第 3 章 “人家”に関する観察
3.4 観察結果
3.4.1.8 間接指示における 2 人称用法の“人家”と 2 人称代名詞“你”
2人称代名詞“你”は、定義上、発話現場における聞き手を指す。この定義に従え ば、それは本研究の言う直接指示用法しか持たず、間接指示の用法は持たないことが 予想される。このことを、まず、2人称代名詞“你”の例を見ながら確認していく86。
(78) …刚才听得 小弟弟 说,你 有 了 很好的太太, 还 有 了 可爱的孩子
今 聞く 小さい弟 言う 貴方 ある 完了 とてもいい奥さん 又 ある 完了 可愛い子供
了, 像 我 这样 一个 游丝似的 系 在 人间的 人,何必 再 来 破坏
強調 まるで 私 こんな 一人 糸のように 締める に 世間 の 人 なぜ 又 来る 壊す
你 的幸福 呢?
[=貴方] の幸せ 疑問
「弟さんから、あなたに優しい奥さんがいて、可愛いお子さんもいると聞いて いる。根無し草のように世間に漂っている私は、あなたの幸せを壊すようなこ とはしない。」
(79) A:“瞧,一有 好事 我 先 想到 你, 你 呢,对 我 什么态度?”
ほら ある 良いこと 私 まず 思い出す 貴方 貴方 疑問 に 私 何の態度
「ほら、いいことがあると、すぐお前のことを思い出すのに、お前は、なん だその態度は。」
B:“我 操蛋,净 把 你 的 好心 当成 驴肝肺。”
私 バカ ばかり を [=貴方] の 好意 見なす 無駄なもの
「私はバカだ。あなたの好意を踏みにじってしまう。」
(78)、(79)の2人称代名詞“你”はすべて会話文に出現したものであり、それぞれ 聞き手を指示する。これらは先行詞がなくても、その指示対象がわかる。つまり、2 人称代名詞“你”という語の意味は文脈に依存せず、先に見た東郷(1999)の直接指 示の「対象の名前・所属カテゴリーがわからなくても指示できる」という特徴に合致 する。間接指示の特徴は見られない。
次に、(78)、(79)の2人称代名詞“你”をそれに対応する2人称用法の“人家”に 置き換え、観察してみる。
(78)ʼ …刚才听得小弟弟说,你有了很好的太太,还有了可爱的孩子了,像我这样一个
游丝似的系在人间的人,何必再来破坏人家的幸福呢?
86 (78)、(79)の例は先行研究にある《田汉剧作选》、邵(2003)の例の一部を改変したものである。
《田汉剧作选》p.128(张・方1996:167)
(79)ʼ “瞧,一有好事我先想到你,你呢,对我什么态度?”
“我操蛋,净把人家的好心当成驴肝肺。” (邵2003:113-114)
(78)、(79)の“你”を“人家”に置き換えても不都合はなく、どちらも自然な文で ある。先に見た“你”も2人称用法の“人家”も聞き手のことを指示することができ るが、両者は指示対象を判断する仕方が同じではない。2人称用法の“人家”は言語 文脈や記憶にある人物を指すことが可能であるが、そのような文脈がなければ、指示 対象は特定できない。つまり、2人称用法の“人家”は直接に対象を指示するのでは なく、命題内容の一部になってから、その対象を指示するという間接指示の特性を持 つことがわかる。
3.4.1.9 “人家”の「関連対象喚起」用法
先に見たように先行研究によれば、“人家”の旁称用法は旁称代名詞“別人”、そ の3人称用法は3人称代名詞“他”、その1人称用法は1人称代名詞“我”、その2 人称用法は2人称代名詞“你”に相当し、“人家”は各用法に対応する人称代名詞と 置き換え可能だと言われてきた。しかしながら、筆者が収集したデータの中には、先 行研究に指摘された人称代名詞のいずれとも置換できないものがあった。以下の例を 見られたい。
(80) 他 身边 那个小胖子 舔着 嘴唇 说,“咱们 还不如 上甘岭 呢,人家 还
彼 隣 あのでぶ なめている 唇 言う 俺達 ~に及ばない 戦役名 強調 [=兵隊] まだ
有 一壶 水 能 传着喝, 可 咱们的水壶 早 都 干得叮当 响 啦!”
