1レ ニニ三三四五.ヒ喘一州
球
十 十 斗 π亙 十 十 十十 κ
π 五.. π
十 披彼籔鈍鈍鍋旭㈹災
巻末付録1頁一2頁
69)
75銭から3円,バットが20銭から55銭など.明治30年の米1升の値段12銭
注31)
に此べれば,非常に高価なものであったことが理解できる。 しかし.この頃に はまだ野球試合による人場料に上って資金を得ようとする発想はなかったようで ある。例えば.明治25年.三高が同志杜に破れたのを機に,これに激憤した一中 は.同26年京都還征を試みようとしたが.費用の関係で果たせなかったという台 いわくr 當時佼友舎費逼追を告げ,費の出所無きもの㌧如し一・・(申略)・・… ・佼 長は巳に五十圓を校に付し,副ふるに若しべ一スボール部にして遠征の途に上ら
ざる事あらば願はくば校友舎武塾部の急なる者に充てよ… … (中略)… … 此秋十 月二十六日相州鎌倉に愛火演習行はれんとす.道途甚だ遠くして生徒の出費稽重 70)
きに過ぐるを憂、ξ ・,及ち校長の言に依り我が還征費を行軍費に猷ぜしめん」 と。
また,明治29年5月23目に行われた一高初の国際試合である横浜外人チームと
㎞83 の「マッチ」では,大方の予想を翻して29対4と大勝するが,その様子を見て感 激した1人の外国人から寄付金をもらっている。その様子を『向陵誌』は,「一洋 人ありて,白髪雪の如く温顔笑を湛へて來り我がキャプテン井原の手を取りて日
く『今目の事快心に堪えず諸君我國技を修むる斯く深きや」と乃ち刺を運じて金 71)
若干を送らる,洋人名はラルネット氏,吾人の得意想一ξ 河し」 と述べている。こ のような個人の手による直接的な寄付行為は,個人の善意による主体的な行為で あったから,野球ゲームを金銭化するという意識では捉えられず,まして武士遺 的精神における質素倹約の精神に反するという位置づけはされなかったで あろ う。したがって,その後明治29年6月27目.一高が軍艦デトロイト軍を東京の ,72)
一高庭に招いて試合を挙行した際,その見物人の数約1万人となっても ,それ らの人々から入場料を徴収することなど彼らには患いもよらなかったことであっ たろうと推察されるのである。
3)校風の発揚と一高式野球
一その精神的基盤
ところで.校友会の目的は.r 全技の団結と文武にわたる諸技芸を練磨する。つ まり学科諸課程の学習以外に全人闇的修練を志ざすこと,そしてひいては校風を 73)
築きあげるに役立てようという事」 であった。この校風は,競技会を通じて 徐々に醸成されることになる。
明治23年4月に一中は.帝国大学の招待に応じ商業高校とのボートレースを 行ったが,この時寄宿生は一致団結し,勝利を獲得するために選手の後援を行い,
当日は応援に出かけることとなる。これは一中の校風発動の一大機運となり.や がて野球部の対商業校,そして対明治学院戦へと継承されていくのである。「校風
・ ・ ○ ・ ・ ○ ・ つ ○ ● ・ ● . ・ ○ ○ ○ ● . ○ . . ・ ○ . ● ○ ・ ● ● 74)
叢シテ校ハ即チ我家ナリ校名ハ即チ我名ナリ校威一鈷ノ繊塵ヲモ假ス勿レ」 と 言われ,対外試合は学校を代表する野球部の校威発揚の場と考えられるように なったのである、そうした対抗試合は,校名の名誉にかけて争われ.「校風ヲ護穎 75)
スルノ機舎」 と考えられたのである。そして,対抗試合において,一中では寄宿 生を中心とした学生の団結した後援.並びに試合における声援が童要な意味を 注32)
担った。明治23年5月,対明治学院との試合は有名なr インプリー事件」 を
Nα 84 起こした試合であり,途中中止になったとは言え,試合は劣勢であって敗戦と等
●
しいものと考えられた。この後「べ一すぼ一る舎ハ球ヲ弄スルカ為メニ非ラスシ○ ● ● ○ ● ○ つO O O O O ◎ O O O O O O O O O O O O O O ◎ O O ◎ O O O O O O ● ■ ■ ○ ○ ● ■ ○ ● ■ ● ■ ● ● ● ○ ○ ○ ■
テ警勃タル胸中一片ノ氣ヲ球二托シテ外二表示スルノ具トナレリ況ンヤ校友ハ己 二球戯ノ其精神ヲ示スノー法タルニ適セルヲ認メヌ試合ノ錯綜奇正ノ愛アルヲ認 メテ好ンテ是レカ後援ヲナスニ於テハベーすぼ一る舎ハ春風始メテ動テ万斜湧ク
ノ境遇二立テリ而シテ此敗軍ハ正サニ基噴ロニ堤ヲ築ケル者ナリ宏壮堅固克ク基
・ ・ ○ ・ 9 0 ・ . ・ ・ o ● o ○ ・ ○ ○ ● . . ・ ● ・ . . ● ・ ● ○ ○ ○ ○ . 0 76)
