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婁甜 馬立龍雄編・発行;前掲書13頁
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グ什 u1.注)下線部 は,運動巌会チームが
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亘地工 負け越したチーム
いえよう。
最後に.参考までに日本運動臨会時代からの主要な成績を示すと上言己のようで
ある、
確かに早稲田夫学,稲門クラプ,明治夫学,大毎,満鉄,大違実業といった当 時,人気もあり,一流の実カをもったチームには負け越しているが.原山芳三郎 民による目本,宝塚両運動協会の全成績表によれば,次頁のように467試合中 322勝131敗14分,勝率6割9分9厘とかなりの高勝率をあげている。(尚,現在 の引分けも含めた勝率言十算では7割1分1屋となる。)
以上.目本運動協会チームの野球イデオロギーをまとめてみると.その特徴は まず,彼ら関係者が,真のプロフユッショナル野球の第1をその精神に求め,体 カ.学カ.人格の全てにおいて世闇から非難されない選手を採用しようとすると
ころに現われている。そして.それは,合宿生活におけるストイックな規律の童 視や,練習第1の精神野球の強調一いわば,修養・鍛練主義的な武士道的精神
の高揚一一に具現化されていくのである。
したがって,河野らのめざしたプロ野球構想は.まず第1に,これまでの野球 信条,イデ才ロギーのうち,特に修養・鍛練主義を基調としてきらに技術の高度 化をめざしながらナショナリズム的勝利を志向しようとする従来の武士道的精神 を基盤とするイデオロギーと何ら変わるところがなく,それをさらに先鏡化きせ たものといえる、その一方で.会費制によるクラブ運営の一環としてプロ・チー ムを結成している事実は,先述したように確かに西欧合理的な経済的イデ才ロ ギーの内面化として受け止められる。しかし,それは前者のイデオロギーを超越
しているとはいえず,一したがって経営としてプロ野球をどう制度化させていくの
No.132
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Nα 133 カ㍉経爵制度の下位体系としてどのように資本を運用しその採算の見込みはある のか,組織としてどのようなプロ・チームの違合体(リーグ)を結成していくの か等,といったプロ野球制度成立のための具体的な今後の発展的構想と言十画は何 もないのである、いわば.彼らのブロ・チーム結成に関するイデオロギーは,野 球における金銭拒否の名誉観を完全に払拭して,1チームの経営に関する限りに おいてそのイデオロギーを如何なく具体化しているものの,より積極的なプロ野 球制度とその経営を実現しうる外的基・盤(企業体,親会杜の介入)をもち得てい なかりた,あるいはもとうとしなかったがためにその限界を示したということで あろう。昭和4年7月31目.日本運動協会チームから引き続き宝塚協会チームの 監督を務めた河野安通志は,その解散にあたり,次のようなあいさつをしている が,それは,目本運動協会チーム(宝塚協会チーム)がめざした「精神の野球」
r 質素倹約.金銭拒香の名誉観を超越しながらも.経済制度の下位体系として成 立し得なかった魂の野球」そのものを言い当てているように思われる与すなわち,
r 運動協会は解散となりました。芝浦時代から宝塚時代を運じて十年闇に,面自 い事もあり苦労もありました。然し協会が野球団体であると同時に精神団体で あった事は,よし世闇の人は認めてくれなくとも自分は満足です台単なる野球団 体ならば解散と同時に消滅して何物も残らないであらうが,私共の団体は野球の 団体としては消滅しても精神の団体としては自然残在します。… (中略)… 精神 なき野球団体として残在せんより,野球としての団体は消滅するも,精神に生き 216)注68)
る事こそ人闇としての道でありませう」 と。
つまり.純粋な武士道的精神の実現=ブロフェッシヲナリズムの確立と受け止 められていたが故に,目本運動協会チームの成立形態は従来の野球制度からの自 然成長的な発達とその改革をめざした形態をとったといえるのである。そこに自 ずと他の経済的秩序の介入を許さず.それを目的化しない体質が露呈されてし まったといえよう。この精神の重視は、大正13年1月に日本運動協会チームがそ の母体であるクラブと共に解散し.鉄道会杜である阪急が社主小林一三の構想に よって,このチームをその翌年宝塚協会チームとして再出発させる際.河野がこ れまでのチームの理想を貫き通せることを条件にして移行を承諾したという事実 2主7)
によってもまた証明される。 しかし,いずれにせよ,この時期において野球関
附134 係者自らが,その純粋な理想の実現のためにプロ・チームを結成した意義は,彼