ある 助数詞 水 できる 取り次いで飲む でも 俺達の水筒 もう 全部 カラカラ 鳴る 強調
《轮椅上的梦》
「となりのデブが唇をなめながら言った。「おれたちはもっとひどいぜ。上甘嶺
(戦役)では、[兵隊たちは]水筒を取り次いでもらって飲むことができたん だ。おれたちときたら、水筒はとっくにカラカラ鳴ってるぞ!」」
(81) Mark 陪着 海萍 去 了 公安局。 人家 把 Mark 拦 门口 说:“只 问
人名 お供する 人名 行く 完了 警察署 [=警察] を 人名 止める ゲート 言う だけ 聞く
她 一个,你 不必 进 了。” 《蜗居》
彼女 一人 貴方 否定 入る 強調
「Markは海萍のお供して警察署に行ったが、[警察に]ゲートに止められ、
「彼女一人しか取り調べないので、あなたは入る必要がない。」と言われた。」
(82) 今天 去 医院,人家 说 没事儿。 (筆者作例)
今日 行く 病院 [=医者] 言う 大丈夫
「今日病院に行って、[医者に]たいしたことではないと言われた。」
(80)から(82)の“人家”の指示対象はそれぞれ上甘嶺戦役に参加した「兵隊」、「警 察」、「医者」である。つまり、“人家”の指示対象は話し手と聞き手以外の人物で ある。従来の研究によれば、このような話し手、聞き手以外の人物を指す“人家”は 3人称代名詞“他”との置換が可能とされてきたが、(80)から(82)の“人家”は、次の 例が示すように、3人称代名詞とは置換できない。
(80)ʼ 他身边那个小胖子舔着嘴唇说,“咱们还不如上甘岭呢,*他还有一壶水能传着喝,
可咱们的水壶早都干得叮当响啦!”
(81)ʼ Mark陪着海萍去了公安局。*他把Mark拦门口说:“只问她一个,你不必进了。”
(82)ʼ 今天去医院,*他说没事儿。
(80)ʼから(82)ʼの“他”には、その文の前後に照応すべき先行詞がないため、何を指
しているのかが不明で非常に不自然な文となる。3人称代名詞“他”とそれに相当す ると言われる“人家”の指示対象は同じく、話し手と聞き手以外の人物である。しか しながら、“他”の先行詞は必ず人を示す語であるが、“人家”の先行詞には(80)の
“上甘岭”(上甘嶺戦役)、(81)の“公安局”(警察署)、(82)の“医院”(病院)
のように、人以外の場所や機関を示す語もある。換言すれば、“人家”は「警察署」
や「病院」といった機関、また、特定の歴史上の事件が喚起する人をその先行詞とす ることができるのである。例えば、「病院」なら医者・看護師、「戦役」なら戦役に 参加した兵隊などを指示することになるが、そのような“人家”を“他”に置き換え ることはできない。このことは、“人家”が元来「人の家」を表し、次に「人の家」
からその家に住む人を指すようになったという“人家”の由来およびその意味変化に 関係すると思われる。言い換えるならば、この“人家”の「関連対象喚起」用法は、
“人家”のメトミニー機能に基づくものであり、これはまさに“人家”と典型的人称 代名詞を明確に区別する点だと言える。
以上、間接指示の観点から“人家”の諸用法と各用法に対応する人称代名詞との違 いを見てきた。その結果、1人称代名詞“我”と2人称代名詞“你”は、文や記憶に ある人物を指すことができない、つまり、東郷(1999)が提示した間接指示の特性を
持たないことから、間接指示用法はないと言える。それらと逆に、1人称代名詞“我”
に相当する“人家”および2人称代名詞“你”に相当する“人家”には、東郷(1999) の言う間接指示の特性は見られ、当該“人家”には間接指示用法はあるということが 明らかになった。
一方、旁称代名詞“別人”および3人称代名詞“他”に相当する“人家”は、東郷
(1999)のあげた間接指示の特性を有していることから、間接指示用法を持つことが 確認された。
さらに、本研究の収集したデータの中には、典型的人称代名詞のいずれとも置換で きない“人家”の用法が見られた。当該の“人家”は、一般の人称代名詞とは異なり、
機関や特定の出来事を表す語を先行詞としながら、それらが喚起する人を指示する87。 本研究は“人家”のそのような用法を“人家”の「関連対象喚起」用法と名付けたが、
