Nα 186 このように,日清戦争をも含めて日露戦争後,新聞の報道機関としての重要性 への認識は高まり,それと同時に企業化された新聞は,新たな読者層の開拓に積 極的に取り組むようになる。また,これと並行して戦後の好況が国民所得の増加 と結びつき.広い読者層を獲得するための経済的基礎を形成した。さらに,この 経済的基礎が読者の新聞に対する定着率を高め,発行部数を安定させることにも 寄与した。したがって,この頃から新聞各杜は.売れる新聞づくりへの体制を整 えるべくその認識を新たにし,事業体として他杜との激烈なる読者獲得合戦,販 売部数の拡張競争を演じるようになるのである。読売新聞杜が,その販売部数拡 張を企図して野球制度に介人しようとしたその企業的繭芽が,この頃から新聞杜 全体の傾向としてみられたということである台それは,明治34年(1901).新聞 杜として初めて「不忍池一周長距離競争」を時事新報杜が主催したこと.それに 刺激されて机同年12月15日に大阪毎日新聞杜が「堺大浜闇百口里競争」を主 催し.以後ますます新聞杜主魁後援によるスポーツ事業が盛んにな二たことか
10)
らも例示きれる。
④第1次大戦(1914−17)後の新聞の性格と新聞社
目露戦争を境にして次第に企業化の道を歩んできた新聞は,第1次大戦によっ てますますその優向を先鏡化させ.特に大阪ではr 大阪朝目」「大阪毎目」の両紙 が,その発展のために好都合であった大戦の報道戦へ借しげもなく資本を投ずる 結果となった。なかでもr 大阪朝目」は.豊富な資本力にものをいわせて「大阪 毎目」を圧倒しようとした。
その後も目本の新聞のうち.特に大阪の両紙は.報道と販売の両方面において 猛烈な競争を繰り返しつつ次第に発展し,大正の中期には経営形態を一般企業と 同様に近代企業組織に改めた。すなわち,r 大阪毎日」は大正7年(1918)に,r 大 阪朝目」はその翌8年に,ともに従来の合資組織を株式会杜組織に改めたのであ る。この間,両者は夕刊を発行したり,声価を高め販売拡張を支援するための事 業部(または企画部)を新設したりしている。また,発行部数の増加に対応して 印刷設備や各種施設の近代化が必要となり,広大なる杜屋を新築するとともに,
その紙上で販売部数を誇示して競争意識を煽っ松
晦187 加えて,第1次夫戦後の好景気により.一般に新聞の収入も増加したことから 新聞に対する投資を危険視する傾向も薄らぎ,そのため増資の便宜を有する新聞 杜は,皆、大阪の両者に追随して資本を増額した。このように目本の新聞界は.
この頃に至って夫量生産を目標とする組織化された.機械化された企業となった のである。この当時(大正中期以後)における春名な新聞杜の増資組織変更と資 本金の変化は,表W.一6.に示す通りである。
表W F6.夫正申期以後における主な新聞杜の増資組織の変更注)
報
時
朝
新
申
都
毎
名 知
專
日
愛 知
外
目
古 屋
大 正 7 年 匿 名 組 合
10 (合資 60 (合資 20 (合資 10 (株式
個人経當
50 (合資)
個 人経 當
大 正15.年 110 株式
450 400
85
150 135 500
60
〃
〃
〆I
〃
注)資本金の単位は万
く資料>小野秀雄;前掲書,94頁
この結果.新聞社闇の販売競争はますます激化し,遂に夫正12年(1923)9月 1目の関東大震災以降.大阪系紙が東京に進出してくるまでになった、震災の影 響による資本の弱体化とそれに輪をかけたような夫阪系紙の進出により..在来の 東京の新聞はそれに抵抗すべくさらに販売拡張に熱を入れ始めた。しかし.販売 店の実体は大阪系紙である「東京朝目」「東京目目」を主カとするそれが完全に主 導権を握り.大正時代におけるr 東朝」「報知」「国民」「時事」「東目」の五杜会 は解消して,この2社が東京の新聞販売界を牛耳るようにな二。たのである。この
附188 ような東京の新聞界にあって.経営難に陥った「読売」の経営に大正13年(1924)
着手したのが元警務部長正カ松太郎であった。
このように,正カが就任した読売新聞は.この当時すでに大阪系2紙の進出の 中にあって存亡の危機に瀕しており,商業新聞として絶対的な販売部数の拡張を 行うことによりその杜の再建を期する必要に追られていたといえるのである。
(2)営利的企業組織としての新聞杜と従来の野球制度との関違
新聞杜が政論新聞.政党機関紙から杜説,論説中心の政治新聞へ,そして.さ らに合資組織から株式会杜組織への経営組織的な経済発展的転換を図りながら.
次第に独立した経済的組織へと自立していく経過は既述の通りであるが,この売 れる新聞作りをめざした経営的企業組織としての新聞杜は読売新聞杜の例に限ら ず,あらゆるスポーツの制度内的シンボル局面及びその要素を利用しようとす る。ここでは特に野球制度のそれと新聞杜との関違を歴吏的推移の中にみなが ら,新聞杜と野球の結びつきが構造的な制度的相互違関関係として規定しうるこ とを例証してみよう。
まず,東京朝目新聞が明治44年に「野球と其害毒」という記事によって野球害 毒論争を巻き起こしたのは先述した通りであるが,その舌の根も乾かぬ大正4 年,同系列大阪朝目新聞杜によって第1回全国申等学校優勝大会が開催きれてい
る。もっともこの矛盾に対して,朝日新聞杜は「運動競技界における最も必要な ことは.よき鞭捷であり,監視であり.更によき指導である… … (申酪)… … 明 治末年から大正の初頭にかけて,目ざましき勃興の機運に向ひっ\あったわが運 動競技界の實状に鑑み,我が杜が事實の報道といふ在來の新闘使命から一歩を進 めて,積極的に各種の競技舎を自ら言十書し又は後援するやうになったのも,この 工1)
精神から出霞したものに外ならぬ」 と述べ,野球の害毒の「事実報道」から一歩 進んでよき鞭達者.よき監視者,よき指導者として新聞(自杜)が.実際的にそ の浄化に努めるために大会を主催するのだと説いている、したがって,この全国 大会は,「技よりも寧ろ精神を主として進むべき學生野球の眞債を護揮せしめん し2)
と企てた」 のであり,r 一般青少年の肉髄的健康と精神的健全とを併せて獲得す 13)
る一づの重要なる基礎的訓練の方法であると信じ」 られたのである。