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2.野球信条,イデオロギーの変遷

(1)移入期(明治5年〜明治14年頃)

 明治初期に目本に移人された野球は,最初,H.一ウィルソン,思H.マジェット.

Aべ一ツ,O.P.ペンハーローらのお雇い外人教師の積極的で熱心な勧めにより 行われたものであった。坪井玄道が『戸外遊戯法』の『序』において.「我カ邦二        31)

在リテハ國戯ノ稻ヲ憤スヘキモノ益之ナシト言ヒテ可ランー・・(後略)一・・」

と述ぺているように,彼ら外人の勧めによる戸外の遊戯の紹介があるまで,一般 に明治初期の学生は,戸外でのスポーツに類するような身体活動を知らなかった ようである。

 野球の音及ルートについては,上言己のお雇い外人が持ってきて開成校なり開拓 使仮学校で音及させたルートの他に,アメリカヘ留学していた平岡煕らが野球を 持ち帰り,それが目本の指導者階級,あるいは旧夫名へ普及させたルートもある。

また■ ,地方への音及については,体操伝習所の学生たちカ埣業と同時に地方へ体        32)

操教師として赴任し,その土地の生徒たちに伝えたのが始まりであろう。 いず れにせよ,初期に野球を伝えられた人々は,それを行うこと自体が楽しくてたま らず,また学生にあっては余暇をすごすための活動として,野球や他のスポーツ も取り入れていったようである。

 それは,開拓使仮学校の生徒たちが,大切な1個しかないボールを塀の外に打 ち出してしまい,「これは大変と打ち上げた当人も競技中の生徒達も大あわて,

(校則を無視して)一同塀を躍り越え,血眼でくさむらを探し廻り.漸く球を見       33)

つけ出して歓呼の声をあげ」 て再び野球に熱中したというところからもうかが える。要するに,彼らは,何とかボールを見つけ出して野球をやりたくてたまら なかったということなのであろう。当時の貴童な野球用具(ボール)は,疑いも なく,彼ら学生にとっては大切な遊具として機能していたのである。また,鯨 外国語学校の生徒達が,垣根越しに開成学校の野球を見て羨ましくてたまらず,

彼らの野球を見よう見真似で行ったのはよいが,道具(ボール.バット)がない のでボールを作るために靴屋に依頼したり.自分たちで工夫してバットを作った

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       晦74 あったが,「それでも当時はハイカラで通り,一同得意満面としていたものだ」と

 、 37)

いっ。 ま本.横浜の外人補手がマスクをつけているのを見て.自らのプライド と体面を保つためにはそれが何とも欲しくてたまらず,撃剣の一番上等なもの

(当時の価格で1円)を加工して作ってもらい.早々に得意満面で使い始めたと いうことや,38)カーブと称する魔球を投げられるのは自分だげだと誇り,その投 球法は野球の深奥を極めた時に初めてできるのであって.まさに捨身の一球なの       39)

だと自負し.有頂天になっていたこと等は, ひとえに平岡の好球人としてのプ ライド,あるいはブライドの対象として野球を位置づけていたことの現れであろ う。きらに,明治15年になって新橋クラプは.晶川八つ山車庫にグランドを新設        蜘)

してこれを「保健場(r e㏄eat i onp鮒k)」と名付けたが, このネーミングにもハ イカラの風を好むそg当時の人々の考え方が反映しているといえるだろう。しか

し,ここで注目すぺきは,・このグランドの纏痔や用具調達のためにr 新橋ニシテ ーヶ月ノ舎費一圓ニシテ球場ハ土曜毎二ろ一るヲ施シ球棒面胴等悉ク米國製ヲ用       41)

ヒタリト云フ」 との言己述があることである。1ヶ月の会費1円といえば.当時       注24)

(明治15年)の米1升あたりの値段が9銭 であることから考えてみても.相 当な経済的負担といえるだろう。しかし,逆に考えれば.このような経済的負担に        ほど

酎え,それを野球のために費やすことができる程.富裕な人々がその担い手であっ たということであり,そこには自已負担の経済灼原則が働いていたといえよう。

 さらに,新橋クラブに運れて(明治13年).三田にヘリクレス・クラブが誕生 したが,その盟主である徳川達孝伯も相当な凝.り性で、ハイカラ好みだったよう である。例えば,チーム名をつける際,先の新橋アスレチックス・クラブの「ア スレチックス」というニックネームを意識して,これより遥かに高級なニック ネームとして「ヘリクレス」と命名させたり,バットに凝って檜と朴の木をない 交ぜたバットや柾目の美しい桐の軽いバットをわざわざ作らせたりという具合で ある。もっともこの桐のバットは,実戦には不同きで一度打ったら手元から折れ てしまい,彼の方もすっかり失望してしまったというエピソード が残ってい

 ψ )

る。 また,彼は,自らの邸宅の庭園内に築山や泉水をわざわざ壌して数千坪の 広い運動場を設け,倶楽部員のユニフォームを赤と青の2色に制定し,試合に 至っては見物人が少ないと張合いがないので,ある時は茶菓を饗するという条件

       ㎞75        43)

付きで見物人を駆り集めたということである。 まさに.ここに至って「外見だ        榊)

けは立派なプライドBas eba11はその極地に達」 したといえるであろう.

 このように,明治初期に野球を受け入れた人々は.学生であれ。杜会人であれ.

その当時の形態的西欧化の風潮を背景に.ものめずらしさや西欧のものなら何で もやってみようという進取の精神から野球を行っていたようである.

