・・艦見.、、大
・鱗習菱.
貫選 9。
;月 1 曽:ζ 、r 30 工寸→ 目
・嬢夕
二協婁集.1
盾果.、、∵・;
Nα 127 2.なるべく兵役関係のない者。
3.学力は厳格な基準はないがまず中等教育程度。
4.健康,人格,技量の3点を吟味の上.15人を見習いとして採用する。
5.1年間の練習後.合格した者を本選手とする。
6.見習い中は食費のほかに月15円の手当を支給。
7.本選手は初任給50円から100円とし.成績により増給する。尚,本選手に は恩給制度の設けあり弓
8.試合の際成績優秀なる者には賞与を与える。また職務の為に負傷又は疾病 した者は、見習,本選手を闇わず臨会がその治療費を負担する。
9.選手のうち尚勉学の志ある者に対して選手としての義務を行一ξ 二に差支えな き時闇.適当な学校に通学する自由を得せしむ。
1α 特に人格,学術,技禰共非凡なるものは学費を支給して勉学せしめる。
協会関係者は、この時すでに賞与はもちろんのこと,公傷に対する補償から現在 のプロ野球の年金制度に当たる恩給制度まで考えていたことが理解できる、ま た,技術の他に人格や学カを相当重視し,その力量を伸ばすために学校まで行く
ことを許可している。
協会チームの監督であった河野安通志は.チーム編成の経過とその考え方につ いて.まず野球の技術より先に,願書の書き方や河野らに対する応対ぶり,口の きき方を重視したという白いわく,r 世闇に名乗って出て恥かしくない,撃歴もあ 197)
り,人格に於ても申分なく.そして,優秀な技偏を具備した選手」 を採用しよ うとしたのである。その考え方は,具体的には「饅格は,言、ξ 、迄もなく.撃力程 度に及んでも,一見する履歴書さへ満足に書き得ないやうな者では,勿論,それ だけで,資格はない,文字は立派に書いても.其人と封話して見て意外に駄目な こともあり得るし,以上は誠に無難であっても,肝心の技が零であっては,全然 腰ずることも不可能になる次第であるから.申込者には.一々事務所に來て貫っ 198)
て.面舎もし,話しもして見る」 という採用経過の申に見い出すことができる。
また、彼は別のところで「物質上の問題は極めて些細なることで… (中略)… 所 謂興行的にプロフェッショナル根性になり勝ちの淳薄を讐めて,我國の職薬野球 團は,斯くの如き立派なるものであると.寧ろ吾に習ひ,他を改めさする程の構
Nα 128 威があるものをば,球界に名乗らしめないならば,凡ては徒勢に録して,且つ,
199)
一般球界のファンが期待にも叛かねばならない破目となるのである」 と述べ,
技術的にはもちろん,人格的にも球界に模範となるようなチームをつくらなけれ ばブロ球団の前途はないと主張するのである。
このような.いわゆる「興業的プロ」根性を排し。精神的にも技術的にも日本 の球界をリードするのが真の「ブロフェッショナル」だと認識する協会関係者の イデ才ロギーは,選手募集時ばかりでなく、見習い研修時の合宿生活においても,
より一層明確に現われることになる。日本運動倶楽部ハウスにおいて行われた合 200)注63)
唐生活は次のような内容であったという。
・9:00−11:O O 必ず何らかの読書を義務づけられる。
その他r 野球理論」「野球英語」はもちろんのこと.「簿記」ト般英語」「数学」
「漢文」「言十算」等の学習を行う。
・13:O O −16:O O 運動場における練習
■ … ・マ
キャッチボール.フリーバッティング,フィルヂング,滑り込み等
・20:O O −21:O O ないし22:00夕食後
河野の野球講話13:00−16:00までの野球の練習を除けば.「野球理論」r 野球英語」の他,r 簿 記」「一般英語」「数学」等の勉強の時闇に大半が割り当てられている。しかし.
このような修養・鍛錬は、勉強の方面ばかりではなかった。河野は.「腕は第一に 必要ではあるが,素行が修まらねば.選手としての眞の価値は認め得られな
20王)
い」 として.合宿生活における規律を最大限重視し,まさに「ストイックな合 醐)
宙生活」 を選手に送らせた。すなわち.
