは言い難い。カタルシス、時空間、円周上の運動が示すように、き わめて遠くにあり、途切れることのない継続された運動の進行によって見出されるものの ようである。結局、それぞれの運動は真理と言えるものを探求する過程なのではないだろ うか。とすれば、本論でとり上げたこれらの運動を感じさせる芸術家というのは、創造行 為を通して真理の探求をしていた人たちと言えなくもない。ゴヤやレンブラントがこの探 求によって生を全うできたのは、真理の存在が身の周りに実感として感じられたからなの かもしれない。真理とは生きる指標であり、術のことなのだろう。先述したように、美術 という言葉の意味が美しさの術であることからすると、真の創造行為というのは、美しさ の真理を探求することであるということが言えるのではないだろうか。

 真理の球体は落下運動を続けながら鏡に映し出された自分自身の姿が目に入ってくる。

鏡面に近づけば近づくほど、その姿は落下した当初の姿と比べて、何百、何千、おそらく 計り知れないほどの小ささになっているはずである。真理の核の周りには多くのものが取

り巻いていたことによって、その核、つまり主体は隠されていた。これはカタルシスにお ける、外圧と抵抗という悪循環を引き起こすもととなっていた個人的な執着や、また時空 間において、様々な事柄によって規定を受け、時間下存在として点的時間存在となり、真 の創造行為を行なっていない状態を思わせる。結局これらのものは、日常生活の下卑た現 実の歯車の中に巻き込まれたことを示しており、下卑た現実における個人的な執着による

ものであると捉えることができる。

 真理の球体は尚も落下し、長く待ち望んでいた真理の核が明確になっていった。その刻々 の状況は落下地点に置かれている鏡に克明に映し出されており、真理の球体は落下に従っ て変化していく自分自身の姿を明確に見ることができる。鏡は、いわば自分自身を映し出 す媒体であり、位置関係からすると、自己客観視を示しているとも言える。本論に従えば、

落下をしているものは主体であり、鏡に映し出されたものは客体である。こうした状況は カタルシスにおける純粋経験のように見えてくる。 真理の球体は落下直後、核を取り巻 く多くのもの(執着など)によって、真下に置かれた鏡との距離がたとえ大きかったとし ても、不明確ながら見ることはできるはずである。落下し続け、取り巻く多くのものが徐々 に取り除かれていくことによって、真理の球体自体の大きさは小さくなっていく。つまり、

鏡面に映し出された客体が見えにくくなっていくと言うことである。しかし、同時に核の 輝きは落下に従って明確になっていくので、鏡面に映る自分自身の姿、この場合は自分自 身の核である主体が映った客体も明確になっていくと言える。これは円周上の進行におい て、完結された0がポテンシャルの高い0であるとした、一見して矛盾したように思われ ることが、実は明確な整合性を持っていることと通じるものがある。やがて真理の球体は 鏡面に達する。別の言い方をすれば、鏡面に映し出されている真理の球体の客体と真理の 球体の主体である核が接している状態になる。その時、核である主体にはいったい何が見 えていたのであろうか。その状況を厳密に言えば、自分自身である主体と接しながら客体 である自分自身を見ていることになる。その状況をさらに厳密に言えば、主体と客体とが 鏡面という自己客観視をするための媒体を境として接しており、限りなく一体化している 状態にある。おそらく主体と客体との区別が不明確になるほどの状況であろう。従って、

真理の球体は自分自身を取り巻く余計なもの(執着など)が最も取り除かれた時、主客の 区別がなくなった純粋経験が成り立った状況ができ上がったと言うことができる。

 時空間における原初で無垢な空間での創造。円周上での運動における完結された0。真 理の球体の鏡面への落下が書わんとしていることは、西洋における存在論の加算によって

ドキュメント内 簡素な表現がつくる多弁なる空間 (ページ 67-71)