附189
㎞190 みに大正7年度と昭和6年度において各新聞杜が主催もしくは後援した野球大会 を列挙したものであるが,その拡大の諸相がよく理解できるであろう。
しかし,このような新聞杜側の意味づけとは相反するかのように,例えば大正 13年5月東京中学野球リーグは,朝目新聞杜が大会参加チームの選手に対して制 限を付した件について.新聞杜が選手の選定に対してまで干渉することに対し.
王4)
満場一致でこれを否認している。 いわく,「元來.原級にと まった選手を出場 せしめるとか,せぬとか,又韓校せし撃生を出場せしめるや否やと云一∫ 、ことは學 15)
校當局の決すべき問題であって.他よりの千渉を許さぬものである」 からであ る。また.同一の全国規模の中学校大会が夏は朝目主催.春は毎目主催といった 事例のように,その主催,後援の関係は,各新聞杜闇,あるいは他系列の主催者
との主催権の争奪にまで発展していく。例えば,明治42年から違続して京浜申等 学校野球夫会を主催してきた天狗倶楽部並びに武侠世界杜は,朝目新聞杜から何 の交渉もなく.その主催権を奪われ,また,四帝大主催の全国高等学校専門学校 野球大会も大阪朝目新聞が後援となって実質上の主催権が後者に移行していくと 三6)
いった具合である。 大村は,このような主催権争奪に対し,新聞杜にr 他の主催 1?)
を相冒さぬと云ふ不文の道義心」 を求め,花村も.新聞は運動の養父たる存在 18)
であるからr 此の爾者の闇の關係を圓滑に且つ美しく進めて行く必要がある」
と説いている。
新聞杜が運動精神の奨励.野球精神の高揚に寄与するという高遭な理念とは,
およそかけ離れたこのような新聞杜と運動全般あるいは野球との関係は.花村が
「運動に依って新聞が紙面を賑はし,讃者を惹き付けることも少なくない。就申成 長した.人気ある運動は新聞紙面を賑はす事は決して些少ではない。新聞の運動 19)
を愛育する所以も亦弦にある」 といみじくも述べたように,新聞杜における人 気のある野球制度内のシンボル局面への利用の結果に他ならない。その経済的利 用価値は大会の規模が大きくなればなるほど高くなるし.ニュース・ソースとし ても豊富な内容をもつものである。だから.他の主催種を侵してまで,あるいは 野球組織の主体性を無視してまで,野球制度への介入を続ける訳である。
その要因は,大正期から昭和初期にかけて.これらの問題が噴出してきたこと からも理解できる上うに,営利的企業組織へと完全に変貌しつつあった経済組織
㎞191 としての新聞杜の経済的要求そのものに他ならない。一企業としての新聞杜の経 済的価値が.人気が高揚していた野球に対して.特にその制度内的シンボル要素 の経済的価値への転換という形で示されたといえるであろう。一方.野球制度側 でもその組織全体を維持し,規模の拡大する大会を運営していくためには.これ ら新聞企業のもつ組織や、経済力は不可欠な条件となってくる。「したがって.必 20)
然的にこれら企業と癒看した体制が.中等野球界を支配することとなった」 と 言われるが,いずれにせよ.両者の関係は,各々の制度が要求する機能的相互違 関関係によって構造的に拮びつき,その関係は歴史的推移とともにますます離れ がたい内実をもって醸成されてきていることが理解できよう。経営的飛躍を期す る読売新聞杜は,まきに,営利的企業組織として歴史的に醸成されてきたこのよ うな野球制度との構造的な制度的関違性の上に,特にその内的シンボル局面との 関係を深めていこうとするわけである。
(3)読売新聞杜の野球制度内におけるシンボル局面への関与の諸相
大正13年2月,正力松太郎が警視庁警務部長から転じて読売新聞杜杜長に就 任したとき.杜の新聞発行部数は5万部(r 目本新聞年艦』によれば3万5干部)
21)
にまで落ち込み,経営は行き詰まっていた。 そこで,正カを申心とした読売新 聞杜は,新たな企画を次々に打ち出し.読者の興味.関心をひくことによって杜 塑)
勢を伸ばそうとした。昭和6年までの主な企画壱あげてみると,
大正13年4月13目 「よみうり目曜附録」
大正14年11月15日 ラジ才版第1号
大正15年1月10目 目曜夕刊発行
大正15年2月19目 「撞球界」欄設置大正15年9月10目 囲碁の本因坊秀哉名人と雁金準一七段との対局
昭和4年3月19日〜昭和4年4月18日
第1回目本名宝展覧会昭和4年6月1目 「スポーツ」欄設置 昭和5年4月19目〜
第2回日本名宝展覧会
㎞192 昭和5年3月〜5月 「競馬」r 趣味の釣り」r 麻雀」欄設置
昭和6年5月17目 r よみうり少年新聞」野球の解説
となる。このような新企画を次々に打ち出していく正カの新聞に対する考え方と その意図はどこにあったのか。それについて杜長就任早々.彼は次のように述べ ている。「自分は新聞の権威といふ事を一言したが.此の権威は他でもない,新聞 そのものの不罵独立といふ所にあると信じる。何物の拘東も受けず,巖正公平の 態度を以て自由に批判し報道するといふ点にありはせぬかと思はれる、我が読売 新聞にしても,此の権威は飽く迄尊童し,断じて一党一派に偏する事なく,真の 新聞の使命を見たいと思って居る。而してこれがためには如何しても先づ経済の 独立といふ事を考へねばならぬと思って居る。編輯の卓越を期する事は勿論であ 23)
るが,同時に営業の独立.発展といふ事は忘れない積りである」 と。
正カは,新聞の使命にっいて言及はするものの,まず何よりもその経営の独立.