源泉ヲ厭スルニ定ルヤ將タ蓄積深蔵遂二堤ヲ破リテ天下二氾濫セントスル乎」
という状態になったのである。すなわち.野球は単なる遊戯ではなく,元気発揚 の一手段であると考えられ.校友も大挙して後援することになり,それは校技へ と進み校風を外に顕現するための手段と考えられるようになったのである。
η ) このように,精神=元気というものが校風と運動とを結ぶ媒介概念となり,
運動の徳育的地位が認められ.野球もその1つに数えられたのである。こうして 野球は,個人主義的あるいは娯楽を身上とするものというより,集団的.精神主 義的なものと考えられ,そこには,また学校のために勝利を得ることに向けて厳 しい練習に酎えなければならないとする勝利至上主義と鍛練主義があらわれてく ることになる。
一中(あるいはその後の一高)の練習ぶりは,獲猛なる練習として名高いカ、
その一端は次に述べる練習風景にうかがうことができるであろう。
「凍雲四方二塞カリ時二飛緩ノ避ルヲ見ルニ窓下二投ケ合ヲ催セハ指頭塾ンテ直 伸セス両掌凍結シテ感畳ナシ第一球受クレバ塔然.聲アリ石ヲ打ツカ如ク痛ノ 伺一ノ邊ニアルヲ知ラス第二球ヲ受クレバ奇痛全身二徹ス両人息ヲ吹テ凍掌ヲ暖 メ三球四球稽掌二熟ス第十球二至リテ投球新ク猛烈トナリ全身新ク生氣アリ第 二十球二至リテハ即チ眞ノ奮圏トナリ満身ノカヲ加フレハ熱球疾キコト矢ノ如 ク身ヲ抽ンデ.是ヲ受クレバ両掌二一種ノ痒味ヲ生ス痒味ヲ生スレハ鉢温已二 上リ全身已二憤熟セルノ徴ナリ何ヲ為シテカ成ラザン受ケテハ返シ返シテハ受 クルニ随ツテ両腋汗ヲ生シ吐息蒸氣ノ如ク初メニハ上衣ヲ脱シ終リニハ… … (申略)… … 人ハ皆外套ヲ纏ペルニ我唯両人ノ裸体ニシテ満身ノ護汗虹二似タ 78)
リ相封スルコトー時闇・・… ・(中略)… … 投け合ニモ復タ仕合ト藩スル者アリ」
すなわち.一高式練習は.まず素手の投げ合いから始まるが,どんなに寒い季節
附85 でも第一球,第二球と投げ合いを続けていくうちに石を打つような痛み.奇痛を 経て,一種の痒味カ畦じ,ついには上衣を脱ぐほど体が暖まって「仕合」とも称 すべき「投げ合い」が!時闇ほど続くというのである。肉体の苦痛に耐え,獲猛 なる練習に耐え抜いて,肉体の鍛練を通じた精神の鍛練が可能であるとする考え 方の表れであろう。「学生野球の父」と呼ばれた飛田穂洲も,後年,一高式野球を ふり返りながら「一高の練習といふのは猛烈といふ二字に養きる。猛烈といふの は練習の事である。… … (申略)… … r 一高の練習とは猛烈といふ事なり』とい ふ定義を飽まで守ることには誰も故障をいふものはない。この精神を失うて一高
の野球が存在すると思ふならば,今の選手は軍に向陵野球部の形骸を護ってゐる
79)
に過ぎない」 とその猛烈な練習ぶりをなっかしみ.評価している。その他.一局 の猛烈な練習ぶりを物語るエピソードは数限りないが.それは常にその背後にあ 注紹)
る一高r 精神」によって支えられていた、
しかし.このような鍛練は.来たるべき勝利の可能性によってのみ自己目的化 されるべきなのであった。かづて一高選手であった申野武二は,次のように述べ 80)
る。 世人はr 勝負は敗けても… … い・から堂々とやれ」などと矛盾極る事を言 うが,「勝負にはどうしても勝たなくてはならぬ。」r 石に噛り付いても敵に打ち勝 つと云ふ精神を働かし奪ふ可からざる熱烈と屈せざる奮励を以て之に向ふ慮に.
一切の尊い意義が含まれる,何としても勝つ.勝たねばならぬと云う意氣あって こそ練習にも力が入り,試合にも氣が人る,青年の尚ふべき緊張味は,之あって 始めて沸き起るのである。」r 負けた者は徹頭徹尾劣敗者たる屈辱を甘受せねばな
らぬ… … 此徹底したる口借しさ無念さがあってこそ、眞の勝負の観念は湧嚢きれ る,敗者の苦痛の大きな丈け,勝者の誇りは亦偉大なる事も味はれる。… … 此時 に至って.眞の努カも起って來る,眞の苦心も味はれ.不携不窟の大精神も,百 錬鍛治の大修養も.… … 野球共のものに依って嚢揚され,哺育せられる事とな る。」「野球の競技が.軍なる娯楽や遊戯ではなく… … 青年修養の一術として許さ れるべきものとなす以上,… … 高く輝く勝利と云う事は,何慮迄も,.絶封的碑聖 のものとして,之を尊重し.之を渇仰しなくてはならぬ。」
少々引用と要約が長くなったが,要するに一高の野球では,「不擦不窟の大精 神」も「百錬鍛冶の大修養」もすべてr 石に噛り付いても敵に打ち勝つ」という