第 3 章 “人家”に関する観察
3.4 観察結果
3.4.1.6 間接指示における 3 人称用法の“人家”と 3 人称代名詞“他”
「だれがやったの。」
B:*不 是 我,是人家。
否定 だ 私 だ
(69a)の“別人”の指示対象、また、(69b)の“人家”の指示対象のいずれも発話現
場には存在せず、つまり、発話場面にいるAとB以外の不特定の人を指しているこ とから、どちらも間接指示として用いられていると言える。また、(69a)、(69b)のい ずれもコピュラ動詞“是”を用いた文である。しかしながら、そのような環境の下、
“別人”は使用できても“人家”の使用はできない。(69b)において“人家”の使用が できないのは、“人家”の直接指示用法のところで見たのと同じく、“人家”は「措 定文」には用いられても、(69b)のような「指定文」には用いられないことに因ると思 われる。
以上をまとめると、旁称代名詞“別人”にも旁称用法としての“人家”にも間接指 示用法がある。ただし、“人家”の使用には制限があり、いわゆる「同定文」「指定 文」には用いられない。
(70)’ “你 看老头子, 人家 玩 了一辈子,到 老 了 还 开上车厂子。
貴方 見る おやじ [=おやじ] 遊ぶ 完了 一生 まで 老いる 完了 又 車宿を開く
《骆驼祥子》
「お父っつぁんを見てごらんよ。一度だってまっとうな暮らしをしたことが ないっていうのに、年をとればとったでちゃんと車宿をひらいたじゃない か。」
(70)’の“人家”が3人称用法として使用された文は、自然な文である。この“人家”
は、前文に出現した“老头子”(お父さん)に照応する。先行詞がなければ、“人家”
の指示対象が不明になってしまうという点から見ると、3人称代名詞“他”に相当す ると言われる“人家”は文脈への依存度が高いことがわかる。つまり、“人家”は直 接に対象を指示するのではなく、命題内容の一部になってから、その対象を指示する という間接指示の特性を持つ。
(70)、(70)’が示すように、3人称用法の“人家”と“他”は同じ指示対象を指すこ とができるが、両者の機能は必ずしも同じではない。なぜならば、“人家”には“他”
とは異なり、その指示対象に対する「話し手(語り手)」の感情を表出する働きがあ ると指摘されているからである。この点については3.4.2.2で詳しく考察することとし、
ここではその事実を指摘するだけにとどめる。
ところで、楊(1991:36)は、3人称用法の“人家”は3人称代名詞“他”とは異 なり、発話者は指示対象がどのような人物であるかを知っている必要がある、と述べ ている。しかしながら、「指示対象がどのような人物であるか」が何を意味するのか は明白ではなく、いかなる人物の場合に“人家”の3人称用法が用いられるのかは判 然としない。この点については、筆者が収集したデータによれば、以下の3つのタイ プがあるように思われる。
(71) 人们 拿 魏石头开着心,慢慢地,什么粪汤儿都 往 人家 身上 倒
人々 を 人名 からかう 段々と 何のクソ 全部 に [=魏石頭(人名)] 身体 ぶっかける
啦。 《盖棺》
強調
「人びとは魏石頭を慰みものにしているうちにだんだんとミソもクソも彼の身 体にぶっかけるようになっていった。」
(72) 于大夫摆摆手说:“你 别 在意!如今的大学生,就 是 这么个做派——
人名 振る 手 言う 貴方 否定 気にする 今の大学生 即ち だ こんな振る舞い
人家 要 显示 自己 的独立性,不 沾父母的光。” 《钟鼓楼》
[=大学生] しよう 主張 自分 の 独立性 否定 親の七光り
「于詠芝が手を振った。「気にしなくていいんですよ。これがいまの大学生なん ですよね。自分の独立性を主張したいんでしょう。親の七光りはいやだって…
…」」
(73) 荀兴旺 想了想, 才 慢慢地 说:“(略)闸上 有 个人,不小心把手表
人名 考えた やっと ぽつりぽつり 言う ダムの上 いる 一人 つい を 腕時計
掉 底下 了,我 跟 你爹 潜下去,帮 人家 捞。 《钟鼓楼》
落とす 底 完了 私 と 貴方の父親 潜っていく 手伝う [=ダムにいた人] 掬い取る
「荀興旺は、やや間をおいてから、ポツリポツリと話しだした。「(略)ダムの 上にいた一人が時計を水中に落としてしまったんだよ。そこで、わしもあんた の父さんも水にもぐって探してあげたんだがね84。」