 そこには.素朴な楽しさがあり.夢申になって野球を行うことに対する罪悪感 はあまりみられない.それどころか.彼らにとって野球を行っているという事実 は.彼らの見栄や誇りを高め.ハイカラを好む気風を助長したと考えられるので、

       蜴)

ある.そのシンボルは.新橋クラブの平岡が勝者に与えたメダル に如実に示さ れている.図皿.一1.に示されるように、このメダルは.野球用具であるバットを

2本交錯させ.その上に帽子とボールをデザインした「甚だ粗末な見る影

図皿.一1.

新橋クラブのメダル

<資料>;引用文献45)に同じ

        狛)

もないメダルであったが.當時これを時計の装飾などにする事」 は.学生達に とって至上の光栄であったという.自已負担の経済的原則に基づいた彼らの野球 は.あくまでその原則の許容する範囲内において,楽しさとハイカラな新奇性と を追求する絶好の対象であったといえよう。

(2)群曜割拠時代(明治15年一明治22年頃)

       注25)

群雄割拠時代における主なチームは,下言己の通りである。

<明治15.16年以前からのチーム>

・東京夫学チーム  。東京夫学予備門チーム

・新橋アスレチックス・クラブ(明治20年平岡煕の辞職.明治23年解散)

・徳川ヘリクレス・クラブ  。横浜や築地の外人チーム

<明治L5年頃>

・駒場農学校チーム

      附76

<同16年>

・工部大学べ一スボール会 く同17年>

。慶応義塾クラブ(明治21年三田べ一スボール・クラプとなる)

<同18年>

・白金クラブ(後の明治学院大学の前身である波羅夫学の同好会)

・青山英語学校(後の青山学院)の同好会

。東京大学法学部べ一スボール会

・立教夫学(築地時代)の同好会であるセントポール・クラブ

。溜池クラプ(明治20年頃赤坂クラブと東京クラブに分派).

く同21年>

。第一高等中学校べ一スボール会(工部大学と東夫法学部の両べ一スボール会の  違合より成る)

<同21年頃>

。東京商業学校(後の商夫)チーム

 これらのチームは,いずれも学枝の公的な組織とは無関係に結成された自主的 なチームであり,野球に興味を同じくする者たちが自然と集まってできた,いわ ば同好全形式のチームであった。すなわち.「唯一のパーティーとなって心から相 楽しむだけ,語を換えていえば,心の底にマークを飾っていたとでもいうか,

       47)

ボールを通していつしか刎頸の交わり」 を深めていくというような,好球人に よる同好の集団であったといってよいナε ろう。明治20隼.新橋クラプの平岡煕が その職を辞すると,それまで盟主の地位にあった同クラブの勢カは我然地に墜 ち,クラプ・チームと学技チームがそのメンバーを互いに補充し.兼任しながら        48)

試合を進めていくことになる。

       注26)

 その中で,明治18年に生まれた溜池クラプは, 次第にその勢力を伸ばし,

その練習ぶりはr 忽ち皆がその人敷によって部署についてノックの球を取った り,又代り代り打つ。そして一渡りやると手桶の側へ來て柄杓から一杯づつ水を 飲んで語り合ふ。それが何度も繰返されて水がなくなると… … (中略)… … 多い

       晦77 目には手桶の水を十杯も取換へて飲んだ位である。そして集まれば毎目黄昏る㌧

         49)

頃まで熱心にやった」 ように,他チームとの競争心を募らせていったのである。

そして,r 全市の各學校チームと溜池倶楽部は,暫らく相封時して戦雲頻りに動い た。職はん哉機熟する集』さうした言葉が誰云ふとなく起る。練習は猛烈になり 人員は加はる、『好敵來れよ』溜池倶樂部生れて半歳後には雄飛の第一場面が展開       50)

されんとした」 のである。

 溜池クラプは,また前時代の新橋クラプや徳川ヘリクレス・クラプ同榛「非常 にハイカラな慮があった。袴で球を止めたり.素足でかけたりするような蟹風.

いや轡風といへばもっと物凄い慮もあった」ようだが.その反面.新橋クラプで 数年間べ一スボールを教わり,商業の主将であった平岡寅之助のように「モダン で貴公子」と呼ばれ,「球の投げ方や受け方などについては彼自らコーチとなって        5L)

教へ,バットの振り方などはなかなか喧しかった」人もいたようである。 この ように,この当時の野球の担い手たちの挙動は,夫きく「バンカラ風とハイカラ 風」の2つのタイプに分けられるようであるが.いずれにしてもそこに共通する 意識は,べ一スボールに対する熱意と技量の誇示,そしてプライド意識であっ

 52)

た。

 しかし,この頃から次第に同じハイカラでも.前者の意味での轡風がチーム同 士の競争の激しさと相挨って目立つようになってくる。例えば,学校チームで r 技偏があって戦闘的精神が横濃してゐた」駒場農学校には.町田一平氏がいた が.彼はその頃r 剛情我漫の士で素面素小手でデレクトキャッチをやって驚かし          53)

た」といわれている。 そして,このような轡風の性格は..時を移して中等学校や 高等学佼にも伝播し,野球の気風あるいは野球人の気骨として定着していくこ とになる。例えば.「明治三十二年五月二十七目自此谷の原に東京府立申学校対域 北中学校の野球試合ありしが、当目の審判者殿、片靴片下駄の御服装にて宛然内 地雑居の乞食の子を思はしむ。その心又然り一・・」と審判の服装の乱暴さを物 語っており,審判でさえそのような気風に染まっていたことがうかがえる。また,

選手についてもr 当時の申学校の野球をやる違申の扮装ときたら,とても物すご いものカミあった。ユニフォームなどは思いも及ばず白シャツに猿又を着けてい るのさえごく少数で実に傍若無人であった。草軽1ばきで操鉢巻きの捕手があるか

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