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4. 10 ブッシュ政権との対立

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2001年に米国で誕生したブッシュ政権は、前政権とは異なり、北朝鮮に 対する懐疑心を保持していた。また9月11日の同時多発テロ事件によって、

テロ支援国家としての北朝鮮への風当たりは、益々強いものとなった。ブ ッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、北朝鮮をイラク、イランと ともに「悪の枢軸」と呼ぶこととなった。ブッシュ政権成立後の北朝鮮の 対応に関しては、他の章で詳述されているので、以下のような一部の項目 のみを挙げることとする。

2001年12月22日、九州南西海域で北朝鮮工作船発見。深夜、日本の海上 保安庁巡視船と銃撃戦の結果沈没。2002年6月29日、北朝鮮の警備艇2隻が 領海侵犯し韓国側と銃撃戦。2002年7月、物価体系などの見直しに着手。

同年8月18−19日、平壌で日朝赤十字会談。同年8月25−26日、平壌で日朝 外務省局長級会談。2002年9月17日、小泉首相訪朝、小泉・金正日会談。

その後拉致問題によって日朝関係停滞。

4. 11 おわりに

以上の概観を通して、北朝鮮の経済政策は常に一貫性を欠いたものであ り、他の国家政策によってしばしば変更または消滅を余儀なくされてきた ものであったことが理解できる。北朝鮮における経済政策とは、銃撃戦が 展開される荒海に浮かぶ小舟のような存在であったと表現することができ よう。

但し、1990年代初期の先鋒・羅津に関連した一連の外資導入政策、さら に2002年の物価体系の改訂などの断続的な流れをみると、そこに僅かでは あるが現状を打破しようとする意図を感じ取ることができる。

北朝鮮に求められているのは、その意図を強く国際社会にアピールする ことであり、経済問題を政治、軍事、外交問題などと分離する姿勢を示し、

ともかく一貫した鮮明な経済政策を展開することのように思える。

また経済政策決定の際に生ずる様々なリスクを避けるためには、意志決 定プロセスにおける統計に基づく自由な論議の場が必要であり、そうした 論戦の模様が諸外国に伝達されたとき、北朝鮮の懸念とは逆に、国際社会 はそれを高く評価することも認識すべきであろう。

◆注釈

1904年の日露戦争開始(日本は2月10日に宣戦布告)によって、日本は韓国を「保護国」

とする方針をとり、1904年2月23日に日韓議定書、1904年8月22日に第一次日韓協約、190 5年11月17日に第二次日韓協約を調印した。このとき総督府が設置され、大使であった伊 藤博文(1841年生)が初代総監となった。伊藤はその後韓国の高宗皇帝を譲位(その皇太 子純宗即位)させ、1907年7月24日第3次日韓協約を調印、1909年6月に総監を辞し、10月 26日にハルピン駅頭で安重根によって暗殺された。日本はこの暗殺によって日韓併合を急 ぎ、1910年8月22日、寺内正毅総監と李完用首相によって日韓併合条約が調印され(韓国 は朝鮮へと名称変更)、第二次大戦の終結まで日本の支配が続いた。

北朝鮮では金日成氏の生誕を1912年4月15日として、この年を主体元年、この生誕日を太 陽節としている。実際に同氏が登場したのは1945年10月の革命大会における司会役として のそれであり、その後、党副委員長、朝鮮民主民族統一戦線議長等を歴任し、1948年9月の 共和国成立後、初代首相となった。1950年朝鮮戦争に際し、軍事委員会委員長・人民軍総 司令官に就任し、1953年に元帥となり、1972年、国家主席、1994年の逝去までその地位に あった。

ちなみに1958年9月27日には、中国人民志願軍が北朝鮮からの第6次撤退を開始している。

また1960年10月13日には中国と北朝鮮との間で、長期借款協定(4億2000万ルーブル)が 調印されている。

この背景には朝鮮戦争休戦協定締結の約4ヶ月前の1953年3月5日にスターリンが死去し、1 956年2月14日のソ連共産党第20回大会において、フルシチョフによるスターリン批判が行 われ、これに対して毛沢東などが危機感を募らせたたこと、また1962年のキューバ危機を 経て1964年10月15日にフルシチョフを解任して第一副主席となったブレジネフの新体制下 においてもスターリン批判の論調は代わらなかったこと等の要因があった。なおこうした 背景の中で、1958年11月21日に中国・北ベトナム訪問に出発した金日成氏が、11月25日に 毛沢東と会談、また帰国時の12月6日に再び毛沢東と会談している。さらに1961年7月10日 には、7月6日のソ連・北朝鮮友好協力相互援助条約締結を受けて金日成氏が再び訪朝し、