営業の独立,発展を考えていることが理解される。そして,これを実現する唯一 の手段が新聞事業による自杜の宣伝にあると考えるのである、その顕著な一例 は,夫正15年3月19目に「杜運動霞展新築落成の夫祝賀舎」と題して企画され た東西合同大歌舞伎の開催である。当時の読売新聞紙上では写真入り2面でこの 模様を伝え.r 芝居王國,春の歌舞伎座に朝野の名士三千を招待して」と見出しが 24)
ついている。 『読売新聞百年史』には,この企画について「歌舞伎座を買いきる ことは,経費からいってもなかなかできることではなかった。それをまだまだ弱 体の読売が量高の番組で買いきり.天下の名士を招いたのである。業界も世界も みんな驚いたのはもちろんで,それだけPR効果も高かった。正力十八番の演出
25)
である。」 と述べ.その当時の正力の言葉として「天下第一等のものに人は目を みはる。だから成功する。ケチケチして二,三流のもので闇に合わそうとするか 26)
ら企画は失敗し,せっかくの出費も死に金になる」 と紹介している。これは芸 術であれ,スポーツであれ,人々は「天下第一等のもの」にはその耳目を傾ける のであるから.新聞杜がそれを企画することによって自らのPRにも役立てられ るのだとする発想の表われであろう。そして.それは.究極的には新聞杜の経済 的発展,経済的安定を約東する販売部数の増加につながっていくと考えられてい るのである。まさに彼の行き方は,「新聞は特色を出して世闇の注目を引くことが
㎞193 η )
一番大切だとの信念」 にあったといえるであろう。
このような発想のもとで読売新聞杜は,当時人気のあったスポーツに注目し始 める。それは,スポーツ制度内における人々に人気のあったスポーツ・シンボル ヘの積極的な関与とその創出にあった。例えば,大正14年10月17目付2面のお
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知らせには.r 早慶鞍のもようを今夜のラヂオで本杜から皆様にお知らせします」
と題し,次のような言己事が掲載きれている。
r 二十年ぶりで復活し,全國のファンから待ちにまたれた復活第一回早慶野球 鞍は,いよいよきょう午後二時半から戸塚早夫球場で,天下の視聴を集めて行う
ことになりました。本杜ではこの榮ある試合のもようを午後七時十分からラジオ 28)
で皆さまにお知らせいたします。眼に映るような鞍況をおき\下さい。」
この記事は.野球制度内にある「早慶載」という知名度の高いシンボルを利用 することによって言己事の材料とし.さらにラジオ放送によってそれを強化するこ とにより.これを提供する自杜の名前=シンボルを宣伝しようとしたものと考え ることができる。したがって.この言己事自体が読売新聞杜の自杜広告になってい ると考えてもよかろう。
新たな野球シンボルの創出については,昭和6年に企画きれた米国大リーグ選 抜野球チーム招賠に際し創られた「目米野球行進曲」の選定があげられる、当時 29)注5)
の新聞には「テナーは歌ふ 目米野球行進曲」 とあり,同年10月4目。ラジ 30)
才で初放送されたという。 これも野球とは直接関係のない音楽の領域からでは あるが,野球シンボルに介入することによって,来る11月8目から挙行きれる第
1回の目米野球大会の人気を高めようとする読売新聞杜の宣伝策であると考えら
れよう。
さて.この昭和6年の第1回目米野球大会とこれに続く昭和9年の第2回目米 31)
野球大会は「職業野球団結成の機縁」 と評されているが.その来目メンバーの 顔ぶれを見ると読売新聞杜がいかに当時人気のあった野球シンボルを欲していた か,またそれによって自杜の宣伝を図ろうとしていたかがよく理解できる。第L 回と第2回の来目メンバーは次のようであった(次頁参照)。
第1回の来目メンバーは,正力が来目を、懇請したべ一プ・ルースこそ来なかっ たが;■ その当時,アメリカ側が自ら史上最強チームと.称するほどの豪華メンバー