この“人家”のメトミニー機能に基づく用法こそ“人家”と他の人称代名詞を区別す る大きな特徴である。
3.4.2 “人家”の感情表出機能について
本節では、感情表出機能という観点から、“人家”の諸用法とそれぞれに対応する 人称代名詞の違いを観察する。
先行研究も指摘しているように、人称代名詞としての“人家”の使用には、話し手 の何等かの感情が感じられる場合がある。以下の(83)から(85)の例を見られたい88。
(83) 王胖子虽有 错误,已经“解脱”,还 是 公民,凭什么剥夺 人家 的 出版
人名 逆接 誤り 既に 解放 まだ だ 公民 何で 奪う [=王胖子(人名)]の 出版
自由? 《人啊,人》
自由
「王は誤りをおかしたけれども、すでに「解放」された身だ。公民である以上、出 版の自由を奪う理由はない。89」
(84) 余永泽把 道静的手拿在 自己的脸上 摸着 说:“看, 为 买 这些东西
87 “人家”の「関連対象喚起」用法は、その旁称用法からメトニミーにより派生したものと考えられる。
メトニミーとは、「2つの事物の外界における隣接性、さらに広く2つの事物・概念の思考内、概 念上の関連性に基づいて、一方の事物・概念を表す形式を用いて、他方の事物・概念を表す比喩。」
(籾山・深田2003:83)
88 “人家”が示す話し手の指示対象に対する感情を日本語で表すことは難しい。それで例文の日本語訳 には“人家”が表す話し手の指示対象に対する感情を示す日本語表現は付けていない。
89 この例の日本語の直訳が「王は誤りをおかしたけれども、すでに「解放」された身で、身分は公民 のままだ。何を根拠に出版の権利を奪う自由があるのか(そんな自由があるはずがないであろう!)」 となる。
人名 を 人名の手 持つ 自分の顔 なでている 言う 見る ために 買う これらの物
这脸 都 冻成 冰棍 啦。你 也 不 心疼 人家——来,给我 暖暖!”
この顔 もう 凍る アイスキャンデ 強調 貴方 も 否定 可愛がる [=私] 来る に 私 温める
《青春之歌》
「余永沢は、かの女の手をとって、じぶんの頬にあててさすらせて見た。「ご らん。この買物をするために、ぼくの顔はアイスキャンデーみたいに、凍って しまったんだよ。可哀想だと思ってくれないのかい――さあ、あたためておく れ」」
(85) “瞧,一 有 好事 我 先 想到 你, 你 呢,对 我 什么态度?”
見る 度に ある 良い事 私 まず 思い出す 貴方 貴方 疑問 に 私 何の態度
“我 操蛋,净 把 人家 的 好心 当成 驴肝肺。” (邵2003:113-114)
私 バカ いつも を [=貴方] の 好意 見なす 無用なもの
「ほら、いいことがあると、すぐお前のことを思い出すのに、お前は、なんだ その態度は。」
「私はバカだ。ひとの好意を踏みにじってしまう。」
(83)の“人家”は3人称用法で前文に出現した“王胖子”(人名)を指しているが、
“人家”の使用により“王胖子”(人名)の出版の自由を奪うことに対する話し手の 不満の感情が表されている。(84)の“人家”は1人称用法で話し手“余永沢”(人名)
を指しているが、“人家”の使用により、彼女に手を温めてもらいたいという話し手 の甘えた気持ちが表されている。一方、(85)の“人家”は聞き手を指す2人称用法で あるが、聞き手を傷つけたことに対する謝罪の気持ちを伝えているように思われる。
これまで見てきたように、“人家”の3人称用法は3人称代名詞“他”、その1人 称用法は1人称代名詞“我”、その2人称用法は2人称代名詞“你”に対応すると指 摘されている(张・方1996、邵2003、张・韩2011など)。しかし、“人家”の諸用 法に対応する各人称代名詞にも“人家”と同じく、話し手の感情を表出する機能は備 わっているのであろうか。それを確認するために、上述の“人家”をそれぞれ“他”、
“我”、“你”に置き換えてみると、次のようになる。
(83)ʼ 王胖子虽有错误,已经“解脱”,还是公民,凭什么剥夺他的出版自由?
「王は誤りをおかしたけれども、すでに「解放」された身だ。公民である以上、彼 の出版の自由を奪う理由はない。」
(84)ʼ 余永泽把道静的手拿在自己的脸上摸着说:“看,为买这些东西这脸都冻成冰棍