(71)から(73)はすべて3人称用法の“人家”の間接指示用法である。“人家”の対 象については、(71) “魏石头”(人名)、(72) “大学生”、(73) “(一)个人”(一 人)である。このうち、第一のタイプは、(71)の“魏石头”を指す“人家”のように、
その対象が話し手、聞き手の双方がよく知る特定の人物の場合である。次のタイプは (72)である。この例の“人家”が指す“大学生”は特定の人物ではなく“大学生”一 般を指している。そして最後のタイプは、(73)の“人家”である。(73)の“闸上有个 人”(ダムの上にいた一人)はそのような属性で記述される人物を指すだけであり、
話し手、聞き手のいずれも当該指示対象に対してそれ以上の知識は持っていない。“人 家”の3人称用法の間接指示用法に見られる以上の3つのタイプを踏まえるならば、
“人家”の同用法は、その対象の特定、不特定に関わらず、話し手と聞き手がその存 在を認識できさえすれば、使用可能ということになるように見える。このことについ て、前述した(58)を再掲し、考えてみたい。
(74) (=(58))[状況:A, B, Cいずれも発話場面にいる。AとBはCを見ているが、Aと BはCのことについては知らない。]
A:你 看! 人家 穿着 高跟鞋 爬山 呢!
貴方 見る [=C] 履いている ハイヒール 山を登る 強調
「見て、あの人、ハイヒールを履いて山を登ってるよ。」(Cを指差しながら)
B:看着 好 危险 啊!
見て とても 危ない 感嘆
「危なそうだね。」 (筆者作例)
84 『中日対訳コーパス』の日本語訳を一部訂正した。
(74)の話し手Aと聞き手Bは、先に見た(57)と同じく、同じ発話場面にいる対象C についての知識は何ら持ち合わせていないが、“人家”の使用が可能となっている。
ここで“人家”の使用が可能なのはなぜなのか。この点について、本研究は次のよう に考える。
(74)の“人家”は発話場面にいる特定の第三者C(ハイヒールを履いて山を登って いる人)を指示することから、一見、発話状況からの直接指示の用法に見えるが、実 はそうではない。ここで“人家”が用いられるのは、“你看!”(見て!)という語 句や指さし行為により、話し手と聞き手の両方が特定の状況にある指示対象Cの存在 を認識しているからと考えられる。というのも、(74)の発話の一部を変えた(74) ʼでは
“人家”の使用は不自然になるからである。
(74)ʼ [状況:A, B, Cいずれも発話場面にいる。AはCを見ているが、Bは見ていな い。また、AとBはCのことについては知らない。]
A:?人家 穿着 高跟鞋 爬山 呢!
履いている ハイヒール 山を登る 強調
「ハイヒールを履いて山を登ってるよ。」
B:谁?
「誰が?」
(74)ʼのように、話し手の指す特定の状況にある指示対象を聞き手が認識していない
ときには、“人家”の使用は難しくなる。言い換えるならば、(74)で“人家”の使用 が自然になるのは、話し手が発した“你看!”(見て!)により、聞き手が話し手の 指す対象に視線を向け、それを認識し、話し手と聞き手の間にある種の「値踏みの場」
が形成されたからということになる。(74)で問題になっているその「値踏みの場」と は、話し手Aと聞き手Bの両方が第三者Cを認識した山登りという場に他ならない。
以上の“人家”の振る舞いは間接指示の特徴を示したものである。したがって、3人 称用法の“人家”には間接指示の用法があると言える。一方、(74)’のように、当該指 示対象が話し手と聞き手と同じ発話場面にいても、話し手の発話時に聞き手がその指 示対象を認識できない場合には、“人家”の使用は難しい。それは、話し手と聞き手 の間に当該対象に関する山登りという「値踏みの場」が形成されていないからである。
以上の (74)と(74)’の“人家”の振る舞いは間接指示の特徴に合致するため、3人称用
法の“人家”に間接指示があるということになる。
以上をまとめると、3人称代名詞“他”にも3人称用法の“人家”にも間接指示用 法があることになる。さらに、3人称用法の“人家”の対象に関する知識の有無にか かわらず、話し手と聞き手の間で当該対象の存在が認識され、また、話し手と聞き手
の間にその対象について何等かの「値踏みの場」が形成されれば、“人家”の使用は 可能になることを見た。