〈目常生活のしつけ,礼儀作法を重視し.選手は全員,一週闇交代で,記録衛 生.秩序、警備.応対などの責任を分担させられた。言己録係は.目々の出来事 を日誌に言己して,必ずその目に河野が点検した。衛生係は室内の掃除,病人が 出ればその世誌秩序係は自習時闇の監督,警備係は戸締幸りと火の元の用心,
応対係は来客の取り次ぎなどを担当した。飲酒はもちろん厳禁で.採用時に誓 約書を提出させており,たばこを吸う者も一人だけいたが,闇もなく遂に同化
203)
してやめてしまらた>
Nα 129
というのである。
さらに,河野ら協会関係者の野球のコーチぶりにっいて,協会チームの正捕手 であった片岡勝氏は次のように語っている。「河野先生はとにかく厳格で,こわい 人でした。押川先生は口を開けば精神訓話。r 今の学生野球は堕落して.学校の宣 伝の具になっている。いまに必ずプロ野球の時代がくる。フェアプレイの精神で 努力すれば.将来は明るい。とにかくまじめにやれ』とお説教でした。橋戸先生 は厳格な中にもユーモアがあり『ヒットを打ったらこの米国製のバットをやる 204)
ぞ』というような調子でした」 と。まさに三者三様のコーチぶりで.三者の人 格がよく現われたエピソードであるが.その厳格なコーチぶり,あるいは押川の 訓話などは,日本最初のプロ野球チームのイデオロギー的性格の一端をよく示し
ているものといえよう。
では,実際に集まってきた選手はどうであったのであろうか、先に注釈・資料 58)で示したように,選手の中には大学OBや夫学の現役選手は一人も見あたら 注硝)
ない。それ故に学歴を詐称した例 きえあるようであるが,もし,河野や押川の ような人格者がそれを承知の上で資料として発表したということであれば,世闇 から信用を得て学カ,人格ともに学生野球より優れた選手を養成しようとする彼 らの決意には悲箔なものさえ感じられる。片岡氏がr ゲーム中.しばしばr 商売.
商売』と野次られた。エラーをするとr 月給が下がるぞ』といわれた。あの頃は サーカスのよづにどんなに高度な技術でも,お金をとって興行的に見せるものは 205)
芸人といって皐しんだが,われわれは野球の芸人扱いされた」 と回想するよう 2ひ6)
に,目本人の精神的土壌に巣くう「カネを卑しむ伝統的風土」 はどのような高 柳)
度な技術を発揮しようとr ミ商売人野球4に対する世闇のいわれなき軽蔑」 を惹 起させたのである。このような環境の中にあって河野等は.武士道的修養・鍛練 主義をより一層選手に植えつけようと努カし.それを受けて選手たちも厳しい合 宿生活.行動規律に耐えて.それに応えようとしたのである。しかし、何よりも 208)
選手の意識の根底にあったのは.「好きな野球でメシが食える」 ということと,
当時の武士道的精神野球を体現するプロフェッショナルとしての誇りであっただ ろうと考えられる、協会チーム主将山本栄一郎氏のスクラッブ・プックにある昭 和9年8月24日付読売新聞「目本最初の職業野球團愈よ近く誕生」という見出し
㎞130 への「目本最初の」に対してr ?」をつけ,「正式にわ四番目なり!/」と書き込ん
、注65)、
だ 心境や,大正n年6月の第1回朝鮮.満州遠征における押川清監督のr +
注66)
ヶ条の心得」 をよく守り.そのキビキビした動きが「なるほどこれが職業野球 209)
というものか」と,かの地の人々の人気を博した事実 は,選手たちの職業選手 としてのプライドと必死なまでのがんばりを如実に示すものであろう。
このように,河野.押川ら野球関係者は,米国大リーグの経営を模範とし,正 統なプロ野球チームを結成することによって,武士道的修養・鍛練主義に支えら れた彼らの理想とする運動競技の姿と野球の発展を推進し,内なる経済的イデ才 ロギーを基盤として,それを具現化させようとしたわけだが.歴史的には大正12 年の関東大震災による披災から立ち直ることができず,翌大正13年京阪神急行 注6?)
電鉄株式会杜杜長/ト林一三の好意によって宝塚協会として再出発する。 しか し,その後.昭和4年7月満州遠征を最後として解散のやむなきに至るのである。
その理由は.第一に財政難であるが,その起因は職業チームを拡張するような努 力を試みなかったこと.時代の思想が職業野球化といった方向にまだ指向してい なかったこと.名手がおらず打力に花々しいところがなく,一流チームに勝ち越 210)
すだけの力がなかったこと,等が考えられるようである。
河野も協会チームの財政難については,r 経警方面は.共結果おもはしくなく,
211)
損失に損失を童ね,今後の目先きがつきかねる次第となりました」 と述べ,協 会幹部大村工学士(大村一蔵)も「如何にせん財政状態は面自からず… (中略)
… 協舎解散といふ悲境に至ったのです。河野君.押川君の高遠の理想は破れたの 212)
であります」 とその無念さを語っている。その後の室塚協会チームの失敗は,
213)
チームに対する阪急電鉄幹部の無理解 や,杜長小林一三による他のチームも
21{)
集めた電鉄リーグ構想の失敗 を説くものもあるが,いずれにせよ鉄道会杜と いう経済組織やそれをとりまく経済制度の下位体系として.あるいはその手段と して位置づけられたプロ野球チームにとって「財界の不況は遂に阪急電鐵の大を 2王5)
以てして猶協舎チームを養一3、べき決意と、矛今懐とを捨てしめた」 と言われても 致し方のないところであろう。したがって,この期における目本運動協会チーム 及びその後の宝塚脇会チームの失敗は.プロ野球成立のためにはそれを支える大 きな財政基盤の確立と複数チームによる定期戦が必要であることを示したものと