毛沢東と会談している。

李承晩氏は1875年3月26日黄海道平山に生れ、渡米後、1905年にワシントン大学卒。1919 年大韓民国臨時政府(在上海)国務総理、1945年帰国後、1948年に大韓民国成立とともに 初代大統領。1960年のハワイ亡命までその地位にあった。1965年7月19日ホノルルで死去。

朴正煕氏の略歴は以下のようなものである。1917年9月30日慶尚北道亀尾に生れる。1937 年大邱師範学校を卒業後小学校教師。1942満州国新京軍官学校卒業後、少尉として日本陸 軍士官学校に留学し、1944年卒業後関東軍に入る。1946年5月帰国後、同年警備士官学校を 卒業し、陸軍情報局第一課長、第五師団長を経て1953年陸軍少将。1961年5月のクーデター を指導し、7月に国家再建最高会議議長、11月大将。1962年、李承晩の後任であった尹大統 領を辞任させ、大統領代行、1963年に民主共和党総裁を経て12月に大統領就任。1974年8 月15日の暗殺未遂事件によって夫人死亡。1979年10月26日金戴圭KCIA部長により殺害。

1969年12月13日乗員82名釈放。

中国最初の原子炉が正式に始動したのは1958年9月27日であるが、その後の中ソ関係悪化 から原爆製造にはフランスからの秘密支援があったものと見られている。また中国は1967 年8月17日には最初の水爆実験に成功している。

例えば1968年8月20日にはソ連東欧軍のチェコ侵入事件、また1969年3月2日及び15日には ウスリー江ダマンスキー島における中ソ両軍の武力衝突が発生している。さらに中国も、1 959年8月25日の中印国境における最初の武力衝突後、1962年7月21日にも同様の武力衝突 が起こるなど(11月21日に中国が一方的停戦を声明)、対インド関係、また対台湾関係など の問題を抱えていた。

10 ちなみに1970年3月31日には日本航空の「よど号」が日本の赤軍派にハイジャックされる 事件が発生している。

11 また同年6月8日には人民日報が論評を載せ、米国の情報収集鑑の北朝鮮領海侵犯に対して

「朝鮮人民に対する米帝国主義の重大な軍事的挑発」と非難している。

12 6月24日には中国党代表団が平壌を訪問。

13 当時水面下では中米関係打開の試みが展開されていた。例えば1971年7月1日にはキッシン ジャー大統領補佐官が秘密訪中し同月15日には中米同時の「ニクソン訪中(1972年)」に関 する政府発表が行われている。

14 林彪による毛沢東暗殺計画が失敗し、モンゴル領内で林彪を乗せた中国機墜落した事件を 意味する。ちなみに、この事件直後の10月26日には中国の国連参加が、翌年の1972年10月 21日にはニクソン訪中が実現している。また林彪事件以後、四人組の権力が増大して周恩 来追い落としのための批林批孔運動が展開されることになる。

15 1972年12月28日には金日成が新憲法により国家主席に就任。また1973年8月8日には金大 中氏に対するKCIAによる東京誘拐事件発生している。

16 さらに1973年9月6日中国軍事代表団訪朝、9月9日人民日報社説「輝かしい戦いの歴程ム北 朝鮮建国二五周年を祝う」の掲載、1974年11月28日人民日報評論「米軍は南朝鮮から撤退 せよ」などの動きがある。

17 1976年4月5日天安門広場において周恩来を悼む花輪撤去に反対する民衆と公安が衝突し た。第一の天安門事件である。

18 この直後の10月3日にはï小平氏が来日している。

19 但し南侵の動きがまったく消滅したわけではない。例えば1974年11月15日に軍事境界地区 において北からのトンネルが発見され緊張が高まったという経緯もある。

20 当時米国は嘉手納基地よりB52を発進させDMZ  沿いに示威行動をとった。このとき、初めて 金日成氏は西側に対して「遺憾の意」を表明し、これによって事態は沈静化したのである。

21 北朝鮮は事件への関与を否定。しかし北朝鮮の「犯人」がビルマで逮捕されている。

22 金日成氏との特別な友好関係にあったルーマニアのチャウシェスク大統領は1989年12月23 日に処刑されている。

23 第一の天安門事件とは前述の1976年4月の争乱のことである。

24 この結果、韓国・中華民国との外交関係は断絶し、その後「最高水準の非公式関係」へと 推移した。

25 軽水炉協定の調印は1995年12月。1997年3月起工式。軽水炉供給の主契約者は韓国電力公 社。それは北朝鮮によるIAEAの査察拒否などによって順調に推移したわけではなかったが、

その後第1号基を2008年、第2号基を2009年各々完工とする道筋がつけられることとなった。

26 この時再会された米朝高官協議第三ラウンドも中断され、再開したのは8月15日のことであ った。

27 金正日氏に関する北朝鮮公表の経歴とは以下のようなものである。1942年2月16日白頭山

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