らのプロ野球受け入れの内的契機として歴史的画期をなしたことは疑いえないと ころである。
② 天勝野球団の場合
これまで述べてきたような目本運動協会チームの野球イデオロギーとは根本的 に異なっているのが.大正10年2月同じくプロ・チームとして天勝野球団が結 成された。天勝野球部員,鶴芳生は野球団発足の事情について次のように語る。
言わく,r 松旭齋天勝は大に感ずる所有りて昨年二月(筆者注;大正10年2月)
チームを作り奮慶鷹選手小野氏のコーチの下に熱心なる練習を開始致しました。
當時横濱にて興業中殊に書夜二回の興業にも係わらず,選手は毎朝八時より公園 グランドにて熱心に小野氏よりコーチを受けた甲斐あって技爾はメキメキ上達し 218)
て各選手の鼻息の荒いのには大に驚きました。」 と。r 旧慶応選手小野氏」とは,
慶応大学の往年の名投手小野三千磨のことであり,この後大毎野球団の工一スと して活躍したり,毎目新聞運動部記者として健筆をふるい、都市対抗野球の育て の親と言われた,その人である。このチームのメンバーは,「前慶鷹の永岡君,前 219)
法政の朝井君,オール呉の脇坂君」 「明大先輩からは中澤君を入れ.・… ・・(申 賂)… (法政)現役田中君を呼び,更らに慶大先輩からは鈴木君を招いて,之に 現役の濱野君を抜き來り,巨漢青山を相撲チームから抜擢して陣容の整備はオサ 220)
才サ大毎に次ぐ粒揃ひであ」 ったという、その当時の六大学における有カ選手 を多数集め,有名コーチをつけた天勝野球団は,目本ばかりでなく満州・朝鮮に 以1)
おいても天勝一座の興業とともに華々しい試合ぶりを披露したという。
すなわち,このチームは奇術の松旭斎天勝一座付のそれであり,各大学出身の 有名選手を集め.各地の興業先でその宣伝と人気を高めるために試合を行ってい るのである。r 松旭齋天勝は大に感ずる所有りて」という,このプロ・チーム結成 の動機について,二代目天勝の夫,申井繁氏は,r 野球部をつくったのは初代天勝 の夫,野呂辰之助で,興業先で地元のチームと試合をして大いに宣伝しようとい ㎜)
うねらいでした」 と明確に天勝野球団の目的を語っている。このイデ才ロギー は,天勝一座という経済制度の内に組み込まれた組織カ、野球制度の有するシン
㎞135 ボル的要素をまさにその経済目的のために手段化し,利用した最も典型的な実例 I といえるであろう。もっとも,「各商店又は舎杜等にてチームを有せざるはなき有
様です。演塾界にても河合一派の梅島主將のビーマ倶楽部を始めとして根岸興業 部五九郎村田榮子一派等各派チームを有して巡業申各地に轄戦して,大に氣燭を 吐いて居ります。申には夜の興業よりボールに於て人氣を得て居るチームも有る 223)
様です。」 と述ぺられているように,このような宣伝のための野球チームはこ の時期盛んに結成されていたようである。天勝一座の野呂辰之助も,その辺を考 224)
慮して有名選手による野球チームを作ろうと思いたったのである。
しかし,そのような経済的イデ才ロギーに対し.実際にプレーをしていた選手,
あるいはヲーチ等の意識や信念はどのようなものであったろうか。先述した天勝
.野球部員.鶴芳生は,「尚チームは他の同業者闇に於けるチームと異り,廣告本意 のチームでは有りません。ミカド歌劇團及び未來派等にては某女優にユニフォー ムを着せて右翼に立たせ大に人氣を呼び,又彼女をして入場券を責らしむるが如 き事をなせし為めに.吾がチームも同一硯され大に困却致した事も有ります。商
ママ 1 225)
買と野球の試合は別問題です」 といい,決して自分たちの野球が広告本意の チームではなく.商売と野球の試合は別問題,すなわち宣伝の具となる試合はし ていないと強く主張する。また,大正12年当時天勝野球団の主将であり,先に コーチも行っていた鈴木関太郎は,r 今の所我々は.野球以外に仕事がありませ 226)
ん。プロフェッショナルを標梼して立ったのです。」 と言いながらも,「プロ フェッショナルチームではありますが,精神に於いては,學生チームと少しもか はりはありません。野球道の精神を尊童して.飽く迄球界の健全なる駿逢に貢厳 227)
したいと考へます」 と述ぺ.プロフェッショナル=野球道の精神と捉え,日本 運動協会チームと同様な野球イデオロギーを主張するのである。では.なぜ天勝 一座付の野球団でなければならぬのか。鈴未が「私が天勝野球團へ加入したに就
ママ 228)
いて.一部の闇に批難もあるやうに聴きます」 と述べたように,世間のプロ野 球に対する偏見を承知の上で,なぜ大学出身の選手が多数集まってきたのか。そ の回答は,申井氏がインタビューに答えていわく.「金(カネ)」の問題であった ようである。野呂辰之助は.第1次世界大戦後における大正末期の不景気で就職 229)
難の時代に高給で大学出の選手を誘い,駆り集めたというのである。